「あんたんくの狗も喰われるかもしれん」
美希は、はっと味元の顔を見返した。
深い|皺《しわ》の中で、老人の目が意地悪く光っていた。
「気ぃつけや」
味元はからからと笑った。
美希は老人の横を擦り抜けると、石段を走り降りた。
商店の続く通りを、怒りにまかせて、ずんずん歩いた。暗い店の奥から、じっとこちらを|窺《うかが》う視線を感じる。きっと味元の先の言葉は、村の誰もが思っていることなのだ。
——狗神なぞ、山犬に喰われてしまえ。
ほんとうは皆、そういいたいのだ。だが、面と向かっていえない。せいぜい味元のように、あてこすりをいうしかできないのだ。
新緑の斜面に|佇《たたず》む坊之宮家の墓標が見えてきて、美希はようやく足を緩めた。
ここまでは人の視線はついてこない。
路傍の地蔵に、籠に入れて持ってきた|饅頭《まんじゅう》を供える。いつものように合掌すると、彼女は仕事場に続く山道に入っていった。
杉林の間に太陽光線がまっすぐに射しこんでいる。むせ返る若葉の|匂《にお》いの中を歩きながら、美希は不意に、晃に会いたい、と思った。あの|逞《たくま》しい体に抱かれたい。そうすれば、このささくれだった心は慰められるにちがいない。
晃の家で抱き合った日から、美希の生活は一変した。仕事場で過ごす時間がもどかしくてならない。心はいつも晃に向いている。杉の葉を踏みしだいてやって来る彼の足音を、全身を耳にして待っていた。
この二週間ほど、学校が早く終わると、晃は必ず美希の仕事場に立ち寄ってくれる。彼は社交辞令ではなく、心から和紙作りに興味を覚えているようで、美希が話した七色を混ぜ合わせた和紙作りに夢中になった。今では彼女に教わりながら、和紙の原料を染める仕事を手伝ってくれるようになっている。もっとも二人の共同作業は、激しい抱擁へと変わってしまうのが常だったが。
杉木立が切れて、仕事場にしている家が現れた。すぐに美希は、縁側に腰をかけている誠一郎に気がついた。彼女は驚いて近づいていった。
「あら、土居さん」
誠一郎は美希を見ると、腰を浮かして軽く頭を下げた。紺色のズボンに、いつもの野球帽をかぶっている。どのくらいここにいたのだろうか。足元には、煙草の吸殻が六、七本、落ちていた。
美希は、家の入口の鍵を開けながら聞いた。
「どうしたんですか。こんな時間から」
誠一郎は何もいわずに、また縁側に座ると、帽子の縁をいじくっている。
何か話したいことがありそうだった。
美希は、とりあえず土間から座敷に上がると、家の雨戸を開けていった。
茶の支度をして、縁側に戻ってきた。湯呑み茶碗を誠一郎の前に出して、美希はもの問いたげな顔で小首を|傾《かし》げた。
誠一郎はようやく口を開いた。
「美希さん、あの中学校の先生と付き合いゆうがか」
彼は喰いいるように、美希を見た。
彼女は面を伏せて、誠一郎の隣に座った。
「誰が、そんなことゆうがです」
「皆ぁ、いいゆうが。美希さんと中学の先生はできちゅうゆうて」
誰か、晃がここに通って来るのを見ていた者がいたのだろうか。山で遊んでいた子供が見かけて、告げ口したかもしれない。
「ほんとうは、どうなんや」
誠一郎が詰問口調で聞いた。
美希は彼の視線を避けるように、庭に顔を向けた。竹をさし渡しただけの和紙の干し板台に、雀が二羽、並んで止まり、仲良さそうに|囀《さえず》っていた。
はっきりいいたかった。晃と自分は恋人同士なのだ、と。
しかし、そう明言すると、二人の関係は|噂《うわさ》ではなくなる。美希はよくても、晃は教師だ。池野中学校に居辛くなるのではないか。なにしろ、ただの恋愛関係ではないのだ。二人の年齢差を考えれば、皆が驚き|呆《あき》れるであろうことはわかっていた。
美希は息を吸いこむと、静かに答えた。
「関係ありません。奴田原先生は、私の和紙を|漉《す》くのを見るのがおもしろいゆうて、時々来てくれるだけです」
土居の顔から緊張が解けていった。そして、ほっとしたように何度も|頷《うなず》いた。
