そして、自分の息が止まるのがわかった。
獣の四肢から黒い毛が消え、人間の手足に変わっていた。体を包んでいた闇もなくなり、そこに裸の男が横たわっていた。
晃だった。引き締まった腹に、大きな穴が空いていて、|溢《あふ》れ出す血で、下半身は黒々と|濡《ぬ》れていた。美希は彼にかがみこんだ。
「まさか、晃さんが……」
だが、どう説明すればいいというのだろう。闇の獣が消えて、晃が現れた。やはり、あの獣は、彼だったのか。
晃の|瞼《まぶた》が薄く開かれた。そして、美希を見て二、三度瞬いた。
「俺はどうしたんだ……」
とたんに|呻《うめ》き声を|洩《も》らして、彼は腹に手を遣り、掌にべとりとついた血を信じられないような顔で見た。
晃は、自分が獣に変わったことは何ひとつ覚えてないのだ。尾峰にいて、彼だけは快適な夜を過ごしているようだった。きっとそれは、悪夢をばらまいていた張本人だったからなのだ。意識が眠っている間に姿を変えて、夜毎に村を駆け巡っていたのだ。
彼が、血のついた手を美希に伸ばした。彼女は、はっとして、その手を握り返した。
彼が、あの獣だったとして、何だろう。私が、この人を愛したことに変わりはない、と思った。
「晃さん、しっかりして」
美希は、彼の耳許でいった。
晃には、彼女の姿が見えないようだった。美希が手を握っていることもわかっていないかもしれない。彼は小さく|呟《つぶや》いた。
「三人で……暮らしたかった……」
そして彼は、一息吸うようにして、がくりと首を落とした。
美希は掠れ声で晃の名を呼びながら血まみれの恋人の手を、両手にくるみこんで、頬にあてた。そのがっしりした手は、彼女の手をもう握り返してはくれない。指の間から幸福がこぼれ落ちていく。あと少しでつかめると思った幸せの手が、遠いところに行ってしまった。
草の上に、若々しい肉体が彫像のように横たわっていた。傷口から噴きだした血は、黒々と月明かりを反射している。
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——血と血を交らせて
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先祖の姿|蘇《よみがえ》らん
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謡の詞が、美希の脳裏を|閃《せん》|光《こう》のように貫いた。
兄と妹の血と血が交わったのだ。そして晃が生まれ、闇の獣として先祖の姿が蘇った。
きっと、晃がこの土地に戻った時、先祖返りがはじまったのだろう。そして夜毎に、狗神を連れて、闇を|徘《はい》|徊《かい》するようになった。晃自身も気がつかないうちに……。
美希は、晃の瞼を閉じると、|逞《たくま》しい胸の上に頭を載せた。涙が頬を伝って、彼の|喉《のど》|元《もと》に落ちる。
このまま一緒に死のう、と思った。
斜面の向こうでは、赤岳が炎に包まれていた。一族の者は皆、死んでしまっただろう。母も、兄も、|姪《めい》や|甥《おい》たち。そして晃までも……。
結婚して、幸せに暮らすはずだったのに、二人の居場所を作るはずだったのに、私だけが残ってしまった。
そこまで思って、美希は|顎《あご》を上げた。
いや、違う。子供がいる。
彼女は血に濡れた指先で、腹を触った。
ここに、晃と自分の子供が生きている。
闇の獣になっても、晃は、私を助けてくれるのを忘れなかったではないか。命を懸けてまで、救ってくれたのだ、私と子供を。
美希は、晃の美しい横顔を見た。
死んではいけない。
彼の動かない唇が、そういっている気がした。
その時、斜面の先のほうで、焼けた草を踏む音が聞こえた。
「どこぞ、このへんに墜ちたはずじゃが」
味元のしゃがれ声が響いた。
美希は、ぎくりとして息をひそめた。
ざく、ざく。灰となった草を踏みしめて、猟銃を杖代わりに突いて近づいてくる味元の姿が、月光の下に浮きあがった。
見つかったら、殺される。
