誰のお墓なのだろう。漢字では、読めない。
墓に捧《ささ》げられた花はすでに黒ずんで、その傍《かたわ》らには腐りかけた小さな竹の子が置かれていた。
道を戻って庭へ出た時、曇っていた空からやわらかな雨が撫《な》でるように降ってきた。
大変だ、洗濯物をとりこまないといけない。清音は少しだけ小走りになって洗濯物を干している所へと向かった。
調理場の勝手口の脇に物干し竿《ざお》は屋根から紐《ひも》でぶら下げられていて、その色褪《いろあ》せた竹製の物干し竿に洗濯物は並んで干されていた。
清音は素早く洗濯物を両手いっぱいに抱《かか》えて家の中に運び込み、そしてもう一度それを繰り返す。最近ずっと小雨が続いていたからと、曇り空なのに無理して干すんじゃなかった、と清音は思った。
二回目に洗濯物を両手に抱え込んだ時、そこから見える政義と優子の部屋の障子《しょうじ》が小さく開いているのに気づいた。
洗濯物を全て家の中に運び終わり、清音はほっと息をついた。しかし頭の中には先程《さきほど》見た障子の隙間がちらつき、その光景が頭の中に染《し》みついて離れなかった。この家に来て清音はもう一か月もたつが、しかしただの一度も政義と優子の居る部屋の中を見たことはないのだった。さらにそれだけではない。清音は優子の姿さえもまだちらりとさえ見てはおらず、優子の白い寝間着を時たま洗濯することはあるが、しかしそれさえもどこか強く汚れているというわけではない。本当にこれは誰かに着せられていたものなのだろうかと清音が疑うほど寝間着は綺麗《きれい》だったのだ。
清音には、優子という人間が本当にこの家の中に住んでいるとはとても思えなかった。
ずっと寝たままなのだからそう簡単に着ている服が汚れるわけではない。だから洗濯物はいつも綺麗なままなのだ。清音はそう考えることにしていたが、やはり、優子とただの一度も顔を合わせたことがないというのは異常なことに思えてならなかった。
奥様はきっと素敵な人だ。清音はそう思う。だって旦那《だんな》様の妻なのだから。
妻なのだから。
そう思い始めるともう清音は駄目だった。草履《ぞうり》を履《は》いて外へ出た。
雨で外は霞《かす》むように煙っていた。
そこから政義と優子の部屋のほうを見る。するとまだ障子は開いていたが中を見ることはできなかった。
清音は半《なか》ば息を押し殺すようにして慎重に歩き、その部屋の前を通り過ぎようと思った。
慎重に、何気ないふうを装って、ただ通り過ぎるような感じで……。
障子の隙間に近づくにつれて清音の胸は高鳴った。政義と優子の部屋の外には縁側があり、その下には平たい大きな石がある。今その上には、雨がうっすらとたまっていた。そしてそこには草履がたったの一足だけ置かれていた。
わたしはただ前を通り過ぎるだけ。ほんの少し部屋の中が見えてしまうだけ。
ぎこちない歩き方になりながらも、清音は、障子紙の色がわずかに黄色く変色しているのを目の隅にとらえ、さらに、少しだけ開いた障子の隙間から三面鏡を確認できた。座椅子《ざいす》も見えた。今は誰《だれ》も座ってはいない。
雨が自分にも降りかかり服がしっとりと濡《ぬ》れ、握《にぎ》り締《し》めた掌《てのひら》も汗のせいで濡れていた。
障子の隙間から部屋の一面を飾る大勢の人形の白い顔が見え、その前には布団が敷かれていた。布団はちゃんとふくらんで中に誰か入っているようだった。しかし隙間の前を通る瞬間に清音が見たものは、布団に寝かされてこちらを無表情に見ている人形の姿だった。
次の日、清音は暇になると鳥越家を出て静枝《しずえ》の家へ行った。静枝は昔鳥越家で働いていた娘で、清音が鳥越家で働き出す六か月ほど前に鳥越家の手伝いを辞《や》め、隣の集落へ嫁《とつ》いでいたのだった。清音は静枝に時々料理や裁縫《さいほう》のことを教えてもらい、静枝はそのたびに清音をやさしく家に迎え入れてくれるのだった。
「どうしたの、今日は元気がないのね」
静枝がそう言ったので清音は微笑《ほほえ》んでみせたが、しかし微笑みはすぐに消えた。
二人は並んで縁側に座り、静枝がいれてくれたお茶をいただいていた。ふと顔を上げると目の前にあじさいが咲いていて、薄い青色が今日の曇った灰色の空によく似合っている、と清音は思った。
「ねえ、見てごらん、拾ったのよ」
