「兄がいるけど、高松で就職して結婚した。今から親の面倒を見ると決めているわけじゃないんだけど、なんとなく傍にいてやろうと思って、高知に帰ってきたんです」
「いい息子さんを持って、ご両親、幸せね」
晃は肩をすくめた。
「高校の時、あれだけ心配させた罪滅ぼしの気分ですよ」
|二《ふた》|股《また》になった道を右手にとって少し行くと、杉木立が切れて芝の生えた細長い庭に出た。庭は、池野川の流れる谷を見下ろす低い|崖《がけ》で切れている。庭に面した|萱《かや》|葺《ぶ》き屋根の小さな農家を指さして、美希はいった。
「ここが、私の仕事場です」
晃は、へえっ、と|呟《つぶや》くと、興味をそそられたように庭を横切っていった。
平屋の家の向こうには、資材置き場があり、その横を小さな川が流れている。川は、家の先で高さ五メートルほどの滝になって、さらに下に続く段々畑へと流れこんでいた。
「小川つきとは|贅《ぜい》|沢《たく》ですね」
晃は冗談っぽくいって、美希を振り向いた。
「和紙作りには、水が大切なんです。ここは日当たりもいいし、仕事場としては最高です。もとは|大《おお》|伯《お》|父《じ》夫婦の家やったがですが、二人とも亡くなると、住む人がおらんようになりましてね。尾峰を出てしもうた子供さんたちが、売りたいといいだしたので、譲ってもろうたがです」
川の一角に、洗濯場のような小屋が作られていた。紙の原料となる|楮《こうぞ》や|三《みつ》|椏《また》を洗う場所だ。セメントで固められた洗い場の横を、ごぼごぼと音をたてて澄んだ水が流れている。晃は、川から正面の谷へ、そして家の背後の杉林へと視線を移していくと、最後にため息をついた。
「こんなところで仕事ができるのは|羨《うらや》ましいな」
自分の気に入っている場所を|褒《ほ》められて、美希は|嬉《うれ》しくなった。
「中を見ますか」
弾んだ声でいうと、彼女は家のほうに引き返した。
手にした籠の中から|鍵《かぎ》を出し、錠をはずして、縁側の隣の木戸を開ける。黒ずんだ木戸が、がたがたと音をたてて敷居を滑り、八坪ほどの土間が現れた。
土間は、美希がここを仕事場にした時に少し改造してあった。板の間を取り払い、紙|漉《す》きの用具を置いている。しかし、裏の林に面した小窓から射しこむ光は弱く、中は薄闇に包まれていた。
「すみません、今、雨戸を開けます」
美希は、作業台に籠を置いて、土間から茶の間に上がった。板張りの茶の間と、四畳半と三畳の和室二間だけのこぢんまりした家だ。すべての部屋の雨戸を開け放てば、家の隅々にまで光が届く。
美希が明るくなった土間に戻ると、晃は、もの珍しそうにあたりを見ていた。
土間の北は、小さな台所設備と食器棚、紙の染料や材料見本を置いた棚が並んでいる。東の壁には、水洗い場、紙を漉くための水槽、そして圧搾機が置かれ、土間の中央には、大きな木の作業台が設けられていた。
「ここが、和紙工房なんですね。はじめて見ましたよ」
晃の言葉に、美希は微笑んだ。
「和紙工房といえるほどのもんじゃないです。作る量も多くはないし。和紙作りは、けっこう重労働ながです。原料の|楮《こうぞ》や|三《みつ》|椏《また》を、何度も洗って|埃《ほこり》を取って、叩いてどろどろにするまでが面倒でね」
美希は、土間の壁際にある四角い木の水槽を晃に示した。
「そうして作った原料を、この舟の中で、とろろあおいの根から作った|糊《のり》と混ぜ合わせるがです。それでやっと紙|漉《す》きに入ります」
よくわからない顔をしている晃のために、美希は壁にかけていた|簀《す》を取った。簀は、|簾《すだれ》を長方形の枠の底に敷いたような形のものだ。それを今は空の漉き舟の中に入れて、揺する真似をした。
「こうしたら、原液の中に溶けていた紙の繊維が、簀の細い竹ひごの目の上に|溜《た》まります。それで紙の厚さが均一になるまで揺すって、引きあげるがです」
美希は、次に漉き舟の脇の木の台の前に立った。そこには、昨日、漉いた紙がまだ|濡《ぬ》れたまま重ねられている。