「そうやな。そうやとも、そんなん、ほんとのはず、ないわな。いくらなんでも年が離れすぎちゅうもんなぁ」
心臓を|錐《きり》で突かれたような痛みを覚えた。
「そんなこと、いいに来たんですか」
思わず強い言い方になった彼女に、誠一郎は慌てたように頭を下げた。
「ごめんや。へんなこと、耳に入れてしもうたな」
美希は黙って誠一郎の横に座っていた。胸の中がもやもやしていた。それは、晃との関係をはっきりいえないことが理由だとわかっていた。しかし真実を口に出せば、二人は村人の好奇の視線にさらされる。
隣では、誠一郎が煙草に手を伸ばしていた。彼は考えるように一本、口にくわえて、ライターで火をつけようとして、やめた。
誠一郎は、指先に挟んだ煙草をしばらく見つめていた。それから意を決したように、美希に向き直った。
「俺と、結婚してくれんか」
美希は驚いて、誠一郎を見返した。
どうして今になって……。
|喉《のど》|元《もと》まで、そんな言葉が出てきそうになった。ついこの前までは、誠一郎が結婚を申し込んでくれれば、受けてもいいと思っていた。
しかし、それは晃と知り合う前のことだ。今はそんなこと、想像もできない。
彼女はうつむいて、小さな声でいった。
「できません」
誠一郎は細い目をぱちぱちさせた。
「どうしてや、美希さん」
「私……ただ、そんなこと、考えられんだけです」
誠一郎は辛そうな顔で、かちりとライターの火をつけた。煙草を吸って、ふうーっと白い煙を吐く。
「美希さんが俺に|惚《ほ》れてなかってもええ。一緒になってくれんやろうか。俺と一緒に和紙を作ろうや。俺、絶対、美希さんを幸せにしちゃる」
美希は黙って首を横に振った。誠一郎が何かいいかけて口を開いた。
その時、女の声が響いた。
「誠一郎っ、ここに来たらいかんゆうたやろ」
淡黄色のレース編みのカーディガンを羽織った眼鏡の女が、杉木立の間から飛びだしてきた。誠一郎の母の克子だった。
誠一郎は、舌打ちして煙草を地面に投げ捨てた。そして縁側から立ち上がると、近寄ってくる克子にいった。
「お母あ、いちいち俺のことに口を出すんはもうやめてくれや」
眼鏡の奥の克子の目がきりりと釣りあがった。
「あんたのことが心配やき、いいゆうがやないの。こんな家の者と話しよったら、ろくなことない。帰るんや」
克子は息子の腕をつかんで引っ張った。|痩《や》せた母親の手を軽く振り払って、誠一郎は宣言した。
「お母っ、俺は美希さんと結婚したいがじゃ」
克子の口が大きく開いた。そして幼い子に教え諭すように、|猫《ねこ》|撫《な》で声でいった。
「おまえ、坊之宮の家の女を嫁にできるわけ、ないやろ」
「どういうことや」
克子は美希を横目で見て、小声で告げた。
「坊之宮さんくは|狗《いぬ》|神《がみ》|筋《すじ》やき……」
美希は、氷水を浴びせかけられた気がした。
「美希さんに失礼なことゆうなっ」
誠一郎の声が飛んだ。
しかし克子は止めなかった。|堰《せき》を切ったようにいい立てた。
「皆がいいゆうことや。坊之宮の者には近づかれん。恨みを買うと、狗神に喰いつかれるゆうて。今まで、美希さんの見合いが|潰《つぶ》れてきたがも、誰も、狗神筋の家の者と結婚したがりゃせんかったきで」
「お母あっ、黙れっ」
息子の剣幕に、克子は一瞬、口を|噤《つぐ》んだ。
誠一郎は苦りきった顔を、縁側の美希に向けた。
「許しちゃって、美希さん。母は自分でも何いいゆうか……」
「わかっちゅうっ」
克子が息子を押し退けて、美希の前に顔を突きだした。
「美希さん、あんた、息子をたらしこんで、うちの工場を乗っ取る気やろうけど、私は|騙《だま》されんで。あんたみたいな色気違いは、絶対、土居家に入れんきね」
美希の顔に血が昇り、声が上擦りそうになった。
「失礼やないですか、土居さん」
克子は悪意に満ちた顔つきで、美希を見据えた。
「私は覚えちゅうで、美希さん。あんたが昔、隆直さんと|噂《うわさ》があったこと」
