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作者:日-乙一 当前章节:15399 字 更新时间:2026-6-23 07:47

 この世界に僕は一人きりである。そう考えるとやはりある気持ちが湧き起こるのを止められなかった。

「手を震わせて泣いているけれどどうかしたの? どこか体の調子がおかしいの?」

 僕は首を横に振り、心の中でごめんなさいと呟いた。僕が泣いているのは体の調子がおかしいからじゃないよ。安堵しているからなんだ。かつて望んだ一人きりの世界にこられて、ほっと気持ちが安らいだせいなんだよ。

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 ZOO

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 写真と映画の違いは、俳句と小説の関係に似ている。

 俳句ではなくても、短歌でも、詩でもいい。それらは普通、小説よりもはるかに文字数が少ない。それが特徴だ。その短い文字の連なりの中に、ある一瞬の心の動きを切り取って封じこめる。作者は世界を見聞きして、心に感じた感動を短い文字の中に描写する。

 小説の場合、それが連なる。心の描写が連続し、しかも行数を追うごとにその形は変化する。小説内で起こる様々な出来事により、登場人物たちの心は常に同じということはない。短い文章のみを抽出《ちゅうしゅつ》すれば、それは描写だ。しかしそれを連続させることで、『変化』を描くのだ。登場人物たちの心は、最初のページと最後のページとでは違う形に変化している。その変化の過程が波線として成立したもの、それが物語の正体である。これは数学なのだ。小説を微分すると、俳句や詩になる。物語を微分すると、描写になる。

 写真は描写である。一瞬の風景を枠の中に切り取る。子どもの泣いている顔を描写する。これは俳句や詩に近い。文字と絵という違いはあるが、どちらも、ある重要な一瞬を抽出し、永遠にとどめようとする試みだ。

 では、写真が何十枚、何百枚と連なったとする。連続するのは、同じ写真ではない。かといってまったく違う被写体でもない。前にある写真よりも、一瞬だけ後に撮影したものを、次にくるよう並べる。それを高速で次々に切りかえると、残像現象から、そこに時間が生まれる。たとえば、最初は泣いていた子どもが、最後には笑った顔になっている。一枚の写真と違ってそれらは別々のものではなく連続している。泣き顔から笑顔に変わるまでの途中経過が存在する。つまり、心の変化を見ることができるのだ。『一瞬』をいくつも連ねれば『時間』が生まれるのは当たり前で、そうなってようやく、『変化』を描き出すことができる。すなわちそれは、物語を紡ぐことができるということだ。それが映画なのだ。俺はそう思う。

 今朝もまた、写真が郵便受けに入っていた。これで何度目だろう。もう百日以上、同じことが続いている。それでも慣れて気にしなくなるということはない。早朝の凍えるような寒さの中でアパートの錆びた郵便受けに写真が入っているのを見つけるたび、眩暈《めまい》と立ちくらみと憎悪と絶望が同時に襲いかかってくる。俺は写真を握り締めたまま、立ち尽くすしかない。毎朝、そうだった。

 写真は封筒などに入れられて郵送されたものではない。そのまま郵便受けに入っている。写真には人間の死体が写っていた。かつて俺の恋人だった女だ。どこかの地面に掘られた穴へ寝かされている。死体の彼女の胸から上を撮影している。しかしもう元の姿ではない。腐った彼女の顔に、生前の面影はない。

 昨日の朝に郵便受けで発見した写真よりも、また少し、腐敗が進行しているらしい。しかし変化はわずかで、はっきりとはわからない。一目で確認できるのは、彼女の上を這っている虫の位置が昨日の写真とは異なっているということだけだ。

 俺は写真を持って自分の部屋に戻り、スキャナーでパソコンに取りこんだ。これまで投函されていた彼女の写真は、すべてパソコン内に保存している。順番に番号をふって、いまや大量の画像データとして彼女は存在する。

 最初に発見した写真の彼女は、まだ人間の姿をしていた。その次の日に見つけた二枚目も、顔が薄く黒みを帯びた以外に目立った変化はなかった。しかし日を追うごとに、郵便受けへ入れられている写真の彼女は、人間の形から遠ざかっていった。

 写真のことはだれにも言っていない。彼女が殺されていることを知っているのは俺だけだ。世間では、行方不明として処理されている。

 俺は彼女のことを愛していた。『ZOO』という映画をいっしょに見たことを思い出す。よくわからない話の映画だったが、彼女は隣の席で真剣になってスクリーンを見つめていた。

