ミキは気持ち悪そうに紙をテーブルへ置いた。
「……気味が悪いわね」
ミキの肩にフユミが死人のような白い手を載せた。その瞬間、ミキは氷を首筋へ当てられたように肩を震わせた。
「この手紙、切手がはってないの。だれかが直接郵便受けへ入れたみたいね。にいさんが部屋で殺された……、まあリュウジにいさんの部屋は一階の離れにあったから、私たち家族に覚《さと》られず犯人は部屋に入ることは可能だったでしょうねえ。ところでねえさん、後で話をしましょう。二人だけで。場所はどこでもいいけど、そう、ねえさんの部屋にしましょう。つまりイチロウにいさんの部屋のことですけど。一時間後に、いいですか」
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一時間後。
フユミは部屋に入ってくると部屋を見回した。
「イチロウにいさんの部屋、久し振りに入りました。ここにもリュウジにいさんの部屋にあるのと同じ、大きな黒い木製のクローゼットがあるんですね。子供のころ、なんで私にはないのかってずっとうらやましかったんですよ」
「散らかっていてごめんなさい」
衣類や旅行用のトランクなどが部屋の隅に集められていた。
「リュウジにいさんの部屋に比べたらここは綺麗なもんよ。気にしないで」
フユミは部屋に飾られている絵をしばらく眺めていたが、やがて机の椅子をひいて腰掛けた。ポケットからさきほど食卓で見せた白い紙を取り出した。
「この手紙を書いた人、本気なんでしょうかねえ。リュウジにいさんが殺されただなんて……」
「……その手紙、本当に郵便受けにあったの?」
「……私が書いたとでも?」
「いえ、そうじゃないけど……」
「本当に郵便受けに入れられていたの。私が見つけたのよ。それよりもおもしろい話があるんです。昨晩、編集部からリュウジにいさんあてに電話があって、かあさんが昨日の夜九時すぎにあの部屋をノックしたらしいの。鍵がかかっていてだれも出てくる気配はなかった。でも、音楽が部屋の中で流れていたんだそうよ。どう思う?」
「どう思うって、何が……?」
「手紙には『自分の部屋で殴られた』って書いてありますよね。私はこう思うの。かあさんが部屋を訪ねたとき、部屋の中にリュウジにいさんはいたんじゃないかって。別に確信なんてないわ。でも、外出するときに音楽をつけっぱなしにするかしら?」
フユミは椅子から立ち上がり室内を歩き回った。
「もしもあの手紙が本当だとするなら、犯人はリュウジにいさんを殺した後、その死体をかついで音楽を止めずに部屋を出て行ったのかしら。イチロウにいさんは昨日の夜八時までリュウジにいさんの部屋にいたんですって。少し話をして部屋を出たそうです。私の調べた限りではリュウジにいさんの顔を見たのは、イチロウにいさんが最後のようです」
「あの人が犯人だと言いたいの?」
「いいえ。ただ、リュウジにいさんはいつも扉の鍵を閉めていたことが気になったんです。突然やって来て部屋へ押し入り殺すことは容易ではないでしょう。まず最初に部屋へ入るため扉の鍵を壊すか打ち破るかしないといけない。でもイチロウにいさんの話では、黙って出てきたから、自分が追出した後、リュウジにいさんが扉に鍵をかけたかどうかわからないんですって。イチロウにいさんがあの部屋を出てきた夜八時から、かあさんが部屋を訪ねた夜九時すぎまでのしばらくの間、あの部屋には鍵がかかってなかったかもしれないんです。これならかんたんに人が出入りできるでしょう。そういえばねえさん、午前中にリュウジにいさんの部屋にいましたよね。たしかイチロウにいさんが小説を読みたがっていたとかで本を探しに来ていました。私といっしょにそのときは出てきてしまって、十分後くらいに本のことを思い出してまた部屋に戻りましたよね」
ミキは頷いた。そのときにテーブルの血の跡などの処理をした。
「物置から持ってきた本、今どこにあるの。ねえさんが何を選んだのか気になります。リュウジにいさんの本、おもしろいのとつまらないのとがあるから」
「あの本は、ええと、一体どこに置いただろう……」
「どうしたの? ないの?」
