そして石垣の上に上る。初めて木登りをした時のように健くんに指示してもらいながら、弥生ちゃんは上っていく。
弥生ちゃんは初めて石垣の上に立った。健くんもその隣に立つ。
ここから見る花火は美しく輝きをまし、ちょうど今、例の花火の滝に火がついたところだった。
紐に連なってぶら下がった花火に一斉に火がつき、赤や青、桃や緑の万色の輝く光をはき出した。それはまるで光の洪水のように、光の水が滝になって零れ落ちているかのように瞳に残る。それは子供が作ったにしては上出来だった。おそらく、今日の花火大会を見物にやってきた人たちは、この眩惑《げんわく》させられる光景を忘れることはないだろう。
「……なぜ、ここにいるんですか……」
悔《くや》しそうに、悲しそうに健くんが呟く。他の誰によりも見られたくなかった……。そう表情が叫んでいた。健くんには珍しい感情の高い波だ。
「遅れないでねって、そう言ったでしょう?
わたしはずっと待ってたのよ、あなたたちにわたしの浴衣姿を見せるためにね」
うちわで扇《あお》ぎながら緑さんはくすりと笑った。
石垣の上。その縁《ふち》に、茣蓙にくるまれたままのわたしを腕に抱いて、緑さんが座って花火を見ている。その唇《くちびる》には赤い口紅が塗られ、夏の夜の闇の中で赤々と映《は》えている。
滝のような仕掛け花火は半分ぐらいになっていたが、その光に照らされて、緑さんはまるでこの世の者ではないかのように美しく、なまめかしく、微笑んでいた。
呆然《ぼうぜん》と、ただ驚愕《きょうがく》に目を見開いて、健くんと弥生ちゃんはそんな緑さんを見ていた。
「一度ここから花火を見てみたいって思ってたんだ。もっと小さい、子供のころから……」
「緑さん、それをこっちに渡して……」
健くんが痛みに身を切り裂かれるような声音《こわね》で、言葉を紡ぐ。
そんな健くんをちらりと見て、そしてまた花火のほうに視線を戻して、
「知ってるわよ。あなたたちは五月ちゃんをそこの穴に捨てようと考えてたんでしょう?」
緑さんは健くんと弥生ちゃんに言い放った。
そして夏の夜を彩る光の流れを眺める。まるで自分の子供時代を思い出しているかのように、眩しそうに目を細めていた。
死んだわたしが知るかぎり、緑さんは子供時代にけっこう辛《つら》い思いをしてきたようだ。お父さんがいなくなったり、お母さんに苛《いじ》められたり。緑さんの笑顔は、それらの辛く苦しいことを乗り越えて受け入れた、悲しいものだったのかもしれない。
そして健くんの言葉に従わず、緑さんは腕に抱いている茣蓙の包みを拡《ひろ》げようとした。縛っていた紐がついさっき切れてしまったので、半分ほど開いていたが、もう半分を開いてわたしの顔を確かめようとする。
「だめだ! 緑さんはそれを開けちゃだめなんだ!」
健くんは叫んだ。弥生ちゃんはそんな健くんを見て、ついに大声で泣き出した。
しかし緑さんの手は茣蓙を優しく拡げた。まるで死んでいるわたしを労るように、わたしの死体に花火を見せてあげるというように。
はらりと拡げられた茣蓙の中から、わたしは緑さんを見上げるような格好で顔を出した。
すでに傷《いた》み始め、色が醜《みにく》く変色し始めているわたしの顔を緑さんは覗き込む。死んだ時から見開いたままのわたしの瞳が、夏の夜に浮かんだ星と月をとらえていた。
緑さんはそんなわたしの瞼《まぶた》をやさしく閉じた。そして「おつかれさま」と、いつか健くんに言った台詞《せりふ》をわたしにも呟いてくれる。
そんなわたしたちを夜に浮かび上がらせていた花火の滝も終りに近づく。そして、唐突に、まるで人の生《い》き様《ざま》のひとつのように、まるではかなく激しい人生の終りのように最後の光の花びらを散らした。
そうして光の洪水は消え、人々の心の中にだけその残《のこ》り香《が》をとどめる。
それを待っていたかのように、夏の夜の闇がわたしたちの上に翼を拡げた。
星明りの闇の中、がらがらと崩壊《ほうかい》の音が遠くから聞こえている健くんと弥生ちゃんの耳に、くすくすと可愛《かわい》らしい緑さんの笑い声がやさしくしのびこんできた……。
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かごめかごめ
