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作者: 当前章节:15425 字 更新时间:2026-6-23 00:46

 女たちのうち、年長の者は着物姿が多い。美希も、今日は|箪《たん》|笥《す》の奥から出した着物をまとっていた。草の上に腰を下ろすので、普段着程度の|絣《かすり》の着物だが、先祖祭りには正装をするのが慣例になっている。当日、襟を正した一行は|一《いっ》|旦《たん》、本家に集合してから、行列をなして、村はずれの御先祖様の塚までこうして歩く。それは美希が物心ついた時から、変わることのない手順だった。

 美希は刺身の大皿を抱えて歩きながら、しきりに下の県道を気にしていた。まだ晃が高知市の両親の家から帰ってきていなかった。先祖祭りには出席するといっていたのに、どうしたのだろう。両親に結婚を反対されたのかもしれないと思うと、気が|揉《も》めた。

「いやねぇ。私らが悪いことしたみたいにじろじろ見て」

 隣の園子が|囁《ささや》いた。何事かわからずにいる美希に、|鯛《たい》の姿焼きの皿を持った園子は|顎《あご》で周囲を指した。

「村の人らぁよ」

 美希も、村道沿いから注がれる視線に気がついた。窓や庭の石垣越しに、人々が坊之宮一族の先祖祭りの行列を見送っている。軒先で薪を割っていた男たちも手を休めて、こっちを注視している。その一人一人の視線に|怯《おび》えと憎しみがこもっていた。村人の暗黙の非難の中を、静かに歩いていく坊之宮一族。刑場に引かれていく罪人になったような気がした。

 美希は、そっと前を行く母を見遣った。茶色の|壷《つぼ》を大事に抱えて、隆直の養母にあたる本家の雪子と何か話している。|狗《いぬ》|神《がみ》なぞいない、と思うのに、その茶色の壷が気にかかった。今、その壷は陶製の|蓋《ふた》が|被《かぶ》せられて、しっかりと|紐《ひも》をかけてあった。

 商店の並ぶ通りにさしかかった。今日は、酒屋も八百屋も戸を閉めている。年中無休のような店ばかりなのに、閉店にしてしまったのは、坊之宮家の先祖祭りと関係あるのだろうか。一族の者に食料や酒を売りたくないのかもしれない。村人の深い嫌悪感を見せつけられた気がして、美希は閉ざされた店から顔を背けた。

 その時、正面の道に銀色に光るものが現れた。美希の胸が躍った。晃だった。いつものように黒い皮ジャンを着て、エンジンの音を響かせて行列に近づいてくる。

 美希は、道路の縁に出て、彼のやってくるのを待った。晃が出席することは、坊之宮の本家に集まった時に、道夫の口から皆に伝えられていた。晃を知っている者が、冷やかしの混じった視線を送ったが、彼女は気にしなかった。

 晃は先頭にいた道夫に|会釈《えしゃく》すると、行列をやり過ごして、美希の前で止まった。

「ごめん、ごめん、高知市から出る時に、渋滞に巻きこまれてしまって」

 |削《そ》げた頬を少し上気させた晃は、美希の姿を眺めた。

「着物姿も似合うね、美希さん」

 美希ははにかみながら、髪を結んだ桜色のリボンに手を遣って応えた。

「それより、早くバイクを置いてきたら」

 晃は|頷《うなず》くと、バイクを走らせ、永田の家の前まで戻った。そして家の前にバイクを置くと、皮の手袋を脱ぎながらこっちに駆けてきた。晃は美希の持っていた大皿を引き受けて、二人は行列から少し後れて歩きだした。

「それで、御両親は」

 美希が気にかかっていた質問をすると、晃は、唇の片端をきゅっと上げた。

「まあ、予想通りだよ」

「反対されたのね」

 美希は暗い気分で|呟《つぶや》いた。

「違うよ。|匙《さじ》を投げたのさ。おまえの好きなようにすればいいってね」

 美希には喜んでいいことかどうか、わからなかった。晃は、それ以上、詳しいことはいわずに前を向いた。

 行列が集会所の前にさしかかっていた。平屋の建物の窓に、何人かの顔が見えた。行列をじっと眺めている。尾峰の坊之宮の男たちが、怒ったように集会所の中を|睨《にら》み返している。

 組地の林が、坊之宮家の了承なしに伐採されたことで、道夫や隆直が、昨日、抗議に行ったが、もう伐ってしまったから、と木で鼻をくくったような返事が返ってきたと憤っていた。

