もう真夜中も過ぎていた。美希は足音を忍ばせて、廊下を進んでいった。母の居室の障子に、弱い明かりが映っているのが見えた。
起きているのだろうか。急に母の顔が見たくなって、美希は障子の桟に手をかけた。
その時、部屋の中から低い声が|洩《も》れてくるのに気がついた。
「ひい、ふぅ、みぃ、よぅ」
母の声だった。念仏を唱えるような単調な声が、廊下へと流れだしていく。
「いつ、むう、なな、やぁ、ここのぉ、とお、……」
こんな夜中に、何を数えているのだろう。
美希は、そっと障子を滑らせた。
寝室は暗く、母はいないようだ。奥の仏間との境に細く開いた|襖《ふすま》の間が青白く輝いている。
「じゅうさん、じゅうしぃ、じゅうごお……」
数え声は仏間から聞こえてくる。
美希は母の寝室に一歩、足を踏み入れた。空気に染みついた老人特有の甘酸っぱい|匂《にお》いが押し寄せてきた。美希は部屋の入口に立って、仏間を|窺《うかが》った。
「おらん。やっぱり、おらん」
母の|苛《いら》|立《だ》った声がした。そして、また、ひい、ふぅ、みぃ、という声がはじまった。
「お母さん、何しゆうが」
美希は声をかけた。
ぴたりと母の声が止んだと思うと、がたがたという音が続いた。美希は寝室を横切ると、仏間の襖を開けた。
母がこちらを向いて正座していた。
背後の黒塗りの仏壇の扉が開いている。天井の蛍光灯の青白い光に照らされた母の顔は、|憔悴《しょうすい》し、頬が|窪《くぼ》んでいた。白い乱れ髪が肩にかかり、|口《くち》|許《もと》が小刻みに震えている。
「美希やったか……」
母は放心したように|呟《つぶや》いた。
「どうしたが。こんな夜中に、何を数えよったが」
美希は仏間を見回した。仏壇の他は、隅に|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》が重ねられているだけの三畳の間だ。数えるものもない部屋だった。
母は首を横に振った。
「なんでもない。眠れんきに、畳の目を数えよっただけじゃ」
「畳の目を?」
美希は拍子抜けして聞き返した。母はしかめ面で|頷《うなず》いた。
それにしても、寝床ではなく、仏間で数えるのは|腑《ふ》に落ちなかった。
「けど、お母さん、さっき何かがおらん、ゆうて独り言をいいよったろう。畳の目がおらん、ゆうのはおかしいやないの」
「畳の目を数えよったがじゃ」
母は有無をいわさぬ口調でいった。
若い頃、看護婦の資格が取りたくて、家出までしたという富枝は、白いものでも黒だといってしまう頑固なところがあった。人当たりは穏やかなのだが、自分なりの規律を持ち、そこから一歩も踏みはずさない。
美希はあきらめて、話の調子を合わせた。
「畳の目を数えたら眠れるがなら、私もやってみようかしらん」
母はようやく表情を和らげた。
「おまんも眠れんがかえ。この頃は誰もかも、悪い夜を過ごしゆうみたいじゃの」
ほんとうだった。美希が最初に悪夢を見た日以来、家族や村の者の会話に、寝覚めが悪いとか、怖い夢を見るという話題が頻繁に出ていた。
「お母さんも悪い夢を見たがかえ」
美希は探るように聞いた。
母の顔の|皺《しわ》が深くなった。
彼女は母のほうに身をかがめた。
「見たがやね、お母さん。私も見たがよ。同じ夢を三遍も。何かあるがやないろうか」
「悪い夢に意味らぁない」
富枝は鋭い声で娘の言葉を遮ると、諭すように続けた。
「人間、誰でも忘れたい昔を持っちゅう。他人にいえもせん、恐ろしいことを考えゆうこともある。それが夢に出てくるだけじゃ。怖い夢は、見る者の心が作る。その夢のことを考えたら、考えただけ、ようけ見てしまう。悪夢から逃げるには、忘れるがいちばんよ」
あの赤子の夢を忘れることができるだろうか。美希には、そうは思えなかった。
しかし富枝は、自分のいいたいことをいってしまうと、腰を上げた。
「さあ、うちはもう寝るぜよ」
母は美希を仏間から追い出すと、電気を消した。美希は廊下に出ると、台所からの弱い光を頼りに|襖《ふすま》を閉めて布団にもぐりこむ母を見守った。
