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作者: 当前章节:15391 字 更新时间:2026-6-23 00:46

 家の南の細長い庭は、尾峰の村落を見下ろす位置にある。コンクリート塀沿いに植えられた、南天や|無花果《いちじく》の木の上に広がる朝焼けの空を硝子戸越しに眺めながら、美希は、|富《とみ》|枝《え》の居室の前を過ぎた。早起きの母なのに、今朝はまだ寝ているらしく、ひっそりしている。次の部屋が、兄の道夫とその妻、|百《もも》|代《よ》の寝室だ。こちらの障子もぴたりと閉ざされ、起きている気配はなかった。

 廊下の突きあたりの引き戸を開けて台所に入ると、銀色のステンレスの流し台が静かに人の訪れを待っていた。

 三年前、|甥《おい》の博文が結婚して、別棟を新築した時に、家の台所も改造した。おかげで大正時代に建てられたこの古い家敷の中で、台所だけは近代設備を誇っている。

 美希は台所を抜けて、玄関脇の納戸に入り、洗濯したばかりのタオルを数枚取ると、洗面所に行った。

 |風《ふ》|呂《ろ》場や便所と一緒になっている洗面所は、この家と博文夫婦の家とを結ぶ渡り廊下に接している。

 美希は、タオルを洗面所の入口に置くと、蛇口をひねった。冷たい水を両手で受け止めて、ざぶざぶと顔を洗う。眠気とともに昨夜の悪夢を洗い流したかったのに、心の|襞《ひだ》にこびりついた夢の|片《へん》|鱗《りん》は落とせはしなかった。

 |闇《やみ》の中に漂う赤子の姿が、今も脳裏にぺたりと|貼《は》りついている。

 美希は濡れた顔を、タオルで強く拭いた。何かしていないといられない気分だった。タオルを洗濯籠に投げこむと、渡り廊下からつっかけを履いて外に出た。

 渡り廊下は、坊之宮家西側の|築《つき》|山《やま》に面している。美希の祖父が丹精こめて造ったという庭だった。客間からの眺めを考えて、小さな池の周囲に、岩や、松の木や|楓《かえで》、雪柳などが配されていた。

 築山の前を通り、表門に向かっていた美希の目が、|木瓜《ぼけ》の木で止まった。肉厚の赤い花が、茶色の枝に無数に咲いている。一羽の|頬《ほお》|白《じろ》が|嘴《くちばし》で花びらをちぎっていた。

 美希の顔がほころんだ。

 いつもの朝ではないか。何をびくびくしているのだろう。悪い夢を見ただけだ。

 美希は両腕で自分の胸を抱きしめて、天を見上げた。淡い|茜色《あかねいろ》の雲が浮かんでいる。

 そうだ、ただの夢。

 美希の心の中で、別の声がした。

 でも、あれは、あの子ではないのか。

 彼女は息を止めた。

 あの子だ。生まれてすぐ死んだ、あの子。

 内なる声が|囁《ささや》き続ける。

「ああああん、あああん」

 突然、赤子の泣き声が庭に響いた。

 美希は、はっとして、あたりを見回した。泣き声は築山の空気を震わせて、渡り廊下の先の小さな二階建ての家から流れてくる。

 彼女は肩の力を抜いた。

 |甥《おい》の子供の英一だった。朝早くからむずかっているのだろう。

 美希は、その声から逃れるように築山に背を向けて、客間の角を曲がり、家の玄関に出た。灰色のコンクリートの門に、新聞受けが置かれている。その中を|覗《のぞ》いた美希は、おや、と思った。

 空だった。いつもなら、この時間にはとうに配達されている。今日は平日の月曜日。新聞の休刊日ではないはずだ。

 美希は門の前に立って、きょろきょろした。早朝の村道はひっそりしている。番所山から吹き下ろす風に頬を|撫《な》ぜられ、美希は、ふと山のほうを見上げた。

 石垣の上に、坊之宮の本家がそそり立っていた。美希の家も、尾峰では大きなほうだが、昔は庄屋だったという本家はさらに立派だ。|漆《しっ》|喰《くい》塗りの土蔵を二つ従えて、この石の|要《よう》|塞《さい》のような村の頂点に居座っている。二階の窓が開いているのを見ると、本家の者も、もう起きているようだった。

