何より犬の目が恐ろしかった。犬は『言葉』を行使する以前の煮えたぎるような瞳ではなくおびえた目で僕を見るようになった。その犬が持っていた闘争心という美しい牙を僕は剥奪してしまったのだ。かつて猛々《たけだけ》しかった犬の小動物のような瞳を見ると僕はまるで責められているような気分になった。
声の力はほとんど万能であったがいくつかのルールは存在するようだった。例えば『言葉』を行使する対象は生物でなければならなかった。植物や昆虫は大丈夫だが石やプラスチックに力をこめて呟いてみても思い通りにすることはできなかった。
また、一度『言葉』を行使したら、もう二度と元にはもどらなかった。僕はある日、母親との些細《ささい》な摩擦の末にこう囁いた。
「おまえはアア、猫とサボテンの違いがわからなくなるウウウ……」
感情的になり、その瞬間、自分が何をしてしまったのか理解してはいなかった。ただ、母親が勝手に僕の部屋へ入り込み掃除をして僕が気に入っていたサボテンの植木鉢を落として壊したことに腹が立っていたのである。僕はその鉢がいかに大切なものであったかを説明し、母の中に存在する物の重要度において彼女の大切にしていたペットの猫と同じ位置にサボテンを持ってきたかったのだ。
母がサボテンと間違えて猫を植木鉢に埋めてしまった時、後悔の念にさいなまれた。僕は我慢するべきだったのだ。たとえ意にそわないことが起こっても、声の力を使用して他人の頭の中をいじるのは罪深い行為である。いつも後悔するが遅かった。
母が再び猫とサボテンの見分けがつくようになるよう『言葉』を囁いてみた。しかし猫とサボテンの間にある距離を彼女が感じ取ることは二度となかった。
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声の力は頭の中に働きかけるだけでなく肉体的な変化すらもたらすことができた。アサガオの花を枯らすことが可能であるように動物の体を思い通りにできた。
僕は高校生になってもあいかわらず大人たちにこびへつらいなさけない生き方を続けていた。そのような自分自身の悪い特性を回避できないのはひとえに自分の小心さゆえのことだった。自分は他人との関わり合いから生じる波紋に恐れを抱いており細心の注意をはらってでも自分の株を落とすまいとするのである。だれかと話をするということはそのだれかは自分を見て観察しているということであり、おそらく僕の見ていない場所でこっそり第三者にその評価を話して笑っているのである。それがたまらなく恐ろしかった。ゆえに僕は作り笑顔をするのだがその本心を隠す行為こそ情けないと自分では感じていた。
父は大学の講師をしておりその精神は厳格で冷たく植物の生えない岩の山を思わせた。常に高みから二人の息子を見下ろして物を言い、僕は天上の存在へそうするように父を見上げた。彼は一切の物事に厳しく自分の気に入らないものは即座に切り捨てた。一度、父の理想から外れてしまったものは、その後、視界に入っても羽虫かなにかが通り過ぎたくらいにしか取り合ってくれなかった。
僕はその父に隠れて携帯ゲーム機を買った。小学生でも持っているような安物で手のひらに収まるくらい小さなものだった。父はコンピューターゲームというものに日ごろから悪印象を持っており、もしも見つけてしまえば自分の息子のうち大きな方までもついに自分を裏切ったかと失望してしまうはずだった。それは僕にとって想像するだけで恐ろしいことである。
弟は自由にやりたいことをやり、ゲームをしたければゲームセンターに行き、勉強をしたくなければ鉛筆を折るような人間だった。それは親の失望に耐えることの代償であるが、もともと弟のカズヤは失望などというものとは無縁の生き方をしているようだった。しかし僕は違っている。父から気に入られたいばかりに勉強をして身だしなみも質素で健全に整えているのだ。その姿はある人に言わせればさわやかで明るい好青年だという。しかしそれは単なる上っ面であり金色をした毛皮の中身はどろりとした赤黒い塊なのである。
ある日、自室で隠れてゲームをやっていると、突然、父親が扉を開けた。ノックをすることもなくまるで犯罪現場に踏み込む警官のようであった。彼は僕の手からゲームを取り上げ、冷ややかな目で僕を見下ろした。
「おまえがこんなものをやっているなんて!」
