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作者:日-乙一 当前章节:15401 字 更新时间:2026-6-23 07:47

 時折、兎が現れて野菜をかじった。森にある他の植物を食べればいいのになぜか庭の野菜ばかりを狙って歯形をつけた。

 何もしなくていい時間、私は体を叢《くさむら》に潜《ひそ》めて見張った。白い小さな体が畑の野菜の間で見え隠れすると私は飛び出して捕まえようと追いかけた。しかし成人女性と同じだけの機能しか私には与えられておらず兎に追いつくのは無理だった。兎はまるで私をあざ笑うように畑の中を駆け抜けて森の茂みへ消えた。

 私は兎を追いかける最中、たいてい、何かに躓《つまず》いて転んだ。窓の内側から忍び笑いをする声が聞こえて振りかえると彼が私を見て笑っていた。私は立ちあがり白い服についた泥を叩《はた》き落とした。

「生活しているうちに人間らしくなってきた」

 家に戻っても彼はまだ笑っていた。私にはよくわからなかった。しかし笑われたことでむずむずした。胸の奥がかゆいと思った。体温が上昇してどう振る舞えばいいのかわからずひとまず頭を掻いた。なるほど、どうやらこれが「恥ずかしい」という感情なのだなと思った。「くすぐったい」に似ていた。そしていつまでも笑っている彼が少し憎らしかった。

 昼食のとき彼がテーブルの表面を二回ほどノックして私の注意を引いた。スープを口に運んでいた私が視線を上げると彼がフォークでサラダの野菜を突き刺してぶら下げていた。兎の歯の跡がいろいろなところにある葉だった。

「僕のサラダやスープに入っている野菜は、全部、兎のかじった跡があるのに、きみの食べているものはなぜそうじゃないのだろう」

「偶然でしょう。これは確率の問題です」

 私はそれだけ言って、兎の歯形がついていない自分のサラダを食べた。

 二階には空き部屋があった。本棚や机、花瓶などのない殺風景な部屋だった。ただ一つだけ室内に存在するものといったら、床の中央にあるプラスチック製のおもちゃのブロックだった。子供が組み立てて遊ぶような小さなブロックだった。私は子供を実際に見たことはないが知識は持っていた。

 はじめてこの部屋を入り口に立って眺めたとき窓から西日が差し込んでいた。そのため部屋中が赤色に染まっていたがそのブロックはもっと深い赤色をしていた。

 ブロックは帆船の形に組みあがっていた。一抱えもある大きさだった。しかし船の先端が崩れて細かく分解して散らばっていた。

「僕が躓いて壊してしまったんだ」

 私のすぐ後ろにいつのまにか彼が立っていた。私は許可をもらいブロックで遊んでいいことになった。帆船を一度、すべて分解してばらばらなブロックの山にした。それから私は何かを作ろうと思った。しかしできなかった。細かなブロックを手に持ったまま動けなくなった。頭の中が急に鈍くなった気がした。

「きみたちには、作るのは難しいかもしれない……」

 彼によると、私は、設計図のあるものやあらかじめ手順の決まっているものしか作ることができないそうだ。例えば、音楽や絵などは生み出せないという。だからばらばらのブロックを前にして私は何もできなかった。

 私がブロックで遊ぶのを諦めると彼がかわりにブロックの山の前へ座った。彼は次々とブロックを積み重ねていった。

 陽が落ちた。辺りが暗くなると庭に設置された照明が自然に点灯した。白い照明が庭のそこかしこを照らし出すと窓の外からその明かりが部屋の中へ入ってきた。

 私は部屋の電気をつけた。彼が作っていたのは帆船だった。再び完成した一抱えもある赤い船を彼は様々な角度から眺めていた。彼のように私もブロックで遊べたらいいのにと思った。

 井戸の周囲を照らす照明のそばにいつも蛾が飛んでいた。私たちは夜の歯磨きを井戸のそばで立ったまま行なった。歯を磨いていると蛾の影がちらちらと地面を横切った。口をすすいだ水は排水溝へ吐き捨てた。排水溝は森の茂みの下を通って山の麓の川へつながっているそうだった。

 その後それぞれが寝室へ引き上げるまでの時間、家のリビングにあるレコードで音楽を聴いた。お互いに眠るのは夜おそくなってからだった。静かな音楽の流れる中で私たちはチェスをした。勝敗はほとんど五分五分だった。私の頭には通常の人間と同じだけの機能しか与えられていないのだ。