母の行動には、納得がいかなかった。そういえば、悪夢が始まった日から、母の様子はおかしかったのだ。
「おやすみ、美希」
こんもりとした布団の中から、母の声が聞こえた。美希も、おやすみ、と応えると、障子を閉めた。
母は、何を隠しているのだろう。
彼女はしばらく障子の前に立って、中の様子を|窺《うかが》っていた。母がまた起きだして、何か数えはじめるのではないかと疑ったのだが、静まり返った寝室から聞こえてきたのは、規則正しい息遣いだけだった。
家の中で起きているのは、もはや美希だけだった。母の秘密は、そのうちにわかるだろう。今夜は早く寝たほうがいい。
梅酒を飲むつもりだったことを思い出して、台所に向かおうとした時、廊下のカーテンが少し開いているのに気がついた。カーテンを引こうとした美希の手が止まった。
窓|硝子《ガラス》が黒紙を貼りつけたように見えた。
夜の闇にしては、暗すぎる。
彼女は|眉《まゆ》をひそめた。
どんな曇っていても、たとえ雨でも、夜空というものは黒一色ではない。星や月の気配を感じさせる明るさが、|鈍《にび》|色《いろ》の天に潜んでいる。だが今、この窓の外には、空も庭も区別がつかないほどの|漆《しっ》|黒《こく》の闇が漂っていた。
美希は鍵をはずして、硝子戸を開いた。
春宵の冷気が廊下に滑りこんできた。美希は窓から顔を出して、闇を透かし見た。
何も見えなかった。庭の|無花果《いちじく》の木も、物干し台も、その向こうにあるはずの塀も、山の|稜線《りょうせん》も。すべての景色が、べたりとした黒一色に塗り|潰《つぶ》されている。
木々や土の匂いもない、空虚な闇夜。
まるであの闇のようだ。赤子が浮かぶ悪夢の中の闇。この庭は、悪夢の闇に|繋《つな》がっているのかもしれない。だとしたら、闇を伝って、あの赤子がここに漂ってきても不思議ではない。そして首に|臍《へそ》の緒を巻いた姿で、私を見つめるのだ。膨れた|瞼《まぶた》の下から恨みをこめた目で、じっと……。
美希は唇を|噛《か》むと、苦笑いを浮かべた。
ばかばかしい。ただの夜の闇だ。この闇が悪夢に繋がっているとは、|妄《もう》|想《そう》もいいところだ。
美希は、ぴしゃんと硝子戸を閉めると、カーテンを引いた。そして、庭から目を背けるようにして台所に歩いていった。
背後で窓硝子がかたかたと鳴った。
美希はぎくりとして振り向いた。
カーテンの後ろで、窓硝子が揺れている。
きっと風が出てきたのだ。
彼女は再び歩きだした。
がたがたがた。窓硝子は、小さな音を立て続けていた。まるで、誰かが|執《しつ》|拗《よう》に硝子を|叩《たた》いているように……。
6
ばっしゃん、ばっしゃん。
|漉《す》き舟に入った乳白色の溶液の中で、四角い|簀《す》|桁《げた》を揺する。簀の上の液体の流れを見守りながら、気合を入れて、前後左右に何十回も揺すり続ける。漉き舟に立つ白い波、|撥《は》ね返る重い水滴。簀の上に薄く|楮《こうぞ》の繊維が|溜《た》まってきた頃合を見計らい、じゃああっと原液の残りを漉き舟に捨てる。
美希は、ふっと息を吐いて、簀を桁からはずした。そして、漉きあがった紙を横の紙床に重ねて簀をはずすと、また桁に戻した。
紙床には、もう百枚ほどの紙が漉き上がっている。美希は、額に|滲《にじ》む汗を手の甲で|拭《ぬぐ》うと、土間の外を見た。
開け放した戸の敷居に射しこむ太陽の光が、土間の茶色の土を温かく照らしている。家の横の清流のせせらぎが聞こえてくる。
こんな静かな中にいると、昨夜の悪夢も遠い世界の出来事の気がする。実際、美希が子供を産んだのは、遠い時の彼方のことなのだ。母のいった通りだ。忘れるのがいちばんだ。悪夢も……過去も。
美希は簀桁を置いて、土間から出た。
庭先に作った木の横棒に、昨日|漉《す》いた和紙を貼りつけた干し板が並べてある。白い和紙が太陽を受けて、|艶《つや》やかに輝いていた。美希は、指先で柔らかな紙をそっと|撫《な》ぜた。もうほとんど乾いている。太陽の熱を含んだ和紙の手触りは、|苛《いら》|立《だ》つ美希の気持ちを鎮めてくれた。