「できた和紙は、この|紙《し》|床《と》で一晩置くがです。それを、次の日に……」と、美希は濡れた紙を木の底板ごと抱えあげて、圧搾機の台に持っていって載せた。
「水気をゆっくり押しだして、その後、紙を乾かして出来上がりです」
晃は、紙の上に板を載せ、圧搾機のレバーを回す美希を見つめていた。
「ここのあたりは、昔から和紙作りの盛んだった土地なんでしょう」
「ええ。原料になる楮や三椏が山で採れますきにね。昔は、それを家で蒸して、皮を|剥《は》いで乾かしてから、町に売りに行っていたゆうことです。その頃から、このへんにも和紙|漉《す》きの家が、ぽつぽつあったといいます」
「材料が自生してるのなら、美希さんも原料から作るといいのに」
美希が噴きだしたので、晃は|怪《け》|訝《げん》な顔になった。
「楮や三椏を蒸して、皮を剥ぐゆうのは、そりゃあたいへんな作業なんです。今は池野村の和紙工場から、下処理したものを分けてもらいよりますけど、全部自分とこでやるとなると、女手ひとつじゃ、できません」
「御主人は手伝ってくれないんですか」
理香は晃に、叔母が独身だとはいい忘れたらしい。美希は、圧搾機の下の和紙の湿り具合を指で確かめながら答えた。
「結婚はしてません」
晃は驚いたようだった。
「相手なら、たくさんいたでしょうに」
お世辞をいわれたのかと思ったが、彼は真面目な顔をしていた。
美希は低い声でいった。
「人生、なかなか思うようにはいかないものです」
「まだ、そんなこという年じゃないでしょう」
人生これからという青年が、折り返し地点を過ぎてしまった私をなぐさめようとしている。その|滑《こっ》|稽《けい》さが、美希の神経を|逆《さか》|撫《な》でした。
「私は、もう四十一です。いい年です」
「そうは見えませんよ」
「事実よ。私の人生の花の時期は、もう終わってしもうた。今さら何もできやせん」
吐き棄てるようにいったとたん、美希は、はっとした。
自分は、この年若い青年を相手に何をぶつけているのだろう。心の底に秘めていた想いを、さらけだしてしまった。
晃は、彼女の言葉に驚いたように圧搾機の前に立っている。美希は恥ずかしくなって、目を伏せると土間の外に出た。
外は明るい午後の光に満ちていた。谷底を流れる池野川が銀色に光っている。
彼女は庭に立って、大きな息を吐いた。
どうして、あんなことをいってしまったのだろう。苦い思いが湧きあがった。
美希は、自分の感情を隠すことは上手だった。百代との同居がうまくいっているのも、そのおかげだ。なのに出会ったばかりの青年に心情を|露《あらわ》にしてしまった。
「そんなこというの、美希さんには似合いませんよ」
気がつくと、隣に晃が立っていた。
「だいたい、あなたを見て、誰が人生半分終わった人だと思いますか。そんなにきれいで、まだ若い……」
美希は硬い表情で彼の言葉を遮った。
「奴田原先生こそ若いでしょう。私は、もう年をとってしまいました」
晃は目を細めると、空の|裾《すそ》に打ち寄せた緑の波のような山の|稜線《りょうせん》を見つめた。
「年齢とは、数量で計れないものじゃないですか。時々、僕こそ、自分がものすごく年寄りの気がしますよ」
引き締まった鼻筋から|顎《あご》、|喉仏《のどぼとけ》にかけての線が、石の彫刻のように太陽の光を|撥《は》ね返す。このまま彼の美しい横顔を見ていたら、自分がまだ二十歳そこそこの娘のような錯覚に陥ってしまいそうだった。美希は晃の顔から目を|逸《そ》らせた。
「いやね。奴田原先生。私のほうがずっと年上です。からかわんといてください」
晃は首を横に振ったが、それ以上、何もいわなかった。
ばきばきばき。地面の小枝の鳴る音がしたと思うと、狭い山道から白い乗用車が現れた。車は、庭に頭を出して止まると、運転席のドアが開いて、一人の男が出てきた。カーキ色のジャンパーに、作業ズボン。|緩《ゆる》くパーマをかけた髪に紺の野球帽を被っている。
