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作者: 当前章节:15406 字 更新时间:2026-6-23 00:46

「晃さん」

 美希は、彼の顔を見つめた。

「……好きよ……」

 晃の澄んだ瞳が細められ、美希は強い力で抱きしめられた。

   9

 洋服|箪《だん》|笥《す》の中に気にいった服はなかった。美希はハンガーを右手で手繰りながら、顔をしかめた。

 どの服も、自分が不恰好に見える気がした。かといって、今から服を買いに走るわけにもいかないと思って、美希は苦笑した。

 障子の外では、雨が|囁《ささや》くような音をたてて降り続いている。しかし、彼女の心は弾んでいた。

 今日は雨なので、午前中は休んだが、午後はどうしても仕事場に行くつもりだ。

 ——明日は土曜日だから、学校が終わったら、仕事場に和紙|漉《す》きを見に行くよ。

 昨日、晃がそういったから。二人で抱き合った後のことだった……。

 彼の家での出来事を思い出して、美希の顔が|火《ほ》|照《て》った。自分のどこから、あんな激しい感情が湧きあがってきたのか不思議だった。

 だが、もう罪悪感はなかった。

 ためらいや後悔は、昨日、美希の体の中で燃え尽きてしまった。彼女は、自分が外に一歩、踏みだしたことを自覚していた。踏みだしたからには、覚悟を決めていた。どうなろうと、二人の仲が行き着くところまで、行ってやろうと思った。

 美希は、結局、普段着のデニムのフレアスカートと白いブラウスに着替えた。そして鏡台の前に座って、髪の毛を|梳《と》かした。白い顔が映っている。すっと伸びた鼻筋、小さな唇。美希は指先で頬を|撫《な》ぜた。

 鏡に映る私の顔は、まだ若い。

 美希は薄化粧をすると、桜色の口紅を引いた。そして、ポケットに|財《さい》|布《ふ》と鍵とハンカチを入れて、部屋を出た。

 廊下の硝子戸に雨粒が滴り落ちている。遠くの山の|稜線《りょうせん》が墨絵のように重なる。庭の木々も雨に打たれて、うなだれていた。

 母の居室の前を通りかかった時、低い声が流れてきた。

「不動、|釈《しゃ》|迦《か》、|文《もん》|殊《じゅ》、|普《ふ》|賢《げん》、地蔵……」

 また善光寺念仏を唱えている。

 美希は開いた障子から中を|覗《のぞ》いた。

 仏間に、母が座っていた。|数《じゅ》|珠《ず》を手にして、背中を曲げている。大柄な母だが、最近はひとまわり小さくなったように見える。

 いったい何が母の心を悩ましているのだろうか。しかし、母にその質問をぶつけても無駄なのはわかっていた。心の底は決して明かさない人だ。

 以前、尾峰の婦人会で、|信濃《しなの》旅行の話が持ち上がったことがある。善光寺参りをしたいと昔から口癖のようにいっていた母に、美希も道夫も参加を勧めたのだが、理由もいわずに、頑として行こうとしなかった。

 台所に入ると、茶の間にテレビがついていた。前に百代が座り、兄の道夫が電話をしている。今日は雨なので、野良仕事も休みにしたらしい。受話器を握る兄の「先祖祭りは五月十八日ゆうことでな」という声が聞こえた。話し相手は分家の誰かだろう。

 美希は百代に、仕事に行くことを手振りで示すと、台所を出た。

 二階の理香の部屋は静かだった。まだ帰ってきてないらしい。晃は、もう学校を後にしただろうか。

 美希は白い雨靴を履いて、外に出た。柔らかな春雨が降りそそいでいる。彼女は傘をさすと、家の前の村道に出た。

 |濡《ぬ》れそぼる尾峰の村落は、妙に寂しげだった。畑に出ている者も、庭先でぼんやりと時を過ごす老人の姿もない。まるで誰もが家の中に隠れて、息をひそめているようだ。