美希は、そろそろと晃の体から離れると、茂みの後ろを四つん|這《ば》いになって進みはじめた。右足首に走る痛みをこらえて、林道に沿った茂みの中を進み、地蔵のところに着いた。美希は、その石の台座の陰に入り、息を整えた。
「誰ぞ、誰ぞ来とうぜっ」
晃の倒れている付近で、肝を|潰《つぶ》した味元の声が上がった。
二、三人の村人たちが走り寄ってきた。そして味元の横に立って、騒ぎだした。
「こりゃ、先生やぞ。美希さんとつきあいよった男じゃ。味元さんの弾に当たったがやないか」
「わしゃあ、確かに太い獣やと思うたに」
「どうしたらええ、警察がくるぞ」
「火に入れろ。焼けたら、何もわかりゃせん」
誰かの声がして、取り乱した村人が二人、晃の体を抱えて墓地のほうに運んでいくのが見えた。行く手では、空を焦がすほどの勢いで赤岳が燃えていた。
なんということだろう。彼らは自分たちのしでかしたことを隠すために、晃の体を再び、あの業火の中に放りだすつもりなのだ。
地蔵の台座の後ろで、美希の胸は憤りに破裂しそうだった。
尾峰の人間、すべてが憎かった。坊之宮の一族を死に追いやった人々。晃を殺した味元。にこやかな顔に、悪意をひそませていた村人たち。
このままでは、終わらせない。ここから逃げだして、|復讐《ふくしゅう》してやる。どんなに隠しても、私が証人だ。誠一郎もいる。村人たちのしたことを告発してやる。この罪を暴きだして、白日のもとにさらすのだ。彼らは報いを受けるべきなのだ。
美希は、涙を浮かべた目で、炎に|炙《あぶ》られる赤岳を|睨《にら》みつけていた。湧きあがる黒煙。|皓《こう》|々《こう》と照り輝く満月。私は、この時を決して忘れないだろう、と思った。村人、一人一人に復讐してやるまでは、決して……。
美希は、地蔵の陰からそろりと出た。
ウーウーウーウー。
谷底のほうから、サイレンの音が聞こえた。大きな車が県道を|逸《そ》れて、尾峰に続く林道へと入ってくる。消防車だ。誠一郎が、池野村の消防署に救援を求めてくれたのだ。
「隠れろーっ」
「逃げるがじゃ」
村人たちが、ばらばらと斜面から駆け降りてきた。囲いにしていた薪を踏み倒し、夜陰に紛れて、家へと逃げていく。地蔵の前を、ばたばたと見知った顔が走っていったが、誰も美希には気がつかなかった。
消防車が、けたたましいサイレンの音を鳴らしながら近づいてくる。|眩《まぶ》しいヘッドライトが林道を照らしだす。
助かったのだ。
美希は小さな息を吐いた。
無意識に、手が腹を触っていた。
この子は、無事に産むことができる。晃の息子でもあり、弟でもある子。きっと晃そっくりだ。
男の子だったら、晃と名づけよう。私は、その子と自分の居場所を作るのだ。晃と二人で作るはずだった場所を。
彼女の顔に笑みが浮かんだ。
この子は、自分を愛してくれるだろう。晃のように……。
妙にあたりが暗くなった気がした。赤岳を包む炎も、満月も、尾峰の家の灯も、墨で一刷きしたように黒ずんでいる。
消防車はすぐ下まで来ていた。サイレンの音が大きくなってきた。車がここまで来たら、助けを求めて飛びだそうと思った。
美希は、地蔵の前に|這《は》いだした。林道の前には、もう誰もいなかった。彼女は、地蔵を載せた岩に背をもたせかけた。
「びゃうびゃうびゃう」
頭の上で、聞き覚えのある鳴き声がした。
美希は、ぎょっとして、顔を上げた。
岩に載った地蔵の足許で、|蟻《あり》のようなものが動いていた。犬だ。大豆の粒ほどの小さな茶色の狗が一匹、つちつちと石の台座の縁を歩いている。
美希は、目を見開いた。
|狗《いぬ》|神《がみ》だ。狗神の腹は膨れている。子を|孕《はら》んでいるようだった。ぷくりと大きな腹を揺すり、狗神は、脚を上げて嬉しそうに跳ねていた。
母はいっていたではないか。狗神は、坊之宮の人間の数だけいると。私が子を産んだら、また狗神も増えるのだ。そして、坊之宮一族に新たに加わった赤子にとり憑く。私たちは死ぬまで、狗神から逃れることはできないのだ。一族を死に追いやった狗神から……。