 坊之宮家と村の者たちの間に飛びかう憎悪の火花を感じて、行列の後尾にいた美希は暗い気持ちになった。

 やがて行列は林道に出て、坊之宮家の墓地に向かう小道を登りはじめた。晃が、草を|掻《か》き分けて、ぞろぞろと進む行列を見上げた。

「なかなか風情があるね」

 手に手に宴の|御《ご》|馳《ち》|走《そう》を持って歩く男女。その周囲を走り回る子供たち。頭上では灰色の墓標が、両腕を広げるように待ち受けている。小さい頃から、何度この同じ光景を眺めたことだろう。

 美希は昔を思い出しながらいった。

「今年は|賑《にぎ》やかでええわ。珍しゅう全員集まったと、お兄さんはいいよったけど」

 道夫は、なにもこんな時に全員集まらなくてもいいのに、とぼやいていたのだった。

「坊之宮一族って、何人いるの」

「赤ん坊も入れて、三十八人やと」

 晃は、美希の腹に触った。

「いや、四十人だ」

「だめよ。坊之宮に養子に来たらいかんよ」

「そうかな。坊之宮晃。いい名前だ」

「奴田原美希のほうがええわ」

 そして二人はくすくす笑った。

 先祖の塚である五輪塔の周囲は、墓標と木立に囲まれた五坪ほどの空き地になっていて、先祖祭りはそこで行われる。美希と晃が墓地に着いた時には、すでに先祖の塚のまわりに|茣《ご》|蓙《ざ》が敷かれ、女たちが皿鉢料理や取り皿を並べていた。美希は、晃の手から皿鉢料理を取ると、茣蓙の上に置いた。そして宴の準備をする女たちの中に入っていった。

「美希さん、割り|箸《ばし》、配ってや」

 百代が美希に割り箸の束を渡した。美希は、皿鉢の前に置かれた二枚一組の小皿の上に割り箸を配りはじめた。

 晃を見遣ると、この場の光景をおもしろそうに眺めている。あの様子なら、しばらく放っておいても大丈夫だろう、とほっとした時、先祖の塚の前に立った隆直が、晃をじっと睨みつけているのに気がついた。

 今日、道夫が、本家で美希の結婚のことを口に出した時、隆直の顔色が変わった。美希は、彼が晃にとんでもないことをいいだすのではないか、と心配になった。

 晃には、美希がかつて子供を産んで、すぐに死なせてしまったということは告げてある。しかしその相手が実の兄で、本家の隆直だということまではいってない。

 もし、自分が実の兄と通じていたことを知ったら、晃はどんな態度を示すだろう。いくら過去は関係ないといってくれた晃にしても、近親|相《そう》|姦《かん》という言葉の重みはあまりに大きい。美希は、隆直が、そのことを晃に|洩《も》らすことを恐れていた。

「あっ」

 肩が誰かにあたり、小さな声が聞こえた。考えに|耽《ふけ》っていた美希は、はっとして、謝りながら振り向いた。隣で、コップを並べていた理香が苦笑いしていた。

「奴田原先生のほうばっかり見ゆうきよ」

 憎まれ口を|叩《たた》く理香の|瞼《まぶた》はうっすらと|腫《は》れている。昨夜、泣き明かしたのかもしれないと思い、美希の心が痛んだ。

 彼女は小さく|呟《つぶや》いた。

「ごめんなさい」

 理香は、コップを置いていた盆を持つと、明るくいった。

「あんまし、あてつけんといてね」

 美希は、赤いミニスカートを|穿《は》いて、腰を揺らすように酒を配る女たちの輪に入っていく|姪《めい》を見送った。

 近いうちに、理香とゆっくり話したほうがよさそうだった。そして、いってあげるのだ。理香はまだ若い。これからも沢山の男性に会える機会があるはずだ、と。

 だけど私にはこれが最後なのだ。彼をあきらめるわけにはいかない。

 美希は決然とした顔で、ぱちん、ぱちん、と音をたてて割り箸を配っていった。

 |茣《ご》|蓙《ざ》の上に車座に料理が並べられ、酒が置かれると、道夫の先導で皆が靴を脱いで座りこんだ。

 先祖の塚を背にして、中央が本家の当主の隆直、右が頭屋の道夫、左が来年の頭屋が座るしきたりだ。来年は、高知市内に住む静雄が当番らしく、そこに座っていた。道夫の横には、坊之宮一族一番の長老の治がいる。それだけが決まった席順で、あとは好きな場所に座ってよかった。皆、気の合った者で固まり、末席近くを、|御《ご》|馳《ち》|走《そう》を前にしてうずうずしている子供たちが陣取った。美希は晃を呼んで、隆直のいる先祖の塚から離れた場所に座った。そこは、園子と、高知から戻ってきている高校生の|甥《おい》の満文に挟まれた席だった。晃はあぐらをかいて、園子と満文に挨拶をした。