そう言った静枝の手の中には毛足の短い小さな猫がいた。
「あ、かわいい……。珍しいですね、猫の人形ですか?」
「馬鹿ね、本物よ」
静枝は自分の手の中の猫を珍しげに見ている清音に目を細めた。
「この子、行き場所がなくて迷ってたの。きっとどこかで飼われてた猫なのよ、そうでないとこんなに懐《なつ》かないよね。わたしね、こういう迷子は必ず拾うことにしているの」
「今日はご主人いらっしゃらないんですか?」
お茶をすすって清音が聞くと、静枝は少し声を出して笑った。
「畑よ」
「なぜ笑うんですか?」
「だっておかしいのよ、あの人ったら。お前は家にいろ、だって」
何がおかしいのか清音はよくわからずに首を傾げた。
「赤ちゃんができたの」
「赤ちゃん!」
清音は静枝の腹を見たが、まだあまりふくらんではおらず、膝《ひざ》の上で猫が転がっていただけだった。
「すごいじゃないですか!」
清音は激しく興奮して喜んだ。
「いいえ、どういたしまして。それで清音ちゃんのほうはどう? お仕事は辛《つら》くない?」
「はい、わたしも父も旦那様には本当に感謝しています。ただ……」
清音が口ごもっても静枝は先を促《うなが》さずにお茶を飲んで続きを待った。
縁側の前には小さな畑があり、細い棒がいくつも並んで立っていた。緑色のつる[#「つる」に傍点]がそれに絡《から》まって小さな花を咲かせ、その先に見える道を腰の折れまがった人がゆっくりと歩いていった。
「あのう……、静枝さんは奥様を見たことありますか……」
清音はおそるおそる聞いて見た。
「奥様? ええ、あるわ」
「え!?」
「綺麗な人だったよ」
清音は意外な面持ちで静枝を見た。昨日《きのう》、障子の隙間から見えた光景の中に優子の姿が見えず、清音は優子という女性がはたして本当に居るのかどうかいよいよわからなくなってしまっていたのだ。ついに今日そこのところを相談しに、静枝のところまでやって来たのだが、今の静枝の言葉を聞いてそんな自分が馬鹿らしくなった。
す、と静枝は猫を膝から下ろして立ち上がると目の前に生《は》えている木に近寄った。幹は細いが背丈《せたけ》は清音の倍はあろうかというその木には赤い小さな実がなっており、それを摘《つ》んで静枝は口に入れた。
「ナツグミの実、清音ちゃんも食べる?」
静枝はそう言うと清音のためにナツグミの実を三つ四つ摘んで手渡した。
艶《つや》のある、小さな実だった。清音が口に入れて噛《か》んでみると甘く酸《す》っぱい汁が舌の上に広がった。
「おいしいでしょう? この実はちょうど今頃《いまごろ》が食べ時なのよ。でも、種類によっては苦《にが》い味のする木もあるのよね。甘いと思って食べてみたら苦い味」
静枝にならって清音は種を吹いて飛ばした。
「わたしも最近そういうことがありました。一口食べてすぐに吐き出したのに、いつまでたっても酷《ひど》い味が舌にこびりついて離れなかったんです。水で口の中を洗ってもだめでした。その夜、吐き気や目眩《めまい》で眠れなかったんですよ。死ぬかと思った」
もうひとつ、ナツグミの実を口に入れて清音は噛んだ。
目の前で静枝が笑っていて、清音は緩やかな幸福感に包まれているような気がしていた。不安、疑念、そういうものなど見当たらなかった。
「良かった……」
清音は掌の上で赤い実を転がしながら呟《つぶや》いた。
旦那様は幻《まぼろし》か何かを見ているわけではなかったのだ。そうなのだ、まったく、自分は何かばかげたものに取りつかれていたのだ。
「もっと奥様のことを教えてください」
清音を見て少し静枝は首を傾げた。その様はゆっくりと記憶を掘り返しているようだった。
「色の白い人だったわ」
「白人の方ですか?」
「違うわよ、馬鹿ね」
静枝は目を細くして笑った。
「色白で繊細《せんさい》な人だったのよ。本当に美しい人だったわ。旦那様とずっと肩を並べて縁側に座っていたの。あんな夫婦になれたらいいなあってずっと思ってた」
清音には、懐かしむように目を細めた静枝が少し羨《うらや》ましかった。
「わたしったら本当に馬鹿だわ」
清音がそう言うと静枝は驚いた。
「なぜ?」
「だって、鳥越家にそんな人なんていないと思ってた。だって一度もお会いしたことがないんだもの。馬鹿だわ、わたし、本当に」
すると静枝はさらに驚いた顔をして清音を見た。
