墓地は今や火に囲まれていた。
「ひどいな」
晃が吐きだすようにいった。美希は彼の体に身を寄せて|呟《つぶや》いた。
「なぜ、こんなことを……」
村の人間を一人一人思い出して、思いきり問い詰めてみたかった。
「誰かが思い出したがやろ。狗神様のいちばんええ|祓《はら》い方を……」
いつの間にか、隣に富枝が来ていた。額に深い|皺《しわ》を刻んで、斜面の下の人影を|睨《にら》みつけている。
「いちばんええ祓い方?」
母は、ゆっくりと顔を美希に向けた。炎に照らされて、その頑固そうな顔は赤く塗られた神楽の面のように見えた。
「ああ。二度と狗神様に|祟《たた》られんようにするにはの、狗神筋の者を全員、煙でいぶし殺すがええ。そんなことを、とっと昔、私がまだこんまい時に聞いたことがあるわ」
美希は、晃の腕にすがりついた。
「なんてことを……」
ぼおおおおっ。草の燃える音が周囲から湧きあがる。炎は、その赤く巨大な舌で夜空を|舐《な》めながら、坊之宮一族の墓地に近づきつつあった。
18
「煙に巻かれるぞ、逃げろーっ」
道夫の声に、|呆《ぼう》|然《ぜん》と火の手を眺めていた坊之宮の者たちは我に返った。
斜面を吹きあげてくる黒々とした煙が、あたり一面を包もうとしている。人々は慌てて墓地の中に退いた。
美希と母も、晃や満文に|急《せ》かされて、火の海となった斜面に背を向けた。
墓地を人々が右往左往していた。
家族を呼び集める父親。泣き叫ぶ子供たち。英一を抱いた登紀子が、途方に暮れた顔の博文に何か盛んにいっている。半狂乱で子供の姿を探す園子。何が起こったかよくわからず、|茣《ご》|蓙《ざ》に座って、まだ料理に箸を伸ばしている老人も二、三人いる。隆直や道夫は墓地の縁を走り回って、活路を探している。
火はすでに斜面を上りきっていた。墓地の縁の墓石が赤々と照らされている。番所山のほうからも、煙はどんどん押し寄せてくる。先祖の塚の前に固まった皆は煙に|咳《せ》きこみ、鼻や口を|袖《そで》|口《ぐち》で覆った。
治が老人斑の浮きでた腕で、背後に|聳《そび》える|崖《がけ》を指さして怒鳴った。
「赤岳に逃げろ」
実際、三方を火に囲まれて、そこしか逃げる場所はなかった。坊之宮の者は宴の皿も茣蓙も蹴散らして、赤岳に走りだした。
「行こう」
晃が美希の手をつかんだ。
彼女は、待って、といって、母の姿を探した。富枝は茶色の|壷《つぼ》を抱えて、人の間できょろきょろしていた。
こんな事態になっても、あの壷を守ろうとしている。
「お母さんっ」
美希は腹立ちを|滲《にじ》ませた声で呼ぶと、手を振った。母は骨太の体をかがめて近づいてきた。満文が気をきかせて、富枝の肩を抱くように寄り添うと、四人は墓地の裏の木立に駆けこんだ。
追ってくる火の手が、|栗《くり》や|楓《かえで》、|椎《しい》の木などの雑木林を照らし出す。交差する細い木の影が黒い|蜘《く》|蛛《も》の巣のように地面を覆う。その糸に搦めとられ、もつれる足を引きずって、坊之宮の者たちが逃げていく。
やがて木立が切れて、赤い土肌の露出した崖が現れた。一族の者は、そこで立ち往生してしまった。崖の左手は、番所山に隣接する林で、右手は墓地の西端の斜面になっている。どちらもすでに火に囲まれていた。脱出するには、この二十メートルはありそうな絶壁を越えるしか手はない。
すでに、先に到着した治の孫息子や身の軽い青年たちが、垂れさがる|蔦《つた》を頼りに赤岳を登っていた。しかし崖は崩れやすい赤土だ。蔦が引き抜けたり、足許の土が崩れたりして、次々に滑り落ちては、また全身赤土で汚して、崖にとりすがる。
晃が美希にいった。
「僕も、やってみる」
「いかんいかん、危ないやないの」
「他に方法はないだろう。誰かが崖を登って、助けを呼ばなくては」
その時、横にいた満文が、富枝の体を美希に押しつけた。
「俺が行くよ。俺のほうが身軽やき」
富枝が孫を止めようと、手にすがりついた。しかし満文は、にきびのぽつぽつと吹きでた顔を、横に振った。
「お祖母ちゃんと、美希さんを頼む」