赤い口紅を塗った克子の口許が、へらへらと動き続ける。
「どういう神経しちゅうか知らんけど、実のお兄さんとねぇ」
まな板の上の魚になった気がした。克子の声が、腹を|割《さ》く包丁のように、ぐさりと突き刺さった。美希の顔から血の気が引いていく。
「やめやっ、お母あっ」
誠一郎が克子の口をふさいだ。克子は手足を暴れさせた。
美希は、その場に硬直したように座っていた。|膝《ひざ》の上で握りしめた|拳《こぶし》が|蝋《ろう》のように白くなっている。
どうして他人は忘れてくれないのか。
もう昔のことなのに。
目頭が熱くなってきた。
克子は、口をふさごうとする息子の指の間から叫んだ。
「あんたんとこは、狗神筋じゃ。犬はな、兄妹でも親とでもくっつく獣じゃ。おまんらぁには、その犬の血が流れちゅうがや。誠一郎の嫁になるらぁ、とんでもないわっ」
「黙ってやっ」
美希は悲鳴のような声をあげた。
そして顔をぐいと克子に向けて、|睨《にら》みつけた。視線で人が殺せるなら、今の自分の視線は相手を焼き尽くしているだろう、と思った。
克子は、美希の気迫に押されて動きを止めた。母を抑えていた誠一郎が、ほっとしたように手を放した。
「げえええっ」
克子が突然、体をのけ反らせた。手の親指が隠れるように握りしめ、体は頭を釘で打ちつけられた|鰻《うなぎ》のように小刻みに動いている。眼鏡が飛んで、庭に転がった。|痙《けい》|攣《れん》するように動く克子の足が眼鏡を踏む。べりん、と音がして、レンズが割れた。
「お母あっ」
誠一郎が母親を止めようとしたが、あまりに激しく動くので、つかまえられない。
美希は縁側に座ったまま、手足を振り回して暴れだした克子を|呆《ぼう》|然《ぜん》と見守った。
克子は、拳を握りしめた両手を天に突きだしていた。自分ではどうにもならないように、白い腕が震えている。
目を凝らした美希は、息を呑んだ。
手の甲から|下《か》|膊《はく》部にかけて、皮膚の上に|水《みず》|脹《ぶく》れのような筋が出来ていた。まるで皮膚の下が針で縫われているように、白い幾本もの筋がぶくぶくと上膊部に走る。克子はそれが痛いのか、体を|捩《ね》じって苦しがっている。
膨れた筋は徐々に青紫色に変わり、その色は腕全体に広がっていく。克子は全身を震わせている。
「びゃうびゃうびゃうう」
|喉《のど》の奥から小さな鳴き声が|洩《も》れてきた。|御祓《おはらい》を受けていたふさの出した声とそっくりだった。
狗神だ。また狗神が喰いついてしまった。
違う。狗神なんか、いないのだ。
これは狗神のせいじゃない。私のせいじゃない。
美希の心で、色々な声が飛びかう。
「お母あっ、しっかりしやっ」
克子を抑えつけようとした誠一郎は、すごい力で突き飛ばされた。そのまま克子は飛ぶように走りだした。淡黄色のカーディガンが獣の|尻尾《し っ ぽ》のように揺れる。
「お母あっ、待ちやーっ」
誠一郎が慌てて、その後を追う。
美希は、杉木立に消えていく二人の姿を声もなく見送っていた。
12
土間の小窓の外に、黒い|闇《やみ》が|佇《たたず》んでいた。空には月もなく、星だけが小さく瞬いている。美希は蛍光灯の|蒼《あお》ざめた光の下で、紙を|漉《す》いていた。
紫色、|茜色《あかねいろ》、|萌《もえ》|黄《ぎ》|色《いろ》、青色……。七色の紙素の混じった原液を|簀《す》にすくいあげて、力強く揺する。ばしゃん、ばしゃん、という水音が土間に|虚《うつ》ろに響く。
最後に|簀《す》|桁《げた》を紙漉き舟から引きあげた。七色の紙素が密に絡まっている。だが、混ざり合った色は決して美しくはなく、どす黒く見えるだけだ。おまけに簀の上には、|穀《こく》|象《ぞう》|虫《むし》のような小さな塊があちこちにできていた。まだうまく繊維が溶けてないのだ。
美希は簀を|睨《にら》みつけると、漉いた紙を再び舟に空けた。どろどろした繊維が、原液に落ちていった。
やはり、七色をまんべんなく漉き合わすのは難しい。
