角川文庫
狗 神
[#地から2字上げ]坂東眞砂子
鐘の音が、|五月《 さ つ き》晴れの空に響いた。
山門の階段を上っていた時田|昂《こう》|路《じ》は、足を止めた。門を支える太い柱の間に、|檜《ひ》|皮《わだ》|葺《ぶ》きの本堂が見える。
|信濃《しなの》、|善《ぜん》|光《こう》|寺《じ》。新緑の山に吸いこまれるように、灰色の石畳がまっすぐに続いている。白い煙のたなびく青銅の香炉。本堂の前で、|賑《にぎ》やかに記念撮影をする参拝客の一団。|麦《むぎ》|藁《わら》帽子をかぶった老女たちが、小さな台の上に並べたお守りを売っている。
何の変哲もない、観光名所の寺院だ。
この寺のどこが、おもしろいんだろう。
昂路は心の中で不満気に|呟《つぶや》いて、山門をくぐった。
——ここまで来たんだから、ついでに善光寺に寄って行くといいよ。長野市までは車ですぐだし、おもしろい寺だぜ。
そんなことをいったのは、白馬でペンションを営む旧友の加賀|伴《とも》|久《ひさ》だ。週末を利用して、彼の|許《もと》を訪ねた昂路は、どうせ東京への帰り道にあるからと、善光寺見物を勧められた。会社には明日の火曜日から出ることにしていたので、急いで東京に戻る必要もなかった。寺参りなんか柄ではないが、|暇《ひま》|潰《つぶ》しもかねて立ち寄ったのだった。
車の|鍵《かぎ》をポケットの中で|玩《もてあそ》びつつ、寺院の境内を歩く。松林に映える三重塔や|石《いし》|灯《どう》|籠《ろう》。ぐるぐると鳴きながら、豆をついばむ|鳩《はと》の群れ。午後の陽光を照り返す|玉《たま》|砂《じゃ》|利《り》を踏むうちに、せっかく来たのだから、|賽《さい》|銭《せん》のひとつでもあげていくか、という気分になってきた。
伴久の奴、仕事でかりかりしていた俺に、仏様でも拝んで肩の力を抜け、といいたかったのかもしれない。
彼は、昨夜、酒を飲みながら、旧友に語った仕事の愚痴を思い出して苦笑した。
正面階段を上り、本堂に入ったとたん、眼前が暗くなった。やがて目が|薄《うす》|闇《やみ》に慣れてくると、黄金色に輝く本堂の奥が見えた。|軟《やわ》らかな灯籠の光に浮き上がる|瑠《る》|璃《り》壇。祈りを|捧《ささ》げる|参《さん》|詣《けい》客の丸い背中が、畳敷の|内《ない》|陣《じん》に小山のように連なっている。その背後で形ばかりに合掌すると、昂路は|踵《きびす》を返そうとした。
「あーっ、怖かったよぅ」
若い女の声が耳に飛びこんできた。振り向くと、四、五人の若者たちがもつれ合うように歩いてくる。
「おもしろかったじゃないか。もう一遍、入ってもいいぜ」
「強がりいってぇ」
笑い声が大きくはじけた。
昂路は、彼らの来たほうを見た。内陣の横が何かの出入口になっているらしい。係の女が、参拝客から入場券を受け取っている。好奇心を覚えた彼はそこに近づいていくと、券を輪ゴムでまとめている女に聞いた。
「この中に何かあるんですか」
髪をスカーフで包んだ女は、上目遣いに昂路の顔を見た。
「内陣参拝と、お|戒《かい》|壇《だん》|廻《めぐ》りですよ」
「戒壇廻り?」
「内陣の地下をぐるっと廻るんです。途中にある極楽のお錠前を触ると、仏様とご縁が結べるといわれているんですよ」
女は体を|捩《よ》じり、内陣の脇に延びる畳敷の通路を指さした。
「入口は、この突きあたりです。見るんでしたら、早くしてください。本堂は四時半に閉まりますから」
腕時計を見ると、四時十分前だった。何があるのかよくわからないが、寺見物のついでに入ってみることにした。
彼は入場券を買ってスカーフの女に渡すと、内陣を横目で見ながら通路を進んでいった。|回《え》|向《こう》受付の|僧《そう》|侶《りょ》たちの座る場所を過ぎて、さらに奥に入っていく。正面に朱塗りの壁が現れた。連子窓から射しこむ弱々しい光に照らされた壁には、『戒壇めぐり入口』という看板が掛かっている。昂路は、右手で腰の高さの壁を|撫《な》ぜて進むように、との注意書きを読んでから、階段を降りていった。