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たんぼの稲が黄色に染まり、大きな実《みの》りに頭《こうべ》を垂れたころ、お宮の石垣は取り壊されようとしていた。
石垣の周《まわ》りで今、ブルドーザーや作業服を着た大人たちが工事を進めている。
「おい、こっちに来てみろよ。おもしろいもんがあるぜ」
作業している一人が言った。男が指さしたその先には、半分取り壊されて、切り分けられたケーキのように中の壁をさらけ出した石垣がある。その一部分だけが縦《たて》に、まるで井戸のように空洞になっていたのだ。
「なんだいこりゃあ……。まるで、でっかいごみ溜《た》めじゃないか……」
また別の男が口をはさむ。その男の言う通り、そこには大人の背の高さのあたりにまでごみが詰まっていた。まるでそれが石垣の歴史だとでもいうようにごみが蓄積され、凝《こ》り固《かた》まっているのだ。
それでも、上のほうにあるごみは比較的|腐《くさ》っていない。ビニール製のお菓子の袋だからだろうか。
「おい、メンコやベーゴマまであるぜ。もったいねえ……」
それらは誰かが誤って落としたのだろうか、それとも子供時代の自分に別れをつげるために自分で捨てたのだろうか。袋にまとめられていた。
さらにその下のほうは紙が腐ったものが多い。なにやら筆で書かれたものや、変色して黄色くなった紙などが、雨水で原形をとどめないほどに崩れてかたまっている。あたかも子供たちの捨てた思いが押し込まれ、大人になって死んでいくまでの長い時間をかけてひとつに凝縮《ぎょうしゅく》されたかのように。
そして、男の一人がその中に変なものを見つけた。
「おい、見ろよ……」
それは髪の毛に見える。長さから想像すると、まるで女の子が穴に捨てられているかのようだった。
見つけた男は、恐るおそるその髪の毛を引っ張る。
髪の毛はずるりとごみの中から抜け出し、その下にある子供くらいの大きさの腐りかけた顔や体も、男たちの目の前に滑り落ちてきた。
「ひいっ……」
その異様な姿に男の一人が臆病《おくびょう》な声を吐き出してその場にへたりこむ。そんな男をもう一人が笑いとばした。
「おいおい、本物ならともかくなあ……」
そこに現れたのは日本人形だった。捨てられる前はさぞかし美しく、綺麗《きれい》だったであろう。良い時間の流れに腐れ崩れてはいるものの、それでもそれが女の子の人形だということが見てとれる。
秋ののどかな出来事に、わたしの棺桶《かんおけ》となるはずだったその場所の前で、二人の作業員を明るい笑いが包み込んだ。
「ね、わたしの言うことをきいてよかったでしょう。そう思わない健くん?」
取り壊しの作業を見ながら、健くんを挟んで弥生ちゃんと緑さんが、やしろの木の階段に並んで座っている。まるでわたしが生きていた頃、木の上の秘密基地に三人で座っていた時のような光景だ。
夏の強い陽射《ひざ》しを防いでいた木の葉も、黄色にその衣の色を変えて、はらりと落ちる。三人の前に延びているお宮の石畳はすでに焦《こ》げ茶《ちゃ》や黄色の点描《てんびょう》風景に彩《いろど》られていた。
「そうだね。緑さんの言うことをきいてなければ、今頃大騒ぎだったかもね」
その言葉を聞いた緑さんは嬉《うれ》しそうに表情をほころばせた。
「でしょう、十九歳の情報収集力をなめちゃいけないわよ。だいたい、あの石垣を取り壊して村の公民館を作るっていう話はけっこう前からあったんだ。でもせっかく戦災で焼け残ったやしろの跡なんだからっていうことで壊されなかったんだけど、今年、子供が落ちて騒ぎになったでしょう。それで急に取り壊しが決まっちゃったのよ。
大人って勝手な生き物よね。自分たちが遊んだ大切な場所を壊しておきながら、『現代っ子は外で遊ばなくなった』だもんね」
そう言って隣の健くんを見下ろした。もう五、六年も経《た》てば自分と同じぐらいの背に成長することだろう。そんなことを考えながら、緑さんは健くんを愛《いと》しそうに見つめた。
「本当に助かったよ緑さん。見つかった時はどうしようかと思っちゃった。まさか五月ちゃんの処理までしてくれるとは考えなかったなあ」
心底|感嘆《かんたん》の声で言う健くん。その瞳は尊敬のまなざしだ。
