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作者:日-乙一 当前章节:15381 字 更新时间:2026-6-23 07:47

 男が橋を渡っていた。帽子をかぶって、手押し車を引いていた。小さな木の橋だった。小川のほとりには雑草が生い茂っており、川面に木の橋が反射して映っていた。橋のたもとに隠れた。男の引く手押し車が通りすぎる瞬間、それに飛び乗った。音はたてなかった。男は最初のうち気づかなかった。しかし手押し車が重くなったために不思議がり後ろを見た。握っていた石で男の頭を割った。男は悲鳴も上げないまま息をしなくなった。

 男の体を手押し車に載せた。男はどうやら果物を隣の町に運ぶ仕事をしていたようだった。手押し車の荷台には木箱が積まれていた。果物が入っていることを示す文字の焼印がおされていた。手押し車ごと森の奥に運んだ。他の無数の死体といっしょに積み上げて家の壁とした。男の体は家を作る材料となった。

 家の材料はいろいろな場所から集めた。森から離れた町で材料を得るのがもっとも騒がれなかった。人間を殺して町のはずれで一箇所に重ねた。多く集まったら手押し車に載せて森に運んだ。荷台に折り重なった人間には藁をかぶせて隠した。夜に手押し車を押して森まで帰った。

 待ちなさい。

 夜中、家の材料を載せた手押し車を森に運んでいるとき、後ろから声をかけられた。男の声だった。咄嗟に、へこんだ顔を隠した。見られたらいやなことになると思った。

 こんな夜中に出歩くもんじゃない。最近、このあたりにはひとさらいが出るという話だ。

 男は電灯を持っていた。初老ほどの年齢だった。男は近寄ってきた。手押し車の荷台の縁に手を乗せた。荷台に積んでいる藁を見て、男は言った。

 ひとさらいは隣の町にも、もっと遠くの町にも出るそうだ。さらわれた人は今ごろどうなっているんだろうな。孫が言うには、食べられているんじゃないかってさ。

 男は、藁の間から突き出ている女の白い足首の上で視線を留めた。首をかしげてそれに手を伸ばした。本物の足である冷たさを感じ取り、男は驚いていた。首をしめた後、男を荷台に載せた。

 森は静かだった。鉱物のように硬い木の幹が無限にどこまでも続くような森だった。冷たさのために葉はすべて色を失い、ほとんど落ちていた。落ち葉の上に人間を並べた。壁のできる場所に並べた。

 単純な四角い箱のような家を作った。人間をすきまなく積み上げて壁にした。男も女もいた。旅人も村人もいた。森に運ぶと服を脱がせた。裸になったそれらは白かった。

 寝た格好で壁に組み込むのもあれば、座った格好で壁になるものもいた。膝をかかえる状態のものもあれば、だれかの首に手をまわした状態で壁にはまるのもあった。壁は薄くはなかった。一層では強度が弱くなるので数人分の厚さで壁を作った。支えるために木をつかうこともあった。小屋は完成に向かった。材料がたりなくなれば探しにでかけた。壁の高さはましていった。材料は白かったので白い小屋になった。

 冷たい日が続いた。できかけの壁に身をよせて眠った。人間の持つ荷物の中に食料が入っている場合があった。それを食べて飢えをしのいだ。人間の積み重なった壁が完成すると次は屋根だった。大きな木の枝を壁の上に何本も通して上に死体を寝かせた。それで雪は防げた。

 家は完成した。静かな森の中に白い小屋ができた。死体の肌は冷たくておそろしく白かったので月光をあびると膜がかかったように輝いた。壁の下のほうの死体は重さに押しつぶされて腐葉土の中へめり込んでいた。

 立って入れるほどの家だった。入り口があり壁と屋根があるだけの構造だった。それでも風を防ぐことができた。中に入って膝を抱えた。周囲を見ると顔が並んでいた。壁になった人間の体は、複雑に入り組み、積み重なっていた。どれも目を開けてこちらを見ていた。馬小屋の壁に似ていた。壁の女が長い髪の毛をたらしていた。下に折り重なっている他の者たちの顔を隠していた。

 家の中で生活した。静かな生活だった。森には鳥さえいなかった。ただ白い家があるだけだった。顔はどれも目を開けて見ていた。

 壁の人間は入り組んでいた。肘を曲げた男がおり、その真横の者は肘に合わせて体を捻《ね》じ曲げていた。地面から直立して上にのしかかる女や男を頭で支える少年もいた。人間の腕や足が入り組む様は、大量の蛇が一箇所に集められてのたうっているようだった。中で膝を抱えて眠った。冷たい夜が続いた。