「いえ、本当に持ってきたのよ。そう、たしかクローゼットの中に入れたんだわ……」
クローゼットに近付きポケットを探った。リュウジの部屋のものと同じ古い家具にはやはり鍵がかかるようになっていた。金色の古風な鍵を取り出すと鍵穴に差し込み回した。
「どうしました?」
いつまでもクローゼットの扉を開けないのでフユミが尋ねた。
「いいえ、ちょっと、このクローゼットの鍵、壊れているみたいなの。鍵が開いたはずなのに扉が動かないの」
取っ手に指をかけ引っ張って見せたが開かなかった。
「もしかして……」
フユミは言いかけて口を閉ざした。目を見開いてまるで忌《い》まわしい殺人の光景を目の当たりにしたような顔をした。
「どうかしたの?」
「別に……」
フユミは立ち上がるとミキを避けるように部屋を出て行った。その夜もミキにリュウジの死体を処理する余裕はなかった。
リュウジが死んで二日後の朝、朝食の席には家にいるほとんどの者が集まっていた。ミキはその席で二通目の手紙が郵便受けで発見されたという話をフユミの口から聞いた。差出人の名前はなく昨日の手紙と同様に直接郵便受けに入れられたものだった。
『リュウジ ハ ハイザラ デ コロサレタ』
手紙にはタイプライターでそう印字されていた。
食事を終えたミキは自室へもどるために夫婦で並んで廊下を歩いていた。途中でフユミが双眼鏡を持って二階の廊下に立っているのを見つけた。彼女は窓から何かを観察しているようだった。
「なにを見ているの」
ミキは興味を示して近付いた。フユミは唇に人差し指をあて静かにするようにと伝えた。
「今、あの手紙の送り主を探しています。きっとこの家をどこか近くから見張っているはずです」
彼女は真面目な顔をして、双眼鏡から目を離さずに答えた。
窓の外には、今にも雨が降り出しそうな雲と、くすんだ色の森の木々が広がっていた。肌に刺さる冷たい風がミキの長い髪を揺らした。寒さで赤くなった鼻の下をこすり泣き出しそうな目をした。
「フユミさんはあの手紙を本気にしているのね」
「完全に信じているわけではありませんけどね。円グラフに示した場合、一二〇度くらいは」
「でも、あの手紙を書いた人は、なぜ部屋でリュウジさんが殺されただなんてことを知っているのかしら。凶器に灰皿が使われていたってことまで……」
「リュウジにいさんの部屋に窓があるでしょう。きっとそこから中が見えていたんです。手紙の送り主が暗い森を歩いていると、明るい窓が見えた。そこは丘の上に建つ古い屋敷の離れの窓だった。ぼんやりそこを見ていると灰皿で殴り殺される男が見えた……。私にはそういった一連の光景が目に見えるの。ところでねえさん、時々、嫌な視線を感じたりすることはありませんか? 何か、見張られているような……」
「視線?」
ミキは首を横に振った。
「そう……。じゃあ、きっと気のせいなのでしょうね」
「……フユミさん、私、こう思うの。あの手紙を書いた人物は、この家にいるだれかなのじゃないかって……」
「この家にいるだれか……」
「そう。そして手紙の送り主こそリュウジさんを殺したのではないかと思うの。もちろんリュウジさんが殺されていると仮定しての話だけど」
フユミは笑った。
「ねえさんとはうまくやっていけそうな気がする。でも真犯人がどうして自分の罪を暴くような手紙を送り付けたりするの。それにねえさんの考えではこの家の中にリュウジにいさんを殺した人物がいるということよ」
ミキは困り果てたように黙った。どうやって説明しようか、迷っているようにも見えた。置かれている状況は、とても現実的ではなかった。白い額に汗が一粒にじみ出た。
「ねえさん、私は手紙の送り主がだれだかわかりませんが、リュウジにいさんを殺した犯人には心当たりがあるのよ」フユミはミキに顔を近付けてほほ笑んだ。「わかるでしょう?」
昼食。
食卓に皆が集まったところで手紙の話題が出た。
「気味が悪いから警察を呼ぼうと思うの」
「警察なんて大袈裟《おおげさ》よかあさん。まだ死体が出たわけじゃないってのに」
「でもリュウジが殺されたなんて……。明日の朝、また手紙が屈いたら警察を呼びましょう」
