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作者: 当前章节:15394 字 更新时间:2026-6-23 00:32

「なにがびっくりしたの?」

 弾かれたように弥生ちゃんは振り返り、泣きそうな顔でまた硬直する。

「ふうん、まあいいけどさ」

「お母さん、今度はなに? そのしつこさはまるでゴキブリかジョッカーみたいだぞ」

「なんなのよそれは……。あのね健、あなた最近妙にいい子だね。布団も掃除も自分でやるなんて、まるでNHKみたい」

「そっちこそ、なんなんだよいったい……」

 珍しく健くんは小首を傾《かし》げた。

「とにかく、最近妙に弥生とも仲がいいし、まるで何かお母さんに隠しごとしてるみたいだと思って。ただそれだけよ、言いたかったのは」

 そして襖が閉められた。健くんは耳をそばだてて、おばさんが歩み去るのを確認する。

「……お母さん行っちゃった?」

 弥生ちゃんは恐るおそる健くんに訊いた。

 健くんは無言で頷《うなず》き、弥生ちゃんのほうにふりかえって微笑んだ。

 おばさんの最後の台詞《せりふ》を心にとめながら、二人は押し入れを開けてわたしが逃げていないかを確かめた。

 昼食をとって二人は部屋に戻る。そして作戦会議をひらいた。

「おにいちゃん、これからどうするの? このままここには置いとけないよう……」

 困ったように、泣きそうに、弥生ちゃんは言った。

 しかし健くんは前からその問題についての答えを見つけていたようだ。健くんは弥生ちゃんに、何も難しいことなんかないんだというような顔をして答える。

「前から考えてたんだ。弥生も薄々気づいてたんだろ、お宮の石垣の穴の中に投げ込めばいいってことを。そうすれば誰にも見つからない。五月ちゃんはやっぱり連続|誘拐《ゆうかい》事件に巻き込まれたんだって、思わせることができることをさ」

 健くんが言った作戦に弥生ちゃんは頷いた。

 お宮の敷地のあの石垣。わたしが死ぬ前、健くんを待ちながら、弥生ちゃんと一緒に見上げていた、あのお城の土台のような所。

 あの上には、石の一つが外《はず》れていて、ぽっかりと石垣に井戸のような空間が口を広げている。子供たちのお菓子の屑《くず》や空き袋を投げ入れるごみ箱と化している穴だ。その穴にわたしを投げ込もう。そう健くんは言っているのだ。

 どうやら二人とも、だいぶ前からそうしたらいいと思っていたようだ。

「うん。それでいつ五月ちゃんを運ぶの?」

「そうだな、早いほうがいいな。この暑さじゃ、いつ五月ちゃんが臭《にお》いだすかわからないしな」

 わたしが腐《くさ》って臭いだす。弥生ちゃんは想像してしまったのだろう、顔をしかめた。

 もう数時間したら、わたしが死んでから丸二日になるはずだ。

「今日の夜中に行こう。明日の夜は花火大会だろ? たぶん明日の晩のお宮は夜遅くまで人がたくさんいるはずだ」

 年に一度の花火大会だ。村規模の小さなものだが、村の半分近い人間が集まるはずだ。

「弥生わかった。それじゃあ今日も早く寝なくちゃいけないね。お昼寝しなくちゃ」

 見通しがついて、弥生ちゃんはどこかしらほっとした様子だ。

 そんな弥生ちゃんの様子を見て、健くんもどことなく嬉しそうだった。でもなぜか残念そうな表情にもとれる。健くんは意外とこの状況を楽しんでいたのだった。

 昨日、妙に勘《かん》の鋭かった捜索《そうさく》隊員は、今頃もぬけのからの溝を調べているのだろうか。そしてあの口の悪い仲間に笑い者にされているのだろうか。そんなことを考えながら、健くんは捜索隊員が顔に貼《は》ってくれた絆創膏《ばんそうこう》をいきおいよく剥《は》がした。傷は塞《ふさ》がってかさぶたになっている。剥がした絆創膏をごみ箱に投げ入れて、おばさんとの約束どおり掃除を始めようと押し入れを開けた。旧い型の掃除機がそこに入っているはずだ。