その小さな神に対する憎しみが湧いてきて、|叩《たた》き|潰《つぶ》そうと手を振り上げた。
ふっ、と狗神の姿が消えた。
美希はゆるゆると手を下ろした。
頭上では、地蔵が穏やかな笑顔を浮かべている。赤い前かけが谷からの風に揺れていた。この地蔵の下に埋められた子のことを想った。
その子なら、晃を育ててくれた両親の|許《もと》で、狗神とは関係なく生きられただろう。しかし、人生とは皮肉なものだ。幸せが約束されている者が死に、美希や腹の子のように、|冥《くら》い運命を背負った人間が生き延びる……。
ふと、丸い地蔵の顔の輪郭がぼやけて、二つに分かれた気がした。目をしばたたかせた美希は、その場に釘付けになった。
地蔵の横に、小さな体が浮かんでいた。赤紫色をした赤子だった。膨れあがった|瞳《ひとみ》。歯のない口が|嗤《わら》っている。首に巻かれた|臍《へそ》の緒がだらりと足許に垂れていた。
美希は信じられない思いで、赤子を見つめていた。
なぜだ。晃は死んだ。夜毎に、悪夢をばらまく者はいなくなったのだ。どうして私の悪夢の中の赤子が、ここに出てくるのだ。どうして、そんなに恨みをこめた目で私を見るのだ。この子は、私の産んだ子じゃない。私も、母も、おまえを殺したわけじゃない。
その時、美希の体内で、胎児が腹を蹴った。嬉しくてたまらないように、子宮の内側を蹴り続ける。
美希はゆっくりと自分の下腹部に、視線を移した。
そういえば、私の悪夢が生々しいものに変化したのは、この子を孕んでからではなかっただろうか。風もないのに、部屋の中で揺れていた電灯の|紐《ひも》。通夜の帰り、赤子の顔に|変《へん》|貌《ぼう》した地蔵。夢が少しずつ現実を侵食してくるようになったのは、晃と体を交わらせて以来ではなかったか。考えてみれば、早すぎる胎動もおかしい。この子は、普通の子ではなかった……。
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——血と血を交らせて
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先祖の姿|蘇《よみがえ》らん
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謡の詞が、再び頭に響いた。
兄と美希が交わって、晃、つまり、坊之宮の先祖、闇の獣が生まれた。美希と息子が交わって、次に生まれる赤子は、闇の獣の先祖だ。
ということは……|鵺《ぬえ》!
闇の獣が、悪夢をばらまくとしたら、鵺は、悪夢を現実にもたらすのかもしれない。
この子は、胎児の段階から、母親の見た悪夢を現実に引き寄せている。この世に生まれた暁には、他の人間の悪夢まで、現実にしてしまうにちがいない。
そうなれば、再び、坊之宮家は恨まれる。今までよりさらに強い、人々の恐怖と憎しみに|苛《さいな》まれる。
たとえ私が、尾峰の村人に|復讐《ふくしゅう》を果たして、この地を出て行こうとも、この子を連れている限り、その地では、悪夢の夜がはじまるだろう。今度は、今までよりさらに悪い。その悪夢が、現実となるのだから。
人々は、再び自分たちに、憎しみと恐れを燃えたたせるだろう。そしていつか私たちを殺そうとする。
きっと、このようにはじまったのだ。鵺が生まれ、人を恐怖に陥れたがゆえに切り刻まれ、四国に流れついた。そこから生まれた闇の獣もまた、悪夢をばらまいて、人の恐れと憎しみを|煽《あお》りたててきた。こうして、狗神筋というものが作りあげられたのだろう。永遠に続く、恐怖と憎しみの連環によって……。
私と子供の行く手に待ち構えているのは、幸福ではない。漆黒の闇だけなのだ。
消防車が、すぐ下の角を曲がった。
「早うしてくださいっ、坊之宮の人がおるがじゃき」
誠一郎の悲鳴のような声が聞こえてくる。
もうすぐ助かるのだ。
美希は、ヘッドライトの眩しい光を見つめた。
しかし、助かるとは、何から?