「そういえばとうさん、この家の全部のスペアキーを保管しているのはとうさんでしたよねえ。リュウジにいさんの部屋のクローゼットのスペアキーも持っているの?」
フユミはそう質問すると、横目でミキをちらりと見て唇の端をあげた。
「いや、クローゼットのスペアキーは存在しないよ。そうだ、ついでだから言っておこう。フユミは一人暮らしをはじめたから知らないだろうが、他の部屋のスペアキーも半年前に全部なくしてしまったんだ」
ミキはひそかに驚いた顔をして横から質問した。
「じゃあリュウジさんの部屋の鍵もですか?」
「ああ。スペアキーはない。不注意で紛失してしまった」
「昨日の朝、スペアキーもないのにどうやってリュウジさんが部屋の中にいないことを知ったんですか?」
「あの朝、リュウジの部屋に鍵はかかっていなかったんだよ。だから中に入って確認することができたんだ」
しばらくの間、ミキはだまって食事を続けた。食事を終えた後でフユミに言った。
「フユミさん、後で話があるの。二時にリュウジさんの部屋で、二人きりで。いいかしら」
フユミが挑むようにうなずいた。
「私もねえさんに重要な話があるからちょうどいいわよ」
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一時五十八分。
約束の時間の二分前にミキは離れにあるリュウジの部屋へ入ってきた。部屋で殺人のあった夜と同じようにソファーへ腰掛けた。クローゼットの方に時折、視線を送った。十一月の気温は低く暖房をつけないでいるため呼吸するたびに息が白くなった。
二時にフユミが現れた。後ろに緑色の制服を着た男が二人つきそっていた。彼等を見てミキはたじろいだ。
「そちらの方々はどなたですか」
「この二人は私の後輩です。引っ越し屋さんでバイトをしているの。今日、大型のゴミを運びだしたいと説明したら駆け付けてくれたんです」
「大型ゴミ?」
フユミがうなずくと男のうちの一人が、クローゼットに近付いてきた。腕を広げて幅を測り始めた。もう一人の男がクローゼットを指差してフユミに何か聞いた。
「ええ、そう、これのことよ。これを荷台まで運んでちょうだい」
「何をするの?」
フユミは青白い顔に不敵な微笑を浮かべた。
「家の前に借りてきた軽トラックが止めてあります。そこへ積んでくれるよう頼んだの」
二人の男が両脇から持ち上げた。男の一人がフユミに何かを言った。
「え? このクローゼット、やけに重いですって? まるで人でも入っているように重い? ええ、そうね。そうでしょうね。大事に扱ってくださいよ。乱暴にしないこと。横に倒したり、さかさまにしてはいけないのよ」
クローゼットが運ばれる。二人の女はその後をついて来た。
「ようするに私はこう言いたいの。ねえさん、あなたがつまり犯人ね。私が何のことを言っているのかわかるでしょう」
「誤解よ!」
「いいえ、全部正直に話して」
リュウジの部屋は離れにあったのでクローゼットが扉を抜けるとそこはもう庭だった。離れの前にある空間に軽トラックが駐車されていた。
「車に積んだ後、これをどこに持っていくの?」
「警察署の前で放置する、というのはどう?」
クローゼットが一度、大きくゆれた。
「気をつけて運んでください!」
ミキは咄嗟《とっさ》に大きな声を出した。
「ねえさん、昨日、イチロウにいさんの部屋で話をした時のことを覚えていますか。ねえさんがクローゼットを開けようとしたとき、扉が開きませんでしたね。なぜだかわかりますか」
「あなたはなぜだと思っているの」
「ねえさんはあの時、鍵が壊れていて開かないと言いましたよね」
「今朝、調べてみた時、鍵は壊れていたわ。留め金のネジごと外れていたもの」
ミキは弁解するように言ったが、フユミは鼻で笑い飛ばした。
「でも、きっとあの時は壊れていませんでした。今朝、鍵が壊れていたというのは、自分の間違いに気づいたねえさんが、言ったことを本当の出来事にするため実際に壊したのよ」
「自分の間違いですって?」
