「心を割って話せる友達はいなかったな。家族も、いてもいなくても同じだった。皆でテレビを見ながら、いわゆる家族の|団《だん》|欒《らん》をしているでしょう。すると突然、自分だけがとても離れたところにいる気分になる。兄と母が番組について何か話している。だけど僕はそこに入っていけない。口を開いた時には、家族の話題は次に移っている。僕が中に入りこめるのは、父母や兄が意図して僕と会話しようとした時だ。なんだか、すごくそんな気がしていた」
「わかるわ……」
兄一家の団欒の端に座っている自分自身の姿と重ね合わせて、美希は|呟《つぶや》いた。
そんな時、彼女は|親《しん》|戚《せき》の家にいるような気持ちになる。くつろげるようでいて、どこか緊張している。いくら母が同席していようと、そこは、兄と百代を中心とする家庭だった。一家の楽しい笑い声の中で、ぽつんと孤立する自分を感じることがある。
しかし、晃の場合は、美希のように叔母として団欒の場にいるわけではない。親子だった。彼女とは違う。
「きっと、思春期やったのね」
「いや、年齢に関係ないことだと思う」
彼はきっぱりといった。
きっと晃は特異な子だったのだろう、と美希は思った。時々、そんな子を見かける。両親とはまったく違う精神を持って生まれた子供。兄の道夫の三人の子供たちの中では、次男の満文がそうだった。下宿してまでも高知市内の高校に通いたいといいだすような性格は、両親にも兄妹の誰とも似ていなかった。そしてたまに帰省すると、二階の部屋で本ばかり読んでいた。
「終わりですか」
晃が聞いた。美希は、いつか自分が根を掘る手を止めていたのに気がついた。
晃が持っているビニール袋には、すでに充分なほどの|茜草《あかねぐさ》の根が入っていた。
「ええ、次に行きましょう」
美希はスコップについた土を払って、立ちあがった。
「次って?」
晃が、手籠にビニール袋とスコップを入れながら聞いた。
「茜草だけじゃ一色にしか染まりませんから」
「他にどんなものが染料になるんですか」
「色々ありますよ。青色なら、|藍《あい》、黄色は|合歓《ねむ》の木、緑は、やまももの木の皮……」
美希は説明しながら山道に戻った。晃が手籠を持ってくれて、先に立って歩きだした。
空気が湿り気を帯びてきた。頭上を覆う木々が密になり、陽を遮る。
前を行く晃の黒の皮ジャンの下で、|逞《たくま》しい肩が左右に揺れている。引き締まった|尻《しり》が動く。若い|牡《おす》の体臭を|嗅《か》ぎとって、美希の胸の|動《どう》|悸《き》が激しくなった。
この全身が騒ぐような感覚には覚えがある。もう二十年以上も前のこと。隆直と交わった日々。あの時もまた、こんな山の中だった。草の香りのする寝床で、激しく体を重ね合わせた……。
美希は自分が怖くなった。意識がとんでもない方向に向かっている。
春は危険だ。春の山は特に。最初に隆直と交わったのも、春の山だったではないか。そう、あの日。隆直に誘われて、山菜採りに行っていた最中、二人は林の中で抱き合い、それだけでは止まらなくなった。
彼女は息苦しさを覚えて、晃の背中から目を|逸《そ》らせ、天を見上げた。
木の枝の向こうに、空が透かし見えた。灰色の雲が流れていく。
美希は、おや、と思った。
さっきまで、あれほど晴れていた空が曇っていた。太陽の光は消え、山の景色は夕方のように暗く沈んでいる。
「晃さん」
美希の声に、晃が振り返った。
「天気が崩れてきたみたい」
晃は|怪《け》|訝《げん》な顔で、あたりを見回した。
湿った風が吹いてきて、下生えの草を揺らせた。林の上から灰色の霧が降りてくる。美希は、乱れた髪を撫でつけながらいった。
「山を降りたほうがいいと思う」
晃は不満気に洩らした。
「せっかく、ここまで登ったのに」
「また来ればええでしょ。雨でも降りだしたら、たいへんよ」
「せっかくのデートが水の泡か」
美希の顔が赤くなった。
「デートやなんて、やめてください」
彼女は|踵《きびす》を返して降りはじめた。晃が慌てたようについてきた。
「何を怒っているんですか」
おもしろがっている声が聞こえた。
晃は、自分をからかっているのだ。そう思う一方で、心が弾んでいる自分が忌ま忌ましかった。|年《とし》|甲《が》|斐《い》もない。こんな青年の冗談口をまともに受け取るなんて。