「ぼちぼち、はじめろうかのうし」

 道夫が、隆直にいうのが聞こえた。座についた者たちが、はじめるぞ、と口々にいって、あたりはやがて静かになった。

 墓地は、夕暮れ時のほんのりした光に包まれていた。黒々とした長い影を地面に落とす、石の墓標。|蔦《つた》の絡まる赤岳の向こうに|聳《そび》える番所山の頂上。谷から吹きあげる微風が、周囲の草木をざわざわと揺らせている。

 上座にいた者たちが、皆、先祖の塚のほうを向いて座った。

 五輪塔の前には、お供えが並んでいた。酒や干菓子、果物が置かれて、花が飾られていた。その中に|狗《いぬ》|神《がみ》が入っているという、茶色の|壷《つぼ》もあった。

 先祖祭りには、いつもあの壷が置かれていたのだ。なのに壷の意味を知っているのは、狗神を|祀《まつ》ってきた女だけだ。

 美希は、晃の斜め向かいに座った母を盗み見た。富枝は、何か考えこむように、ぼんやりとしている。

 塚の正面の隆直が、ぱんぱんと|柏手《かしわで》を打ってお辞儀した。

「御先祖様。今年も皆の者をよろしゅう、お守りしてください」

 一同も一斉に頭を下げた。美希も晃に目配せして、上半身をかがめた。

 やがて一同、頭を上げると、もとのように顔を向き合わせる形で車座になった。百代が大杯と|鰹節《かつおぶし》の削ったものを盆に載せてやってきて、隆直に渡した。

 晃が美希に|囁《ささや》いた。

「何がはじまるんだい」

「晃さんには退屈かもしれんけど、我慢して」

「美希さんの横にいるのは退屈じゃないよ」

 美希が口に手をあてて笑みを隠した時、隆直の視線を感じた。しかし彼女が顔を向けると、隆直は目を|逸《そ》らせた。そして儀式に注意を戻して、不機嫌な顔で、大杯を道夫に渡した。

「本年は、ごくろうさんでした」

 隆直はしきたり通りに頭屋をねぎらう言葉をかけて、脇に置いてあった一升瓶を傾けて日本酒を大杯に注いだ。

 道夫は鰹節を食べて、|恭《うやうや》しくそれを飲み干し、隆直に戻した。隆直は大杯を、「来年もよろしゅうお願いします」といいながら、次の頭屋である静雄に渡して、やはり酒を注いだ。静雄も鰹節を|肴《さかな》にそれを飲んで隆直に戻し、酒を入れた。隆直が杯を飲み干すと、大杯は盆に戻された。

 そこで皆が居住まいを正した。長老の治が、用意はいいか、というように、一座の男たちの顔を見ると、口を開いた。

「松高き枝も連なる|鳩《はと》の|峯《みね》曇らぬ御代は

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|久《ひさ》|堅《かた》の月の|桂《かつら》の男山

げにもさやけき影に来て

君萬歳と祈るなる

神に歩みを運ぶなり

神に歩みを運ぶなり」

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 低く|唸《うな》るような声が男たちの|喉《のど》から|洩《も》れた。先祖祭りの時のはじまりに、必ず歌われる|謡《うたい》だった。ほとんどの者が小さい頃から口ずさんでいるので覚えている。暗唱できない者は、懐からそっと紙を取り出して、盗み見ていた。

 晃が、美希に肩を寄せていった。

「これ、能の『弓八幡』の一節だよ」

「あら、そんなものなの」

 美希は驚いていった。昔から退屈な歌謡としか思っていなかった。

「さすが古典の先生。詳しいこと」

「能は好きで、よく見に行ってたんだ。それにしても先祖祭りで、これを歌うとは知らなかった」

『弓八幡』の一節が終わると、座の全員に大杯が回された。鰹節と酒を飲み干して、一巡すると、隆直がいった。

「ほんなら、皆さん。|御《ご》|馳《ち》|走《そう》になろうや」

 子供の歓声があがり、皆が箸を取った。女たちが酒を配って回る。|鯖《さば》の|姿寿司《すがたずし》や、昆布寿司、|鮎《あゆ》の|串《くし》|焼《や》き、|蒲《かま》|鉾《ぼこ》や|水《みず》|羊《よう》|羹《かん》が山盛りになった皿と、鰹やうつぼの|叩《たた》きや、|鯛《たい》や|鮪《まぐろ》の刺身の皿が交互に並び、皆、二枚の皿に刺身と寿司をよそっている。子供たちが、好きな料理のある皿鉢に歩いていって、大人の間から体を割り込ませて、箸を伸ばす。それを|叱《しか》る母親。宴会好きの静雄の音頭に乗って、民謡がはじまった。