 いつもの石段を降りようとした時、坊之宮の本家から、園子が飛びだしてくるのが見えた。傘もささずに、両手を握りしめて、怒っているようだ。

 また隆直と|喧《けん》|嘩《か》したのだろうか。

 そう思いながら、もう一度、園子を見た。

 顔を上気させ、肩を力まかせに左右に揺らせている。隆直の浮気が原因なら泣いているはずだが、今日の園子は殺気立っていた。

 美希は気になって、足を止めた。本家の前の坂道を降りてきた園子が、村道を歩いてくる。美希は彼女に近づいて聞いた。

「どこに行くの、園子さん」

 園子は返事もせずに、美希の横を通り過ぎた。そのまま村道をずんずん登っていく。美希は、小走りに園子を追いかけた。

「どうしたが、血相変えて」

 園子は|煩《うるさ》げに美希を見遣ると、吐き捨てるように応えた。

「沢田さんくや。あそこの子供が、うちの秋枝を|苛《いじ》めたがや。うちの子、泣きながら小学校からもんてきたがで」

 この村道の先にある沢田といえば、ふさの家だ。美希は、昨日のふさの様子と村人の態度を思い出して、いやな予感を覚えた。

「苛められてって、どうして……」

「おまんくは|狗《いぬ》|神《がみ》|筋《すじ》や、ゆうたんやって」

 園子は声を荒らげた。

 美希は驚いて聞き返した。

「狗神筋やって」

「そうよ。とんでもない話やわ。あそこの親に文句ゆうちゃる」

 雨に濡れた園子のこめかみが小刻みに震えていた。

 昨日、味元がいったことが、子供にまで伝わっている。ふさの突然の変化を、沢田家では狗神のせいだと決めつけたのだろうか。

「でも、どうして、うちが狗神筋やなんてゆうがやろ」

 美希は自問するようにいった。

「知らんわ。けんど、そんなこといわれる筋合いはないわ」

 園子はずんずんと村道を登っていく。この剣幕では、大騒ぎになりそうだ。美希は慌てて、園子の腕を取った。

「待って。隆直さんにでも行ってもろうたほうがええよ」

 隆直と聞いて、園子の目がつり上がった。

「あんな人、頼りになるもんかねっ」

 園子が美希の手を振り払った。傘が路傍に飛んだ。美希は急いで傘を取ると、走りだした園子を追った。

「待って、園子さん、園子さんっ」

 沢田家は、村道の曲がり角にある。園子が玄関に飛びこんで、硝子戸に手をかけた。美希がその肩をつかんだ。

「放してやっ」

 園子が彼女を憎々しげに|睨《にら》みつけた。

 その時だった。

「ぎゃああああっ」

 家の中から、悲鳴が響いた。

 園子も美希もはっとして、顔を見合わせた。

「出てこいっ。出てくるんじゃっ」

 男の怒声が続く。

 園子が意を決したように、がらりと硝子戸を開けた。

 そこは土間になっていた。薄暗い中に、自転車や段ボール箱、|薪《まき》の束が置かれている。その奥に座敷があった。座敷の前に靴がいくつも脱ぎ散らかされていた。

 美希と園子は土間を横ぎると、こわごわ中を|覗《のぞ》いた。

 テレビや食器棚の置かれた座敷の中央に、ふさが仰向けになって暴れていた。歯を喰いしばり、親指を|拳《こぶし》に隠すように握り締めて、四肢をばたばたさせている。顔はどす黒く|浮腫《むく》み、口のまわりは|涎《よだれ》でてらてらと光っていた。昨日から、この様子が続いているのだろうか。山吹色の服を着たままだ。しかし、その服の肩や|裾《すそ》は破れて、中から白い下着がこぼれ出ていた。

 ふさの周囲には、夫の洋介、それにふさの|舅 姑 《しゅうとしゅうとめ》が|憔悴《しょうすい》した顔で座っている。その間に、見覚えのある白髪頭の男がいた。尾峰神社の|太夫《たゆう》だ。いつもは農夫をしているが、祭事があると太夫職を務めている。

 太夫は、セーターにズボンという普通の|恰《かっ》|好《こう》で、ふさの体にかがみこみ、両手で白い御幣のついた|榊《さかき》を握りしめている。

「ゆうてみぃ、おまんに|憑《つ》いちゅうもんは何やっ」

「わ、わからん」

 苦しい息の下から、ふさが答える。

 美希も園子も、その光景を|呆《ぼう》|然《ぜん》と眺めた。家の者も、ふさと太夫のやりとりに夢中で、二人の来たことに気がつかない。

 太夫が榊を振った。ざわっ、ざわっ。その音がいやなのか、ふさはまた悲鳴をあげて、体を|捩《よ》じらせた。白目が|剥《む》きだしになり、|呻《うめ》き声が|洩《も》れる。近寄ろうとした夫に、太夫は、放っておけ、と怒鳴り、またふさにかがみこんだ。