父ははき捨てるように言った。
カズヤがゲームをしていても彼は不必要な置物程度にしか見なかった。すでに次男に対しては自分の理想とする健全な子供に育て上げることを諦めているのだ。だからこそ兄である僕にかけていた期待は大きく、予想以上に怒りを喚起させたらしかった。
いつもの僕ならば泣いて許しを請うていたかもしれない。しかしその瞬間、父の反感をかってしまったという衝撃もあるにはあったが、弟は自由であるのに自分だけは禁止されているという理不尽な気持ちの方が勝っていた。ただゲームをやっているだけで人格を否定されることに憤りを感じた。
気づくと父の左手をつかみその中にある携帯ゲーム機を必死で取り返そうとしていた。常に従順な仮面をはずさなかった僕が父に反抗するのは生まれてはじめてのことであった。父は左手をしっかり握り締めゲーム機を渡さなかった。僕は力をこめて言った。
「この指よオオオ、外れエエろオオオ……!」
僕と父の間のわずかな空間が声のために震えた。鼻の奥の血管が弾けるのがわかった。携帯ゲーム機が床におちて硬質の音を立てた。そしてぽろぽろと父の左手から指が外れ僕の足元に転がった。五本とも根元から綺麗に外れていた。血が噴出してあたりが赤色に染まった。僕の鼻からも血があふれていた。
父が悲鳴をあげた。僕がいいと言うまで口を塞いでいるよう命令してすみやかに黙らせた。しかし声が出ないというだけで痛みや恐怖を感じるらしく目を大きく開いて指の消えた左手を凝視した。
僕は吐き気を感じながら鼻から出る血を大量に飲み込んだ。気絶しそうな頭でどうするべきかを考えた。もう父の指はもとに戻らないはずだった。『言葉』によって変化したものはもう二度ともとの状態にはもどらないのだ。
しかたなく、「僕が合図するまで気を失うこと」を命じて父から意識を取り除いた。眠っている人間に対しても声の力が有効であることはそれまでの経験から知っていた。見られていると力をこめて念じることに気後れを感じるので気絶させておいた方が楽だった。
「左手の傷口が完治すること」と「目がさめると僕の部屋で起きた一部始終を忘れていること」を床に倒れている父の耳へ囁いた。ほどなくして彼の左手のかつて指のあった部分に薄い皮膚ができて止血が行なわれた。
父自身に、左手に指がないことが自然であると信じ込ませなくてはいけなかった。また、父の左手を見た者が、不自然であることを感じてはならなかった。
はたしてそれをどうすればいいのだろうかと僕は考えた。声をかけた相手に変化が出るのは確認済みであったが、僕の声を実際に聞いていない者にも同じように指のない手を自然だと思わせることができるものだろうか。
僕は決断して、次のような内容の『言葉』を行使することにした。
「次に目が覚めたとき、おまえは指のない自分の左手を見て、これこそ自然な状態だと思い込む。さらにおまえの左手は、見た者に対してそれが当たり前の状態であると感じさせるようになる」
声をかけていない相手に変化を求めるのではなく、あくまでも父の手に対して「自然な印象を与えるようになる」という命令を出すのだ。
僕は血だらけの部屋を掃除すると、落ちていた指をティッシュでくるみ机の引き出しに入れた。父の服にも血がついていたが「服の血には気づかない」という『言葉』を家族へかけることにした。
父を支えて部屋から出した。その時、弟のカズヤとすれ違った。彼は一瞬、驚いたような顔をした。僕が父を支えている場面は珍しいことであった。開いていた扉から彼が僕の部屋をのぞいた。床に携帯ゲーム機が転がっていた。弟はフンと鼻を鳴らして笑うように僕を見たような気がした。
夕食の席で父が食べにくそうに食事をしていた。指のない左手で茶碗を持つことができないでいた。しかしその姿は非常に自然であり僕はふとするとどのような経緯で指がなくなったのかを忘れそうになった。指が消えた父のつるりとした丸い左手はまるで子供のころから見慣れたもののように、僕の目にも、おそらく家族全員の目にも、当然のことのように映った。
弟のカズヤがひそかに僕を軽蔑していることには気づいていた。彼はこの世界がある程度、個人のわがままを笑って許容できるのだということを知っている人間だった。一学年違うクラスではあったが僕らは同じ高校に通っていた。僕は彼のように生きることができなかった。