満文は、晃の肩をぽんと|叩《たた》くと、崖のほうに駆けだしていった。その先では、満文の兄、博文もまた、登紀子の止めるのをふりきって、赤岳に飛びついている。
「気をつけてっ」
「がんばってやあっ」
家族の者が崖の下で叫んでいる。
ごおおおおっ。風が強くなった。木立の向こうで、赤々と墓地が燃えはじめていた。
突然、崖の下に集まっていた人々の中から、どよめきが起きた。何だろうと振り向くと、手拭いで鼻と口を覆うように縛った静雄が人の輪から飛びだしてきた。
「待っちょれや。絶対、助けを呼んできちゃるき」
彼に続いて、同じような|恰《かっ》|好《こう》をした壮年の男が三、四人、走りだした。
「やめてやっ」
「あんたっ、あんたっ」
家族の声を振りきって、男たちは崖に沿って二手に分かれ、ごうごうと燃える火の中に飛びこんでいく。
「道夫ぉーっ」
その中に息子の姿を見つけて、富枝が叫んだ。
晃が苦しげな声をだした。
「あの火の勢いじゃあ……」
真っ赤な炎の中で、黒い背中がよろめくのが見えた。しかし、すぐに押し寄せてきた煙に、決死隊の男たちはかき消された。
「あんたーっ」
崖の下には、今や二十名弱の人間しかいなかった。ほとんどが女や子供だ。ここに達するまでに、煙に巻かれて倒れた者も何人かいるようだった。家族の者の名を呼びながら、崖の前をうろつく女。泣きわめく子供や、手を合わせて、神に祈る老人……。途方に暮れている人々に、晃が大声でいった。
「地面に伏せて。煙に巻かれますよ。できるだけ、崖の近くに来てください」
晃は叫びながら、美希と富枝を近くの崖の|窪《くぼ》みに押しこんで座らせた。気がつくと、そこは、最初に晃と交わった場所だった。
「晃さん、ここ……」
彼は、わかっている、というように、美希を軽く抱きしめると、小さな声でいった。
「僕を待っててくれ」
そして、あっと思う間もなく、外に飛びだした。
「崖の下の窪みを見つけて、そこに入ってください」
学校の教師だけあって、人に指図するのは慣れている。晃は、腰を抜かしている老人や、泣きじゃくっている子供たちを、崖のほうへと連れていく。
「ハンカチや服で、鼻と口を覆ってください。できるだけ体をかがめて」
人々を誘導する、彼の声が聞こえてきた。
美希は母の肩を抱いて、赤土に背をもたせかけた。横幅はあるが、深さは一メートルもない浅い窪みの外は、夜というのに薄明るい。木立の間から|洩《も》れてくる、火の輝きのせいだ。墓地の方向から、濁流のように流れ出す灰色の煙。どす黒い赤に染まった夜空。
美希の目に涙が|滲《にじ》んだ。
「どうして、こんなことに……」
母は|膝《ひざ》に狗神の|壷《つぼ》を抱えて、猛火に包まれた墓地のほうを|睨《にら》みつけた。
「出てきたがよ。坊之宮に対して持っちょった憎しみやら、|畏《おそ》れやらが……」
「けど、なにもここまでせんでもええやろうに。こんな、ひどい……焼き殺そうとするらぁて」
声を詰まらせる娘に、富枝は吐き棄てるように応えた。
「狗神様への憎しみはのう、代々、村の者の体に染みついちゅう。人間がぽんぽん月に行く時代になったち、皆の心に住みついた、怖い、ゆう気持ちは消えやせん。なんか事が起こったら、すぐにどっと噴きだしてくらぁ。ほいたら、その怖いもんをぐちゃぐちゃに踏み潰さんことにゃ、気がおさまりしゃせんがよ」
母は、膝の上の茶色の壷を、両手を広げて撫ぜた。
「かわいそうに。こんなに憎まれて、狗神様もかわいそうに……」
かわいそうなのは、坊之宮一族だ。狗神ではない。美希の|喉《のど》|元《もと》まで言葉が出かかった。しかし、彼女は何もいわずに、また外に顔を向けた。
火炎は、もう墓地を焼き尽くし、木立へと進入してきていた。細い木の幹が炎に包まれて倒れていく。火の粉が煙に乗って流れてくる。崖からまた一人落ちたらしく、悲鳴が聞こえた。
晃は大丈夫だろうか。美希は急に不安になって、窪みから這いだした。