「さあ、弥生、お昼寝の前にお掃除だ。掃除してないとお母さんに怪《あや》しまれるだろう?」

「うん。お掃除だね」

「じゃあわたしも手伝ってあげよっか」

 突然襖を開き、部屋へ入ってきた人を見て二人は驚いた。目を大きく見開いて体が固まる。

「緑さん!」

「やっほー、今日のアイスクリームは新製品だぞー。まだお店には出回ってない商品なんだから感謝しなさい、この緑さんに」

 両手にぶら下げた白いビニール袋をぶらぶらさせて、緑さんは胸を張って言った。袋には水滴がついている。

「それじゃあ居間で食べようよ緑さん」

 後ろ手に押し入れの襖を閉めて、健くんは提案した。弥生ちゃんもぶんぶん首を振る。しかし、緑さんは賛成しなかった。

「それがね、叔母《おば》さんが……きみたちのお母さんが居間で爆睡中なのよ。だからここで食べましょ。大サービス、夏休みの宿題も教えてあげちゃうぞ緑さんは」

 不安そうに健くんを見上げる弥生ちゃん。健くんはしようがないなという風《ふう》に頷いた。

「……そう。じゃあこの部屋で食べよう。待ってて、今、座布団出すから」

 そう言って健くんは押し入れを開けた。弥生ちゃんは息が止まりそうになる。わたしの下、押し入れの下段から座布団を引っ張り出して、緑さんに渡した。自分たちの分も引っ張り出して、畳の部屋に三枚の座布団が並ぶ。

 ふと緑さんが蛍光灯を見上げた。

「あれれ、スイッチに紐《ひも》がつけたされてないわね。最近までついてたんじゃなかったっけ?」

「切れちゃったんだよ。長年使ってたからね」

「そうなの? 普通、ああいう紐は子供がぶらさがっても切れないはずなんだけどな」

 三人は座って、中心に置かれた新製品のアイスクリームを手に取る。

「わあお……」

 弥生ちゃんは感嘆《かんたん》の溜《た》め息《いき》を漏《も》らした。

 そのアイスは初めて見るタイプのもので、透明な背の高いカップに入っていた。まるでレストランのチョコパフェのように豪華な作りだ。

 三人は、これも初めて見るような長い木のスプーンでそれを食べ始めた。

「おいしい!」

「そうよ、うちの工場のアイスはみんな美味《おい》しいのよ。弥生ちゃんもクラスのみんなに言いふらそうね。

 でもこのアイスは特別なのよ。なんたっていつものアイスより値段が高いんだから」

 そんな話で盛り上がりながら、三人は豪華なアイスを食べ終えた。

 弥生ちゃんは食べ終わっても名残惜《なごりお》しそうにカップの内側を何度もスプーンでこすっては、舌で嘗《な》めている。

 それからもひとしきり雑談して、健くんや弥生ちゃんの宿題の話になった。

「ふうん、『夏休みの友』か。変わってないんだね、昔からこの困った友だちは。

 どれどれ……」

 そんなことを言いながら、まず弥生ちゃんの宿題から眺めはじめた。宿題の本の名前は『夏休みの友 小3』。一学期の終りの日、わたしも同じものをもらって学校を出た。たしかわたしの勉強机の上に今も置きっぱなしだ。

「あら、結構できてるじゃない。優秀なんだね弥生ちゃんは。

 十年前のわたしはこんなもの犬に食べさせてたよ。冗談だけど」

「来年は成人なの緑さんは?」

 健くんが緑さんのほうを見て言った。緑さんは照れたように頭を掻《か》いて「うん」と頷いた。

「君はさらに優秀だねえ」

 健くんの宿題を開いて、緑さんが驚いたように言葉を漏らす。

 そういう風に会話しながら、健くんと弥生ちゃんは勉強を始めた。わからないところがあったら後ろでくつろいでいる緑さんに尋ねるといった感じだ。

 そのまま三十分ほど経過した頃だろうか、暇な緑さんはわたしの話を始めた。

「ほんと、五月ちゃんどうしちゃったんだろ。無事だといいんだけどな」

 二人の勉強する後ろ姿を見ている、というより観察している。

 微動だにしない健くんと対照的に、弥生ちゃんの肩がほんの少しぴくりと動く。

 緑さんはそれを見逃《みのが》さない。その黒い瞳は無表情に二人に圧力をかけていた。

「本当だね、誘拐犯人に殺されてなきゃいいね」

 健くんのその言葉に、緑さんは興味深そうな表情と声音《こわね》で訊いた。なぜかおかしそうに、おもしろそうに形の良い唇《くちびる》が笑みをつくっている。

「へえ、健くんは、五月ちゃんが誘拐されたと思ってるんだ。まだテレビでは何の発表もやってないんだよ」

「だってそれしか考えられないじゃないか。捜案隊もまだなにも見つけてないんでしょ? この前もニュースになってた連続誘拐事件に巻き込まれたんだよ。他の誘拐のときも何の手がかりも見つからなかったって、テレビで言ってたし。あの事件はこの近くの県で起きてるじゃないか。今までうちの県で何もなかったのが不思議なくらいだって、お母さんが言ってたよ」