「あら、土居さん。ようこそ」
美希は慌ててお辞儀をした。
土居誠一郎は、晃に目を遣りながら、挨拶代わりに野球帽のつばに手をかけた。
「お客さんかね。美希さん」
美希が、池野中学に赴任した奴田原先生だと紹介すると、誠一郎は控え目に頭を下げた。
「土居です。池野で、和紙工場をやりよります」
晃が、ああ、と美希に顔を向けた。
「それじゃ、さっき話していた、紙の原料を分けてもらっている和紙工場というのは……」
「ええ、土居さんのところです」
二人の間柄がつかめなくて困った顔をしている誠一郎に、晃がいった。
「今、美希さんに、手漉き和紙の作り方を見せてもらっていたんです」
土居は一重の目を細めた。
「和紙漉きやったら、美希さんの腕は天下一品やきのう」
「もちろん土居さんの仕込みですきね」
美希がお世辞を返すと、誠一郎は野球帽の上から頭を押さえた。
「こりゃ、自画自賛になってしもうた」
誠一郎は大きな声で笑ったが、どこか落ち着かなげな表情で晃を見ていた。晃はそれを察したらしく、美希にいった。
「僕は、これで帰ります。また今度、ゆっくり見せてください」
美希の|喉《のど》|元《もと》まで、晃を引き止める言葉が出かかった。しかしすぐに、彼にも用があるかもしれないと思い直した。
「また、いつでもどうぞ」
晃は、わかった、というように|頷《うなず》くと、誠一郎に|会釈《えしゃく》して杉木立に向かった。
車の脇をすり抜け、山道に入る手前で、足が止まった。
「そうだ、美希さん」
晃が振り向いた。澄んだ|瞳《ひとみ》が、まっすぐ彼女を射た。美希はどきりとして、彼の顔に吸いつけられた。
「奴田原先生はやめてください。晃でいいですよ」
晃の白い歯がこぼれた。
そして彼は軽く手を振ると、|豹《ひょう》のようにしなやかな動きで杉林に消えた。
4
「都会者は、たいちゃ|馴《な》れなれしいのう」
誠一郎は、晃が消えていった杉林に背を向けて|呟《つぶや》いた。
「感じのええ先生ですよ」
美希が軽くいなして土間に入ると、誠一郎はむっつりとついて来た。
「今日は、今さっき、仕事に出てきたところでしてね」
そういって、圧搾機の下の紙を調べると、水気は切れている。もう乾燥に入ってもいいだろう。圧搾機のレバーに手を伸ばそうとした美希を、誠一郎が遮った。
「俺がやっちゃる」
誠一郎はレバーを緩めた。美希は、壁に立てかけていた、|襖《ふすま》ほどの大きさの木の板を持ってきた。その干し板を誠一郎が受け取った。
「ええですよ。土居さん。放っちょいてください」
「なに、手は多いほどええきに」
慣れた誠一郎の動きは早い。|濡《ぬ》れた和紙を、干し板の表と裏、四枚ずつ、|皺《しわ》ができないように刷毛で貼りつけていく。
彼はいつもこうだった。用のない時でも、ちょくちょく顔を出しては手を貸してくれる。かえって心苦しいのだが、好意を断ることもできない。美希にとって彼は恩人のような存在だった。
誠一郎の家は尾峰にあり、祖父の代から手漉き和紙を家業にしていたが、彼の父の代になると、池野村に土居製紙を設立した。従業員十人もいない小さな工場だが、手漉き和紙が見直されてから、けっこう注文が多い。
美希は、二十六歳の時、土居製紙に勤めはじめた。誠一郎は、美希より二歳年下だが、高校を出てすぐに和紙作りに入ったので、すでに一人前の職人になっていた。慣れない仕事に戸惑っている美希の面倒をなにかと見てくれたのは、彼だった。美希が独立を決意した時も、使わなくなった道具を回してくれたり、取引先を紹介してくれたりと、多方面にわたって世話になった。
「すみませんねぇ」
美希は謝るようにいうと、和紙を貼り終えた干し板を外に持ち出した。
まだ陽はあるが、天日では、夕方までには乾きそうもない。家の横にある資材置き場に入ると、中にある押入れほどの乾燥室に干し板を置いた。天気の悪い時や、時間のない時は、機械による熱風乾燥にしているのだ。