美希は山道を駆け降りていった。あたりはどんどん暗くなっていく。霧が草を|這《は》い、木々の幹にまといつく。ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。遠くで雷鳴が|轟《とどろ》いたと思うと、急に激しい雨に変わった。
ざざざざ。木の葉や草を揺らせて、雨が横なぐりに降ってくる。
「気をつけて、滑りますよ」
晃の声が聞こえた。
雨が首筋から、肌に滴り落ちる。土砂降りの中、白っぽい雨しか見えない。茶色の土の|覗《のぞ》く小さな道を頼りに行くしかない。稲妻が光り、どーんという音が轟いた。どこかに雷が落ちたようだった。美希は足を早めた。
そろそろ林が切れるはずだ。だが、なかなか林道に出ない。
おかしいと思いはじめた時、ぱっと目の前が開けた。よかった、林道に出た。ほっとして、顔を上げた美希は、立ちすくんだ。
目の前に赤褐色の|崖《がけ》が|聳《そび》えていた。山道はその崖の下で途切れている。
「どうしたの」
立ち止まった美希の後ろで、晃が聞いた。
「道を間違えたみたい」
美希は|呆《ぼう》|然《ぜん》として答えた。
切り立った崖には、緑の|蔦《つた》が絡まっていた。霧のたなびく崖の上に、黒い雨雲が垂れさがっている。もう二人とも、水の中を泳いだようにびしょ|濡《ぬ》れだ。
「あそこで雨宿りができる。行こう」
突然、晃が走りだした。草を|掻《か》きわけて、崖の下に近づいていく。その先の張り出した岩の下に、雨から避難できそうな空間があった。晃の後から、美希もそこに駆けこんだ。
体を打つ雨が消えた。
岩の下は、人二人がようやく入れるほどの|窪《くぼ》みになっていた。番所山のどこでもそうだが、ここの崖も赤土が多く混じっている。岩肌がぽろぽろとこぼれる柔らかさだ。だが、この程度の雨で崩れることはないだろう。外で雨に打たれるよりはましだった。
晃は、美希の籠を置くと、皮ジャンを脱いで地面に敷いた。
「ここに座ったらいい」
二人は肩を寄せ合うようにして腰を下ろした。美希は、濡れた髪を手で絞りながらいった。
「ごめんなさいね。ひどい道案内で」
晃は岩に背をもたせかけた。
「いや、けっこう楽しいですよ。山の中で雷の音を聞くなんて、めったにできない」
まだ雷鳴は続いていた。岩の縁から、雨粒が滴り落ちる。ざあざあざあ、という音が、周囲から押し寄せてくる。
美希は、そっと隣の晃の顔を眺めた。雨に濡れた髪の毛が額にへばりついている。白いTシャツが体の線を浮きあがらせている。
美希はその|逞《たくま》しい胸に|惹《ひ》きつけられた。彼の体に腕を回して、抱きしめたい、と思った。
その時、晃がいった。
「いいですよ」
美希は、ぎくりとした。
晃が黒目がちの|瞳《ひとみ》を彼女に向けた。
「わかるんです。僕、美希さんの気持ち」
美希の顔が引きつった。
「な、何のこと……」
晃は、頬を滑り落ちる水滴を手の甲で|拭《ぬぐ》った。
「高校の時、荒れたといいましたよね」
美希は、黙って晃の口許を見ていた。
「そのきっかけは、高校の女性教師だった。ある時、街でばったり会って、その人のアパートに誘われた。三十代半ばの独身女性でね。どういうことかわからないまま、その人に抱かれていた。彼女は、僕を欲していたんだ。なんだか自分の中の秩序といったものが消えていくような気がしたな。学校では男には見向きもしない堅物に見えたその教師が、僕の前で女をさらけだしていた。それからだった。年上の女性が僕を見つめる視線に気がついた。僕は僕で、その中に自分の孤独を|癒《いや》してくれる何かがあるかもしれないと思った。僕はまるで若い|燕《つばめ》のように、彼女たちに誘われるままに、ついていったけど……」
「やめてっ」美希は叫んだ。
「私もそうやというがやね。私も、そんな目で、晃さんを……」
「違いますか」
美希の唇が震えた。
本当のことだ。自分は晃を欲しがっていた。その高校教師のように、この若く美しい獣を欲しがっていた。
「私、帰りますっ」
雨の中に飛び出そうとした美希の手を、晃がつかんだ。
「誤解しないで。僕のいいたかったのは、そんなことじゃない」