時々、和紙作りがなかったら、自分の人生はなんとみじめなものになっていただろう、と思う。兄に養われる負い目を感じながら、家の農作業の手伝いをして、毎日を過ごしていたはずだ。
だが、和紙作りのおかげで、現金収入の道が得られた。そこから美希は毎月の食費を兄に払い、自立しているのだという自負を持つことができた。
おいおいは実家を離れて、ここに住まいを移そうと考えている。この小さな家が自分の居場所になる。そして七色の紙を漉き、誰にも気兼ねなく細々と暮らそう。
美希は庭の縁に立って、向こうの山並みを眺めた。ここで静かに老いていくのだ。やがて山の木々のように枯れて、倒れていくだろう。それでいいではないか。
風が吹いてきて、美希の髪を|掻《か》き乱した。彼女は自分の髪を撫ぜた。腰のある黒い毛が指先に絡みつく。その手を頬に持っていった。桜色の頬から、首筋、鎖骨へと手を滑らせ、乳房で止まった。まだ張りを失ってはいないふくよかな胸が掌を弾き返す。
意識とは別に、肉体が叫んでいた。
私はまだ生きているのだ、朽ちて倒れていくには、若すぎると。
美希の|眉《み》|間《けん》に影が射し、乳房から手が離れた。
体の声を聞いてはいけない。そんなことをしたら、ろくなことにならない。第一、私が|躓《つまず》いたのは、そのためだったのではないか。肉体の叫びに耳を傾け、その欲望のままに突っ走ったせいだった。
美希は、仕事に戻ろうと|踵《きびす》を返した。
その時、杉林の中から、女の声が響いた。
「美希さぁん、美希さぁん」
誰の声か、すぐにわかった。
坊之宮本家の当主の妻、園子。
また、あれか。
美希はため息をついて、その場に立っていた。すぐに、ひっつめ髪の園子が泣きながら庭に飛びこんできた。
彼女は美希を見ると、顔をくしゃくしゃにして叫んだ。
「もう、いやや。私、もう、あの人には我慢できんっ」
美希は園子に近寄っていくと、背中を抱くようにして縁側に座らせた。
「隆直さんが、どうしたが」
園子は、両手に顔を埋めて|呻《うめ》いた。
「あんまりながで。昨日の昼間、またあの女と伊野町に行ったがやと。さっき、山崎さんくの正さんがゆうてくれたがやき」
園子の夫の隆直は、女癖が悪い。最初の妻は愛想を尽かせて、子供を連れて出ていった。十年前、園子が、高知市内から嫁いで来て、|後《あと》|釜《がま》に据わった。だが、隆直の女癖は少しも直らない。隆直の今の相手は、彼の経営する池野村のスナックに勤める女だ。隆直はここ二、三年、その女と|噂《うわさ》が絶えない。
美希と年齢の近い園子は、夫の浮気が発覚して夫婦|喧《げん》|嘩《か》になるたびに、彼女の許に駆けこんでくる。
美希は、肩を震わせている園子をなだめるようにいった。
「伊野町で、何か用があったがやないの」
「他の町まで二人でわざわざ行ったがで。ただの用事やないに決まっちゅう」
園子のこめかみが神経質そうに、ぴくぴくと動いた。
「あの人、私のこと、ちっとも好きやないがや。もう離婚しかないわ」
園子は手の甲で涙を拭きながら、|喉《のど》を詰まらせた。
「そんなことないよ。隆直さんは、園子さんのこと、好きやと思うよ」
園子が泣きついてくるたびに、幾度となく口にした|台詞《せりふ》だった。しかし園子は、その言葉に少し安心したようだ。泣き声が弱まった。
本家の|姑《しゅうとめ》の雪子は、嫁ならどんなことでも耐えるべきだ、という考え方の持ち主だったから、身近で園子が本心を出せる相手は美希しかいない。だからいつも泣きながら美希の許に駆けつけ、大声で夫の不貞をいいたてる。お嬢さん育ちの園子には、そうやって甘える相手が必要なのだ。
美希は黙って園子の横に座り、|啜《すす》り泣く声を聞いていた。
「やっぱり、ここやったか」
|棘《とげ》を含んだ男の声が聞こえた。