美希は、誠一郎が和紙を貼りつける片端から、干し板を乾燥室に並べていった。やがて乾燥室がいっぱいになると、スイッチを入れた。うぅぅんと、低い音をたてて熱風が噴き出したことを確認すると、土間に戻った。
誠一郎は、水洗い場で手を洗っていた。
「おかげで助かりました。今、お茶をいれますき、縁側で休んでてください」
美希は、隅の台所で、やかんを火にかけた。
「なんもせんでええぞ、美希さん。ちょっと顔を出したばあやき」
誠一郎の声が返ってきた。
だが、美希の手伝いの後、茶を飲んで一服することを、彼が楽しみにしているのはわかっていた。
美希は手早く茶をいれると、盆に灰皿も用意して縁側に持っていった。誠一郎はもうそこに腰をおろして、煙草を吸っていた。
二人は並んで縁側に座ると、茶を|啜《すす》った。
南に面した庭からは、春の陽気に包まれた山と谷が望める。庭の|縁《へり》の白詰草の上に雀が舞い降りてきて、ちゅんちゅんと|囀《さえず》りながら跳び歩いている。
「今日は工場はどうしたがです」
美希が聞くと、誠一郎は煙草を口にくわえたまま顔をしかめた。
「それがな、|楮《こうぞ》を洗おうとしたら、川の水が濁っちょって止めたがじゃ」
美希は湯呑み茶碗を盆に置いた。
「川の水が?」
土居は|頷《うなず》いた。
「ほんで尾峰に戻って、池野川の上流を調べてみたら、源流から濁っちゅう。雨が降ったわけでもないに、土砂が混じりこんじょった。明日になっても水がきれいならんかったら、困りもんじゃ」
「そうですねぇ。うちの横の川は濁ったように見えんかったけど、ちゃんと調べたほうがええですね」
美希も|眉《まゆ》をひそめた。
和紙作りは水が命だ。外皮を|剥《は》いで下処理をすませた楮や|三《みつ》|椏《また》を|大《おお》|釜《がま》で煮て、洗い、|灰汁《あく》抜きをして、また洗う。洗うたびに、|塵《ちり》を取っていく。原料に少しでも塵が混じっていると、いい紙はできない。
「まあ、工場の者は、休めるゆうて喜びゆうき、悪いことばっかりじゃない」
誠一郎は片手で湯呑み茶碗を持って、あきらめたようにいうと、話題を変えた。
「この頃は、どんなもんを作りゆうかね、美希さん」
「相変わらず、押し花入りのカードや、葉書といった小間紙です。売れ行きもええみたいで、注文もそっちが多いですし」
「美希さんの作るカードは、若い女の人が好きそうじゃもねぇ」
彼は地面に煙草の灰を落として|微笑《ほほえ》んだ。
美希は、少しためらってから応えた。
「けど、今度、もっと違うたもんに挑戦してみたいと思いゆうがです」
「違うたもんて?」
誠一郎が美希の顔を覗きこんだ。細い目の奥に、和紙職人らしい好奇心が宿っていた。
美希は急須に湯を注ぎながらいった。
「土佐七色紙ゆうて、ありますやろう」
誠一郎は顔を庭に向けると、|顎《あご》を|掻《か》いた。
「土佐和紙に昔から伝わる七色の紙やろ。確か草木染めで七色を出したがや。伊野町らへんやったら、今も作りゆうはずやが」
美希はポットを畳の上に置いて、居住まいを正すと誠一郎に説明した。
「七色とは、黄色、浅黄色、紫色、|茜色《あかねいろ》、|萌《もえ》|黄《ぎ》、柿色それから、青色です。伊野町で作りゆうがは、その七色を別々に染めわけた紙ですろう。けんど私は、七つの色を一枚の紙に漉いてみたいと思いゆうがです。土佐七色紙は、原料の紙の繊維自体を染めてから漉く、漉き染めで作りますよね。私はその時、七色の繊維がうまく混ざるように漉いたらええと思うちょるがです」
土居は短くなった煙草を口にくわえて、思案するように吸った。
「七色が混ざり合うたら、いったい、どんな色になるがやろ」
美希はかすかに首を横に振った。
「わかりません。ただ私、あの七色が好きながです。草木染めのせいか、どの色も上品で、柔らかで、他の色と|喧《けん》|嘩《か》しません。一枚の紙に漉いてみたら、なんともいえんきれいな色が出てくると思うがです」