晃は、美希を引き寄せていった。
「僕のいいたかったのは……」
そのまま、晃は強い力で美希を抱きしめた。美希は力が抜けていくのを感じた。
「やめて……」
晃の唇が覆いかぶさってきた。美希は、息が止まりそうになった。
稲妻が光った。
美希の腕が、晃の首に絡みついた。彼の手が乳房をまさぐる。|抗《あらが》おうとしたが、できなかった。彼女の体もまた、信じられないほど強く、晃を求めていた。それとも男を求めていたのだろうか。若かった日々の情欲が|蘇《よみがえ》ってきた。美希は、晃の体を抱きしめた。
晃が美希のTシャツをめくり上げる。皮膚のように張りついていた湿った服が|剥《む》けていく。美希の白い肌が濡れていた。晃が唇を|這《は》わせながら、自分のズボンを脱ぐ。美希は震えていた。それが|畏《おそ》れのためか、興奮のためかわからなかった。わかったのは、自分を抑えていた何かが、はずれてしまったこと。美希は、晃の唇を吸っていた。彼の皮ジャンが体の下で獣の匂いを放つ。晃の|瞳《ひとみ》が、彼女を射る。彼の腕が腰に回り、スパッツを脱がせると、彼女の中に入ってきた。
熱いものが、美希の下半身に|迸《ほとばし》った。すでに忘れたと思っていた興奮が体を駆け巡る。彼女の体が熱くなってきた。|喉《のど》から|喘《あえ》ぎ声が|洩《も》れる。それが自分の声なのか、晃の声なのか、もうわからない。
晃が|吼《ほ》えるような大声をあげた。美希の下半身に鈍い衝撃が走った。
そして時が止まった。
雨音は遠ざかっていた。晃は、精根尽き果てたように美希に重なっている。汗の浮いた彼の体の下で、彼女は目を外に向けた。
岩の縁に|溜《た》まった雨粒が光っていた。灰色の雲の間から、太陽の光が射している。|霧《きり》|雨《さめ》が優しく降っていた。崖の前に広がる林が明るい緑色に輝きはじめた。
その木立の中に、灰色のものが見えた。目を凝らした美希は、はっとした。
墓標だった。その中で一際大きな五輪塔が、影のように立っている。そして彼女は、自分のいる場所に気がついた。
赤岳だった。番所山の東の端。坊之宮家の墓場の裏手の崖だ。
美希は吐き気を覚えた。
なんということだ。私は、先祖の墓地の裏で、男と交わったのか。
突然、自分のしでかしたことに嫌悪感が湧いてきて、悲鳴をあげたくなった。また、あの時と同じように、自分の情欲に負けてしまったのだ。
彼女は、晃の体を押し|退《の》けると、散らばっていた服を震えながら身につけた。
晃がゆっくりと顔をあげた。彼は夢を見ていたように、ぼんやりとした顔をしている。美希は|裸足《はだし》を運動靴に突っこむと、岩の下から飛びだした。
「美希さんっ」
晃の声が聞こえた。
しかし、美希は振り返らなかった。濡れた草を蹴って走り続けた。すべてのものから逃げだしたかった。晃からも、過去からも、自分自身の肉体からも……。
8
白い湯気を立てながら、赤い液体が大鍋から流れ落ちる。|笊《ざる》に|茜草《あかねぐさ》の根を残して、|煎《せん》じ汁がバケツに溜まっていく。
美希は空になった大鍋を土間に置いた。
茜草の根からは、もう色は出そうになかった。後は、この煎じ汁に|楮《こうぞ》の繊維を浸して、染めればいい。
彼女は笊を取って、木べらでバケツの中の汁を混ぜた。赤味がかった液体が渦を巻く。それが絡み合う二つの肉体に見えた。
ぱしゃん。手から木べらが落ち、煎じ汁がスカートに散った。美希はバケツから顔を背けると、土間を出ていった。
晃とのことを忘れられない。彼の張りきった体の感覚が、今も美希の体の内奥を燃えたたす。
この二十年近く、忘れていた男の感覚だった。温かく、確かな|手《て》|応《ごた》え。それを自分がどれだけ激しく求めていたか、痛いほどに気づかされ、彼女はうろたえていた。
もう棄てた感情だと思っていた。自分には縁のない世界だとあきらめていた。なのに、情欲は消えてはなかったのだ。
美希は入口の柱にもたれかかり、顔を両手に埋めた。
このまま、この家で朽ちてしまいたいと願っていた。恋愛も肉欲も捨てて、静かに暮らしていたいと思っていた。しかし、自らの肉体に裏切られたのだ。
……肉体だけだろうか。裏切ったのは?