 伯母の家にいたときのことをよく思い出した。目を閉じるといつもあの馬小屋にいた。赤毛の女の子のことも思い出した。両親と住んでいた家のこともよく思い出した。裕福な家ではなかった。冬、父は冷たく凍った畑にくわをふるっていた。母は手を赤くしてそれを手伝った。両親が事故にあったのは雨の日だった。通りすがりの馬車が転倒し、両親を巻き添えにしたのだと伯母は説明した。

 伯母の家に引き取られて、馬小屋を与えられた。決して母屋の中に入ってはいけなかった。馬小屋の中は馬糞のせいで臭かった。壁の下半分は丸い石が積み上げられて、人間の顔が並んでいるように見えた。

 しばらく暮らしていると、少女が訪ねてきた。

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 家の中で考え事をしていると落ち葉を踏みしめる音が聞こえた。だれかが森の奥深くにあるこの家を探し当てたのだとわかった。灰色の空に弱々しい太陽が輝き、小屋の入り口から中を照らしていた。やがて入り口に小さな影が覆いかぶさったので顔をあげてそちらを見た。少女が入り口の縁に片手をついて立っていた。

 まだ小さな子供だった。恐々《こわごわ》とした表情をして黒色に近い青色の服を着ていた。肌は不健康に白く唇も青ざめていた。それは寒さや飢えのためではなく不安のためであるように見えた。

 あなたが住んでいるの?

 少女は震える声で聞いた。両手を胸の前で組んで、首をすくめていた。

 ……人間で家ができているわ。

 積み上げられた白い人間たちを見上げながら小屋の周囲を歩いた。その後ろをついて歩いた。少女は振り返ると、驚いたように言った。

 よく見るとあなた……、顔に穴が開いているのね……。

 少女は心配そうな顔を近づけてきた。

 そのうち鳥が巣をつくりそうな大きな穴が顔に開いているのね……。奥が暗くてよく見えないわ。

 少女は顔のへこみが気になるようだった。

 あなたがみんなを連れ去っていってたの?

 少女は今にも気絶しそうなほど緊張していた。

 弟を連れ去った人は森の奥にいるって思っていたの。ねえ、弟を返して。私は弟を探しにここまできたの。

 少女は泣きそうな顔をすると、人間の積み上げられた壁を見た。白い色の死体が積み重なっていた。冷たい森、太陽の薄明かりの中、壁は燐光《りんこう》を放つように見えた。

 きっとこの中に弟はいると思うの。弟は、利発そうな顔をしたかわいい男の子よ。

 利発そうな顔の子供は小屋の内側奥の壁にはめ込まれていた。地面に直立して上にのしかかる死体を頭で支えていた。少女を小屋の中に案内すると、直立する少年の顔を見て、弟の名前を呼んだ。静かな森に声は響いた。少女が弟の死体の肩をつかんで引き抜こうとしたのでそれをやめさせた。その子供が抜けると、死体の家は崩れ落ちるにちがいなかった。

 でも、私はどうしても弟を家に戻したいの。

 少女は泣き出した。

 お父さんは私よりも弟が好きなの。だっていつも恐ろしい顔をして私をぶつわ。だから、お父さんは弟がいなくなってからとても悲しんでいるの。お父さんは、お母さんや弟といっしょにごはんを食べるのが楽しみだったのよ。お母さんは今、お仕事で外国に行っているけど、帰ってくるまでに弟をおうちに連れ帰ってあげたいの。ねえ、おねがいだから弟を返して。

 少女は枯れ葉の上に膝をついて懇願した。男の子を取り外すと小屋がつぶれるので少女の願いを断った。少女は泣きはらした目で言った。

 私が弟のかわりになるわ。

 男の子を壁の中から取り出すとき支えなければならなかった。その間に男の子の埋まっていた場所へすばやく少女が入り込んだ。壁の材料になっていた男の子は直立したままの格好で小屋の中に転がった。少女は弟の入っていた場所にぴたりと同じ格好をして収まった。服を着たままだったので白い死体の中でただひとつの色だった。

