饭饭TXT > 海外名作 > 《ZOO(日文版)》作者:[日]乙一【完结】 > 《ZOO(日文版)》[日]乙一【完结】.txt

第 5 页

作者:日-乙一 当前章节:15391 字 更新时间:2026-6-23 07:47

「これから生活が大変になるな……」

 父がそうつぶやいた。

 次の日の夕ごはんも不思議だった。母は自分とぼくの分しかおかずを用意しなかった。お皿やお箸もキッチンのテーブルに二人分だけだった。

 一方で父はまるで母の料理なんて最初から見えていないようにコンビニでお弁当を買って帰ってきた。袋に入ったそれらを居間にある低いテーブルの上に広げた。ぼくの分のお弁当もあった。

 ぼくはキッチンで母に聞いてみた。

「どうしておとうさんの分はないの?」

「え?」

 母は息を呑むようにしてぼくを見た。母があまりに唖然とするものだから、言ってはいけないことを口にしてしまったんじゃないかと思いぼくは怖くなった。それで繰り返して問い掛けるのをためらった。

「おーい、何やってるんだよ。おまえ、どっちの弁当がいい?」

 居間の方から父の声が聞こえてきた。母に呼びかけるときと、ぼくに呼びかけるときとでは、微妙に声の高さが違うので、それがぼくへの質問であることがわかった。

 キッチンを出て、居間に移動した。父はネクタイを外している途中だった。

「……どうしておかあさんの食べるお弁当がないの?」

 そうたずねると父は手を止めてまじまじとぼくを見た。やっぱりこの質問はしてはいけないのだなあと思った。

 ぼくは両方に気を利かせなくてはならないと感じてキッチンと居間を何度か往復した。母の料理を少し食べたら今度は居間に移り弁当を食べる。それを繰り返した。

 両方とも半分ずつ残してしまったけど怒られはしなかった。ごはんの時間が済むといつもの通りぼくはソファーの真ん中に座った。左手に母が、右手に父が座った。二人は静かにテレビを見ていた。数日前に起こった列車事故のことが報道されていた。

 これまでならお互いに楽しい話をしてぼくが笑い転げる時間だった。しかしその日、両側に座る二人はだまりこんでいた。何か恐ろしい事情があってぼくたち三人の間におかしなずれが生じていた。それが何なのかと考えていると母がぼくを振り返った。深刻な顔でしばらくぼくを見つめた。

「ねえ、お父さんが死んじゃってこれからは二人暮らしになるけどがんばろうね」

 ぼくはその意味がよくわからなかった。ただ、あまりに母の声は真面目なものだったから本当に怖くなった。戸惑っていると母は「大丈夫だから」と微笑んで頭をなでてくれた。

 今度は父がぼくを振り返った。母など存在していないように、ぼくの瞳だけをまっすぐに見た。

「母さんの分も強く生きような……」

 見えていないのだ、とそのとき気づいた。父には母が見えていない。母には父が見えていない。ぼくを挟んだ向こう側にはだれもいないと、父と母の両方が思っているのだ。

 二人の話から、父と母のどちらかが死んだのだとぼくは理解した。そして父は母が死んだと思いこみぼくと二人暮らしをしていると錯覚している。逆に母は父が死んだと信じている。

 だからお互いが見えていないし話も聞こえない。それぞれに見えているのはぼくだけだった。

[#ここから6字下げ]

[#ここで字下げ終わり]

 そのころは言葉をあまり知らなかったから思ったことを明確に父母へ伝えることができていなかった。ぼくには二人の姿が見えるのだということを説明したけど最初のうちまともに取り合ってもらえなかった。

「ねえ、あっちのへやにおとうさんいるよ」

 キッチンで皿洗いしている母のエプロンを引っ張ってぼくはそう主張してみた。居間のソファーで父は新聞を読んでいた。

「はいはい……」

 母は最初のうち軽く頷いただけだった。ぼくが同じ言葉を繰り返すと母はしゃがんで目線をぼくと同じ高さに持ってきた。正面からまっすぐにぼくの目を見た。

「つらいのはわかるけど……」

 真面目な声で母はぼくのことを心配した。そうなるとぼくはまるで自分の頭がおかしいような気がして、この問題に触れてはいけないのではないかと思った。

 それでもぼくはこのおかしな状況について何度も説明を試みた。

 ある夜、三人でソファーに座っていた。「三人で」というのはぼくから見た場合である。母と父はお互いに、ぼくと二人だけでソファーに座っているものだと考えているようだった。