心のどこかで声がした。
おまえは、晃のことが好きになったのではないのか。あの、生意気な年下の男。若いくせに、どこか人生を知り尽くしたような口をきく、美しい青年を。
美希の顔から手が滑り落ちた。
庭先は、まるで色を失ったように、灰色の陰影に包まれている。空には|朧雲《おぼろぐも》が広がっていた。それが美希に、あの空を思い出させた。雷雨の降りしきる中で交わった、日曜日の空の色を……。
彼女の|瞳《ひとみ》が苦しみに揺れた。
後悔が心を|蝕《むしば》む。できることなら、あの日を永遠に記憶から消し去りたい。
きっと晃は自分をからかっただけなのだ。彼が高校時代に関係を結んだ年上の女たちのように、物欲し気に彼を見つめていた私にちょっかいを出しただけなのだ。
あれから晃は顔も見せない。
月曜日の朝、仕事場の縁側に、美希の忘れていった手籠と|茜草《あかねぐさ》の根が置かれていた。彼が届けてくれたらしかったが、中には手紙ひとつ置かれていなかった。そして五日過ぎたが、やはり何の連絡もない。あいかわらず晃のことを吹聴している理香によると、彼は、学校が終わった後、同僚の教師たちと池野の居酒屋に行ったりして、毎日、帰りが遅いらしい。美希は、晃は自分と顔を合わせたくないのだろうと考えていた。
女には不自由しない若い男が、四十女に本気で|惚《ほ》れるわけはない。あれは一時の激情だったのだ。
美希は額を柱に押しつけて、目を閉じた。
冷静に、あの出来事を|捉《とら》えようとすればするほど、自分がみじめになる。考えないことだ。忘れることだ。
やがて美希はため息をつき、顔をあげた。気持ちが乱れて、今日はもう仕事になりそうもなかった。
彼女はのろのろと土間に戻ると、茜草の根の|煎《せん》じ汁の中に浮いている木べらをつまみ上げ、水で洗った。そしてバケツに|蓋《ふた》をすると、戸締りをすませて、家路についた。
昨夜降った雨で、杉林の中の道はぬかるんでいた。靴の裏に泥が粘りつく。籐の籠を忘れてきたことに気がついたが、取りに戻ろうとも思わなかった。晃と寝た時に横に転がっていたというだけで、愛用していた籠も、今では|疎《うと》ましい存在に思えた。
杉林が切れて、林道に出た。斜面の上に坊之宮家の墓地がある。その墓標のひとつひとつが、美希に告げていた。
我々は見ていたぞ、と。
|逸《そ》らせた視線が、路傍の地蔵にぶつかった。半月形の唇が彼女を|嘲《あざ》|笑《わら》っている。
彼女は重い足どりで、村道に入った。
村の集会所の前で、男たちが、四、五人集まって何か話していた。皆、一様に顔を曇らせて、こちらに顔を向けている。
彼らも、私と晃との間の出来事を知っているのではないか。
ふと、そう思って、美希はぞっとした。
晃と一度寝ただけで、棄てられた女。
腕組みして、|頷《うなず》いたり頭を横に振ったりする男たちが、そう|噂《うわさ》している気がした。
美希は背筋を|強《こわ》|張《ば》らせて歩調を早めた。
「夜が、妙に気味が悪うてのう……」
「まっこと、たまらん」
村の男たちの会話の断片が耳に飛びこんできて、彼女の体から力が抜けていった。
もちろん彼らが、自分と晃のことを知っているはずはない。何を考えていたのだろう、私は。すべてのことを晃と関連づけて考えている自分が情けなかった。
やがて通りに雑貨屋や八百屋が混じってくる。八百屋の店先の野菜や果物を、自転車に子供を乗せた女が眺めている。
お好み焼き屋の前で、琴と味元が話していた。二人に会釈していると、酒屋から出てきた女とぶつかりそうになった。
「あら、すみません」
謝って、顔を向けると、ふさだった。普段と見違えるような鮮やかな山吹色のスーツを着ている。
ふさは美希とわかっても、ただ頭を下げただけだった。いつもの元気の良さのないのが気にかかって、美希は|訊《たず》ねた。