「ゆうんじゃ、どんなもんが憑いちゅうがや」

 ふさは、ばたんとうつ伏せになり、獣のように背中をのけ反らせて、首を左右にちぎれるほど振った。背中で乱れた髪の毛が揺れる。

「何が入ってきた、ゆうんじゃっ」

「こ、こんまい虫みたいなもんや……」

 ふさは両手をぶるぶると宙に突きあげた。そして、自分の力では思うままにならないらしく、必死の|形相《ぎょうそう》で指を開こうとした。曲げられた指の|爪《つめ》が紫色に変わっている。ふさは半ば開いた自分の指先を|睨《にら》みつけながら、押し|潰《つぶ》された声をだした。

「つ……爪の間から入ってきた。爪の間から、こんまい虫みたいなもんが……もぞもぞ……入ってきた」

 太夫がまた榊を振った。ふさの体が硬直して、手がぱっと開いた。

「なんで入ってきたがや」

 太夫が聞く。ふさは肩で息をしながら、言葉を押し出した。

「あ……あたしの服を欲しがっちゅう」

「どの服や」

 びゃうびゃうびゃう。奇妙な音が、ふさの|喉《のど》から洩れてきた。太夫が片足を立てて、身を乗り出すと、また榊を振った。

「びゃぅうう、びゃううぅっ」

 猫とも犬ともつかない声が部屋に響いた。ふさはごろごろと畳を転がった。

「私の服……この服が欲しいと……」

 ふさが自分の服の|裾《すそ》を引っ張って、苦しげにいった。

 太夫が洋介に怒鳴った。

「ものを欲しがるんやき、やっぱし|狗《いぬ》|神《がみ》じゃ。狗神は、欲しいもんが手に入るまで出ていかんぞ。洋介さん、ふささんの服を脱がせて、狗神にくれちゃれ」

 洋介と、|姑《しゅうとめ》が暴れるふさに組みついて、服を脱がせようとした。びりびりりっ。服の破れる音がした。しかし、二人はそれに構わず、服をむしり取った。そして、ぼろぼろの布きれになった服を、太夫に差し出した。

 太夫は、山吹色の塊を、シュミーズ一枚になったふさに投げつけた。

「ほら、服はやる。やったき、出ていけっ」

 びゃうびゃう、とまたふさが鳴いた。

 ざわっ、ざざざっ。太夫が、ふさの体の上で榊を左右に振った。緑の葉がこぼれて、畳に散った。ふさは、その葉の上に転がり、また悲鳴をあげた。

 しかし、悲鳴は今度は少し弱まったようだった。ふさの手足の肉が波のように震えだした。薄いシュミーズを通して、太った腹の肉も波立っているのがわかる。その波は、ふさの全身を覆い尽くした。

 ざっ、ざっ、ざっ。

 太夫は榊を振り続ける。

 肉の波が、ふさの腕のほうに押し寄せられていく。断末魔の獣のように|痙《けい》|攣《れん》していた、ふさの体の動きが少しずつおさまってきた。

 ふさは、ゆっくりと畳から起きあがり、四つん|這《ば》いになって、うつむいた。むっちりした両腕の肉が、びくびくと動く。

「出ていく……」

 |嗄《か》れた声で|呟《つぶや》くと、ふさは四つん這いになったまま、うっと背中を丸めた。

 畳の上に茶色い|吐《と》|瀉《しゃ》物がこぼれ落ちた。あたりに、すえたような臭いが広がった。しかし、ふさは、自分の吐いたものをじっと見つめている。

「出ていく、出ていく。狗神が出ていく」

 ふさは|涎《よだれ》を垂らしながら呟き続ける。茶色に濁った胃液が、畳の黒い縁に沿ってつつっと延びていく。

 太夫も洋介も、ふさの舅姑も|惹《ひ》きつけられたように前のめりになって、その細い筋の行方を目で追った。どろりとした吐瀉液はまるで意志を持っているように流れていく。畳の縁に沿って、まっすぐ、美希の許へ……。