「おかあさんは今、青いセーターを着ているよ」

 右手にいる父へぼくはそう言ってみた。両側から二人がまじまじとぼくの顔を見た。

「なに、気味悪いこと言ってるんだよ……」

 父が眉をひそめた。父にとっては母の姿など見えていないからわけがわからないといった顔をしていた。

「ええ、着てるわよ、それがどうかした?」

 母もまた不思議そうな顔でぼくを見た。

「ぼくには二人とも見えるんだよ。おとうさんも、おかあさんも、みんなこの部屋にそろっているんだ」

 そう言うと両側から困惑したような視線が向けられた。

 何度かそういうことがあった。最初は取り合わなかった二人も、次第に、ぼくの言葉へ耳を貸すようになっていった。

 お菓子の袋が開かないからと、母が鋏《はさみ》を探していたときのことだ。

「お父さん、鋏をどこに置いたのかしら。目立つところに出してから消えてくれればいいのに」

 母がぶつぶつと文句を言いながら、鉛筆からガムテープまでひとまとめに放りこんでおく居間の戸棚を漁《あさ》っていた。父は居間のソファーで足を組んでいたのだけど同じ部屋にいても母の姿は見えていないようだった。そこでぼくは父に鋏をどこに置いたかをたずねた。

「……たしかキッチンにある戸棚の引き出しに入れたと思うよ」

 父がそうぼくに言った。ぼくはその言葉を同じ室内にいる母へ伝えた。

「キッチンの戸棚の引き出しだって。そうおとうさんが言ってるよ」

 確かに鋏はその場所にあった。そのようなことが頻発して、父と母はそれぞれぼくの話を信じるようになっていった。

「ぼくにはおとうさんが見えるんだ。声もきこえるんだよ」

 戸惑いながら母はぼくの言葉に頷いてくれた。

「おかあさんはちゃんとここにいるよ。だから、ぼくとおとうさんは、二人だけじゃないんだよ。おかあさんに言いたいことがあったら、ぼくがかわりに言ってあげる」

 父にぼくがそう言うと、父はうれしそうに頷いた。そうだね、本当にそのようだね、と言いながらぼくの頭をなでた。

 ぼくが二人の会話を中継する日々がそうしてはじまった。それは案外、楽しいものだった。

 三人でソファーに並び同じテレビ番組を見た。

「わたしは旅番組がいい」

 母が言うとぼくはすかさず父にそれを伝えた。

「おかあさんはちがうのがいいって。旅のやつがいいって」

「刑事ドラマでがまんしろよって母さんに言って」

 父が画面から目を離さずに言った。

「おとうさんはチャンネルをかえたくないんだって」

 そう伝えると、あーあ、と言って母は立ちあがりキッチンに消えた。

 ぼくはクスクスと笑った。ずっと以前は毎日がこんな調子だったからおかしかった。父母が話をするためには、ぼくが間に入らないといけないけど問題はなかった。ぼくたちは三人なんだなあということが改めてわかった。そんなとき部屋の中が温かくなって楽しい気分になった。

 母と父、それぞれのいる世界のことを当時よく考えた。それぞれから聞いた話では、二人は列車事故に巻き込まれかけたそうだ。いや、これは少しややこしいけど、二人ともしっかり巻きこまれて死んでしまったのだとも言えるらしかった。

 何かの用事で親戚の叔父さんへ屈けものをしなくちゃいけなかったそうだ。それである朝、二人はじゃんけんをした。負けた方が電車に乗って叔父さんの家に行ったそうだ。

 二人の話では、じゃんけんをした後が食い違った。母のいた世界では父が負けて列車に乗ったそうだ。しかし父のいた世界では母が叔父さんの家に向かったそうだ。

 電車は事故を起こした。それで母のいた世界では父が、父のいた世界では母が、死んでしまったらしい。それぞれの残された方はぼくと二人暮らしになったのだと思いこんだそうだ。

 でも、生き残った父母のそれぞれの世界はまるで半透明の写真が重なったようにぼくを接点としてつながっていた。ぼくは二人の世界を両方とも同時に見ることができた。それが少し誇らしかった。父と母の連結役に抜擢《ばってき》されたようだった。