地下は明かりひとつなく、黒光りする木の廊下が淡い|闇《やみ》に消えていた。ちょうど人の波の切れたところで、あたりは静かだ。彼を誘うように、奥から冷たい空気が流れてくる。
ちょっとした幽霊屋敷だな。
昂路は、にやりとすると足を踏みだした。四、五歩進んだ時、通路の真ん中に、ほっそりした人影が見えた。着物姿の女のようだ。長い髪を編みこんで桜色のリボンで結んでいる。行く手にたゆたう闇を前にしてためらうように立っていた。
昂路が近づく気配を察したのか、女が首を|捩《よ》じった。階段から入ってくる柔らかな光が、美しい顔を浮かびあがらせた。
抜けるように白い肌、浮世絵のような|瓜《うり》ざね顔に、すっと通った鼻筋。三十代後半だろうか。|紺絣《こんがすり》の着物から伸びた首筋に、|仄《ほの》かな色気が漂っている。
昂路はどぎまぎしながら、お先に、と声をかけると、彼女の脇をすりぬけようとした。
「あのう、すみません……」
女の声に、昂路は振り向いた。小首を|傾《かし》げるように、女が口を開いた。
「御一緒させていただけませんか」
「一緒って……」
戸惑って聞き返すと、女は気恥ずかしそうにいった。
「一人でここに入るのが怖くて、私……」
その途方に暮れたような風情に、昂路は心を動かされた。
「僕でよければ……」
「ありがとうございます」
女は、ほっと息を吐いた。
昂路は先に立って歩きはじめた。壁に手をつけて歩くように書かれていたことを思い出したが、自分まで怖がっていると見られたくなかったので、廊下の中央を進んでいった。
すぐに壁にぶつかった。突きあたりらしい。彼は壁に沿って曲がった。そこから先は真の闇だった。階段から射してきていた微光も消え、鼻をつままれてもわからない。
昂路は、ごくりと|唾《つば》を|呑《の》みこむと、慌てて壁を探した。やはり壁を頼りに手探りで歩かない限り、前にも進めない。
「すみません、手を|繋《つな》いでもいいですか」
背後で小さな声がした。
「いいですよ」
昂路は自分の右手を後ろに出した。女の指先がぶつかるのを感じ、やがてしっかりと握られた。
「私、暗闇がだめなんです」
女の声が闇に響く。関西|訛《なまり》のある言葉だった。しかし大阪弁でもない。
昂路は手探りで進みながら、わざと明るい声でいった。
「いや、僕も一緒にいてもらってよかった。ここまで暗いと、さすがに怖いですね」
「暗闇は恐ろしいものです」
女が|呟《つぶや》いた。
「何が潜んでいるか、わかりませんから」
その言葉の真剣な響きに、昂路は思わず後ろを振り返った。
何も見えない。女の顔も体も、存在感すら消えている。握りしめた手だけが、女がそこにいることを告げていた。細身の女の体には似合わず、手は骨太く大きかった。
彼は、また前を向くと歩きだした。
目を開けても、閉じても、変わりのない暗闇が広がっている。女の手を握ったまま、暗黒に浮いている気がした。足が踏んでいるのは床板なのか虚空なのか、定かではない。
しばらく黙々と暗闇を進んでいった。静寂が支配する世界に、自分の呼吸音だけが妙に大きく聞こえる。
昂路は気分を紛らわそうと|訊《たず》ねた。
「どちらから来たんですか」
少し沈黙の後、女の声が返ってきた。
「高知です」
「お一人で?」
彼女は、「ええ」とぽつりと答えた。
どうして、と聞こうとして、彼は言葉を呑みこんだ。今時、女性の一人旅なぞ珍しくはない。……しかし、着物姿で一人旅をするだろうか。どこかちぐはぐな気がした。
闇はまだ続いている。所々、壁が曲がっている。そのたびに出口の光が見えるのではないかと期待するのだが、待ち構えているのは、暗闇だけだ。
なぜ、こんなに出口まで遠いのだろう。本堂の下を廻る地下道だ。そんなに大きなはずはない。なのに、もう何十分も暗闇をさまよっている気がする。時間の感覚がなくなっているのだろうか。
ひょっとしたら、この中は、迷路になっているのかもしれない。自分は知らないうちに、間違った道に足を踏みいれたのではないだろうか。
背中が汗ばんできた。昂路は不安になってきた。