たぶん、それは虹の光沢のある紙になるだろう。目を近づけると、七つの色に染まった繊維の一本、一本が複雑に絡み合い、ひとつの色を作りだしているのだ。
美希は明るい日射しに満ちた庭を眺めながら、それは光の色だ、と思った。目を細めると見えてくる、虹の成分で織りなされる色。
誠一郎は煙草の煙をゆっくりと吐きだすと、|木《こ》|洩《も》れ日が揺れる庭を眺めた。
「もしできたら……きれいやろうな」
彼はつと、美希の顔を見つめた。
「やってみや、美希さん。原料やったら、俺が手に入れちゃる。|楮《こうぞ》やのうて、|雁《がん》|皮《ぴ》を使うたらどうや。あの繊維は短いし、|艶《つや》はあるし、色もきれいに混ざるんやないか」
「いえ、土居さんに、これ以上、ご迷惑をおかけしとうはないですから」
「迷惑じゃあるもんか。俺は美希さんのためやったら……」
誠一郎はいいかけて、ぷつと言葉を切った。そしてもどかしそうな顔つきで、指先まで燃えていた煙草を灰皿に押しつけた。
美希は、誠一郎が何かいうかと待っていたが、彼は新しい煙草に火をつけただけだった。
美希は二人の湯呑みに、急須の新しい茶を注いだ。
かつて、美希と誠一郎の間には淡い恋心が芽生えていた。工場に勤めはじめた頃のことだ。口さがない他の工員たちは、二人の間を|噂《うわさ》したものだった。しかし誠一郎は、まもなく母親の勧めで見合結婚をした。一人息子で、母親に甘やかされて育った彼は、反抗なぞできなかったようだった。
そして美希の心に芽生えていた|仄《ほの》かな恋は消えてしまい、二人の間には優しい友情だけが残った。それは誠一郎が結婚五年目で妻を亡くしてからも、変わらないと信じていた。
しかし、誠一郎の父が七年前に亡くなってから、彼は少しずつ変わってきた。工場の経営が自分の両肩にかかってきたことが、彼を精神的に自立させたようだった。母親の影は薄くなり、美希に対する態度に、友情以上のものを表すようになった。
美希は、それに戸惑いを覚えていた。彼女の中の彼に対する恋心は、もう死に絶えていたから。
それでも美希は時々夢想する。もし誠一郎が自分に結婚を申しこんでくれるなら、案外、受けるかもしれないと。
このまま兄の家に厄介になるより、そうしたほうがまだしも幸福に思えた。しかし、誠一郎は決してその言葉は口にしない。
家の奥で電話が鳴った。
「ちょっと、すみません」
美希は誠一郎に謝ると、腰を浮かせた。
大伯父夫婦が住んでいた頃から引かれている、ダイヤル式の黒い旧式の電話は、縁側に面した座敷の床の間に置かれている。美希が受話器を取って口を開く前に、甲高い声が耳を打った。
「もしもし、美希さんかえ。土居ですけど」
誠一郎の母の克子だった。美希は、この女性が苦手だった。自分より年下の女には一様に高圧的な|喋《しゃべ》り方をする。
「こんにちは、ごぶさたしております」
美希の挨拶に、克子は、おざなりな返答をしただけで、せっつくように、自分の息子が行ってないか、と聞いた。
「おられますよ」
美希は、縁側の誠一郎に受話器を差しだした。
「土居さん、お母さんから電話です」
誠一郎は顔をしかめて、電話口に出たくない、というふうに手を振った。
「どうせ、すぐ工場に戻れ、ゆうがじゃろう。今、戻るゆうちゃってや」
美希が再び受話器を耳にあてると、克子のきんきんした声が響いた。
「聞こえましたわ。美希さん。悪いけんど、息子を早う帰しちゃってや。工場の水の濁りが消えたき、もう仕事を再開せにゃいかんき」
そして美希がろくに返事をしないうちに、がちゃんと電話が切れた。
黒々と光る受話器を置きながら、美希の心に後味の悪さが残った。
克子は、息子が美希に近づくのを快く思っていない。だから二人の間に|噂《うわさ》が立った時、息子に見合いを勧めたのだ。もっとも、自分の選んだ嫁も、やはり克子の気にいらなかったらしい。誠一郎の嫁が死んだのは、克子が何かにつけて|苛《いじ》めたせいだと、村の者は噂していた。
縁側に戻ると、誠一郎はつまらなそうに腰を上げた。