「うーん、そうだねえ。もしかすると犯人はわざと、この県で子供を誘拐するのを外《はず》していたのかもね。

 それにしても健くんは本当に頭がいいんだね。おどろいちゃったよ」

 緑さんは正直に褒《ほ》めた。健くんは珍しく顔を赤く染めた。そしてそれが恥ずかしかったのだろうか、

「あ、僕、コーヒー作ってくるよ」

 そう言って部屋を出ていった。

 緑さんはそんな健くんを少しにやけながら見送り、弥生ちゃんを振り返る。

「あらら、寝ちゃってるじゃないか、この娘《こ》は。疲れちゃったんだね……」

 机にぐったりとつぶれている弥生ちゃんを眺め、くすりと微笑む。そして起こさないように気をつけながら畳に寝かせた。

 頬《ほお》に鉛筆で鏡面印刷された計算式を見て、声を殺して緑さんは微笑んだ。

 しばらく懐かしそうに弥生ちゃんの寝顔を見つめていたのだが、急に思い立つ。

「そうだ、なにか上にかけてやらないと風邪をひいちゃうじゃないか。そういえば黄色のタオルケットがあったよな。わたしの使い古しだっけ?」

 そして立ち上がり、ゆっくりと足音をたてないように押し入れに近づいた。もちろん弥生ちゃんを起こさないように気をつけているのだ。

 そして押し入れの襖を開ける。ゆっくり、静かに開ける。

「あったー」

 すぐにそれは目に入った。

 緑さんの真正面、そこに、いつも弥生ちゃんが使っている黄色のタオルケットが置かれている。正確に言えば、茣蓙からはみ出たわたしの足を隠すために被せてあるのだった。それは、わたしを隠すためにはあまりにも薄く、脆《もろ》い壁だった。

 緑さんはタオルケットの端を摘《つま》む。そしてそろそろと引っ張っていった。

 タオルケットはゆっくりと緑さんのほうに滑って流れていき、足にかかっている小さな圧力が徐々に減っていく。

 そして最後の最後がわたしの爪先《つまさき》に引っかかった。

 訝《いぶか》る緑さん。引っ張る力を強めたその時、とうとうタオルケットは全て取り払われてわたしの足があらわになった。その瞬間。

「きゃあ!」

 緑さんにぶつかるように、健くんが転んだ。そのまま、勢いで緑さんは畳に倒れる。健くんもその上に倒れこみ、持っていた丸い盆とその上にあったアイスコーヒーを辺りにぶちまける。ガラスのコップは壊れなかったし、三人にコーヒーは引っかからなかったが、大変な惨事《さんじ》だ。