「ごめーん。待ちよったがかねぇ」

 大きな声に振り向くと、坂道をミニバイクが上がってきていた。ヘルメットをかぶった小太りの女が運転している。毎朝、尾峰の各戸に新聞を配っている、ふさだ。

「すまんねぇ。遅うなってしもうて」

 ふさは、しきりに申し訳なさそうにしながら、新聞を美希に渡した。

「どうかしたがですか」

 美希が聞くと、ふさは顔をしかめた。

「寝坊したがよ。ゆうべ、|鶏《にわとり》がうるそうて、よう眠れんかったきに」

「夜、鶏が……」

 ふさはバイクのエンジンをかけたまま、丸々とした指先で眠そうに目をこすった。

「そうなが。うちんくの鶏、夜鳴きしたことらぁ、一遍もなかったに」

「山犬でも出たがかもしれませんね」

 ふさは大きな|瞳《ひとみ》を見開いて、真顔になった。

「それがね、気味が悪いがじゃき。今朝、見たら、鶏小屋のある畑に、こんな大きい足跡があったがよ」

 と、両手で|西《すい》|瓜《か》ほどの輪を作った。美希が|眉《まゆ》をひそめると、ふさは怒ったように続けた。

「山犬としたら、たまあ大きい犬やわ。どっちにしろ鶏小屋の金網、しっかりしたもんに替えちょかにゃいかん。よう卵を産んでくれる鶏じゃき、喰われたりしたらたまらんき」

 ふさは一気にまくしたてると、バタバタとバイクをけたてて村道を上がっていった。

 美希は苦笑しながら、その姿を見送った。

 何事につけても、おおげさに騒ぎたてるふさの言葉だけに、あまり真剣には受け取れなかった。

 台所に戻ると、新聞を食器棚の上に置いて、早速朝食の準備にとりかかった。昨夜のうちに米をといで用意しておいた炊飯器のスイッチを入れる。|味《み》|噌《そ》|汁《しる》用の大きな|鍋《なべ》に水を張ってガスにかけたところで、がたん、と音がして、廊下に続く引き戸が開き、兄嫁の百代が起きてきた。むっちりと肉のついた長身をネグリジェに包み、カーディガンを羽織っている。

「あら、おはよう」

 百代は|欠伸《あくび》をしながら、返事代わりに|頷《うなず》いてみせた。そのまま流しに直行すると、水道の水をコップに汲んで、一気に飲み干した。

「ああ、悪い夢、見てしもうた」

 百代は胸元を押さえて、顔をしかめた。

「お|義姉《ねえ》さんも」

 美希は思わず大きな声をあげた。

 だが百代は、その質問の意味には気がつかなかったようだ。食器棚の上の新聞を取ると、台所の続きにある茶の間に入って、腰を下ろした。

「いやな夢やったわ。ずっと昔のことが出てきて……」

 百代は|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》に|頬《ほお》|杖《づえ》をついて、独り言のようにいった。

 美希は、大鍋に煮干しを入れながら、百代の悪夢とは何だったのだろう、と思った。ずっと昔のこととは、結婚する前のことだろうか。

 百代は、|伊野町《いのちょう》から嫁いできた女だ。年をとって、顔の肉も|弛《たる》んできた今の姿からは想像もつかないが、道夫と交際中は、濃い化粧に派手な|恰《かっ》|好《こう》をして家に訪ねてきて、家族の|度《ど》|胆《ぎも》を抜いたものだった。かなり深い関係のあった男にふられた腹いせに、年下の道夫に手を出したという|噂《うわさ》もあった。

 どんどんと南廊下に足音が響いたかと思うと、次に兄の道夫が台所に現れた。筋肉質の体格で、白髪の混じりはじめた髪を短く切り|揃《そろ》えている。元来、無口な性格とはいえ、いつもは|挨《あい》|拶《さつ》くらいは交わすのに、今朝は美希が、おはよう、といっても、道夫は|喉《のど》の奥から|唸《うな》るような声を出しただけだ。

 道夫は、卓袱台に新聞を広げている妻の|鰻《うなぎ》のような背中を|一《いち》|瞥《べつ》すると、渡り廊下の先の洗面所に消えた。

 ふさにしろ、兄夫婦にしろ、今朝は誰もが寝覚めが悪いらしい。美希は、釈然としない気分で、冷蔵庫を開いて、朝食の|惣《そう》|菜《ざい》の材料を見つくろった。

 野菜炒めにしようと思い、|玉《たま》|葱《ねぎ》と|韮《にら》とハムを取って、流しに立つ。

 百代は、まだ悪夢のことが忘れられないらしく、しきりに胸元をぱたぱた|叩《たた》きながら新聞に視線を走らせていた。

 彼女は低血圧だといって、起きてすぐは動かない。それでも、三人の子供が小さい時は、頑張って朝早くから立ち働いていたが、末子の|満《みつ》|文《ふみ》が、美希の弟の芳男の家に居候して、高知市内の高校に通うようになると、早起きの習慣はさっさと取り止めてしまった。