私たち母子がほんとうの意味で救われることはあるのだろうか。
頭上で、嘲るような赤子の笑い声が響いた。
美希はゆっくりと顔をあげた。
赤子がその小さな手で、地蔵の頭を押した。石の地蔵がふらりと揺れて、こちらに倒れてくるのが見えた。
腹の子が、楽しそうに動いている。
美希は、目を閉じた。涙が|滲《にじ》みでる。
晃と美希と、子供。晃と一緒に紙を|漉《す》くのだ。障子に落ちる日の光。揺れる紙漉き舟の溶液。表の庭で、子供が遊ぶ。庭に広げられているのは、七色紙だ。太陽の色を染めた七色の和紙が、柔らかな光を放っている。
そここそ、私の居場所。私を温かく包む、私の居場所。晃と子供と三人で作るはずだった、私たちの居場所……。
鋭い衝撃が前頭部を打った。ぐしやりと、頭の|潰《つぶ》れる音がした。
美希の|瞼《まぶた》の裏に広がっていた、幸福の情景が闇に溶けていった。
「恐ろしいことやった。夜中に、消防車がわんわんゆうて走って来てのう、赤岳へんに水をかけたけんど、もう遅かった。坊之宮の人らは皆、焼け死んじょりました。先祖祭りに使うた|提灯《ちょうちん》が落ちて、草に燃え移ったがやと、消防の人らはいいよったが」
低い畑の石段に座り、|杖《つえ》にかけた両手に|顎《あご》を載せて、老人は語った。
時田昂路は、彼の横に腰を下ろしていた。霜よけの|藁《わら》のかぶせられた畑の縁に柿の木が立っている。取り残された朱色の実が二個、寒々しい冬の光を反射していた。
「だけど、村人が全員、坊之宮の人たちが先祖祭りをしているのを忘れて、山火事を傍観していたのは不思議じゃないですか」
老人は警戒するような視線を昂路に送ると、不機嫌にいった。
「あの頃は、皆が悪い夢にうなされて寝不足になってしもうちょったがや。頭も、ぼうっとしちょった。ほいで尾峰の消防隊の者も、そのうち燃えやむろうと、家でゆっくりしよったがよね」
昂路は、老人の頬骨の出た丸顔を眺めながら、真相はどうなのだろう、と|訝《いぶか》った。
|信濃《しなの》の善光寺の戒壇巡りの時に会った女は、長い話を終えると、いつか闇に消えていた。|呆《ぼう》|然《ぜん》と座りこんでいた昂路は、見回りの僧に発見された。あれほど迷ったくせに、出口は角を曲がったところにあった。
新聞で、高知の山里で山火事があり、先祖祭りをしていた一族全員が焼け死んだという記事を読んだのは、東京に戻った翌日のことだ。死者の中に坊之宮美希の名前を見つけて、彼は|慄《りつ》|然《ぜん》とした。日付を手繰ると、昂路が善光寺で美希に遇った前夜、彼女は死んでいたことになる。
死んだ者は、枕飯の炊ける間に、善光寺参りをする。
そんな言い伝えがあると聞いたのは、しばらくしてからだった。
以来、昂路の心に、美希のことはずっと引っかかっていた。そして年も明けたこの一月、冬休みをとったついでに、思いきって高知を訪れたのだった。何の目的があったわけでもないが、美希の語ってくれた話を確かめてみたかった。
尾峰の風景は、美希の表現した通りだった。風に抗するように造られた|要《よう》|塞《さい》に似た灰色の家々と石垣が山の斜面にへばりついている。冬のせいか、村はがらんとして、妙に寒々しく感じられた。
昂路はバスを降りると、村道を上がり、畑の横でこの老人と出会ったのだった。
「坊之宮美希さんはどうなったんですか」
老人は驚いたように|顎《あご》を上げた。
「あんた、美希さんの知り合いかの」
「ええ……まあ。ほんの行きずりに、話を交わしたくらいですが」
昂路の言葉に、老人はほっとしたようだった。彼は舌で唇を湿すといった。
「美希さんは、お地蔵さんに|潰《つぶ》されて|亡《の》うなったがよ。即死やったゆうことじゃ」