 お願い弟を家まで連れて行ってあげて……。

 少女は苦しげに言いながら、家までの道順を説明した。すぐに覚えることができた。

 覚えるのが早いのね……。

 死体の壁に埋まったまま少女は驚いた顔をした。男の子の死体を小屋の外に運び出し、家に返しにいくふりをして小屋を出た。男の子の死体は小屋から少し離れた場所に放置した。その脇に座り、膝を抱えて小屋の入り口を監視した。男の子を家へ返しにいく気はなかった。小屋を留守にしている間、少女は壁の中から抜け出して逃げるつもりだろうと考えていた。

 しばらく待ったが、少女は出てこなかった。一日が過ぎた。それだけの時間があれば、少女の家に行き、戻ってくることが可能だった。男の子を連れて行ったふりをして小屋に戻った。少女は壁に埋まったまま動いていなかった。

 ああ、弟を返してくれてありがとう。お父さんはきっと喜ぶわ。外国から帰ってきたお母さんも悲しまないですむわね。

 少女は嬉しそうに言うと涙をこぼした。白い死体の積み重なった壁に組み込まれた少女は、直立した格好をしたまま上に積み重なる死体を頭で支えていた。

 少女との生活が始まった。少女はおしゃべりだった。小屋の中は少女の声で満ちた。壁に並ぶ死体の顔はあいかわらず目を開けていた。壁の下に敷かれた死体は日を追うごとに形がつぶれていった。

 最初のうち少女は恐々と話をしていたがやがて笑うようになった。静かな森の、冷たく白い小屋の中で、少女の笑顔は光を放つように思えた。

 ねえ、顔の穴はなぜできたの?

 少女が問い掛けたので、伯母の家のことを話した。

 かわいそうに……。

 少女は同情しながら泣いた。少女もよく父親にたたかれて、そのときは馬小屋の中に逃げ込んだと語った。馬小屋の馬糞が臭いを発していたと、少女は顔をしかめて思い出していた。

 この家の臭いもすごいけど、馬小屋もすごいのよね。

 少女に物語を聞かせてすごした。伯母の家で読んだ本を忘れることはなかった。

 不思議な日々だった。それまでは小屋の中でひとり、目を開けて並んでいる顔の中心で膝を抱えるだけだった。そのときに感じた恐怖が今は薄らいでいた。音もなく静かに心が満ちていった。

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 少女は直立した状態で眠った。少女はしばらくすると口数が少なくなった。顔が白くなっていき、周りの死体と同じ色になっていった。寒さと飢えのために死ぬのだと思った。

 何かお話を聞かせてちょうだい。

 少女がそう言ったので記憶していた本を暗唱した。

 やがて目を開けた状態で少女は瞬《まばた》きするのをやめた。やさしげな笑みをうかべていた。

 少女は縦に縮んでいた。頭にかかる死体の重さに、少しずつ潰されていたのだと知った。弟の背丈よりもわずかに大きかったためだった。少女の顔色が冷たい白色になると小屋の中の色は少女の服の濃い青色だけになった。小屋の中で膝を抱えてじっとした。話し相手がいなくなったので、声は必要なくなった。人間の積み重なった家はまたもとのとおり静かになった。残念な気持ちになった。

 立ち上がると少女の家に行くことを決心した。まだ少女との約束を果たしていなかった。少女の弟を家まで運ばなくてはならなかった。

 男の子は小屋のそばに寝かせたままだった。外の陽の当たる場所だったため腐っていた。抱えようとすると柔らかく崩れた。少女も家に戻してあげたかった。少女が両親のことを深く愛していたからだった。

 少女を壁から抜き取ることをためらわなかった。少女の小さな肩をつかみ、引き抜くと、家がかしいだ。少女の死体を抱えて入り口を出た瞬間、死体を積み重ねて作った白い家は崩れた。壁になっていた人間も屋根になっていた人間も一斉に山になった。その衝撃で人間の体でなくなりすべてただひとつの巨大な塊になった。

 木の幹が無限に続く柱のような凍える冷たい森の中で静かに肉の山があった。家の材料にした旅人の持ち物で、両手に抱えるほどの大きさの木箱があった。果物が詰めてあったものだった。木箱の蓋には、果物が入っていることを示す文字の焼印がおされていた。それを探し出して少女の死体を中に入れた。腐った少年の体を少女といっしょに箱に詰めた。体を折り曲げた少女と箱のすき間に弟の体は流れて入り込んだ。蓋をして箱を抱えると家へ向かった。