 父が扉を開けて入ってきたとする。もしも父の姿だけが見えないのであれば母の目には扉がひとりでに開いたり閉じたりするように見えるはずだ。でも実際には、扉の動きなどには気づかなかった。ぼくが言ってあげることで、あ、そういえばいつのまにかこうなってるわね、と母は知ることができるのだ。

 母がキッチンで洗い物をしている。それを見ても父の目にはだれかが洗い物をしているようには映っていない。自分のいる世界において説明のつかないことはちょっとのことでは気づかないようになっているらしい。

 食事はあいかわらず二人とも別々だった。母は料理を作り、父はお弁当を買ってそれを食べた。

「おとうさん、このカレーライス見えないの?」

 ぼくは母の作ったカレーの皿を父の前に差し出して言ってみた。しかし父には何も見えないらしくただ戸惑うようにぼくを見つめ返すだけだった。

「今日、会社で変な電話があってね……」

 父が部屋の何もない場所に向かって母に話しかけることがあった。母は父のすぐ背中側に立っていたのだが、それが見えないためてきとうな方向に向かって話しかけるのが常だった。母には父の声が聞こえないのでぼくがその話を伝えた。おかしな具合だねとぼくは二人へ言った。

 でもどちらかはすでに死んでいるんだということを考えると悲しい気持ちになった。父の生きている世界と母の生きている世界、それぞれがちょうど合わさったところでぼくは宙ぶらりんになっていた。

 最初、二人がそれぞれ話をしなくなったときはどうなってしまったのかわからなくて不安だったが、今は大丈夫だった。ソファーの上で父と母にはさまれているとぼくはほっとして眠たくなった。

 けれどこのままでいいはずがないことは幼心にわかっていた。そのうちぼくはどちらかの世界を選ばないといけないんじゃないか。そのことが心の隅にあった。

[#ここから6字下げ]

[#ここで字下げ終わり]

 最初がそうだったように、いつのまにそうなっていたのかわからない。あるとき気づいたら父と母が喧嘩になっていた。もちろんそれは幼稚園で時々見たようなつかみ合いの喧嘩じゃなかった。

 夕ごはんを食べた後、三人でソファーに腰掛けていた。テレビを見ながらぼくは二人の話を半ば無意識に繰り返していた。しばらくそういう生活が続いていたからぼくは会話の中身を考えずオウムのように話を繰り返すことができるようになっていた。

 テレビでぼくの好きなアニメをやっていたからすっかりそれに夢中だった。ソファーの上で腹ばいになり顎を両手で支えていた。行儀が悪いと母に怒られることがあったけどその格好が好きだった。

 突然、父が新聞を叩きつけるようにテーブルへ置いた。二人の声が険悪な調子を帯びていた。それではじめていつのまにか父母の機嫌が悪くなっていることに気づいた。二人がお互いを傷つけるような話をしていたのに、ぼくはそんな内容に気づかないでいつものように伝言していたのだ。

 母が立ちあがり寝室の方へ歩いて行った。

「おかあさん部屋にいっちゃったよ」

「放っておけ」

 父は短くそう吐き捨てた。ぼくは不安になりアニメのことをすっかり忘れてしまった。仲直りしてほしかった。ソファーに座ってぼくの両側にいてくれないと本当には楽しくなかった。

「おい」しばらくして父がぼくを呼んだ。「おまえ、母さんに言ってこい」

「なんて言えばいいの?」

「お前が死んでくれていて、本当に良かった! って伝えてこい」

 父は怖い顔をしていた。ぼくは嫌だったけど言ってこなければ叱られると思った。それで母のいる部屋に向かった。

 母は寝室の布団に寝転がって何かを考えているようだった。ぼくが扉を開けると上半身を起こした。

「おかあさんが死んでいて良かった、だって……。そう、おかあさんに言ってこいって……」

 ぼくは母にそう言いながら泣きたくなるのを我慢した。押し黙って母はすすり泣くように涙を拭った。大人が泣くのを見たことがなかったからぼくは怖くなった。立ちすくんでどうすればいいのかわからなかった。

「じゃあおとうさんにこう伝えて……」

 今度は母が父あての悪口をぼくに託した。いくつかわからない言葉があってその場でぼくは練習させられた。ぼくは子供だったけどそれが酷い言葉だということは漠然とわかった。