そんな瞳を受け止めながら、緑さんはいい気分になった。
「まかせなさい。秘密の死体の処理にはけっこう慣れてるのよ。
君を警察にも誰にも渡したりしないからね、安心してちょうだい」
そして紅《あか》い唇《くちびる》で笑みの形を作り、緑さんは健くんの頬《ほお》を優しく指でなぞった。紅いマニキュアの塗られた爪《つめ》が、いやらしく健くんの頬を滑ってゆく。
そして次の言葉を誘うように健くんの瞳を覗《のぞ》きこんだ。
「尊敬した」
健くんはそんな言葉を元気に放った。
緑さんは感激したように、嬉しそうにその体を抱き寄せた。そして健くんの息が詰まるほどに自分の胸に顔を埋めさせる。
体の奥が熱くなっていくのが緑さんにもわかった。そして考える。
——これでわたしの悪い癖とも別れることができるかな……。
そんな二人の会話を弥生ちゃんはじっと目を閉じて聞いていた。とうとう弥生ちゃんはわたしを殺したことを言わずじまいだ。わたしが木から落ちて死んだと嘘《うそ》をついていれば弥生ちゃんは罪に問われなかったかもしれない。そんな嘘すら親たちに言えなかったのは、弥生ちゃんの場合、負《お》い目《め》があって怖《こわ》かったからだ。自分が殺してしまったことがばれるのではないかと考えていたのだ。
お宮の境内《けいだい》に秋の風が吹き抜ける。もう冬なのだろうか、その風は少し冷たく感じる。風は秋色の木の葉を舞い散らせ、階段に座った三人の上にも降らせた。
健くんの髪の毛に引っかかった枯れ葉を取ってやりながら、緑さんは優しく天使のように微笑《ほほえ》んだ。今まで自分のしてきた罪深き行ないを思い出しながら、自分の心の奥底に眠る小悪魔にそっくりの男の子を体に感じながら。
あの穴は昔の人の手抜き工事だったのだろうか。戦前はその上に立派なやしろが建っていた石垣はあらかたその姿を取り壊され、今、ひとつの時代が流れ過ぎようとしていた。
石垣と共に眠っていたであろう、それぞれの時代の子供たちの思い出は秋の風に包まれて、まるで夏のはかない夢物語だったかのように消えてゆく。
そんな光景を、まだわたしのサンダルを隠したままの木の階段の上、やしろに祭られた神様の前に座って眺めながら、三人の罪深い人間は静かに微笑んでいた。
自分たちにやって来るはずの未来に、自分たちから去っていった子供の日々に……。
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*
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わたしは緑さんに連れられて、この寒い所にやって来ました。
ここはアイスクリーム工場の冷凍設備つきの倉庫。誰もやってこないようなその奥底にわたしは連れてこられたのです。
事実、ここに足を運んでくる人間は緑さん以外にいません。
一年中冬の、季節という時間の流れのないその場所。生命のある者は一日もいれば凍死してしまうでしょう。
でもわたしはちっとも寂《さび》しくなんかありません。
なぜなら、ここに来てお友だちがたくさんできたのだから。
みんな男の子で、どこかしら健くんに顔が似ています。そしてわたしと一緒に『かごめかごめ』をして遊んでくれます。
みんな青白い顔をしているけれど、わたしはそれでもみんなと楽しく遊んでいます。
わたしと、その誘拐《ゆうかい》されてここに連れられてきたお友だちの歌う『かごめかごめ』の歌は、工場の倉庫に荒涼《こうりょう》と、寂しく響いてゆくのでありました。
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優 子
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その日、家の門に辿《たど》り着《つ》いた政義《まさよし》の見たものは優子《ゆうこ》の炎に包まれた姿でした。政義は叫び声をあげながら優子に駆け寄って炎を消しましたが、すでに何もかもが遅かったのです。
政義は泣き続けました。すまない。すまない。胸には優子を失った悲しみよりも先に謝罪の念でいっぱいでした。
昔、母から聞いた話を政義は思い出していたのです。
