二人はそんなことを話しながら、サンダルを見つけられないまま、わたしが死んだ場所まで来ていた。南側の斜面を見下ろすように立っている三人の秘密の木は、昨日《きのう》の事など嘘《うそ》のように静かに佇《たたず》んでいた。踏み台にしていた石に血はついていない。昨日のうちに拭《ふ》き取ったのだ。折れて落ちていた木の枝も葉も散らかっていない。昨日のうちに健くんと弥生ちゃんが掃除したからだ。残る不安な要素は、普通なら、森の中になどあるはずもない花のサンダルだけだった。
この斜面を下まで転げ落ちていったのかもしれないな。そう考えながら健くんは南の斜面を見下ろした。村のお宮や小学校、遠い町の家並みが小さく見える。
弥生ちゃんも同じことを考えて下のほうを見つめた。スパイクを履いていない弥生ちゃんにはこの斜面はきついだろう。死なないまでも、足を滑らせて大怪我《おおけが》するかもしれない。
二人は捜索を始める決心をした。
しかしその時、弥生ちゃんが声をあげた。
「大変! おにいちゃん、あれ!」
指さしたのは斜面に見える細い車道。車道はこちらに向かって延びていて、ちょうどわたしが隠された場所のすぐ横を通り過ぎる。普段|滅多《めった》に車は通らないはずなのだが、その道を今こちらに向かって二台の茶色の乗用車が走ってくる。
二人はすぐにピンときた。おそらく警察の車なんだと思い当たる。捜索が始まるのは昼辺りからだと、健くんは思っていたのだった。
健くんは、すぐそこまで近づいてきた車に目を向けたまま、どことなく楽しそうに考えをめぐらせた。
弥生ちゃんは不安に顔を歪《ゆが》めて、斜面を下りかけていた健くんに強くしがみつく。
そうしている間にも二台の乗用車は車道からそれて森の中へと入ってきた。偶然にも車はわたしが隠されたすぐ上を通り過ぎる。そのとき、コンクリートの蓋《ふた》の隙間《すきま》からぱらぱらと土がわたしの体の上に降ってきた。しかしわたしは避けることも、開いたままの目や口を閉じることもできない。森の小道へと繋《つな》がっている広場で車は停《と》まった。
車から降りてきたのは山歩きの格好をした数人の男の人。その人たちの会話から、わたしを見つけようとする捜索隊だということがわかった。ときおり巻き起こる笑い声から、彼らはわたしがここで遭難したという考えに半信半疑であることもわかる。
そんな光景は、健くんや弥生ちゃんのいる斜面からは見えていない。
健くんは耳をすまして、捜索隊の車が森で停まったことを確認した。森の広場に車を停めることは予想していたらしい。それが当たったからなのか、それともわたしの居る溝にタイヤの跡《あと》がついた皮肉のためか、健くんの顔に笑みが浮かんだ。
「弥生、作戦を変更しよう。僕たちは隠れているんだ。そして警察の人の様子を木陰からスパイしようよ」
そうやって、捜索隊の調査の結果をできるだけ多く知ろうと考えているのだ。
健くんは不安に震える弥生ちゃんの手を優しく掴《つか》んで、普段は入らないような、道のない場所へと入っていった。
弥生ちゃんが滑らないように、怪我しないように、歩きやすいように、それでいて捜索隊に悟《さと》られないように、方向を選びながら健くんは進んでいった。
森の地形がぜんぶ頭に入っている健くんは、十数分で捜索隊の人数や動き、現在の位置までつかみとっていた。
もちろん捜索隊の人たちは、自分たちがこっそり見られていることに気づいていない。
調査に慣れた捜索隊によるわたしの調査と、森に慣れた二人による捜索隊の追跡が今、蝉の鳴き声がこだまする夏の森の中で始まっていた。
しかし夕方になっても、捜索隊は何も見つけることはできなかった。みんなはいよいよ仕事を投げやりにこなしはじめる。それもそのはずだ。本当にわたしがこの森にいるのかどうか、本当に自分たちは実のあることをやっているのか誰《だれ》も知らないのだから。少々疲れたような感じのただよう中、捜索が打ち切られようとしていた。
そんな様子を、健くんは少し残念そうに眺めている。健くんにぴったりと寄り添って、弥生ちゃんのほうは安堵《あんど》の息を漏《も》らした。