「もういやだよ、やめようよ」

 すがりついたけどだめだった。

「ちゃんと伝えてくるのよ! わかった!?」

 ぼくはその後、郵便配達人のように母のいる寝室と父のいる居間を何度も往復した。嫌な言葉を繰り返し覚えさせられて口に出すことを強要された。

 言葉を伝える度に父母はぼくをにらみつけた。まるでぼくの中に憎い相手がいるとでもいうような瞳だった。怒鳴り声はぼくへむけられてまるで自分が罵られているようにも思えた。

 最初のうち悪口を運ぶたびに大きな塊を喉の奥から引き出さなくちゃいけない気がした。でもそれを繰り返していると頭の中がじんじんしてきて次第に何も感じなくなった。一切の声が聞こえなくなったような気がしていたけど郵便配達の役目は問題なく行なっていたようだから今となっては不思議である。

 口は自動的に録音と再生を繰り返すテープレコーダーになっていたけど涙だけは出続けていた。父も母も好きだったから酷い言葉なんて言いたくなかった。

 喧嘩は一時間くらいで終わった。

 またみんなでいっしょに居間のソファーへ座ってほしかったけどそう提案することができないでびくびくしながらソファーで待った。父は興奮した顔を洗いに居間を出て洗面所へ向かった。もうそのころには心が落ち着いていたみたいで父はどこか放心したような様子だった。

 その間に母が居間へきた。ぼくは二人の喧嘩がまたはじまったらどうしようと心配しながら顔を見つめていた。するとちょっと戸惑いながらぼくの隣に座った。ソファーが母の重みでへこみ、ぼくの体はそちらの方へかくんとゆれた。

「さっきはごめんなさい……」

 母はそう言うと頭をなでてくれた。その後ぼくは父がくるはずの扉をずっと眺めていた。そうやって監視して父が部屋に入ってきたらすぐに母へ伝えようと思っていた。でもなかなかやってこなかった。

 母が立ちあがりキッチンへ向かった。その背中を目で追いかけた瞬間、ぼくのすぐとなりで雑誌をめくる音がした。

 いつのまにか右手に父がいた。扉をずっと監視していたはずなのに入ってきたのがわからなかった。父は煙草を吸っていた。ぼくは煙草の煙が苦手でそれを吸いこむとすぐにいやな気分になった。でも父がとなりにいたことを知る瞬間までぼくは煙の臭いにも気づかず普通に空気を吸っていた。

 不思議な気持ちで顔を見ていると父が眉をひそめた。

「さっきはいくら呼んでもおれの方を見なかったくせに」

 そう言うとさっきの母と同じようにぼくの頭をなでた。確かにその手は存在して温かかった。なぜぼくは父のいたことに気づいていなかったんだろうと不思議に思った。

 考えながら母が戻ってくるのを待った。けれど母はなかなかキッチンから帰ってこなかった。部屋にはぼくと父だけがいてテレビでは歌の番組が流れていた。

「明日の予定を母さんにたずねてみてくれないか……?」

 まだ喧嘩をした直後だったから父の言葉は様子をうかがうような感じだった。ぼくは立ちあがって母の消えたキッチンの方へ向かった。

 扉を開けて母の姿を探した。しかし水道の蛇口から水滴が落ちているだけでそこには誰もいなかった。キッチンからどこかへ行くためには必ず居間を通らなくてはいけないはずだった。だからそこにいないのはおかしかった。

 疑問に思いながら居間へ戻ると母がソファーに座っていた。どのようにすれ違ったのかわからなかった。しかしさきほどまで誰もいなかった場所でまるでずっと前からそうしていたかのように母はコーヒーカップを傾けていた。

 そして父がさきほどまでいたはずの場所には誰もいなかった。灰皿も吸いかけの煙草も部屋に充満していた煙も消えていた。

 ぼくは質問することも忘れて母の顔を見た。

「なに? どうかした?」

 母が首を傾げてぼくに聞いた。母はどうやら、すでにキッチンから戻ってきていたらしい。

 ぼくはそのときようやく理解した。さきほどからずっと母はそこに座っていたのだ。いや、母だけじゃない。ぼくの両側に二人ともいたのだ。そして、ぼくはその二人のうちどちらか一方しか見えていなかったのだ。

 ぼくはいったん居間を出てもう一度、居間に入ってみた。母の座っていたところには誰もいなくなっていた。ソファーのへこみすらなかった。かわりに別の場所で父が出現していた。それでぼくはほとんど確信した。