 虫が入ってくるので窓は網戸にしていた。夜の風が家に入ると台所の窓に下がっている金属製の飾りが揺れて音を鳴らした。澄んだ美しい音色だった。

「あの窓の飾りが出す音は、風の作り出した音楽なのですね。私は好きです、あの音」

 彼が次の手を考えているとき私はそう口にした。彼は私の言葉を聞いて目を細めて頷いた。

 はっとした。最初にこの家へきたとき、私はあの音を聞いて、規則性のないただの高い音だと思った。それがいつのまに、それだけではないのだということを知ったのだろう。この家で暮らし始めて、すでにひと月が経過していた。その間、気づかないうちに心の中が変化していた。

 その夜、彼が寝室へ引き上げた後、私は一人で外を歩いた。白い照明が庭に点々とついていた。金属製の柱の上に丸い電灯が載っており、虫が光に近づこうとしてガラスの覆いにはね返されていた。夜の暗闇は濃かったが照明の足元に立つと白い光が私の上に降り注いだ。そこに立ったまま自分の変化について考えた。

 いつのまにか私は井戸まで歩くとき最短距離を歩かなくなっていた。石の敷き詰められた曲がっている道を、ゆっくり時間をかけて歩き、生えている草花を踏まないよう心がけた。以前なら時間とエネルギーの無駄だと考えた。しかし今では周囲を眺めながら歩くということが楽しかった。

 地下で目覚め、はじめて外へ出たとき、白くなった視界と体表面の温度でしか太陽を理解しなかった。しかし今の私が思う太陽はもっと深い意味を持ち、たぶん詩の世界でしか表現できない、心の内側と密接に結びついたものになっていた。

 いろいろなことを愛しく思っていた。

 壁から植物の生えた家や丘に広がる草原、そこにぽつんとある地下倉庫への扉と、その上の鳥の巣。高くつき抜けた青空や立ちあがる入道雲。苦いコーヒーはきらいだったが、砂糖を多めに入れたコーヒーは好きだった。それを冷まさずに熱いまま舌の上に広げると、甘い味で私は嬉しくなった。

 食事を用意し、掃除をする。白い服を洗濯し、穴が開いていたら糸と針で繕《つくろ》う。窓から入りこんだ蝶がレコードの上に降り立ち、風の生み出す音を聞きながら目を閉じる。

 私は夜空を見上げた。照明の向こう側に、月があった。風が木を揺らし葉がざわめく。彼を含め私は何もかも好きだった。

 木々の間から見える町の廃墟を見た。明かりはひとつもなく、そこには暗闇しかなかった。

「あと一週間で僕は死ぬ」

 次の日の朝、起きてきた彼はそう言った。正確な検査で死期がわかっているらしかったが、私はまだ『死』がどういうものかはっきりと理解しておらず、わかりました、とだけ返事をした。

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 彼の体は弱り階段の上り下りに時間がかかるようになったので、一階の私の部屋のベッドを使うことになった。そのかわり私は夜になると二階の部屋で眠ることになった。

 ベッドから立ちあがったり椅子のある窓辺まで歩いたりするのを手伝おうとしたが必要ないといって彼は私を遠ざけた。私は看病らしいことは何もしなかった。彼は痛みを訴えるわけでもなく熱を出すわけでもなかった。彼の説明によると例の病原菌はそういうものではなく苦痛を与えずに『死』を運んでくるのだという。

 彼ができるだけ動かなくていいように彼のいる場所で食事をした。彼が長椅子に座っていれば食事の盆を持って私は隣に腰掛けた。彼が一人用の椅子に座っていればそばの床にあぐらを組んで彼の足元でパンを頬張った。

 彼は伯父の話をした。伯父といっしょにトラックで廃墟の中を進んだことや、廃墟の町からまだ使えそうなものを運んできたときのことなどの話だった。庭に放置されているトラックは、もう燃料が手に入らず動かすことができないそうだ。

「……きみは人間になりたいと思ったことはあるかい」

 話の途中でふいに彼は質問した。私は頷いて、ある、と答えた。

「窓の飾りが揺れる音を聞くと自分が人間だったらいいのにと思います」

 風さえも飾りを揺らして音楽を作る。しかし私は何も生み出すことができないのだ。それが残念だった。会話の中で詩のような表現を使ったり嘘をついたりすることはできた。しかし私にできる創造はせいぜいそれだけだ。