 百代に手伝いを頼んでも、無駄だとわかっていた。結婚当初から、百代は、義理の妹の美希には横柄に振舞った。子育てが大変だから、食事はあんたが作ってくれ、洗濯物を畳む暇もないから、美希さんがやってね。百代は自分の子育てにかこつけて、美希に家事を押しつけてきた。|姑《しゅうとめ》の富枝には何かと気遣いを見せる百代だが、美希は自分の手足の一部と思っているかのようだった。

 父の|幹《かん》|一《いち》が亡くなり、道夫が家督を継ぎ、百代がこの家の主婦となると、ますます遠慮はなくなった。面とむかって命令こそしないが、美希がいる時は家事を怠ける。放っておいても、美希がしてくれると思っているのだ。美希も文句はいわないことにしていた。百代と対立すれば、自分の居心地が悪くなるだけだった。

「ああ、もう、こんな時間やぁ」

 元気な声がして、二階からショートカットの髪を乱した理香がばたばたと降りてきた。すぐに台所に顔を出すと、味噌汁の具を入れていた美希に、おはよう、美希さん、と笑いかけた。

 二十一歳になる理香は、色白の丸顔に大きな目の娘だ。百代譲りの勝気な性格だが、陰にこもってないので誰からも好かれる。幼い時から叔母のことを、友達のように「美希さん」と呼んでいた。

 百代は新聞を畳むと、冷蔵庫を|覗《のぞ》いている娘にいった。

「今日から仕事やゆうに、夜遅うまで起きちゅうきや。あんなにステレオの音、大きゅうして、近所迷惑で」

「寝坊したんは、そのせいやないわ。ゆうべはへんな夢ばっかし見て、よう眠れんかったがやき」

 野菜を刻んでいた美希の手が止まった。

 いったいどういうわけだろう。昨夜は誰も彼もが悪い夢を見たようだ。

 百代は新聞を折りたたんで畳の上に置くと、よっこらしょ、と立ちあがった。

「理由はなんやろうと、仕事中に居眠りだけはせんといてや」

「ええもん。どうせ今日は始業式だけや。仕事も半日で終わるき」

 理香は母の言葉を無視して、冷蔵庫から出したパンをトースターに押しこんだ。家族と一緒の御飯と味噌汁の朝食を嫌っている理香は、毎朝、自分で食事を作る。

 百代もようやく朝食の準備をする気力が|湧《わ》いてきたらしい。台所から|布《ふ》|巾《きん》を取って戻って|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》を拭きはじめた。

 理香が、インスタントコーヒーの瓶を開けながら独り言のようにいった。

「ああ、また一学期がはじまるわ。今年は、二人、新任の教師が来るゆうて聞いたけど、どんな人やろ」

「一人は、若い男の先生やよ」

 美希の返事に、理香が驚いたように聞き返した。

「どうして知っちゅうが」

 美希は少し優越感を覚えながら、熱したフライパンに刻んだ野菜とハムを入れた。

「昨日、尾峰で道を聞かれたがよ。永田さんのところに住むんやって」

「永田さんとこに」

 茶碗の用意をしていた百代が大きな声で聞き返した。

「なんでまた」

 池野村でアパートに入れなかったという、晃から聞いた話を告げると、理香が興味を持った様子で|訊《たず》ねた。

「どんな人やった、美希さん」

 昨日、会った青年の姿を思い出すと、|微笑《ほほえ》みが顔に浮かんだ。

「かっこええ人よ。皮ジャン着て、バイクに乗って……」

 理香が目をまるくした。

「暴走族みたいや」

 美希は噴きだした。

「ちがう、ちがう。暴走族やないわ」

「誰が暴走族やと」

 茶の間に戻ってきた道夫が、話に割りこんだ。

「池野中学の新任の先生なんやって」

 百代の言葉に、美希が慌ててつけ加えた。

「暴走族やないよ。お兄さん、間違わんといてや」

「そりゃ、中学の先生が暴走族やったら問題じゃ」

 道夫はどかりと卓袱台の前に座ると、いかつい|猪《い》|首《くび》にかけたタオルでまだ|濡《ぬ》れていた口のまわりを拭いた。

 炊飯器から白い湯気が立ちはじめ、スイッチがぱちんと切れた。美希は野菜炒めに手早く味つけして皿に盛ると、炊飯器を開けた。炊けたばかりの御飯を、まず仏様用に取り分ける。

