政義の背中をゆっくりとひとつ汗が滑り落ち、額《ひたい》に浮かんだ汗を手の甲で拭《ぬぐ》うとべっとりと濡《ぬ》れていた。
「お気持ちは、お察しします……」
医者は痛々しい様子で政義に言った。
「優子は、二人目の妻でした。最初の妻はもう死んでいまして、思い出といえばあいつの使っていた三面鏡くらいでした」
政義が半分|前屈《まえかが》みになると椅子が大きな音をたててきしんだ。引《ひ》っ掻《か》くような音はすぐに部屋の片隅に吸い込まれて消えた。
「確かにひびの入った役たたずのものでしたが、あれは結核で倒れた前の妻との大切な思い出の品だったのです。だから清音さんが鏡の破片をなくした時、わたしは少し残念な気持ちになりました」
「最初の奥様はいつ頃お亡くなりになられたのでしょうか」
「二年前です。立派な墓を作って丁寧《ていねい》に埋葬してやりました。彼女が生きている時は村人からずいぶん理不尽な扱いを受けたものです」
「そうですか、それでは奥様を続けて亡くされたということですか……」
「……これは因縁《いんねん》です」
「因縁?」
「優子が、優子がまさかあんな死にかたをするなんて……」
政義も医者も黙り込んだ。長い間沈黙だけが部屋の中に横たわり、ひょっとするともう世界から音というものはなくなってしまったのではないかと政義は思った。
ふいに、沈黙を破ったのは医者だった。
「わたしはさっき清音さんと語をしたのですが……」
医者は青ざめていた。
「どうも、あなたのお話の内容とくい違《ちが》うことが多いのです。いったい、どういうことなのですか?」
政義は医者の質問にしばらく沈黙していたが、まるで重い物を置くようにして折り畳まれたハンカチを木の机に置いた。
「ひょっとするとあなたは信じないかもしれない」
政義は医者の目を見て言った。
「わたしが、何を信じないというのですか?」
政義は答えず、医者の注目している中、震える指で机に置かれたハンカチを静かに開いた。
はたして、中から現れた物といえば全ての光を吸い込んで輝いているような漆黒《しっこく》の小さな実が二つだけだったのだ。
鳥越家の門の側《そば》に生《は》えていた植物の実だった。
「この実はいったい何ですか?」
医者は机の上の黒い実に顔を近づけた。
「この実は、清音さんの部屋の片隅に転がっていたものをわたしが見つけ出してきたものです。光沢《こうたく》のある、小さな実でしょう。鳥越家の敷地内に生えている植物の実なのですよ。名前をベラドンナといいます」
「ベラドンナ?」
「はい……」
政義はそれこそ吐き気を我慢しているかのように青ざめた顔色をしていた。酷く唇《くちびる》が震えていた。
「……ベラドンナです。ハムレットの父親の暗殺に使われたとも言われる猛毒の実なのですよ」
机の上の黒い実に手を伸ばしかけた医者の動きが止まった。医者も酷い顔色をしていた。
「わたしの友人に出版関係の会社に勤めている男がいまして、その男に調べてもらいました」
「いったい、この毒の実がどうしたというのですか?」
政義は汗の浮き出た眉間に皺を寄せ、どこから話すべきかを迷っていた。話さなければならないことは結構な量だった。
「今回の不幸とは直接関係のない話ですが……」
医者は頷《うなず》いて政義を促《うなが》した。
「友人に聞いた話です。もう十年ほどの昔、山陰で起こったある出来事……、いや、噂《うわさ》と言ったほうが正しいでしょう」
政義も医者も汗を浮かべていたが寒そうにしていた。
もう十年ほどの昔、数人の男たちが山菜を採《と》りに深い山に入った。時は夕刻を迎えようという頃、男たちは山の奥で名前のわからない植物を見つけた。
植物には小さいながらも旨《うま》そうな実が生《な》っていた。
どういう味がするのだろうか。男たちは考えた。しかし、見ているだけで木の実の味などわかるわけもなく、ついに男たちのひとりが木の実を摘《つ》んで試しに食ってみた。