学校で弟が友達と小突きあいながら楽しげに廊下を歩いていた。それがまことに親友同士の付き合いのような振る舞いで僕はただ一人取り残されたようなさびしさを感じた。僕は持ち前の醜い計算高さでクラスの笑い声を誘い明るい雰囲気を作ると先生たちに評判であったが、その反面、親友と呼べる人間ができたためしはなかった。親しげに話し掛けてくる知り合いは大勢おり相手はもしかすると僕のことを親友と思ってくれているかもしれないが、僕の意識の中で本当に心の許せる者はおらずついそういった知人の顔でさえめずらしいものを観察するような目で見てしまった。
弟はそれをしないよくできた人間だった。僕のように心の中にひそんでいる「良く見せたがり」の動物を必死の作り笑いで覆い隠すこともなく、すらすらと本心を親友に語ることができるのだろう。その点僕のような者よりずっと健全だった。
しかし不思議なことに世間一般の認識では弟より僕のほうが良くできた子であると思われているらしかった。それもやはり僕の顔にはりついている従順というくだらない仮面のせいであり、その結果弟が僕に対して劣等意識をもっているのだとしたら、僕はひどい仕打ちを彼に対して行なったということである。カズヤにそのことを謝りたかった。しかし僕と彼の関係はそのような何でも話し合えるというようなものではなく、ふと学校で目を合わせても見なかったことにして視線をそらすような悲しいものだった。
その原因は僕にある。というのも内心で彼は僕の中にある醜い心根に気づいているのだ。親の言うことをきき先生の言うとおりに動き点数かせぎを行なってまわりの信頼を得ている僕の浅ましさに彼は気づいているのである。そのため話すのも汚らわしく思い薄汚いものを見るような目つきをして無言で僕を責めたてるのだ。
だれかの機嫌をとって安心できる場所を確保したと思った瞬間、通りがかった彼の、見下した目に出会う。僕の滑稽な姿を笑っているのである。世界にひびが入ったように思われてふと一切の音に膜がかかったようになる。
学校の自販機の前で数人の生徒が談笑している。飲み物を買うそぶりはなくただ語らっているだけである。僕は自販機で買い物をしたかったが人を押しのける気持ちがわかず彼らがどこかへ行ってしまうのをただ近くに立って待っていた。話し掛けてその場所を少し移動してもらうよう頼めばすむものの断られて嫌な目つきをされたらどうしようという意識が働く。まったく他人には近寄れないのである。それで自販機から少し離れて興味のないポスターを眺めていた。
そこへカズヤが現れる。彼はなんの躊躇もなく自販機の前にいた数名をかきわけコインを投入するのである。飲み物の缶を握り締めふと僕がいたことに気づく。彼は僕がなぜポスターを見ているのかそのすべてを見通したように含み笑いをして去っていくのである。
やはりカズヤは気づいているのである。そこそこまわりから人気もあり人当たりもよく真面目だと思われている自分の兄がその実すべて作られた虚像であるということを。だれかに気に入られたいというその一点のために作り笑いをしている浅ましい心と自販機の前にいる数名に話し掛けることさえできない病的な小心さを彼は知っているのである。
いつからか、家でも、学校でも、弟とすれちがうたびに汗がにじみ出るようになっていた。自分の正体を知っているカズヤが怖かった。彼の瞳にはおそらく兄という僕の姿ではなく軽蔑してつばを吐きかけたくなるようなただの醜い泥人形が映っているにちがいなかった。
カズヤと話をする機会はほとんどないが、朝の食卓で同じテーブルにつくと途端に胃のあたりが苦しくなるのである。じっと侮蔑のまなざしで焼かれているような気持ちで手に汗がにじみ箸もまともに持つことができなくなる。それでも一切は喜劇のように僕は笑顔で親にあいさつしておいしそうな顔をしてごはんを食するのである。長いことそのような調子の生活が続き今ではかならずといっていいほど食べたものを吐くようになった。
眠れずに身悶えする夜が続いた。安堵の夢を見ることはなく閉じたまぶたの裏側に何人もの顔が浮かんだ。みんなが一様に弟と同じような軽蔑のまなざしで僕を見下ろし僕は泣きながら念仏を唱えるように謝罪しているのである。目覚めてぼんやり考え事をしている時でさえたまに目だけが部屋中にびっしりと浮き出て僕をいっせいに非難する。そんな時、死にたいと感じる。