 毎朝、仏様へのお供えを用意するのは、母の役目だった。いつもなら、この時間には台所に現れているのに、今日はどうしたのだろう。まだ寝ているのだろうか。

 美希は手を|濡《ぬ》らすと、炊飯器の真ん中の御飯を掌に乗せた。焼けるような熱さに顔をしかめながら、丸い団子のようなおにぎりを作る。昔はそば粉をこねて団子を作ったというが、最近では白米で代用している。出来上がった米の団子を四個ずつ、二枚の帆立貝の皿に盛って、盆の上に置いた。

「いかん、今日はもう四月七日か」

 新聞を見ていた道夫が、驚いたように|呟《つぶや》いた。そして、卓袱台に茶碗と小皿を並べている百代にいった。

「先祖祭りは、来月やないか。おい、来月のいつやろう」

 百代が茶の間の壁に|貼《は》ってあるカレンダーに目を遣ったが、唇をへの字に曲げた。

「そんなん、知らんわ。確か陰暦の四月の最初の満月の日やなかったっけ。とにかく日にちは、毎年、|頭《とう》|屋《や》が教えてくれるき心配いらんよ」

「今年は、うちが頭屋なんや」

 百代は薄い|眉《まゆ》をひそめて、あら、と声を|洩《も》らした。

 また先祖祭りがやってくるのか。

 一年が過ぎるのは、なんと早いのだろう。

 美希は、やかんをガスレンジに載せて、ため息をつきそうになった。

 先祖祭りは、坊之宮一族にとっては、年に一度の重要な|祭《さい》|祀《し》だ。尾峰出身の坊之宮の姓を持つ一族が一堂に会して、墓地にある先祖の塚に参り、そこで飲み食いする。毎年、回り持ちで、頭屋といって、祭りの準備にあたる家が決まっている。

 子供の時は、先祖祭りが楽しみだった。それは晴れ着を着て、|御《ご》|馳《ち》|走《そう》が食べられる日を意味していた。日頃は顔を合わせない高知市や伊野町に出て行った分家の子供たちとも、一緒になって遊べた。

 だが、大人になり、同世代の一族の男女が次々に結婚していくと、美希は自分がいつか先祖祭りの輪からはじき出されてしまったことに気がついた。男は、家を代表して、祭りに参加する。女は、当主の妻という立場を得る。子供でもない妻でもない美希のような女には、先祖祭りに参加する正式な資格がないのだ。

 たとえ美希が経済的に自立して一人暮らしをはじめても、頭屋が回ってくることはないだろう。女だからだ。尾峰では、家というものは、男が中心にいないと存立しない。結婚していない女が家を作ることはできない。

 それに気がついてから、美希は先祖祭りに対して、冷やかな感情しか抱けなくなった。

「こりゃ、早いところ、本家の隆直さんに日取りを聞かんといかんな」

「隆直さんが知っちゅうやろか。長老の治さんに聞いたほうがええがやないが」

 道夫と百代の話は続いていた。その横にコーヒーカップを持った理香が座って、はしゃいだ声をあげた。

「ねえ、お母さん。私、今年の先祖祭りは、着物にするで」

「勝手にしいや。それより、あんた、満文には、先祖祭りには絶対、戻るがやと、きっちりゆうちょいてや。あの子ゆうたら、高知の高校に行きだしてから、めったと家に顔を出しもせん」

「なに、芳男が連れて来るわ。それより、隆直さんとは一遍、話して、坊之宮の分家連中の連絡先を聞かにゃいかんのうし。博文にも手伝うてもらわんと間に合わんぞ」

 美希は仏様に供える貝皿の盆を持つと、|賑《にぎ》やかな兄の家族の会話に背を向けて、台所を出た。

 庭に面した硝子戸から入ってくる日射しが、廊下を|艶《つや》やかに照らしている。兄夫婦の部屋の障子が開け放しになっていた。中を|覗《のぞ》くと、まだ布団が敷かれたままだ。

 美希は乱れた敷布から目を|逸《そ》らせて、隣の母親の居室の前に立った。

「お母さん、おはよう」

 声をかけたが、返事はなかった。美希は、そっと障子を開けた。

 六畳の部屋に、布団が敷かれている。しかし寝床は空だった。慌てて起きたように、掛け布団がぺろりと白い腹を見せてめくれている。いつもきちんとした母に似つかわしくなかった。