|濡《ぬ》れた手で、ほつれ髪を後ろに|撫《な》ぜつけて、美希はため息をついた。
誠一郎が克子と消えてから、昼食もとらずに仕事に没入していた。午後も過ぎ、日が暮れてしまっても、夕食に戻る気にもなれなかった。家には電話で、仕事がたてこんでいると言い訳した。
本当は晃を待っていたのだ。彼に会いたかった。会って、その胸に抱かれたかった。しかし、今日は学校が忙しいのだろう。すでに九時近いのに現れない。
もう彼は来ないだろうとはわかっていた。それでも、美希は仕事場から離れたくなかった。家に戻っても、どうせ今夜は克子の言葉を思い出して、寝つかれないだろうから。
——どういう神経しちゅうか知らんけど、実のお兄さんとねぇ。
克子の言葉が、頭に反響している。
美希は、紙漉き舟の水面を見つめた。濁った原液の表面に、自分の黒い影が揺れている。その影が、今にも克子の顔に変わって、美希を|糾弾《きゅうだん》しそうに思えた。
実の兄と通じた女、と。
彼女は水面から目を背けた。
兄を愛してどこが悪いのだ。
美希は心の中で叫んだ。
誰も、本家の隆直が実の兄だとは教えてくれなかった。そして隆直も私が妹とは知らなかったのだ。小さい頃から一緒に遊んで育った二人は、少しずつ相手を意識しはじめて、やがて……肉体関係を持った。
妊娠に気がついたのは、母の富枝だった。高校一年の二学期も半ば過ぎた頃、魚の臭いに吐き気がするようになる一方で、異常な食欲を示しはじめた娘に疑いを持った。彼女は母に問い詰められて、隆直との関係を告白した。
その時の母の顔を、美希は一生忘れることはできないだろう。世界の崩壊を目の前にした人間のように、ただ言葉を失っていた。
|襖《ふすま》を閉ざした部屋で、美希は、母を安心させるようにいった。
「隆直さんは、うちが高校を卒業したら、結婚したい、ゆうてくれたがよ。私ら、できるだけ早う結婚する。ほんで、ええやろ」
両手で自分の|膝《ひざ》を握りしめて、富枝は|呻《うめ》き声をあげた。
「そんなこと、できやせん」
「なぜやのっ」
富枝は奇妙な目で美希を見つめた。その怒りと、苦しみの混ざった表情に、美希はようやく、母が妊娠だけの理由で反対しているのではないことを理解した。
「本家の隆直はなぁ」
母は震え声でいった。
「一歳の時に養子に出した、私の子やよ」
その言葉が頭に|沁《し》みこむまで、長い時間がかかった気がした。そして、はじめて美希は知らされたのだった。
隆直が、跡取りのいない坊之宮本家に養子に出された、この家の長男だということを。美希と隆直は、法律的にも心情的にも、結ばれることの許されない兄妹だった。
美希の妊娠は、すぐに父に知らされた。父は、そのことでがっくりと老けこんだようだった。両親は悩んだ末に、妊娠したことは、隆直を含めた本家の人間はもちろん、当時まだ生きていた祖父母や道夫と芳男の二人の兄弟にも隠しておくように、娘にいい含めた。美希も、自分の妊娠をおおっぴらにしたくはなかったので、それに同意した。
彼女は、すぐさま病気療養を名目に休学することになり、遠い|室戸岬《むろとみさき》のほうにある太田町で、夫を亡くしてから一人暮らしをしている祖母の姉の家に遣られた。
|大《おお》|伯《お》|母《ば》は、美希が誰とも知らない男の子を|孕《はら》んでいるとしか知らされなかったが、詳しいことは聞かずに、妹にも内緒で出産まで預かると約束してくれた。どちらにしろ大伯母は、夫の死後、外界の出来事すべてに興味を失っていたのだ。
太田町唯一の小さな産院で、美希は妊娠七か月と診断された。すでに堕胎は無理だった。彼女は、海のそばの家で、毎日、少しずつせり出してくる自分の腹を眺めて暮らすことになった。子供に対する愛情なぞ湧かなかった。彼女のすべての愛は、隆直に向かっていたから。
母から、隆直が兄だと聞かされた時は、確かに打ちのめされた。しかし、海辺の町で日がな一日、寄せては返す波を見ているうちに、ふと気がついた。