「どこか具合が悪いがですか」
ふさは浮かない顔で肩の白いハンドバッグをずり上げた。
「このところ頭痛や肩こりがひどうてねぇ」
「体を休めたほうがいいですよ」
彼女の言葉に、ふさは唇を曲げた。
「それができたらええけどね。毎日、あれこれ、やることがあってねぇ。今日も、これから池野の親戚のところにお祝いに行かんといかんがよ。|姪《めい》に子供ができたゆうもんで」
ふさは仏頂面で酒屋の中に目を遣った。その視線を追うと、カウンターに進物用の一升酒の箱を置いて店の主と話している、ふさの夫の洋介の姿が見えた。
今から夫婦|揃《そろ》って池野に行くのだろう。美希は、彼女を元気づけるようにいった。
「せっかくきれいな|恰《かっ》|好《こう》をしたがやき、頭痛なんか忘れんともったいないですよ」
ふさの顔が少し明るくなった。
「この服、私に似合うかしらん」
美希が頷くと、ふさの口調に張りが出た。
「高知市のデパートで見つけたがよ。|旦《だん》|那《な》さんは、そんな派手な服、やめちょけ、ゆうたけどね。気分転換に買物でもせんと、やってられんわ。こっちは毎日、旦那や子供の世話で、きりきり舞いしゆうがやき」
ふさには、中学と小学生の二人の子供がいた。上の子は、遠縁の家の娘を養女にしていた。このあたりでは子供ができない夫婦が養子をもらうことはごく普通のことだ。そうするとすぐに実の子が生まれるといい、そうしてできた子供を、じゃき|子《ご》と呼ぶ。ふさも二年後、じゃき子を身籠もった。長女は、自分が養子であるとは知らないままに育っている。
人間とは勝手なものだ。子供がいない時は、いかにも辛そうに、子が欲しいとぼやいていたくせに、今になると、二人の子育てが大変だと文句をいう。時々、彼女の家の前を通りかかると、ふさが子供を|叱《しか》る声と、それをなだめる夫の洋介の声が聞こえる。
「おまけに、この頃は夜になったら、家の鶏は騒ぐし、よう眠れんし……」
愚痴をこぼし続けるふさを眺めながら、美希は、彼女は幸福なのだ、と思った。
欲しかった子供もできたし、肉欲を慰めてくれる夫もいる。どうして私は、このようになれなかったのだろうか。ふさのような人生を送っていれば、あんな一時の激情に身を任せることもなかっただろう。年下の男に|翻《ほん》|弄《ろう》されることもなかっただろう。
ふさが|羨《うらや》ましいと思った。幸せを、幸せとも思わずに享受できるふさが……。
「頭痛も肩こりも、睡眠不足のせいやないかと思うがよ。もう肩こりゆうたら、ほら、ここが、ごりごりで」
といって、ふさは左手で肩を|叩《たた》こうとした。その時、指先が引きつったように、びくびくと震えた。彼女は、自分の指先を不思議そうに見つめた。
美希は彼女の顔を|覗《のぞ》きこんだ。
「どうかしたがですか」
ふさの丸い顔が左右に引っ張られたように|歪《ゆが》んだ。ハンドバッグが地面に落ちた。彼女は両手で頭を抱えて、その場にしゃがみこんだ。うつむいて、幼虫のように背中を曲げて、全身を小刻みに揺らせている。
美希はふさの肩に手をかけて、叫んだ。
「ふささんっ、ふささんっ」
その声に気がついた洋介が、酒屋から飛び出してきた。
「ふさっ、どうしたっ」
彼は妻を抱き起こした。ふさは夫の腕の中で震えている。|剥《む》き出された大きな目。口の端に白い泡のような|唾《つば》が|溜《た》まる。
「うううぅう」
|喉《のど》の奥から、|唸《うな》るような声が聞こえた。
尋常ならないふさの様子に、通りにいた人々が集まってきた。立ち話していた琴や味元、八百屋の前にいた女はもちろん、お好み焼き屋の|女将《おかみ》や八百屋や雑貨屋の店主まで出てきて、洋介に抱かれて全身を|痙《けい》|攣《れん》させるふさを取り巻いた。
酒屋の主が|眉《まゆ》をひそめて、洋介に聞いた。