「何言ってるの? 奥様は二年ほど前に亡くなられたのよ。竹藪の中にお墓があったでしょう。旦那様、かわいそうだったわ。あんなに激しく泣き狂った旦那様なんて初めて見た。怖《こわ》いくらいだったわ」
いったい静枝が何を言ったのか、清音には意味がよくわからなかった。その言葉の持つ意味が次第《しだい》に頭の中に入ってくると清音は持っていた湯のみを縁側に置いた。ことりと音がした。
立ち上がるとぐらぐら足元が揺れるようで、目が回るようでもあり、振り返ると不思議そうな顔をしてこちらを見ている静枝の顔があった。
「どうしたの、清音ちゃん?」
どうしよう、全部言ってしまおうか。それまでの政義の態度や障子の隙間から見えた人形のこと、まだ一度も姿を見たことのない優子という女性のことを、静枝に話してしまおうか。しかしそれを言ってしまうとどうなるだろう。自分の話したことが集落中に広まってしまうと、人々はいったいどういう目で政義をみるようになってしまうだろう。考えると清音はたまらなかった。からん、からん、と下駄《げた》を響かせて歩いて来る政義や、門の側《そば》であじさいのことを話す政義の姿が蘇《よみがえ》り、清音はいったいどうしたらいいのかわからなくなった。
「清音ちゃん?」
猫が鳴いた。
しかし清音にはまったく聞こえてはいなかった。
清音の手から音もたてず、甘酸っぱい味のする小さな実が地面に落ちた。
「いってきます、清音さん」
出かけていく政義を見送ると清音は覚悟を決めた。今ならば政義は家にいない。胸が苦しく狂おしい。清音の散々迷ったすえの決断だった。
きゅ、きゅ、と鳴るいつも薄暗い廊下を進み、政義の部屋の前で立ち止まる。今、その部屋の中には優子という女性がひとりだけで居るはずだった。清音は襖《ふすま》の前に膝をついて正座をし、震える肩に力をふきこんでぴんとはった。
「す……」
声がからからだった。目の前にある襖の向こう側に優子という人間が本当に居たらどれだけ自分はほっと安堵《あんど》するだろう。
「すいません、清音です。奥様、奥様、清音です、返事をしてください。どうか、返事を……」
しかし、どれだけ間《ま》を置いてみても襖の向こうから返ってくる返事など清音の耳にはわずかばかりも聞こえはしないのだった。
「奥様! どうか返事をしてください! 奥様……!」
清音は少しためらい、それでも勇気を振《ふ》り絞《しぼ》って襖に右手の指をかけた。おずおずと襖を滑らせると隙間が次第に開いていき、とうとう部屋の中全部を見渡せるようになった。
清音はその場に正座をしたまま部屋を隅から隅まで眺め回した。
障子をすかしてわずかに黄色い陽《ひ》の光は部屋の中をほのかに照らし、それと同じだけの暗闇《くらやみ》を部屋のあちこちに作っているのだった。暗闇の中に半《なか》ば体を溶けさせるようにして娘の姿の人形があり、ひとつふたつと数えていくとその数は五十をこそうかという数だった。血の色の失《う》せたそれらの顔は無表情に並んで泣いているようにも笑っているようにも清音には見えた。さらに不思議なことといえば、人形の前には白い布団が敷かれており、清音が覗《のぞ》き込むとそこには昨日と同じように髪の長い色白の人形がやさしく寝かされているのだった。やはり、その人形は他の人形に比《くら》べて不思議な妖《あや》しい力を持っているようであり、その細く白い顔を見ていると清音は吸い込まれるような、恐ろしく、しかしどこかしら夢のような錯覚を感じてしまうのだった。
清音は慌《あわ》てて人形から目をそらし、首を振って部屋の反対側を見た。
優子と呼ばれるような人間の姿など清音には見えなかったのだ。
部屋の反対側には襖に青い富士を描《えが》いた押し入れがあり、政義がいつも座って書き物をしているのであろう座椅子があった。座椅子の前には木目の浮いた光沢《こうたく》を放つ木の机があり、その上には数本ばかりの万年筆が整列して主人の帰りを待っていた。それを見ていると清音はなぜかしら寂《さび》しく悲しい気持ちになっていくのだった。
部屋の片隅におかしな古い三面鏡を見つけた。両の扉は閉められ、なぜか取っ手が赤い紐で右回りにくくられていた。しかし、その三面鏡のおかしな点といえば、部屋の他のものに比べて古ぼけているということだった。三面鏡には何か彫刻が施《ほどこ》されているということはなく、光沢のある木でできているということもない。しかし、古ぼけているというのに買いかえられもせず、鳥越家の中にその身をとどめているとはいったいどういうことだろう。