 少女の家には、半日ほど歩けばついた。小さな村を通り抜けた先にある、丘の上の家だった。扉を叩いたがだれもいなかった。姉弟をつめた箱を玄関先に置いて立ち去ることにした。

 家を離れようとしているとき道の向こうから歩いてくる女に気づいた。女は大きな鞄を抱えていて、少女の家に向かって近づいてきた。外国に行っていた少女の母親が戻ってきたのだと気づいた。

 家の前に立ったまま女がくるのを待った。やがて女は家の前で立ち止まり、顔いっぱいの笑顔を浮かべた。

 ああ、神様。ありがとう。

 女は肩に手をまわした。

 生きてたのね。その顔、馬で蹴られたときのままだわ。うちからいなくなったと聞いて、心配していたのよ。

 女の髪の毛は赤毛だった。そうだわ。うちでまた働くといい。私、ひさしぶりに戻ってきたのよ。子供たちに会えるのが楽しみでならないの。女は扉の前の木箱を見下ろした。蓋を開けようとして、動きを止めた。

 臭うわね。このフルーツ、中身が腐ってるみたいだから肥料の山の中に捨てておいてくれない?

 女は箱を指差して言うと家に入った。箱を抱えて馬小屋の裏にある肥料の山へ向かった。子供のときに見たまま肥料の山はあった。少女と少年を馬糞の中に埋めた。馬小屋に入った。昔のままだった。壁に体を寄せて眠りについた。

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「ねえさん、やっと到着したんだね。電話した件のことを二人だけで話したいからおれの部屋へ来なよ」

 リュウジが自室の扉を開けて声をかけた。リュウジの部屋は離れにあり扉を開けるとそこは庭だった。夜の冷たい空気が部屋に流れ込んで室温を少し下げた。

 ミキがその扉から入ってきた。薄手のコートを羽織《はお》っており、十一月の冷たい空気の中を駅からこの家まで歩いてきたばかりのようだった。右手に持っていた旅行用の大きな赤いトランクを床に置いた。

「……まだこの家の母屋にも足を踏み入れていないのよ。休みたいわ。この家、丘の頂上に建っているんだもの。坂道を上るのに疲れて足がもう動かないくらいよ」

「大きなトランクだね。この古い家に引っ越しでもするつもりかい? かまわないよ、かあさんやとうさんも喜ぶさ。それとも夫の両親と住むのはいやかい?」

 ミキは床に置いた大きな荷物をつま先で軽く蹴った。

「イチロウさんの部屋に置いてからあなたの部屋を訪ねようと思っていたのよ」

 汚い動物を見るような目で彼女はリュウジを睨んだ。しかし左手は胸の前で握り締められていた。不安で心細くなった時の彼女の癖だった。リュウジは微笑んでミキをソファーに座らせた。

「話はすぐにすむよ。もう夜の九時だしね」リュウジがそう言ったとき時計の音が九回、鳴った。「おれはこの後、友人に会わないといけないんだ。ねえさんがこの家に来るのは二回目だっけ?」

「結婚式のときも入れたら三回目」

「にいさんは苦労かけてない?」

 リュウジは扉に近づいた。彼の体は小さいため歩幅が極端に小さかった。

「なぜ鍵をかけるの?」

「いつもの癖さ。この部屋とそっちの物置には大事な物が多いからね、いつも扉には鍵をかけるんだ」

「それにしても汚い部屋ね。台風が通過した後みたい」

 ミキは部屋を見回した。広い部屋だったが散らかっていた。床は板張りで衣類や雑誌の類いが散乱していた。錆の浮いたパイプベッドが隅にあり木製の机と椅子が置かれていた。机の上には古いタイプライターが載っており、その周囲にうずたかく本が積み上げられていた。

「ここで作品を作っているの?」

「まあ、そうだね」

 中央に革張りのソファーセットがあった。ソファーの背もたれにも脱ぎ散らかした衣類が引っかかっていた。ソファーではさむように低いテーブルがあり飲みかけのまま放置されたコーヒーカップが二つ載っていた。湯気は立っておらず冷めていた。