 その場にいた者の視線が釘づけになった。誰もが今さらながらに、彼女が来ていたことに気がついたようだった。

 美希は皆の視線を浴びてたじろいだ。すでに、ふさの奇態な様子に気勢をそがれていた園子が、|怯《おび》えたように彼女に寄り添った。

 しばらく誰も何もいわなかった。

 雨の音が座敷を包んだ。

 太夫が|喉《のど》を鳴らして|唾《つば》を|呑《の》みこむと、畳の上に腰を落とした。

「よかった、美希さん。狗神様を迎えに来てくれたがか」

 美希はぎょっとして太夫の顔を見返した。

 太夫は引きつった笑みを仮面のように顔に貼りつけている。

「ち……ちがう」

 そう呟いたとたん、顔に何かが飛んできた。ぷん、と汗の臭いがして、足許に、ふさの着ていた山吹色の服が落ちた。

 青ざめて面を上げると、ふさの姑の|憎《ぞう》|悪《お》に燃えた顔にぶつかった。

 黄色い歯を|剥《む》きだして、老婆が怒鳴った。

「服はやるきに、狗神を連れてとっとと帰っとうぜっ」

   10

 赤紫色の肌の赤子が、|闇《やみ》に浮かんでいた。首に|臍《へそ》の緒を巻きつけて、膨れ上がった|瞼《まぶた》の下から、美希をじっと見つめている。

 その首から、臍の緒がずるりと離れた。巨大な|蚯蚓《みみず》の腹のような臍の緒が、ゆっくりと宙に伸びはじめた。赤黒い切断面を見せて、美希のほうに漂ってくる。

 身動きひとつできない彼女の首に、冷たいものがまといついた。臍の緒が、ぎりぎりと絞まる。美希は口を大きく開いた。息ができない。首がちぎれるように痛い。

 私は殺される。自分の子に殺されるのだ。

 いや、ちがう。これは悪夢だ。目を覚ますのだ。美希は自分にいい聞かせ、やっとの思いで瞼をこじ開けた。

 背中に布団の感触を覚えた。薄闇に、ぼんやりと部屋の障子や|箪《たん》|笥《す》の輪郭が浮かぶ。

 美希は飛び起きると、枕元の電気スタンドのスイッチを押した。小さな音がして、|眩《まぶ》しい光が広がった。

 彼女は全身の力を抜いて、布団に仰向けになった。

 電気の光は、|安《あん》|堵《ど》感を与えてくれる。

 それにしても、恐ろしい夢だった。自分の子に殺される夢とは。しかも、なんと真に迫っていたことだろう。まだ、首にぬるぬるした臍の緒が巻きついている気がした。

 美希は自分の首を|撫《な》ぜながら、部屋を見回した。波のような木目で覆われた天井板。きっちり閉められた障子窓。白木の洋服箪笥や古ぼけた机。見慣れた部屋の家具が、彼女を取り巻いていた。

 よかった。この部屋までは、悪夢は忍びこんできてはいない。

 その時、天井の電灯から下がった|紐《ひも》が揺れているのに気がついた。美希が|仰《あお》|向《む》けになったまま、どんなに手足を動かしても届く距離ではない。なのに、風もないのに振り子のように動いている。

 紐があるのは、美希の頭の上だ。夢の中で、赤子が浮かんでいたのは、ちょうどそのあたりだった。

 白いナイロンの紐が揺れ続ける。ふらり、ふらり……。

 美希は、がばっと起き上がった。

 そして引き戸を開けると、パジャマ姿のまま部屋を飛びだした。

 廊下のつきあたりに台所の豆電球が|灯《とも》っている。廊下の床が、|橙色《だいだいいろ》の光を反射していた。美希は寝室の戸を背にして立ち止まった。灯台の光のような豆電球を見ていると、気持ちが落ち着いてきた。

 電気の紐が揺れていただけだ。赤子が現れたという証拠にはなりはしない。きっと、どこかから|隙《すき》|間《ま》|風《かぜ》が吹いてきたのだ。

 美希は、視線を廊下のカーテンに向けた。硝子戸が開いていたのかもしれない。それが部屋の戸の隙間から入りこんだのだ。きっと、そうだ。

 だが、硝子戸が開いているかどうか確かめるために、カーテンを開ける気はしなかった。窓の外には、またあの漆黒の闇が漂っているだろう。夜というには、暗すぎる闇が……。

「……みい、よぅ、いつ、むぅ……」

 かすかな声が耳を打った。

「やぁ、ここのぉ、とぉ、じゅういち……」

 母の声だ。また、何かを数えている。

 二週間ほど前のことを思い出した。やはり真夜中、この声を聞いたのだ。母は眠れないので、畳の目を数えていたといっていた。しかし、その言い訳に、美希は納得できないものを感じたのだった。