「ほんなら、美希さん。|御《ご》|馳《ち》|走《そう》さん」
「いいえ、私こそ、手伝うていただいて」
「お安い御用じゃ」
誠一郎は煙草をジャンパーのポケットに突っこむと、野球帽の縁に手を遣って挨拶をした。そして車に戻ると、クラクションをひとつ鳴らして、杉林をバックさせていった。
美希は縁側を片づけて、土間に戻った。流しで湯呑み茶碗を洗う。冷たい水が|撥《は》ね返って、頬に当たった。
何を馬鹿なことを考えていたのだろう。
美希は苦々しい気分で思った。
克子がいる限り、誠一郎が結婚話をいいだすはずはないのに。たとえ申し込まれたとしても、うまくいきはしない。
茶碗を洗い終わると、資材置き場に戻った。もう和紙は乾いている。乾燥炉のスイッチを切って、干し板を庭に出して、乾いた和紙を竹のへらで丁寧に|剥《は》がす。和紙の貼りついた干し板がなくなると、座敷に上がって、できた和紙に|埃《ほこり》がついていないか、細かに点検していった。最後に手漉き和紙をまとめてビニール袋に包んで、部屋の隅に重ねた。
今日は、ここまでにしておこうと思った。それほど仕事をしたわけではないが、妙に疲れていた。
美希は立ちあがって、家の雨戸を閉めていった。戸締りを確かめ、土間の木戸の錠を下ろす。川のせせらぎに包まれて、ひっそりと|佇《たたず》む仕事場に背を向けた。
杉林の中を、じゃりじゃりと土の音をたてて歩く。夕方の柔らかな光が、葉の間から|滲《にじ》むように|洩《も》れてくる。
自分はこうして、毎日、この道を往復して老いていくのだと思う。何事も起こらない人生が淡々と過ぎていく。
ふと、胸に熱いものがこみ上げてきた。自己|憐《れん》|憫《びん》とも、憤りともつかない感情が|喉《のど》の奥から|溢《あふ》れて、涙が出そうになった。
美希は、口許をぐっと結んだ。
これでいいのだ。これが自分に授けられた人生なら、受け取ってやる。
美希は今まで、そう思って生きてきた。人生のさまざまな事件を、これも運命だと甘受してきた。こんな考え方をするようになったのは、あのことがあったためだ。あのこと。高校一年の時の恋。そして妊娠……。
美希の足どりが重くなった。
思い出せば、今も心臓が締めつけられる。出産と、子供の死……。
彼女は片手で顔を覆った。
忘れるのだ。もう昔のことだ。
これだから、春はいやなのだ。遠い過去の記憶まで、新芽と共に頭をもたげてくる。
それでも美希の回想は止まらない。
子供を産んだ後、体調を崩した。生理不順と、病気を繰り返した二十代前半。そのために、大学も短大であきらめたし、卒業後は家に帰り、家事手伝いをした。最後に婦人科で診察を受けた時に、医師から、排卵機能が低下しているので、次に妊娠するのは難しいと告げられた。美希が結婚に積極的になれなかった理由でもある。幾つかの縁談も話が出ては、|潰《つぶ》れていった。
そうして美希は、自分の意思だけではどうしようもない事柄を、すべて運命だと受け入れてきた。そう考えなければ、十六歳の時のあの恋愛を悔いることになる。後悔すれば、罪の意識に押し潰される。あの男を愛した罪、子供を死なせた罪……。
美希は大きく息を吸った。杉の|薫《かお》りが全身を巡った。
いえ、後悔なぞしたくはない、絶対に。
彼女は心の中で叫んだ。
山道が切れて、林道に出た。夕日を受けて、路傍の地蔵が朱色に染まっている。毎日、この時間になると谷から吹き上がってくる風に、地蔵の赤い前かけがめくれ上がっていた。
そういえば、今日は地蔵を拝むことを忘れていたことに気がついて、美希は足を止めた。晃と一緒だったので、つい通り過ぎてしまったのだ。
彼女は後ろめたい気分で、灰色の小さな像の前にしゃがんだ。お供え物すら持ってくるのを忘れている。たんぽぽの花をちぎって地蔵の前に置くと、合掌した。
沈む太陽の温もりが背中を包む。耳許で|囁《ささや》くような風の音がする。木の葉のざわめきを聞いていると、気持ちが穏やかになってきた。
これでいいのだ。私の生活は、これで充分、幸せだ。これ以上、何かを求めるのは強欲というものだ。