「美希さんと婚約していた学校の先生は?」
老人はまた|眉《まゆ》をひそめた。
「先生は黒こげになって、墓地で見つかったぞね。親御さんが泣き泣き骨を引き取っていったわ」
縄で縛った木の枝を背負った老女が前の道を通りがかった。
「|三《みつ》|椏《また》取りかね」
老人が声をかけると、女は、手拭いを被った頭をこくりと下げた。
「今度、いつもんてこれるかわかりゃしませんき。畑にあるばあの三椏を刈って、土居さんくの工場に売っちょこうと思いよりますらぁ」
「そうやった。お琴さんは、高知の息子さんところで暮らすことにしたがやったのう」
老女は尾峰の村落を見回していった。
「ここから出ていきとうはないけんどねぇ」
「ちょくちょく、もんてきたらええじゃろう」
老女は|歪《ゆが》んだ笑みを浮かべただけだった。
「ほいたら、味元さんもお達者で」
女は再び頭を下げると、村道を|逸《そ》れて、細い|畦《あぜ》|道《みち》へと入っていった。
昂路は、隣の杖をついた老人を横目で見た。薄々感づいていたが、この男が、美希の話に出てきた殺生人の味元だった。
味元は、老女の背中で揺れる三椏を見遣りながら、杖に重ねた手をさすった。
「このところ、尾峰を離れる家が増えちょっての。寂しいことじゃ」
「過疎ですね」
味元はちっ、と口を鳴らした。
「皆、町に出て行きたがる。明るい電気がいっぱいついたお町にのう。お町やったら、怖うない。夜も明るいきにのうし」
「夜も明るい?」
昂路は、コートの|衿《えり》を立てながら聞き返した。
味元は無言で、番所山の右のほうに首を巡らせた。黒々とした斜面の上に、坊之宮の墓石が並んでいた。
「あの火事で焼けんかったんは、美希さんだけやった。他は皆、焼け焦げて骨ばあになっちょった。わしらは、赤岳の下で、ひとつひとつ骨や遺品を拾うて回ったが。ちゃんとお通夜もして、葬式も出しちゃった。墓石やって、これからきちんと立てちゃるつもりや。できるだけの供養はするつもりじゃ」
誰にともなく激しい口調でいい放って、味元はしばらく杖に手をかけたまま、墓地を見上げていた。やがて肩の力を抜くと、|拳《こぶし》で隠すように|欠伸《あくび》をして、昂路に|訊《たず》ねた。
「あんた、車でおいでかね」
「いえ、伊野町からバスで来ました」
「そうか。最終バスに遅れんようにのう。尾峰で夜は過ごさんがええき」
「ここは旅館もないですからね」
冗談ぽくいう昂路の前で、味元は口許を引きつらせた。
「ここの夜は、宿もないだけじゃない。眠りもない、安らぎもない。悪い夢しかありゃあせん……」
昂路は首を|傾《かし》げて、味元を見た。味元は口を横に結ぶと杖にすがって、腰を浮かせた。
「あんた、美希さんとどういう知り合いやったか知らんけど、坊之宮の者とは、関わりにならんほうがええぞ。いったん関わり合いになったら、もう終わることないきに」
味元は昂路に背を向けると、杖をかつんと鳴らした。
「千匹目の殺生は恐ろしいことになる、ゆうんはほんとうじゃったよ」
彼は独り言のように呟くと、体を左右に揺するようにして村道を下っていった。
昂路は、ちんまりした味元の背中を見送りながら、先の言葉はどういう意味だろうと|訝《いぶか》った。
まるで坊之宮一族がいなくなった今も、彼らのことを恐れているようだ。
腕時計を見ると、帰りのバスの時間まで、あと三十分ほどある。昂路も石垣から立ちあがると、小さな旅行バッグを持って、坊之宮の墓地を目指して村道を歩いていった。
雑貨屋や酒屋が開いているが、どこか静まりかえっていた。誰もが|陰《いん》|鬱《うつ》な顔をして買物をしている。通りで遊んでいる子供の顔つきまでも、ぎすぎすしている。