崖の下では、坊之宮の女子供や老人が、芋虫のように背中を丸めて、岩の窪みに固まっている。あちこちで、崖から滑り落ちて怪我をした者たちが|呻《うめ》き声をあげている。その中には、博文の姿があり、登紀子が服の|裾《すそ》で流れる血を拭いていた。隣では百代が、青ざめた顔でしきりに崖の端のほうを見つめている。道夫のことが気がかりなのだろう。しかし、この火勢の中を煙に巻かれないで突っきるのは、よほど幸運でないと難しい。再び兄に会うことはあるだろうか、と美希は暗い気分で思った。
崖は今も多くの者が、|蔦《つた》を頼りによじ登ろうとしていた。小学生の娘を背負った隆直や、園子の姿まで混じっていた。満文は何度目かの挑戦らしく、全身赤土だらけにして、また崖にへばりついている。
「美希さん、美希さん」
きょろきょろしていると、自分を呼ぶ声に気がついた。見ると、少し先のほうで、理香が地面に座りこんでいた。
その前で、晃がよろよろと起きあがろうとしていた。美希は、彼の許に走り寄った。
「晃さん、どうしたが」
彼は、肩を|揉《も》みながら力なく笑った。
「たいしたことじゃないよ」
隣で理香がいった。
「ついさっき、土が崩れてねぇ」
赤土の塊があたりに飛び散っていた。上の崖をよじ登る隆直の姿が見えた。蔦を伝い、足許のこぼれる岩を探りながらなんとか這いあがろうとしている。首にしがみついた秋枝の足が宙にもがいている。
ふと、隆直がわざと晃をめがけて土を落としたのではないか、と疑い、美希はそう考えた自分に嫌悪を覚えた。
その時、崖の上のほうから、男の声が聞こえた。
「美希さんっ、美希さんはおるかーっ」
誠一郎だ。美希は驚いて目を凝らした。
たなびく煙の間に崖の縁が見える。そこに黒い頭が突きでていた。
美希は大きく手を振った。
「ここよ、ここっ、土居さんっ」
誠一郎は美希を認めたらしかった。身を乗りだして叫んだ。
「今、助けちゃる。これで登ってきやーっ」
何かが投げだされた。荒縄だった。片端は、崖の上の木にでもくくりつけられているのだろう。一方の端だけが蛇のように宙に飛んだ。崖の半ばまで登っていた隆直が、すぐに手を伸ばした。他の者も、我先に縄にぶら下がる。誠一郎が怒鳴った。
「美希さんが先ぞっ、女子供を先に逃がしちゃれやーっ」
しかし隆直の一家を先頭にして、誰もが縄を登っていく。皆が、この焦熱地獄から逃げだしたがっていた。下に落ちてきた縄の端に、子供を抱えた女が飛びついた。それを見た他の者たちも、縄に走ってくる。
晃が心配そうにいった。
「いけない。これ以上、人がつかまったら、危ない」
縄は、たわわに実った芋の根のようだった。先頭の隆直の一家はもう崖の頂上に近づいている。その下には満文や、治の孫息子、芳男もいる。さらに子供たちが続く。それだけの人数をぶら下げて、頼りなげに揺れる縄に、木立のほうから飛んでくる火の粉が降りかかる。炎に照らされた赤土の絶壁は、燃えるような不気味な色に輝いている。
「待つんだっ、登るのをやめろ」
突然、晃が怒鳴って、縄にしがみつこうとする人々の中に飛びこむと、下のほうの子供たちを引き離そうとした。
「うちの子に何するがよ」
「邪魔せんといてっ」
母親たちが子供を守ろうと、晃の肩や手を|拳《こぶし》で|叩《たた》く。
「やめてっ、危ないのがわからんがっ」
美希が晃を助けようと足を踏みだした。
と、縄にぶらさがる人々の列が、がくん、と揺れた。次の瞬間、大きな悲鳴があがった。縄が切れたのだ。大人も子供も、縄をつかんだまま、空から降ってきた。
人間の体が地面に叩きつけられる音があたりに響いた。
晃が、落ちてきた子供とぶつかって、地面に転がっている。美希のすぐ向こうで、倒れている隆直が見えた。首が真後ろにねじ曲がり、|瞳《ひとみ》はかっと見開いたままだ。すでに死んでいるのがわかった。その横で、娘の秋枝も頭から血を流して動かなくなっていた。足を折ったらしい園子が、夫と娘のほうに|這《は》っていく。
「満文っ」
理香が、草の上に倒れて|呻《うめ》いている弟のところに走り寄るのが見えた。
美希も晃を助け起こした。彼は、また肩を痛めたのか、顔をしかめている。彼とぶつかった子供は大声で泣いている。