「じゅうさん、じゅうしぃ、じゅうごぉ……」

 声に誘われるように、美希は足音を忍ばせて、母の部屋に近づいていった。

 白い障子に青白い光が|滲《にじ》んでいる。美希は障子の桟に指をかけて、戸を横に滑らせた。

 この前と同じように、母の布団の中は空だった。蛍光灯の光が、仏間との境の|襖《ふすま》の隙間から|洩《も》れている。

「にじゅういち、にじゅうにぃ、にじゅうさん……」

 呟くような母の声は続いている。美希は、寝室を横ぎると、襖の間から中を|覗《のぞ》いた。

 黒塗りの仏壇の下に、母の丸めた背中があった。右手を動かして、|膝《ひざ》の上の何かを指さしながら数えている。

「にじゅうく、さんじゅう……おらん。やっぱり、おらん」

 富枝は途方に暮れたように呟くと、頭を左右に振って、また「ひぃ、ふぅ、みい」と数えはじめた。

 いったい何をしているのだろう。畳の目を数えているのではないのは確かだった。

「お母さん、何を数えゆうが」

 美希が襖を開け放った。

 富枝の肩がびくりと震え、膝に置いたものを両手で隠すように抱えこんだ。そして首だけを、ゆっくりと|捩《よ》じった。

「美希か……」

 富枝は苦々しげに呟いた。寝起きの乱れ髪が、|窪《くぼ》んだ頬の周囲で|蜘《く》|蛛《も》の糸のように広がっている。

 美希は仏間に入ると、母の前に回った。富枝は膝の上のものを寝巻きの|袂《たもと》でさっと隠した。しかし、袂の下から茶色のものが覗いているのがわかった。|南瓜《かぼちゃ》ほどの大きさの|壷《つぼ》だった。同色の陶製の|蓋《ふた》がついている。美希は、それに見覚えがあった。

「先祖祭りの時の壷やないの」

 母は渋々というふうに|頷《うなず》いた。

 美希は、なぜ母がその壷を慌てて隠したのか不思議に思った。

 茶色の何の変哲もない壷で、毎年、先祖祭りの時、先祖の塚の前に置かれるものだ。|榊《さかき》や|蝋《ろう》|燭《そく》立てなどと同じように、先祖祭りに関わる必需品のひとつとしか見なしていなかった。その壷が、自分の家にあるとも知らなかったし、興味もなかった。しかし、仏壇の最下段の棚の引き違い戸が開けられているところを見ると、母はそこに壷を安置していたようだった。

 美希は戸惑いながら聞いた。

「その中に何か入っちゅうがやの」

 富枝はまだ壷を隠すようにして、仏壇を見上げた。「御先祖様之霊」と書かれた|位《い》|牌《はい》に目を止めて、しばらく思案していたが、やがて深い息をついた。

「まあ、いつかは話そうかと思いよったことや。今、ゆうちょいてもええかもしれん」

 母の言葉に、美希は胸騒ぎを覚えた。

「何のこといいゆうの」

 富枝は|笹《ささ》の葉に似た切れた目で、美希の顔を見据えた。その|皺《しわ》の寄った唇から、|囁《ささや》きが|洩《も》れた。

「|狗《いぬ》|神《がみ》様のことやよ」

 その言葉は、銃弾のように美希の心に突き刺さった。

 ——狗神様を連れてとっとと帰っとうぜ。

 今日、ふさの家で投げつけられた言葉が|蘇《よみがえ》った。

 なぜ母までが狗神のことをいいだすのだ。あの出来事を耳にしたのだろうか。

 だが美希は、狗神のことについては思い出したくもなかったから、午後、仕事場に来た晃にすら黙っていた。園子も、自分の一族をおとしめるようなことをいうはずはない。

 母が、ふさの狗神憑き騒ぎを知っているとは思えなかった。

 困惑している美希の前で、富枝はゆるゆると背筋を伸ばした。仏間の壁に映る母の影が大きくなった。母は、膝の上に載せた壷を両手で抱えて続けた。

「この壷の中にはな、坊之宮の狗神様がおられるがじゃよ」

 美希は、すぐには母の言葉の意味がわからなかった。

「坊之宮の狗神様? うちに狗神がおると……」といいかけて、彼女は、はっとした。

「つまり、うちは狗神筋やゆうわけか」

 母は重々しい顔で|頷《うなず》いた。

 では、ふさの家で投げつけられた言葉は、ただの根も葉もない中傷ではなかったのか。美希はたまらなくなっていった。

「けど、そんなの、ただの言い伝えやろう」

 母は、苦しそうに目を細めた。

「ただの言い伝えやったら、どんなによかったことか」

 長年の野良仕事で荒れた手で、富枝は壷の肌を撫ぜた。

「この壷は、うちが本家からこの分家に嫁いで来る時に、お|祖母《ばあ》さんに譲られたがよ。この中には、坊之宮一族の狗神様がおられるきに、これからは、おまんが狗神様をお守りせにゃいかん、ゆわれてのう」