林道に出ると、坊之宮家の墓地のある斜面が見えた。まだ焦土が点々と残っている。赤岳の岩肌に広がる|痣《あざ》のように黒く焼けた部分が、火事の激しさを物語っていた。
昂路は、林道の脇の赤い前かけをした地蔵の前で立ち止まった。灰色の地蔵は、岩の上で、穏やかな笑みを浮かべている。その鼻の先が少し欠けているのは、美希の上に倒れた時の衝撃のためかもしれなかった。
地蔵にお供えを|捧《ささ》げる人はもう誰もいないのだろう。地蔵の足許には何もなく、ただ小さな黒い|蟻《あり》が|這《は》っているだけだった。
昂路の脳裏に、この地蔵の前で毎朝手を合わせた美しい女の姿が浮かんだ。死んだ子に対する罪の意識を感じ続けて、人生の次の一歩に踏みだせなかった女。この静かな山里で、一人和紙を|漉《す》いて生きていこうと|諦《てい》|観《かん》していた女。しかし、|狗《いぬ》|神《がみ》|筋《すじ》といわれる家に生まれたために、彼女の平穏は粉々に打ち砕かれてしまった。
——極楽のお錠前に触りたかった。この次は、狗神筋に生まれてきませんようにと、祈りたかった。お母さんのぶんも、お母さんのお祖母さんのぶんも、狗神を|祀《まつ》らにゃいかんかった坊之宮の女、皆のぶん、祈りたかったに。触れん、触れん……。
善光寺の|暗《くら》|闇《やみ》の中で、|啜《すす》り泣きに混じって聞こえてきた言葉が耳から離れない。
東京に戻ったら、もう一度、善光寺に行くか。そして彼女の代わりに、極楽のお錠前を触って、祈ってきてやろう。
昂路は、墓地へと続く斜面の小道を登りはじめた。
これも縁というものだろう。まさか、この俺が、そんなことを真面目に考えるようになるとは思いもしなかったが。
枯れた草を踏み分けて、昂路は登り続ける。林立する墓標が大きくなってくる。ふと、その墓石のひとつが、人の形をしていることに気がついた。
昂路は目を凝らした。
墓石ではない。人間だった。紺の野球帽をかぶった男がじっと昂路を見下ろしている。
誠一郎だ。
昂路はすぐに気がついて、会釈した。誠一郎は用心深い態度で肩をすくめるように頭を下げると、墓地から降りてきた。昂路は話しかける言葉を頭の中で探しながら、彼に近づいていった。誠一郎は疲れているようだった。帽子の縁から|覗《のぞ》く縮れ毛には白髪が何本も混じっている。その顔には、外界のすべてを拒否するような|頑《かたく》なさがあった。
昂路は、言葉を|呑《の》みこんだ。
誠一郎は、昂路から顔を背けるようにしてすれ違うと、林道へと駆け降りていった。
あの事件は、誠一郎の心に深い傷を残したにちがいない。行きずりの昂路すら、その悩みと苦しみの|深《しん》|淵《えん》を|垣《かい》|間《ま》見た気がした。
彼は斜面を登りきって、墓地に着いた。
どの墓石も、火に焼けて黒く|煤《すす》けていた。|卒《そ》|塔《とう》|婆《ば》は燃え尽き、横倒しになっている墓も多い。墓地を歩いていると、五輪塔のところに出た。坊之宮の先祖の塚だ。これもまた、表面が黒く焼け|爛《ただ》れている。
五輪塔の前の空地には、|土饅頭《どまんじゅう》がいくつも並んでいた。それぞれの盛土には、墓標代わりらしい、子供の頭ほどの石が置かれていた。その黒い盛土は、累々と横たわる焼死体を連想させる。顔をしかめて、あたりを見回した昂路は、土饅頭のひとつが、美しい色の紙に覆われているのに気がついた。重しの小石を四隅に載せられた大判の紙が、木枯らしの中ではためいている。昂路は、その土饅頭の前に歩いていった。