 部屋を見回すと、奥の仏間との|境《さかい》の|襖《ふすま》が半間ほど開いているのに気がついた。起きたその足で、仏間に行ったのだろうか。美希は部屋に入ると、仏間に近づいた。開いた襖の間から、薄暗い三畳の間が見える。

「おるの、お母さん」

 美希は仏間に足を踏み入れた。

 明かりもつけずに、母が座っていた。桜の木で作った大きな仏壇の前で、身じろぎもせずにへたりこんでいる。寝巻き姿で、頭頂の薄くなった髪の毛も乱れたままだ。背中を丸め、首を突きだしたその様子は、|薄《うす》|闇《やみ》に巣くう影法師のようだ。

「どうかしたの」

 美希は横に座って盆を置くと、母の顔を|覗《のぞ》きこんだ。力なく垂れた四角い|顎《あご》。半ば開いた口から吐かれる荒い息。いつもの|毅《き》|然《ぜん》とした態度は消えている。

 彼女は母の肩を揺すった。

「お母さん、何があったが」

 富枝がゆっくりと美希に顔を向けた。隣室からの光に、母の顔が浮かびあがった。|皺《しわ》に囲まれた目が思い惑うように揺れている。口をもぐもぐと動かしたが、声がでないようだった。|喉《のど》に|痰《たん》の絡まった音がした。

「何やの、お母さん」

 富枝はごくりと|唾《つば》を|呑《の》みこんだ。そして、美希の顔をもう一度見ると、枯れ木のような手で顔を覆って|呻《うめ》いた。

「いや、なんちゃあじゃない」

「|嘘《うそ》、何かあったんやろ。何やの」

 母は頭を横に何度も振った。やがて手を|膝《ひざ》の上に下ろした時には、もう普段の頑固そうな顔に戻っていた。

「何でもない、いいゆうやろ」

 少し|苛《いら》|立《だ》った口調でいい返すと、横に置かれたお供えの盆に目を止めた。

「ああ、おおきに。仏様のお供えを持ってきてくれたがかえ」

 母は一枚の貝皿を取ると、仏壇に供えた。そして「先祖様之霊」と金文字で書かれた黒塗りの|位《い》|牌《はい》に向かって、両手を合わせた。

「御先祖様、坊之宮一族をお守りつかあさい」

 娘を無視した態度に、美希はそれ以上、問いただすのはあきらめて立ちあがった。

「朝御飯の用意、できちゅうきね」

 廊下に出たとたん、背後で、ぱたん、と小さな音がした。振り向くと、母が仏間の襖を閉めたところだった。すぐに中から、ぼそぼそと声が聞こえてきた。

「不動、釈迦、文殊、普賢、地蔵、弥勒、薬師……」

 善光寺念仏だった。昔から富枝は、心配事が起こるたびに、十三仏の名を順に唱えるこの念仏を|捧《ささ》げてきた。

 今回は、何が母をあれほど動転させたのだろう……。

 美希は|憂《うれ》いを含んだ顔で、閉ざされた仏間を見遣った。暗い仏間から|洩《も》れる母の念仏は、太陽の日射しの降りそそぐ廊下へと静かに流れ続けていた。

   3

『|乾《いぬい》医院』と書かれた玄関の硝子戸を押して、中に入った。上がり口の横に重ねられた赤いスリッパを引きだしていると、|衝《つい》|立《たて》で仕切られた待合室から、男のしゃがれ声が聞こえた。

「まっこと、ゆうべは、いやな晩じゃった」

 ここでも昨夜のことを話している。スリッパを履いていた美希の胸に、漠とした不安が広がった。

 富枝は奇妙な態度をとり続けていた。朝食も断り、思い悩む顔をして縁側から庭を眺めていた。気になった美希は、仕事に行くのは午後からに決めて、午前中は母の様子を|窺《うかが》って過ごした。昼頃になって富枝は、今日は病院に高血圧の薬をもらいに行く日だといいだしたが、その気力もなさそうだったので、美希が仕事場への道すがら立ち寄ることにしたのだった。

「次から次に変な夢を見ましての」

 話し声は続いている。美希が衝立の向こうに行くと、L字形に並んだビニールの|長《なが》|椅《い》|子《す》に、四人、座っていた。一人は味元で、いつもの|杖《つえ》を玄関に置いているらしく、手持ち|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》に手を|揉《も》んでいる。どこも悪いところはなさそうな味元がここに居ても、美希は驚かなかった。きっと、村一軒のこの病院に不備はないか、偵察がてら来たのだろう。