美希はゆっくりと立ちあがると、|籐《とう》の|籠《かご》を腕にかけて、村道へと入っていった。
集会所を過ぎたところで車のクラクションの音がして、赤い軽自動車が横に止まった。
「家に帰るが、美希さん」
|姪《めい》の理香が運転席の窓から顔を出した。
美希が|頷《うなず》くと、理香は車のドアを開けた。美希が助手席に座り、車はがたごと走りだした。
「遅かったがやね、理香ちゃん。学校は半日じゃなかったが」
「さやかちゃんの店に寄って、お|喋《しゃべ》りしよったがよ。服、買うてしもうたわ」
美希は、後部席に置かれているブティックの紙袋に目を遣った。さやかとは理香の友人で、母親の経営する池野村のブティックの手伝いをしている。|田舎《いなか》に似合わず、けっこうしゃれたものがある。
「新学期やき、服も新調せんとね」
理香のショートカットから|覗《のぞ》くイヤリングのガラス玉がきらきら光る。美希は|眩《まぶ》しそうにそれを見つめた。
「服なら、いっぱいあるやろうに」
「ほんやき、置くところに困っちゅうが。美希さん、何かあげようか」
「けっこうよ。理香ちゃんの服は若作りすぎて、私が着たら、ええ笑い者やわ」
理香が、ほんと、そうやわ、といい、美希は|姪《めい》を|睨《にら》みつけるふりをした。
美希は、この姪とは気軽な口が|叩《たた》けた。理香も、幼い頃から甘えてきた叔母の美希には、両親にもいえないことを平気で打ち明ける。この前までつきあっていた恋人と別れたことも、その男と肉体関係にまでいったことも、美希は理香から聞いて知っていた。
車は狭い村道をのろのろと通っていく。坂道を子供が自転車で降りてきたり、|杖《つえ》を突いた老人が脇の石段から突然現れたりするので、注意しないと危険な道だった。しかも家並みが途切れた場所は、ガードレールもついていない。免許を取って一年目の理香のハンドルさばきは、まだどこか|覚《おぼ》|束《つか》ない。
車が、永田の家の前を通った。晃のバイクはそこに止まったままになっている。理香も気がついたらしく、口を開いた。
「奴田原先生、家におるがやろか」
格子戸はぴたりと閉ざされている。美希は、どうかしらね、と返事した。さっき晃が仕事場に寄ったことを話そうとした時、理香が楽しげに口を開いた。
「美希さんがいいよった通りやった。かっこええ先生やね。これまで池野中学じゃ、田所先生が一番のハンサムやったけど、もう、いかんわ。奴田原先生やわ」
美希はそっと姪の横顔を見た。色白のふっくらとした頬が紅潮している。
彼女は、姪の|膝《ひざ》を叩いた。
「わかった。理香ちゃんが、新しい洋服を買いに行ったわけ。奴田原先生に気にいられたいがやろ」
「ばれたか」理香は舌をだした。
「奴田原先生、二十五歳なんやって。東京の大学出身で、国文学専攻。高校の古文の先生の資格もあるけど、中学生を教えたいゆうて、国語の先生になったと。ほんで高知で二年間、先生してからここに来たがやと」
「よう調べたこと」
理香は得意気に声を張りあげた。
「それに独身で、恋人なし」
美希は、姪の|屈《くっ》|託《たく》のない明るさを|羨《うらや》ましく思った。理香は、結婚というものを人生の最終的なゴールと定めて、何の疑いもなくそこに向かって突っ走っていた。
きっと彼女はそれを手に入れるだろう。そして百代や晴子のように、結婚生活にどっぷりと浸り、文句をいいながらも、手に入れた幸福に満足して生きていくことになる。彼女たちは、そんなふうに生まれついたのだ。
だが、美希は違った。同じものを目指していたはずだったのに、どこかで弾き飛ばされてしまった。結婚して子を産むという、村の女たちが踏襲してきた巨大な流れの中に、百代や晴子の人生は呑みこまれている。しかし美希の生き方は、その横に沿って流れる小さな川だ。どこまでいっても大河に合流できない川。美希は、大河のうねりを聴きながら、ただ流されていくしかないのだ……。