「中には、何も入ってないがやろ」

 雑貨屋に行けば五百円ほどで売っているだろう壷だった。神様の入る器には、とうてい見えない。

 しかし母は皮肉な笑みを浮かべると、片手で壷をそっと|叩《たた》いた。

「狗神様はちゃんとこの中におられる。大豆ばあのこんまい神様が入っちゅうがぞね」

 ふさの言葉を思い出した。爪の先から、小さなものが入ってきたといっていた。

 美希は落ち着かない気分で、壷を見つめた。ことり、と富枝が壷を畳の上に据えた。電灯の光を鈍く反射する壷は、仏間の中央に置かれた時限爆弾のようだった。

 母も壷を眺めながら、話を続けた。

「狗神様は、本家の血を引く女がお守りせんといかん。お祖母さんは本家の生まれで、養子をもろうて家を継いだけど、娘はできんかった。ほいで孫娘のうちが嫁ぐ時に、壷を譲ることにしたがよ。そうやってこの壷は、坊之宮の女と一緒に、本家や分家の間を行き来してきたわけぞね」

 美希は、仏壇の下の棚に目を遣った。母は、彼女の考えを察していった。

「そうよ。うちは壷をそこに置いて、ずっとお|祀《まつ》りしてきたがよ。坊之宮の女はのぅ、一遍、壷を預かったら、次の者に譲るまで、毎日、狗神様にお供え物をあげにゃいかん。狗神様は欲張りな神様や。一日でも、お祀りをせんかったら、すぐ外に出て、他人様にとり|憑《つ》きよる。反対に大事にしちゃったら、うちら一族をお守りくださって、家は栄えるきにね」

 美希は、母の話を|呆《ぼう》|然《ぜん》と聞いていた。

 自分の家が狗神筋だったばかりか、実際に狗神の入っているという壷まで継承されていたことに驚いていた。

「けど、私、今まで一度も、狗神のことらぁ聞いたこともなかったよ」

「狗神様のことは、誰も大きな声じゃあいえやせん。憑かれたら怖いゆうて、いやがられるきにのぅ。坊之宮の者でも、うちが狗神筋やと知っちゅう者は年寄りくらいのもんじゃ。まして、この壷に狗神様がおられるゆうことは、うちの他は誰も知らん」

「お母さんだけ?」美希は聞き返した。

「本家の誰も、長老の治さんも知らんの」

 富枝は|微笑《ほほえ》んだ。

「男の人は知りゃあせんよ。たとえ知っても、狗神様は見えやせんき、信じんやろ」

「見えるって……」

 母は壷を再び膝に上げた。そして、陶製の|蓋《ふた》のつまみを指でいじりながらいった。

「そうよ。狗神様が見えるんは、女だけ。それも坊之宮の血を継ぐ女だけ。百代さんは、この家の血が入ってないき、狗神様は見えやせん。この家の女で見えるのは、美希と理香だけやろな」

 美希は首を横に振った。そんなもの、見たいとも思わなかった。

「ほんで毎日、壷の中を|覗《のぞ》いて、狗神様を数えるがよ。一匹でも足りんと、よそ様んくに行って、悪さをしゆうかもしれんきのう。それがこの前から、狗神様が連れ立っておらんようになる」

 母は、かたり、と壷の蓋をはずすと、中を覗きこんだ。

「ちょうど皆が、悪い夢を見るじゃの、寝苦しいじゃの、いいだした頃よ。朝、狗神様の数を確めてみたら、五匹もおらんなっちょった。それから気をつけて見ると、毎晩ぞろぞろ出ていきゆうがよ。|一昨日《おととい》は、いっぺんに二十匹も出ていっちょった。昨日の晩になったら、もんてきたけどの」

 一昨日といえば、ふさが狗神に|憑《つ》かれた日だ。青ざめる美希の前で、壷にかがみこんだ母が|呟《つぶや》く。

「悪い予感がするがよ、美希。今までやったら、狗神様が出ていったゆうても、一匹や二匹やった。それで村の者も狗神様に喰われたと気がつく前に、こっそり戻ってきよった。ところが、今度はいっぺんにいっぱいおらんようになる。それも夜になると、何かに呼ばれるみたいに出ていくがよ。ほら、こういいゆう間にもおらんなる。ひぃ、ふぅ、みぃ、よう……」