隆直が兄でも、美希が彼を愛しているという事実は変わりないことに。
一緒に育ったすぐ上の道夫や弟の芳男と恋愛関係に陥ることは考えもつかなかった。だが隆直は、別の家で、別の人間を両親と思って育ったのだ。美希の意識では、隆直は他人だった。目に見えもしない血の|繋《つな》がりが何だというのだ。近親|相《そう》|姦《かん》は、異常な子供が生まれる可能性が高い。それが兄と妹の恋愛を禁ずる理由だ。しかし、子供のこと以外に、兄妹の関係を否定する理由はあるだろうか。男と女なのだ。愛してもいいではないか。
隆直さえいれば、子供はいらない。子供を作らないことにしたら、誰が文句をいえるというのか。
美希は、憎しみをこめて自分の腹を見つめながら考えたものだった。
この子が、死んで生まれてくれればいい。そうしたら、自分は自由になる。隆直と駆け落ちするのだ。結婚したいといってくれた隆直だった。きっと自分と一緒に村を出てくれるだろう。そして二人が兄妹とは誰も知らない都会に行って暮らすのだ。誰にも止められはしない。子供を産まなければいい。兄と妹でも愛し合う自由はある。
あの頃、美希は、そんな将来への夢にしがみついていた。子供が|臍《へそ》の緒を通して、母体から栄養を吸収しているように、美希もまた、生きていくための栄養を、隆直との幸福な未来への夢から取りこんでいた。
だが、それも無残に打ち砕かれた。隆直は、兄妹という事実に耐えきれなかったのだ。両親の勧める女と、さっさと結婚してしまった……。
ばたばたばた。頭上で小さな音がした。
美希は瞬きして、もの想いから立ち返った。蛍光灯に寄ってきた|蛾《が》が羽音をたてている。彼女は原液に|鱗《りん》|粉《ぷん》が落ちないように蛾を追い遣ると、バケツに入れた|櫂《かい》状の棒を取って、紙漉き舟の中を|掻《か》き混ぜはじめた。
七色の紙素の混じった溶液が、ねっとりと渦を巻く。頭上の蛍光灯の光に照らされた水面は、赤紫色。赤子の肌の色だ。揺れる水面に胎児の顔が浮き上がる。波が裂け、白濁した|瞳《ひとみ》が|覗《のぞ》く。歯のない小さな口が動く。
よくも、僕を殺したな……。
水底から声が聞こえた気がして、美希は手を止めた。
紙漉き舟の中では、あいかわらず赤紫色の水が、重油のようにさざ波をたてている。
私が殺したわけじやない。
美希は手にした棒を握りしめた。
今でも、まざまざと思い出す。白いペンキがあちこち|剥《は》げた、病院の木の天井。青く塗られた鉄パイプのベッド。部屋の隅で燃える石油ストーブ。そして窓硝子を打つ厳しい粉雪。
美希は額に脂汗を|滲《にじ》ませて、白いシーツの上で|呻《うめ》き声を上げていた。がらんとした病室には、美希と母の富枝しかいなかった。
臨月間近の彼女の様子を見に来ていた母が、真夜中の陣痛に気がついて、高知には珍しい雪模様の中をタクシーで連れてきてくれたまではよかったが、産院はおおわらわだった。|安《あ》|芸《き》市に宴会に出かけた医者が思わぬ積雪で帰れなくなったところに、早産で運びこまれた妊婦がいて、二人しかいない当直はそちらにつきっきりだった。富枝に看護婦の資格があると聞きつけたのを幸い、美希の世話は母に押しつけられていた。
「きばるがで、美希。きばりやっ」
母はベッドに上がると、美希の背後に座り、|腋《わき》の下から両手を差しこんで腹を|撫《な》ぜおろした。波のように襲ってくる陣痛に気が遠くなりそうだ。美希は汗まみれで下腹に力を入れながら、なぜ、こんな苦しみを味わわなくてはならないのか、と怒りを覚えていた。
欲しくもない子供のために、両親から責められ、高校を休学し、こんな辛さまで背負わされた。子供なんか死ねばいいのだ。生まれなくて、いいのだ。
どろりとした生温かいものが、自分の中から押しだされた。
美希の股の間に、血まみれの赤子が見えた。黒味がかった紫色の顔をして、火のついたように泣き叫んでいる。子供の肌がみるみるうちに赤く変わっていく。