森の中に散らばっていた捜索隊は、トランシーバーから聞こえてきた作業打ち切りの知らせを喜んでいる。そして集合場所の広場のほうへと集まってきた。
「みんなが集まっていく。僕たちも行ってみよう」
低い声で囁くように言って、不安で肩を縮めた弥生ちゃんの手を引っ張る健くん。行き先は広場の見える辺りだ。うまくすれば何か重要なことが聞けるかもしれないと考えている。
しかし、わたしが隠されている溝の近くの木陰で、健くんの足は止まった。
わたしがいる溝の周《まわ》り。森の泥や土で巧《たく》みにカモフラージュされたその辺りで、二人の捜索隊員が会話していたのだ。
弥生ちゃんの顔が蒼白《そうはく》になっていく。健くんはそんな弥生ちゃんの肩を抱いて、二人は叢《くさむら》に隠れた。息を殺して二人の会話に聞き耳をたてる。健くんは汗を浮かばせることすらなく、会話を聞き取っていた。
「おい、そんなのいいじゃねえか。もう今日は終りなんだぜ、とっとと車に戻ろうぜ、これから酒を飲む約束だろう」
「そういうわけにはいかないさ、確かに女の子……五月ちゃんって言ったっけ? その子は誘拐されてここにはいないかもしれないけどな。どうもこの辺りだけ妙に不自然だと思わないか?」
捜索隊員の一人が森の一角を指さす。そこはまぎれもなくわたしの居る場所だった。
完璧《かんぺき》に森の地面と同じにしたはずだ。健くんの心はそう言っている。その顔にはどこかしら余裕があるようにも見えた。
もう一人のほうは興味なさそうな態度で煙草を吸っている。
「ふーん、どこが?」
「見ろよ、この辺りにだけスパイクの跡が密集している。子供用のスパイク。野球のやつだな」
ラジオ体操から帰って、二人はまずその辺りからサンダルを探し始めた。斜面を下りるために、健くんがスパイクを履いてきたのが裏目に出てしまったらしい。健くんはじっと黙って会話の続きを聞いていた。瞳《ひとみ》はなにかを計算しているようだった。
「おいおい、探してるのは女の子だぜ。それに母親の話だとサンダルを履いていたそうじゃないか」
乗り気のない相棒を無視して、捜索隊員の一人はわたしが隠されている場所に近寄った。そして地面を調べ始める。
弥生ちゃんは今にも恐怖に押《お》し潰《つぶ》されそうな気分でそんな光景を見ていた。
とうとう地面を手で払い始めた隊員の後ろで、相棒はやれやれと首を振る。
「なあ、今日の捜索は打ち切られたの。どうせまた明日もう一回やるんだから、その時に穴掘ればいいだろ。みんなもう待ってんだぞ!」
そんな言葉をまたもや聞き流し、わたしに近づいてきた男の人は、溝の存在を感じ取った。
「おい、コンクリートだ。水路かな? 地面に隠されてたぞ」
「それは違うね。長い間に土が降り積もって、森の地面の一角になったのさ。ごく自然にそうなるんだよ」
それでもこの隊員は納得できないらしい。
まな板のようなコンクリートの蓋をおもむろに持ち上げた。
弥生ちゃんは息だけの小さな悲鳴をあげた。
「ほら、なんにもないじゃねえか。さあ、もう行くぞ、俺《おれ》はこんな泥くせえ仕事とは早くおさらばしたいんだよ!」
蓋を開けてみると、そこには虚《うつ》ろな乾いた空間があっただけ。そこはわたしが寝かされているところから、少し場所がずれていた。もう三つほど左の蓋を持ち上げていれば、わたしの足の先が彼らの瞳に映っていたことだろう。
「そんなに急がなくてもいいだろ、まだまだ死ぬまで何十年も生きなけりゃならないんだからさ!」
言葉の最後に力を込めて、また左隣の蓋を持ち上げた。一つ、わたしに近づいた。
「はずれ」
「うるさい! もう金を貸してやらないからな、覚えてろよ」
仲間のおどけた声に憤慨《ふんがい》する男の人。さらに左の蓋にその手がかかる。あと一つだ。
「おにいちゃん、逃げようよ! 弥生と一緒に逃げようよ!」
とうとう恐怖に耐えられなくなったらしい。弥生ちゃんは泣きながら健くんの腕を強く引っ張った。しかし健くんに動く気配はない。じっと二人を睨《にら》むその瞳は、か弱い子供のそれではなかった。