「いったい、何があったがぞ」
洋介は、もの問いたげに美希を見た。美希は首を横に振った。
「私にはさっぱり。頭痛がするといいよったけど、話しゆううちに、急に……」
洋介も酒屋の主も、困惑したように顔を見合わせた。
その時、味元のしゃがれ声が響いた。
「|狗《いぬ》|神《がみ》に喰われたがじゃ」
皆、はっとして彼のほうを見た。
味元の垂れた|瞼《まぶた》の下の|瞳《ひとみ》がぎろりと光り、まっすぐに美希を射た。
私に何かいいたいのだろうか。
美希が聞こうとした時、隣にいた琴が、味元の服の袖を引っ張った。
「やめなさいや、味元さん」
味元は唇をすぼめ、ちろりとまた美希を横目で見た。
琴は、味元を人の輪から引きずりだした。そして何事か彼の耳許に|囁《ささや》きながら、集会所の方向に歩きだした。
その場にいた者は、二人の後ろ姿を見送っていた。誰も口を開かなかった。しかし皆が頭の中で、味元の言葉を|反《はん》|芻《すう》しているのはよくわかった。美希もそうだった。
しかし、いくら考えても、味元がなぜ自分を見て、狗神のことをいいだしたのか理解できなかった。
「わし、こいつを家に連れて帰るわ」
洋介が妻の両手をつかんで、背中に引きあげた。酒屋の主がふさの重い|尻《しり》を押す。ようやく夫の背におさまったふさは半ば意識を失い、ぐったりしていた。それでもまだ指先だけは、釣り針につけられた|蚯蚓《みみず》のように痙攣している。
洋介は、妻の|太《ふと》|股《もも》を両手で抱えると、村道を歩きだした。
美希は地面に落ちていたハンドバッグを拾うと、慌てて追いすがった。
「私、ついていきましょうか」
洋介の浅黒い顔に|逡巡《しゅんじゅん》が走った。
「いや……ええですわ」
彼は目を伏せるようにしていうと、美希の手からハンドバッグを受け取り、石段を上りはじめた。だらりとしたふさの手足が、夫の背で操り人形のように揺れていた。
洋介の様子も、どことなく変な気がした。思いがけないことに動転したためだろうか、と考えながら後ろを振り返った時だった。
人々の視線にぶつかった。通りにいた人々が、じっと美希を見つめていた。
彼らは美希と目が合うと、慌てたように彼女に背を向けた。酒屋の主は店に入り、八百屋の前にいた女は、自転車に乗って走りだした。お好み焼き屋の|女将《おかみ》も、他の店主も家の中に引っこんだ。
そして通りは、急にがらんとなった。
なぜかわからないが、自分の存在が疎まれたような気がした。彼女は商店通りを|一《いち》|瞥《べつ》すると、|踵《きびす》を返して、歩きだそうとした。
ブルルルル。
低いエンジンの音がした。
灰色の雲の垂れこめた村道を、青いバイクが上がってくる。髪を風になびかせて、黒の皮ジャンを着ている青年は、もちろん晃だ。
美希の心臓が大きく打った。
晃に会えた嬉しさと、この場にいたたまれないような息苦しさに、足がすくむ。
バイクは、路上の真ん中で立ち尽くす美希の前に来て止まった。
「やあ、美希さん」
|爽《さわ》やかな笑みを浮かべて、晃がいった。
私が|悶《もん》|々《もん》としていたというのに、この人は、こんなに涼しい顔をしている。
美希は怒りを覚えながら、背筋を伸ばした。
「おひさしぶりですね」
晃は、皮の手袋を|嵌《は》めた手でバイクの銀色のハンドルを|撫《な》ぜた。
「ああ。日曜日以来だ……」
彼の|瞳《ひとみ》が、美希を|捉《とら》えた。
彼女は体が熱くなるのを感じたが、それを表には出さないように、硬い笑みを返した。
「その節は、どうも」
美希は軽くお辞儀をすると歩きだした。晃がバイクをゆっくり走らせてついてきた。
「どうかしたんですか」
「どうもしません」
「待ってくださいよ」
「私、忙しいので、これで」
美希はぴしゃりといった。
彼は顔を曇らせた。