 スクリーンには、野菜や動物の腐っていく映像が早回しで映し出されていた。林檎《りんご》や海老《えび》が黒ずんでいき、形を崩す。細菌に覆われて、臭いを放つ。マイケル・ナイマンの軽快な音楽に乗って、動物の屍骸たちが、あっという間に原形をなくしていく。その変化は極めて動的である。巨大な波が打ち寄せて去っていくように、腐敗が巻き起こる。様々な物の腐敗していく様を、主人公がフィルムに撮影していくという、そういう映画なのだ。

 映画館を出た後、俺と彼女は動物園に立ち寄った。俺が車を運転していると、助手席にいた彼女が、道路の先にある看板を見つけて言ったのだ。

 あれを見て。これはなにかの偶然よ。

『200メートル先を左折・動物園』

 看板にはそう書かれていた。日本語の下に英語でも案内が書かれており、連なっているアルファベット中の、『ZOO』という文字だけがやけにはっきりと頭にこびりついた。

 俺はハンドルを切って左折し、動物園の駐車場に乗り入れた。動物園内にほとんど人はいなかった。真冬の、もっとも寒い時期だったからだろうか。雪こそ降ってはいなかったが、空には厚い雲がかかり、薄暗かった。藁臭い動物の臭いが充満する中を、俺と彼女は並んで歩いた。彼女はコートを着ており、始終、寒さのせいで細い肩を震わせていた。

 全然、人がいないわね。噂で聞いたことあるわ。こういうところに人がこなくなって、全国的に次々と動物園や遊園地がつぶれているんですって。彼女の声は白くなって空中に溶けて消える。鉄格子のような檻《おり》の前を、俺たちは次々と通りすぎる。寒さのせいか動物たちには元気がなく、目も虚ろだった。その中で、醜い猿だけがなぜか活動的に檻の中を歩き回っていた。俺と彼女はその前で立ち止まり、しばらくの間、眺めた。毛がところどころ抜け落ちた、薄汚い雰囲気の猿だった。檻の中にいるのは一匹だけで、コンクリートの狭い空間を、いつまでもぐるぐる歩き回っていた。

 ヘトヘトの人生を歩んでいた俺に、はじめて優しくしてくれた女だった。一緒に動物園へ行ったあの日のことが、遠い昔のように思える。彼女が姿を消したのは、秋の深まった季節のことだ。

 俺は、彼女が何かの事件に巻きこまれたんじゃないかということをみんなに訴えかけた。しかし警察は本腰を入れて捜索をしてくれなかった。事件に巻き込まれたなどと考えてはくれず、家出をしたものとして処理をした。家族もそれで納得していた。彼女は周囲にそう思わせるようなふらりといなくなる気配を持っていたのだ。

 画像データとしてパソコン内に取りこんだ後、郵便受けで見つけた彼女の死体の写真を、俺は引き出しの中にしまいこんだ。引き出しは、すでに百枚以上の彼女の写真で溢れかえっている。

 ディスプレイ中に表示されているカーソルを動かし、有名なムービー再生ソフトを立ち上げる。映像の編集もそれでできる。『イメージシーケンスを開く』という機能を選び、最初に投函された彼女の画像を選ぶ。『イメージシーケンスの設定』で、『毎秒12フレーム』を選択。

 すると、パソコン内に保存された彼女の静止画像が、番号の順番に繋ぎ合わせられた動画となる。一秒に十二枚、彼女の静止画像が次々と切り替わる。本来はアニメーションを制作するための機能である。

 再生すると、彼女の腐敗していく過程がわかる。虫たちが一斉に彼女を覆い尽くし、やがて食い荒らして去っていくという、波のような動きが見られる。

 朝がきて、郵便受けに投函されている写真を発見するたびに、十二分の一秒、その動画は長さを増す。俺はそれを見ながらつぶやく。

「犯人を探し出す……」

 死体の写真を撮影している人間が、彼女を殺したのだ。そんなことはわかりきっている。

「罪を償《つぐな》わせる……」

 警察が彼女の捜索を打ち切ったとき、俺は、そのことを誓った。

 ただひとつ、問題がある。その問題は決定的で、かつ俺という人格そのものを破壊しかねない。したがって俺はその問題点を見ないようにしている。

「くそっ、犯人はどこにいるんだ!」

 俺の言葉はすべて台詞だ。演技なのだ。心では全然、別のことを思っている。ただ、そうやって演技し続けていなければ、あまりの現実のつらさに俺は潰れてしまう。

 つまり俺は自分で自分のことを知らないふりをしているだけなのだ。そうして、彼女を殺した犯人をつかまえると意気込んでいる。決して、俺にはつかまえることなどできないだろう。なぜなら俺が殺したのだから。