「自分で気付いていないわけはないでしょう。あの時、ねえさんが鍵穴に差したのは、イチロウにいさんの部屋にあるクローゼットの鍵ではなかったのよ。リュウジにいさんの部屋のものだったのでしょう? それぞれの部屋にあるクローゼットはまったく同じもので、鍵も同じ古風な金色のものだった。私は子供の頃、それぞれのにいさんに見せてもらったから知っているんです。でも、外見が似通ってはいても実際には鍵の形が一致する錠前以外は開けることができないの」
問題になっている年代物の家具は二人の男によって軽トラックの上に載せられようとしていた。ミキとフユミは持ち上げられたクローゼットの前で向かい合っていた。
「あの時ねえさんは二つの鍵を取り違えているのに気付かないまま、リュウジにいさんのクローゼットの鍵で、イチロウにいさんの部屋のクローゼットを開けようとしたのね。あのとき、クローゼットが開かないのを見て、私はぼんやりとそんな考えを抱いたの。きっと読んだ手紙の内容がそんな連想をさせたのね。私はその後、どうしてねえさんが、リュウジにいさんの部屋にあるクローゼットの鍵を持っていたのか、という疑問を抱いたの。その結果、恐ろしい想像をしたのよ」
男二人がロープでクローゼットをトラックに固定した。
「……ねえさんはリュウジにいさんの部屋にあったこの家具の中にあるものを隠した。そしてだれにも発見されないように鍵を閉め、リュウジにいさんの部屋の鍵とクローゼットの鍵を持ち出して自分のポケットに入れていたの」
フユミは二人の男を振り返った。
「ありがとう、助かりました。後は私がやりますから」
フユミが礼を言うと男二人は頭を下げて無言で立ち去った。クローゼットの前にいるのはフユミとミキだけになった。
「これで、私とねえさん、二人だけになりましたね」
フユミは腕組みをして言った。ミキは首を横に振った。
「……いいえ、三人よ」
フユミは虚を突かれたように一瞬ひるんだがすぐに不敵な笑みを浮かべた。
「やっぱりあなたはリュウジにいさんを殺したのね。そして死体をこの中に隠した。処理をする時間ができるまで死体はあの部屋に残すことにしたのね」
「違う! 誤解よ! 一昨日の夜、私がリュウジさんの部屋へ行ったのは認める。でもあの人を殺してはいないの」
「信じられないわよ」
「ああもう! 本当にどうしてこんなことになったのかしら! 犯人はあの夜、見つからずに逃げおおせたの! そして私が一番、疑われやすい立場にたたされていたの! だから、リュウジさんの死体を私は隠すしかなかったのよ!」
ミキはそう叫んだ。
「私はあの夜、過去のことでリュウジさんに呼び出されていたの。少し大きめの音楽がかかっていて、私は三分間ほど物置に入っていたの。物置にイチロウさんの絵が置いてあるって聞いたから。その後、物置から出てきてソファーやクローゼットのある部屋へもどってきたらリュウジさんが頭を殴られて死んでいたの」
「……手紙の通り灰皿で?」
「そうよ。血のついた灰皿がテーブルの上に置かれていたの。私はついそれを手にとって、指紋をつけてしまった。手から滑った灰皿が床に落ちて大きな音をたてたわ……」
「物置へ行っている間に殺されたって言うの?」
「音楽がいろいろな音を消してしまっていたの。だから私は気づかなかった。私が死体を前にどうしようか迷っているとおかあさんが部屋をノックして扉を開けようとしたの。でも扉には鍵がかかっていて開かなかった」
「部屋の出入りはできなかったの? もしねえさんの話を信じるなら……まだ全然私には信じられないけれど……それでもねえさんの話が本当だったとしたら、犯人はリュウジにいさんの部屋の鍵を持っている人物になりますよね……。ねえさんが物置に行っている間、こっそり鍵を開けて部屋に入る。にいさんを灰皿で殴り部屋を出る。そして、また外から鍵をかける。それのできる人物が犯人だから」
「でも部屋の鍵はリュウジさんのポケットの中にあった。つまり、犯人はスペアキーを持っている人だと、最初、私は考えたの。部屋の中で死体といっしょに取り残されて私は犯人を恨んだわよ。でも警察には行きたくなかった……」
ミキは口をつぐんだ。フユミは首を傾げた。
「それはなぜ? ねえさんの話が本当なら、正直に警察へ言えばよかったのに」
ミキは顔を手で覆った。