「あの扉が物置?」

 ミキはベッド脇の壁にある扉を指差した。

「そうだよ。使わないものを置いておくんだ。おれの本とか、にいさんの描いた絵とかも、全部そこさ。見てみるかい? 人が住めるくらい広い物置なんだぜ」

 ミキは首を振り遠慮するわと答えた。

 窓はひとつだけあるが閉まっていた。カーテンは開け放たれており夜の窓ガラスは大きな鏡となってミキの姿を反射していた。

「この木製のクローゼット、イチロウさんの部屋にあるものと同じもの? 両開きの扉に植物の彫刻、母屋にあるあの人の部屋で見た気がするけど」

「ひいばあちゃんがおれとにいさんにそろいのやつを買ってくれたんだ。このクローゼットにも鍵がかかるんだぜ。時々調子が悪くなるんだけどね」

「……でも、なんだか怖いわね。まるで巨大な黒色の箱みたいよ。フユミさんの部屋にもあるの?」

「いや。ひいばあちゃんはフユミが生まれたときにはもう死んでたから」

 この家には二人の息子と一人の娘がいた。そのうち次男のリュウジだけがこの家で両親とともに暮らしていた。彼は小説家だった。

「イチロウさんは今どこにいるの? 一日早くこの家に来たはずだけど」

「散歩に行くって言っていたよ。惜しいな、つい一時間前までこの部屋にいたんだけど、ねえさんと入れ違いになったね。おれが物置で本を読んでいる間にいなくなってたんだ。物置のほうがこの部屋よりも片付いてるもんだからさ、そっちで腰掛けて読書したほうが集中できるんだよな。いつにいさんがいなくなったかわからないもんだから、さっきまで部屋の鍵を閉め忘れてたんだ」

 リュウジは神経質そうに爪を噛みながら扉の錠が今は下りているのを確認した。ステレオの電源を入れて音楽をかけると彼はミキと向かい合わせに座った。木目調のスピーカーから音楽が流れはじめた。少しうるさいほどの音量だがリュウジは気にしなかった。部屋は離れにあるため音を出しすぎてもうるさがる人間はいなかった。ミキは躊躇するように空中へ視線をふらつかせてから口を開いた。

「それでリュウジさん、電話で話したことは本当なの? 栞《しおり》さんに会ったという話……」

「一ヶ月前、ある出版社からの仕事でインタビューを受けたんだ。そのときおれに取材をしたライターというのが彼女だった。その時はまだねえさんの昔の友達だなんて知らなかったけど。知り合って一週間くらいしてね、彼女がねえさんの大学時代の同級生だってわかった。親友だったんだって? でもそれがわかったときの彼女は、顔を青ざめさせていたよ」

 リュウジは顔色を探るようにミキの顔を眺めた。ミキは黙り込んだままだった。

「理由を聞こうとしたが彼女はしゃべらなかった。でもある日、知ったんだ。店で酒を飲んだときのことだった」

「酔っ払って何か言ってた?」

「店のテーブルに突っ伏してね、うなされるように交通事故の話をはじめたんだ」

 ミキは溜め息をついて立ち上がった。

「二人で車に乗っていたとき、中学生の乗っていた自転車を引っ掛けて転ばせたんだって? 安心しなよ、だれにも喋らないさ。その後で逃げただなんて」

「……その子が死んだなんて、そのときは思ってもいなかったのよ。軽い怪我だろうって思ってた」

「翌日の新聞でそのことを知ったとき、どう思ったんだい? 罪悪感が心をよぎった? それとも恐怖? 悔恨? それから今まで、警察に怯《おび》えながらねえさんはいったいどんな人生を送ってきたんだい?」