何代も前に鳥越《とりごえ》家へやって来た女とその子供のこと。
子供の手に握られていたという花のこと。
政義は優子を抱《だ》き締《し》めたまま空を仰《あお》ぎ見ましたが、そこに月の姿はありませんでした。
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一、清 音
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それは、あの大きな戦争が終わって、まだ間もない頃《ころ》だった。
清音《きよね》が鳥越家に住込みで働くようになって二週間がたち、そろそろ家の間取りや仕事の内容が清音の体になじみ始めようとしていた。働くのは生まれて初めてのことだったが、特に辛《つら》いとか苦しいとは思わなかった。清音はむしろ自分のような者に働ける場所を提供してくれたこの家の主人に感謝さえしていた。
今晩は何を作ろう。旦那《だんな》様はいったい何の料理が好きなのだろう。鳥越家の広い庭の片隅にある古い門の辺《あた》りで清音は考えていた。門の側にはひっそりとあじさいや黒い実をつけた植物が生《は》えていた。
その日は梅雨《つゆ》で、今にも雨が降りそうな曇り空だった。清音があじさいに見とれてそこに立っていると門の向こうから、からん、からん、という耳に気持ち良く残るような下駄《げた》の音が聞こえてきた。門の向こうに細く、半《なか》ば竹藪《たけやぶ》に押《お》し潰《つぶ》されそうに続いている石畳の道を見てみると家の主人がこちらに歩いてくるのが見えた。からん、からん、という音を遠くこちらまで響かせて彼はやわらかい瞳《ひとみ》で清音を見ていた。
「おかえりなさいませ旦那様」
家の主人が門の側《そば》までやって来た時、清音は丁寧《ていねい》に頭を下げてそう言った。
「ただいま帰りました清音さん」
家の主人は清音の横に来ると足を止め、頭を下げた清音の後ろに咲いているあじさいに目をとめた。
「あじさいが咲きましたね。もうそんな季節なのですね」
家の主人は和服の左右の袖《そで》に両手をそれぞれ入れて微笑《ほほえ》んだ。すると清音は彼の若い顔に一瞬|釘付《くぎづ》けになるのだった。
まるで女の人みたいだ。家の主人の顔を見るたびに清音はそう思った。もっと髪を長くして唇《くちびる》に紅《べに》をひけば、この人は日本人形のように魅力的だろう。
主人の名は政義《まさよし》。物音きをやっていて、その細くて白い指にできた万年筆のたこが清音には残念でたまらなかった。政義は清音の父の友人だった。
「清音さん、もう仕事には慣れましたか?」
政義が目を細くして尋《たず》ねた。
「まだ若いあなたにとって、ひとりで家事をするのは大変でしょう」
そんなことはなかった。清音はふくれあがる感謝の気持ちをうまく丁寧な言葉で言い表せず、ぎこちなく笑った。たったひとつのささやかな疑問を除いて清音は鳥越家が好きだった。
ふとそこで、家を出る時に政義が手にしていた茶色の分厚《ぶあつ》い封筒が見当たらないので、政義は今までこの集落にひとつだけあるポストの所へ行っていたのだと清音は思い至った。
「言ってくださればわたしがポストまで行きましたのに」
「いえ、いいのですよ。わたしもたまにはあの部屋から外へ出ないといけませんからね」
「そうですか。でも、あの部屋は掃除をしなくて本当にいいのでしょうか」
「ええ、あの部屋だけは優子が掃除をしてくれますからね」
優子と聞いて清音はどきりとした。聞くたびにどきりとする。
「あのう、奥様はお元気なのでしょうか?」
すると政義の顔は清音が見てもはっきりとわかるほど曇った。空と同じだ、と清音は思った。
「かんばしくありませんね、まだ当分の間はおそらく……」
しかし清音にはその気持ちが実感として伝わらなかった。鳥越家に来てからもう二週間もたつが、まだ清音は彼女の顔すらも見たことがなく、ただ政義の部屋で寝たきりに近い生活をしているということしか知らされていなかった。この人の妻とはいったいどういう女性なのだろう。政義の口から優子と漏《も》れるたびに清音はそう思った。
「あじさいは、ですね……」
政義は清音の側に咲いているあじさいに近寄った。すると清音に政義の服の匂《にお》いが漂ってきた。