「罰なのよ。いまさら警察になんて言えないわ。そして私は苦しむしかないの……。これはきっと神様が私に与えた罰なんだ。神様がリュウジさんを殺して、そして私を苦しめるためにあんな手紙を……」
「ねえさん? 大丈夫?」
「……ごめんなさい、なんでもないの……。いつか、きっと理由を話すから……」
嗚咽まじりにミキは言った。彼女の目は赤くなっていた。それでも気丈にフユミを見た。
「……話を戻しましょう。スペアキーを持っていると聞いて、私は最初におとうさんを疑ったの」
「とうさんを? ……確かにそうね。私がねえさんに、とうさんがスペアキーを持っているって言ったんだものね。でも、とうさんは半年前にスペアキーをなくしていた。犯人として疑われないようにそういう嘘をついている可能性もあるのかな? でも、とにかく犯人はなんとかしてスペアキーを入手していたのね」
「でも、そう考えると、腑に落ちない部分が出てくる。昨日の朝、いつまでもリュウジさんが現れないので、おとうさんは部屋へ呼びに行ったわよね。私はその前夜、部屋を出た後にリュウジさんのポケットにあった鍵を使って扉の錠をおろしていた。だからおとうさんはスペアキーを持っていなければ扉を開けて中の様子を知ることができないはずなの。当然、今朝まではそうしていたんだと思っていたわ。でも、おとうさんはスペアキーをなくしていた……。昨日の朝、リュウジさんの部屋に鍵はかかっていなかったって答えたの。私は確かに鍵をかけたはずなのに、翌朝になると鍵はかかっていなかった……」
「とうさんが実はスペアキーを持っていたとして……、いえ、とうさんでなくても、どうして夜中のうちに鍵を開けておく必要があったの? 夜中にリュウジにいさんの部屋へ入り殺人を行なった証拠でも湮滅《いんめつ》していたのでしょうか? そして鍵をかけ忘れて帰った……」
「もっと簡単な解答がある。つまりスペアキーは最初からなかった。おとうさんがなくしたまま、今もどこか誰も知らない場所にあるの。犯人はスペアキーなんて持っていなかったんだわ」
「え?」
「私がリュウジさんに呼ばれた時、犯人はその場にいたの。同じ部屋にね。そして私が物置へ行ったのを見計らいリュウジさんを殺害。部屋を出ることなくまた同じ部屋の中で息を潜め隠れた。ただそれだけのことだったのよ」
「犯人はそのまま部屋に残ってねえさんが出て行くのを待っていたって言うの……?」
「そうよ。私が部屋を出る時、リュウジさんの持っていた鍵で扉の鍵を閉めた。でも犯人には部屋を出た後で鍵を閉める方法はない。だから扉の鍵は開いたままになっていたわけ」
「で、でも……、犯人はリュウジにいさんの部屋のどこに隠れていたの?」
ミキは無言で視線をクローゼットに向けた。フユミは最初、訳がわからないといった顔をしていたが、やがて気づいたように声をだした。
「え、そんな!」
「あの部屋に人が隠れられそうな場所はあれだけだった。あの中に隠れていて、私が物置に入ったと同時に中から出てくる。棚の灰皿をつかみリュウジさんに殴りかかる。その後でまたあの中に戻る。それが行なわれたのよ」
「……あの中にリュウジにいさんの死体を隠したのかと思っていました」
「最初そうしようかと思った。でも、どうしても扉が開かなかったの。鍵を差して回しても、なにかが引っ掛かっているように開かないの。最初は鍵が壊れているのかと思った。リュウジさんも、時々、鍵の調子が悪くなると言っていたから。つまり、鍵をひねっても解錠されないという意味で調子が悪いのだと思い違いをしたの。でもきっと、鍵をひねっても施錠されないという意味で調子が悪かったのだわ。恐らくあの夜、何者かが扉が開かれないようにクローゼットの中から固定していたのよ。私は鍵が開かないからその中に死体を隠すのをあきらめたの。そこで辺りを見回すと私の持ってきた旅行用のトランクが目に入った。リュウジさんは小柄だったから、その中に隠せそうだって咄嗟に思いついたの」
「凶器もいっしょにトランクの中に?」
「私の指紋が付いていたからね。でも、旅行用のトランクには衣類がつまっていて死体を入れるスペースはなかった。だからトランクの中に入っていた服を死体と引き換えにあの部屋へ残していくことにしたの」
「その服は、ねえさんの服ですよね。女物の」