「話があるんです」
どうせ、あのことだと思った。自分のしたことを後悔しているのだろう。
美希は唇をきゅっと引き結んだ。
彼がそのつもりなら、自分から先にいってやる、と思った。
「日曜日のことなら、気にしないでください。私はもう忘れました」
晃は驚いたようにバイクから降りた。
「何をいってるんだ、美希さん」
そして美希の腕をつかむと|囁《ささや》いた。
「僕は忘れてない」
「ほんなら、どうして、何日も私と顔を合わせられんの」
|迸《ほとばし》るようにいってから、美希は舌を|噛《か》み切りたくなった。思わず出た本音だった。
晃は、美希の顔をじっと見て|微笑《ほほえ》んだ。
「怒っているの?」
美希は顔を背けた。つい先の石段の上の畑で、|鍬《くわ》を振るっていた男がこっちを見ている。美希は晃の手を払った。
「やめて。人が見ゆうわ」
「かまうもんか。美希さん、話があるんだ。聞いてください」
美希は、あたりに目を遣った。男はまた、畑に鍬を打ちはじめていた。がつっ、がつっ、という音が夕暮れ時の村に響く。
「話って、何ですか」
美希は聞いた。
「家に寄っていきませんか」
晃の借りている永田の家は、すぐそばだった。晃は、美希の返事を聞かずにバイクを家の前に止めると、鍵も閉めてないらしい格子戸をがらりと開けた。そして美希を振り向いてから、家に入った。
美希は少し|躊躇《ちゅうちょ》したが、晃の借家の敷居をまたいだ。
格子戸を閉めると、家の中は薄暗かった。狭い玄関の横に、一階に続く階段がある。急斜面に建てられている家なので、二階が入口になっている。
玄関のすぐ奥に、畳の部屋があった。
「上がってください」
晃が和室の窓を開けながらいった。美希は靴を脱ぐと、中に入った。
部屋は片づいていた。まだ荷物を整理していないのか、段ボール箱が二つ、片隅に置かれている。小型テレビと、大きなラジカセ。部屋の中央に|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》があり、その上に、雑誌やノートが積まれていた。
晃は、自分から話があるといったわりには急ぐふうでもなく、皮ジャンを脱ぐと、窓辺に立って外を眺めた。
窓の向こうには、灰色の空が広がっていた。雲の細い切れ間から太陽が|覗《のぞ》く。美希は卓袱台の前に正座すると、彼の姿を見つめた。浅黒い横顔に夕日があたって、|茜色《あかねいろ》に輝いていた。その顔を見ていると、また心が騒いでくる。美希は|膝《ひざ》の上で両手を握りしめた。
「この五日間、美希さんのところに訪ねて行こうと何度も思った」
ようやく晃が言葉を発した。
「だけど学校も忙しかったし、帰ったらなんだか、ぐったり疲れて早々に眠ってしまったもんで……」
「村の人は皆、寝苦しい夜に悩まされゆうというに、幸運ですこと」
晃は、美希の|棘《とげ》のある声を聞き流した。
「美希さんのことはずっと気にかかっていたんだ。だけど一人で考えたかった。どうして、あんなことになってしまったのか」
美希はきっぱりといった。
「忘れることです。私、どうかしてたんやと思う。晃さんやって、そうやったんですやろう。ほんやき、あのことはお互い、忘れたほうが……」
「僕の話を聞いてくださいっ」
晃の激しい調子に、美希は口を|噤《つぐ》んだ。
彼は卓袱台の前に座ると、彼女と向かい合った。そして静かに続けた。
「この一週間近く、ずっと考えていた。そして、わかったことといえば、僕はあの時、美希さんと寝たかった、それしか頭になかった、ということだけです」
「一時の情熱だったがです」
晃は決然と頭を横に振った。
「僕が、美希さんを好きになったからだ」
彼女の顔に皮肉な笑いが浮かんだ。
「やめてください。私みたいなおばさんに向かって」