「わりいわりい、その調子で次の蓋もがんばれよ」
「その調子ってなあ……」
隊員が手をかけていた蓋を持ち上げた。わたしの足の親指に斜めから太陽の光が当たる。冷たくなったわたしの体の一部に、生命のぬくもりにも似た夏の熱がこもった。もし男の人の目線がもう少し低ければ、わたしの爪先《つままき》が見えていただろう。残念ながら、わたしに気づいた様子はない。しかし次の蓋さえ持ち上げられれば、どんなに鈍感な人間でもわたしに気がつくのだ。
「おにいちゃん!」
周囲には聞こえないように、だが懇願《こんがん》にも似た響きで弥生ちゃんが叫んだ。
健くんは弥生ちゃんを無視して、地面に転がっていた拳《こぶし》より大きな石を静かに持ち上げた。弥生ちゃんにはわけがわからない。
「どうでもいいけどな、次ので終りにしようぜ。本当にみんな待ってんだぜ」
「ああ、わかったよ。これが最後だな。続きは明日にするさ……」
そういって、男の人はコンクリートの蓋に手を引っかけた。その具合が違っていれば、わたしの冷たい足先に指が当たっていただろう。
弥生ちゃんの全身から、血《ち》の気《け》が音を立ててひいていく。
その時、健くんは異常とも思える行動を起こした。
掴んでいた石で、力いっぱい、自分の顔を殴《なぐ》りつけたのだ。正面から、何度も何度も本気で顔に叩《たた》きつけた。
隊員の手に力がこもり、わたしの上の蓋が開き始めた。
健くんの鼻からどくどくと血が流れ出している。それは勢いよく、すぐにぽたぽた顎《あご》から滴《したた》り落ちていく。
「おにいちゃん!」
弥生ちゃんは思わず、二人にも聞こえるような大声で叫んでしまった。絹《きぬ》を引き裂くような悲鳴だった。
突然響きわたった声に、途中まで持ち上げられていたコンクリートの蓋が、捜索隊員の手から滑り落ちる。
二人の大人が勢いよく悲鳴の方向に振り返った。
振り返られた健くんは、顔を血だらけに染めながら、弥生ちゃんにこっそりウインクをしてそろそろと歩み出る。
大声で泣き叫ぶ真似《まね》をしながら、健くんは隊員たちの前に立った。弥生ちゃんもそれにしがみついている。
「うわあ、ひでえ鼻血!」
「どうしたんだい坊や。こっちへおいで、診《み》てあげるから」
血だらけの健くんを見て、わたしと数十センチと離れていなかった捜索隊の人が、そっちへ近寄っていった。
その時、その腰のベルトに引っかかっているトランシーバーから一方的に、『早く戻ってこい』の声がした。捜索隊の二人は苦笑する。どうやら本当に、今日はこれで終りにしなければいけないらしい。
「たしか救急用具が車の中に入ってたよな。俺はこの子を車に連れていくから、おまえはその蓋を戻しといてくれ。そこが閉まってないと車が上を通れないからさ」
そう言って、わんわん泣き叫ぶ健くんと、不安そうに泣いている弥生ちゃんの手を引っ張って歩き出した。
「おいちょっと待てよ! なんで俺がおまえの散らかした跡なんかを……」
相棒のわめき声を聞き流して歩いていく男の人に手を引かれて、弥生ちゃんは怖《こわ》くなった。このまま警察に連れていかれるのではないかと不安でたまらず、何度も後ろを振り返りながら歩く。
わたしのそばでは、残された一人がぶつくさと文句を並べ立てながら、けっこう重い蓋を閉じていた。
「坊やは、どこでなにをしていて怪我しちゃったんだい?」
泣きわめく真似をしている健くんに、捜索隊の人が優しく訊《き》いた。
健くんは少し泣きやみ、嗚咽《おえつ》を交《つまじ》えながら答える。
「転んで滑ったの、斜面で……」
そして片方の手で、血が溢《あふ》れ出して止まらない鼻をつまんだ。
男の人は健くんの答えに納得したのか、それ以上なにも聞かなかった。
健くんの鼻血は服を赤黒く染めて、それでもなお流れ続ける。
鼻をつまんでいる手を伝って、赤い滴《しずく》は肘《ひじ》からぽたぽた落ちていった。
寄り添った弥生ちゃんにその血は飛んでいき、健くんの好きな緑さんに少しでも近づこうと伸ばした長い髪に、吸い込まれていった。
それより少し前、緑さんはお宮のやしろの木の階段に腰かけていた。下から二段目、上から三段目だ。