「そう、だから見つかるといけなかった。不審に思われてしまうでしょう。辺りを見回すと部屋の隅に衣類の積み上げられた山ができていたの。ちょうどいいと思って私はその中に、自分の服を押し込んで隠したの。皆が眠ってから取りに行くつもりだった。でもその夜のうちにそうすることができなかったわけ」
「だから次の日の朝、寒いのに薄手の服を着ていたのね。着替えがなかったんだ。そしてその後リュウジにいさんの部屋にいたのは本を取りに行ったのではなく服を回収するためだった。私が散らかっている服をクローゼットに入れようとしたとき、ねえさんはあわてて私の持っていた服を取り上げたわよね。私はその時、ねえさんの挙動が少し引っ掛かったの。ねえさんがあわてたのは、私の持っていた服が女物の、つまりねえさんの服だったからね?」
「あなたのかかえていた服の中から私のブラジャーが垂れ下がって揺れていたのよ」
「犯人はいったいだれなの?」
「わからない。あの日、イチロウさんが部屋を出た後に私が訪ねていくまで、部屋の鍵はしばらくの間、開いた状態だったみたいだから、その間にだれでもこの中にひそむことができたかもしれない」
「待って。ねえ、ちょっと待って。私とねえさんがイチロウにいさんの部屋で話をした時、ねえさんは二つのクローゼットの鍵を取り違えなかったの?」
ミキはうなずいた。
「だから鍵が壊れていると思ったの。でも実際は壊れていなかった。そのときもその人物は、内側に隠れて扉を固定していたのね。私は鍵を間違えず鍵穴に差し込んで捻《ひね》った。もちろん開けようとしてそうしたんだけど、実際にはそれで鍵が閉まっていたんだと思うの。入っていた人間は閉じ込められて、鍵を壊して出るしかなかった。いつのまにかイチロウさんのクローゼットの鍵が壊れていたのはきっとそういうわけだったのよ。犯人はいつもクローゼットに隠れて私とあなたの会話を聞いていたの……。ほら、クローゼットの両開きの扉の間に細くすき間があるでしょう? そこに片目を押し当てて、ずっとその人物は見ていたのよ」
フユミは何かに気づいたような顔をした。
「そう、そういうことなのね。その人物はねえさんがそのことに気付いていると知らないはず。だから今日、ねえさんは皆の前で私に話があると持ち掛けた。時間と場所を指定して」
「そうすればきっとその人物がクローゼットの中にひそむと考えたから」
ミキは家具をてのひらでたたいた。
「今、この中に入っているのは死体ではなくその人物なの。私とフユミさんの話を盗み聞きしようとしたその人物が入っているはずよ」
コツン、とフユミがクローゼットをたたいた。
「本当に中にいるの? いるのなら返事をしなさい。内側からノックを返すのでもいいわ」
フユミとミキが腕組みをして、軽トラックの荷台に固定されたクローゼットを見上げた。数秒間、辺りは静まり返った。
コツン、とクローゼットから出た音が響いた。二人は顔を見合わせた。
「今のはクローゼットの中から聞こえてきたわよね。だれか中に入っていて内側から叩いた音だった」
フユミが驚いたように言った。
「あなたがリュウジさんを殺したの? 肯定なら二回、否定なら一回、クローゼットの扉をたたいて」とミキが問いかけた。
ノックの返事が二回。肯定の意味。
「あなたが手紙の送り主?」とフユミ。
肯定。
「あの手紙を書いて死体があることを発見させ私を犯人にしたてあげようとしたの?」とミキ。
否定。
「殺人は計画的な犯行だったの?」とフユミ。
否定。
「……私の過去のことが原因?」つらそうにミキが言った。
肯定。
「リュウジさんがしゃべっていたの?」ミキ。
肯定。
「私の秘密を知ったリュウジさんを殺して、そしてさらに私へ罰を与えたの?」さらにミキが問いかけた。
肯定。
「開けて中を確認しましょう」
フユミがそう言ってそろそろと扉を開けると、汗だくになりながらクローゼットの隙間から目を凝らしていたぼくと目があった。妹と妻の顔は血の気が失せて死んだ人間のような顔色になった。
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神の言葉