「ここなお家はめでたいお家

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鵺と亀とが舞い遊ぶよ

お家繁盛とゆて遊ぶ

ぼたもち顔でよ そりゃ

きなこつけたら なおよかろよ

はりゃ よいよい」

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 拍手が|湧《わ》き、笑い声が起こる。美希は、晃が隣の満文と楽しそうに話しているのに安心して、立ち働く女の中に入っていった。

「美希さん、ええ人、見つけたねぇ」

 園子が、徳利に冷や酒を注ぎながらいった。美希が照れると、園子はにやにやした。もう園子は、自分と隆直との間について|嫉《しっ》|妬《と》することもないだろう。美希は|安《あん》|堵《ど》感のようなものを覚えた。

 ビール瓶の栓を抜いて宴席に配っていると、母の姿が目に止まった。

 いつの間にか、人々の輪から抜けだして、灰色の墓標の間にぽつんと|佇《たたず》んでいた。骨太の背中を、墓石の前に丸めて立っている。谷から吹きあげてくる風の中で、その姿はとても孤独に見えた。

 美希は気になって、母に近づいていった。

 富枝は、|苔《こけ》むした墓の前で手を合わせていた。亡くなった父の墓ではない。富枝の実家である本家の墓のひとつだった。

「何しゆうの」

 美希が声をかけると、母は顔を上げた。着物姿に、髪を|椿油《つばきあぶら》でぴたりと後ろで|髷《まげ》に結った富枝は、どこか生き生きとして見えた。

 母は腰を上げると、今まで拝んでいた墓に微笑んだ。

「祖母さんに、報告をしよったところよ。狗神様の壷を譲る者ができたゆうてねぇ」

 美希は顔を|歪《ゆが》めた。

「まだ、そんなこといいゆうが」

 母は、娘の顔をまっすぐに見つめた。

「今度は、おまんがあの壷を守るがよ」

 突然のことに、何と返事していいかわからない美希に、富枝は、一言、一言、区切るように、はっきりと告げた。

「本家の血を引く女は、おまんか理香や。先に結婚する美希、おまんが狗神様の壷を守ることになるがよ」

「治さんくの孫の千鶴子さんやって、本家の血を引く坊之宮の女やないの」

「私は、おまんに譲りたいがよ」

「そんなもの、欲しゅうないわ」

 美希は強い口調でいった。母は、皮肉な笑いを浮かべた。

「狗神様は、誰かがお|祀《まつ》りせにゃいかん。譲られたら、引き受けるしかない」

 富枝は林立する墓標を見渡すと、過去を手繰り寄せようとするように目を細めた。

「うちも、文句のひとつもようゆわんままに、お祖母さんから壷を譲られたわ。ほいで、一遍、譲られたら、勤めは果たさんといかんきねぇ。嫁いでからはもう、毎朝毎朝、狗神様に団子をお供えして、どうか一族の者をお守りつかあさい、ゆうて祈ってきたがよ。不思議なもんで、お供えのお団子は、次の朝になったら、ちゃんとのうなっちゅう。それでまた、絶やさんように、壷の中に団子を入れて、祈らにゃいかん。壷を譲られた坊之宮の女はの、そうやって狗神様をお|祀《まつ》りして、一生を送るがや。一日でもお供えを欠かすことができんき、旅行にも出られん。うちも、狗神様の壷を譲られてからは、どこにも行けんかったし、お祖母さんもそうやった。お祖母さんもねぇ、一遍でええき、|信濃《しなの》の善光寺さんにお参りして、仏様と御縁を結びたいといいながら、ようせんかった。うちに壷を譲る時、これで善光寺にお参りができるといいよったけど、すぐに病気になって、そのまま|逝《い》ってしもうた。うちはね、あんたに壷を譲ったら、善光寺にお参りに行くつもりよ。ほんで、お祖母さんのぶんもお祈りしてきちゃらにゃいかんと、ずっと思い続けてきたがよ」