 物音に気づいて、弥生ちゃんが眠りの世界から帰ってくる。

 目をこすりながら見たものは青白いわたしの足だった。

 弥生ちゃんの呼吸が止まる。そして一瞬で眠気が消え去った。こちらが夢ならいいのにと心が叫んでいる。

「あいててて……。あーあ、畳がびしょ濡《ぬ》れだねえ。まあわたしが濡れなかっただけましか。それにしてもドジすぎるぞ君は、暑くて泳ぎたい気持ちはよくわかるが……」

 周りを見回して言う緑さん。ちょっと怒って、ちょっと笑って。その様子だとわたしを見てはいないようだ。

 緑さんの目が畳の惨状に向いている間、弥生ちゃんは素早く押し入れに近づき、襖を閉める。緑さんはそれに気づいた様子はない。

「ごめんなさい。足が引っかかっちゃって……。まったく、世話のやける足だ……」

 そして健くんは、盆やコップ、アイスコーヒーに入れていた氷を拾い集めた。そして緑さんに見えないよう、弥生ちゃんに「よくやった」のサインをした。

 弥生ちゃんの顔が急に明るくなる。

「弥生、雑巾《ぞうきん》持ってくるね!」

 そう言って部屋を出て駆けていこうとする弥生ちゃんを、緑さんは呼び止めた。

「ちょっと待って弥生ちゃん……」

 呼び止められて弥生ちゃんは凍《こお》りつき、健くんと一緒に氷を拾っている緑さんを不安そうに見た。

「……あのね、叔母《おば》さんを起こさないようにね。この光景見たら怒るぞー」

 両手の人差し指を立てて頭にもってくる。

「うん!」

 そして弥生ちゃんは駆けていった。

 夜はふけ、命のある者は眠りにつく時間となった。

 道に人通りはまったくない。それを確認して二人はわたしの移動を開始した。誰にも見られてはいけない。誰にも見せてはいけない。それが大切だった。

「おにいちゃん、今何時?」

 眠い目をこすりながら、夢の世界の残《のこ》り香《が》を味わいながら、弥生ちゃんは健くんに訊いた。

 わたしを担《かつ》いだ健くんは夢の世界とは関係なさそうな醒《さ》めた声で答える。

「もう三時半だよ。弥生、急がないと朝になっちゃうぞ」

 二人……わたしを入れて三人は、まだ家を出たばかりだった。

 健くんたちの住む橘家からお宮まではずいぶん遠い。その道程《みちのり》をわたしを担いで進むのかと思うと、さすがの健くんもげんなりとしてしまうようだ。

 どんなに大人《おとな》びたことを言っても、まだわたしと二つしか歳は違わないのだ。わたしを担ぐのは健くんにとって重労働だろう。

「大丈夫? 弥生が足のほうを持とうか? おにいちゃん、大丈夫?」

 懐中電灯で砂利道を照らしながら寄り添って歩く弥生ちゃんが尋ねる。

 懐中電灯の丸い光に照らされて、砂利道の両側の稲が緑色の細長い葉をぼんやりと浮かび上がらせる。

 まだまだお宮までは遠く、その歩みは遅々としたものだった。

「そうする。たのむよ弥生」

 健くんはそう言ってわたしの足のほうを弥生ちゃんに差し出した。弥生ちゃんは懐中電灯を健くんに渡して、差し出されたわたしの足を両手で気持ち悪そうに持ち上げる。

 農作業に使っている一輪の小さな荷車を使えばよかったと、健くんは珍しく後悔《こうかい》した。

 お宮までの道がこんなに長く、わたしの死体がこんなに重いのだと、そのとき初めて知ったような気がしていた。

 月明りも星明りも弱々しく、闇《やみ》の中を二人はゆっくりと進んでいった。ときには休み、励《はげ》ましあって歩く。

 そしてお宮までもう百数十メートルといった所までやって来たところでまた休憩をとる。

「おにいちゃん、弥生疲れた……。続きはまた明日にしようよお……」

「明日か……。花火大会があるけど、今日と同じくらいの時間なら、さすがにお宮に人気《ひとけ》はないだろうな。

 でも五月ちゃんをどこに隠しておくんだ?」

 健くんの言葉に、弥生ちゃんは幼い顔で真剣に困った顔をつくって考える。健くんも、懐中電灯の光に寄ってくる虫を手で払いながら考えていた。健くんのほうは最初からの今晩中にわたしを運び、石垣の穴に投げ込む考えを変えてはいない。

「さあ弥生、お宮はもう少しだ。もう少しで五月ちゃんの行方をまったくわからなくすることができるんだぞ」

 そう言って健くんは気力を振《ふ》り絞《しぼ》った。地面に座り込んでいた弥生ちゃんも立ち上がる。

 お宮の石垣の中にわたしが投げ込まれれば、本当にわたしの行方は誰にも知られることはなくなるだろう。倉庫と同じくらいの石垣は大きく、その中に広がる暗闇色《くらやみいろ》の空間はどんなにごみを投げ入れても埋まることはなかった。もうずっと長い間風雨にさらされ続けながら、作った人が死んだ後も、村の子供たちの思い出をその中に閉じ込めて。

 しかし、二人がやる気を出してわたしを持ち上げようとした時だった。

「おにいちゃん、あれ!」

 健くんも同時に気がついていた。遠く、道の端のほう、家並みの向こうから明りが出てきたのだ。それは懐中電灯の光。おそらく人が明りを持って歩いてくるのだ。明りが近づいてくるのが見えているだけで、その持ち主が人間なのかどうかまだ認められないが、それが人間でなかったら何者だというのだろう。

 休んでいる時のまま地面に置かれていた懐中電灯が、下から二人を照らし出していた。おそらく向こうの人間にも気づかれているだろう。たとえ人影として見えていなくとも、懐中電灯の明りは届いているはずだ。