次には我が子を登らせようと待ち構えていた母親が、ちぎれた縄の先を握りしめ、絶望の声をあげた。
その様子を見ていた誠一郎が、崖の上から怒鳴った。
「待ちよれやっ、なんとか助けちゃる」
美希が叫んだ。
「土居さんっ、消防団を呼んでください。怪我人がいっぱいおるがよ、縄で上がるのはむりやわ」
影法師に似た誠一郎の姿が、動きを止め、苦々しい声が返ってきた。
「尾峰の消防団は、ここが焼けるまで待ちゆうがよっ」
「何やってっ」
「どういうつもりよっ」
人々の怒りが噴きだした。
「俺も今さっき、この恐ろしいことを聞いたところや。とにかく、なんとかする。待っちょってやっ」
そう言い残して、誠一郎の姿は消えた。
|呻《うめ》き声とすすり泣き、そして草木の燃える音が覆いかぶさってきた。見ると、もう火の手は木立をほとんど|呑《の》み尽くしている。まだ燃えてない木も、すでに幹は黒く焦げはじめている。流れてくる煙の量が多くなっていた。熱風が赤岳に吹きつけてくる。
「うちは死にとうないーっ」
破れかぶれになった母親が、子供を抱いて火の中に飛びこんだ。|陽炎《かげろう》のように、煙の中に消えていく母子を見つめている美希の背中を、晃の両腕が包みこんだ。
「助けが来るのを待とう」
そんなものが来るのだろうか。
しかし、美希は何もいわずに|頷《うなず》いた。
来ても、来なくても、晃がそばにいてくれる。それだけで、正気を失わずにいられる。
残った者が|咳《せ》きこみながら、崖の下の|窪《くぼ》みに避難していく。美希も晃と一緒に、母のいる場所に戻った。
母は窪みの奥で、今までの騒ぎも耳に入らなかったように体を丸めていた。狗神の壷を抱えて、燃え盛る炎を見つめている。
二人は富枝の横に、体をぴたりと寄り添わせて座った。|仄《ほの》明るい光の中で、三人とも言葉を失っていた。
周囲からは、人々の泣き声や、死にたくない、という叫びが続いている。
私はここで死ぬのだ、と思った。道夫も隆直も死んでしまった。崖の下に身を寄せている者たちの命も風前の灯だ。坊之宮一族は、こうして息絶えていくのだ。
美希は、揺れる炎に照らされた、晃の顔を見た。彼は左手で彼女の肩を抱いたまま、何か考えるように折り曲げた自分の|膝《ひざ》を眺めている。
「ごめんなさい」
美希の言葉に、晃は|怪《け》|訝《げん》な顔をした。
「私と知り合わんかったら、死ぬこともなかったに……」
そういったとたん、彼に対する申し訳なさでいっぱいになった。目頭が熱くなって、涙が|溢《あふ》れた。
晃が、彼女の肩に回した腕に力をこめた。
「どうせいつかは死ぬんだよ。……それに僕は死んで生まれた子だったんだ。今まで生きてこられただけで、もうけものだ」
美希は涙を指先で拭きながら、首を横に振った。晃は、もっと生きるはずだったのだ。
やはり自分と出会ったのが悪かったのだ。
晃がくすりと笑いを|洩《も》らした。
「不思議だな。こんな時に思い出したよ。僕の生まれた町」
「生まれた町……?」
美希は、さっき自分が聞いたことなのに、もうとっくにそんな質問は忘れていた。
晃は、膝に置いた自分の手の甲に視線を移して|呟《つぶや》いた。
「太田町とかいってたな」
「太田町っ」
美希は思わず大きな声をあげた。
隣で、うつけたようになっていた母も、びくっとして頭を上げた。
「確かそうだった。その日、父は次の任地の松山に出張中でね。母は陣痛がはじまると、一人で病院にまで行ったらしいけど、そりゃあ心細かったって。おまけにすごい雪の日でね。僕は猛吹雪の中、深夜に生まれたらしい」
「吹雪の日の深夜……」
母が青ざめた顔で晃の言葉を繰り返すと、身を乗り出して聞いた。
「先生の誕生日はいつやったかね」
「昭和四十四年の一月十七日です」
美希と富枝は顔を見合わせた。
「一月十七日……」
二十五年前のその日、美希が子供を産んだ日だ。しかも太田町で。
美希は吐き気を覚えた。なんということだ。晃は、美希が子供を産んだと同じ日に生まれたのだ。しかも太田町に産院はひとつしかなかった。あの時、一緒に出産した女が、晃の母ということになる。