それが、その男の不幸だったのだ。
男たちは、木の実を食った男を囲んで、いったいどんな味がするのかを尋《たず》ねた。しかし、男は質問に答えず、突然、地面に四《よ》つん這《ば》いになったかと思うとまるで獣《けもの》のような動きで駆け出した。目は爛々《らんらん》と輝き血走っていたそうだ。
男たちがあっけにとられて見ているうちに、その男は山の奥へと消えていった。
しばらくして、人間とも狼《おおかみ》ともつかない奇妙な遠吠《とおぼ》えが三回、山全体に響いたそうだ。
開け放した窓から風が入ってきた。
「その後、遠吠えが聞こえてきた山奥におそるおそる分けいってみると、泡を吐いてこと切れた男が倒れていたのだそうです」
医者が顔をしかめて体を引くと、椅子が鋭い音をたてた。
「彼は毒の実を食べた後、自分を狼だと思い込んで死んでしまったのですか? それがいったい、清音さんと何の関係があるというのですか?」
政義も医者も机の上の黒い実から目を離すことができなかった。どこか遠くのほうで誰かの廊下を駆け回る音が聞こえていたが、政義のいる部屋からは全くの別次元に思えた。
「清音さんは、この致死量わずか〇・一グラムのベラドンナの実を食べてしまったのではないかと、わたしはそう思っているのですよ」
医者は目を見張って驚いた。
「そのような致死量の毒の実を食べて、生きていられるはずがないではありませんか。現に清音さんは生きている」
「致死量といっても、実際に計って人間に飲ませたわけではないのですから曖昧《あいまい》なものです。それに、清音さんは途中で吐き出したのかもしれないし、人によってはあまり効果を示さないのかもしれない。確かに清音さんは生きている。いや、生き残った……」
「なるほど、あなたの言いたいことが見えてきました。先程《さきほど》の、毒の実を食べて狼になった男と同じように、清音さんもまたそれに近い状態なのだとあなたは言いたいのですね」
「いえ、少し違います。ベラドンナの主成分であるアトロピンの前駆症状というよりも、清音さんがこの悪魔の実を食べてしまった時のあまりに強いショックが後遺症として出てきてしまったのだと、わたしは考えています。つまり、清音さんはベラドンナの実を食べて生き残った。そのかわりに命の代償として慢性的な譫妄《せんもう》状態が続くようになった。わたしはそう考えているのです」
「譫妄状態というと、妄想と現実の境目がぼやけ、意識の混濁が現れるという……」
「その通りです。ああ、なんということだろう!」
政義はこらえきれずにうめいた。
「清音さんは幼い頃、人形師の父親の仕事場に一晩中閉じ込められたという経験があるのです。それからしばらくのうち、清音さんは女の人形をたいそう怖《こわ》がったと聞きます。その恐ろしい体験が悪魔の実によって引き起こされた譫妄状態と絡《から》み合い、清音さんは人間と人形を決定的に区別し理解することが困難になっているのですよ! 清音さんにとって人間と人形の境界線など今や霞《かすみ》のようなものなのです!」
医者は目を大きく見開いた。
「それでは、清音さんは優子さんを人形だと思い込んでいた、つまりそういうことですか!」
「全て、その黒い実が悪いのです」
政義が指さすまでもなく、二人は机にのった小さな実に目を向けていた。
「ベラドンナは悪魔の植物だ。悪魔の実が、清音さんに夢を見せてしまったのですよ。なんてことだ。優子などという人間は実在しない、優子というのは人形なのである、という夢をベラドンナが清音さんに植えつけてしまったのです……」
「そして、悪魔の実に命じられるまま、清音さんは人形に火をつけた……」
政義は顔を両手で覆《おお》い、歯を食いしばるように泣き始めた。
「わたしは今でも信じられないのですよ!」