「おにいちゃん、どうするの!? おにいちゃん!」

 弥生ちゃんは混乱して、泣き叫ぶように健くんに問う。健くんは何事か考えている様子で、弥生ちゃんの問いには何も答えなかった。

「おにいちゃん!」

 その間にも明りは二人のほうに近づいてくる。地面からの懐中電灯の光に気づいて、夏の虫のように寄ってくるのだ。

 健くんは辺りを見回して、自分の考えに落ち度がないか素早く確認する。

 近づいてくる明りの中に人影はまだ浮かんでいない。そして隠れる場所も何もない。砂利道の周りは稲の広がるたんぼ……。

「弥生、そっちだ!」

 健くんは弥生ちゃんの体を押して、自分たちの後ろの暗闇に広がる緑の絨毯《じゅうたん》に突き落とした。あとから健くんもわたしを抱《かか》えて、懐中電灯の明りを遮《さえぎ》らないように注意して逃げ込む。

 そして健くんは弥生ちゃんと一緒にたんぼの中を少し走って、自分たちの置いてきた懐中電灯が小さく見える辺りで腰を下ろす。夏の陽射《ひざ》しに命をもらうように背の伸びた稲は、ちょうど二人とわたしを隠す壁となり、ただ当たり前にゆらゆらと揺れていた。

 近づいてきた明りを息を殺して観察する。蒸し暑い夜だから二人の全身を熱気が包みこみ、汗がじわりとわいてくる。稲の青くて若い香りに息がつまりそうだ。

 ちょうど、たんぼの地面が露出している田干しの時で、運がよかった。いつものように稲の喉《のど》が渇かないよう満々と水が湛えられていたら、足が泥にとられて走れなかったかもしれない。それ以前に、たんぼに逃げ込むという考えすら浮かばなかったかもしれない。

「おにいちゃん……」

「しっ」

 弱々しく呼んだ弥生ちゃんに、人差し指をたてて健くん。

 近づいてきた明りの中に人影が浮かんだ。

 遊びがすぎた子供をよく叱《しか》ることや、漫画にでてくる『カミナリさん』と呼ばれるおじいさんに似ていることから、子供たちに『カミナリじいさん』と呼ばれているおじいさんだ。毎朝早くから、ラジオ体操の始まる前のお宮の広場でゲートボールをしているお年寄りの一人。たしかそんなゲートボールクラブの代表だったと思う。

 二人が残してきた懐中電灯に歩み寄り、そのおじいさんは音を傾げた。腰の鍵束《かぎたば》がじゃらりと音を鳴らす。お宮の倉庫の鍵だ。倉庫にはゲートボールの用具や農作業器具など、いろんな物が詰め込まれている。

 二人は祈るようにおじいさんを見ていた。弥生ちゃんは健くんに体をくっつけて震えを止める。今夜も風が吹いていないため、ますます暑くなって汗が伝い落ちる。二人の汗は混ざり合い、乾いたたんぼの地面に転がったわたしの上、わたしをくるんだ茣蓙の上にと滴《したた》り落ちる。

 弥生ちゃんは今にも泣きそうだ。

 地面に落ちている懐中電灯を拾い上げて、カミナリじいさんは不思議そうな表情を湛えていた。なぜこんな所に明りのついた懐中電灯が? そんな感じの表情だ。

 その表情から、自分たちはまだ見つかっていないことを健くんは悟《さと》る。予想どおりだった。こちらがそうだったように、向こうも懐中電灯の明りだけしか見えていなかったのだ。

 しかし油断はしない。

 おじいさんは落ちていた懐中電灯のスイッチを切って、持っていた自分の懐中電灯で辺りを見回した。念入りに、まるで逃げた鼠《ねずみ》を追うように。カミナリじいさんは落ちている懐中電灯に近寄った時、たんぼに逃げ込む小さな人影を見たような気がしたのだ。その逃げ込んだ辺りを念入りに調べる。二人は体を強張《こわば》らせ、重なり合うようにわたしにのしかかった。息を止め、必死で死人の真似《まね》をする。明りが目の前の稲を鮮やかに照らすたびに、自分たちが影絵となって稲の中に浮かんでいるのではと危惧《きぐ》する。なぜかこちらのほうばかりを光が往復して、まるで脱獄囚を追うサーチライトのようだと思った。明りにさらされるたびに、弥生ちゃんは警察に追われているような気がしてくる。

 やがてカミナリじいさんはあることに気がついた。誰かが逃げ込んだと思った辺りの稲だけがゆらゆらと揺れているように思えるのだ。おかしい。風は吹いていないのに……。そう考える。