美希が顔を上げると、杉林の道から、ひょろりとした男が出てきたところだった。
白髪の混じった頭に、長釘のように通った鼻筋。最近は少し腹も出てきて、前髪も後退しかかっているが、若い時から|艶《えん》|聞《ぶん》の絶えないだけある優男、隆直だった。
美希は、彼の出現に驚きもしなかった。夫婦喧嘩の後は、妻は美希の許に駆けこむと知っているから、隆直はいつも頃合を見計らって迎えにきた。
「おい、園子。ええかげんにせえや」
隆直は、美希の顔を見ないようにして、縁側に座る妻の肩に手を置いた。
「うちに触らんとって」
園子が夫の手を払った。
「また、あの女と寝たがやろ。わかっちゅう」
隆直は困ったように美希を見た。美希が非難する顔をすると、彼は、むっとしたようだった。乱暴に妻の手をつかんだ。
「ほら、いつまでも泣きよったら、美希ちゃんに迷惑じゃ。帰ろうや」
園子はまだ|拗《す》ねてうつむいている。だが、それ以上、夫を|罵《ののし》ることもなかった。
|不《ふ》|貞《て》|腐《くさ》れて、夫のなだめすかす言葉を待っている姿に、美希は、園子の隆直に対する愛の深さを感じる。
「私のこと、嫌ながやろ。もう離婚しちゃる」
園子がいっている。馬鹿なこというなや、と隆直が答える。いつもの会話だった。
美希は言い合っている二人から顔を背けるようにして、庭を見つめた。
西に傾きかけた陽が、庭を照らしている。赤みを帯びた光の中に、大地の|産《うぶ》|毛《げ》のように草の若芽が伸びている。
春。すべてが輝かしい色に染まっていた私の春——。
|萌《もえ》|黄《ぎ》|色《いろ》の草の上で、汗みどろになって抱き合う男女の姿が脳裏に浮かんだ。女は美希。まだ高校時代の美希。全身を恋の炎に燃え立たせて、挑む相手は隆直だ。まだ若く、引き締まっていた彼の体が、彼女を抱きすくめる。
あの時、美希は十六歳、隆直は二十歳。
高校の帰り、隆直は決まって、県道脇の坊之宮家の茶畑に立っていた。自転車で通りかかった美希に気がつくと、手を上げて合図する。美希は自転車を投げだして、走りだす。そして二人は山の中に入って交わった。何度も何度も……。
美希の母が、娘の体の変化に気づくまで、若い獣のような二人の関係は続いた。
美希は、後頭部が|痺《しび》れるような感覚を覚えた。あれから、なんと長い時が過ぎてしまったことだろう。
横では隆直が、園子の腰を抱えるようにして縁側から立たせていた。かつて|逞《たくま》しく伸びていた隆直の肢体は、今は酒と飽食に|弛《し》|緩《かん》している。|凛《り》|々《り》しかった顔は、女から女へ|放《ほう》|蕩《とう》を重ねるうちに、どこか薄汚れてしまった。何よりも変わったのは、彼の内面だ。農業に燃え、茶の栽培だけでなく、これからの農家は多角的に経営すべきだと熱っぽく語っていたのに、道路拡張の用地買収の話が持ち上がると、さっさと土地を売り飛ばし、池野村にスナックを開いた。そして昼間はぐうたらと過ごし、夕方になると池野村に出ていく。客とたわむれ、女を口説くために。
美希が愛した隆直は、もういなかった。
ここにいるのは、二日酔いで|浮腫《むく》んだ顔をした中年の男。その男が、ついと顔を美希に向けた。
「迷惑かけたねぇ、美希ちゃん」
彼の顔に何か探るような視線が浮かんでいた。美希は、その視線を突き放していった。
「奥さん、泣かしたらいかんで。隆直さん」
隆直の顔に皮肉な笑いが浮かび、目が|逸《そ》らされた。そして、園子の肩を揺すった。
「ほら、御飯のしたくせんと、春男も秋枝もお腹、すかしちゅうぞ」
園子は唇を突きだしたまま|頷《うなず》いた。隆直が妻の腕を引いて、林の中に連れ戻す。美希は縁側に座ったまま、アメーバのようにくっついたり離れたりしながら遠ざかる夫婦の姿を見ていた。
杉林に消える直前、ちらりと園子が振り返った。その目の奥に満足気な光がきらめいた気がした。
美希は二人から目を背けて、やはり、そうなのだ、と思った。