いっそのこと世界に自分しか存在しなければこのような苦しみは生まれなかっただろう。他人という存在が僕は恐ろしかった。人にこびへつらっている自分の汚い行動も起源はそこにあると思われた。嫌われるのも見下されるのも軽蔑されるのも耐えがたい苦痛であり、それらから逃げ出すために僕は醜い動物を心に飼っているのだ。他人というものが世界におらず、自分ひとりなら、どんなに気が楽になるだろう。
いや、自分の姿が他人の目に映ってしまうのがいけないのだ。だれかが僕を見て苦笑しあるいは失望するのがいけないのだ。それならば世界中のすべての人間から自分の姿を消すにはどうしたらよいのかを考える。
こうしたらどうだろう。
「一分後、おまえの瞳に、僕が映らなくなる」という力ある『言葉』をだれでもいいからだれかに聞かせるのだ。そしてさらに次のような『言葉』を続けて行使する。
「僕が見えなくなったおまえの瞳は、視線を交わしたすべての人間に対して、おまえに与えられていた『言葉』をそっくり感染させる」
つまり声の力で僕の姿を永遠に見失った一番目の人物が、だれかと目を合わせると、その二番目の人物も同じように視界から僕という存在を消し去るのだ。またその二番目の人物が他のだれかと目をあわせれば、三人目の網膜も僕の像を結ぶことができなくなる。その繰り返しが起こり、視覚に変化の起きた人物がだれかと視線を重ねるたびに僕の透明度が上がってゆくのである。もしも世界中の人間が僕を見失えば完璧な透明人間となり永遠の安らぎを手に入れることができるだろう。
しかしその前にそれら「僕が映らなくなる」という鎖から自分自身を除外しておくような『言葉』が必要である。でないと鏡を見ても自分で自分の姿が見えないという事態に陥るだろう。
僕はふと自分が愉快な気持ちでそのようなおぞましいことを考えているのに気づいてぞっとした。
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ある夜、犬が死んだ。小学校の時、僕のくだらない見栄のために『言葉』を行使してしまった犬である。僕を見る時だけ恐れるような目つきをするその犬のことを僕はずっと気に掛けていた。
犬が死んだという報告を親から聞いて飼われていた家へ向かった。飼い主は僕のことを知っており、なきがらを見せてくれた。大きく獰猛《どうもう》であった犬は、コンクリートに横たわったまま動かなかった。それに抱きついて僕は泣いた。わけのわからない悲しみに襲われた。飼い主が気を利かせて犬と僕だけにしてくれた。
全身の力をこめて腹の奥底から震える声を出し犬に命令した。生き返って動いてくれ。しかし犬が再び生命を取り戻すことはなくただ所々抜けかけた毛を夜気にさらしているだけだった。自分の醜い顕示欲を満足させるため『言葉』の力を行使することができても、犬を生き返らせることすらできなかった。
それだけではない。今、こうして犬を生き返らせようとしたのも本心から犬のことを悲しんでそうしたのではなく、自らの罪を少しでも軽いものにしようという意識が働いたためであるように自分では思えた。
あらためて犬の顔を見るとまるですべての重荷をようやく肩から下ろしたようなやすらかな表情で目を閉じていた。死んで解放されたその様子に僕は羨望を覚えた。
…………。
ある夜ふと気づくと僕は片手に彫刻刀を握り締め自室の真ん中で泣きながら立っていた。全身をおかしな汗で濡らしごめんなさいごめんなさいと僕は繰り返しつぶやいていた。おそらく彫刻刀で手首を切るつもりであったのだろうが、寸前でぼんやりと我に返ったようだった。木製の勉強机を見ると、一本、彫刻刀で削った傷があり、丸く反った削りかすが足元に落ちている。涙をたらした跡のような水溜りも点々とあった。机を観察するように顔を近づけると酷い腐臭がした。何か肉の腐ったような臭いだった。
机の引き出しを開けると丸めたティッシュの中に腐りかけただれかの指が五本入っていた。いずれも黒ずんでおり長いこと机の中に放置されていたことがわかった。指にうっすら残っている産毛を見つけたときそれが父親のものであることを思い出した。部屋に散らばった指の処置に困り引き出しに押し込んでいたことを忘れていた。父の左手に指がないことなど宇宙のできた当初から決定していたあたりまえのことのように思われて転がった指のことなどすぐに記憶から消えてしまっていた。