富枝も衝撃を受けたらしい。|顎《あご》を小刻みに震わせて、晃を見つめている。
「どうかしましたか」
二人のただならぬ様子に気がついた彼が|訊《たず》ねた。
「せ、先生は……」
母がごくりと|唾《つば》を|呑《の》みこみ、やっとのように、|萎《しな》びた紫色の唇を開いた。
「美希の子じゃ」
一瞬、美希は、母が何をいいだしたのか、わからなかった。晃が当惑したように聞いた。
「僕が、美希さんの子って?」
美希は、母の肩を揺さぶった。
「やめてや、変なこというがは。私の子は死んだがやないの」
富枝は歯を食いしばって、首を横に振った。
「死んだのは、先生の母親ゆう人の子やわ。逆子で|臍《へそ》の緒を首に巻いて死んじょった。部屋の隅に置かれちゅうのが見えた。看護婦たちは、ばたばた走り回りよったし、母親は気絶しちょった。その|隙《すき》に私が……私がすり替えたがよ」
美希は口を半ば開いたまま、母の顔を見つめた。
「……|嘘《うそ》や……」
彼女はようやくいった。
富枝は背中を丸めると、|膝《ひざ》の壷に額をつけて声を絞りだした。
「嘘やない……。私は、あんたの産んだ子を病室から連れて出た。兄妹の間にできた子じゃ。殺したがええ、と思うた。けんど、できんかった。その時、思うたんじゃ。あの死んだ子とすり替えちゃったら、この子は別の土地で育つ。坊之宮と関係ないところで生きておれると……」
母の言葉の意味が、美希の頭の隅々にまで沁みわたるのに、しばらく時間がかかった。そして、ようやくその真実に納得した時、自分がしでかしたことの重みが彼女を押し|潰《つぶ》した。
美希は顔を手で覆って、呻き声をあげた。
なんということだ。私は、自分の息子と寝てしまったのだ。そして子供まで|孕《はら》んでいる。
「そんな……そんなこと……」
美希は|嗚《お》|咽《えつ》を|洩《も》らした。
耳許で晃の声が響いた。
「関係ないよ」
彼女は、びくっとして顔を上げた。
晃の切れ長の|瞳《ひとみ》が、外の炎のように暗く激しく燃えていた。
「僕は、美希さんの乳を飲んで育ったわけじゃない。僕にとっては、美希さんは、ただの女の人だ。今さら母親だとわかっても、何も変わるわけじゃない」
美希はまじまじと晃を見つめた。
血だ、と思った。
彼女も、隆直が兄だとわかった時に同じことを思ったのだ。
二人の愛情は、何も変わらないと。兄だろうが妹だろうが、愛し合ってどうして悪い。
美希の顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
そうとも。母子であろうと、同じことだ。愛し合って、どこが悪いのだ。
彼女の顔にも、晃とよく似た決然とした表情が浮かんだ。美希は、彼の胸に体を埋めて、いい放った。
「私もそう思う。母子だったとは誰も知らんし、戸籍も別になっちゅう。問題なんかないわ」
富枝は|顎《あご》を垂らして、怪物でも見るような目つきで、二人を凝視した。
「恐ろしいことを……なんて、恐ろしいこと……あんたらは……」
何かいいかけた母の顔が、びくっと|痙《けい》|攣《れん》した。手から壷が滑り落ちて、地面に転がる。母の顔がみるみるうちに|蒼《そう》|白《はく》になり、上半身が崩れた。
「お母さんっ、どうしたがっ」
美希は驚いて、母を抱き起こした。
富枝の顔が|弛《し》|緩《かん》している。目の輝きが急速に失せていく。
母の持病の高血圧症のことが、美希の頭を|過《よぎ》った。|乾《いぬい》医院では、気をつけないと、|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》や心筋|梗《こう》|塞《そく》の恐れがあるといっていた。
「私は……もうだめや。……ありがたい……ことじゃ」
美希の腕の中で、母が弱々しい声を|洩《も》らした。
「何ゆうが、お母さんっ」
「しっかりしてください」
晃も、美希の背後から言葉をかける。しかし母は首を左右に振ると、|混《こん》|濁《だく》した|瞳《ひとみ》を宙にさまよわせた。