紐を解き、両の扉を静かに開いてみる。するとその中の鏡といえばまるで蜘蛛《くも》の巣のようなひびが網の目を作っていた。持ち主の顔を正面から投げ返してくれる所はほんのわずかひびの入っていない鏡の板の隅っこだけだった。
その時、ひびの入っていない鏡のほんの少しの隙間に、一瞬、色白の女の顔を清音は見たような気がした。ひゃあ、と小さく叫んで清音は振り返り、その瞬間、三面鏡に右肘《みぎひじ》をぶつけ、ぱらりと鏡の破片が数枚落ちてきた。ところがよくよく目を凝《こ》らしてみても自分の後ろに色白の女など見えるはずもなく、しかし、清音は背筋に冷たい蛇か何かのはいずり回るような恐ろしい気持ちになってくるのだった。
急いで鏡の破片を拾い上げて三面鏡の扉を閉める。赤い紐を取っ手に巻きつけると後はもう後ろも見ずに薄暗い廊下を駆け抜けた。
怖《こわ》くて泣きながら自分の部屋へと帰ってくると、父の作った人形をしっかりと抱き締めて部屋の片隅に小さくうずくまった。
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四、鏡
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「優子、今帰ったよ」
襖《ふすま》を開け、自分の部屋へ戻ると政義はそう言った。
「何か変わったことはなかったかい優子」
ええ、何も変わったことはありませんでしたよ。
「そうかい、それは良かった。誰もここへは来ていないのだね。それは良いことだよ」
しかし、ふと政義は部屋の片隅に置かれた古い三面鏡を見て不可思議な一点に気づいた。さらによく見ようと政義は三面鏡に歩み寄り、顔を近づけると声を上げた。
「これはどうしたことだろう。優子、嘘《うそ》をついてはいけないよ。今日ここへ誰かが入ってきたのだね。そしてこの三面鏡を開いてしまったね。優子、嘘をついてはいけないよ」
なぜですか、なぜそんなにもわたしの言葉を疑うのですか、本当に何も変わったことなどありはしなかったのですよ。
「そんなはずはないよ優子。ほら、この三面鏡の紐《ひも》を見なさい。この三面鏡は古いので時々両の扉が勝手に開いてしまうのだよ。だから勝手に扉が開いてしまわないように、ふたつの扉の取っ手をぐるりと赤い紐で絡《から》げてあるのだよ」
それがどうかしたのですか、今もそうなっているではありませんか。
「それが違うのだよ優子。いつも赤い紐は右回りに取っ手をぐるりと回っているはずなのに、ほら、見てみなさい、今日にかぎって左回りに紐が回っている。これはいったいどういうことなのだろうね」
ああ、あなた、それはわたしが開いてしまったのです。わたしが三面鏡の扉を開いてしまったのですよ。
すると政義は三面鏡の両の扉を開いて中を確認し、さらに驚いた声を上げた。
「優子、中の鏡が割れているよ。破片がどこかへ落ちているはずだよ」
あなた、鏡なら以前から割れていたはずではありませんか。
「いいや、違うよ優子。ひびは入っていたのだけれど、どこにも欠けたところなどありはしなかったのだよ。それなのに優子、こことここが欠けているよ。破片がどこかへ落ちているはずなのに、どこを探しても見当たらないよ優子」
政義は部屋の中に林立している白い顔の人形のひとつに近づいて髪をさらりと撫《な》でてやり、やさしい声で言った。
「さあ、正直に話しなさい優子。今日ここに清音さんが入ってきたのだね。君は清音さんをかばって嘘をついているのだね」
……ええ、その通りです。清音さんが部屋の中へ入ってきました。
「そうかい。しかしそれでは、君はいったいどうしていたのだね。この部屋に入って来てはいけないと清音さんに言わなかったのかい。あの鏡に触《さわ》ってはいけないよと忠告はしなかったのかい」
ああ、ごめんなさい。清音さんが部屋の中へ入ってきた時、わたしはどうやらぼうっとしていたようなのです。しかし運良く目が覚め、わたしはちゃんと清音さんに言ったのですよ。早くこの部屋から出ていきなさい。そうわたしは清音さんに言ったのですよ。でもあなた、どうか清音さんを叱《しか》らないでくださいな。