園子は、かつて自分と隆直が恋仲だったことに勘づいているのだ。家族や親類はもちろん、村の者もそれを教えるはずはないが、女の勘は鋭い。何か察したのだろう。
隆直が浮気するたびに園子がここに泣きついてくるのは、たぶん、そのことがあるからなのだ。
他の女によって傷つけられた自分の心を、美希を傷つけることで癒している。美希の前で、自分が隆直の妻であることを見せつけて、|溜飲《りゅういん》を下げているのだろう。
お嬢さん育ちの園子らしいやり方だ。
だが、私の心が、隆直に対してもう何も感じないことには気づいていない。どんなに夫婦の間柄を見せつけられ、隆直の女癖について聞かされても、美希には、テレビドラマを見ているくらいにしか映らない。隆直に対する愛はとっくの昔に消えていた。
美希は無意識に、自分の黒髪を指先で|玩《もてあそ》びながら思い出していた。
出産後、美希が尾峰の実家に戻ったのは、冬の|最《さ》|中《なか》だった。番所山から吹き下ろす木枯らしに立ち向かうようにして、バスから降りた彼女は、母と一緒に石段の道をゆっくりと上っていった。
久々に見た灰色の石垣と、灰色の家々の屋根が、自分に覆いかぶさってくる気がした。美希は、一歩、一歩、石段を踏みしめて、村落の上に|聳《そび》える家を目指して歩いていた。
その時、風に乗って、|賑《にぎ》やかな声が聞こえてきた。美希は顔を上げた。坊之宮の本家から、人が大声で笑ったり、歌ったりする声が流れてくる。本家で何かあるのか、と聞くと、富枝が|厳《いか》めしい顔つきで応えた。
「隆直さんの婚礼や」
美希は息が止まりそうになった。
そんなことは聞いてもなかった。美希が病気療養で村を離れていると信じていた隆直からは、時折、病気見舞いの手紙が届いたが、そこにも、何ひとつ書かれてなかった。
美希は石段を駆けあがった。母の止める声が飛んだが、振り向きもしなかった。心臓が破裂しそうなほど、一気に村のいちばん上まで走り続けた。
本家の門の中に飛びこむと、縁側から家に上がって、障子を開け放した。
大座敷の床の間を背にして、隆直が花嫁と並んでいた。その前に|皿鉢《さわち》料理が並び、村人たちが酒を酌み交わしていた。美希の父もいた。兄も弟もいた。
美希だけが知らされていなかったのだ。彼女は悲鳴をあげて、隆直に飛びかかった。父が慌てて娘を引き離した。美希は父の腕から身を乗りだすようにして、隆直の名を叫んだ。だが隆直は聞こえないふりをした。|白《しろ》|無《む》|垢《く》の花嫁の横で、紋付き|袴《はかま》を着て、友人の杯を受けながら、美希から顔を背けていた。
いくら呼んでも、隆直が振り向こうともしないことに気がついた時、美希の心の中で、それまで必死に守っていた最後の|砦《とりで》が崩れ落ちていくのを感じた。
誰に何といわれようと、美希は、隆直との恋愛を貫く覚悟だった。
しかし彼は、美希から逃げたのだ。
美希の両親が、本家の隆直の親と相談して、結婚をそそのかしたのだと、後で聞いた。そして隆直は、勧められた結婚に承知した。
以来、隆直は、美希の視線をまともに受け止めたことはない。二人きりで、昔のことを話し合ったこともない。隆直は、美希が二人の子を産んだことも知らないはずだ。隆直の親は、そこまでは知らないし、美希の両親は、子供のことは絶対いってはならない、そんなことをしたら、本家に傷がつく、と彼女に口止めしたのだった。
どちらにしろ、隆直が自分に背を向けたとわかった時から、何を告げる気力も失っていた。
今では美希にとって、隆直は他人以上に遠い存在になってしまった。女関係に|爛《ただ》れきった隆直との間に、あれほど真剣で激しい恋愛が起きたとは、今では夢のようだ。できるなら、あまり顔を合わせたくはなかった。彼と会えば、あの美しい記憶が汚される気がする。
そう、あれこそ、美希の唯一の青春。人生の早春期の激しい恋愛。その後、恋愛感情めいたものを覚えた相手もいた。だが、十六歳の時に感じた、あの純粋な高揚に及ぶものはなかった。