今日、わたしの捜索が始まるということで、橘家にお邪魔して、それから何かお手伝いをしようとも考えているようだ。
その途中、ほんの気紛《きまぐ》れでお宮に来てみたのだった。
大きなつばのある白い帽子から長い髪を垂らし、ほんの少しの風にもゆれるような白いスカート。丈《たけ》が長くて地面についてしまうので、細くてしなやかな手の指でスカートを押さえて座っている。わんわんと鳴いている蝉を見上げて、緑さんは花火大会が二日後に迫《せま》っていることを思い出した。
村の子供たちが村の家々を回って三百円ずつ集めたお金で、盛大に花火を買うのだ。お店で買えるような小さなものばかりだけれど、みんなこの花火大会を楽しみにしている。その夜は、村の大人たちも一緒に花火を楽しんだり眺めに来たり、お宮に祭られた神様にお参りをしに来たりするのが、毎年のことだった。
たしか今、わたしが座っている辺りに賽銭箱《さいせんばこ》が置かれるんだったな。緑さんはそんなことを思い出しながら、木々の葉の間から零《こぼ》れ落ちる太陽の光を眺めていた。変化し続け、二度と同じ形に戻らない地面の木陰模様は、緑さんの心の奥を複雑な思いでいっぱいにする。
「子供の頃《ころ》はここでよく遊んだっけ」
独《ひと》り言《ごと》を言って、緑さんは古く乾いた木の階段を手でなぞった。木の筋が浮き出ていてざらざらする。
緑さんもこの村の子供だったという話を、聞かされたことがある。近所の男の子を好きになったけれど、とうとう実らなかったという話もしてくれた。その子は健くんに似ていたと緑さんは笑っていた。
「あらあら、これは犬の絵かな?」
揺れる木の葉の影絵を見ていた緑さんが、自分の足元の地面に描《か》かれている絵に気づく。それはわたしが死んだ日に描いた犬の絵だった。
「ああ、懐かしいなあ。あの頃は泥で汚れることも気にせずに、こうして絵を描いていたんだ」
よく見ようと、緑さんは地面に顔を近づけた。腰まである長い髪がさらりと揺れる。
その時、犬の唸《うな》り声《ごえ》が聞こえた。
はっとして、緑さんは顔を上げる。目の前に、今にも跳《と》びかかりそうに構えていたのは白い犬だった。
「あら、おひさしぶり、66じゃないのさ」
身構えていた66は、尻尾《しっぽ》を振って緑さんに跳びかかった。白い服に泥をつけながら、緑さんの顔を嘗《な》めた。
「それにしても本当にひさしぶりだね66。たしかこの辺りで君に餌《えさ》をあげてたんじゃなかったっけ? たしかわたしが君に意地悪して、この階段の後ろに餌を投げ込んだりとか」
66は緑さんに服従のポーズをとっていた。
この犬の変な名前も緑さんがつけたことをわたしは知った。
「そういえば君、みんなから評判悪いぞ」
化粧っけのない綺麗《きれい》な指先で66の鼻をちょんとつつく。その表情は幼馴染《おさななじ》みに出会ったように嬉《うれ》しそうな、まるで太陽のような笑顔だった。
「靴の大泥棒だってさ、盗んだ靴を君はいったいどこに隠しているんだい?」
66はくうんと可愛《かわい》らしく鳴いた。そして緑さんの座っていた階段の裏に回る。側面には木の板がはられていないので、犬ぐらいの大きさのものならば、裏側に回ることができるのだ。
緑さんはピンときて中を覗《のぞ》きこむ。
「おー、あるある。……にしてもよくこれだけ集めたもんだ」
階段の裏には村中の靴の片方だけが山となって積まれていた。その量に緑さんは呆《あき》れを通り越して感心してしまう。
66はそのままそこに寝そべってしまった。
緑さんはやれやれという表情で顔を上げようとした。そろそろ橘家に向かおう。その後の調べでなにかわかったのだろうか。そんな思いを巡《めぐ》らせていた。
しかし、上げようとした顔が途中で止まった。目の端に気になるものが引っかかったのだ。
それは66のコレクションの山の一角。緑さんは服が汚れるのも構わず、奥にあるそれに手を伸ばす。66は唸りもせず、不思議そうに首を傾《かし》げている。
指の先に目的物を引っかけて、腕を階段裏から引き抜いた。