 母が嫁いできて、もう五十年近くたっているはずだ。そんなに長い間、旅行もせずに、家で狗神を守ってきたのだ。美希は、その長い年月を想って言葉を失った。

 母は、風に乱れた髪の毛を押さえながらいった。

「坊之宮の者はわりが悪いもんよ。何か変なことがあると、おまんとこの狗神のせいやといわれる。けんど、怒っちゃいかん。他人様を|嫉《ねた》んじゃいかん。他の者に悪い気持ちを持ったら、狗神様が喰いついていくきの。そんやき、坊之宮の女の務めはな、家から狗神様が出んように、毎日、お祀りすることよ。そして自分の気持ちが、他人様を|羨《うらや》んだり、恨んだりせんように、一生懸命抑えちょらんといかんのよ」

 母は、そうして自分の心に巣くう悪意を殺して生きてきたのだ。すべて狗神のために。狗神に守られた一族を代表して……。

 男たちの笑い声が聞こえた。美希は、五輪塔のほうに顔を向けた。

 この日の最後の陽光が、五輪塔を照らしていた。先祖の塚と墓標に囲まれて、坊之宮の一族が、酒を酌み交わす。今年の作付けの話、家の補修の話、家族の動向。それぞれの近況を伝え合っている。その背後には、夕暮れ時の空に浮かびあがる赤岳の|峻厳《しゅんげん》な|崖《がけ》。赤岳と墓地との間に横たわる木立からは、子供たちの遊ぶ声が響く。楽しそうな一族の語らいが、綿雲の浮かぶ空に広がっていく。

 幼い頃から毎年、見てきた光景だった。当時、一緒に遊んだ子供たちは、今、車座になって酒を飲んでいる。その時、車座になって笑っていた人々は、ここを囲む土の下に眠っている。人の顔ぶれは変わったが、行われていることは変わらない。

 子供から大人になり、やがて坊之宮の墓地に入る。それは、一族の誰もが生まれると同時に|呑《の》みこまれる、運命という名の巨大な河だ。先祖祭りを重ねるごとに、人々は、その河の流れを意識する。そしてやがては、今、先祖の塚の前で酒を|舐《な》めている長老の治のように、柔和な笑顔の中に、墓地での永遠の眠りへの|憧《どう》|憬《けい》すら浮かべることになるのだ。

 しかし、あそこにいる者は、誰もわかっていない。生から死へ続く、この穏やかな河の底には、別の暗い水流が隠されていることを。それは狗神筋の流れ。女たちの狗神への祈りが生み出したもの。狗神を|祀《まつ》る女しか知らないが、この先祖祭りの場は、ひそかな狗神祭りの場でもあるのだ。

 宴席で主導権を握るのが、家長である男たちなら、その陰で、狗神の筋を伝えているのは、女たちなのだ。そしてこの女たちが、狗神の壷を棄てない限り、坊之宮一族は、狗神筋であり続けるのだ。

 美希は、陽気に笑う男たちを|睨《にら》みつけるようにいった。

「私、壷を譲られたら、粉々に割って、棄てちゃるわ」

「いかん」母は怖い顔になった。

「そんなことをしたら、狗神様が怒りだす。一族の者に不幸が起こる」

「そんなん、迷信よ」

 猫背の母が首を|捩《よ》じって、じろりと美希を見上げた。

「気がついちゅうか。今度の狗神騒ぎは、おまんが張本人で」

「私が?」

「そうよ。ふささんや克子さんがあんなになったんは、おまんの心が、あの二人を|嫉《ねた》んだり、憎んだりしたきよ。その心に動かされて、狗神様が喰いついてしもうた」

 ふさの家庭の幸福を|羨《うらや》んだこと。そして、克子に投げつけられた言葉に対して覚えた怒り。その時の自分の感情が、美希の脳裏を走った。

 しかし彼女は激しく頭を横に振った。

「信じんわ、そんなこと。これまでやって、人を羨ましいと思うたことはあったやない。なのに、その時は何も起こらんかったわ」

「今までは、うちが毎日、毎日、狗神様をお祀りしてきたきよ。坊之宮の人間が悪い気持ちを持ったとしても、たいしたことにはならんかったがよ」

「ほんなら、どうして、今度に限って、おかしなことが起きるがよ」

 母の顔が曇った。

「わからん。ただ……皆が悪い夢を見るようになってからじゃ。夜になると、狗神様が壷から抜けでていくようになった」

 狗神と悪夢とは、何か関係があるのだろうか。美希が母に問いただそうとした時、自分たちを呼ぶ声に気がついた。振り返ると、晃と満文が連れ立って、墓標の間を歩いてくるところだった。