「一遍、善光寺に行きたかった……あそこの極楽のお錠前に……触って……この次、生まれてくる時は、どうぞ狗神筋の家だけはやめてくださいゆうて頼む……が……。狗神筋の家に生まれたら、ろくなことはないき……にのぅ……」
「お母さんっ。そんなこといわんで。一緒に行こう。善光寺に一緒に」
母は美希の腕をつかんだ。がっちりした指が、肉に食いこむ。母は、最後の力をふり絞って、かすれた声でいった。
「美……希……、生き残ったら……善光寺に行って……もう二度……と、狗神筋の家に生まれんよう……」
母の手から力が抜けていく。目から光が消えていく。|喉《のど》がひゅうっ、と低く鳴って、母の頭が、がくりと後ろに垂れた。美希の腕から、枯れ木のような手が滑り落ちた。
「お母さんっ」
美希は、母を揺すった。
しかし母はもう動かなかった。美希は魂が抜けたように、腕の中で首をのけ反らせて死んでいる母の姿を見つめていた。
「美希さん……」
晃の声がした。彼が、彼女の前にかがみこみ、富枝の|腋《わき》の下に両手をさしこんだ。そして、母の体を窪みの入口に横たえた。
晃は、富枝の両手を胸の上に置くと、皮ジャンのポケットからハンカチを出して、顔にかぶせた。
美希は、晃のすることを、ぼんやりと見つめていた。
何もかもが悪い夢のような気がした。今日、先祖祭りのために本家に集まった時、こんな結末を迎えると、誰が予想しただろう。いかに村人たちの憎悪が強くても、ここまで恨まれていると、誰が察していただろう。
晃が、また美希の隣に腰を下ろした。美希は晃の胸に顔を埋めた。
煙が窪みの中まで充満していた。外では、叫び声が続いている。最後の脱出を試みて崖を|這《は》い上がった者が、力つきて転げ落ちる音が響く。
炎がすぐそばまで来ていた。黒焦げになった木立が倒れていく。
彼女は、晃の胸から顔を上げて、揺らめく炎を見つめた。|眩《まぶ》しいほどの|緋《ひ》|色《いろ》の世界が広がっていた。
きれいだな。
美希は、ふと思った。
足許には、狗神の壷が転がっていた。縛っていた|紐《ひも》もほどけ、|蓋《ふた》が開いているが、中からは何も出てきてはいない。
やはり最初から、狗神なぞいなかったのだ。存在しない狗神のために、坊之宮の人間たちは、皆殺しになるのか……。
「結婚したかった……」
美希の口から|呟《つぶや》きがこぼれた。晃が、指先で、彼女の頬を優しく|撫《な》ぜた。
「もう……しているさ。子供もいる。三人で家庭を作るんだ」
「そうね。私たちの居場所を作るがよね。ここから助かったら……山の中の私の仕事場で暮らしたらええわ。そこで私は和紙を|漉《す》けるし」
「僕は、美希さんが七色紙を作るのを手伝うよ。二人で和紙を漉いて暮らすんだ」
美希は涙をこらえて|微笑《ほほえ》んだ。
「そうね。二人でやったら、きれいな七色紙を漉くことができるかもしれん。二人で和紙を作りゆう間、子供は外で遊びよったらええ。私らの子供よ。きっとかわいらしい……」
耳許で、すぅすぅ、という息が聞こえた。
顔を向けると、晃が目を閉じて、規則正しい呼吸をしている。
眠ったのだろうか。こんな時に。
美希はあきれ、そして静かに笑った。
眠りながら死ぬのはいいことかもしれない。
もし、それが、いい夢ならば……。
美希はまた、眠る晃の胸に頭をもたせかけた。
すでに炎は木立を焼き尽くし、崖の前に迫っていた。|窪《くぼ》みの入口の草が、赤く燃えはじめて、中に灰色の煙が押しいってきた。
息が苦しくなり、美希は晃の皮ジャンに顔を押しつけた。
窪みの入口に横たわる、母の髪の毛を火の舌が|舐《な》めた。|椿油《つばきあぶら》をつけていた髪が赤い炎を上げはじめ、やがて母の着物にも火の手が延びていく。
じりりり。皮膚の焼ける臭いが漂ってきた。
美希は目を閉じた。
すぅすぅすぅ。晃の安らかな寝息が、美希の気持ちを鎮めてくれる。煙の中で、意識が|朦《もう》|朧《ろう》としてきた。
私は死ぬのか、と思った。
晃と一緒なのが、救いだった。
ごおおおっ。燃え盛る炎に襲いかかられ、痛いほどの熱さが美希を包んだ。
19
焼ける!