政義はまるで人形のように無表情で鏡の欠けた部分を見ていた。
「ああ、優子、わたしは清音さんを叱ったりはしないよ。ただ、わたしはやはり鏡の破片を返してほしいと思っただけなのだよ」
夕日に障子《しょうじ》は赤く輝き、この時ばかりは人形の頬《ほお》もまるで血の通《かよ》った赤子のように朱《あか》く染まってやわらかくなるのだった。
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五、優 子
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もうたえられないと清音は思った。
昨晩のこと、清音は政義の部屋へと食器を取りに行き、そこで清音の見た食器にはやはりおかしな点が見られたのだった。
襖《ふすま》の前に木の盆が置かれ、その上にいくつかの空《から》になった皿と茶碗《ちゃわん》があるということは正しいことだ。政義と優子の二人分の箸《はし》や湯のみがあるということも正しい。しかし政義と優子がまったく同じ料理に手をつけず、そのまま食べ残しているというのはいったいどういうことだろう。清音は不思議でたまらず、つい部屋の中に居るはずの政義に聞いてみた。
「旦那《だんな》様、旦那様、少しお伺《うかが》いしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」
すると襖の向こう側から政義の声が返ってくるのだった。
「なんですか清音さん」
政義はいつもと変わらずやさしい声をしていたので、清音は胸が締《し》めつけられるような気分だった。
「旦那様、今晩の料理の鰺《あじ》の煮つけは、どこかしらいけないところでもあったのでしょうか。どうぞ正直におっしゃってください」
「いいえ、あなたの作った料理にはどこにもいけないところなどありはしませんでしたよ。ただ、私も優子も鰺という魚が大変に苦手《にがて》なのです。あなたには言っていませんでしたね。だからこれは大変不作法なことだと思ったのですが、わたしも優子も鰺の煮つけを食べ残してしまったのですよ」
「しかし、しかし、旦那様も奥様も、二人とも鰺がお嫌いなのですか? 二人とも口にすることがたまらないというほどに鰺がお嫌いなのですか?」
「ええ、そうですよ清音さん」
そういえばずっと以前にも二人が料理を残したことを清音は思い出した。そうだ、あの時はまだ自分は右も左もわからない新米だったのだ。だから二人が小食だということも知らず、たくさんの料理を作ってお出ししていたのだ。
そこで清音ははっとした。あの時旦那様と奥様は食事を半分ずつ残していた。そして旦那様は、今度からはわたしの分の食事も優子の分の食事も半分でいいですよ、とわたしに言った。あれはいったいどういうことだったのだろう。旦那様の言う通りだとすると、二人とも普通の人の半分ほどしか食事をとっていないことになる。つまりそれは旦那様と奥様の二人分の食事を足《た》し合わせてちょうど一人分の量となるのではないか。いったいこれはどういうことだろう。旦那様の言うことが全て嘘《うそ》であると考えるならば……。
いいえ、そんなことありはしない。あってほしくない。でも、優子という人間が本当はこの世からすでにいなくなっているというのならば……。
清音は、政義が優子になりすまして二人分の食事をとっている様子を想像した。
最初は政義である政義が箸で料理を口に運び、そして次に優子になりきった政義が食事をする。
今度は政義がその場に居ない優子に向かってやさしく囁《ささや》き、すると政義が自分で優子の語り口調を演じながらそれに答える。
食事はそういうふうに進み、やがて食べ切れずに料理をそれぞれ半分ずつ残してしまう。
政義が食べることのできない鰺はやはり優子の皿の上にも残る。
なぜなら優子は政義なのだから。
優子の膳《ぜん》の前には布団《ふとん》に寝かされていたあの人形が座っているのに違いない。しかしそれでも政義は自分以外に優子という人間が部屋の中に居るのだと信じている。ああ、なんという夢なのだろう。清音はめまいがしそうだった。
旦那様、優子という名前の奥様はもう二年も前に亡くなって竹藪《たけやぶ》のお墓に葬《ほうむ》られたのではありませんか。