 彼の隣にいるのは、毛糸の肩かけを羽織った「お琴さん」と呼ばれている老女だ。何かにつけて病院に来ている常連で、たまに母の会話に出てくるので名を知っていた。あとは、足に包帯を巻いている初老の男、そして、百代くらいの年頃の花柄のエプロン姿の女だ。二人共、顔は知っているが、名前は思い出せなかった。

 話していたのは、足に|怪《け》|我《が》をした男だったが、待合室に入ってきた美希に気がついて、言葉を切った。美希は一同に|会釈《えしゃく》をして、受付の前に行った。

 受付の女に、薬をもらいに来たことを告げると、相手は眼鏡ごしに美希の顔を見た。

「今日は、お母さんじゃないがですか」

「ええ。母はちょっと具合が悪うて」

「あれまあ、どうかしたがですか」

 美希は、ふさぎの虫なのだ、と答えて、長椅子の隅に座った。|膝《ひざ》の上に愛用の|籐《とう》製の|手《て》|籠《かご》を載せて、背もたれにくつろぐと、味元が途切れた会話を引き取った。

「わしも、ゆうべは怖い夢を見たぞ」

 その場の者の視線が、彼に集まった。花柄のエプロン姿の女が、ポケットから鼻紙を引き出しながら聞いた。

「どんな夢でしたぞね」

 味元は唇を舌で湿した。

「わしゃあ昔、殺生人やったろう。|猪《いのしし》やら|鹿《しか》やら|撃《う》ちよったが、九百九十九匹目で止めたがじゃ。千匹目の殺生の時に、おかしげなことが起きるゆうけにのう。ほいたところが夢の中で、わしゃまた鉄砲を持って山に行きよった。それも真夜中よ。山ん中の猪の水浴び場で、じいっと泥の中に伏せて、何ぞ出てくるか、待ちよった。体が骨の|芯《しん》から|冷《ひ》ようて、たまらんがぞぇ。けんど、じれたらいかん、待たにゃいかん、思いながら、どれっぱあ待っつろう。まっ暗闇に、だんだか足音がしてきた。千匹目の獣じゃ。わしが鉄砲を構えて待ちよったら、木をたいちゃ揺るがして出てきたがやけんど、それがたまるか」

 味元は言葉を切った。

 その場にいた者が、興味をそそられたように味元の口許を見つめた。

「何やったがぞね」

 琴がこわごわ聞いた。

 味元は、にやりと笑った。頬の|皺《しわ》が波のように寄った。

「うちの死んだお婆やったぞ」

 その場の者は、笑っていいのか、怖がったほうがいいのかわからず、困った顔をした。しかし味元は冗談のつもりだったらしい。一人でからからと笑った。

 エプロン姿の女が、大きな音をたてて鼻をかんだ。

 長椅子の上で正座していた琴が、居心地が悪そうに|膝《ひざ》を崩していった。

「誰ぞ、昨日の夜の空を見ましたかの」

「いやあ、見ちょらんが」

「あてもゆうべは、夜中にぱっちり目が覚めたがですらぁ。もう十二時もとっくに回っちょった頃でしたろう。ひょいと窓の外を見たがやけんど、それがえらい暗いがですら。ただの夜やない。それより、まっとまっと、炭で塗り|潰《つぶ》したみたいに暗かったきねぇ。あてはおとろしゅうなって、布団をひっかぶって寝えてしもうたけんどねぇ」

 琴は寒気を覚えたのか、毛糸の肩掛けを引きあげた。

「夜は暗いに決まっちょりますよ」

 そっけなくいって、鼻紙を丸めて屑箱に投げ捨てたエプロンの女に、琴は静かに向き直った。

「おまさん、|高《たか》|市《いち》から嫁いできたがですろ」

 女はためらいがちに|頷《うなず》いた。琴は|足袋《たび》の先を|揉《も》みながら、|諭《さと》すように続けた。

「尾峰は、高市みたいに谷の底やない。空に近いきに、まっと明るい夜になりますらぁ。けんどゆうべの夜は普通やなかった。見たこともない暗闇が、そこらへんに|湧《わ》いてでよった。まあ、こんなことは、尾峰に生まれた者にしか、わかりゃせんですろうがの」

 琴は、高市から来た女を哀れむようにいった。エプロンの女は不満気な顔をした。

「坊之宮さん。お薬、できましたよ」

 受付から声が響いた。

 美希は立ちあがると、受付に歩いていった。そして受けとった薬を籠に入れると、皆に|会釈《えしゃく》して、待合室を出た。

 医院の硝子戸を閉めると、美希は、ほっとした。もう昨夜の話はたくさんだと思った。彼女は、待合室での会話を払い落とそうとするように長い黒髪を揺らすと、村道を下りはじめた。