 そしてカミナリじいさんは調べてみようとたんぼに入り込んだ。稲をかきわけてたんぼに下りると、靴の裏に乾いた土が砕けて粉になる感触がする。

 おじいさんが近づいてくるのを悟り、二人はますます身を強張らせる。そして、健くんは必死で考えを巡《めぐ》らせた。

 自分たちが見つかっても死体さえ見つからなければいいのではないか? でも親に知らされたらどう答える……。

 そんな考えを巡らせている問も、カミナリじいさんは正確に二人のほうへ歩みを進めていた。そしてとうとう、もうひとかき稲をかきわければ見つかってしまう所までやってきた。

 弥生ちゃんは涙を目にいっぱい溜めているが、必死で泣き声は漏らすまいと唇を噛《か》んでいる。

 やるなら今だ。立ち上がり、悪戯《いたずら》をしているところを見つかった、と嘘《うそ》を言うなら今だ。

 健くんはそう考えをまとめた。なぜならここには、おじいさんを殺して口を封じるような凶器はないのだから……。

 そして立ち上がりかけたその時、カミナリじいさんに声をかける者がいた。

「なにやってんですか? 早くゲートボールの用意をしないと、みんなが来てしまいますよおじいさん」

 それはおじいさんの奥さんだった。おじいさんは振り返り、恥ずかしそうに頭を掻《か》く。

「いや、ちょっとな……」

 そして二人とわたしから遠ざかり、砂利道の上に戻る。

「ほら、これを拾ったんだ」

 そう言っておじいさんはおばあさんに拾った懐中電灯を手渡す。

「あら、これは誰のでしょうねえ……」

 おばあさんは訝《いぶか》りながらもおじいさんの手を引っ張ってお宮のほうへと歩き出した。二人とわたしが隠れている所を何度も振り返りながらだが、カミナリじいさんも一緒に歩きだす。もうみんなが来る時間だ。早くゲートボールの用意をして練習を始めないと、夏休みの間はラジオ体操のせいでお宮の広場が使えなくなってしまう。そんなことを話しながら二人は去っていった。

「あぶなかったあ……」

 二つの人影が去っていったのを確かめて、弥生ちゃんは胸をなでおろす。緊張の糸がいっぺんにほぐれて、なんだか笑い出しそうな雰囲気だった。健くんも同じく、おもいがけないなりゆきに笑いがこみあげていた。

 しかし、ふと眉《まゆ》をひそめる。

「……でもこれからどうしようか」

 健くんが小さく呟いた。お宮には、すでにゲートボールをするお年寄りが集まっているかもしれない。そうなっていたら石垣の上にわたしを持ち上げて穴の中に投げ入れるところを見られてしまうかもしれない。どうやら移動の時間に手間どりすぎたようだ。

「おにいちゃん……」

 弥生ちゃんが健くんを不安そうに見上げる。

「まあいっか。このまま五月ちゃんはここに置いていこう。どうせ田干しの間は誰もがたんぼに無関心になるんだから」

 健くんは弥生ちゃんを元気づけるように言って微笑んだ。懐中電灯は持っていかれてしまったし、朝がやってくる直前の闇の中だったが、弥生ちゃんには健くんが笑ったのがはっきりとわかった。

 田干しをしている間は、誰もたんぼを見回ったりしない。たんぼの水を塞《せ》き止《と》めているのは、ここではなく、もっと上のほうにある、水を調節する設備だ。そこでどこのたんぼも一斉に水を塞き止められるのだ。

「だから今日のところは帰ろう。花火大会の後か、それともあさってか。まだ時間はあると思うから」

 そしてわたしをさらに見えにくい場所に移動させて、二人で家に帰ることにする。

 懐中電灯もなく、暗闇の中を家まで歩くのかと弥生ちゃんは少々げんなりしていた。

 しかし、東のほうからゆっくりと空が明るくなっていく。まるで深海に光が射したように、そして家に帰る道を照らし出しているかのように。

「わあ……」

 弥生ちゃんは感動したように生まれたての朝の空を見上げ、心からの溜め息を自然に漏らす。

 二人とわたしが橘家を出てから一時間半。しかし、太陽が空を赤く染めあげるにつれて、二人の歩む道はゆっくりと狭《せば》まっていくのだった。

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四 日 目

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 朝は何ごともないように、まるで何もなかったかのようにすぎていく。

 あの後、二人は家の自分たちの部屋に戻ってまたひと眠りした。そしておばさんに起こされて、まるで何もない、いつも繰り返されてきた普通の朝を演じて体操に出発する。数時間前にわたしを担《かつ》いで通った道を通り、わたしを隠した辺《あた》りのたんぼの側《そば》もまるで無関心を装って通り過ぎた。健くんが無関心を装うと本当に関係がないように思えてくるから不思議だ。弥生ちゃんはそんな健くんの服をつまんで放さない。