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 彼女を失って、ほとんど何も口にしない生活が続いた。鏡に映る自分の顔は、頬が削げ落ち、目が落ち窪んでいる。

 俺は、自分が彼女を殺したことを知っている。そのくせ犯人を見つけようと意気込んでいるのは、矛盾した行動のように思える。だが、二重人格というわけではないのだ。

 俺は彼女を心から愛していた。自分がこの手で彼女を殺害したなどとは考えたくない。だから、俺はその現実から逃避することにした。

 どこかに俺ではない殺人犯が存在し、そいつが彼女を殺したことにしてしまえば、俺は気が楽になる。自分が彼女を殺したのだという自責の念から解放されるのだ。

「写真を郵便受けに入れているのはだれだ!?」

「なんのため、俺に写真を見せる!?」

「いったい、だれが彼女を殺害した!?」

 すべて俺の一人芝居なのだ。わからないふりをして、犯人に本心から憤り、殺意を抱くという自分を演じる。

 そもそも、写真を警察に見せないことが自分の保身を示している。俺はそのことを、自分一人だけの力で犯人を探し出してみせる、という考え方に変換し、写真を隠しておく理由にしてみた。結果として警察は彼女のことをいまだに行方不明だと思いこんでいる。俺も、警察の力を借りずに恋人の仇《かたき》を討とうとする自分に酔うことができる。

 そのような演技を続けているうち、本当は彼女を殺害してはいないんじゃないかと思うことがある。殺したのはだれか他人なんじゃないか。俺は無実なんじゃないか。

 しかし残念ながら毎朝届く郵便受けの写真が、そういった妄想の世界へ完全に逃げ切ることを妨げる。確かに俺が殺したのだと、写真が俺を告発する。

 彼女の捜索を警察が打ち切ったのは、彼女がいなくなって一ヶ月後の、十一月に入ってすぐのことだった。それから俺は、自力で犯人を捜査するために会社をやめた。もちろんそれは、犯人に殺された彼女の恋人という役を演じているにすぎない。犯人に憤り、仇を討つために立ちあがった悲劇の主人公という役柄だ。

 まずはじめに、彼女の知人を訪ねて質問することからはじまった。彼女の勤めていた会社の同僚、家族、よく行くコンビニエンスストアの店員など、俺は彼女と関わりのあった人物すべてに会った。「ええ、彼女はまだ見つかっていません。警察は家出だと言っていますが、俺は信じていませんよ、馬鹿馬鹿しい、あいつが家出なんて……。だからこうして、彼女と親しかった人に質問してまわっているんです。協力していただけますか。ありがとう。彼女と最後に会ったのはいつごろですか。何かおかしな様子とかありませんでしたか。たとえば、だれかに恨みを買ったとか、家のまわりに不審な人間が歩いているとか、そういう話を彼女はしていませんでしたか。……俺にはそういうことを一度も話しませんでした。……彼女がいつもしていたあの指輪ですか。そうです、俺の贈った婚約指輪ですよ。……おい、そんな目で見ないでくれ。憐れみはたくさんだ……」

 だれも、俺が殺害したなどとは気付いていなかった。奴らにとって俺は、恋人が突然にいなくなって戸惑っている憐れな男として映っているようだった。俺の演技は迫真だったらしい。彼女のためではなく、俺のために涙を流す奴までいる始末だ。世の中は狂っているんじゃないかと思う。彼女を殺したのは俺だと、なぜだれも指摘しないのだ。俺が自分でそれを認めることはできないのだから、周囲の人間がそれをしてくれるべきだ。

 いつも心の奥底ではそれを求めている。だれかが俺を指差して、おまえが犯人だと言ってくれるのを待っている。それを仕事としているはずの警察ですらまっとうに俺の罪を暴いてくれない。

 ……俺は思っている。早く楽になりたい。すべてを洗いざらい話して、罪を認めたい。でないと、俺はいつまでも演技し続けないといけないじゃないか。しかし、自首をする、という一線を踏み越えられずにいる。恐ろしくなって、問題から目を逸《そ》らし、偽ることを選ぶ。