 右手で指さすようにして、壷の中を数えはじめた母の姿に、美希の抑えていたものが爆発した。

「やめてっ。狗神らぁ、ただの迷信じゃいか」

 富枝が壷から顔を上げた。哀れみの表情を浮かべ、母は壷を娘に差しだした。

「信じんがなら、美希。中を見たらええ。ここに狗神様がおられるぞ」

「おるはずないわ……」

 美希は自分にいい聞かせるようにいった。

 母は、彼女の前に茶色の壷を置いた。

「見てみい。おまんも坊之宮の女や。狗神様が見えるはずじゃ」

 美希は壷を|睨《にら》みつけた。

 狗神なぞいるはずはない。そう確信しているのに、中を見るのは怖かった。

 しかし、確かめるべきだと思った。狗神がいないということを。

 美希は壷に体をかがめた。

 |闇《やみ》が壷の底に漂っていた。まるで、今、外に満ちているだろう、あの漆黒の闇のようだ。目を凝らしても、何も見えはしない。

 美希の肩から力が抜けていった。

「おらんよ、お母さん。狗神様なんか、おりゃあせん」

 耳許で母の|苛《いら》|立《だ》った声が聞こえた。

「よう見んか。壷の底に目を凝らすがよ。普通やったら、坊之宮の一族の数だけ、狗神様がおられるはずじゃ」

 美希はうんざりしながらも、最後の|一《いち》|瞥《べつ》を送った。

 やはり何もない。壷の底には、漆黒が|溜《た》まっているだけだ。ただの黒い……光?

 美希は、ぎくりとした。

 壷の底に、黒いきらめきが見えた。針の先ほどの小さな光が、いくつも底に沈んでいる。

 それは眼だった。

 虫のような小さな眼が、|冥《くら》い闇の|淵《ふち》から、美希を見返していた。

 心臓を冷たい手でつかまれたような気がした。壷から|強《こわ》|張《ば》った顔を上げると、母の満足気な表情とぶつかった。

「狗神様は、おられたやろう」

 富枝が|囁《ささや》いた。美希は頭を激しく横に振ると、壷の中に手をつっこんだ。

「美希っ、やめやっ」

 母が止めようとしたが、もう遅かった。

 美希の指先が冷たいものにあたった。つるつるした感触が伝わってきた。

 壷の底だ。手で撫ぜ回したが、他には何も触れなかった。豆粒のようなものは何も……。

 彼女は手を引き出すと、もう一度、壷の中を見た。小さなきらめきが見えた。だがそれは、壷の底の陶器の肌の反射に過ぎなかった。

「狗神らあ、おらんよ」

 美希は硬い口調で、母に告げた。

   11

 南庭のコンクリート塀の内側に、草履が落ちていた。洗濯物を干していた美希は、拾おうとして、顔をしかめた。|濡《ぬ》れた草履は、胸の悪くなるような異臭を放っていた。

 背後で、がたん、という音がした。振り向くと、母の富枝が縁側の硝子戸を開けて、庭に降りようとしている。

 美希は草履を指さしていった。

「見てちや、お母さん。こんなところに、変な臭いのする草履が落ちちゅうがよ」

 母は突っかけを履いて、美希の隣にやって来た。|藁《わら》があちこちから飛びでた古草履に目を遣ったとたん、母の表情が凍りついた。

「村の者の仕業や」

「けど、どうしてこんなことを……」

 美希はわけがわからずに聞き返した。

 母は|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せて草履を睨んだ。

「昔から、|狗《いぬ》|神《がみ》様に|憑《つ》かれんようにするには、狗神筋の家の棟を越すように、お便所に|漬《つ》けた草履を投げるとええゆうがよ」

 では、これは坊之宮の狗神避けの|呪《まじな》いなのだ。美希の心に、不快感が湧きあがった。

 ふさの一件以来、村の空気はおかしくなっていた。立ち話をしても、以前のように会話が弾まない。買物の時の応対がつっけんどんだ、と百代は怒っていたし、昨夜は、兄の道夫が集会所の会合で|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》して帰ってきた。村の何戸かの家の共有地、組地の運営について話していたら、番所山の墓地に隣接する林の木を伐採する件が出た。坊之宮の者が反対すると、あんたたちの意見なぞ聞きとうない、といわれたと、日頃はおとなしい道夫が声を荒らげて憤慨していた。