「何を真剣な顔をして話しているんですか」

 晃が、母娘を見ながら聞いた。富枝は、黙っていろ、というふうに美希の腕をつかむと、愛想よくいった。

「ちくと、昔のことを思い出しよっただけですが。それより、お客さんを放ったらかしにしちょって、すんませんねぇ」

「いや。満文君が、ちゃんと相手してくれましたから」

 満文は照れ臭そうに肩をすくめた。

 日頃は無愛想な満文だが、晃を気にいったようだった。そういえば、この二人が似ていることに、美希ははじめて気がついた。がっちりした体型も、無口だが|芯《しん》の強いところも、共通している。結婚したら、晃は満文のいい|叔父《おじ》になるだろう。

 美希は、晃に近づいて聞き返した。

「晃さんらこそ、何の話をしよったが」

 彼はにやりとして満文の肩を叩いた。

「東京の話だよ。満文君、東京の大学に行きたいんだって」

 富枝が大仰に顔をしかめた。

「高知大でええやいか」

 満文は不満気に唇を突きだした。

 美希は、|甥《おい》が尾峰を嫌っていることを知っていた。叔父の家に下宿してまで、高知市内の私立進学校に通っているのは、将来は県外に出ていきたいと考えているためらしい。富枝や兄夫婦は、若者が県外に出ていくのは時代の|趨《すう》|勢《せい》だからしかたないとわかっていながらも、満文がそれらしいことを|匂《にお》わすたびに、いやな顔をした。

 美希はとりなすようにいった。

「まあ、先のことはどうなるか、わからんよね。晃さんやって東京の大学に行ったけど、結局は高知に戻ってきたわけやし」

 富枝が興味を覚えたように聞いた。

「ほいたら、お生まれは高知なんですか」

 晃が|頷《うなず》いた時、長老の治の声が聞こえた。

「そろそろ日暮れじゃよ。皆の衆」

 美希は、あたりを見回した。

 谷から吹きあげてくる風が強くなっていた。夜が近づいている兆候だった。山際に沈みかけた夕日に、尾峰の村落が赤く染まっていた。ふと、村道を歩く人々の姿が目に止まった。暗くなりかけた道を|這《は》う影のように静かに、この斜面の下の林道を目指している。

 皆で、どこに行くのだろう。

「美希、早う来なさいよ」

 母の声がした。

 先祖の塚の周囲には、いつの間にか、|提灯《ちょうちん》がぶら下がり、人々が席についていた。子供たちも、遊んでいた木立の間から戻ってきている。

 母や晃は、少し先のほうで、美希が来るのを待っている。美希が謝りながら追いつくと、四人は、座の端のほうに席を見つけて、並んで座った。

 途中で食べるのを中断して、居ずまいを正した一族を、晃は興味深そうに眺めた。

「何かまたはじまるの」

 美希は、暗くなった空を見上げて答えた。

「日の沈む時に、もう一曲、謡を歌うが。それからは無礼講よ。皆、どっさり飲みだすき、晃さんも覚悟しちょいたがええわ」

 晃はおどけたように首をすくめた。

 一族の男たちが背筋を伸ばして、西の方向に体を向けた。山際の夕日はすでに姿を隠していた。赤い後光を背負って輝く西方の山々。|群青《ぐんじょう》色の東の空には、白っぽい満月がかかっていた。

 謡の口火を切ったのは、いつものように、治だった。

「夜の波に

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浮きぬ沈みぬ見えつ隠れ絶え絶えの

いくへに聞くは|鵺《ぬえ》の聲

懐かしや慕わしやあら懐かしや慕わしや」

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 坊之宮の男たちの声が、朗々と墓地に流れていく。黒い|土筆《つくし》の群生のような先祖の墓標も、謡に耳を傾けているようだ。

 晃が驚いたように|呟《つぶや》いた。

「能楽の『鵺』の一節だよ。だが歌詞が違う……」

「鵺って、何やの」

 美希は聞いた。晃は、謡を邪魔しないように低い声で説明した。

「鵺とは、中世の|妖《よう》|怪《かい》だよ。確か『平家物語』に出ているよ。それによると、|近衛《このえ》天皇の代に、京都の東の森のほうから、毎晩、|丑《うし》の刻になると黒雲が|湧《わ》いてきて、天皇の眠りを脅かしたことがあったらしい。そこで源頼政が呼ばれて、ある晩、その黒雲に矢を射かけてみた。すると手応えがあって、何か落ちてきた。家来が走り寄って、刀で切りつけてから、明かりの下で見てみると、とんでもない形の化け物だったというんだな。頭が猿で、胴が|狸《たぬき》、|尻尾《し っ ぽ》が蛇の、奇妙な妖怪だったと書かれてたっけ。それが鵺だったわけだ」