「そうか……」

 彼は頷いてまた伯父の話に戻った。伯父といっしょに何週間も廃墟の町を探索したときの思い出だった。

 彼が深く伯父を愛しているのがわかった。だからその隣に埋葬されることを希望しているのだ。そのために私は作られた。人間の『死』を看取るために。

 床にあぐらを組んで食事をしていた私のそばに食べかけのパンが落下して軽い音を立てた。彼が落としたものだった。

 彼の右手が小刻みに痙攣《けいれん》していた。彼はそれを左手で止めようとしたが無駄だった。彼は冷静な目で震える自分の手を見つめながら私に聞いた。

「死について、わかったかい?」

「まだです。どんなものですか?」

「怖いものだよ」

 私は落ちたパンを拾って盆に載せた。衛生面を考えて食べないことにした。死ぬということがまだよくわからなかった。私は自分もやがて死ぬことを知っている。しかし怖いとは思えなかった。停止することが怖いのだろうか。停止と恐怖との間に何かひとつ抜け落ちているものがあるように感じた。おそらくそれを学ばなければならないのだろう。

 私は首を傾げて彼を見つめた。彼の手はまだ震えていたがもはや彼自身気にしていなかった。彼の目は窓の外に向けられていた。私も外を見た。

 庭には光が溢れていた。私はまぶしくて目を細めた。家を囲んでいる森とその切れ目から麓の方へ延びている道がある。壊れかけの郵便ポストがあった。錆びたトラックが放置されその隣に野菜の畑がある。畑に並んでいる野菜の上を小さな蝶が舞っていた。

 白い小さなものが緑色の葉の陰に見え隠れした。兎だった。私は立ちあがって窓から外に出た。行儀が悪いことは知っていたがもはやこの追いかけっこは兎の姿を見た瞬間、何よりも優先してはじまるようになっていた。

 彼の死が五日後に迫ったその日、空は曇りだった。私は森の中を歩きながら山菜を採取していた。食料は倉庫に多く残っていたが栽培した野菜や自然にある植物などを料理したほうがいいと彼は主張していた。

 彼の手足は時折、痙攣した。しばらくすると震えは止まるが何度も再発した。そのたびに彼は転んだりコーヒーをこぼして服を汚したりする。それでも冷静に彼は対処した。困惑はなく静かな目で言うことをきかない体を眺めていた。

 森の中をしばらく歩くと崖があった。落ちると危ないので近寄らないようにと彼には言われていたが崖のそばには山菜が多く生えていた。それに崖から見える景色が好きだった。

 少し離れたあたりから地面が急に消えて空になっている。私は片手に下げた籠へ採取した山菜を入れながら崖の向こう側にある山の連なりを見た。空を覆う雲に半ば山々はかすんで溶けている。ただ巨大な影が灰色の中にあるだけだった。

 崖の先端に私は目を留めた。まるで誰かが踏み崩したように、少し崩れた個所があった。

 首の上だけを突き出して崖下を覗いてみた。三十メートルほど下に横切っている細い線があり、それは崖下を流れる川だった。そのずっと手前の崖の上から二メートルほど下に岩壁の出っ張った個所があった。テーブルひとつ分ほどの広さを持ち草も生えていた。

 そこに白いものがいた。兎だった。足場が崩れて崖から落ちたが途中で引っかかって助かったのだろう。上へ這い登れるような部分もなくどうやら岩棚から動けないらしい。

 遠くの空から、富の重い音がした。腕に、一瞬、雨粒の感触がした。

 山菜の入った籠を地面に置いた。崖の先端に両手をつき後ろ向きにゆっくりと崖を下りた。靴の裏側で岩壁の凹凸を探りつま先のひっかかる場所を探す。一歩ずつ下りて足先が岩棚の上に着く。

 兎のいる場所に立った。冷たい風が吹き私の髪を揺らした。これまで兎には困らされたがその場から動けずにいるのを見ていると助けなければいけないという気がした。

 私は兎に手をのばした。一度、身構えるようなしぐさをしたが白い毛皮の動物は静かに私に抱かれた。手の中に小さな温かさを感じた。まるで熱の塊みたいだと思った。

 本格的に雨が降り出した。木々の葉がいっせいに、落下する雨滴に打たれて音を出した。次の瞬間、何かの崩れる音を聞いた。震動が私の体を襲った。今下りてきた岩壁が高速で上へせり上がり浮遊感を味わった。乗っている足場が落下していた。さきほどまで私のいた山菜入りの籠を置いた崖の上が一瞬で高く遠く小さくなった。私は兎を強く腕の中に抱きしめた。