 自分で捜査をする、という演技をはじめてから一週間ほどで聞きこみをする相手もいなくなった。それからの俺は袋小路に入った鼠のようだった。

「犯人を知る手がかりがない! 何か情報はないのか!」

 一人きりの部屋で俺はつぶやきながらパソコンを扱う。彼女の腐っていく動画を再生し、それを見つめる。再生し終えて、腐り終えた後の彼女は、細菌の餌食《えじき》となって、人間というよりもそれ以外の何か別の見たこともない形容もできない何かになっていた。

 正直言って、気持ち悪かった。人間の腐っていく様など、見たくはなかった。それが愛した人間ならなおさらだ。しかし俺は見なければならない。それを見ることで、俺は、自分が殺したのだということを自分に言い聞かせる。早く自首して告白しろと暗示をかける。しかし、その暗示はいつも失敗する。

「じっとしていてはいけない! 何か情報をつかむんだ! 捜査は足だ!」

 俺は彼女の腐敗する動画から目を逸らし、立ちあがる。彼女の写真を持って外へ出ると、犯人を探すふりをしながら町を徘徊する。

 持っていくのは、腐敗した彼女の写真ではない。生前の、美しい姿のものだ。彼女の背後にはシマウマの檻が見える。場所は、あの動物園だった。あの日、彼女が思い立って唐突に使い切りカメラを購入したのだ。俺たちは虚ろな目をした臭い動物ばかり撮影して歩いた。最後の何枚かのみ、彼女に向けてシャッターを切った。シマウマの前に立つ彼女は、少し睨みつけるような顔を永久にフィルムへ切り取られた。

 その写真を道行く人々へ見せ、情報を求めながら歩いた。歩道を歩いていると、唐突に写真を見せられるのだから、相手にとってみれば迷惑だろう。それはわかっている。しかし、俺はそうしなければ気がすまない。周囲から見れば、ほとんど浮浪者のようだっただろう。しかしかまっていられなかった。

 もはや仕事も生きがいもなくし、貯めていた金も底をつきかけている。そのうちにアパートも追い出されるだろう。大丈夫、車の中で眠ればいい。食うものがなくなれば、だれかから金を奪えばいい。犯罪に手を染めてもいいのだ。ただ、彼女を殺害した人間を見つけることができればそれでいい、といった人間を演じきれればそれでいい。

 昼間のうちずっと町中で聞きこみをする。

「この写真の人を知りませんか。どこかで見かけませんでしたか。お願いします。お願いします……」

 以前、何時間も同じところでそうしていると、近くの店の人間が交番に通報したことがあった。その経験を踏まえ、しばらくの間さまよった後、車で移動して別の町に出かけて同じことをする。

 何度か若い男たちにからまれたことがあった。リンチを受けたことも一度だけあった。それは路地裏でのことだった。抵抗すると、相手はナイフを持ち出してきた。俺は刺してくれることを望んだ。心臓をひと突き。そうすれば終わる。すべて終わる。俺が彼女を殺したなどと、自分で認めないまま死ぬことができる。殺人者ではなく被害者として人生を終えるのだ。それは俺にとってプライドを保つ行為だった。自分の罪から完全に逃亡できる唯一の逃走経路なのだ。もう彼女の写真を持って、いもしない犯人を求めることも、あるわけのない情報を求めて町をさまようことも、しなくてよくなる。

 しかしその若者は、俺を刺してはくれなかった。ナイフを持っている手をつかみあげ、俺は無理やり、自分の胸に押し当てさせた。後はそいつが力をこめて刃をねじ込むだけですむはずだった。しかしそいつはがたがた震え出してあやまりはじめた。まわりにいるやつらも顔を青ざめさせていた。そのうちに警察がきて、みんなは俺を置いて逃げ出した。待ってくれよ、俺も連れていってくれ、と叫びたかった。

 警察を呼んだのは薄汚れた老婆だった。偶然に俺が路地に連れこまれるのを見ていたらしい。その婆さんはひどく小さな体をしていて、おどおどした様子で警官の後ろに立っていた。みすぼらしい格好で、着るものも、履いているものも、現代の日本人とは思えなかった。おそらく金のない、貧乏な生活をしているのだろう。小便臭いトンネルの中などで眠っているのだろう。婆さんの顔に刻まれた皺には垢《あか》がたまっている。髪の毛も不潔そうだった。そして木の板らしきものが首から下がっている。最初、パチンコ屋かなにかの宣伝をして食いつないでいるのかと思ったが、違った。