「この方向でいいんだよな」
思わず独り言を|洩《も》らすと、女が|怯《おび》えたように、彼を握る手に力をこめた。まずいことをいってしまった。昂路が、彼女を安心させる言葉を探していた時、どこかで声がした。
「こりゃあ、真っ暗だよ」
「文句いわない。暗いからこそ、仏様の御利益もあるんだからさ」
年寄りじみた女たちの声だった。|姦《かしまし》く|喋《しゃべ》りながら、地下道に入ってきている。
昂路はほっとして、後ろの女にいった。
「人が来たみたいだ。ここで、あの一行が追い着くのを待ってみませんか」
「そうですね」
二人は、その場に立ち止まった。それでも女は手を離さない。よほど暗闇が怖いのだろう。それにしても、こんなに長く手を|繋《つな》いでいるのに、女の手が少しも温かくならないことを不思議に思った。
「不動、|釈《しゃ》|迦《か》、|文《もん》|殊《じゅ》、|普《ふ》|賢《げん》、地蔵、|弥《み》|勒《ろく》」
老女たちが仏の名を唱和しはじめた。
「善光寺念仏です」
昂路の|耳《みみ》|許《もと》で、女が|囁《ささや》いた。
「うちの母も、よく唱えておりました」
聞いたこともない念仏だったが、今は救いの声だった。昂路ははやる心を押さえて、少しずつ大きくなる念仏に耳を澄ませていた。老女たちが追い着いたら、驚かさないように、こんにちは、というのだ。ほら、あと少し。あと少しで、行き合うはずだ。
「地蔵、弥勒、薬師、観音、|勢《せい》|至《し》」
不意に、念仏の聞こえてくる方向が変わった。
「観音、勢至、|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》、|阿《あ》|[#「」はUnicode="#95A6" DFパブリ外字="#F7AA"]《しく》、|大《だい》|日《にち》、|虚《こ》|空《くう》|蔵《ぞう》……」
老女たちの声が小さくなった。どこかで角を曲がったのだろうか。彼は引き返そうと、空いた手で壁を探した。
壁は消えていた。
どうしてだ。
全身から汗が引いていく。
「大日、虚空蔵、|南《な》|無《む》|阿《あ》|弥《み》|陀《だ》|仏《ぶつ》、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
念仏が終わった。
「待ってくださいっ」
昂路は声をかけたが、返事はなかった。彼は、どの方向に行ったらいいかわからなくなって、立ち止まった。
あたりは静寂に包まれた。
がちゃっ。
|常《とこ》|闇《やみ》の|彼方《かなた》で、金属の音が響いた。
「極楽のお錠前だ」
大きな声があがった。
「ほんとだ。触ったよ、触った」
「ありがたい。これで死んだら、極楽に行けるんだよ」
「やだね。死んだら、なんてさ。まだ先の話にしとくれよ」
老女たちの笑い声が遠ざかっていく。
このまま、ここに取り残されるのではないか。そう思うと、体が熱くなった。
「すみませんっ。止まってくださいっ」
昂路は女の手を握ったまま、声を追いかけた。足が床を踏んでいる感じがしない。まるで夢の中を走っているようだ。
やがて女たちの声は消えて、暗闇に静けさが戻ってきた。
彼は、はあはあと息をしながら、立ち止まった。今、どこにいるのか、見当もつかなかった。汗を|拭《ぬぐ》おうとして、彼は、自分がまだ女の手をしっかりと握りしめていたことに気がついた。
昂路は、女の手の感触を確かめてみた。柔らかな肉が、彼の|掌《てのひら》を押し返す。だが、妙だ。あんなに走ったのに、手を繋いでいるのを忘れるほど、女の存在感がなかった。背後の息遣いも、足音もない。人と手を繋いで走ったなら、相手がもたついて引き戻したりするはずだが、何の抵抗も感じなかった。まるで女の手首だけを持って走っていたように……。
彼は、どきりとした。
俺の繋いでいるこの右手の先には、ほんとうに女の体がついているのだろうか。ひょっとしたら、闇の中を走っているうちに、いつか女の手首から先は消えてしまったのかもしれない。