暗がりから引っぱり出されたもの。それは片方のサンダルだった。花のついたそれを履いていた女の子を、緑さんは知っている。
細められていた緑さんの目に影がよぎる。未来をのぞきこむような、瞳の奥の知性の光が輝きをました。形の良い眉《まゆ》の間に怪訝《けげん》そうな細い縦皺《たてじわ》を寄せて、橘家の方角を見た。
そしてわたしのサンダルを66に返して帰っていく。自分のうちに帰っていく。
今日はやめた。橘家に行くのは明日にしよう。そういえば冷凍庫の中に、うちの工場で作ったアイスクリームの試作品があったはずだ。今日のお昼はそれを食べながら、連日ワイドショーを騒がせている、連続誘拐事件のその後を追ってみよう。緑さんはそんなことを考えながらお宮の広場を横切っていった。
夏の陽射《ひざ》しはじりじりと、靴の底を通しても、砂利の熱は伝わっているようだ。
昼間あれほど騒がしかった蝉の鳴き声さえも、聞こえなくなる夜。
空に浮かんだ星と月の淡く青白い光が夜を照らし出す。辺りは深海のように深い眠りに包まれていた。
わたしの体が隠されている溝の蓋が、健くんの手によって持ち上げられる。その隣には不安そうに、怖そうにわたしを見ている弥生ちゃんがいた。
わたしの移動の時間がやってきたのだ。次の日になればまた、捜索隊がわたしを探しに来る。そしてあの勘《かん》の鋭い隊員がわたしを見つけてしまうだろう。そう健くんは悟ったのだ。
あの後、健くんは二台の乗用車のところに連れていかれて鼻血の治療を受けた。大きな石で鼻の頭を殴ったのだから、鼻には大きな傷が残っていた。治療を受けた健くんに、家の場所や名前などが質問された。健くんと弥生ちゃんの二人がわたしを目撃した最後の人間だということを知っていたらしい。名前を答えると、多くの質問が待っていた。
不審な人物を見かけなかったか? そんな質問にも、健くんは正直に「見なかった」と答えた。でたらめに答えて、あの誘拐事件に巻き込まれたと思わせればいいのにと弥生ちゃんは思ったのだが、弥生ちゃんも健くんに合わせて答えた。嘘《うそ》で周りを塗り固めずに、大切な部分だけを偽《いつわ》ることが最も安全だと、健くんは直観的に悟っていたのだ。つきすぎた嘘が大きくなって崩壊《ほうかい》していくのを恐れたのだった。
弥生ちゃんの持つ懐中電灯の光の中で、健くんはわたしを抱《かか》えて溝から持ち上げた。その顔の中心には大きな絆創膏《ばんそうこう》が貼《は》ってある。
「怖いよう、怖いよう……」
そう小さく繰り返しながら周りの夜の森を見回す弥生ちゃん。健くんが夜中に起きたとき、ぺったりとくっついて寝ていた弥生ちゃんも起き出したのだ。残っていろと健くんに言われたのだが、夜の森よりも、健くんにおいていかれて一人にされるほうがよっぽど怖かった。一緒に蚊帳《かや》をくぐり、古びて鳥の鳴き声のような軋《きし》む音をあげる廊下を慎重に歩いてきた。家族が起き出さないように、いくつかの道具も揃《そろ》えてやってきた。
溝から出されて、夜の冷たい外気よりももっと冷たいわたしは、そのまま健くんに抱えられて、地面に敷かれた茣蓙《ござ》の上に寝かされる。変な方向にだらしなく曲がった首や手足をきちんと揃えてくれた。そしてわたしは茣蓙の上で『きをつけ』した格好になった。
「ちょっと茣蓙を切りすぎたかな?」
弥生ちゃんを元気づけるためだろうか、そう言って小さく苦笑した。
昨日わたしを背負ってみて、健くんはその運び辛《づら》いことに気がついたのだろう。力なくぶらぶらと揺れるわたしの腕や足にも懲《こ》りたのかもしれない。今度は、わたしを茣蓙で巻き込んで、疲れたときは弥生ちゃんと二人でわたしを持ち運ぶことにしたのだ。
捨てられていた古い茣蓙を裁縫《さいほう》用の裁《た》ちばさみで、わたしの背丈《せたけ》の大きさにじゃきじゃきと切る。だが切りすぎたため、のり巻きにされたわたしの爪先と髪の毛が両端から飛び出していたのだ。
そして健くんは、その上から茣蓙が自然に開かないように固く結ぶ。