 ソファーに座りしばらく目を閉じてみた。右手にあった吸いかけの煙草が消えて左手にいままでなかったはずのコーヒーカップが出現した。

 言葉も一度に二人の声は聞こえなくなっていた。父の世界と母の世界が離れ始めているということをぼくは知った。

 どちらかといればもう片方の存在はまったく消えてしまうのだ。扉が動いたことも目の前を横切ったこともなかったことになってしまう。

 ぼくはもうそれぞれの世界の重なった部分にいるわけではなくなっていた。ただ離れ始めた二つの世界を行ったり来たりしているに過ぎなかった。

 悲しくなってその夜ほとんど二人と話をしなかった。もう三人が一度にソファーへ座っていられることはなくなったのだ。

 ぼくはこのことをすぐには言えなかった。だまりこんだぼくを母が心配してなでてくれた。その間ぼくはやがてくる別れのためにどちらかを選ばなくてはならないと思っていた。

[#ここから6字下げ]

[#ここで字下げ終わり]

 次の日、ぼくの記憶では確か土曜日だったと思う。外を見ると曇り空で雨が降りそうな気配だった。

 母はどこかへ出かけていて父だけがソファーで新聞を眺めていた。本当に母がいないのか確信をもてずに部屋中を探してみた。もしも父と同じ部屋にいるのなら二人を同時に見ることはできないわけで本当はそばにいるのかもしれないのだ。

 しばらく他の部屋も探したけど母はどうやら本当にいないようだった。それで父の隣に腰掛けた。

 しばらくどう切り出そうかと迷った。テレビでお気に入りの特撮ヒーローものの番組をやっていたけどそわそわしてそれどころじゃなかった。父は血管の浮き出た右手でジャリっと顎鬚《あごひげ》をこすると新聞をめくった。

「いっしょに見ることができなくなっちゃった……」

 恐る恐るそう話し掛けてみた。父は首だけをぼくに向けて眉の間にしわを寄せた。

「なんだって?」

「おかあさんと、おとうさんが、いっしょにいるときは、どちらかしか見えないの……」

 言葉を咀嚼するようにじっと動きを止めて父は新聞をテーブルに置いた。

「どういう意味だ?」

 いけない子供を見るような目だったから怒られているような気がして逃げ出したくなった。胸の中がざわざわとしてやっぱりこのことは隠しておいたほうがよかったんじゃないかと後悔した。父はソファーに座っていてもぼくより高いところに目があった。だから父に厳しい目で見られたときぼくはいつも頭の上に両手を置いてしゃがんでしまいたくなるのだ。

「おとうさんがいるときはおかあさんが見えなくなったの」

 何度か必死に言葉をつぎはぎしていると父もぼくの言いたいことがわかってきたようだった。急に顔を青ざめさせてぼくの肩をつかんだ。何かを問い掛けるように必死な目でぼくの顔を正面から見た。

「ほ、ほんとうだよ……」

 怖くなってぼくは泣いた。父は本当に母のことが好きだったんだと感じた。二人の離れている世界をぼくがかろうじて繋《つな》ぎとめていたのだ。だから一度に二人を見られなくなったことがぼくの責任であるように思えて悲しかった。ぼくがもし本当にいい子だったらずっと三人で暮らせていたのだと思った。

 父はきつい口調で質問を繰り返した。でもぼくは泣いてばかりで何も言えないでいたからついには怒り始めた。肩をゆさぶっていた手を振り上げた。ぼくは頬を叩かれて床に倒れた。ごめんなさいと何度もあやまった。自分はなんて駄目な子供なんだろうと思い消え入りたかった。本当に悪いのは全部ぼくであるような気がした。そして父はぼくのことが嫌いになったんだと思った。

 ぼくは立ちあがり走って部屋を出た。父はぼくの名前を呼んだけど追ってはこなかった。靴をはかずに玄関を抜けた。アパートの階段を下りてアスファルトの道を公園の方にむかった。家にいたらいけないと思った。父のことやソファーのある居間が好きでたまらなかったけど頬の痛みがぼくはいらない子だということを教えてくれた。足の裏が痛かったけど我慢した。

 公園には誰もいなかった。雨が降りそうだったからきっと他の子は遊びにきていなかったんじゃないかと思う。いつもなら笑い声がたくさんあったのに滑り台もブランコもその日はぼく一人のものだった。けれど遊ぶ気にはならず広い公園で一人でいることが寂しかった。