僕は腐りかけの指を庭の土に深く埋めた。しかしその後も机から湧き出る腐臭は消えず日を追うごとに臭いの強さを増していくようであった。まるで引き出しの奥がどこか別世界につながってしまいその暗闇の奥から腐臭がとめどなく漂ってくるようだった。
それにふと気づくといつのまにか机の傷が増えていた。最初のうち一本きりであったものが数日後には二本になり、数週間後には十本近くの傷が机の上にできていた。しかし僕には彫刻刀で彫った記憶などまったく残っていなかった。
……朝、目が覚めて、いつもの苦痛がはじまる。
家族やサボテンに朝食を用意してくれる人も新聞が風でめくれないよう指のない左手で押さえている人もみんな人間とは思えず動いている人形であるように思える。通学途中、電車に乗る時、僕の定期券をチェックする人も、隣の席に座った人も、学校の廊下ですれ違う人も、みんな生き物ではないように見える。思考というものを持たずビリヤードのボールがクッションに当たって転がるようにただ仕組まれた反応を続けているのではないかという気がしてくる。皮膚だけが精巧に作られたもので中身が実は人工的な部品の寄り集まりなのではないかと感じる。
それでも僕はそれらに笑顔で接しどうにか自分が見捨てられないように振る舞うのである。朝食を用意してくれる人には自分はいつもあなたの苦労をわかっているのだという誠意を見せるために食事を残さず食べおいしかったと満足そうに声をかける。電車に乗る時はキセル乗車していないことを宣言しいかにも模範的な利用客であるように定期券をよく見えるよう駅員に掲げるのである。また学校の教室でも自分はこのクラスに必要なのでのけ者にしないでくださいおねがいですからという気持ちから花瓶の花をそっと取り替えたりするのである。それも自分の性格から自然にそのような行為を行なっているという計算を感じさせない手つきで花を飾るのである。
顔に明るい笑顔を貼り付けるほどに心は荒涼となっていく。そして弟のことがますます怖くなってくるのだ。世界中の人間があの小さな頭蓋骨の中で多様な思考を行ない生活しているのだというイメージができなくなっても、しかしカズヤだけはなぜかずっと怖かった。他の人間たちの呼吸音が聞こえなくなるとともに、かえって彼の影は濃度を増すのである。
カズヤははっきりと口にするわけではないが、時折、口元に浮かべる冷笑は、滑稽な僕の人格に対して向けられたものに違いなかった。それは世界中でもっとも僕が恐れているものである。いつもそれが亡霊のように付きまとい僕を責めさいなむのである。そんな時に学校の階段を上っている途中でもまわりにだれもいなければ心を落ち着けるため頭をかきむしって壁を何度もけりつけた。弟が憎くてたまらない、というよりは、自分自身が許せないという気持ちの方が強い。
それでもここまで自分が苦しんでいる元凶はカズヤの存在であると感じる。彼を殺したいと思うのは、つまりそういう理由からだった。
僕はカセットデッキの停止ボタンを押すとテープを最初まで巻き戻した。さきほど聞いた話の内容を反芻《はんすう》して体の震えが止まらなかった。涙であやうくなる視界の中で彫刻刀に力をこめて机の上に傷を彫った。またこれで一本、傷がふえた。
汗が流れ悪臭に顔をしかめた。僕は想像する。窓の外にはてしなく広がる無音の世界。吹きすさぶ風に運ばれる腐臭。細菌が肉を腐らせ、悪臭を放ち、蝕んでいく。
心の中にある感情が湧き起こるのを止められず僕はベッドのふちに腰をおろすと彫刻刀を握り締めたまま両腕に顔をうずめて泣いた。
…………。
ふと気づくと僕は彫刻刀を握ったままベッドに腰をおろしていた。まるで毛虫を振り落とすように彫刻刀を離すと床に転がった。机の上を見るとまた気づかないうちに傷が増殖してすでにその数は二十を超えていた。
自分で彫っているのだろうかと思ったが、しかしそのような記憶はなかった。
何か恐ろしく重要なことを忘れている気がして不快な気持ちになった。自分の記憶にだれかの手が加えられているようにも思えた。不安な気持ちに襲われながら転がっている彫刻刀を見ると、その尖った先から禍々《まがまが》しい人を狂わす妖気めいたものを感じた。