「なんということだ。かわいそうに。優子さんも、清音さんもかわいそうすぎる。清音さんは自分でも気づかないうちに悪魔の実に魅入《みい》られ、操り人形にされていたということではありませんか!」
「しかし、なぜあなた方は清音さんを部屋に近づけなかったのでしょうか。優子さんをなぜ清音さんに紹介しなかったのでしょうか。わたしには不思議でなりません」
「優子も……」
政義は鼻に声を引っかけながら答えた。
「優子もまた、肺結核だったのです。だから清音さんをあまり優子の側に近づけたくはありませんでした。病気を彼女に感染させたくはなかったのです。彼女はわたしの家で働き始めるほんの少し前にたったひとりの肉親である父親を結核で亡くしたばかりなのでね。だから優子の看病は全てわたしがしていたのです。そして優子が結核だということは誰にも許してはいけない秘密でした。清音さんにもです。あなたならおわかりになるでしょう、閉鎖《へいさ》的な村の人たちの冷たい目を。だからわたしは妻の病気を誰にも言いたくはなかったのですよ。前の妻のように優子までも陰口を叩《たた》かれたくはなかったのです」
部屋の中に沈黙がたちこめ、政義は何か重いものに押《お》し潰《つぶ》されそうな気がしていた。ずぶずぶと足元がやわらかく崩れ始め、いつのまにか知らないうちに沈んでいきそうだった。
じっとりと腕に汗をかき、その汗はもう冷たくなっていた。医者が溜《た》め息《いき》をついたので、政義も姿勢を正すと椅子がきしんだ。
「聞かせてください。優子さんはあの晩、あの子の作った夕飯に手をつけていませんでしたね。そして呼び声にも反応しなかったと清音さんは言ってました。優子さんは、清音さんに抱き上げられたのに反抗しようとしなかったし、灯油をかけられてさえ逃げようとはしなかった。いったいこれはどういうことなのでしょう、優子さんはいったいなぜそんなにも清音さんになされるがままだったのですか?」
ゆっくりと政義は考えた。吐き気を感じていた。それが、部屋の換気の悪いせいか、それとも暑いせいなのかわからない。ただ、どうしようもなく悲しかった。やるせない気持ちだったのだ。
「優子はぼんやりとすることが多かった。空中の一点を見つめたまま無表情にじっと動かなくなるのです。そう、まるで人形のようだった。妻があの状態になるとなかなか目が覚めなかったのですよ。肩を激しく揺さぶるか、それとも耳の近くで名前を叫ぶか、自分で目覚める時なんてほんの偶然だったのです。だからたとえ地面に寝かされたとしても……」
目を閉じると優子の燃える姿が浮かぶ。
すまない、思い出すたびに政義は謝らなければ気が済まされないのだ。
すまない。
私が不幸の張本人なのだ。
「ああ、ベラドンナの実だ」
医者は溜め息のように声を吐き出した。
「机の上のこれが清音さんと優子さんを罠《わな》にはめたとしか言いようがない。しかし、ひとりの少女から人間と人形の境目を奪ったこのような恐ろしい植物が、いったいなぜあなたの敷地に生えていたのですか?」
政義は額に指を当てたまま苦悩するようにしばらく顔をうつむけていたが、やがて薄暗い声音《こわね》で語りだした。
「鳥越家というのは、昔からある名家なのです。昔から、しかし、実をいうとわたしには鳥越家の血など流れてはいないのです」
政義の声は僅《わず》かに震えていた。
「何代か前、子供を連れた女が鳥越家の前で行き倒れていたという話を母から聞いた覚えがあります。それが因縁の発端でした」
「因縁、ですか」
「ええ、当時の鳥越家の主人がその子供連れの女を介抱《かいほう》してやったのがいけなかったのです。母ははっきりと言いませんでしたが、行き倒れていたその女は鳥越家の主人に取り入ったのだと思います。いえ、取り入ったに違いないのです。なぜなら、そのために鳥越家の前で行き倒れたのですから」
政義は酷く悲しかった。
「鳥越家の主人には妻がいましたが、子供を連れた女が鳥越家に米た途端になぜか死んでしまったのだそうです。そうなると鳥越家の主人は行き倒れていた女をすぐに新しい妻にした」