不思議な気分が美希を包んだ。それは、子供が生きていたという落胆と、産んだという達成感のないまぜになった感情だった。笑っていいのか、泣いていいのか、わからない。二つの相反する感情の中で、体中の力が抜け、意識が遠ざかっていった。
再び気がついた時、美希は、部屋に一人きりだった。母も、産んだはずの赤子もいない。
どうしたのだろう。
激しい腹痛のために起きあがれないまま、美希は不安になった。強い風雪が、木造の建物に打ちつける。病室は、嵐の中の小舟のように揺れていた。力づけてくれるものは、朱色に滲む白熱灯電球の光だけだ。美希は、すがりつくような目で天井の明かりを見つめながら、腹を押さえて横たわっていた。
どのくらい、そうしていただろう。戸口で、かちゃり、という音がした。振り向くと、青ざめた顔の母が立っていた。母の手には生まれたばかりの赤ん坊が抱かれている。
その子はやけにおとなしかった。さっきの泣き声は|空《そら》|耳《みみ》だったのだろうか、と思うほどに静かだった。
寒々とした病室に、母の声が響いた。
「死んでしもうた……」
首に巻きついていた|臍《へそ》の緒のために、生まれた時には呼吸困難になっていたと、美希は|痺《しび》れたような意識の中で聞いていた。
そうだ。私が、あの子を殺したのではない。
美希は、またゆっくりと紙漉き舟を|櫂《かい》で混ぜた。赤紫色の溶液が、舟の内側の板にぶつかり、|飛沫《しぶき》を上げた。
あの子は、生まれてすぐに死んだのだ。
大きな産声をあげていたのに、死んだのだ。臍の緒が首に巻きついて……。
臍の緒に首を絞められて、どうして、あんな元気な声があげられたのだろう?
彼女は櫂を動かす手を止めた。
今まで、そんなことは考えもしなかった。出産のことは忘れようと努めてきた。
しかし、おかしい。あの子は、本当に臍の緒を巻きつけて生まれてきたのだろうか。
もし、臍の緒を首に巻いたのが、生まれた後だとしたらどうだろう。
私が意識を取り戻した時、母は赤子と一緒に病室を出ていた。その間、母は何をしていたのだろう。
背中に氷の刃をあてられた気がした。
母もまた、美希と同じように、あの子の死を願っていた。生まれた子をどうしたらいいか、悩んでいるようだった。母にとっても、あの子の死は好都合だった。
母が赤子を抱いて病室から出ていた時間。あの時、廊下の隅でこっそり子供を殺すことはできた。臍の緒を首に巻きつけて、赤子を窒息させている母の姿が見える気がした。
うぁああああん。
赤子の泣き声がした。
美希は、ぎょっとして、櫂にしがみつくように握りしめた。
うぁぁあおおおん。うぉおおん。
犬だった。山に入った野犬だろう。|遠《とお》|吠《ぼ》えの声が続いている。聞けば聞くほど、その声が赤子の泣き声に思えてくる。土間の小窓から、押しいってくる赤子の声。暗闇の底から、生きたかったと叫んでいるのだ。
美希の目から涙がこぼれ落ちて、紙漉き舟の溶液に沈んだ。
生きたかっただろう。あんな元気に泣いていたのだ。充分、生きていられるはずだった。なのに、死んでしまった……。
母親の自分が、死ねばいいと思っていたのだ。あの子を殺したのは、やはり私かもしれない。私は子を産みながら、死を願っていた。なんとおぞましいことだろう。
漉き舟の中の赤紫色の溶液が、ゆらゆらと揺れている。蛍光灯の反射する水面の|暈《かさ》の周囲が、どす黒く見える。そこに美希の淡い影が重なる。たゆたう液面で分裂して、またひとつになる影を見つめるうちに、胃壁が収縮するような気分を覚えた。腹の底から、酸っぱいものがこみ上げてきた。
美希は櫂を投げだすと、土間を走りでた。
便所に着くまで、我慢できない。
彼女は、庭の隅の杉の木に寄りかかった。|喉《のど》の奥から熱い液体が押しだされてきた。美希は|呻《うめ》いて、|嘔《おう》|吐《と》した。
朝から何も食べてないために、胃液しか出ない。なのに吐き気は後から後からこみ上げてくる。涙を流しながら、草の上に黄色い胃液を吐き続けた。