 晃は暗くなっていく空を見上げた。

「話によると、源頼政は、鵺をばらばらにして、うつぼ舟に入れて海に流したという。でも、どうして坊之宮家の先祖祭りに『鵺』が歌われるんだろう。それに、最後の恐ろしや|凄《すさ》まじや、を懐かしや慕わしやに変えてまで……」

 美希の隣にいた富枝が口を挟んだ。

「鵺は、坊之宮の先祖じゃきやよ」

 美希と晃は驚いて、富枝の顔を見た。母は、頬に手をあてて|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せた。

「お|祖母《ばあ》さんが、こんなこといいよったよ。とんと昔、鵺ゆう怪物がおって、退治されてばらばらになって海に棄てられた。それが徳島の海辺に流れ着いて、頭は猿神筋の、胴は狸神筋の、尻尾は蛇神筋の、そして手足は|狗《いぬ》|神《がみ》筋の先祖になったがやと」

「狗神の先祖に?」

 母はもどかしそうに首を横に振った。

「いいや、狗神筋の先祖。なんでも坊之宮家の御先祖様は、手足は鵺のもので、体は黒い雲からできちょったと。狗神様は、もともとはその御先祖様の体に、|蚤《のみ》みたいにくっついちょったがや。ほいで……」

 母の言葉が途切れた。何かを思い出したように、口が半ば開かれたままになった。

 晃が興味を覚えたように聞いた。

「それから、どうしたんですか」

 母はためらうように美希の顔を見た。

「ほいで……御先祖様は、狗神様をお供にして、夜ごとに悪い夢をばらまいてまわりよったと聞いた」

 狗神を連れた獣。その体は黒い雲、つまり|闇《やみ》からできているのではないか。

 美希の表情が凍りついた。

 漆黒の闇の中から漂ってきた、獣の臭いを思い出した。村人たちがいっていた、夜に|徘《はい》|徊《かい》している大きな山犬。あれは山犬なぞではなく、狗神筋の先祖かもしれない。

 彼女は前方の五輪塔に目を遣った。薄暗がりの中で、先祖の塚は灰色の影にしか見えない。この塚から先祖が|蘇《よみがえ》り、尾峰の村落に夜になると降りてきて、悪夢をばらまいているとしたら……。

 そればかりではない。克子を殺したのも、その闇の獣かもしれない。

 美希は、克子の体に残っていた、|噛《か》み傷を思い出した。その前日、杉林で獣の臭いと気配を感じた。自分が、克子に対して怒っていた時だ。その怒りを受けて、狗神が、先祖である闇の獣をそそのかして、克子に美希の恨みの|復讐《ふくしゅう》を遂げさせたことも考えられる。

「なかなか、おもしろい話ですね。こんな四国の山奥で、『平家物語』の中の説話が変容した形で残ってるとは驚いた」

 晃の声が、美希を恐ろしい連想から立ち戻らせた。

 母が|曖《あい》|昧《まい》に笑った。

「まあ、このへんは古い話やら、しきたりやらがよう残っちょりますきにね」

「ただの昔話やわ」

 美希は話を打ち切るようにいうと、杯に入った冷酒を飲んだ。体に、かっと熱が回るのがわかった。

 いつか謡は、最後の節に入っていた。

「獣の姿となり果てて

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月日も見えず|冥《くら》きより

冥き道にぞ入りにける

遥かに照らせ山の端の遥かに照らせ

山の端の月のした

血と血を交らせて

先祖の姿|蘇《よみがえ》らん先祖の姿蘇らん」

[#ここで字下げ終わり]

 美希の杯を持つ手が止まった。今、はじめて、この謡の意味に気がついた。

 美希は空を眺めた。番所山に月がかかっている。|提灯《ちょうちん》に照らされているのに、先祖の塚の周囲が一段と暗くなった気がした。

 晃が冗談めかしていった。

「先祖の姿蘇らん、か。なんだか怖い謡だな」

 謡が終わって、皆がまた|賑《にぎ》やかに酒を飲みはじめていた。

 美希は話題を変えようと、彼に向き直った。

「晃さん、さっき高知で生まれたといいよったでしょ。どこで生まれたが?」

 晃は困ったように、|膝《ひざ》に載せた手を握った。

「どこだったっけ。前は覚えていたんだけどな。とにかく生まれて、すぐに松山に行ったから……。ただ、僕は運がいい子だといわれたよ。なんでも逆子になって生まれてきたから、一度は死んだと思われたらしい。でも、すぐ息を吹き返したということさ」