「着いたで、美希さん」
気がつくと、車は止まっていた。
美希は瞬きして、助手席から背を起こした。
目の前に、坊之宮家の灰色の門が|聳《そび》えていた。
「ありがとう。理香ちゃん」
彼女が降りると、理香は隣の車庫の入口ヘと、車を運転していった。
美希は門の前に立って、どっしりした二階建ての家を見上げた。隣接する|甥《おい》の博文の新居、拡張した車庫。それは美希の育った家とは、もう別のものになっていた。祖父母も父も健在で、兄弟と一緒に暮らしていた、美希の家。だが、道夫の代になり、兄の家族構成に合わせて改造された。
そうやって世代交代するたびに、この古い家は少しずつ変容してきたのだ。今は、道夫と百代が核となって形成する兄夫婦の家。大河を下っていく人々の川舟だ。この舟に乗って、兄の家族は、泣いたり笑ったりしながら、時の流れを旅していく。
だが、ここには美希の居場所はない。
「ただいまぁ」
車庫から出てきた理香の声が、庭に響く。
美希は小さな息を吐いて、灰色の門の中に足を踏み入れた。
5
美希は|闇《やみ》の中で目を開けた。息は乱れ、全身に汗が|滲《にじ》んでいる。
また、夢を見ていた。
赤紫色の肌の赤子が泣いていた。
彼女は不安な気分で、布団の中から周囲に視線を巡らせた。障子から射しこむ薄明かりに、部屋の輪郭が浮かび上がる。壁際の|箪《たん》|笥《す》、小さな鏡台。白いレースの布を掛けた、小学校時代から使っている机、そして本棚。本棚の横の壁に掛けられた熊の柄の手織りの布、その上に下がる小さな……足!
小ぶりの|茄《な》|子《す》のような赤紫色の足が二つ。
美希の目が見開かれた。
天井の隅に赤子が漂っていた。首に|臍《へそ》の緒を長虫のように巻きつけて、膨れた|瞼《まぶた》の下から、じっと美希を|睨《にら》んでいる。憎々しげに|歪《ゆが》む、歯のない口。光を失った黒い|瞳《ひとみ》が、今にも目からだらりと垂れ落ちそうだ。
美希の|喉《のど》から悲鳴が|洩《も》れた。
次の瞬間、首を激しく振りながら、目を覚ました。
彼女は、闇に沈む寝室に一人、横たわっていた。体にのしかかる綿布団の感触が頼もしく思える。
あれも夢だったのだ。
そう思って、天井の隅に目を遣ろうとした美希は、どきりとした。
これも夢だったら、どうしよう。
今も赤子は、熊柄の手織りの布の上で、自分を見つめているのではないか。
彼女は恐怖にかられて、枕元の電気スタンドのスイッチを押した。
かちっ、という音とともに、六畳の部屋が浮かびあがった。淡い光の中で、天井の|四《よ》|隅《すみ》を見た。箪笥の後ろ、机の下、押入れの戸の|隙《すき》|間《ま》の暗がり。ひとつひとつ、|怯《おび》えながら確認していき、何もいないことがわかると、美希はようやく体の力を抜いた。
また見てしまった。この五日間で三度目だ。なぜ繰り返し、赤子の夢を見るのだろう。
やはり、あの子なのだろうか。生まれるとすぐに死んでしまった、あの子。私を恨んでいるのだろうか。
|喘《あえ》ぐような息がこぼれた。
ちがう。子供が死んだのは、私が悪いんじゃない。どうしようもなかったのだ。
……だが、私はあの子の死を願った。
彼女は布団の縁を握りしめた。
この子が死んでくれたら。妊娠中、何度、そう思ったことだろう。腹の子さえ存在しなければ、すべてはうまくいくと思った。誰にも非難されないと信じた。私が死を願ったから、子供は死んだのではないか。だから、あの子は私を恨んでいるのだ。
うぉおおおん、うぉおおん。
どこかで犬の|遠《とお》|吠《ぼ》えがした。
美希はびくっと体を|強《こわ》|張《ば》らすと、掛け布団を|撥《は》ねのけて立ちあがった。
このままでは眠れそうもなかった。
台所に行って、梅酒でも飲めば、気持ちが落ち着くかもしれない。
彼女は引き戸を開けて、廊下に出た。
突きあたりの台所の豆電球の光が、廊下を薄明るく照らし出している。庭側のカーテンと障子の間に、木の床が一本の道のように延びていた。