忘れてしまいたい。あの記憶をすべて。|腫《しゅ》|瘍《よう》のようにメスで切り取って、汚物溜めに投げこみたい。
——犬はな、兄妹でも親とでもくっつく獣じゃ。おまんらぁには、その犬の血が流れちゅうがや。
克子の言葉が|蘇《よみがえ》った。
美希は、ぐっ、と声を|洩《も》らした。しかし、胃の中からは、もう何も出てこなかった。
あの女は、狗神筋。実の兄をたぶらかした女だ。
きっと克子は、これまで美希の背後で何度となくそんなことを|囁《ささや》いてきたのだろう。
再び、克子に対する怒りが湧いてきた。
いったい何の権利があって、他人の過去を|糾弾《きゅうだん》するのだ。どうしてそれを時の流れの|淵《ふち》に棄ててくれないのだ。
美希は肩で大きく息をしながら、杉の木に額をつけて、|嗚《お》|咽《えつ》を洩らした。
ざくっ。草を踏むような音に、涙に|濡《ぬ》れた顔を上げた。
星明かりに照らされて、杉の|仄《ほの》|白《じろ》い幹が、直立不動の人影のように並んでいる。いつもの夜だ。ただ、林の奥の一点が、やけに暗いのが気にかかった。
美希は杉の間を透かし見た。
そこだけ漆黒の闇が集まっていた。ただの夜の暗さではない。真夜中に村を包む、あの一条の明かりもない真の闇が漂っている。
ふうぅ……ふうぅ……ふうぅ……。
漆黒の闇から、規則正しい、緩慢な息が流れてきた。
美希はぎょっとして、体を硬くした。
闇の中に何かがいる。
人だろうか、獣だろうか。
目を凝らしても、何も見えない。夜気を通して、そこにいるものの存在感だけが伝わってくるだけだ。
顎の骨が震え、汗が|滲《にじ》んだ。動こうと思うのだが、足の裏が地面にへばりついたようだ。
ふうっ……ふうっ……。何とも知れないものの息遣いが続く。ふと、むせるような強い臭いが鼻を衝いた。彼女は眉をひそめて夜気をくんくん|嗅《か》いだ。
しかし、それが何か突きとめる前に、草が揺れる音がして、漆黒の空気の塊が退きはじめた。闇の|裳《も》|裾《すそ》を引きずるように、何かが杉林の奥へと遠ざかっていく。それが過ぎていったところに薄闇が戻ってくる。下生えの|羊歯《しだ》の影が現れてくる。まるで黒い霧が動いていくようでもあった。漆黒の闇が林の果てに消える直前、ちらりと何かが翻った。
足の裏のように見えた。人か、獣か、わからなかった。獣としたら、かなり大きな獣だろう。美希は、その場に立ったまま、杉林を見つめていた。
あたりはいつか、見慣れた夜に戻っていた。もう闇は、彼女を脅かすほど|冥《くら》くはない。体が動くようになった時、どこかで声がするのに気がついた。
「……だぁ……なんまい……だぁ」
美希は、はっとして顔を巡らせた。
ちぃん、ちぃん、どんどん、ちぃん。
|鉦《かね》や太鼓の音も流れてくる。
美希は、杉林から、庭の向こうへと目を向けた。
星明かりの下に谷が沈んでいる。家の明かりを反射する池野川。県道を走る車のヘッドライト。だが、谷の底から伝わってくるのは、それだけではなかった。
「なんまいだぁ……なんまいだぁ……」
吹き上げてくる風に乗って、念仏の声も聞こえてくる。
美希は庭の縁に歩いていった。谷を見渡す彼女の目が、池野川の辺の一軒の家で止まった。誠一郎の家だった。|田《たん》|圃《ぼ》を|潰《つぶ》して造った大きな家の一階の窓に|煌《こう》|々《こう》と明かりが|灯《とも》り、人影が動いていた。
四、五人の者が、座敷の中で盆踊りの真似をしている。それにしても、やけに間延びした調子だし、少しも楽しそうではない。
いったい何をしているのだろう。
「なんまいだぁ……なんまいだぁ……」
念仏の声が谷底から湧きあがる。
ちぃん、ちぃん、どんどん。
鉦と太鼓の音が、暗い夜空に流れていく。
狗神騒ぎに、漆黒の闇の中にひそむ獣。そして、奇妙にゆっくりした調子の念仏。