「新しい妻に……」
「ええ、そうです。ところがそれで終りではなかった! 行き倒れていた女が鳥越家の人間になるとすぐ、鳥越家の主人も死んでしまったのです!」
医者が唾《つば》を飲み込んだ。
「行き倒れていた女とその子供が鳥越家を引き継いだ。わたしは、その時に女が連れていた子供の血を引いているのであって、鳥越家の血を引いているわけではないのです!」
政義は涙をこらえることができなかった。
「突然死んだ鳥越家の主人とその妻! ああ、胸が張り裂けそうだ! わたしの祖先は二人を毒殺して鳥越家を乗っ取ったのに違いない! 女が鳥越家にやってきた時、連れていた子供の手には花が握られていたと聞きました。今なら花の正体がわかる。子供の握っていた花こそベラドンナの花だったのだ! 集落の人間が鳥越家に冷たいまなざしを向けるのは結核のためだけではないのですよ! 集落の人間は恐らく、わたしの祖先が鳥越の家にした仕打ちを知っているのに違いないのです!」
医者は政義を静めようとしたが、政義は立ち上がって固く握り締めた拳《こぶし》を震わせた。
「因縁なのです。これは、わたしの体に脈々と受け継がれた呪《のろ》われた運命。鳥越の先祖の復讐《ふくしゅう》なのです! ああ、どうすることもできない。優子を殺してしまったのは恐らく、悪魔と契約を結んだ者の末裔《まつえい》であるわたしなのだ! いや、優子だけではない! 前の妻も、清音さんも、全ての不幸の元凶はわたしなのだ!」
政義は天井に顔を向けて叫び、流れ落ちる涙を拭きもせずに泣き続けた。しばらく、政義がそうしている間も医者は眉間に皺を寄せ、政義の涙が涸《か》れ果てるまで黙って目を閉じていた。
必然だったのでしょうか。
静かに、政義は机の上の黒い実に目を向けたまま声を出した。自分が立ち上がっていることすら気づかない。心から全ての色が抜け落ちていた。
「こうなることは、悪魔の花を持った子供とその母親が鳥越家の門前で芝居を始めた時から決まっていたのでしょうか」
医者はしばらく黙っていたが、机の上の黒い実を元通りハンカチに包むと立ち上がって政義の手に握らせた。医者の手もまた震えていたことに政義は気づいた。
「すぐに燃やしてしまいなさい。この実だけでなく、敷地に生えているベラドンナを全て燃やしてしまいなさい。そしてあの子を迎えに行くのです。わたしがそれまでにあの子の後遺症を治療しておきましょう。いえ、治療できていなくとも、あなたは迎えに行くのです。なぜなら、二人ぼっちじゃあありませんか。心が落ち着いてきたらゆっくり時間をかけて話をしなさい。あなたも、あの子も辛《つら》いでしょうが、ゆっくり、ゆるやかに受け入れなさい。因縁など、あなたの代で終りにしてしまいなさい」
医者から手渡されたベラドンナの実を握り締め、政義は崩れ落ちるようにして木の床に膝《ひざ》をついた。医者が静かに部屋から出て行った後も、政義の漏《も》らす嗚咽《おえつ》は部屋の中に聞こえていた。
病院のどこか遠くから赤児の泣き声がした。
ねえ、お父さん、ちゃんと聞いてるの? わたしね、好きな人ができたのよ。立派な人。ねえ、お父さんも好きよ。
清音は自分の隣に腰かけた父の形見の人形に語り続けた。窓から明るい陽射《ひざ》しが射し込み、ベッドの上の清音にやさしく降りそそいだ。風が吹くと病室の白いカーテンはふわりとゆれ、まるでおいでおいでをしているようだった。
お父さん、今日は暖かい日ね。家に帰ったらあの人の洗濯物を干さなくてはいけないね。
しかし、人形がなかなか語りかけてくれないので清音は首を傾《かし》げた。
少し寂《さび》しかった。
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単行本 一九九六年一〇月 集英社刊
底本
集英社文庫
二〇〇〇年五月二五日 第一刷