家を出る時、ちょうどよい紐《ひも》が見当たらなくて弥生ちゃんは焦《あせ》った。お店でなにか買った時に商品を包んでいる包装紙や紐を、おばさんは「いつか役に立つ」と言ってとっておくたちなのだが、どこにしまっているのかを二人は知らなかった。おばさんを起こして訊くわけにもいかず、珍しく必要とされたお店の紐だが、せっかくの機会を逃《のが》してしまった。健くんはしばし考えて、自分たちの部屋の蛍光灯のスイッチの紐につけたされている紐を使うことにした。寝転がったまま明りを消すことができなくなってもかまわない。そういういきさつで用意された紐でわたしをくるんだ茣蓙を締《し》めた。
そして溝の蓋を閉めて、丸太を担《かつ》ぐようにわたしを運ぶ健くんに、弥生ちゃんが恐るおそる訊いた。
「おにいちゃん、これから五月ちゃんをどこに連れてくの?」
健くんは自分の家のほうに歩きながら答える。
「僕たちの部屋さ。今日の捜査を見てたら、そこが一番安全な気がしてきたんだ」
わたしは茣蓙に丸められているので、手足をぶらぶらさせることもなく、おとなしく運ばれている。
「押し入れの中に隠してさ、明日は一日中部屋で見張ってよう。
でもいつまでも置いておくわけにもいかないから、はやく次の隠し場所を見つけないといけないな」
弥生ちゃんの懐中電灯が足元を照らしてくれる。その光の中、健くんの表情は妙に楽しそうだった。
部屋に帰って、二人はわたしを押し入れに隠した。
健くんは宝物を隠すように、悪戯《いたずら》を企《くわだ》てる悪童のように押し込んだ。
弥生ちゃんは恐怖や不安の塊《かたまり》を隠すように、神様の目から自分の罪悪を遠ざけるように押し込んだ。
そして押し入れの襖《ふすま》は静かに閉じられた。
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三 日 目
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朝、ラジオ体操から帰ってきて健くんと弥生ちゃんは驚いた。おばさんが朝ごはんの用意とともに、二人を学校へ行かせる支度《したく》もしていたのである。
「なにつっ立ってんの二人とも。今日は登校日でしょう? 早くごはん食べなさい」
そして二人に朝ごはんを勧《すす》める。
二人とも、登校日のことをすっかり忘れていたのである。
夏の早い太陽はすでに熱をぎらぎらと発し、外は眩《まばゆ》いほどの明るさに満ちていた。
「お母さん、どこに行くの?」
わかめとたまねぎの入った濃い味噌汁《みそしる》にごはんを入れて食べていた健くんは、おばさんが自分たちの部屋に行こうとするのを見て尋《たず》ねた。
「あなたたちの布団《ふとん》を畳みにいくんですよ。それから蚊帳《かや》もね。あなたたちじゃあ天井から下がっている蚊帳に手が届かないでしょう?」
話を聞いて、怯《おび》えたように弥生ちゃんが健くんのほうを見る。いつも布団をしまっている押し入れには今、わたしが入っているのだ。おばさんがあそこを開けてしまうと、自分たちのやったことがばれてしまう。そんな不安が既に浮かんでいた。
しかし、健くんはさほど動揺した様子も見せずに涼しい顔で答えた。
「そんなこといいよ、たまには僕らがやる。何事も経験って言うじゃないか。だからお母さんも朝ごはんを食べなよ」
「なにませたこと言ってんのよ、この子は」
おばさんはそう言いながらも、自分の仕事が一つ減ったことを喜んでいるようだ。
そして台所のほうへと消えていってしまう。
健くんと弥生ちゃんは朝ごはんをかきこんで、自分たちの部屋へと戻ってきた。
「どうするのおにいちゃん! 弥生たちが学校に行ってる間に、お母さんが押し入れ開けちゃうかもしれないよ!」
部屋の天井の四隅《よすみ》から吊《つ》ってある青い蚊帳を、椅子《いす》を使って器用にはずしていく健くんに向かって、弥生ちゃんは言い放つ。その顔は今にも泣き出しそうだ。
「大丈夫だよ弥生。畳んだ布団を五月ちゃんの上に被《かぶ》せてしまえば、そうわからないって」
にこやかに、元気づけるように健くんは言った。