 砂場に座り裸足《はだし》の足の上に砂で山を作った。父母のことばかり考えていた。きっと自分のような子供は好きじゃないんだと感じていた。昨晩の喧嘩もぼくのせいだと思っていた。もっといい子で服に料理をこぼさないで遊んだおもちゃをちゃんと片付けるような子だったら二人は喧嘩なんてしないと思っていた。

 寒くて涙が出た。湿った黒い砂はぼくの手や足にはりついてざらざらした。そのとき後ろから名前を呼ばれた。母が驚いた顔でこちらを見ていた。腕に買い物袋を下げていた。

「お父さんと来たの?」

 微笑んで公園内を見回した。ぼくは首を横に振った。母がすぐそばまで近づいてきてはっとしたように足を止めた。

「靴はどこに置いてあるの? それに、ねえ、頬が赤いわ……」

 叩かれた頬を手で覆い隠した。父に怒られたことを知られたくなかった。母にも叱られるんじゃないかと思っていた。不安な様子が母にも伝わったらしかった。母は買い物袋を地面に置いてそっと腕を伸ばしぼくを抱きすくめた。

「どうしたの?」

 やさしい声だった。母の匂いがして、心の底からほっとした。

「おとうさんに怒られた」

 母はぼくに何をしたのかをたずねた。だまっているとやさしく頭をなでた。いつのまにかぼくは泣いていて嗚咽が止まらなかった。静かな公園で泣き虫のぼくをずっと母は慰《なぐさ》めてくれた。

「おかあさん、ずっと前に言ったこと、おぼえてる?」

「なあに?」

「これから二人暮らしになるけどがんばろうね、って言ったの」

「覚えてるわ」

 母は戸惑いながら頷いた。いつのまにか霧のような雨が降り出しており髪の毛が湿り気を帯びていた。母がぼくの額にかかった前髪をかきあげた。

「ぼくはおかあさんの世界で生きることにする」

 決心してそう口にした。母は不思議そうな顔でぼくを見た。背負われて家に戻る間すすり泣きが止まらなかった。

 その日からぼくは父の姿を見ることができなくなった。

 中学生になった今でも当時のことはよく覚えている。この不思議な体験についてはいろいろな人に話をした。あるいはなぜそうなったのかについてぼくの方から説明を求めることもあった。

 父の消えた次の日のことを思い出す。その日はたしか雲のない青空だった。木の葉の一枚一枚が地面に影を作っていた。ぼくと母は手をつないで外へ出かけた。温かくて楽しい気分だった。空を見上げて目を閉じると陽光に透けてまぶたの裏側が赤かった。

 絵本や遊び道具がたくさんあるところに連れていってもらった。他にもぼくと同じくらいの年の子がいてぬいぐるみを抱いたりブロックで家を作ったりしていた。しばらくおもちゃで遊んだ後ぼくは手をひかれて男の人のいる部屋に通され向かい合って椅子に座った。

 男の人に、父のことを尋ねられた。そこで、列車の事故でもう死んだということを説明した。その人は困ったように腕組みした。そして少し笑いかけるようにして問いかけた。

「それじゃあね、ボク。きみの後ろにいる人はだれだい?」

 振り返ってみたがだれもいなかった。隣に母が立っているだけだった。だれもいないとぼくは答えた。

「父親の姿が見えなくなったみたいなんです」母が泣き声で男の人に言った。「わたしの声は聞こえるのですが父親の声は聞こえないみたいで……。父親が手を握ったり頭をなでたりしてもまるで何も感じていないみたい。無理やり抱き上げたり腕を取って引っ張ったりすると途端に力が抜けて無表情の人形のようになってしまうの」

「わかりました」男の人はしばらく母と話しこんで頷いた。「つまりあなたたちは夫婦喧嘩をした後でお互いに相手が死んだことにして生活をしていた。子供にもそう言い聞かせてつき合わせていた。そのうちにこうなってしまったと……」

 男は次に、ぼくの背後を見た。誰かと話をしているようにしきりと頷いていた。ぼくも後ろを振り返ってみたけどただ広い空間が広がっているだけだった。

 成長した今ではその時の母や医者の言葉がはっきりと理解できる。なぜそうなったのかもわかっているつもりだ。ここにお父さんはいるのよと母に言われて手をのばしてみる。どこにいるのとぼくは聞き返す。なぜわからないのよ今あなたはお父さんの体をぺたぺた触っているじゃないの。そして戸惑ったように母は泣き出す。そのうちに母は宙に視線を向けて話をはじめる。