 着地の瞬間、強い衝撃が全身を貫いた。辺りを砂埃が舞った。しかし雨がすぐにそれを消した。崖下を流れていた川のそばに落下していた。

 体の半分が破損していたが致命的な損害はなかった。片足がちぎれかけ腹部から胸にかけて大きな亀裂が入っていた。体内のものがあふれ出ていたがなんとか自力で家まで戻れそうだった。

 腕の中に抱いていた兎を見た。白い毛皮に赤いものがついていた。血だとわかった。兎の体が冷たくなっていった。私の腕の間から体温が流れ落ちていくようだった。

 家まで兎を両手に抱いたまま帰った。片足とびで歩いたあとには私の体から飛び出したものが点々と残った。強い雨が辺りをすき間なく埋めていた。

 家に入り彼の姿を探した。私の滴《したた》らせる水滴が床に広がっていった。私の髪の毛は濡れて皮膚や皮膚のはがれた個所に張りついていた。彼は庭の見える窓辺のそばに腰掛けていた。私の姿を見ると驚いていた。

「直してください……」

 私はこうなった理由を説明した。

「わかった、地下倉庫へ行こう」

 両腕の中の兎を彼に差し出した。

「この子も治せますか……?」

 彼は首を横にふった。その兎はもう死んでいる。そう言った。兎は落下の衝撃に耐えられなかった。私の腕の中で転落死したのだ。

 私は野菜の間を元気に憎たらしく駆けまわっていた兎の姿を思い出した。そして目の前で白い毛皮を赤く染め目を糸のように細く閉じたまま動かない兎を見つめた。地下倉庫へ行って検査と手当てをしなければ、そう言う彼の声がやけに遠くから聞こえた。

「あ、……あ、……」

 私は口を開けて何かを言おうとした。しかし言葉は出なかった。胸の奥からわけのわからない痛みを感じた。私は痛みとは無縁だがなぜかそれを痛みだと認識した。力が抜けていき私は膝をついた。

「私は……」

 涙を流す機能も私にはついていた。

「……この子が、意外と好きだったんです」

 彼は、痛ましいものを見る目で私を見ていた。

「それが死だ」

 そう言うと、私の頭に手を載せた。私は知った。死とは、喪失感だったのだ。

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 私と彼は地下倉庫まで歩いた。雨が強く視界はほとんどなかった。私は腕の中に兎を抱いたまま片足で進んだ。家を出るとき兎は残していきなさいと彼は言ったが放すことができなかった。結局、私が地下の作業台で応急処置を受けている間、兎はそばの机に寝かせていた。

 作業台に寝ると天井の照明が正面にあった。この部屋でひと月と数週間前、私は同じ状態で横になっていたのだ。そして目を開けると彼がおはようと口にした。最初の記憶だった。

 白い光の中で彼が私の体内を検査した。彼は時折、疲れたように椅子で休んだ。休憩をとらなければ立っていることもままならないのだろう。

 私は寝かされたまま首を横に向け机の兎を見つめた。彼も近いうちあの兎のように動かなくなるのだ。いや、彼だけではない。鳥にも、私にも、やがて『死』は訪れる。これまでそのことは知識として頭の中にあった。しかし今のように恐怖をともなったことはない。

 自分が死ぬときのことを考えた。それはただの停止ではなかった。この世界すべてとの別れであり私自身との別れでもあった。どんなに何かを好きになっても必ずそうなる。だから『死』は恐ろしくて悲しい。

 愛すれば愛するほど死の意味は重くなり喪失感は深くなる。愛と死は別のものではなく同じものの表と裏だった。

 体内から欠け落ちたものを彼が埋めこむ間、静かに私は泣いていた。やがて修理が半ばまで終わったとき彼は手をとめて椅子で休憩をとった。

「明日までには応急処置が終わる。完全に元通りになるには、さらに三日の作業が必要だ」

 彼の体は限界に達していた。応急処置より後の作業は私が自分で行なわなければいけないという。私も自分自身の体内のことは一応、知っていた。経験はなかったが設計図を見ればおそらくその作業はできるだろう。