美希は覚悟したが、炎が体を舐めたのは、一瞬のことだった。また少し火勢が和らいだようだ。
彼女は、立ちこめる煙の中で、うっすらと目を開けた。
窪みの向こうの緋色に輝く世界が、少し暗くなっている気がした。指先で目をこすってよく見ると、黒い棒のようになって燃えている木々の間を、|闇《やみ》がじわじわと|這《は》い進んできていた。毎夜、尾峰の村落を包む、あの漆黒の闇が、墓地のほうからやってくる。
燃え盛る炎は闇に覆われると、炭の|燠《おき》|火《び》のような暗い色に変わった。火勢が弱まるわけではないが、病魔に冒されるように、木立の奥から|冥《くら》い色が広がっている。
やがて闇は、美希のいる|窪《くぼ》みまで達した。あいかわらず火の燃える音も、熱も感じるのに、視界が薄暗く塗り|潰《つぶ》されていく。やがて窪みの中は暗転した。気のせいか、木立を這い進んできた闇は、この窪みを目指して流れこんでくるようだ。美希の周囲は、どんどん漆黒の闇に閉ざされていく。
すうっ、すうっ、すうっ。
晃の寝息が続いている。
「晃さん、起きて」
美希は煙に|咳《せ》きこみながら、彼の体を揺すった。
皮ジャンの中の体が、ふわりとへこんだ。
彼女はぎょっとして、晃のいるはずの場所を見た。へこんだ服の下から、漆黒の闇が漂いだしていた。まるで先ほどから窪みに流れこんできていた闇が、そこにすべて凝縮されたようだ。
美希は、自分の前にある、底のない闇を凝視した。そして、それが脚を持っていることに気がついた。
全体を覆う、長く黒い毛、鋭い|爪《つめ》の隠された丸い指先。人間の足ではない。獣の脚だ。四本の頑丈な脚が、にょっきりと闇の中から出ている。
ぷんと獣の臭いがした。
「びゃうびゃうびゃう」
奇妙な鳴き声が、地面から|湧《わ》きあがった。
その声には聞き覚えがあった。克子が|狗《いぬ》|神《がみ》に喰われたと騒いだ時に、|喉《のど》の奥から出していた鳴き声……狗神の声。
——坊之宮家の御先祖様は、手足は|鵺《ぬえ》のもので、体は黒い雲からできちょったと。
母の言葉が頭に浮かんだ。
美希は、虎か犬の四肢に似た、太い脚を見つめた。
これが御先祖様なら、晃はどうしたのだ。
「晃さんっ、どこに……」
口を開いたとたん、煙がどっと喉に入りこんできて、彼女は、背中を丸めて咳きこんだ。その腰を、何か温かなものが、がっしりと挟んだ。
美希は悲鳴をあげようとして、また煙にむせた。
歯のような|尖《とが》ったものが、美希の肉に喰いこむ。全身|噛《か》み傷だらけで死んでいた、克子のことが頭を|過《よぎ》った。私も克子のように、この獣に噛まれて死ぬのか、と思った瞬間、彼女の体は窪みの外に飛びだしていた。
耳許で、風と、燃える炎の音がする。
びゃうびゃう、という鳴き声がついてくる。闇の獣は、炎の海を|駆《か》けていた。炭化した木の幹の影が、回り|灯《どう》|籠《ろう》のように周囲を巡る。木々が、次々と倒れかかる。獣は、力強い跳躍で、その木の間をすり抜けて走る。
晃はどうなったのだ。
美希はもがいたが、体に力が入らない。煙で意識が|朦《もう》|朧《ろう》としている。
はっ、はっ、はっ。
獣の息遣いが続く。
全身に火の粉が降りかかる。しかし、獣の脚は速かった。炎が服や髪に燃え移る前に、風が吹き飛ばしてくれる。
正面に五輪塔が見えた。火に|炙《あぶ》られ、先祖の塚は黒く|煤《すす》けている。闇の獣はその塔を軽々と飛び越え、墓標の間を抜けて、斜面に躍りでた。