 ぼくがこういう状態になってから両親は喧嘩をしなくなった。父の姿はあいかわらず見えなかったけれど母が泣いているときそれをなぐさめる父の様子だけは感じることができた。今はお互いを支え合うように一緒に暮らしている。みんなは両親の仕打ちが幼いぼくの心に傷をつけこうなってしまったのだと言う。しかしそれはぼくが得た自分なりの解答と少し違う。ぼくは望んでこうなったのかもしれないと最近そう思う。もちろん父と母を別れさせないためである。

[#改丁]

 冷たい森の白い家

[#改丁]

[#ここから6字下げ]

[#ここで字下げ終わり]

 馬小屋で暮らしていた。家はなかった。馬小屋には三頭の馬がいた。たえず糞《ふん》をまきちらしていた。

 あんたがいなければもう一頭、小屋で馬を飼うことができるんだけどね。

 いつもいまいましそうに伯母は言った。

 馬小屋の壁は下半分が石の積み上げられた壁だった。上半分は木の板でできていた。壁の石は四角に切ってあるわけではなかった。丸いままの石が無造作に積み上げられてその間を漆喰《しっくい》で固められていた。いつもそれを眺めながら眠った。馬小屋の片隅に体を寄せていなければ馬に踏み潰された。目の前の壁にあるいくつもの石を数えた。石はそれぞれ違う形をしていてどれも人間の顔に見えた。あるいは腕や踵《かかと》に見えた。胸やうなじにも見えた。

 馬糞の臭いがいつも鼻を襲った。しかし馬小屋の他に家はなかった。冬の夜は寒かった。藁《わら》を体にかぶせて眠った。それでも震えはとまらなかった。

 馬小屋で馬糞の処理をした。いつもの仕事だった。小屋の裏側に大きな肥料の山があった。そこに馬糞を運んだ。両手にいっぱいの糞を抱えた。肥料を畑に運ぶ仕事もした。伯父の言うままに動いた。伯父は決して近寄らなかった。鼻をつまんで命令をした。

 伯母の家には二人の男の子と、ひとりの女の子が住んでいた。兄弟はよく馬小屋へ遊びに来た。兄が棒で叩く。弟は笑いをこらえる。そのうちに血が出る。

 一番、酷いときは、馬に縄でくくりつけられた。馬はあばれて、踏みつけた。顔がへこんだ。兄弟は慌てて逃げていった。後は知らないふりをした。

 顔が少し、とれていた。その赤いのを拾い上げて、馬小屋を出た。伯母に助けをもとめるため、母屋へ行った。外は明るかった。馬糞の臭いが混じらない風が吹いていた。緑色の草が一面に生えていた。顔からしたたらせながら歩いた。

 伯母の家には鶏や犬が飼われており庭にいた。母屋の戸を叩いた。声が出せなかった。顔からとれたものをしっかり握りしめていた。

 戸を開けて伯母が出てきた。悲鳴をあげた。家にはあげてもらえなかった。

 今、お客様が来ているんだから、馬小屋から出てこないで。あんたを見たら気分を悪くするでしょう。

 馬小屋に追い返された。そのまま夜がふけた。馬の飲み水で傷を洗った。井戸の綺麗な水を使うことはゆるされていなかった。何度も気絶して眠った。

 兄弟は馬小屋を恐れるように近づかなかった。飼い葉を噛んで飢えをしのいだ。残飯を持ってきた伯母が驚いた顔をした。

 あんた、まだ生きてるのかい。丈夫な体してるねえ。

 ひと月、どこにも顔をぶつけないように過ごした。痛みは半年、続いた。拾っていた顔のとれた部分は腐った。黒くなって臭くなった。ずっとそばに置いていた。馬小屋の壁は石でできていた。石は顔に見えた。石のひとつに、顔のとれたものをときどき貼り付けて想像を膨らませた。顔はへこんだまま固まった。汁も流れ出なくなった。

 伯母の家に住む赤毛の女の子もときどき馬小屋にきた。馬小屋の中で話をした。伯母や兄弟のように叩いたりしなかった。赤毛の女の子は時々、本を持ってきた。馬小屋に置いていった。文字を赤毛の女の子から教わった。すぐに読めるようになった。

 赤毛の女の子は言った。

 嘘ばっかり、そんなに簡単に文字が読めるようになるはずがないわ!