「わかりました……」

 そして涙声で続けた。

「……私はあなたを恨《うら》みます」

 なぜ作ったのですか。この世界に誕生して何かを好きになどならなければ、『死』による別れに怯えることもなかった。

 嗚咽《おえつ》まじりの声になったが私は作業台に寝たまま言葉を口から押し出した。

「私は、あなたが好きです。それなのに、あなたの遺体を埋葬しなければならないのは、辛いです。こんなに胸が苦しくなるのなら、心なんて必要ないのに。私を作る段階で、心を組みこんだあなたを恨みます……」

 彼は悲しそうな顔をした。

 包帯を体中に巻きつけた私は冷たく固まった兎を抱いて地下倉庫から出た。外はもう雨がやみ丘一面に広がる草原に湿った空気が立ちこめていた。辺りは暗かったがじきに朝が訪れる時間だった。空を見ると雲が流れていた。私の後から彼が扉を出てきた。

 応急処置を受けた私は普通に歩くことができるようになっていた。しかし完全な修復ではないため激しい動きは禁止された。自らの手による修復作業はしばらくの間、行なうつもりはなかった。私が地下で作業をしている間、彼に食事を作る者がいなくなるからだ。

 私たちが休憩をはさみながら家まで歩いているとやがて東の空が明るくなってきた。彼が森に近いところにある十字架の前で立ち止まった。

「あと四日だ」

 十字架を見つめて言った。

 朝のうちに私は兎を埋葬した。青い芝生の覆う庭によく鳥の集まってくる一画があった。そこなら寂しくないだろうとスコップで穴を掘った。兎に土をかぶせる間、胸が押しつぶされるような気持ちだった。同じことを彼にもしなければならない。そう考えると私は耐えられる自信がなくなった。

 その朝から数日間、彼は一階のベッドへ横になったまま起きなかった。寝たきりでベッドわきの窓から外を見つめるだけだった。私は食事を作って彼のもとまで運んだ。私はもう笑うことができなかった。彼のそばにいると辛かった。

 なぜ彼がいつも窓から外を眺めているのか理解できた。彼もまた私と同じように世界が好きなのだろう。だから『死』によって別れが訪れるまでよく見て目に焼き付けておこうとしているのだろう。私はできるだけそんな彼のそばで時間を過ごした。一秒ごとに彼の『死』が近づいてくるのを感じた。家のどこにいてもその気配はあった。

 雨の日以降、いつも空は曇っていた。風もなく台所の窓に下がっている飾りは沈黙していた。レコードを聴く気力もなく家の中は静かだった。私が歩くときの床がわずかに軋む音だけがあった。

「あそこの照明のランプが切れかかっているね……」

 ある夜、横になったまま彼は窓の外を見て言った。庭を照らしている照明のひとつが弱々しく点滅していた。しばらくついていたかと思うとふいに震えて暗くなる。

「僕は明日の正午に死ぬだろう……」

 切れかかっているランプを見ながら彼は口にした。

 彼が眠りについて私は二階のブロックのある部屋で膝を抱えた。床の中央に赤いブロックで作った帆船がある。彼がかつて私の目の前で製作したものだ。それを眺めながら私は考えていた。

 私は彼が好きだった。その一方でまだ心に引っかかりがあった。私をこの世界に創造したということへの恨みだった。心の中にできた黒い影のように、その感情はつきまとっていた。

 感謝と恨みを同時に抱いたまま複雑な気持ちで彼に接していた。しかし私はそのような素振りを見せなかった。ベッドにいる彼へコーヒーを運び手が震えるようであれば口まで運んであげた。

 私がまだ心にわだかまりを持っているなどということを彼が知る必要はない。明日の正午、私は彼に、作ってくれてありがとうと感謝の気持ちだけを言い表そう。それが彼にとってもっとも心残りのない『死』に違いない。

 ブロックの赤い帆船を私は両手でもてあそんだ。恨んでいるなどという気持ちは胸の奥に隠していればいいことだ。しかし私はこのことについて考えるたびに、息苦しくなった。彼に嘘をついているようで、怖かった。

 帆船の持っていた部分が唐突に外れた。床に落下して胴体部分のほとんどが音を立てて分解した。ばらばらになったブロックを集めながらどうしようかと思った。私のように人間でないものは絵を描いたり彫刻をしたり音楽を作ったりすることはできない。彼が死んだらこのブロックはずっと分解したままになってしまう。