白い女の手首を握りしめて、暗闇に立つ自分の姿が見えた気がした。
「あの……あなた……」
声をかけたが、返事がない。ただ闇が広がっているだけだ。
昂路は、自由な左手を、恐る恐る女の体のほうに伸ばした。ぺたりと冷たいものに触れた。指先がぬるぬるしている。
ぎょっとして、手をひっこめようとした時、女の泣き声が聞こえた。
昂路は、はっとした。手が触れたのは、女の|頬《ほお》のようだった。
「泣くことはないですよ。ちょっと迷っただけです。出口はどこかにあるはずです」
彼は自分にいい聞かせるようにいった。
「出口なんかない。ここから出られやしません。私は、ずっとこの闇の中におるしかないがです」
女は|呟《つぶや》いた。
昂路はわざと明るい声で笑った。
「やだな。人里離れた山奥でもあるまいし、なにも永遠に閉じこめられたわけじゃないんですよ。本堂が閉まる時間になったら、きっと寺の人が見回りに来るでしょう。そしたら、出られますよ」
女のため息が聞こえた。
「極楽のお錠前に触りたかったのに……。せっかく、ここまで来たのに」
昂路は、まいったな、と思った。完全に迷ってしまったのだ。暗闇は、人の心を不安にする。とにかく彼女の気持ちを落ち着けるのが先決だと思った。
「少し休みましょう」
彼は、女の手を引っ張って、床に腰を下ろした。みしり、と木の板の鳴る音がした。よかった。とにかく寺の中にいるのだ。無限に続く闇の中ではない。そう思うと、少し余裕も出てきた。
入口の女は、確か本堂は四時半に閉まるといっていた。地下に入ったのが四時前だから、あと半時間もしないうちに、誰か見回りに来るだろう。下手に動かずに待っていればいい。
昂路は暗闇に向かっていった。
「一人旅といいましたね。どうしてここに来たのか、教えてくださいよ」
「……話すと長くなりますが」
彼は陽気に答えた。
「そりゃあ、時間|潰《つぶ》しにぴったりだ」
沈黙が返ってきた。
女に顔を向けたが、漆黒の空気が|瞼《まぶた》に喰いついてきただけだった。昂路は、まだ繋いでいる女の手を力づけるように握った。
女の長い吐息が聞こえ、|囁《ささや》き声が闇に流れだした。
1
巣作りの場所を探していたらしい|燕《つばめ》が二羽、羽音をたてて舞いあがった。|坊《ぼう》|之《の》|宮《みや》美希は、もつれるようにして畑の|畝《うね》を飛んでいく黒い影を見送った。耕されたばかりのふかふかした土の向こうに、|霞《かすみ》にけむる|山稜《さんりょう》が連なる。美希は、若草の|匂《にお》いのする朝の空気を胸に吸いこんで、家の前の坂道を下りはじめた。
|尾《お》|峰《みね》は、高知の山岳地帯にある戸数六十軒ほどの村落だ。山腹を切り崩し、石垣を築いて作った宅地や耕作地が、斜面に打ちこまれた無数の|楔《くさび》のように重なり合う。家々の灰色の|瓦屋根《かわらやね》と、段々畑の灰色の石垣。村落は、遠くから見ると、西欧の石の|要《よう》|塞《さい》に似ていた。だが、この要塞の敵は人間ではない。夏の台風、冬の谷から吹き上げる木枯らし。村は、風に立ち向かうように、空に突きだしている。
しかし、今日は風もなく、穏やかだ。うららかな光が、自然に傷めつけられた屋根瓦や畑に降りそそぎ、石垣の上では満開の桜、菜の花や|蓮《れん》|華《げ》が鮮やかな色を放っている。
春だ。
美希は思った。
花が咲き、小鳥がつがいを作り、猫が子を|孕《はら》む春。すべてがのんびりとした幸福感の中に浸っている季節。
春がくるたびに、彼女は、もの悲しい気分を覚える。山野が枯れ葉色に染まる秋でも、すべてのものが死に絶えたように見える冬でもなく、春にそんな|憂《ゆう》|鬱《うつ》を覚えるのは、自分の生活のせいだとわかっている。
一年を通して、美希の生活はあまりに静かだ。四十一歳の今に至るまで独身を通し、実家で母親と兄家族と同居する彼女にとって、毎日は判で押したように同じ顔をしている。朝、起きて、兄嫁と一緒に朝食の準備をして、後片付けと洗濯をすませて、家を出る。そして家から歩いていけるところの仕事場で、彼女の生計を細々と支えている|和《わ》|紙《し》|漉《す》きの作業に一日を費やす。