 午後のぽかぽかした陽気の中、子供たちが路上で陣取りをして遊んでいる。道端の畑では、頭に白い|手《て》|拭《ぬぐ》いをかぶった女が新しい|畝《うね》に種を|蒔《ま》いていた。

 いつも通りの平和な村の風景に、美希の心も軽くなってきた。

 坂道を曲がったところに、永田栄作の家が見えた。道路の縁から宙に張り出して立つ小さな家だ。尾峰の道路脇の家によく見られる造りで、二階が入口になっている。

 家の青く塗られた板壁の前に、晃のバイクが止まっていた。もう学校から帰ったのだろうか。理香が、今日は始業式だけだといっていたことを思い出しながら、家の前を通り過ぎようとした時、がらりと玄関の格子戸が開いて、晃が出てきた。丸首の草色のセーターに、ジーンズを|穿《は》いている。

 彼女を見て、晃の口許がほころんだ。

「こんにちは、美希さん」

 昨日、自分の名を告げた覚えはなかった。驚いている美希に、晃はつけ加えた。

「|姪《めい》ごさんにお会いしましたよ」

 理香から名前を聞いたのだ。理由がわかると、当然のことだった。

「|手《て》|漉《す》き和紙を作っているそうですね」

「あの子、そんなことまで話したがですか」

 晃は、ジーンズのポケットに両手を突っこんで、美希の表情を|窺《うかが》うように聞いた。

「一度、見せてもらえませんか。和紙作りの現場なんか、まったく知らないんです」

 美希は手を横に振った。

「現場なんて、おおげさなもんじゃないですよ。一人でこつこつ漉いているだけで。奴田原先生が見たら、がっかりすると思います」

 笑いに紛らせようとした美希の目が、晃の視線とぶつかった。黒い|瞳《ひとみ》が揺るぎなく自分を見つめている。彼女は落ち着かない気分になった。

「いつでも、いらしてください。どうせ毎日、やりよりますから」

「じゃあ、今日も?」

 美希が|頷《うなず》くと、晃は、ちょうど|暇《ひま》|潰《つぶ》しに村を散歩しようと思っていたところだから、見てみたいといいだした。

「ええ、どうぞ、おいでください」

 美希は戸惑いながら答えた。

 晃はポケットに手をつっこんだまま、彼女の横に並んで歩きだした。

「昨夜、よう眠れましたか」

 美希が聞くと、晃は気持ちよさそうに空を見上げた。

「ええ。ぐっすりと。どうしてですか」

 美希は慌てて言い訳した。

「引っ越したばかりだと、寝つかれないがやないかと思うたんで……」

 晃は苦笑して、かぶりを振った。

「引っ越しには、小さい頃から慣れているんです。父が四国電力に勤めていましてね。四国のあちこちを転々として育ちましたから」

「ほんなら、いろんな町で生活したがですね。なんだか楽しそう」

「子供の頃、引っ越しが多いってのは、あんまりいいことじゃないですよ。転校生というだけで|苛《いじ》められたりしたから」

 晃はぶっきらぼうに応えた。

 あまり、楽しい子供時代ではなかったような口ぶりだった。

 永田の家から二十メートルほど行くと、村唯一の商店街に入る。店屋の前を通り過ぎると、買物客や店の者の視線が二人に集まった。男性と連れ立って歩いていることを、口さがなくいわれるかもしれない。美希の頭にそんな考えが|過《よぎ》り、すぐに馬鹿げたことだと打ち消した。