 そのときひとつだけ私でもブロックで作り出せるものがあることに気づいた。思い出しながら帆船を組み立てた。一度、彼が製作する様を見て記憶していた。ひとつずつ彼がかつて目の前で行なった手順を繰り返す。そうすることで私にも帆船を製作することはできた。

 そうしながら私は涙を拭った。もしかしたら。もしかしたら。心の中で幾度もそう繰り返した。

 次の日、朝から空は晴れ渡っていた。どこまでも続く青色の中には雲が見当たらなかった。彼が眠っている間、井戸のそばで私は歯磨きをし、口をすすいだ。井戸から水を汲み上げて桶に移しかえるときしぶきが飛んだ。井戸の近くに生えている草花がそれを受ける。花の先端に露をつけ重みで曲がった。見ていると露は落下し空中で朝日を反射して輝いた。

 曇りの日が続いていたので洗濯物がたまっていた。二人が着た数日分の白い服を洗い庭先に干した。動くと体に巻いていた包帯がずれてくる。それを直しながら物干し竿に服をかけていった。

 ちょうどその作業が終わったとき、彼が窓から眺めていることに気づいた。そこは彼の寝ている部屋の窓ではなく日当たりのいい廊下の窓だった。私は驚いて駆け寄った。

「起きて大丈夫ですか?」

 彼は窓辺にある長椅子に腰掛けていた。

「この椅子の上で死のうと思う」

 どうやら最後の力をふりしぼって歩いたらしい。

 私は家に入り彼の隣に腰掛けた。正面の窓から庭を眺めることができた。たった今、干したばかりの洗濯物が白かった。風にゆらいでその向こう側にある井戸が見え隠れした。死とは無縁の気持ちのいい朝だった。

「残り何時間ですか?」

 私は外に視線を向けたまま聞いた。彼はしばらく沈黙した。静かな時が過ぎた後、自分の命の残り時間を秒単位で答えた。

「病原菌による『死』は、そんなに律儀に時間を守るものなんですか?」

「……さあ、どうかな」

 特に興味のなさそうな声で、彼は返事をした。私は緊張しながら、質問してみる。

「……あなたが私に名前をつけなかったのは、絵や音楽を作り出せないのと同様に、名前を生み出すことができなかったからですね?」

 彼はようやく窓の外から目を離して私を見た。

「私も、自分の死ぬ時間を秒単位で把握しています。私のような存在には、あらかじめ生きていられる時間が設定してあるからです。そして、あなたも……」

 本当は、病原菌になんか感染していない。彼はおそらく、以前に他の人間がブロックから帆船を作り出したところを見ていたのだろう。だから、帆船を組み立てることができた。人間がすべていなくなった世界を、彼だけが死なずに今まで生きてきたのだ。彼はしばらく私の顔を見つめてからうつむいた。白い顔に陰ができた。

「だましていて、すまない……」

 私は彼に抱きつき胸に耳を当てた。彼の胸の中からモーターのかすかな音が聞こえた。

「なぜ人間のふりを?」

 彼は落ちこんだ声で伯父にあこがれていた心の内側を説明した。伯父とは彼の製作者だった。自分が人間だったらいいのにと私は時々思った。彼もまた同じことを感じていたのだ。

「それに、きみが納得できないだろうと考えた」

 自分と同じ存在に作られたというより、人間に作られたことにしたほうが、私の苦しみが少ないと考えたそうだ。

「あなたは愚かです」

「わかっている」

 そう彼は言って、胸に耳をあてたままの私の頭に、そっと手を載せた。少なくとも私には彼が人間だろうとそうでなかろうと違いはなかった。私は彼の体を強く抱きしめた。残り時間が減っていく。

「僕は、伯父の隣に埋葬されたかった。自分の上に土をかぶせる存在が必要だったのだ。そのような身勝手のためにきみを作り出してしまった」

「何年間、あなたは一人きりでこの家にいたのですか?」

「伯父が死んで二百年が経つ」

 彼が私を作った気持ちはわかった。死の訪れる瞬間、自分の手を握ってくれる人がいればどんなにいいだろうか。だから私は、彼の上に死が訪れるまで、抱きしめていようと思った。そうしていれば彼は、孤独ではないと知るだろう。