その高揚の絶頂で、私は|躓《つまず》いたのだ。躓いたまま、うまく起きあがれなかった。
十代の躓きを今まで引きずっていることは、我ながら情けないと思う。何度か、すべてを忘れて、新しい恋愛なり、人生なりに|賭《か》けてみようと思った。しかし、なぜかうまくいかなかった。美希が自分からはじめたことで、順調にいったことは、この和紙作りくらいのものだ。
彼女は苦笑して縁側から立ちあがると、庭の干し板に近づいていった。和紙はもう乾いている。干し板を縁側に持ってくると、木べらで紙を|剥《は》がしていった。
和紙が、美希を魅了するのは、この仕上がりの瞬間だ。ただの|灌《かん》|木《ぼく》の枝にすぎない|楮《こうぞ》や|三《みつ》|椏《また》の枝が、蒸され、洗われ、|叩《たた》かれているうちに、細い繊維へと分解され、やがて、薄く優雅な紙に生まれ変わる。その和紙作りの工程を通して、彼女自身の心も染みひとつない美しい紙に変わっていく気がする。
美希の作る、淡い|褐色《かっしょく》を帯びた和紙は、生まれ変わった彼女の心でもある。別の人生ヘの|憧《あこが》れや欲望を、洗い流し、叩き|潰《つぶ》し、心というものの最低限の構成繊維だけに分解して、|漉《す》きあげたものだ。
太陽の熱を含んだ和紙が、一枚、また一枚と縁側に重なっていく。この紙が美希の心としたら、和紙の厚みは、彼女の重ねてきた年月だ。色々な過去を洗い、叩き、分解して、美しい和紙へと変えて生きてきた人生。その柔らかな厚みに目を遣って、美希はふと思った。
私の人生は、あと何枚、あるのだろう。
一枚の紙がはらりと地面に落ちた。彼女は、かがんでそれを拾った。糸のような細い繊維の絡み合う滑らかな紙の表面が、黒い土で汚れていた。
息を吹きかけて土の粒子を落とそうとしたが、無駄だった。繊維の間まで、しっかりと土がこびりついていた。
春は嫌いだ。
和紙の黒い汚れを見つめながら、美希は強く思った。
7
どこの家の庭から漂ってくるのか、|沈丁花《じんちょうげ》の甘い香りがそよ風に混じる。美希はいつもの|籐《とう》製の|籠《かご》を下げて、村道を登っていた。
道に面した家の中から、テレビの音が響いてくる。車を洗う男、庭の|塵《ちり》を燃やす老女。子供たちが「まあだだよ」と叫びながら、生け垣の間や木の後ろに隠れて遊んでいる。
日曜日の朝。畑で働く人の姿も少ない。のんびりした空気に包まれた村を後にして、美希は、番所山を目指していた。
土佐七色紙の染色に使う草木を採集するつもりだった。なにも日曜日まで働かなくてもいいのだが、家にいたくなかったのだ。
このところ家の空気はぎすぎすしていた。皆、よく眠れないせいだ。百代は理香にあたり散らし、道夫はいつもよりさらに寡黙になっている。理香は夜中までがんがん音楽をかけ、母の富枝は相変わらず、暇があれば善光寺念仏を唱えていた。
そして美希の悪夢は終わらない。母のいう通り、忘れようと努めているのに、数日おきに見てしまう。
美希は|瞼《まぶた》の上を|揉《も》んだ。頭の|芯《しん》に眠気が宿っていた。
「眠たいがかね」
しゃがれ声に驚いて顔を向けると、|路《ろ》|傍《ぼう》の畑の石垣に味元が腰を下ろしていた。|杖《つえ》を脚の間に立てて、添えた両手に|顎《あご》を載せ、背中を曲げている。
美希が照れ笑いを返すと、味元は|頷《うなず》いた。
「村の者、皆ぁ、|欠伸《あくび》ばっかりしゆう。おかしげな夜が続くせいじゃ。よう眠れんし、朝起きても、頭がちっともすっきりせん」
味元は言葉を切ると、美希の顔色を|窺《うかが》うようにして続けた。
「こりゃ|狗《いぬ》|神《がみ》に喰われたがかもしれん」
「狗神?」
彼女は、老人の口から飛びでてきた言葉に面喰らった。
昔から、土佐には、狗神という|憑《つ》きものがいるといわれている。狗神に憑かれることを、喰われるといい、そうなれば、病気になったり、奇妙なことを口走ると聞いたことはある。だが、ただの言い伝えだ。味元は、本気でそんなことを信じているのだろうか。