「弥生は家に帰っててもいいんだぞ。どうせここにいてもやることなんてないだろ」

 ラジオ体操が終わってカードにハンコを押してもらったら、もう家に帰ってもよいことになっている。しかし今日は違った。上級生の男子は残って、今晩の花火大会の用意をしなくてはならないのだ。用意とは、お宮の倉庫に眠っている木の長椅子《ながいす》や賽銭箱《さいせんばこ》を運び出したり、集めたお金で買った花火を確認したりするだけの簡単なものだった。それほど時間もかからないはずだから、弥生ちゃんは健くんと二人で帰るつもりだった。

「ううん、弥生も一緒にいる」

 お宮の倉庫の鍵《かぎ》を探して歩いている健くんについて歩きながら、弥生ちゃんは微笑《ほほえ》んで言った。その首には紐《ひも》でぶらさがったラジオ体操のカードが二人分揺れている。

 やがて健くんは、お宮の隅のほうでたむろしていたお年寄りの集団に近寄った。ゲートボールクラブの人たちだ。

「すいません、倉庫の鍵を貸してもらいたいんですけど」

 健くんが声をはりあげた。弥生ちゃんはそんな健くんの背中に隠れてしまう。

「ああ、花火大会の用意かい。そういえば今晩だったな。

 鍵なら田中さん、あんたが持ってたろう。この子たちに渡しておやりなさい」

 恰幅《かっぷく》のよいおじいさんが健くんの言葉に頷《うなず》き、そして隣のおじいさんに鍵を催促してくれた。

 少しだけ顔を出して様子を見ていた弥生ちゃんが、田中さんと呼ばれた人物を見て、ぎょっとなって健くんの背中にしがみつく。

 田中さんと呼ばれたおじいさんは、白髪頭で眉《まゆ》の濃い、今朝姿を見られそうになった、あのカミナリじいさんだった。しかしそんなことをカミナリじいさん本人が知る由《よし》もなかった。

「わかっとるわかっとる。倉庫の鍵ならわしが持っとるよ。どうせじゃから小林さん、ゲートボールの道具も一緒に倉庫に入れてこようかい」

「そうじゃな。それじゃあみんな、ここで解散じゃ」

 小林のおじいさんがそう言ったので、みんなそれぞれゲートボールのスティックを持って帰っていく。そしてカミナリじいさんと小林のおじいさんは、ゲートボールの球をくぐらせるコの字型の用具をいくつか抱《かか》えて、健くんと一緒に来ることになった。ゲートとでもいうのだろうか。それらの用具はお宮の倉庫に入れられることになっている。ゲートボールクラブのお年寄りたちは、毎朝それを出してきて練習を重ねているのだった。

 カミナリじいさんを前にしても健くんはまったく動じなかったが、弥生ちゃんははたから見ていてもわかるほどに緊張していた。健くんの服をつまんだ手に力がこもり、つねにカミナリじいさんとの間に健くんが入るように移動する。

「君は橘《たちばな》さんちの息子さんだな。名前はなんだったかのう?」

「健です。それでこっちは弥生。ほら弥生、あいさつは?」

 健くんに促《うなが》されて、弥生ちゃんはカミナリじいさんにおじぎした。恐るおそる、まるでいつ噛《か》みつかれるかわからないぞというふうに。

 そんな弥生ちゃんを見て、おじいさんたちは顔に笑みを形づくった。しかしすぐに影がおちる。

「お嬢ちゃんのほうはたしか、最近いなくなった子供さんと友だちだったのかな……?」

 小林のおじいさんが弥生ちゃんを見て言った。わたしのことを言っているのだ。弥生ちゃんは顔を暗く、強張《こわば》らせて頷く。その暗い表情は、不安や恐れからきたものだったが、お年寄りの二人はそうとらなかったらしい。

「そうか……悪いことを訊《き》いたね。でもお嬢ちゃんも気をつけなさい、誘拐《ゆうかい》犯人に連れていかれないように。健くんのほうは弥生ちゃんをしっかり守ってあげるんだぞ」