 私も、自分が死ぬときに彼と同じことをする可能性があった。設計図や部品、工具などは地下倉庫にそろっているのだ。まだそのときになってみなければわからないが、孤独に耐えかねたとき、寄り添うための新たな命を私は生み出すかもしれない。だからこそ、私は彼を許すことができた。

 私と彼は、長椅子の上で、静かな午前を過ごした。私はずっと、彼の胸に耳を当てていた。彼は何も話さず、窓の外で風に揺らめく洗濯物を見ていた。

 私は応急処置を受けて以来、体中に包帯を巻いている。首に巻かれていた包帯のずれを、彼がそっと直した。窓から入る日差しが膝にあたっていた。暖かい、と思った。何もかも暖かい。やさしくて、やわらかい。そう感じたとき、私の胸につかえていたものが、次々と解き放たれていくような気分を味わった。

「……作ってくれたこと、感謝しています」

 ごく自然に、思っていることが唇の間からこぼれた。

「でも、恨んでもいたのです……」

 胸に耳を当てていると、彼の顔は見えなかった。それでも、彼が頷いたのはわかった。

「もしもあなたが埋葬のため、死を看取るため、私を作らなければ、私は死を恐れることも、だれかの死による喪失感に苛《さいな》まれることもなかったでしょう」

 彼の弱々しい指が、私の髪の毛に触れた。

「何かを好きになればなるほど、それが失われたとき、私の心は悲鳴をあげる。この幾度も繰り返される苦しみに耐えて残り時間を生きていかなければならない。それはどんなに過酷なのだろう。それならいっそのこと、何も愛さない、心のない人形として私は作られたかった……」

 鳥の鳴き声が、外から聞こえた。私は目を閉じて、青空を数羽の鳥が飛んでいる場面を想像した。瞼を閉じたとき、目の縁にたまっていた涙がこぼれた。

「でも、今、私は感謝しています。もしもこの世界に誕生していなければ、丘に広がる草原を見ることはなかった。心が組みこまれていなければ、鳥の巣を眺めて楽しむことも、コーヒーの苦さに顔をしかめることもなかった。そのひとつひとつの世界の輝きに触れることは、どんなに価値のあることでしょう。そう考えると、私は、胸の奥が悲しみで血を流すことさえ、生きているというかけがえのない証拠に思えるのです……」

 感謝と恨みを同時に抱いているなんて、おかしいでしょうか。でも、私は思うのです。きっと、みんなそうなのだと。ずっと以前にいなくなった人間の子たちも、親には似たような矛盾を抱えて生きていたのではないでしょうか。愛と死を学びながら育ち、世界の陽だまりと暗い陰を行き来しながら生きていたのではないでしょうか。

 そして子供たちは成長し、今度は自分が新たな命をこの世界に創造するという業を、背負っていたのではないでしょうか。

 あの丘の、あなたの伯父が眠る隣に、私は穴を掘ります。そしてあなたを寝かせて、布団をかぶせるように土を載せようと思います。木で作った十字架を立てて、井戸のそばに咲いていた草花を植えようと思います。毎朝、あなたに挨拶をしに行くでしょう。そして夕方には、一日に何があったのかを報告しに行きます。

 静かな時間が長椅子の上を通りすぎ、正午近い時刻になった。私の耳に聞こえていた彼の体内のモーター音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。おやすみなさいと私は心の中でつぶやいた。

[#改丁]

 SO-far そ・ふぁー

[#改丁]

[#ここから3字下げ]

SO(significant other)

 1〔社〕重要な他者(親、仲間など)

 2〈米略式〉配偶者、恋人(略:SO)

far

 〈距離〉遠くへ[に]、(遠く)離れて

[#ここで字下げ終わり]

[#地付き]『プログレッシブ英和中辞典(第3版)』(小学館)より

[#ここから6字下げ]

[#ここで字下げ終わり]

 今はぼくも少しだけ成長した。小学校に入学してもうすぐ中学生になる。だからあの当時の不思議な状況のことを昔とは違った目で見ることができる。何せあの頃のぼくといったら幼稚園に通っているほんの子供だった。何もかもが不安で心細かった。ぼく以外の人間はみんな大きくて話をするためには見上げないといけなかったし、大人が腰に手をあてて呆れた顔を向けると自分は何かまちがったことをしでかしたんじゃないかと心配になった。だから大人に説明しようとしてもうまいことできたためしはなかった。