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それは夕食後のことだった。居間の絨毯《じゅうたん》に寝転がりカズヤがテレビで野球中継を眺めていた。片手で頭を支えもう片方の手で菓子をつかんでいた。足は投げ出され数分おきに曲げたりのばしたりを繰り返し呼吸の度に胸のあたりが動いていた。
彼を殺そう。ぼんやりとそう思った。僕は自室に閉じこもり椅子に座って夜がふけるのを待った。あいかわらず机から悪臭が漂いペットの死体を引き出しの奥深くにしまいこんでいるようでもあった。組んだ両手が小刻みに震えそれを押しとどめようとするのだがうまくいかなかった。
弟を殺すことにためらいを感じてはいけないと自分に言い聞かせた。そうしなければ自分はもうだめなのだ。彼の見透かした視線は僕の肉を貫き、口元に見せる嘲笑が一時も鼓膜から離れない。目をかたく閉じ浮身の力で耳をふさいでもカズヤが指さして僕の醜い心の内を暴き立てる。
平穏を手に入れるためには僕がだれもいない世界へ行くか、僕の世界から彼を排除するかの二択しかないのだ。
数時間が経過して時計の針が深い夜の懐へ潜り込む。自室を出ると廊下のきしみにおびえながら弟の部屋へ向かった。扉の前に立つと廊下の明かりのせいで僕の影が眼前に現れた。それがまだ人型をしていることに複雑な思いがした。
扉に耳を当て彼が寝静まっていることを確認すると冷たいドアノブに手をかけて細く隙間をあけた。呼吸をひそめて部屋に体を滑り込ませ扉は閉めずに放っておいた。中は暗かったが電気はつけず廊下の明かりで視界を保った。
ベッドの上に弟の寝ている布団のふくらみを確認した。そっと近寄り彼が目を閉じて寝入っているのを上から見下ろす。入り口からの明かりが僕の体で遮断されカズヤの顔に影が落ちた。彼の耳元に口を近づけ「死」に関する『言葉』を囁こうとした。
その瞬間、彼が身じろぎしてベッドがきしんだ。一度、眠りの奥から引き戻される小さなうめきをあげ彼のまぶたが細く開けられた。
開かれた扉とそこから差し込む明かりに目をやり、それからようやくかたわらに立った僕の存在に気づいた。
「兄さん、どうしたの?」
彼は小首をかしげて微笑むと優しげにそう言った。僕がカズヤの首に両手をかけると女の子のような細い肩が驚きで跳ね上がった。渾身の力を込めて声を出した。
「お前はアアア、死ぬんだアアアア!」
彼の繊細な指が助けを求めるように虚空《こくう》をつかみ恐怖した瞳が見開かれた。しかしある違和感に気づいた。いつも『言葉』を行使する時、鼻腔の奥で感じていた小爆発がなぜかやってこなかった。鼻から赤いどろりとした液体も落ちなかった。
僕は弟の首から手を離した。不思議なことに彼は咳《せ》き込むわけでもなく、とがめるわけでもなく、まるで一切は夢であったかのように何事もなくまぶたを閉じた。そのいつもと変わらない様子に異様なものを感じた。弟の部屋を出る時、振り返ると、すでに彼はやすらかな寝息に包まれていた。
パチン、と頭蓋の中が爆《は》ぜたような気がして僕はスイッチが入ったように自室へ戻った。机の上を見るとたった今まで気づかなかったがカセットデッキが載っていた。それは小さな安物でそばに予備のものらしい大量の乾電池が積まれていた。どうやらプラグではなく乾電池で動くらしかった。これまでそれらが見えなかったはずはなく、その存在に気づかなかったのは異常なことだった。
カセットデッキの中にテープが挿入されていた。僕はわけもわからずそのテープの中身を再生しなくてはいけないような気がした。それはどうやら頭の奥に植え付けられた命令のようで指が勝手に再生ボタンにかかるのを止めることができなかった。
透明なプラスチックの小窓から回り始めたテープが見えた。スピーカーから聞こえてきたのは緊張をはらんだ自分の震える声だった。
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ややこしいことになりました。
もう、このテープは何度目の再生になるのでしょう。今、これを録音している僕には、到底、想像することはできません。
これを聞いているあなたは、今から何日後の、あるいは何年後の僕なのでしょう。