「それは、よかったわね」

 美希は小さな声でいった。晃の言葉に、自分の死んだ子のことを思い出した。無意識に下腹部に手が伸びていた。

 この子は死なせたくない、と思った。

「ねえ、なんか煙ったいで」

 満文が顔をしかめていった。

 富枝が、はっとしたように、首をきょろきょろさせた。それを聞いた向かいの百代が腰を浮かせて、大きな声をあげた。

「火事やないかえっ」

 白い煙が風に乗って、斜面の下のほうから流れてくる。

 ぱちぱちぱち。火のはじける音が聞こえた。

 宴席にいた者たちが、慌てて墓地のほうに走った。美希も、晃や満文と一緒に|茣《ご》|蓙《ざ》から飛びだした。

 墓標の間を駆け抜けて、墓地の縁に立つと、下は火の海だった。斜面は赤い炎に囲まれている。池野川の流れる谷底から吹きあげる風で、煙も火の粉もどんどん墓地へと追しやられてくる。

「誰ぞが、赤猫を這わせたがぞっ」

 道夫が|唸《うな》るようにいった。山に火をつけた、という意味のその言葉を聞いて、美希は、どきりとした。

 では、これは放火なのか。

 確かに、この斜面の下から一斉に火の手が上がるのは妙だった。

「おーい、火事やーっ」

「助けとうぜえーっ」

「消防団はどこじゃーっ」

 墓地の縁に着いた一族の者は、周囲から攻めてくる火勢に身動きもできずに口々に、斜面の下に向かって叫んでいる。

 しかし、煙の向こうの尾峰の村落からは、人の騒ぎ声も、消防団のサイレンの音も聞こえてこない。これほどの火事なのに、村は誰もいないかのように、ひっそりしている。

 突然、満文が下の林道を指さした。

「あそこに人がおるっ」

「ほんとうやっ、村の者ぞっ」

「こっちを見ゆうっ」

 |目《め》|敏《ざと》い者の口から、喜びの声が|洩《も》れた。

 美希は目に涙を|滲《にじ》ませながら、もうもうと立ち昇る煙の向こうを凝視した。墓地のある斜面を囲むように並ぶ人影があった。

「おーい、ここに人がおるぞーっ」

「消防団を呼んでくれーっ」

 男たちが口許に両手をあてて怒鳴った。

 しかし、村人たちに動く気配はない。

 火はじりじりと斜面を這いあがってくる。草の|絨毯《じゅうたん》がめくれて赤い裏地が|覗《のぞ》くように、炎は広がっていた。なのに村人たちは、地面に根が生えたように動かない。

 隆直が、足許の地面を靴で踏みにじった。

「あいつら、わしらを見殺しにする気ぞ」

 誰もが、はっとしたように隆直を見た。

「そうじゃ。林道のまわりに、ほら、薪が置かれちゅう」

 静雄が下方を指さした。

 よく見ると、墓地の斜面を囲んで、薪が組まれていた。太い薪で柵を作り、林道のほうに延焼しないようにしているのだ。美希は、ここ数日、村で薪割りをする男たちが多かったことを思い出して、|慄《りつ》|然《ぜん》とした。

 村人たちは、何日も前から、これを計画していたのではないだろうか。

 一陣の風に|煽《あお》られた炎が、朱の波となって墓地の縁に押し寄せた。その場にいた者の顔は、どれも恐怖に|強《こわ》|張《ば》っていた。

「大変じゃーっ、大変じゃーっ」

 墓地の背後から博文が走りでてきた。顔も体も黒い|煤《すす》に汚れている。

「番所山のほうにも火がつけられちゅうぞ」

「なんやと」

 道夫が怒鳴った。

 博文が息せききって、ぶちまけた。

「村の者が組地の木を伐ったがは、計画的やったがよ。火をつけても、番所山まで燃え広がらんようにしちゅう」

 坊之宮の者たちは、|愕《がく》|然《ぜん》として博文が飛びだしてきた方向に顔を向けた。

 番所山が墓地の接する境界付近から、灰色の煙がもくもくと立ち昇っている。炎のせいか、そのあたりが|仄《ほの》|赤《あか》く染まっている。

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