美希が返答に困っていると、味元は意味のない笑みを口許に浮かべて聞いた。
「どこぞに出かけるがかね」
「山にちょっと……」
美希は番所山を指さした。
味元の垂れた目が細くなった。
「山に一人で行くがはやめたがええ。山犬に会うかもしれんきにのうし。この頃、えろう太い山犬がうろつきゆう、ゆうき」
美希は、新聞配達のふさがそんなことをいっていたのを思い出して、少し心配になった。
「けど、昼間はだいじょうぶですろう」
味元は顎の下で、杖を揺すった。
「今のところ人を襲うたゆうことは聞かんが、用心にこしたことはない。わしがまた鉄砲を持ったら、一発で仕留めちゃるにのう」
「千匹目の殺生はせんがええんでしょうに」
美希がいうと、味元はにやりとして、突きだした耳の後ろを|掻《か》いた。
「ほんなら、行ってきます」
頭を下げて歩きだした美希の背中に、また声が聞こえた。
「山で、山犬に会うたらのう、道端の草に小便をしかけちゃるとええぞ」
美希は噴きだして、頭を左右に振った。
背後で味元がからからと笑った。
村道をさらに登っていく。尾峰の家々の|瓦屋根《かわらやね》が足許に小さくなると、村道が切れて、林道と合流した。彼女は林道を横切り、番所山の雑木林の中に延びる細い道に入った。
番所山は、茶碗を伏せたような形の大きな山だ。頂上に通じる道は、狭く険しい。美希の運動靴が、赤土の混じって滑りやすい山道を踏みしめる。黒のスパッツにTシャツ。上に白の薄手のジャンパーを羽織っただけなのに、すぐに全身、汗ばんできた。
山道の曲がり角に、少し開けた場所があった。一休みしようと、そちらを見た美希は、はっとした。
先客がいた。
黒の皮ジャンを着た青年が、こちらに背を向けて立っている。
奴田原晃だ。美希の足音に気がついたのか、彼がこちらを向いた。黒い|瞳《ひとみ》の色が優しくなり、唇から笑みがこぼれた。
「美希さんじゃないですか」
晃は、|嬉《うれ》しそうな声をあげた。
美希は草を踏んで彼に近づいた。
そこは木立が切れて、狭い草地になっていた。吹きあげてくる風に髪をなびかせている晃に、美希は話しかけた。
「こんなところで、何をしてるんですか」
晃は肩をすくめて、顎であたりを指すように見回した。
「何ということもないですよ。散歩しているうちにここに着いたんです」
美希は、晃の横に立った。
足元の|崖《がけ》の底に|佇《たたず》む尾峰の村落の周囲は、茶畑や芋畑の緑色、|三《みつ》|椏《また》畑に咲き誇る花の黄色、水田の|蓮《れん》|華《げ》の桃色に彩られていた。確かに美しい風景だった。
「美希さんこそ、なぜ、ここに?」
和紙を染めるための草木の採集に来たのだと答えると、晃は興味をそそられたようだった。
「僕は、野草の名前ひとつ知らないんです。一緒に行ってもいいですか」
「植物採集というと、聞こえはいいけど、ただの山歩きですよ」
「願ったりです」
美希は、晃と連れ立って歩きだした。
山道は明るい雑木林の中をくねくねと曲がりながら、番所山の奥へと続いている。晃が空気の|匂《にお》いを|嗅《か》ぐように息を吸った。
「山はいいな。心が洗われるようだ」
「そうですか。私なんか、生まれた時から山の中におりますから、わかりませんが」
晃は、美希の顔を横目で見ていった。
「たった二週間暮らしただけで、山がいいという。これだから町の人間は困るって、思ってるんでしょう」
「そんなこと、ないですよ」
「いいですよ。事実だから」
「違うって、いいゆうのに」
むきになって否定してから、晃がにやにやしているのに気がついた。美希は、彼を軽く|睨《にら》みつけて、話題を変えた。
「学校には慣れましたか」
晃は真面目な顔になった。
「ええ。一年の担任になったんです。でもまだ様子をつかむのが精一杯というところだな。暇があったら、また美希さんの和紙作りを見せてもらいたかったんですけど、なかなか時間がとれなくて」
「学校が落ち着いたら、見にきてくれたらいいですよ」