青い蚊帳が小さく畳まれて押し入れの中にしまわれる。押し入れは上段と下段に分けられていて、いつも布団が入れられている上段のほうに、茣蓙《ござ》にくるまれたわたしが寝かされていた。その上に蚊帳はのせられた。
押し入れの下段のほうには、市い座布団や冬服、昔使っていた旧《ふる》い掃除機などが入っている。
「でも、でも……」
「大丈夫だよ」
根拠はないのだが、健くんが微笑《ほほえ》みながらそう言うと、本当になんとかなる気がしてくるから不思議だ。
弥生ちゃんは目にたまった涙を手で拭き取り、いつも寝る時に自分がくるまっているタオルケットを畳んだ。黄色のそれは貰《もら》い物《もの》だ。
健くんは二枚の敷き布団を畳んで押し入れに運ぶ。最近は、弥生ちゃんは健くんと同じ布団で寝ているので実際には必要ないのだが、一応二枚とも敷いているのだ。
わたしの上に敷き布団がどさどさとのせられる。それはけっこう重く、わたしは圧迫感を感じた。もし生きていれば、この暑苦しい季節、死ぬほど辛《つら》い思いをしたことだろう。
「あらら、足がはみ出てるなあ」
わたしにのせられた敷き布団は、わたしの足までは隠せなかったようだ。切りすぎた茣蓙も全身を包みきれていないため、わたしの足——一方はサンダルを履《は》いて、一方は裸の足——が外から丸見えの状態なのだ。わたしは少し恥ずかしさを覚えた。
「おにいちゃん、これ使って」
弥生ちゃんは自分の黄色いタオルケットを差し出した。
健くんはそれを受け取り、わたしの剥《む》きだしの足に被せる。
「うんぴったりだ」
タオルケットですっかり足が隠れてしまったのを確認してから、健くんは嬉《うれ》しそうに言った。健くんが嬉しいと弥生ちゃんも嬉しくなる。少し赤くなった。
はみ出ている所がないのをもう一度確認して、二人は襖《ふすま》を閉じた。
そして、もう一週間以上使っていないランドセルに、連絡帳や今日の日付のところまでやっていた夏休みの宿題を入れる。
「たしか登校日は午前中で学校が終わるから、五月ちゃんが見つかる恐れは本当に少ないはずなんだ」
弥生ちゃんにそう言って、健くんはすばやく支度を終える。
そして二人一緒に玄関を出た。すでに蝉《せみ》の声は辺《あた》りに響き渡っている。まだ田干《たぼ》しの続いている稲は太陽の恵みをいっぱいに受けとって濃い緑色になり、木々は腕を伸ばして澄み渡る空を掴《つか》もうとしていた。
朝はわたし以外の全てのものの上にやって来て、わたし以外のみんなは生きていた。
わたしたちの小学校には、一学年に一クラスしかなかった。だから同《おな》い歳《どし》のわたしと弥生ちゃんは同じクラスだった。今は朝のホームルームの時間。
「先生、五月ちゃんがまだ来てません」
わたしの席があいているのを見て、隣の席の女の子が先生に報告した。わたしがいなくなった日からまだ三日目。クラスの子供たちはまだ何も知らないのだ。ただ一人を除いて。
弥生ちゃんは青ざめて、震えていた。その女の子のほう、そしてわたしの席のほうから懸命に目を逸《そ》らし続ける。
「……五月ちゃんは、夏風邪《なつかぜ》でお休みです。みんなは風邪をひかないように気をつけてくださいね」
担任の先生はつくった笑みを浮かべてそう答えた。どうやらわたしのお母さんから事情を聞いて知っているらしい。
クラスのみんなは「はーい」と元気よく合唱する。その顔には無邪気な笑顔が広がっていて、まるで将来が約束されているような、未来を約束したくなるような明るさに満ちていた。
「おにいちゃん……」
誰《だれ》にも聞こえないように、半分心の内で呟《つぶや》くように弥生ちゃんは小さく泣いた。身を縮め、足をがたがたと震わせている。「おにいちゃん」そう呼ぶと、健くんが自分を助けてくれるような気がしたのだ。
大丈夫、誰にも見つからないし、誰も知らない——弥生ちゃんの頭の中に健くんの言葉が響く。机の落書きに目を向けたまま、弥生ちゃんの心臓の高鳴りは静かに引いていった。
午前中の辛抱《しんぼう》だ。そう自分に言い聞かせたその時、先生がやけに自分を見ているのに気がついた。