清音は政義の部屋の前から帰る途中、流れ落ちる涙をこらえることができなかった。涙は持っていた盆の上の茶碗にぽとりと落ち、廊下はそれでもきゅ、きゅ、と鳴いていた。
次の日、清音はとうとうある決意をした。そのきっかけは政義の突然の外出だった。
「清音さん、わたしは昼から少し遠くまで行かなければいけないのです。おそらく帰りはだいぶん遅くなってしまうでしょう」
政義は物々しいよそ行きの格好をして、滅多《めった》に持たない大きな黒い鞄《かばん》を持っていた。
「清音さん」
政義はその時ばかり清音の目をじっと見詰めて言った。
「決して優子の居る部屋に入ってはいけませんよ、わかりましたか」
清音ははっとなった。
「いいですね、決してあの部屋に入ってはいけませんよ。約束してください」
「はい、わかりました。奥様の居る部屋には決して入ったりなどいたしません」
そう答えた清音の声は少しばかり震えていた。
清音の返事を聞くと、政義は鳥越家を離れていった。今日は珍しく下駄《げた》を履《は》いてはいないので、からん、からん、という音は聞こえず、門のところで見送っていた清音はすぐにひとり取り残されてしまった。
今日でもう終りにします旦那様。清音はもう見えなくなった政義に向かって心の中で言った。旦那様、あなたが今日この家に帰ってきた時、あなたの頭の中に住み着いた奥様はもう本当にこの世からいなくなっているはずなのです。ああ、そうするとあなたはきっとわたしを嫌いになるでしょう。あなたはわたしを恨《うら》んでしまうでしょう。しかし、もうわたしにはたえられないのです。わたしも、あなたも、夢を見るのは終りにしましょう。あなたが目覚めた時、素晴らしく空気の澄んだ朝がそこにあることをわたしは信じていますよ。
「奥様、奥様、夕食を持って参《まい》りました」
清音はそう部屋の中に呼びかけたが、やはり清音に向かって返ってくる返事などありはしなかった。清音は、一応念の為に優子一人分の夕飯を部屋の前に置いておくことにした。もし食器を下げる時にそれらの料理がなくなってしまっていれば、優子という人間がそれらの料理を食べたということであり、優子は本当に実在するということになる。
わたしは旦那様を裏切るようなことをしているのだ。
ストーブの中に入ったまま忘れられていた灯油を漏斗《じょうご》で一升瓶《いっしょうびん》の中に移しかえながら清音はそう思っていた。物置の天井からぶら下がった裸の電球が弱い橙《だいだい》の明りを揺らめかせて手元を照らし、濃い緑色の瓶の中に流れて落ちる灯油はどこかしら暗い色に輝いていた。ふと清音が顔を上げると棚の上には人形の入れられていた木の箱が並んでいて、そこに書かれた「人形」という文字を見るたびに清音はせかされる思いがした。
灯油を瓶に移し終えると、清音は瓶とマッチを鳥越家の広い庭の真ん中へ運んだ。
ここならば何かを燃やしてもどこかへ燃え移る心配はない。
すでに太陽は姿を隠し、辺《あた》りは竹藪と夜空の境界線さえわからない闇《やみ》の中へと沈みこんでいた。どうやら今日は月も星も姿の見えない曇った夜のようだった。
わたしはこの闇を一生忘れはしないでしょう。どこまでも落ちるこの穴のような深い闇、実際そこにある竹藪や石灯籠《いしどうろう》を覆《おお》い隠して余りあるこの夜の闇は一生わたしを悩まし続けることでしょう。
清音は火を灯《とも》した蝋燭《ろうそく》を持って優子を呼びに行った。蝋燭の火はゆらゆらと揺らめいて、まるで踊るように清音の顔を照らしていた。
きゅ、きゅ、と鳴る廊下を歩いて政義の部屋の前へとやって来た。政義は外出中なのだから部屋の中に居るはずもないが、政義の言うことが本当ならば今この部屋の中には優子という女がひとり居るはずだった。しかし清音は部屋の前に置かれている盆に目をとめて悲しい気持ちになった。
そこには清音が運んできた時といっさい変わらない様子で料理が残っていて、どうやら誰も手をつけてはいないようだった。
旦那様、この部屋に優子という名前の女性が本当に住んでいるのならば、ここに置かれた料理は少しでも減っているはずではないですか。あなたの言う優子という女性はやはり二年も前に死んでしまっているのですよ。あなたはもういない妻の幻影を人形の中に見ているだけなのではありませんか……?