「あじさいの花びらっていうのはこれじゃあないのですよ、知っていましたか?」
政義はうすく青に染まっているあじさいを指さした。
「この、青い花びらのような部分はあじさいのがく[#「がく」に傍点]なのですよ。偽物《にせもの》なのですよ」
なぜか清音の胸は高鳴った。なぜだかわからなかった。
「あじさいはよく雨に映《は》えますね。おや、この黒い実をつけた植物はいったい何だろう」
あじさいの隣に生《な》っている黒い実を見て政義が首を傾《かし》げた。屈《かが》んで、黒い実に鼻先を近づける政義の姿が妙で清音はどこかしらほっとした。
真っ黒い実だった。小指の先程度の小さな、光沢《こうたく》をもった黒い実だ。ぽつん、ぽつん、と生っていた。
「綺麗《きれい》な黒色をしていますね」
そう言うと政義は下駄を鳴らして家の玄関のほうへと歩いていった。からん、からん、という響きが透き通るように清音に聞こえた。
清音は大きく息を吸った。雨の降る直前の森の匂いの籠《こも》ったような空気で肺がふくらみ、おもわず清音は咳《せ》き込んだ。
政義の去っていったほうを見ると鳥越家が翼を広げるように建っていた。しかし清音はこのような大きな家で今自分が働いているなどとても信じられなかった。砂利の敷き詰められた庭も、門から玄関までの石壁や飛び石も今までは見たこともなかった。
清音は優子というまだ見たことのない女性のことを考えた。
政義はいつも優子と一緒に自分の部屋で食事をとっていた。だから清音は食事の時間になると、毎回二人分の食事を盆にのせて政義の部屋の前まで運ぶのだった。その時に通る廊下の両側は土のむき出した壁だった。連《つら》なる部屋の襖《ふすま》に挟まれて窓もなく、たいていいつも薄暗かった。廊下のすべすべした古くて黒い板は歩くたびに、きゅ、きゅ、と鳴いた。だから清音が食事を運んできたことがわかるのだろう。いつも清音が部屋の前までやって来て食事を運んできたことを声を出して知らせる前に、
「そこへ置いといてください、ありがとうございます」
と政義は襖の奥から言うのだった。
清音は政義と優子が居るはずの部屋の前に食事ののった盆を置き、そしてそのまま帰っていく。だから清音はその部屋の襖が開けられたところを見たことがなかったのだ。
旦那様も奥様も変な方だ。清音は思う。政義も優子も自分の前ではわざと襖を開けないようにしている気がして清音はたまらなかった。自分の廊下を歩く、きゅ、きゅ、という板のこすれあう音に二人耳をすませて警戒でもしていそうで、背筋がぞくりとなった。鳥越家の長く薄暗い湿った廊下は遠くのほうや隅っこのほうに闇が溜《た》まり、その中にたまらなく嫌《いや》な視線を感じてしまう瞬間がこの家に来て何度かあった。その廊下の壁に飾られた般若《はんにゃ》の面や天狗《てんぐ》の面、さらにはひょっとこの面さえも目を離した隙《すき》に表情を変えていそうで、清音はつい早足になってしまうのだった。
清音が鳥越家で働き始めてまもないある日、清音は政義と優子の部屋に盆を下げに行った。政義も優子も食べ終わった後の食器は部屋の前に置いておく。清音が食事を持ってやって来た時と同様に盆にのせられて廊下にぽつんと置かれているので、清音はいつも黙ってそれを調理場へ持って帰るのだ。
その日、夕食のおかずはてんぷらだった。清音は小さい頃に一度だけ父親に連れられててんぷらを食べに行ったことがあったが、それ以来食べたことはなかった。だからたったひとりでてんぷらを作って政義や優子に食べさせるのが不安だった。
これでいいのだろうか。はたしてこれで、てんぷらの正しい味になっているのだろうか。清音は記憶の中のてんぷらと目の前のそれを何度も見比《みくら》べて考えた。
清音はいつも隣の集落にある家まで野菜を買い出しに行くのだったが、そこでついでに料理のしかたも教わっていた。てんぷらもその通りに作ってはみたが、清音にはそれが正しい作り方なのかどうか知るすべはなかった。だから、食器を下げに政義と優子の部屋の前に行き、料理の半分が残されているのを見てしまった時は、二人に深くあやまりたい気持ちだった。