 リュウジはソファーから立ち上がりミキを見た。まるで宝を見つけた子供のような瞳をしていた。

「さあ、おれに教えてくれないか」

「イチロウさんに言うつもり?」

「馬鹿だな! わかってない! おれは作家なんだぜ!? これまでねえさんの抱えていた秘密と苦悩を、芸術に仕立て上げるのさ!」

 リュウジは手を鷲爪《わしづめ》のような形にして力を振り絞るように叫んだ。肩で息をした後、疲れたようにソファーへ座りなおした。

「……もちろん、返事はまたそのうちでいいさ」

 ミキはステレオのアンプに近寄るとボリュームをいじった。スピーカーから流れる音楽がさらに音量を増した。

「まだだれにも言ってないのでしょうね」

「本当はしゃべりたくてうずうずするよ」

「だれにも話してほしくないわね」

 ミキは棚に飾られていた石の灰皿を手にとった。ちょうど小説家を殴り殺すのに最適のサイズだった。リュウジはソファーに深く腰掛けたままミキに背中を向けていた。

「イチロウさんはこのことをまだ知らないのよね……」

「さあね。まあ、ああいう人だから、知ったとしても離婚はしないだろうけど。……そもそもにいさんのどこに惚れたんだい? ちょっと、頭がいかれてるぜ」

 ミキは灰皿をもとの場所へもどした。

「どういうところがいかれてるっていうの?」

「変質的なところさ。だからにいさんの描く絵は売れるんだろうがね。おれはにいさんの描いた絵が怖いんだ……。そっちの物置にある絵を見てみろよ……」

 ミキは物置へ続く扉の方向へ足先を向けた。そのときリュウジが笑った。

「人殺しと変質者の夫婦か……。傑作だね……」

「……その通りね」

 三分後。

 ミキの手から滑り落ちた灰皿が床に衝突し重い音をたてた。灰皿には血がついていた。ソファーに座ったまま背後から頭を殴打されたリュウジは重力に負け上半身を力なく前の方へ傾けていた。恐る恐る背後から肩をつかんで引くと彼はソファーの背に体重を預ける形でのけ反《ぞ》り喉仏をあらわにした。リュウジが事切れているのを確認すると荒くなった呼吸を落ち着けるようにミキは一度深く息を吸った。両てのひらを顔の前に広げ十本の指がふるえている様を不思議そうに見つめた。

 不意に扉がノックされた。殻を割るために卵をうちつけたような小さな響きだった。ミキは動きを止めて扉を見つめた。

「リュウジ、いないの? いるのでしょう? 音楽が部屋の外まで聞こえるわ。ねえ、編集部の方からお電話よ」

 この家の母の声だった。ミキは返事をせずスピーカーを振り返った。音楽は大きめの音で流れ続けていた。

「ねえ、開けるわよ」

 取っ手を回して扉を開けようとする気配があった。しかし今はもう死んだ部屋の主が錠を下ろしたままだったので開かなかった。母があきらめて帰るとミキは溜め息をついた。しかし表情は硬かった。ステレオの電源を切り両手を額にあてて首をふった。

「どうしてこんな……」

 死体を見る。

「こんなことって……!」

 大きな声を出すわけにはいかないためささやくようなかすれた声だった。

「とにかくここから運びださなくては……」

 しかしこの死体をどこに持って行けばいいのだろう。

「……いったんどこかへ隠そう」

 乱雑に物が置かれた部屋の中を見回した。脱ぎ散らかされた服が部屋中に落ちており足の踏み場を確保するため部屋の片隅へ寄せ集められていた。

 クローゼットの上でミキは視線を留めた。

「黒い木製のクローゼット……、小説家の死体を入れておくのにちょうどいい大きさね……」

 近寄り開けて中を見ようとした。しかし開かなかった。リュウジはクローゼットにも鍵をかけると言っていた。クローゼットの取っ手の下には金色の鍵穴があった。

 死体を探るとポケットにいくつかの鍵が入っていた。その中に金色で無骨な形をした古風な雰囲気のものがあった。

「きっとこれがクローゼットの鍵ね」

 彼女は鍵を鍵穴に差し込んで回した。

 十分後。

 ミキはリュウジの死体を隠し終えた。彼は小柄だったため、作業は容易だった。しかし隠し場所の中には衣類がぎっしりつめこまれていた。リュウジを中に隠すためにはその分のスペースを作らなければいけなかった。中に入っていた物を取り出し部屋の隅においやる作業が必要だった。

 部屋を出る際にミキは部屋の隅に積み上げられた衣類の山を振り返った。不安げに下唇を噛んで左手を胸の前で握り締めた。

 扉を閉めた。鍵をかける音が辺りに響いた。ミキはリュウジのポケットに入っていた鍵をすべて持ち去り、その中には部屋の鍵も入っていた。部屋には人間の入ったクローゼットだけが残された。

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 翌朝の食卓。

 ミキはテーブルについていた。窓から見える空は厚い雲に覆われ薄暗かった。そのせいでまだ夜明け前のようにも感じられた。照明をつけても部屋のすみずみまで充分に光はとどかずどんなに追い払ってもまとわりつく羽虫のように暗闇が立ちこめていた。

 昨日よりいっそう気温は低かった。ミキは肩を縮めて震わせた。屋敷が古いせいかどこかに風が忍び込む隙間ができているようだった。まわりを人が歩くたびに床板同士が歯ぎしりする耳障りな音をたてた。