 四十を超えた女が二十代の男と歩いているだけで、誰が|噂《うわさ》するだろう。

 村人が見ているのは、晃だ。尾峰に来た新しい人間だからだ。

 美希は自分の自意識過剰ぶりがいやになって、足を早めた。晃が悠々とした足どりでついてくる。やがて昨日、晃と出会った、林道との合流地点に出た。

 林道を横切る時、晃ははじめて気がついたように、斜面の上に目を止めた。

「こんなところに墓地があったのか」

「うちの坊之宮のお墓です」

「ずいぶん大きいんですね」

 彼は林道の縁に立つと、|筍《たけのこ》のように突きだした墓標を眺めた。

「奥のほうに五輪塔がありますね。普通の墓じゃないみたいですが」

「御先祖様の塚です」

 晃は、額にかかる髪を手で払いながら、美希を振り向いた。

「何ですか、それは」

「あの塚には、尾峰を切り開いた坊之宮家の御先祖様が眠っておられるがです」

 彼女は、子孫の長方形の墓石を従えるように、墓地の中央に立つ五輪塔を見遣った。そして、今朝の兄夫婦の会話を思い出して、つけ加えた。

「私たち一族は、毎年一回、あそこに集まって、御先祖様の霊をお|祀《まつ》りするんです。先祖祭りとゆうてますけど」

「先祖祭り?」

 晃は|訝《いぶか》しげな顔をした。

「僕の家には、そんな祭りはないな」

「このあたりでも全部の家が先祖祭りをするわけじゃないです。うちは尾峰では一番古い家やき、まだ|律《りち》|儀《ぎ》にやりゆうがでしょうねぇ」

 美希は、墓地の東の杉林に続く道に、晃を案内した。

「仕事場は、その道の先なんです」

「お墓の下ですか」

 晃がおかしそうに聞いた。

「一族のお墓ですもの。怖いことはありません」

 美希は澄まして答えると、先に立って杉林に足を踏みいれた。薄暗い木立の間に、車がやっと通れるほどの狭い山道がくねくねと延びている。冷たい空気が肌を刺す。|木《こ》|洩《も》れ日が下生えの|羊歯《しだ》を照らし出し、林の底を濃淡のある緑色で彩っていた。

「美希さんは、尾峰で生まれ育ったんですか」

 隣に並んだ晃が聞いた。

「そうです。ここで生まれて、ずっとここにおります。外に出たのは、短大に行った二年間、高知市に下宿していた時だけです。ほんと、どこにも出ていったことはありませんね」

「でも、旅行くらいはしたでしょう」

「短大の時、友達と屋島に行ったくらい。中学の修学旅行も|道《どう》|後《ご》温泉やったし。私、四国から出たことがないがですよ」

 美希は、晃の驚いた様子に気がついて|微笑《ほほえ》んだ。

「そんなに珍しいことじゃありません。尾峰は山深いところですき、明治時代に入ってからも、海も見んで一生を終える村人は多かったといいますから」

 晃はあきれたようにいい返した。

「でも今は、海外に行くのが普通だって時代ですよ。車も飛行機もある。四国から出たこともない人は珍しいですよ」

 美希は、杉の小枝の散らばった地面に視線を落とした。

「短大を卒業して、この村に戻ると、仲の良かった幼な|馴《な》|染《じ》みは結婚したり、村を出たりして、一緒に旅行に出る友人もおらんようになってました。母が出不精のたちなので、その血を受け継いだのかもしれません」

「でも、高校の修学旅行で、九州か、京都かに行ったでしょう」

 その言葉は矢となり、心に突き刺さった。

 彼女の唇が引きつった。

「高校の時は、ちょっと病気したもので、行けなかったんです」

 美希の脳裏に、昨夜、見た悪夢が浮かんだ。首に|臍《へそ》の緒を巻きつけていた赤子の姿。

 生まれてすぐ、死んでしまったあの子……。

 彼女は|爪《つめ》が肉に喰いこむほど拳を握りしめた。ちがう、あの子ではない。美希は、心の中で叫んだ。

「僕もそうですよ」

 晃の返事が耳に飛びこんできた。彼女はとっさに何のことかわからなかった。

 彼は大きな黒い|瞳《ひとみ》で遠くを眺めた。

「高校の時、僕は荒れてましてね。バイクを乗りまわし、夜遅くまで外で酒を飲んだり、煙草を吸ったりして。まあ、問題児だったんですよ。それで停学処分をくらって、修学旅行も行けなかった」

 今の晃の穏やかな顔からは、そんな思春期は想像もつかなかった。しかし、その鋭く輝く|瞳《ひとみ》や、意志の強そうな唇、がっちりした|顎《あご》の線に、若い頃の晃の危険な野獣のような|匂《にお》いが残っている気がした。

 彼は、美希の視線に気がついて、照れた顔をした。

「つくづく馬鹿だったなと思うんだけど、あの頃、やけに両親に反抗してね。両親は、僕のことを少しもわかってくれないと恨んでいた。……でも、親といっても、別の人間だ、自分のことを理解してくれなくても、当然なんだと考えたら、ふっ切れた。それで一浪して、東京の大学に入ったんです」

 在学中に定年を迎えた父親が、高知市内に家を買って住みはじめた。そこで大学を卒業すると、高知県の教員採用試験を受けたのだという。

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