 そんなことが重なり、今では美希だけでなく、家族の者も、坊之宮家が狗神筋だということが|囁《ささや》かれていることに勘づいている。

「どうして村の人は、急に狗神のことをいい立てるようになったがやろう。これまでそんなこと、いわれたことなかったに」

 悔しさに美希の声が震えそうになった。母の面長の顔に薄笑いが浮かんだ。

「皆、狗神様が怖いき、口に出さんかっただけぞね。忘れちょったわけやない。心の中でいっつも思いよったがや。坊之宮の者は狗神筋やき、下手なことして怒らせたらいかん。|崇《たた》られる、狗神に喰われる、ゆうての」

 美希は小さい頃を思い出した。

 村の年寄りは、坊之宮の美希ちやん、といって、かわいがってくれた。他の子なら厳しく|咎《とが》められるいたずらも、美希や、坊之宮の子供たちならば、軽い|叱《しっ》|責《せき》ですんだ。大きくなってから、美希はその理由を、坊之宮が村の旧家のせいだからと理解していた。

 しかし母の言葉通りなら、村の年寄りは、坊之宮の一族だから、美希たちを恐れていたということになる。

 その恐怖が、ふさの一件で、こんな形で噴きだしたのだ。美希は、押し|潰《つぶ》された油虫のような草履を見下ろした。

「ひどいことするわ。こんなことをした人の家に、この草履、投げ返しちゃりたい」

「仕返しらぁ、考えたらいかん」

 母は真剣な顔になり、低い声でいった。

「坊之宮の者は、他人様のことを悪う思うたり、|羨《うらや》んだりしたらいかん。そんなこと、ちょっとでも考えてみや、狗神様が、たあっと壷から出て、喰らいついていくきの」

 狗神の壷のことは、もう聞きたくもなかった。美希は激しい調子でいい返した。

「私は、うちに狗神がおるなんて信じんよ」

 彼女は母に背を向けて、庭の隅の物置に行った。|竹箒《たけぼうき》や|塵《ちり》取りを|掻《か》きまわして、草履をつまむための|柴《しば》|挟《ばさ》みを探していると、少しずつ気持ちも落ち着いてきた。

 不安を掻き立てられる夜が続くために、村人の気持ちが|苛《いら》ついているのだ。きっと、季節の変わり目だからだ。春が過ぎれば、眠れない夜も消えていく。以前の生活が戻ってくれば、狗神騒ぎもおさまるはずだ。美希は、そう自分にいい聞かせた。

 やっと柴挟みを見つけて、物置を出た。

 庭にはもう母の姿はなかった。

 彼女は草履を柴挟みでつまむと、|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》に行って焚き口に放りこんだ。それから庭に戻り、洗濯物の残りを干した。

 朝の家事が一段落つくと、もう十時になっていた。身支度を整えると、|籐《とう》の|手《て》|籠《かご》を持ち、仕事場へと向かった。

 五月の陽気があたりにたちこめていた。緑は濃くなり、家々の庭のつつじが、鮮やかな桃色や朱色の花を咲かせている。

 花や草の香りが、美希の心を和らげた。

 石段を降りていくと、晴子の家が見えた。小さな家はやけにひっそりしていた。微風を受けて、物干し|竿《ざお》の白いシャツや下着がはためいている。軒下に干された|玉《たま》|葱《ねぎ》。縁側に散らばった玩具。さっきまで人のいた気配がある。しかし家は静まり返っている。

 庭先を通り過ぎて、ふと振り返ると、縁側の障子の後ろで影が揺れた気がした。

 晴子が隠れているのだろうか。ただの思い過ごしだろうか。美希は考えながら、再び石段を降りはじめた。

 味元が|杖《つえ》を突いて上ってくる姿が、目に飛びこんできた。

 美希の足どりが鈍くなった。

 ふさの様子がおかしくなった時、「狗神に喰われたがじゃ」と宣言したこの老人を、美希は最近、敬遠していた。今回の狗神騒ぎの口火を切ったのは、彼ではないかと疑っていたからだ。

 しかし今、味元を無視してすれ違うわけにもいかなかった。おまけに彼はすでに美希を認めて、含みのある顔で近づいてきていた。

「おお、美希さん」味元は、石段の端に寄った美希に話しかけた。

「もう山には行かんほうがええぞ」

「どういうことです」

 味元は歯の抜けた口を大きく開いて、ゆっくりといった。

「やっぱり山犬がのう、うろつきよる。それも、たまあ太い山犬らしい。うちの息子が畑で足跡を見つけたいいよった。夜になったら、村まで降りてきゆうらしい」

 煙草のやに臭い味元の息に、美希は顔を背けたくなった。しかし彼は、杖に上半身の重みをかけて、さらに彼女にかがみこんだ。

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