「あ、おかあさん、私も手伝いましょうか」

「いいのよ、ミキさんは座ってなさい」

 ミキは言われたとおり椅子に腰掛けて運ばれてくる総菜を眺めた。

「ねえさん」

 呼ばれてミキは振り返った。声をかけたのは隣に座るフユミだった。

「ねえさん、きのう、なんじごろについたの? 全然、気づきませんでしたよ。ねえ、この家までの道、暗くて迷わなかった? 森が広がっているでしょう。外灯もろくにないし。まるで赤頭巾ちゃんになったような気分しなかった?」

 フユミはそう言うと唇の端をまげて笑みを浮かべた。彼女は不健康な青白い肌をしていたが唇だけは真っ赤だった。

「そうね、いつ狼が襲ってくるかと怖かったわよ」

「あら、ねえさん、童話で狼が襲い掛かってきた場所は、赤頭巾ちゃんの辿りついたおばあちゃんの家だったのよ。だから怖いのは森の中ではなくて、家の中よ」

「……そうね」

 フユミは運ばれてきた皿を細い指先でつついた。血がかよっているとはとても思えない病的な白さの指だった。

「ねえさん、カーディガンかなにか、持ってきましょうか。さきほどから見ていると寒そうな感じがするもの」

 ミキは薄手の服を着ているだけだった。

「でも悪いわよ。着替えがないというわけじゃないの、ただ油断していただけ」

「一晩でこんなに冷え込むとは思いませんでしたからね」

 フユミは年代物のストーブに目を向けた。一人では運べない巨大なもので鉄錆が浮いていた。表面にいくつかへこみの見られるやかんが載せられゆっくりと白い蒸気を出していた。窓には大量の水滴がついていた。フユミは溜め息をついた。

「……リュウジにいさん遅いですねえ。もうみんな集まっているというのに。私、起こしてきます」

 立ち上がろうとするフユミをミキは引き止めた。

「ここへ来る時に部屋をノックしたけど鍵をかけてまだ眠っているようだったからそっとしておいた方がいいのではないかしら。きっと昨晩、遅かったのよ」

 嘘を並べた。

「そういえば夜に友達に会うと言っていましたねえ。だから寝坊か。いえ、それともまだ帰っていないだけなのかしら。リュウジにいさんは部屋に鍵をかけてしまうから、いるのかいないのかいつもわからないのよね」

 次男不在のまま朝食は進められた。リュウジ以外は皆そろっていた。静かな食卓に居間の方から電話の鳴る音が聞こえてきた。母が立ち上がり食卓を立ったが数分で戻ってきた。

「かあさん、だれからだったの?」

 フユミが聞いた。

「リュウジのお友達からだったわ。どうして昨日の夜、来なかったのかって心配してた。まだリュウジは寝てるみたいって説明したら、また掛け直すって」

「結局、リュウジにいさん、遊びには行かなかったのね。事故にでもあったのかしら」フユミは興味がなさそうに食事を続けながらしゃべった。「今ごろ、死んでいたりしてねえ。交通事故かなんかで」

「そんな……」

 ミキは箸を止めた。フユミは首を傾げて彼女を見つめた。

「どうかした?」

「いえ……」

「ちょっと、あいつの部屋を覗いてくる」

「とうさん、いちいちそんなことする必要ないわよ」

 フユミはそう言ってこの家の父を引きとめようとしたが食卓の席はまた一人分空いた。

「覗いてくるって、おとうさん部屋の鍵はどうするのかしら?」

 ミキのつぶやきにフユミが答えた。

「とうさんはスペアキーを持っているはずよ。この家のすべての鍵のスペアはとうさんがまとめて保管しているから」

「そう……」

「あ、とうさんが戻ってきた。ねえ、リュウジにいさんはどうだった? いたの?」

「いなかったよ。物置まで見たが空っぽだった。それにあいかわらず散らかっていた。服が部屋の隅に積み上げられていたんだ。せっかくクローゼットがあるのだから片付ければいいのに」

 二時間後。

 ミキはリュウジの部屋へ入り扉に鍵をかけた。内側からなら鍵を使わなくとも錠を下ろすことができた。辺りを見回した。昨夜、部屋を出た時と変化はなかった。あいかわらず部屋は散らかっていた。