 昔、ベッド下の明かりが届かないところには何かが住んでいる気がした。立てた鉛筆に手を触れず「たおれろ」と念じれば本当に倒れると思った。そういったもののほとんどは結局のところありえなかったけど、まったく無いというわけじゃない。ぼくは科学が好きだけど、世の中にはそれで解明できない不思議なものはあるのだ。

 幼稚園に通っていたころのことだ。すでに細かい記憶はぼんやりとしているけどあのことは後から何度も繰り返し思い出していたし人からたずねられることも多かった。だから案外よく覚えている。

 ぼくには父と母がいて三人暮らしだった。住まいはアパートの二階だったと思う。小高い丘の上にあって町の光景が窓から見下ろせた。立ち並ぶマンションの間を縫うように電車が通り抜ける。そんな景色を眺めるのが好きだった。

 居間とキッチンがあってその他の部屋が二つくらいあった。柱にはぼくの描いた父の絵が飾ってあり幼稚園の帽子や鞄がかけられていた。

 両親のことが好きだった。ぼくはババ抜きしかできなかったけど三人でよくトランプをやったし家の中でかくれんぼもやった。キッチンのテーブルでごはんを食べた後は居間のソファーに腰掛けて話をした。

 居間にあった灰色のソファーは、うちにあった家具の中でもっとも重要なものじゃないかと思う。これに座ってテレビを眺めたり本を読んだりうたたねをするわけだ。うちにあった団欒《だんらん》というものの正体は、この弾力を持ったやわらかいソファーだった。まずはソファーが最初にあり、次に低いテーブルやテレビがそろえられていたんだ。

 いつもぼくが真ん中に座った。

 母の席はぼくの左手側、台所に近い方だ。ぼくや父が飲み物を催促すると立ちあがってパタパタとスリッパを響かせすぐにジュースやビールを持ってくることができた。

 父はぼくの右に座った。そこがテレビを見るために一番いい角度だった。それにクーラーの真下だったから暑がりの父はそこで涼しい思いをしていたのだ。

 ぼくは足をぶらつかせながらソファーに座り幼稚園であったできごとを話した。ちょうど両側から笑顔の母と父の顔がぼくを見ているわけである。

 それがいつのまに起こってしまったことなのか最初はわからなかった。気づくとそうなっていた。

 ぼくと父が居間のソファーに座っていた時だ。父はどことなく暗い顔をしてテレビを見ていた。背中を丸めて組んだ手の上に顎《あご》を載せていた。

 テレビでは怪奇現象に関する番組が流れていた。怖い番組なのは知っていたけどなぜかいつも見てしまった。その日の番組内容は交通事故に遭った人が死んでしまったことに気付かず幽霊になって家へ帰ってきてしまうというものだった。

 母が扉を開けて居間に入ってきた。父と同じような浮かない顔だった。

「あら、一人でテレビを見ているの?」

 ぼくに向かって母が言った。それが普通の調子だったので聞き逃すところだった。確かに「一人で」と母は言った。

 ぼくは奇妙に思い隣に座る父を見た。自分が無視されたことを怒ってしまうんじゃないかと思った。けれど母が居間に入ってきたことにも気づいていない様子だった。

「やだあ、何もないところを見て、いったいどうしたっていうの?」

 母が本当に不思議そうな顔をした。だからぼくは不安になった。

 そのうち父は静かにソファーから立ち上がり居間を出た。ぼくや母の方を一度も振り返らなかった。ぼくは困惑した。何かが微妙におかしかったが、その原因がわからなかった。きっと泣きそうな顔をしていたのだと思う。母がトランプを取り出して「一緒にババ抜きしようね」と微笑んでくれた。ぼくは最初のうち落ち着かなかったけど母が笑ったのでああ大丈夫なんだなあと安心した。

 しばらく母と遊んでいると父が居間に戻ってきた。

「なんだ一人でトランプなんかやって……」

 そして父はぼくを手招きした。

「今日は外食にしような」

 ソファーからおりて父のもとに駆け寄った。振り返ると母がカードの束を持ったまま「どこへ行くの?」といった顔でぼくを見ていた。

 母もいっしょに外食するのだと思っていたけど違った。父はぼくが居間を出るなり電気を消してパタンと扉を閉めたのだ。まだ中に母がいるというのに。

 父と二人でファミリーレストランにいる間、居間に残してきた母のことが気がかりだった。

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