どうしようか。声をかけてみようか。そしてわたしのてんぷらのどのへんがいけなかったのかを聞いてみるべきだろうか。清音は料理の半分が残されている盆を持って部屋の前で迷った。
しかしその時、部屋の中から政義のやさしい声がした。襖は閉められたままで、襖越しの会話というものはなんだか変な感じだ、と清音は思った。
「清音さん、ちょっといいかな」
きた、と思った。
「清音さん、明日から、わたしと優子の料理を半分にしてはくれないだろうか」
半分にしてくれとはいったいどういうことなのだろう。それほどわたしの料理はいけなかったのだろうか。もう食べたくはないのだろうか。
「わたしたちはね、二人とも小食なのですよ。二人ともほとんど体を動かさないからね。だから明日から料理の量を半分に減らしてくれないだろうか」
「あのう……」
清音はおそるおそる政義に聞いてみた。
「あのう……、ひょっとしてそれはわたしの料理がいけなかったからなのでしょうか。もしそうならば、はっきりとそう言っていただいたほうが嬉《うれ》しいのですが……」
すると襖の奥から政義の気持ちいい笑い声が聞こえてきた。
「あなたの作ったてんぷらは本当においしくできていましたよ」
清音は急速に頬《ほお》が熱くなるのを感じて急いでその場を離れた。しかし、政義の笑い声は聞こえたが、優子の笑い声が聞こえなかったことに気づいたのは、その後ひとり寝床で寝返りをうった時だった。
料理に使う材料は、たいてい調理場から直接出入りできるように作られた物置のような場所に置かれていた。そこには乾いて白くなった土に覆《おお》われた段ボール箱やほこりを被《かぶ》ったストーブなど、色々なものが押し込まれている。その物置に入るといつも湿ったような藁臭《わらくさ》いような納屋《なや》の臭《にお》いが充満していた。
箱の中にはいつもじゃがいもやにんじんなど隣の集落から買い求めた野菜がつまっているのだが、ある日、清音が中をのぞいてみると空《から》だった。
どうしよう、これではお昼の用意ができない。清音は他のも順番に開けていった。段ボールは湿ってやわらかくなっているようで、それでいてその表面にへばりついた泥は乾いていた。そうやって触《さわ》っているうちに指は白くなり、だんだん冷たくなってくるのだった。
どの箱も空のようで、どうやら昼食の材料になるような野菜は入ってはいなかった。どうしよう、材料が切れているなんてことはもっと前に気づくべきだったのに、と自分の迂闊《うかつ》さを呪《のろ》った。それでもあきらめきれず、物置の埃《ほこり》っぽい石の地面に頬をくっつけるようにして料理の材料を探していると、清音はとうとうストーブの後ろに隠れていた段ボール箱を見つけることができた。
清音はほっと胸を撫《な》で下ろし、ストーブを移動させて段ボールの中身を確認しようとした。その時ストーブがずいぶんと重く感じられ、持ち上げた時にたぷんと灯油が入っている感触がした。
その箱の中にはやや黄みがかった色の古い大根とたまねぎがわずかに残っていて、なんとか政義と優子に出す料理くらいは作れそうだった。
わたしの分は……、まあいいか。自分は木の実でも何でも食べていればいい。
そう清音が思った時、物置の壁に作られた棚の上のほうに木の箱がずらりと並んでいるのを見つけた。表面の粗《あら》い木で作られたそれらの箱には「人形」と書かれていて、その文字も箱自体もずいぶん古いものらしかった。
人形という言葉に清音は惹《ひ》かれた。清音は漢字が読めないが、父が人形師だったため、「人形」という文字の形とその意味だけは覚えている。
あの並んだ箱の中身は全て人形なのだろうか。もしそうならばずいぶんとたくさんあるものだ。もしかすると、それらの中に人形師であった父の作品があるかもしれない。
清音は好奇心に負けてそれらの木の箱のひとつを開けてみることにし、背伸びをして注意深く箱を棚の上のほうから下ろそうとした。持ち上げた途端、おや、と思った。下におろしてみて木の蓋《ふた》を開け、その箱がやけに軽かったことに納得した。
木の箱は空だったのだ。他の木の箱も全て空で、そこにあるはずの大量の人形はひとつも見当たらなかった。
その日の午後、清音は隣の集落まで野菜の買い出しに行くことにした。政義にそのことを告げると、政義は清音にたっぷりと気前良くお金を渡してくれた。