「そうやって、自分を年齢の中に押しこめるのは、やめたらどうですか」
晃は卓袱台に両手をおいて、美希をじっと見つめた。彼女は、その視線から逃げるようにうつむいた。
「私は四十一です。それが真実です。晃さんはまだ若い。今は私を好きやとゆうてくれても、私に飽きたら、晃さんはまた別の女の人を見つけてやり直せるやろう。けど、私は、そんなことにはつきおうてられんがです。飽きて棄てられたら、もう先はない……」
美希の脳裏に、隆直の婚礼が|蘇《よみがえ》った。
床の間を背にして、紋付き|袴《はかま》姿で、|白《しろ》|無《む》|垢《く》の花嫁と座っていた隆直。
男に棄てられるとは、残酷な経験だ。それを、この年になって、再び繰り返したくない。
美希は低い声でいった。
「私のことは放っちょいてください」
晃は、彼女のほうに身を乗りだした。
「飽きるとか、棄てるとか。どうして今からそんなこというんです。僕は、美希さんが好きです。それだけではだめですか」
「人の気持ちは変わるもんです」
美希はつき放すように応えた。
「そうかもしれない」
晃は穏やかに|呟《つぶや》くと、首を|捩《よ》じって窓の外に目を遣った。赤く染まった山の|稜線《りょうせん》が曲線を描いて空を縁取っている。|烏《からす》の黒い群れが西に飛んでいく。
「だけど、変わらないかもしれない。僕は、美希さんと一緒にいると、とても安心できる。自分の場所を見つけたみたいな気がするんです。少なくとも、この|安《あん》|堵《ど》感は変わらない」
晃も、自分の居場所を見つけたいのか、と美希は感慨を覚えた。彼は、私と同じ孤独を抱えている。私たちは、その孤独感で|繋《つな》がっていられるかもしれない。
美希の心がふっと軽くなった。
どうして悪い方向にばかり考えるのか。二人の間に愛が芽生えてもいいではないか。
晃が腰を浮かせると、|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》を回って、彼女の肩に手をかけた。美希は吸い寄せられるように、彼の|瞳《ひとみ》を見つめた。
晃は、美希に|接吻《キス》をした。
日曜日の興奮が、体に蘇る。美希は、晃の首に腕を回した。晃の手が美希のブラウスに滑りこみ、背中を|撫《な》ぜた。彼女の肉体を確かめるように、大きな手で背中の薄い肉をつかみ、そして放す。晃が覆いかぶさってきて、美希は畳の上に仰向けに崩れた。
|痺《しび》れるような幸福感が全身に伝わった。
美希は目を閉じて、その感覚を|貪《むさぼ》った。
|瞼《まぶた》の裏に、細かな光の|粒子《りゅうし》が見える。それは虹の七色が織り混ざった幸福の色だ。私の求める色だ。
何もかも、棄ててしまえばいい。
体面も、年齢も。長い間、ずっと自分を肉体の|牢《ろう》|獄《ごく》に閉じこめてきた。解放してやってもいいではないか。
美希は、晃の体を抱きしめた。
激情は、止めようがなかった。全身が熱の塊と化した。晃が、美希のブラウスをはだけて、乳房を|露《あらわ》にした。彼女は、晃のシャツの下に手を差しこんだ。二人は唇を重ねながら、服を脱いでいった。
美希は、もう自分が何をしているか、考えなかった。ここに求めていたものがあった。なぜ、手を伸ばしてつかんではいけないのだ。
私は、この男が欲しいのだ。どうしようもなく、欲しいのだ。
美希は、晃にしがみつき、|喘《あえ》いだ。叫びだしたいような、力が体内から|溢《あふ》れてくる。晃は瞳を燃えたたせて、|喉《のど》の奥から激しい息を吐いている。
美希は興奮と陶酔の中で、晃の顔から目を|逸《そ》らせた。
開け放たれた窓が見えた。二人を見ているのは、赤く染まった空だけだ。このまま晃と一緒に、空に飛んでいけそうな気がした。この窓から、この村から、どこまでも広がる空へ。自由に|翔《と》びだせる気がした。