 ゴミ捨て場から拾ってきたような薄汚い板には、直筆の汚い文字で『人をさがしています』と書かれていた。文字の下に写真も貼ってあった。若い男の写真で、俺の持っている彼女の写真とは比較にならないほど古かった。その婆さんに話を聞いてみると、一人息子が行方不明で、もう二十年、町角に立って探しているという。そして皺だらけの手を、そっと首から下げた板の上に置いた。古くぼろぼろになった写真を撫でながら婆さんは俺の聞きなれない方言まじりの言葉で、この写真は外に立っているうちにぼろぼろになったが息子を写したものはもう他にないからどうしたらいいかなあという意味のことを困ったようにつぶやいた。

 俺はその婆さんの足元にひざまずいた。突っ伏して、額を地面に擦《こす》りつけた。嗚咽と涙が止まらなかった。婆さんも、そばにいた警官も、俺を慰めようとしてくれた。しかし俺は首を横に振ることしかできなかった。

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 持ち主のいないような山小屋で、俺と彼女は喧嘩をした。たとえば『ZOO』という看板を見つけて咄嗟に動物園へ向かうことを決めたように、彼女の行動には発作的なものがあった。そのときも、ドライブ中に何年も車が通っていないようなわき道を発見して、そこを曲がってみて、という唐突な提案を彼女がしたのだ。その道の先に何があるのか、急に確認したくなったのだろう。彼女のそういうところが好きだった。

 道の先には、山小屋があった。小屋というより、古い板切れの集まりといった感じの外見だった。俺と彼女は車を停めて中に入った。

 かび臭かった。彼女は今にも落ちてきそうな天井を見上げながら、顔を輝かせていた。俺はその様をポラロイドカメラで写真に撮った。動物園で使い切りのカメラを使って以来、俺はカメラに凝り始めていた。

 彼女はフラッシュに顔を歪めた。まぶしいわね。強い口調でそう言うと、ポラロイドカメラから出てきた写真を俺の手から取り上げて握りつぶした。こういうのは嫌いだわ。それから彼女は、私のことは忘れてちょうだい、と言った。どういう意味かと尋ねると、俺に対して今は愛情など抱いていないのだという意味の話をしはじめた。

 世間において彼女が行方不明になったのはその日からだった。俺とドライブをした前日までは会社に出ていたのに、その日より後、彼女はだれの前にも現れていない。それは当然のことである。彼女はずっとその山小屋から出ていないのだから。

 その日に俺と会うことなど、彼女は親しい人間にも告げていなかったらしい。もしだれかにそう話していれば、俺は警察に事情聴取されただろうし、罪を告白していただろう。しかし実際は、彼女の母親から電話がきて、娘を知らないかという質問を受けただけだった。愛情の薄い母親であるため、さほど彼女の失踪に関して気にしていない様子だった。

 布団をかぶって震えていた俺は、彼女が失踪したという話を電話で聞き、自分が殺したことを正直に話そうと思った。

「なんですって、彼女がいなくなった……? 警察にはもう連絡したんですか? 待っていてください、今からそちらに向かいます!」

 思っていたこととは違う言葉しか出てこなかった。長く意味のない演技のはじまりだった。

 俺は彼女の家まで出向き、母親と話をして、警察に捜索願を出した。俺は本心から彼女の行方を知りたがっているように見せかけた。死に物狂いで彼女の行方を追い求める俺、という嘘の自分を作り上げた。

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 それは、彼女の写真を持って町を徘徊した後のことだった。一日が終わりかけ、太陽が傾きはじめていた。俺は駐車場に置いていた車の元へ戻り、周囲に立ち並ぶビルの群れを見上げた。夕日を背負う格好で、巨大な柱たちが黒い影となって覆い被《かぶ》さってくるようだった。

「今日も収穫はなしか……」

 俺はつぶやいてみた。冬の冷気が吐き出す息を白くする。くたびれてぼろぼろになったコートの中から彼女の写真を取り出して見つめる。切り傷ができて固くなった指の皮膚で、写真の彼女の顔をそっと撫でる。