「失礼します」
清音は少し泣きそうになりながら襖を開けた。しかし部屋の中の電灯を点《つ》けてみても、清音には人影などどこにも見えはしなかった。ただ色の白い娘の姿をした人形たちが並んで立っているだけだった。電灯の温かい光に照らされると人形のふっくらした白い頬《ほお》やしっとりと流れる黒い髪が闇の中に浮かび、清音ははっと息をのんだ。
こうやって白い顔の人形たちに囲まれた夜はいったい何年ぶりだろう。子供の頃、人形師である父親の仕事場で夜を過ごしたことを清音は思い出していた。
清音は人形が怖《こわ》かった。彼女たちがじっと自分を見ているようで、どうにも気持ち悪い。今にも動きだすのではないか、自分が目を離した瞬間に無表情な仮面を脱《ぬ》ぎ捨《す》てて笑顔になるのではないか、それとも泣き狂った子供のように赤い着物をばさばさと振り乱して馬乗りに飛びかかってくるのではないか。そう考えると清音は恐ろしくて逃げ出してしまいたくなるのだった。
部屋の中には布団が二組敷かれていた。ひとつは政義の寝る布団なのだろう。もうひとつの布団に寝ているのが優子のはずだった。
しかし、布団で寝ている白い顔はどう見ても人間ではなく人形のように見える。
この人形が「優子」なのだ、と清音は確信した。
いや、この人形こそ父の作品かもしれない。
掛け布団を取ると彼女は白い寝間着を着せられているのがわかった。自分は人形の着る服を洗濯していたのだと思い至り、考えまいとしても清音は考えずにはいられなかった。
自分こそ今まで、この優子と呼ばれる人形に使われていた操り人形だったのではないだろうか。
そして、操られていたのは自分だけではないのだ。
清音は優子を抱き上げた。
部屋を出る時に電灯を消すと、並んで立っている人形たちもすべて闇に溶けた。
ひょっとするとその時、人形たちは笑っていたかもしれない。
泣いていたかもしれない。
庭の真ん中で清音は抱いていた優子を仰向けにして置き、蝋燭に火を灯した。火は一度大きくゆらりとゆれ、清音の顔と優子の無表情な顔にできた影を震わせた。庭にぼんやりとひとつ浮かび上がるような明るい空間ができあがった。
この人形が旦那様の今を迷わせ、お墓に眠っているはずの優子という人の名前で旦那様に呼ばれ可愛《かわい》がられているのだ。
そして思い切って瓶の中にたまっている灯油を優子に振《ふ》り撒《ま》いた。灯油は白い着物にじわりと吸い込まれ、着物をどこかしら透明な色に染めていく。清音は瓶の中身がなくなってしまうまで灯油をかけ続け、そして空《から》になった瓶を静かに地面に置いた。
地面の上の優子は灯油に濡《ぬ》れて蝋燭の光を反射していた。清音は、やはりこの人形は綺麗《きれい》なのだ、この世界で生きている誰よりも綺麗なのだ、そう思った。
清音は静かに火をつけた。
灯油を十分に吸った白い着物は一瞬で炎に包まれ、炎を大きく膨《ふく》らませた。優子を覆う炎は蝋燭の何倍もの大きな明りとなって鳥越家の庭を明るく照らし、清音は、まるで昼のようだと思った。炎のほうを見ると目のまわりが特に熱くなった。
人形が燃えていく。あの人の愛していた人形が燃えていく。清音の頭に何度も言葉はくりかえし響き、清音は一歩炎から遠ざかった。
炎は全身を包み込んでは止《とど》まるところを知らない勢いで優子をなぶった。
火の粉が飛び、風のない空に舞い上がっては高く飛ぶ。月も星もない暗黒の空に火の粉は遠く高い場所まで赤い点だった。
突然、政義の激しい声が聞こえた。
「何ということだ! 優子! 優子!」
政義は鳥越家の門の側《そば》に鞄を投げ捨てると必死の形相で炎の側まで駆けてきた。
「ああ、これは、これは……!」
政義はそれ以外に言葉の見つからない様子で何度も激しく叫び、自分の羽織《はお》っていた着物を一枚素早く脱ぎ捨てるとそれを炎に被《かぶ》せた。その上に自分も被さり、辺りは蝋燭の明りと地面に染《し》み込んだ灯油の炎だけになってしまった。