美希は、自分の人生が流れていくさまを川辺から眺めるように、淡々と日々を送ってきた。そんな生活に満足してもいた。
だが春になると、妙に心が落ち着かなくなる。このままでいいのだろうか、という疑問が頭をもたげてくる。すべての生命が、生きているのだ、と叫ぶ季節。今の静かな日々が死者の生活に思えてきて、自分の生活を変えたくなる。別の人生を求めたくなる。
とはいえそれも二か月ばかりのことだ。季節が移り、じめじめした梅雨に入ると、雨水に押し流される土砂のように人生への欲望も消えていく。そして、自分の中に人生を変革するだけの力はなく、ただ、春の魔力に|騙《だま》されていただけなのだとわかり、忌ま忌ましい気持ちだけが残るのだった。
美希は、腕にかけた|籐《とう》製の|籠《かご》を持ち直した。気をつけなくては、と思った。今のままで、私は充分、幸せなのだ。
美希は村道から、スレート|葺《ぶ》きの小屋と、菜の花畑の間に延びる石段に入った。
村落内を蛇行して通る村道よりも、石段のほうが早く下に降りられる。階段はきついが、子供の時から慣れた小道だ。美希は、軽い足取りで石段を降りていく。
畑に揺れる大根の白い花。石垣の間から顔を|覗《のぞ》かせる、|粟《あわ》|粒《つぶ》のような母子草。山水の流れる音が、側溝から|湧《わ》きたつ。
美希は、毎朝通るこの道が好きだった。前に広がる空に向かって石段を蹴れば、宙に飛びだせる気がする。そして、彼女は遥か遠くへと|天《あま》|翔《が》けていくのだ。山を越え、海を越え、どこまでも……。
「美希さん、おはよう」
元気な声に我に返ると、石段の横の家の庭で、晴子が洗濯物を干していた。美希の隣の家の娘だが、この中野家に嫁いできた。昔は|痩《や》せてひょろひょろしていた晴子も、今では二重|顎《あご》の|恰《かっ》|幅《ぷく》のいい農家の主婦だ。庭の塵焼却用のドラム缶のそばで、息子の文彦が三輪車に乗って遊んでいる。
「洗濯|日《び》|和《より》になってよかったね」
美希が|応《こた》えると、晴子は夫のものらしい白いシャツを手にしたまま訊いた。
「おたくの英ちゃんの|風《か》|邪《ぜ》、治ったろうか」
英一は、美希の|甥《おい》博文の息子だ。甥夫婦は、美希の家と同じ敷地内に新居を構えている。晴子は、博文の嫁の登紀子と仲よく、しばしば子供を連れて甥の家に遊びに来ていた。
「あの子、風邪やったの」
美希が|怪《け》|訝《げん》な顔をすると、晴子は拍子抜けした表情になった。
「登紀子さんは、|乾《いぬい》医院で注射してもろうた、いいよったよ。けどまあ、美希さんが知らんで、あたりまえやね。子供ゆうたら、いっつも風邪やら熱やら出しゆうき。そのたんびに大騒ぎするんは、母親ばあのもんやわ」
晴子は|自嘲《じちょう》気味にいうと、白いアンゴラのセーターに黒のスラックスを|穿《は》いた美希を眺めた。
「ええねぇ、美希さんは。子やらいするようばんき、いつまでも若うおられるがやわ」
「そんなことないわ」
「うちの|旦《だん》|那《な》さんがいいよったで。高知の帯屋町で、どこの|別《べっ》|嬪《ぴん》さんやろ、思うたら、美希さんやったゆうて」
美希は、先日、高知市内の帯屋町商店街で、晴子の夫、耕作に会ったことを思い出した。彼女が作っている手|漉《す》き和紙の葉書やカードを置かせてもらっている店に|挨《あい》|拶《さつ》に行く途中だった。
「子供が三人もおらんかったら、私やって美希さんみたいにきれいにしちゃる、ゆうたら、顔の造りが違うき無理や、と、こうながやで。ほんと、憎たらしいち」
晴子は二重|顎《あご》を震わせて笑う。
美希は居心地の悪い気分になった。独身で、子供のない自分を暗に非難されている気がした。
「耕作さんにもよろしゅう」
美希が頭を下げた時、肩を小さな物がかすめ飛んだ。木のかけらだった。三輪車から降りた文彦が、地面に落ちた|木《き》|屑《くず》を放り投げている。晴子の怒鳴り声があがった。