 駐車場に停めている車は、俺の一台きりだった。通行人も見当たらない。コンクリートの地面に、俺の影が長く伸びていた。

「明日こそは犯人を……」

 歩き回って全身が疲労していた。気を抜くと倒れそうなほどだった。俺は車の扉を開けて運転席に乗り込んだ。そのとき、助手席の下に落ちているものが目に入る。

「なんだこれは……?」

 丸められた紙くずのようだった。拾い上げてみる。写真だった。広げて、何が写っているのかを確認する。

「これはいったい……」

 彼女が写っている。上向き気味の格好で、不意を突かれて撮影されたようなかわいらしい表情をしていた。背景は木の板が組み合わさっている壁だった。日付が右下の隅に入っている。

「どういうことだ!? この日付は、彼女の消えた日じゃないか!」

 当惑する、という演技をする。その写真はあの日、彼女が怒って握りつぶしたものだった。

「一体何故、こんな写真が俺の車の中にあるのだろう……。不思議だ。理解ができない。この写真の彼女、死んではいないぞ……。そうだ、犯人がこの車に写真を投げこんだのだ。そうとしか考えられない……」

 俺はダッシュボードを開けて、その中に写真をしまおうとする。ダッシュボードの中に、一枚の紙切れが入っているのを見つける。

「これはなんだ?」

 ガソリンスタンドの領収書だった。

「……この領収書の日付は、彼女の消えた日じゃないか! 領収書に、ガソリンスタンドの住所が書いてあるぞ! そんな馬鹿な、俺はこの日、こんなところに行っていない。ずっと家にいたはずだ……。もしかすると……」

 俺は推理して、ある重大な結論を導き出した、というふりをする。

「……犯人はこの車を使って彼女を誘拐したんじゃないか? そうだ、だから彼女はあっさり犯人につかまったのだ。彼女はこの車を見て、俺だと勘違いし、警戒を解いたのだ!」

 俺はエンジンをかけると、車を発進させた。行き先はわかっている。領収書に書かれてある住所だ。

「ガソリンスタンドの人なら、あの日、この車を運転していた人物を見ていたかもしれない! はたして覚えているだろうか。それが疑問だ」

 俺はつぶやきながら運転をする。ハンドルを切り、ビルの並んでいる通りを抜け、郊外へ向かう。次第に建物が少なくなり、道路脇に並ぶ民家と民家の間に荒地が挟まれる。沈みかける太陽が赤く、フロントガラス越しに俺を照らす。後ろへ過ぎ去る風景の中、夕日は動かずにじっと追いかけてくる。

 ガソリンスタンドに到着したころ、辺りは暗かった。ライトを点灯させた車を乗り入れると、スタンドの主人らしい中年の男が近づいてきた。作業服を着て、油で汚れた手をタオルで拭いている。俺は窓ガラスを下ろし、彼女の写真を見せながら質問を投げかける。

「なあ、あんた、この写真の……」

 俺が言いかけると、彼は忌々《いまいま》しそうな顔をしながら答える。

「ああこの子ね。ずっと前に来たよ。西へ向かうと言っていたな」

「西へ? なあ、どんな車に乗っていたんだ?」

「もちろん乗っていたのはあんたが運転しているその車さ」

「やっぱり!」

「運転していたのもあんただよ。さあ、これでいいのかい。台詞は完璧かい。あんたも毎日、大変だな。同じことばっかりしていて、飽きないかい。あんたのこの遊びにつきあいはじめて、今日で何ヶ月目だろうね。もっとも、お得意様だから逆らえないけどね」

「意味不明のことを言わないでくれ。それよりも、運転していたのは俺だって? そんな馬鹿な……」

 俺は、ショックを受けた、という演技をする。

「その日、彼女を乗せた車を、俺が運転していただと……?」

 スタンドの主人が俺を追い払うような仕草をした。アクセルを踏んで、車を西へ向かわせる。

「くそっ! いったい、何がなんだかわからなくなってきやがった!」

 俺はハンドルを手で叩いた。

「あのガソリンスタンドの主人は、車を運転していたのが俺だという……。俺はその日、一日中、家の中にいたはずじゃないのか……!? いったい、何が起こっている!? 何が現実で、何が幻想なんだ!?」

 自分自身に疑いを持つ瞬間。自分についての確信がゆらぐ瞬間。ガソリンスタンドで交わした会話は、俺に真実を告げる。俺は心を引きしめた。これから起こることに対して、心の用意をする。

 いつのまにか周囲は雑木林である。絡み合う木の枝が道の両端を埋めている。車のライトが、一本のわき道を照らし出した。道は黒々とした絡み合う木々の中に延びている。俺は急ブレーキをかけた。