「旦那様! それは人形よ! 優子なんて人はいないのよ! 目を覚まして旦那様!」
しかし政義はそんな清音などそこにはいないかのように、優子、優子と叫び続け、目から涙がとめどなく流れ落ちていた。
「旦那様! こっちを向いてよ、旦那様……!」
自分の体で炎を消した政義は、炎に焼かれて元の美しさなど見当たらなくなった様《さま》の優子を強く抱《だ》き締《し》めた。何度も頬擦《ほおず》りをして泣きながら謝った。
「おお、優子、すまない、すまない……!」
強く、全身の隅々から声を出して、その声はまるで魂《たましい》でも削っているかのように掠《かす》れて震え弾《はじ》けるようだった。清吉はそういう政義の姿を見るのが痛々しく辛《つら》かった。
優子にしがみついたまま泣き続けている政義の背中に抱きつき、清音も声を出して泣いた。
地面に投げだされた蝋燭の炎は消え、地面で燃えているわずかばかりの炎がちろちろと清音の頬を伝う涙を照らしていた。
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六、ベラドンナ
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病院の古い木の扉は横に引くと引っかかってうまく開かなかった。中に入るとどこか湿ったような臭《にお》いと薬品の臭いが混ざり合っていて胸に溜《た》まるような不快な感じがした。茶色のスリッパも古く、探してはみたが、どこも破れていないスリッパなどありはしなかった。
薄暗い湿った病院の中と違い、窓の外は明るく輝いている。もう夏の光なのだろうか。
黄色い中身を所々見せる黒い革張《かわば》りの椅子《いす》が並んだ待合室を抜け、古びた木の廊下を歩き、政義の案内された部屋には医者がひとり座って待っていた。
まだ若い医者だったが顔は暗く沈み、部屋に入ってきた政義を暗い瞳でじっと見ていた。
政義は緊張し、自分でも知らないうちにハンカチを握《にぎ》り締《し》めていた。
「ああ良かった。わたし本当にそう思うわ。ねえ、お父さんもそう思うでしょう。だって旦那様はすぐに退院できるのだそうよ。ただお医者様とほんの少しお話をするだけでもう病院を出ることができるの。わたし心配になってお医者様に聞いてみたのよ。するとね、そのお医者様はこう言ったの。あの人にとって今いちばん大切なことはゆっくりした場所で落ち着くことなのだよ、だって。そう言ったの。旦那様は今、お医者様とお話をしているわ。お父さん、知っているでしょう、旦那様のこと。お父さんのお友だちよ」
政義が病院に入らなくともよいということを知って、清音は浮かれていた。清音にとって何よりも嬉《うれ》しい知らせといえば、酷《ひど》いショックが残っているものの政義はすぐに普通の生活に戻れるだろうということだった。
「さあ話してくださいませんか」
政義を背もたれのない丸い椅子に座らせて医者はそう切り出した。政義がほんの少し動いただけで椅子は切り裂くような高い音を響かせて、それがたまらなく耳障《みみざわ》りだった。
「優子は、優子は燃えていたんです。わたしが帰ってきた時、優子は炎に焼かれていたのですよ。ああ、わたしは今でもその光景を忘れることができません」
自分の声が震えていることに政義は気づいていた。目を閉じるとまぶたの裏側で、優子を包む炎が踊っているのだ。決して、炎は消えてくれはしなかった。
「ああ、優子……。先生、優子はいつわたしのもとへ戻ってくるのでしょうか……」
すると医者は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて静かに答えた。
「いえ、あなたはもう彼女を見ないほうがいいでしょう。彼女の死体は酷《ひど》い状態なものですから……」