ともかくテープを再生したばかりのあなたは何がどうなっているのか、すっかり忘れているのでしょうね。僕はこのテープに必要な『言葉』を録音したら何もかもを忘れていろいろなことに気づかない生活をはじめようと思っていますから。
僕がこのテープを用意した理由は他でもありません。何もかもを忘れて日常生活を送っている未来の自分にかつて自分が何をしてしまったのかを聞いてほしいからです。
あなたが急にこのテープを再生しなくてはいけないと感じたのも無理はありません。このテープの最後の方に次のような意味の『言葉』を吹き込んでおきましたから。
「だれかを殺そうとしたり、自殺しようとした場合、机の上にそれまで気づかなかったカセットデッキを見つけて、中に入っているテープを再生したくなる」
このテープを聞いているあなたが、だれを殺そうとしたのか、あるいはどのような方法で自分を殺そうとしたのかはわかりません。
でも、このテープを聞いているということは、そのうちいずれかの条件に符合したのでしょう。そう考えるとテープの再生が意味することは自分が安らかな生活を送れなかった証明なのですから残念な気持ちになります。
でも僕はあなたに伝えておかなくてはいけません。あなたがだれかを殺したくなったり、自殺したくなる必要はまったくないのです。その理由は非常に簡単で、なぜならとうの昔にほぼ全員、動かなくなったからです。父も、母も、弟も、クラスメイトや先生、今まで会ったことのない人々もみんなすでに生きていないのです。おそらく世界で生き残っているのは、あなたと、ほんの一握りの人間だけでしょう。
いつだったか、世界中の人間の瞳に、自分が映らなくなるにはどうしたらいいのかという問題を考えました。覚えているでしょうか。
あの犬が死んだ次の日の朝、僕はあいかわらず醜い作り笑顔でテーブルにつき朝食を食べていました。カズヤが目をこすりながら起きてきて母が彼の前に目玉焼きの載った皿を運びました。父が眉をひそめながら新聞を読んでいたのですが、一枚、ページをめくった拍子に、端の部分が、となりに座っていた僕の腕をなでました。電源の入ったテレビで清潔感の漂う洗剤のコマーシャルが流れていました。僕は急に耐えられなくなりみんなを殺すことにしました。
つまり次のような『言葉』を行使したのです。
「一時間後、おまえらの首から上が落ちる」
そこへさらに次の命令を下しました。
「地面に転がったおまえらの首は、それを目にしたすべての人間に対して、おまえらに与えられていた『言葉』をそっくり感染させる」
もちろん僕だけはそれらの効力から除外されるという『言葉』も付け加えてさらに記憶にも手を加えました。つまり、僕の声を聞いたことも忘れて彼らは家を後にしたのです。
家族に『言葉』を与えて一時間後、僕は高校にいました。その時カズヤのいる教室の方がにわかに騒がしくなったのです。行ってみると弟の頭が床に転がっており赤い池を囲んで生徒や先生たちが顔を青ざめさせていました。
見た者を一時間後、死に至らしめる魔の首です。僕は叫び声をあげる者や野次馬根性を露にする者たちをかきわけてそっとその場を離れました。ちょうどその時、父や母のまわりでも同じことが起こったにちがいありません。
さらに一時間後のことです。学校に集まっていたパトカーや近所に住む人間たちの前で、カズヤの転がった頭を視界に捉えた数十人の首が、一斉にぽろぽろと落ちたのです。悲鳴もなくただ唐突に一抱えもある重い物が地面に落下しました。その光景を、転げた頭の、百倍もの人間が、新たに目撃したのです。
多くの人間が恐怖と混乱のため乱暴になっている中、やがてテレビカメラがやってきて一時間後に命の終わりを告げる頭たちを中継しました。その瞬間、僕の『言葉』は電波によって感染し人類の首を狩り取ったのです。
その日の夕方にはすっかり町は静かになりしんとした空気の中で傾いた太陽が長い影をもたらしました。赤色の生臭くなった町を歩きおびただしく横たわる静かな人々を見ました。おかしなことに動物や昆虫にも効果があったらしく首のない猫や犬や蟷螂《かまきり》や蠅《はえ》が地面に落ちていました。
いろいろな場所で事故が発生したらしく黒い煙が点々と見えました。ほとんどのテレビは何も映していませんでしたが、たまに首のないニュースキャスターがただ机に突っ伏している映像を見かけました。