この不気味な響きが、さらに悪いことへの序曲のように思えて、美希の心に不安が広がった。谷底の家の窓に映る影は、いやいやながらに操られる|傀儡《ぐくつ》のように、いつまでも踊り続けていた。
13
朝の連続ドラマがテレビに映っていた。太った|女将《おかみ》が、出入りの商人と軽口を|叩《たた》いている。陽気な笑い声が流れてくる。
しかし、ブラウン管の外にある坊之宮家の食卓は、重苦しい空気に包まれていた。
道夫は苦虫を|噛《か》み|潰《つぶ》した顔で|漬《つけ》|物《もの》に|箸《はし》を伸ばしている。神経質そうに頬のできものを指先で触っている百代、|腫《は》れぼったい目で、コーヒーを飲んでいる理香。富枝は、いかにも食欲がなさそうに茶ばかり|啜《すす》っている。
美希も、体の中がゼラチン物質に変わってしまったようなだるさを覚えている。
昨夜、遅く帰宅してから、夕食をとって寝室に入ったが、なかなか寝つかれなかった。
|布《ふ》|団《とん》の中で|悶《もん》|々《もん》と考えていた。
母は、あの子を殺したのだろうか、と。
美希は、隣の富枝を横目で見た。
骨太の体を曲げて、テレビに顔を向けていた。頑固そうに張った|顎《あご》が、御飯を噛むたびに、牛のようにゆっくりと動いている。
いや。母は、自分や娘の都合のために、孫を殺すような人間ではない。
母を疑った自分が情けなくなった。
あの悪夢や|狗《いぬ》|神《がみ》騒ぎのせいだ。
美希は、箸の先で煮魚の肉をつまむと口に入れた。まだ朝で体も頭もしっかり起きてないが、食欲だけはあった。
「飯」
道夫が茶碗を差しだした。
百代が黙って白飯をよそう。
「今朝、先祖祭りのことで、高知の静雄さんが電話してきちょったで。十八日の何時からするがかゆうて」
百代がいった。
道夫は茶碗を受け取ると、不機嫌に答えた。
「高知に出ていった家は、|呑《のん》|気《き》でええわ。今、先祖祭りらぁしたら、村の者に何といわれるかわからんに」
百代は三白眼になって、夫を見た。
「何ていわれるがよ」
道夫は口ごもった。
「そりゃまぁ、色々とのう……」
そして富枝に同意を求めるように、話しかけた。
「なあ、お母ぁ、うちの一族が尾峰に集まったら、えらいこといわるぞ。今年はやめたがええと思わんか」
テレビを見ていた富枝は、息子に顔を向けた。
「おまん、坊之宮の一族を恥ちゅうがかえ」
道夫はたじろいだように、|猪《い》|首《くび》をすくめた。富枝はきっぱりといった。
「先祖祭りをやめるゆうて、らちもないことはいわんときや。村の者やち、坊之宮が十八日に祭りをやることは、もうちゃんと知っちゅう。今さらやめたら、ほら、やっぱしうしろめたいがや、と思われる。それに何より、こんな時やきこそ、先祖祭りはせにゃいかんがや。狗神様に悪さをせんでくれと、皆で祈らにゃいかん」
「やめてや、お|義母《かあ》さん。狗神らぁて」
百代が甲高い声をあげた。
「うちは狗神筋や。それはほんとのことやで」
富枝は、嫁に向き直った。骨格のがっちりした母と、|痩《や》せて大柄な百代とは、戦闘状態に入る前の二羽の|駝鳥《だちょう》のように見える。
百代が怒りをこらえていった。
「なんでそれを、私が嫁いでくる前にゆうてくれんかったがですか」
「あんたは、うちが狗神筋がわかっちょったら、道夫と結婚はせんかった、ゆうがかね」
富枝はじわりと聞いた。言葉に詰まって口をへの字に曲げた妻を見て、道夫が、うんざりした声で話に割りこんだ。
「まあ、今年の|頭《とう》|屋《や》はうちや。頭屋から、今年は取り止めにしょうとはいえやせん。先祖祭りはやるしかないの」
富枝は音をたてて、ずずっと茶を|啜《すす》った。
百代は|布《ふ》|巾《きん》を手にすると、腹を立てて|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》の上の汚れを拭いた。
テレビドラマの終わりを告げる音楽が流れてきた。理香が、食べ残したトーストの縁を皿に置くと立ち上がった。
「ああ、学校に行きとうないなぁ」