「こりゃ、文彦っ。そんなことしたらいかんっ。おばちゃんに当たるやろが」
ごめんねぇ、美希さん、という晴子に、美希は首を横に振って、また歩きだした。
石段の両側に家や畑が続く。縁側で繕い物をする老婆。麦わら帽子をかぶって、畑を打つ農夫。石垣の脇に植えられた|芭蕉《ばしょう》の大きな緑の葉が|艶《つや》やかに光る。
かつん、かつん。一人の老人が|杖《つえ》をついて上がってきた。黒炭のような肌が、頬の出た丸顔にへばりついている。美希は、石段の脇に寄って、老人のために道を開けた。
「おはようございます、|味《み》|元《もと》さん」
挨拶をすると、老人は、垂れた|瞼《まぶた》の下の焦茶色の|瞳《ひとみ》を彼女に向けた。そして美希と認めると、曲がった腰を伸ばした。
「ちょうどよかった、美希さん。お兄さんにゆうちゃってくれんかの。茶畑の石垣が壊れかかっちゅうてのう」
「わかりました」
美希は内心、苦笑した。味元は、尾峰の長老のような存在だ。小柄な体を杖で支えながら、水戸黄門さながらに村を巡回するのを日課にしている。そして石垣が壊れていたり、道端に雑草が生い茂っているのを見つけては、村の集会所で整備をいいたてるのだ。
彼は、このあたりの方言で「殺生人」と呼ばれる猟師だった。昔の尾峰は、|楮《こうぞ》や|三《みつ》|椏《また》の栽培と、|樵《きこり》や狩猟で生計を立てる家で占められていた。しかし今は美希の家のように、茶や|柚《ゆ》|子《ず》、|蜜《み》|柑《かん》の栽培を主とした農家ばかりになってしまった。味元は昔の尾峰の生活を知っている数少ない年寄りの一人だ。
殺生人らしい鋭い目であたりを|睥《へい》|睨《げい》しながら歩く味元に背を向けて、美希は残りの石段を一息で降りきった。
再び村道に出ると、そこは村の中心的な通りになっている。生鮮食料も売っている小さな雑貨屋、酒屋、クリーニング屋、美容室、お好み焼き屋が並んでいる。もう店は開いているが、客の姿もなく、通りはがらんとしていた。店の奥から表に流れてくるテレビの音が、寂しげに響く。
米屋の前で、村道は二つに分かれている。右に下っていくと、小学校や幼稚園、農協やバスの発着場に着くが、美希は、そのまままっすぐにアスファルトの道を歩いていった。村の集会所を過ぎると、家並みは途切れて、両側が田畑に変わり、道は|番所山《ばんどころやま》に続く林道と合流する。
その合流点に接して、雑草の繁った斜面がある。背後に、番所山の東の尾根が|崖《がけ》になってそそり立つ。赤土の崖なので、皆は赤岳と呼んでいる。その崖の前の林を背景にして、灰色の墓標が並んでいた。
坊之宮一族の墓地だ。何百年も前に徳島のほうからやって来て、この番所山の斜面が気にいって住みついたという一族の先祖が眠っている。美希の仕事場は、この墓地の東側の杉林の中にあった。
彼女は林道を横切ると、墓地の登り口に立つ緑がかった岩の前で足を止めた。平らな岩の上に載っているのは、高さ五十センチほどの地蔵だ。赤い前かけをつけて、手に|錫杖《しゃくじょう》を持ち、道行く人を穏やかな目つきで見下ろしている。
美希は|手《て》|籠《かご》の中から|蜜《み》|柑《かん》を一個取って、地蔵の前に供えると、両手を合わせた。
父の|位《い》|牌《はい》ですら法事の時にしか拝まない美希だが、毎朝、仕事に行く前に、必ずこの地蔵に祈ることにしていた。
目を閉じて|黙《もく》|祷《とう》する彼女を、温かな空気が包みこむ。どこかで小鳥の|囀《さえず》りが聞こえる。
春だ。
美希の脳裏に、若草の上でもつれ合う男女の姿が浮かんだ。|菫《すみれ》やなずなの花の上で、制服に草の汁がつくほどに、固く抱き合った。誰もいない山の中。木々のざわめきが、二人の熱情を|煽《あお》りたてた。
あの頃、美希は春の真っ直中にいた。豊かな人生が両手を広げて待っていてくれると信じていられた、人生の早春期……。
美希は目を開けた。