やがて、町の電気がいっせいに消えました。制御するべき人間を失った発電所が重大な負荷を受けて電力をまともに供給できない状態になったのでしょう。おそらく世界中で同じことが起こったはずです。
もう自分以外の生物は生きていないのだと確信して暗くなった町を歩きました。人間が倒れていない場所は見当たらずどこまで歩いてもアスファルトは汚れていました。
衝突し煙をあげている車の運転席に首のつながった動かない人を見ました。おそらくだれかの生首を見る前に事故で亡くなったのでしょう。
静寂の夜空に星が浮かび僕は歩道橋の上に座ってそれを眺めました。不思議なことに津波のような良心の呵責《かしゃく》は彼女がやってくるまで感じませんでした。
星を眺めていると小さな足音とともに人を求める声がどこからか聞こえました。歩道橋から見下ろすと事故のせいでまだ燃えている車の炎に照らされ危なげに歩く若い女性が見えました。信じられない思いで僕は彼女に声をかけました。
彼女はひさびさに聞く命ある声に安堵の表情を浮かべ僕の方に顔を向けました。
その瞬間なぜ彼女の首がつながったままなのか理解しました。彼女の目は見えなかったのです。
彼女はなんて運の悪い人なのだろう。僕はおののき、そして逃げ出しました。心を覆い尽くす絶対的な罪悪感が生まれました。しかしもう世界はもとにもどらないのです。
長い間、僕は苦しみました。世界を埋め尽くす動かない人々が腐っていくのを見ながらもう自分がこの世界にも耐えられないのだということを感じました。
そこで僕は一切のことを忘れることにしました。今の状況に気づかず大地が死に包まれる前の正常な世界に生きているのだという錯覚を見ることにしたのです。このテープの最後に次のような内容の『言葉』を録音しておくつもりです。
「おまえは彫刻刀で机に傷を彫るたびに今まで過ごしてきた日常の世界で生きているつもりになる。実際は何かを食べ睡眠し健康を維持して生命活動を続けているのだが、それと意識の中身は無縁であり、おまえはただひたすらこれまでと同じ日々を続けているのだと思い込むのだ」
ついでに、自分の部屋にある机だけはその条件から外そうと考えています。「おまえの五感は自分の机をだますことができない」と。つまり普段どおりの日々を送っていても机だけは現実とつながっているのです。
あなたはこのテープを聞いて後悔しているでしょうか。また全部を忘れてまたテープを聞く前の自分に戻りたいと思っているかもしれませんね。もしそう思うのなら、もう一度、机に傷を彫るといいでしょう。
机はあなたの幻覚ではありません。ですからあなたがこのテープを聞いて記憶を消した回数がそのまま傷として残るはずです。今、机の傷は何本になりましたか。
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その後も独白は続いていた。どうやら過去の僕は、テープを通じて自身に『言葉』を行使し記憶の操作を行なったようである。机に顔を近づけ臭いをかいだ。彫刻刀でつけられた傷の一本一本から、もしくは引き出しの奥、光が届かない洞穴の向こうから、異様な湿った腐臭がした。向こう側にある現実の世界から、今、僕の見ている世界へ、机の引き出しを通じて臭いだけが流入しているのだ。
ベッドの端に腰掛けて想像した。表面を腐った肉が覆う世界で僕はただ一人学生服を着て学校に通っている。だれもいない改札口にむかってキセル乗車でないことを宣言するように定期券を掲げる。電車に揺られていると思い込んだまま線路を歩いて学校へ向かっているのだろうか。地面に転がったさまざまなやわらかいものを踏み歩き僕はひっそりとした校門を抜ける。みんなに嫌われないように作り笑いを浮かべて掃除されていない教室に入る。教室の中をクラスメイトたちがひしめきあい先生が静かにするよう怒鳴っているという夢を見る。しかし本当は静寂な教室の机に僕は座りつづけているのだ。髪は伸び目はうつろでそれでも必死の笑顔を作り自分の姿は人間というより動物のようだろう。
部屋の扉がノックされた。返事をするとサボテンを抱えた母が扉を開けた。
「まだ起きていたの。早くお眠りなさい」
母は無表情な顔で言った。この人も生きているようでいて実際はどこかで死んでいるのだろう。