「この家には自動車はないけれど、納屋の中にある荷車を使うといいですよ。ひとりで大丈夫ですか? もし重かったら向こうの家の人に頼んで運んでもらってきてください」
清音は感謝しながら、大丈夫ですからと答えて家を出た。
何ものせていない荷車でも動かすのには結構力が必要だったが、動き始めるとあまり力を加えなくても荷車は進んでくれた。
鳥越家の門を通り抜け、竹藪を切り開いて作られたような石畳の小路《こみち》を荷車と一緒に進んだ。
それにしてもわからない、なぜ旦那様はわざわざ隣の集落まで野菜を買いに行かせるのだろう。なぜこの集落でわたしが買い物をするのを避けさせるのだろう。
そういえばこの辺に住んでいる人の視線が固い感触をもって自分に向けられているのを清音は感じていた。荷車を引きながらあいさつをしても目を逸《そ》らされるばかりで、まるで自分はこの辺の人間にとって厄介者《やっかいもの》のようだった。
集落と集落の間は見渡す限りたんぼが広がり、がたがたの道をずっとまっすぐ行けば隣の集落で、そこにいつも鳥越家がお世話になっている家があった。野菜を清音に売ってくれたり、料理をあまり知らない清音に懇切《こんせつ》丁寧に作り方を教えてくれたり、その家の人間は清音にもやさしく普通に接してくれたので大好きだった。
珍しく晴れた梅雨の空のもと、大小の石ころの転がった道を荷車を引きながら清音が進んでいくと、隣の集落から三輪のトラックがやって来るのが見えた。道の幅は荷車とトラックが並ぶには危なっかしく、トラックは清音の手前までやって来ると道の端っこに停《と》まって、清音が横を通り過ぎるのを待ってくれた。
清音は礼を言って素早く邪魔にならないように横を通り抜けようとしたが、その時、トラックの運転手が清音を呼び止めた。
「あんた、ひょっとして鳥越家のおつかいかね?」
どうやらその運転手は隣の集落の男であるらしい。
「はい」
清音はそう答えた。
「ふうん」
運転手は顎《あご》を擦《こす》りながら、
「まあ、がんばれ」
とぶっきらぼうに言った。
その言葉はそっけなかったがどこかしら温かく、なぜ政義がわざわざ隣の集落まで野菜を買いに行かせるのかわかったような気がした。
麦の刈り入れの終わった畑がうっすらと暗くなり、見上げると太陽を隠すようにひとつ雲が浮かんでいるのが見えた。
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二、部 屋
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政義は十畳ほどの広さを持つ自分の部屋で書き物をしていた。部屋の片隅にある座椅子《ざいす》に座り、原稿用紙に万年筆を滑らせる。
部屋のもう一方の隅には大きな古い三面鏡があり、その左右の扉の取っ手には勝手に開かないように赤い紐《ひも》がくるりと右回りに絡《から》められていた。部屋の反対側の一面にはたくさんの人形が飾られていた。髪のすらりと長い日本人形がそのほとんどを占《し》め、白い顔を皆いっせいに部屋の中心に向けて無表情に並んで立っていた。この部屋の中に入った人間はそれらの人形に囲まれて、知らない子供たちに無表情な顔で取り囲まれているような、そんな気がするのだった。
人形たちの前には布団《ふとん》が敷かれていた。
政義が文章を綴《つづ》る手を止めて布団のほうを見ると、そこに、政義が優子と呼んでいる女の姿が見えた。
優子は布団の中からじっと政義のほうを見つめていた。
ふと、政義の耳に優子の声が聞こえてきた。
あなた、わたし清音さんの顔を少しだけ見たわ。
小さくてほとんど聞こえないような細い声だったが、政義にだけははっきりと聞こえていたのだ。
「利発な娘だっただろう、あの子」
ええ、外を歩いているのを障子《しょうじ》の隙間《すきま》からちらりと見ただけだったけれど、まだ若い女の子だったわ。お仕事、辛《つら》くないかしら。
政義は立ち上がり、寝ている優子の側《そば》へやって来てふくらんだ布団にやさしく手を置いた。
あの子がいない時、調理場へ行ってみたら料理の作り方を記《しる》した紙があったの。ひらがなで書かれていたわ。