彼が自分の仕事場を再訪したがっているということに、美希は嬉しい驚きを覚えた。
実は、晃の話は、理香から毎日のように聞かされていた。無口だが厳しい教師であること、ブリティッシュ・ロックが好きなこと、学生時代は剣道部にいたこと、新任教師の歓迎会の二次会で行った村のスナックで、女の子にもてたこと……。そんな理香の話から|窺《うかが》える晃は、美希には、あまりに遠い存在に思えていた。
山が深くなると、道はさらに狭くなった。並んで歩けなくなったので、美希が先頭に立った。|檜《ひのき》や|楢《なら》の間に、|姫《ひめ》|沙《しゃ》|羅《ら》のすらりとした赤い幹や|譲葉《ゆずりは》の青葉が目を|惹《ひ》く。時折、小鳥の声が響くだけで、林の中は静かだ。
背後から晃の規則正しい息遣いが聞こえる。美希の息はもう乱れていた。若葉の匂いのこもる空気に二人の吐息が混じり合う。その音を聞いているうちに、産毛が逆立つような感覚を覚えた。
はっ、はっ、はっ。晃の息が美希の首筋にかかる。彼女の背が震えた。
突然、彼の手が伸びてきて、美希の腕をつかんだ。彼女は、ぎくりとして振り向いた。彫像のような晃の顔がそこにあった。
「大丈夫ですか」
彼が|訊《たず》ねた。
「えっ」と、美希が聞き返すと、晃は心配気にいった。
「なんだか、脚がもつれそうに見えたから」
ぼんやりしていたにちがいない。へんなことを考えていたからだ。へんなこと……?
美希はどきりとした。
いったい私は何を考えていたのだ。
しかし、頭の中に生じた|妄《もう》|想《そう》を、意識の太陽の下に|晒《さら》したくはなかった。美希は、晃に、ありがとう、と小声で礼をいった。
向こうの木立の間に、小さな草地があるのが目に入った。探していた場所だった。これで少し気分が変えられる。美希はほっとして、そこを指さした。
「あそこに寄りましょう」
彼女は小道を|逸《そ》れて、木立の中を歩いていった。晃が後をついてくる。すぐに二人は、雑草のおい茂る草地に着いた。そこだけ木がまばらで、日当たりがよい。その一角に、ハート形の小さな葉のついた|蔓《つる》|草《くさ》が生えていた。美希は手籠の中からスコップを出すと、葉を|掻《か》き分けて、根を掘りはじめた。
晃が横にかがみこんで聞いた。
「何を取っているんですか」
「|茜草《あかねぐさ》です。これの根が染料になるがです」
美希は草の根元をぐい、と引いた。根が土をつけたまま引きずり出される。彼女はそれをビニール袋に入れて、また次の茜草の根を掘りはじめた。
「あかねさす |紫野《むらさきの》行き |標《しめ》|野《の》行き |野《の》|守《もり》は見ずや 君が|袖《そで》振る」
晃の言葉に、美希は|微笑《ほほえ》んだ。
「『万葉集』ですね」
「|額田王《ぬかたのおおきみ》の歌です。かつての愛人だった|大海人皇子《おおあまのみこ》が、野原で手を振っているという情景なんだけど」
彼は茜草の枝を一本折ると、考えるように鼻先に持っていった。
「この皇子の袖というのは、茜草で染めた色をしていたのかもしれないな。今まで、そんなふうに想像したこともなかったけど」
美希は、理香から聞いたことを思い出した。
「そういえば奴田原先生は国文科出身と……」
晃が美希の言葉を遮った。
「晃でいいですよ」
美希は口ごもりながら続けた。
「晃さん……は、国文科を出ていて、高校の古典の教師になれたのに、中学教師を選んだと理香から聞きましたけど、どうしてなんですか」
晃は、春の日射しに照らしだされた茜草の群生を眺めた。
「高校生を見たくなかったからかもしれない。自分が荒れていた時期を思い出すから」
「思い出すのもいやなほどなんですね」
美希は根を次々に掘り返しながら聞いた。晃はビニール袋を取ると、美希が地面に置いた根を中に入れてくれた。
「あの頃は、すごく孤立していたんです。自分と周囲のものとの、どうしようもない距離に気がついた時期だった」
「でも友達とか家族とか、いたでしょう」
晃の顔に影が走った。