 死体の座っていたソファーに近付いた。額に指をあててこれは悪夢なのだと自分に言い聞かせるように目を閉じた。深く呼吸して目を開けるとソファーのまわりを子細に調べた。

 テーブルの上に血が点々とついていた。父は部屋に入ったときこれに気づかなかったらしかった。他に血の跡はなかった。リュウジの流血は意外に少なかった。爪でこすると乾いた血の点のひとつが取れた。続けてほかの血の跡もこすりとろうとしたとき、扉がノックされた。

「ねえさん、ここにいるの? 部屋に入るところ見ましたよ。私も中に入れてほしいの」

 フユミの声だった。ミキは逡巡《しゅんじゅん》した後、近くに落ちていたリュウジのシャツを拾うとテーブルの赤い斑点にかぶせた。これでひとまず覆い隠すことができた。扉の鍵を開けるとフユミが入ってきた。彼女は室内を見回した。

「一人なのね。リュウジにいさんがもうもどっているのかと思った。ねえさん、この部屋に何か用事?」

「……イチロウさんがリュウジさんの本を読みたいと言っていたから借りようと思って」

「ふうん。イチロウにいさんは?」

「散歩だそうよ。お昼にはもどると言っていたけど」

 ミキはリュウジの本が置いてある物置への扉に向かった。フユミに嘘を怪しむ様子はなかった。

「イチロウにいさん、あなたのことをよく話して聞かせてくれます。あまり詳しく聞かされたから、結婚前にはじめてねえさんの顔を見た時、初対面とは思えませんでした」

「なんだか恥ずかしいわ」

「実家が大変なお金持ちだそうですね。お父様が医者だなんてうらやましい」

「そんなでもないのよ。普通の町医者よ。家も普通」

「イチロウにいさんは綺麗好きだから、家の掃除なんかが大変でしょう。対照的にリュウジにいさんの方は部屋がこれなの。だから結婚できないんだわ。せっかくだから片付けてあげよう」

 フユミは部屋の隅に積み上げられた大量の衣類を可能なかぎり多く腕にだきかかえクローゼットの前に運んだ。

「待って、フユミさん!」

 ミキが物置を出てきて声をかけた。フユミに追いつくと彼女のかかえていた衣類を取り上げた。

「ねえさん、どうしたの。クローゼットに押し込んでおけば、ずいぶん見栄えがすると思うんだけど……」

「でも、それ、開かないの。クローゼットの鍵、壊れているのよ。いえ、鍵がかかっていて開かないのね、きっと」

 声が上ずった。フユミがわずかに眉をひそめ、クローゼットの取っ手に生白い指をかけた。

「本当だ、ねえさんの言うとおり開かない。きっと鍵はリュウジにいさんが持ったまま出かけてしまっているのねえ。せっかく片付けてあげようと思ったのに」

 そう言うとフユミは、テーブルに置いていたリュウジのシャツをつまみあげ部屋の隅に放りなげた。

「こんなところにまで脱ぎ散らかしているんだから、まったく」

 テーブル上の赤い斑点が露《あらわ》になった。

「ねえさん、どうしたの。気分が悪そう」

 フユミは血の跡に気付いていなかった。彼女から取りあげた衣類をミキは再び部屋の隅へ運んだ。

「なんでもないわよ、さあ、部屋を出ましょう」

 そう言ってフユミが血の斑点に気づかないうちに二人で部屋を出た。十分後に戻ってきて血の跡などの処理をした。ついでに物置に入り、本を一冊、持ち出した。

 時計が正午の鐘を鳴らすと同時に食卓の席へミキが現れた。彼女とリュウジ以外の人間はすでに食卓に集まっていた。

 ミキは食卓で顔を寄せ合い話し合っている母とフユミを見て立ち止まった。

「どうかしたんですか?」

「ねえさん、これを見て。おかしな手紙が郵便受けに入っていたの」

 ミキはテーブルに近づき、フユミの差し出す白い紙を受け取った。紙を読んだミキは顔を青ざめさせた。

「白い紙に文字がタイプされているの。『オギシマリュウジ ハ コロサレタ ジブン ノ ヘヤ デ ナグラレタ』って」

 フユミは腕組みをして立ち上がった。

「一体だれが書いたのかしら。ねえかあさん、リュウジにいさんのいないことを家族以外のだれかに話した? この手紙を郵便受けに入れた人間は、この家を見張っているのかしら。それにしても『コロサレタ』だなんて物騒ね」

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