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僕の母は頭のいい人である。少女時代から難解な本を読んで育ち後に有名大学へ入学した。人間性も良く積極的にボランティアへ参加して地域の住人にも慕われている。背筋をすっと伸ばしたそのたたずまいはまるで冬の湖に鶴がそっと立っているようである。ほこりのついていない透明な眼鏡の奥から知性のこもった瞳でものを見る。
ただ一つ欠点があるとすれば母にはペットの猫とサボテンの区別がつかないことである。そのせいでしばらく前、彼女は我が家で飼っていた猫を両手でわしづかみにして植木鉢に押し込み上から土をかぶせて水をふりかけてしまった。そしてサボテンを猫であると思い込み顔をすりよせるため頬は傷だらけになり血がにじんでしまった。
父と弟は、母の奇妙な行動に顔をしかめてその理由を彼女に尋ねた。しかし聡明な母は身動きしないサボテンの前に猫用の缶詰を空けて家族の言うことに耳をかさないのである。
それはすべて僕のせいであり悪いことをしてしまったと後悔している。
小さなころから「おまえの声は本当に美しい」と言われて育った。お盆や正月に母の実家へ行くと普段はめったに会わない親戚たちが僕を取り囲む。人付き合いの上手《うま》い方ではなかったが酒を飲んだ叔父等の話に笑って相槌《あいづち》を打ち、よく聞き取れない訛《なま》りもすんなり理解したように見せかける。
「おまえは本当に愛想のいい子じゃね」
伯母にそう言われると僕はしおらしく微笑んでみせる。しかし実際はそのようなものではなく心の中は常に無愛想で乾いていた。ただ見せかけていただけなのだ。親戚たちの話に心を動かされたことはなく一時も楽しい気分になったことはない。それどころか退屈で常に逃げ出したい気分であった。しかしそうすることで起こる「僕」という株の暴落を恐れて取り囲む親戚たちから逃げるのが怖かった。心ではそう思っていなくとも話を聞いているふりをして愛想のあるような言葉を延々と返しつづけなくてはいけなかった。
そのような時、心の中を自分自身に対する嫌悪感が支配した。ただ良く見られたいというだけで空虚な笑みを浮かべる自分を浅ましいと感じた。
「あなたの声、透き通っていて、まるで音楽のようだわ」
そう親戚の姉さんにも言われた。しかし僕の耳に聞こえる自分自身の声は醜くゆがみ人間のふりをした動物が声真似をしているような響きであった。
自覚した上ではじめて声の力を使ったのは小学一年生の時である。当時、授業でアサガオを育てており、校舎脇のコンクリートにみんなの植木鉢が並んでいた。僕のアサガオは大きく育ち緑色の蔓《つる》はしっかりと添え木に巻き付いて空を目指していた。広い葉は産毛に朝露をつけて日光を受けとめ薄くやわらかい花びらは半透明の赤紫色に染まっていた。
しかし自分の育てたアサガオはクラスでもっとも良いものではなくさらに大きく美しいアサガオが他にあった。
僕の三つ前の席に足の速い男の子が座っていて名前をユウイチといった。彼は活発ではきはきと喋り会話をするとき目まぐるしく変わる表情が特徴的であった。しばしば彼と話をしたが話の内容よりもむしろその表情の変化が僕の興味をかきたてた。彼はクラスで人気のある子供であったがその秘密は表情にあると思われた。彼と対峙した時、僕はいつも観察するような目でその顔を眺めた。もちろん自分も彼のように弾けて回転するような表情の変化を体得したいと思ったからである。
しかし彼は僕のように可愛い子供に見られたいという気持ちから意図的にそのような表情をしているのではないようであった。そのことが僕には、自分自身の暗さと人間の小ささを証明されたようで悔しかった。当時、自分では気づいていなかったが劣等感を人知れずユウイチに対して抱いていた。
僕は親しく話しかけてくるユウイチにおどけた答えを返していつもクラスの笑いを誘っていた。彼はそれを気に入りことあるごとに「なあ、なあ」と話しかけてくるようになった。しかし僕は彼のことを友人だと感じたことはなく、ただ作った笑みを浮かべかけられた言葉に意表をついた返事をしているだけなのだ。