「ああ、あの子は学校を出ていないからひらがなしか書けないのだよ」
それでも素晴らしいことだわ。
あやうい声だ。政義に聞こえる優子の声は微《かす》かに震えて今にも消えてしまいそうな声だった。
学校を出ていないのにひらがなを読むことができるなんて素晴らしいことよ。
「そうだね。あの子の父親が結核で亡くなった時、家にひとりぼっちだったあの子を見てかわいそうだったから引き取ったのだけれど、うちで雇って本当に良かったと思っているよ。そういえばあの子、うちに来た時に父親の人形を持っていたよ。童《わらべ》の人形だった」
政義は優子の白いなめらかな頬《ほお》の曲線を三本の指で優しく撫《な》でた。すると優子は生気のあまり見られない冷たい色の顔をほころばせたように政義には見えた。
優子が時々ぼんやりと黙り込むのが政義には心配だった。どこを見ているのか視線がさだまらず、そういう時は政義の声も聞こえてはいないようだった。まるで優子が違う世界に行ってしまったようで、政義はひどく不安になるのだった。
清音が料理を運んでくる時の廊下のきゅ、きゅと鳴る音で、政義も優子も食事が運ばれてきたことを知る。政義は礼を言い、耳をすませて清音の遠ざかる廊下の音を聞いてから襖《ふすま》の前に置かれた料理の盆を部屋の中に入れる。
しかし優子がぼんやりと黙って布団の上に座っているような時、料理が運ばれてきても優子は何の反応も表さず、政義が優子の細い指に箸《はし》を絡ませてみても食事をする気配をまったく見せてくれないのだった。政義はそういう時、怖《こわ》くなって優子の名前を呼んだ。
「優子、優子!」
優子の薄い肩を揺さぶってみると滑《なめ》らかな長い髪が激しく揺れ、それから、どうしたのあなた、という声が聞こえると政義はほっと安堵《あんど》するのだった。
そういう時に政義の見る優子の顔はやさしく慈愛《じあい》に満ちていた。この世の者でないような恐ろしく整った顔立ちも白い肌の色も全てが大きくなって自分を吸い込んでしまうような錯覚を政義はいつも感じていた。
どうしたの、あなた。
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三、隙 間
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鳥越家の庭はまるで神社の境内《けいだい》のように広く、大きな形の良い石や石灯籠《いしどうろう》がさりげなく置いてあった。古い竹を荒く編んで作られた塀《へい》が庭をぐるりと囲んでいた。その外側は竹藪《たけやぶ》で、風が吹くたびにざわざわと竹が鳴るのを清音はよく聞いた。日の傾く夕方になると一面に橙《だいだい》に染まった空を背景に、竹藪は大きく黒い色に見えた。風が吹いて竹のしなる様《さま》はどこかしら遠くの何かに吠《ほ》えている動物のように見えるのだった。
この道は何だろう。
普段は立ち入らないような家の裏手を歩いている時、清音は竹藪の奥にひっそりと続いている小路《こみち》に初めて気づいた。もうそろそろ夕飯の支度《したく》を始めようかと思う時間だった。
何だろう。
清音は首を傾《かし》げて竹藪の奥を見ようとしたが、どうやら小路は竹藪の中でほんの少し入り組んでいるようで、先のほうに何があるのかをうかがい知ることはできなかった。結局、清音はその小路のことが気になりながらも家の中に戻ってさつまいもの皮を剥《む》き始めた。
次の日、清音は竹藪の奥に続く小路を歩いてみた。空は灰色に曇り、見上げると道を両側から囲む竹藪がまっすぐに空へ伸びていた。竹はまっすぐ空の一点へ収束し、清音には竹が自分のまわりをぐるりと取り囲んでいるように見えた。
道の両脇《りょうわき》には背の高い草が生《お》い茂《しげ》り、その中には清音の鼻先をくすぐるように長く伸びた草さえもあった。それでも道はとぎれることなく続き、最後には墓があった。
立派な墓だった。墓標がぽつんとひとつだけあるのではなく、大きな石がたくさん積まれた上に石の柱が立てられ、そこに誰《だれ》かの名前が刻まれていた。
まだそれほど古くない墓だ。
清音は近づいてみた。墓のまわりと竹藪の間にはわずかに隙間《すきま》があり、そこを蛇《へび》がくねりながら忙しく進んでいた。