「……見たことあるぞ、この景色。そんな馬鹿な、俺はこんなところ、来たことがないはずなのに」

 ハンドルを切って、わき道へ進入する。車が一台、ようやく通り抜けられるほどの幅である。やがて広い場所に出た。ライトが正面の暗闇を照らし出す。白い光の中に浮かび上がったのは、古い木の小屋だった。

「俺はこの小屋を知っている……。俺は……」

 運転席を出て、辺りを見まわす。だれもいない。冷たい空気が、静かな森の中に充満している。俺は車のトランクから懐中電灯を取り出し、小屋に近づいた。入り口を開け、中に入る。

 かび臭い。呼吸するたびに嫌なものが肺の中へ入ってくる気がする。懐中電灯の光の輪が、小屋の内部を照らし出した。広くはない。まず最初に、暗闇の中で静かに立っている三脚とカメラが目に入った。ポラロイドのカメラだ。

 小屋の地面は土が剥《む》き出しだった。そこに穴が掘られている。カメラのレンズは穴へと向けられていた。俺はそこに近寄り、暗闇が水のように溜まっている穴の奥へ懐中電灯を向けた。

 俺は、それを見た。そして崩れ落ちるように膝をつく。

「たった今、思い出した……。なんてことだ……」

 俺は演技を続ける。これは一人芝居なのだ。演じるのは俺。観客も俺……。

「俺が彼女を殺したんだ……」

 俺はその場で泣いた。涙が頬を伝い、乾燥した地面に落ちて染みこんだ。傍らの穴の中には、彼女がいた。腐敗しきって、もはや乾燥し、虫さえもよりつかなくなった彼女だ。縮んで小さくなっている。

「俺が……。俺が彼女を……。そして記憶を封印していたんだ……」

 すべて俺の考えた台詞である。実際は忘れていなかった。すべて覚えている。しかし、そういうストーリーの芝居なのだ。

「これまで俺は彼女を殺害した犯人を追いかけていた……。しかし、俺こそがその犯人だったのだ……。彼女に酷いことを言われ、その憎しみのために俺は、発作的に……」

 嗚咽混じりに、俺はつぶやく。声は、自分以外にだれもいない小屋の中に響く。地面に転がった懐中電灯の明かりだけが周囲を照らしている。

 冷たい地面に手をつき、立ちあがった。全身が疲労で軋むようだった。穴の縁に近づき、上から彼女を見下ろす。穴の奥の、もはや人間の姿をしていない彼女は、砂埃に覆われ、半ば地中に埋もれている。

「……このことを警察に話さなければ。……俺は、自首しなければならない」

 決心して俺はつぶやく。それは台詞に違いなかったが、本心でもあった。心から俺はそうすることを望んでいた。

「……俺にその勇気はあるのか?」

 拳が震える。俺は自問自答する。

「……俺にその覚悟はできるか?」

 だが、やらなければいけない。俺は、人を殺したという罪から逃げてはいけないのだ。愛する人間をこの手で殺してしまったという事実を、俺は受け入れなければならない。

「それは困難だ……。それを認めることは、難しい……」

 首を横に振り、俺は心細くなって涙を流す。いったい、どうすれば俺は自首できるのだろうか。罪を告白できるのだろうか。

「明日になれば、俺は今の気持ちを失い、この事実を忘れてしまいそうだ……。再び記憶を封印し、実際はいもしない犯人を探しはじめるかもしれない……。俺は……狂っている……」

 手で顔を覆い、肩を震わせる。そして、あることを思いつく、という演技をする。

「そうだ……。自分を告発するための仕掛けをしておけばいい! 写真だ! 彼女の写真を撮影しておけば、俺はこの自分の罪を忘れないだろう!」

 ポラロイドカメラに近づき、シャッターを押した。穴の奥の腐敗した彼女が、一瞬、閃光に照らされて暗闇の中に浮かび上がる。音を立ててカメラが写真を吐き出した。

「この写真を見ることで、俺は自分の罪を思い出す。現実から目を背けようとしても、否応なく、自分の行ないを見せつけられる……。俺は、償いから逃げ出さない……」

 声を震わせて決心する。写真を持って、俺は小屋から離れた。

「警察へ向かおう……。そしてこの写真を見せて、俺が彼女を殺したと話そう……」

 懐中電灯をトランクに戻し、車に乗りこむ。ようやく画の浮かび始めた写真を、助手席に乗せる。俺は車を発進させた。

 暗闇の中を走る。踏みこんだアクセルの下から、エンジンの振動が伝わってくる。雑木林を抜けて、辺りは寂しい荒地だけの土地となる。ライトの中に、道路の白線だけが浮かび上がる。黒いアスファルトの周りは、さらに黒色の闇だった。