そんなユウイチのアサガオがクラスでもっとも大きく美しいものであった。何かあると先生は彼の花を誉めそんな時に僕は例の浅ましい気持ちになった。体の中に住んでいる薄汚い動物が皮膚を突き破って叫びだしそうな気分になるのである。その動物とはつまりまぎれもなく自分の本性なのだ。
ある朝、僕はいつもより早く登校した。他にだれもいない教室は静かで、普段、僕の顔を覆っている見せかけの仮面を脱ぎ捨てるのは容易であった。
ユウイチの植木鉢はすぐにわかった。他のアサガオより頭ひとつ背が高かったからだ。彼の植木鉢を前にしてかがみ僕は開きかけたつぼみを凝視した。腹の中のどす黒い部分に力をこめて念じた。
「枯れろオオ……、腐ってしまえエエ……」
両手を握り締めて全身の筋肉をひきしぼるように声を出した。鼻の奥に妙な違和感を感じて気づくと鼻血が溢れていた。コンクリートにそれが落ちると絵の具を散らしたような赤い斑点を作った。
ぽとり、と、まるで首が落ちるように茎が折れつぼみが転がった。数時間後、ユウイチのアサガオはしおれて腐り薄汚い茶色に染まりはじめた。それでも捨てずに放っておくと悪臭を出して悪い虫を呼び寄せ植木鉢の土に大量の蛆虫《うじむし》がわいた。それで先生がアサガオを捨てることにしてユウイチは泣きだした。つまり僕のアサガオがクラスでもっとも良いものになったのだ。
僕のいい気分は数十分続いた。しかしその後、アサガオの方を見ることができなくなった。たとえ花を誉められても耳を覆いたくなるような気持ちになった。
ユウイチの植木鉢に囁いた瞬間から僕のアサガオは自分の中に潜んでいる見るも恐ろしい動物を映す鏡になったのである。
僕が声にした通りユウイチの花が突然しおれた理由を上手く説明することはできなかった。当時、僕は小学一年生であったが自分の声に宿る魔力めいた力を漠然と感じていた。ひどく腹を立てている子も僕が必死で説得すればなぜか心を落ち着かせた。不服なことがあってもその相手にあやまるよう訴えるとたとえ大人であろうが子供の僕に対して頭を下げた。
半ば叢《くさむら》に埋もれたガードレールの上にトンボが止まっていたとする。普通なら捕まえようと手を伸ばしてもトンボはすばやく半透明の羽を動かして逃げ出してしまう。しかし「動くな」という命令を言葉に乗せてぶつけてやるとトンボは気絶したようになりたとえ羽や足をむしっても絶対に動かなかった。
意識して『言葉』を使ったのはアサガオを腐らせたのがはじめてのことであった。以来、僕はしばしば他人に対して声の力を行使した。
小学校高学年の時、家の近所によく吠える犬が飼われていた。巨大な体を門の内側に忍ばせて人が家の前を通ると爆竹を鳴らしたように吠えていた。重い鎖の許すかぎり獲物の方へ突進して鎖のつながった首輪が深く食い込んでさえなお通りがかりの者に牙をつきたてようとした。皮膚が病気なのか泥で汚れた毛はところどころ抜け落ち瞳は闘争心のため燃えているようにも見えた。近所の子供たちの間でその犬は有名で、どれだけ近寄ることができるか勇気の度合いが測られた。
ある日、僕は門の外に立って犬を眺めた。犬は僕に気づくと地響きのような唸《うな》り声で威嚇《いかく》をはじめた。僕は力のある声を出した。
「僕にむかって吠えるなア……」
犬ははっとしたように耳を動かすと目ヤニのついた目を開いて黙った。
「服従ウウウ……、僕に服従しろオオ……。服従だアアアア……」
頭の中で火花が散るような瞬きを感じてアスファルトには鼻から流れ落ちる赤い液体が染みを作った。僕の中にある虚栄心がそうさせた。ただ友人の前でその巨大で恐ろしい犬を手玉にとってみせ少しばかり尊敬を集めたかっただけだった。
その馬鹿げた計画はまったく簡単に実現して犬は僕のなすがままお手でもお回りでも何でもやるようになった。結果として僕はクラスの中で一目置かれる存在となった。
最初のうちはおもしろい気分でいることができた。しかしそのうちに少しずつ罪悪感に蝕《むしば》まれはじめた。本当は動物を手なずけるような勇気などないくせに英雄にでもなったかのように振る舞っている自分がいた。その他人をだましているという罪の意識が襲い掛かった。