石の地蔵が、寂しげな微笑を浮かべている。一陣の風が吹いてきて、赤い前かけをふわりと舞いあがらせた。彼女は奥歯を|噛《か》みしめて、地蔵に背を向けた。
その時、林道で何かがきらりと光った。
ブルルルル。
かすかなエンジンの音が聞こえた。
県道から上がってきたのだろう、紺色の車体の大型バイクが近づいてくる。何か光ったように見えたのは、銀色のハンドルだった。
バイクに乗っているのは、黒の皮ジャンを着た若い男だ。
浅黒い顔に、大きな|瞳《ひとみ》が澄んだ色をたたえている。通った鼻筋に、ナイフの刃先のような唇。彫像を思わせる硬い線に縁どられた顔の輪郭と同じく、体もがっちりと|逞《たくま》しい。筋肉質の脚を包むジーンズが青紺の皮膚のように張りついている。
もの珍しそうにあたりを見ていた青年は、美希を認めると、バイクを止めた。
「こんにちは」
青年の白い歯がこぼれ、優しげな表情になった。美希は釣られて笑みを返した。
「尾峰はここでしょうか」
美希が|頷《うなず》くと、青年は、よかった、といって黒の皮の手袋を|嵌《は》めた手で、ポケットからきちんと折り畳んだメモを出した。
「永田栄作さんという人の家を探しているんですが、御存知ですか」
どこか土佐の|訛《なまり》がある気がしたが、標準語に近い丁寧な言葉遣いだ。この付近の人間ではないことは、すぐにわかった。高知市内か、県外の人かもしれない。
美希は、すぐ前の村道を指さした。
「永田さんの家なら、この道をずっと上がっていったところです。玄関の横が青いペンキで塗ってあるんで、すぐわかります」
礼をいって、バイクを村道に向けようとする青年に、美希は|慌《あわ》てて声をかけた。
「でも、もう誰も住んでませんよ。皆、高知のほうに引っ越していったんです」
彼は、唇の端を上げてにやりとした。
「知ってますよ。その空いた家を借りるつもりですから」
「尾峰に住むんですか」
美希はまじまじと青年を見た。この村から人が出て行きこそすれ、新しい者が住みつくことはまずない。
青年は、美希の驚いた表情をおもしろがっているように、軽く頭を下げた。
「|奴田原晃《ぬたはらあきら》といいます。今度、池野中学校に赴任になったんです」
「池野中学校に?」
池野村は、尾峰から車で十分くらいのところにある。昔は村として独立していた尾峰だが、今では合併して、池野村の一部になっている。池野には、村役場や文化センター、中学、高校があった。付近の村落の子供たちは、小学校を卒業すると、皆、池野に自転車で通学する。山間部だけに、赴任する教師が家を借りることも珍しくない。しかし、その場合は、池野村に住むのが普通だ。
晃は美希の疑問を察したらしく、説明した。
「池野村のアパートに入る予定だったのが、そこに入居していた人が、突然、引っ越しを取り止めたんですよ。住む場所がなくて困っていたら、父の友人の永田さんが、家を貸してくれるといってくれたんです」
「お父さんが、永田さんのお友達なんですか」
永田夫婦の知り合いと聞いて、見知らぬ男に対する堅苦しい気分が少し和らいだ。
「それなら、永田さんの家に住まれるんもええでしょうね。尾峰から池野まで働きに行っている人は多いんです。不便という距離でもないですよ。うちの|姪《めい》も、池野中学校に事務員として勤めてますし」
「へえ、姪ごさんが……」
「はい。姪は、坊之宮理香といいます。たぶん、すぐに会うことになると思いますが、よろしくお願いします」
晃は、こちらこそ、というと、バイクに|跨《また》がったまま、登ってきた林道を振り返った。
「ここはいいところですね」
幾重にも連なる尾根。山桜や|木《もく》|蓮《れん》の花が色を添える山の斜面が、眼前の谷になだれ落ちる。谷底を流れる池野川に沿って続く県道沿いに、集落や|田《たん》|圃《ぼ》が寄せ集まっていた。
人間の占領する部分があまりにもちっぽけに見えるその光景を眺めて、美希はくすりと笑った。
「自然の他は、何もないところです。若い人には退屈でしょう」
晃は首を横に振った。