 嘘ではないことを証明するため本を朗読してみせた。赤毛の女の子は驚いた。

 本を暗記した。夜の馬小屋に明かりはなかった。昼間、馬小屋の壁のすき間からもれる太陽のもとで隠れて読んだ。本を見つかってはいけないと赤毛の女の子に言われていた。たいていの本は、一度読めば覚えることができた。

 赤毛の女の子は数字も教えてくれた。計算の方法を覚えた。数式の並ぶ本を読んだ。赤毛の女の子より高等な計算もできるようになった。

 あなたは本当に頭がいいのね!

 赤毛の女の子は言った。

 馬小屋で本を読んでいると伯母が入ってきた。本を藁の中に隠すのが間に合わなかった。伯母は本を取り上げた。貴重な本なのだから触ってはいけないと説明し、棒で叩いた。なぜ本がここにあるのかと不思議がっていた。

 お母さん、やめて!

 赤毛の女の子が馬小屋に入ってきて叫んだ。

 この子、頭がいいの。兄さんたちよりも頭がいいのよ!

 伯母は信じなかった。赤毛の女の子は聖書の一節をそらんじるよう命令した。そのとおりにした。

 だから何だっていうの!

 伯母はそう言うと突き飛ばした。馬糞の中へ倒れた。

 成長すると兄弟は馬小屋に近寄らなくなった。狩りをする馬が必要なときだけ小屋にきた。赤毛の女の子は遠くの寄宿舎学校へ入り、いなくなった。伯母も、やがて残飯を小屋まで運んでこなくなった。伯父は畑を他人に売り飛ばした。

 馬小屋の隅に忘れ去られほとんど人に会わなくなった。藁の中で何年も隠れるように生きた。すでに馬小屋から逃げ出していなくなったものと考えられているらしかった。馬糞の処理は夜中に続けていた。だれかが馬小屋をたずねてきたときは隠れた。馬小屋の壁に並ぶ石は人の顔が連なっているように見えた。あいかわらず腕や踵にも見えた。それらを見つめて眠りについた。

 夜中に這い出して残飯の捨てられた穴で食事をした。伯母に見つかった。

 あんた、まだいたのかい。

 少しのお金を地面に捨てた。それを拾って出て行くようにと命令された。

 町へ行った。高い建物があった。人が多かった。目があうと人々は驚いた。顔がへこんでいるからだった。あからさまに見る人と、見ようとしない人がいた。

 伯母のお金を盗まれた。夜、路地裏を歩いていると大人の男たちが数人、近づいてきた。ひどいことをされて、町には近づいてはいけないと思った。町から離れて道を歩いた。何年間も歩きつづけた。

 やがて森に入って生活するようになった。人に見つからないよう生活していた。人に会うと、ひどいことになった。家を作らなくてはいけないと思った。馬小屋の、石の壁を思い出した。同じものを作ろうと考えた。顔や手足に似ている石を探した。森を徘徊《はいかい》した。町から充分に離れた森だった。石はめったに見つからなかった。森のどこまでも木々が並んでいた。地面は厚く木の葉がつもった腐葉土だった。

 石を探している時、山道を歩く青年に出会った。人は恐ろしいので、殺してしまおうと思った。殺した。その青年の顔は何かに似ていた。馬小屋の壁にはまっていた石のひとつに似ていた。青年の死体を、森の奥へ運んだ。家の材料が見つかったと思った。

[#ここから6字下げ]

[#ここで字下げ終わり]

 死体をつかって家をたてる。死体を重ねて壁を作る。死体を集めるために森を出た。

 道を女が歩いていた。胸に布の袋を抱える若い女だった。道の脇の叢に潜んでそれを見ていた。女が目の前を通りすぎた。叢から立ちあがり女の背後に歩み寄った。足音に気づいて女が振りかえった。悲鳴は大きかった。顔のへこみを見た者はたいてい怒り出すか悲鳴をあげるものだった。女の首に手をかけた。女は抱えていた布の袋を落とした。中に入っていたものが散らばった。入っていたのは野菜だった。転がった芋がつま先に当たった。

 首の骨はかんたんに折れた。その瞬間に女の口から悲鳴は消えた。ただじっと目を開けて見ているだけだった。顔のへこみの奥を見据えようと目を開けているだけだった。女の体を叢の中に引きずった。散らばっていたものも拾い集めた。女の冷たい体は後に家の土台となった。冷たい森の腐葉土に横たえて、積み上げる死体の壁を支えることになった。

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页