 助手席に乗せた写真は、今や彼女の腐敗した姿を浮かび上がらせている。室内灯を点《つ》けていないのではっきりとは見えないが、車のメーター類の発する明かりのため、ぼんやりとそれがわかる。

「俺は告白する。警察へ向かう。自分の罪を認める。俺は逃げない。逃げてはいけない。彼女は俺が殺した。……それはあってはいけないことだ。だが、あったんだ。それは事実としてあったんだ。……認めたくない。俺はそんなことをしない。なぜなら愛していたのだから。だけど、俺は殺してしまったんだ……」

 自分へ言い聞かせるように、俺はそう繰り返す。

 だが、俺は知っている。この先の展開を知っている。そのような台詞を言いながら、俺は、自分が警察になど行かないことを知っている。いや、行かないのではない。行けないのだ。本当はすべて認めて楽になりたい。だが、そうなるための決心が挫《くじ》けることを、俺は知っている。

 これは、毎日、毎晩、繰り返していることなのだ。今日だけではない。いつも一日の終わりに繰り返し上演している芝居なのだ。日が傾き始めたころ、俺は車の中で、握りつぶされた彼女の写真を拾う。自分に疑問を持つという芝居のスタートだ。ガソリンスタンドへ行き、芝居を手伝ってくれているスタンドの主人と話をする。毎日、ほぼ同じ時間に現れて、同じ台詞を繰り返す。俺は小屋を見つけ、彼女の死体を見て、自分の行なったことを思い出す、という演技をする。

 そして、警察へ向かう決心を固める。……この部分は、演技には違いないが、俺の望みでもあった。

 しかし、そうはならない。俺の決意が挫けなければ、今ごろとっくに囚人となって安らかな生活を送っているだろう……。

 来る途中に立ち寄ったガソリンスタンドの前を通りすぎる。すでに閉めており、スタンドは暗い。もうじき走ったところに、ある看板がある。俺の決意はそれを見た瞬間、崩壊する。わかっている。毎日、毎晩、繰り返されていることなのだ。

『200メートル先を左折・動物園』

 ライトに照らされる看板にはそう書いてあるはずだ。その下に記されている三文字の英語が、運転をする俺の目に焼き付くはずだ。

『ZOO』

 それを見た瞬間、俺の脳裏に彼女のことが思い浮かぶ。一緒に映画を見たこと。動物園に行ったこと。写真を撮ったこと。はじめて会ったときのこと。俺が孤児院で育ったという過去を打ち明けたときのこと。あまり笑わない彼女が、はじめて笑顔を見せたときのこと。それらが一度に俺の頭の表層へ浮上する。看板が暗闇の中から現れ、その横を通りすぎる瞬間、横の助手席に彼女が座る。現実に座るわけじゃない。しかし、死体の写真が彼女の姿となり、俺の方を振りかえり、そっと手を伸ばして髪を触る。そうなることは決まっている。

 俺は挫けるだろう。だめだ、自分が彼女を殺したなんてありえない……。そう考えるだろう。少し行った道の真ん中に車を停めて、子どものように泣き出す。アパートへ帰りつき、助手席に置いていた写真を郵便受けに入れる。せめて明日の俺がそれを見て決心してくれるように祈る。あるいは十二分の一秒長くした映像が、俺に覚悟をもたらしてくれるよう願う。彼女が死の直前に丸めた写真と、ガソリンスタンドの領収書とを、車内の所定の位置に置き、明日の夕方の用意をする。繰り返し行なわれる芝居の、それが結末だ。

 そうなのだ。結局、何もかわらない。一日を終えても、俺は彼女の殺害を自分で認めないのだ。変化しない。あの動物園で、檻の中をぐるぐる歩き回っていた醜い猿と同じだ。いつまでも同じ一日を繰り返す。朝になれば、郵便受けから写真を発見し、立ちすくむ。そうなることは、残念だけど決まっている。

 車が闇の中を進む。毎晩、通る道だ。もう何ヶ月、ここを走っているだろう。あと何ヶ月、俺はここを通るのだろう。もうすぐ看板が見えてくる。彼女との思い出を俺につきつけるあの看板だ。俺はハンドルを握り締め、次第に近づいてくる瞬間を待つ。

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