不思議な色の紙が、弱々しい冬の日射しを柔らかく|撥《は》ね返している。黄色、浅黄色、紫色、|茜色《あかねいろ》、|萌《もえ》|黄《ぎ》|色《いろ》、柿色、青色。一枚の和紙に、七つの色が細い繊維となって絡み合っている。どの色も上品で、黄色から青へと流れるように変化している。土佐七色紙。草木の七色を一枚の紙に|漉《す》きあげたのだ。
きっと、これが美希の墓なのだろう。誠一郎が彼女の願い通りの紙を漉いたのだ。
昂路は、旅行バッグを地面に置いて、土饅頭の前にしゃがみこむと、その薄い紙を触ってみた。柔らかで優しい感触が伝わってきた。
昂路は、首を巡らせてあたりを眺めた。
墓標の向こうは、夕日に染まった茜色の空が広がっていた。谷底から、風が吹きあがってくる。焦土の上に伸びた草が、ざわざわと揺れている。
確かに、ここは空に近い。今にも、飛んでいけそうな気がしてくる。
この地に立ち、空に飛びだすことを願っていた美希のことを想った。一緒に飛んでくれる相手を見つけたと思ったのに、幸福な未来は闇に溶けていった。
だが、昂路は、美希の話に納得したわけではなかった。
彼女は、倒れてくる地蔵から逃げるべきだったのだ。生きていれば、まだ幸せになる機会はあったはずなのだ。
だいたい、腹の子が|鵺《ぬえ》である確証はない。いいや、鵺と考えるほうがおかしい。人の子は、人に決まっている。
晃が獣になったというのも信じられなかった。たぶん、火事場の馬鹿力といったもので、晃はとっさに美希を抱いて逃げたのだろう。美希は、死の恐怖と、息子が晃だったという事実に、興奮状態だったはずだ。それが|闇《やみ》の獣の錯覚を引き起こした。
美希が死ななければ、ちょうど今頃、子供は生まれていたはずだ。生きていればよかったのだ。普通の子だとわかっただろうに。
彼女は死ぬことはなかったのだ。
昂路は悲しい気分で、美希の墓石の前で|黙《もく》|祷《とう》した。
ざっ……ざっざっ。|瞼《まぶた》の裏の闇に、かすかな音が響いた。土のこぼれるような小さな音が続く。
昂路は目を開いた。
黒い|土饅頭《どまんじゅう》と、五輪塔。その向こうに墓石が散らばっている。風が墓地を吹き抜けていく。あたりは薄闇に包まれようとしている。
ざざっ……ざっ、ざざざざっ。
音は、七色紙を伏せた美希の墓の底から湧いてくる。昂路は、そっと和紙を取った。
和紙の下で、土饅頭が動いていた。
生きている|瘤《こぶ》のように、どくんどくんと鼓動している。
土の表面に幾筋もの亀裂が入った。地面の裂け目から、漆黒の闇が河のように流れでる。
昂路はその場に凍りついた。額に汗が|滲《にじ》む。七色紙を持つ手が震える。
夕日の最後の光を浴びて、赤岳がどす黒い血色に光っていた。|山稜《さんりょう》を縁取る光が消えていく。夜の|帳《とばり》が降りてくる。彼が知っているどの夜よりも、暗い夜が広がっていく。
瘤のような土は次第に盛りあがってきた。
「びゃうびゃうびゃう」
奇怪な鳴き声が足許で湧いた。盛土がこぼれ落ちる。地中から何かが|蠢《うごめ》きでてくる。
昂路は喘ぐような息を洩らした。
まさか。まさか……そんなことが……。
ごぼりっ。土饅頭がはじけて、冥い夜空に赤子の産声が響き渡った。
|狗《いぬ》|神《がみ》
|坂《ばん》|東《どう》|眞《ま》|砂《さ》|子《こ》
平成13年1月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Masako BANDO 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『狗神』平成8年12月25日初版刊行
平成11年11月30日13版刊行