「はい!」

 力強く答えた健くんを見て、二人のお年寄りは満足げに頷いた。それも演技なんだとわかっているのだが、弥生ちゃんは少しだけ嬉《うれ》しくなって頬《ほお》を赤く染める。

 そんなことを話しているうちに、健くんと弥生ちゃん、そして二人のお年寄りは倉庫の前までやってきていた。古い倉庫は扉だけが頑丈に金属でできていて、その扉はかなり重そうだ。抱えていたいくつかのゲートを地面に下ろし、カミナリじいさんは腰にくくりつけていた鍵束《かぎたば》を外す。そして鍵束の中から『ソウコ』と書かれた鍵を鍵穴に入れ、ぐるりと回した。

「ほれ、鍵が開いたぞ」

 しかし健くんが力いっぱいに扉を横に引っ張っても、重いそれはまったく動かない。

「全然動きませんよこの倉庫の扉。どうしちゃったのかな」

「ときどき開きが悪いんじゃ、その扉は。さっき道具を出した時はすんなりあいてくれたが。滑車《かっしゃ》のぐあいが悪いのかもしれないな。前から調べてみてくれと頼まれとったんじゃ」

 小林のおじいさんがそう言って、持っていたゲートを地面に下ろす。そして健くんと一緒に扉を動かそうと力を込めた。弥生ちゃんも、カミナリじいさんも仲間に入る。みんなで力を合わせて扉を動かすつもりだ。しかし、がたがたと揺れはするものの、扉が動くにはもう少し力が必要らしい。

「やっほー。どうしたのみんな。なんだか頑張ってるように見えるけど」

 そんなことを言いながら、顔を赤くして踏ん張っている四人に寄ってきたのは緑さんだった。ジーパン姿でやけに呑気《のんき》に駆けてくる。

「緑さんも手伝ってよ。僕たちは見た通り頑張ってるんだから」

 傍観する緑さんに健くんが言い放つ。

「ははあ、そっか。健くん今日は花火大会の用意してるんだ。おつかれさま。

 頑張ってるみたいだからわたしも手伝ってあげよう。感謝するんだぞ」

 そんなふうに言って、緑さんも倉庫を開けるチームに加わった。

 緑さんが加わったことでみんなの力が倉庫の踏ん張りを越えたのか、ついに倉庫の重い扉は耳障《みみざわ》りな音をたてて開いた。

「馬鹿力なんだ、緑さん……」

 呟《つぶや》いた健くんの頭を軽く叩《たた》いて、緑さんは中に入っていった。みんなも後に続く。

 中は薄暗く、湿っていた。農作業用のくわやすきが入っているからだろうか、藁《わら》の臭《にお》いが充満していて胸が詰まるようだ。やっとのことで開いた出入り口、そこから射し込んでくる太陽の光に浮かび上がって、辺りに漂う埃《ほこり》が水中の微生物のように目障りだった。

「いろんなものがあるねえ……」

 興味深げに弥生ちゃんが呟いて周《まわ》りを見回した。農作業の用具やら、中になにが入っているかわからない段ボール箱、細長い材木などが雑然と積み上げられている。けっこう広い。

「田中さん、せっかくだから今から扉の滑車をつけ替えましょうか」

 青いペンキの剥《は》がれおちかけたゲートを倉庫の隅に置いて、小林のおじいさんがカミナリじいさんに言った。そしてカミナリじいさんの答えを聞かずに、上のほうに積まれていた木の箱を下ろした。

 そこには、にぶく銀色に輝く新品の滑車がいくつも入っていた。やけにそれらは大きく、滑車の上の部分に金具を差し込めるような穴がある。

 それと工具を倉庫から持ち出して、二人は倉庫の扉に寄っていった。滑車を取り替えるために、扉を取り外すつもりなのだった。

 そんなお年寄りたちには目もくれず、健くんは木でできた小さな賽銭箱を奥のほうから引っ張り出そうとしていた。こういう行事の時にしか使われないような小さな賽銭箱でも、健くんひとりでは持ち上げられないほどの大きさだ。

「わたしも手伝ってあげる。まったく、今日はこの緑さんに感謝の嵐ね」

 緑さんも一緒に引っ張って奥から出し、そして片方を持ち上げて倉庫の外へと運び出した。弥生ちゃんは持つ所がないのでただ健くんの隣をついて歩く。どことなく所在なげで落ち着きなく二人を見ていた。

「ほらほら、危ないぞ。今から扉を寝かせるからな」

 そんなふうに叫んでいるカミナリじいさんにお礼を言ってから、三人はそのまま神様を祭ってある木のやしろへと足を向けた。あの木の階段の所に賽銭箱を置けば健くんの仕事は終りなのだ。そうしたら上級生の人にさようならを言って、家に帰ることができる。

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