そして先生は弥生ちゃんのほうへとゆっくり歩み寄ってくる。
気づかれたの!? 他人が見てもわかるほどの大きな震えを気づかれたのだろうか。
弥生ちゃんの心臓がまた早鐘《はやがね》を打ち始めた。全身から汗が滲《にじ》み出る。
そして先生は弥生ちゃんの横で立ち止まった。その細い肩に手を置く。
できれば、その場から逃げ出したかった。そして健くんのいる教室まで走っていきたかった。
きっとばれちゃったんだ! 弥生を捕《つか》まえて警察に連れて行っちゃうんだ!——弥生ちゃんの頭にそんな考えが浮かんだまま消えない。
先生は弥生ちゃんの耳に口を近づけて、他の子供たちに聞かれないように囁《ささや》いた。
「あなたは五月ちゃんが行方不明なのを知ってるのね。かわいそうに……一番のお友達だったものね。
でもお願い、他のお友だちには黙っててほしいの。先生の言っていることわかる?」
哀《あわ》れむように、労《いたわ》るように、先生は顔に悲しい色を湛《たた》えていた。
弥生ちゃんは、ぴくんと弾《はじ》けるように顔を先生に向けた。そして先生の言葉の意味を理解すると、ぶんぶんと頭を縦《たて》に振る。
「……弥生ちゃん……」
先生は元気づけるようにその手を優しく握《にぎ》り締《し》め、そして他の子供たちに気づかれないうちに弥生ちゃんに別れを告げて教室を出ていった。そして一時間目が始まるまでの短い休み時間に入る。
弥生ちゃんには、周《まわ》りを友だちが飛び回るように、踊り舞うようにぐるぐると回転しているように見えていた。
そして自分が助かったのだと気づいて嬉しくなる。
涼しげな風が吹いて、全身の汗がひいていくのがわかった。
「ただいまあ」
そう言って弥生ちゃんは玄関をくぐった。その後ろには健くんが続いている。
あの後は何事もなく時は進み、弥生ちゃんのほうが早く終わったのだが、健くんと一緒に帰るために数十分心細く待っていた。そして一緒に家まで帰ってきたのである。
「お母さん、どこ? 弥生はらぺこだよう」
そして健くんと一緒に自分の部屋に入った。
「お母さん!」
弥生ちゃんは短く叫んだ。
おばさんは二人の部屋にいた。二人の部屋の、わたしがいる押し入れを開けて、何やら探し物をしていたのだ。
「お母さん、何してるの?」
健くんが何気《なにげ》なく言った。おばさんが出したり入れたりしているのは、同じ押し入れでも、わたしの隠されている上段ではなく下段のほうだったのだ。しかし、ちょっとでも上段の布団やタオルケットを動かしてしまっていたら、茣蓙からはみ出たわたしの髪の毛や足の指が見えていただろう。
「それがね、今使っている掃除機の調子がおかしいんだよ。せっかくあなたたちの部屋をお掃除しようと思ったのにねえ。だから昔使ってた旧《ふる》い掃除機を出そうかと思ってねえ、たしかここに入れといたはずだろう?」
「そんなのいいよ、僕たちの部屋くらい自分で掃除するからさ、お母さんは『笑っていいとも』でも見てなよ。な、弥生」
弥生ちゃんは大きな目をびっくりしたようにおばさんに向けて、頭を何度も縦に振った。
「あらそう、それなら助かっちゃったわ、お母さん。頼んだわね」
そう言って、押し入れの襖を閉めて立ち上がる。そして部屋を出ていった。
弥生ちゃんは安堵《あんど》して胸を撫《な》でおろす。健くんはごく当たり前の様子でランドセルを机の上に置いた。
そして弥生ちゃんは、今後わたしをどうするのかを健くんに尋ねようと口を開いた。
「ねえ、おにいちゃん。これから……」
その時、何の前触れもなく部屋の襖が開いた。隙間《すきま》からおばさんの顔が覗《のぞ》き見える。
「お母さん、まだなにか?」
口を開いた状態で硬直してしまった弥生ちゃんに代わって、健くんが訊《き》いた。
「お昼ごはんできてるからね。掃除は後でいいから早くいらっしゃい」
「はいはい。わかったよ」
健くんのそっけない答えでも満足したのか、おばさんは襖を閉めた。
弥生ちゃんのかなしばりが解ける。
「あー、びっくりしたあ!」
その時、またもや襖が開けられる。性懲《しょうこ》りもなく現れたのはやはりおばさんだった。