今もくすぶり続ける斜面は、赤い硝子の破片に埋め尽くされたようだ。黒い闇を体にまとい、巨大な獣が焼けた草上を駆け降りる。美希の周囲の熱と煙が消えて、頭がはっきりしてきた。彼女は自分をくわえている獣を見ようと、首を|捩《よ》じった。
しかし、見えたのは、漆黒の闇だけだった。黒煙のようにたゆたう体毛。眼も、彼女をくわえているはずの口も、わからない。凝縮された闇の塊が、真紅にきらめく斜面を疾走する。自分を運んでいるものが獣だと教えてくれるのは、強い体臭と、大地を蹴る太い四肢だけだ。
その脚が目指しているのは、墓地の下の林道だ。この闇の獣は、自分を助けようとしてくれている。混乱した意識の中で、美希にわかるのは、そのことだけだった。
「山犬だーっ」
「違う、狗神ぞっ。真っ黒やぁ」
人々の|怯《おび》えた声が耳を打った。
美希は顔を上げて、行く手を見た。
林道に立っていた村人たちが、斜面を降りてくる闇の獣を指さしている。恐怖の叫び声があがった。くすぶり続ける煙の向こうで、逃げまどう人々の影が揺れる。
ざっ、ざっ、ざっ。獣の脚が、焼け焦げた草を蹴る。
正面に、よろよろと小柄な男が出てきた。
仁王立ちになって、震える手で、こちらに猟銃を向けている。
月明かりの下に、その頬骨の出た陽に焼けた顔が浮かんだ。垂れた|瞼《まぶた》の下の|瞳《ひとみ》が、ぎらりと光った。味元だった。
「この化け物めっ」
味元が怒鳴った。
美希は叫んだ。
「やめてーっ」
闇の獣は脚を緩めなかった。そのまま老人の頭上を飛び越えようと、大地を蹴った。
黒い闇が、弧を描いて天空を|過《よぎ》った。
美希の目に、尾峰の村落が小さく見えた。県道を走る車のヘッドライトが見える。
空を|翔《と》んでいるのだ。
美希は思った。
ずっと前から、こんなことを夢みていた。尾峰の斜面から、空に翔びだすこと。
耳許で風が音をたてる。|爽《さわ》やかな夜気が全身を包む。空に輝く|蒼《あお》い満月。広大に広がる宇宙。このまま闇夜に溶けこんで、遥か遠くへと|天《あま》|翔《が》けていける気がした。山を越え、海を越え、どこまでも……。
味元が銃口を空に向けて、引き金を引いた。
どすーん。
大きな音が|轟《とどろ》いた。
美希の体に、びくんっと振動が伝わってきた。獣の|咆《ほう》|哮《こう》が夜空を揺るがしたと思うと、美希をくわえた|牙《きば》の力が抜けた。
彼女は闇の獣と共に、空から|墜《お》ちていった。
焼けた草の上に体が投げだされた。熱さに悲鳴をあげて、ごろごろ転がる。何か硬いものを押し倒して、美希はようやく止まった。
彼女は|喘《あえ》ぎながら上半身を起こした。そこの地面は焼けてはなかった。延焼しないように立てていた薪の囲いを越して、林道の横の茂みに飛びこんでいたのだ。
すぐ先の雑草の茂みの中に、あの漆黒の闇が漂っているのに気がついた。立ちあがろうとした美希は顔を|歪《ゆが》めた。右足を|挫《くじ》いたらしい。足首に走る痛みをこらえて、彼女は|這《は》い寄っていった。
その凝縮された闇は、茂みの間に細長く横たわっていた。だが、美希が見ているうちに、闇は薄くなっていく。黒一色のモザイクの壁面から破片がこぼれ落ちるように、闇が散り散りになり、夜に溶けていく。同時に、小さな虫のようなものがぽろぽろと草の間に落ちていった。
狗神のことが頭に浮かんだ。
美希は、その小さなものをつまんだ。黒豆に似た小さな塊が、指の間で灰になって崩れた。
何かは、わからなかった。
美希は指先を着物で拭うと、再び獣のいる場所に目を遣った。