「街で遊び回る年齢は卒業しましたよ。今は、こんな土地に|憧《あこが》れていたんです。ここの家を貸してくれた永田さんに感謝しなきゃ」
「お一人で暮らすには、充分な広さですよ」
といってから、美希は、晃が独り者とは限らないことに気がついた。しかし、彼は否定もしなかった。
「僕は狭くてもいいんですよ。どうせ荷物も少ないから。|布《ふ》|団《とん》と、段ボール箱が数個だけなんです」
「引っ越しはいつなんですか」
「今日です」
まるで|椅《い》|子《す》一脚を隣の家にでも移すような、気軽な口調だった。
「午後には、宅配便で荷物が届くはずです。引っ越しといっても、簡単なものですよ」
車の音がして、村道から軽トラックが出てきた。運転席にいる男が美希に|会釈《えしゃく》して、晃に用心深い視線を投げながら過ぎていった。
美希は、つい長話をしていたことに気がついた。知らない人間と親しげに言葉を交わすのは、いつもの彼女には似合わないことだ。
「それじゃ……」といいかけた時、晃が空を見上げて、うわぁ、と大きな声をあげた。
頭上に目をやると、|鳶《とんび》が舞っていた。
天空を、茶色の長い翼を広げて低く旋回している。その羽の柔らかな感触まで、手に取るようにわかる。
晃は|呟《つぶや》くようにいった。
「いいなぁ、ここは。空がこんなに近い」
彼の|瞳《ひとみ》がきらりと輝いた。あの鳶の目に似ていた。荒々しい野性を秘めた丸い瞳。その目に|惹《ひ》きこまれそうな気がして、美希は視線を落とした。
晃がハンドルを握り直して、バイクのエンジンをかけた。路傍の草むらから、驚いたように|雀《すずめ》が三、四羽、飛びたった。
「どうも、ありがとうございました」
彼は美希に片手を挙げると、そのまま村道に入っていった。
皮ジャンを着た晃の姿が遠ざかっていく。まるで村を疾走する黒い弾丸のようだ。この|颯《さっ》|爽《そう》とした青年の|噂《うわさ》は、きっと、またたく間に村中に広がるだろう。
彼女は微笑を浮かべて、仕事場に向かおうと|踵《きびす》を返した。
坊之宮家の墓地が目に飛びこんできた。
美希は|瞬《まばた》きをした。
さっきまで陽光を受けて輝いていた斜面の上が、妙に暗い。墓地の空気が灰色の|霞《かすみ》に変わったように陰っていた。黒々とした墓標が、地中から|湧《わ》き出た人の指に見える。青空をつかもうと指を|強《こわ》|張《ば》らせた誰かの手に……。
美希は|眉《まゆ》をひそめると、長い髪のほつれ毛を|掻《か》きあげた。
こんな気持ちのいい朝に、おかしな想像をするものだ。
彼女は墓地の前を足早に過ぎると仕事場に続く山道に入っていった。
2
目覚めると、寝室は柔らかな光に満ちていた。白い障子を透かして、朝日が六畳の間に射しこんでいる。
美希は|布《ふ》|団《とん》に横たわったまま、焦点の定まらない目で天井を見つめた。
一晩中、夢を見ていた。
|闇《やみ》に泣く赤子の夢を……。
|拳《こぶし》を突きだし、赤紫色の小さな体を反らせていた。歯のない口から|覗《のぞ》く、小指ほどの舌。|蛙《かえる》の目のように膨れた|瞼《まぶた》の下で、|蒼《あお》|味《み》を帯びた白眼が光る。首に血まみれの|臍《へそ》の|緒《お》を巻きつけて、赤子は、夜にさまよう鬼火のように宙に浮かんでいた。
いやな夢だった。どうして、あんなものを見てしまったのだろう。
パジャマの背中が汗に|濡《ぬ》れている。彼女は額に手をあてて深呼吸した。しばらくすると、気持ちも落ち着いてきた。
|枕許《まくらもと》の時計は六時を指している。起きる時間だった。
美希はのろのろと立ちあがると、障子と窓|硝子《ガラス》を開けた。朝の冷たい空気が部屋に流れこんでくる。それでようやく全身に活力が戻ってきた気がした。
布団を畳み、デニムのジャンパースカートに着替える。髪を|梳《と》かして後ろでひとつにまとめると、彼女は部屋を出た。
美希の部屋は、東西に長い坊之宮家の東端にある。西端の茶の間と台所までは廊下で|繋《つな》がっている。台所に向かう途中、彼女は南の庭に面した硝子戸のカーテンを開けていく。