ふてくされた声に、百代が、どうしたのか、と聞いた。
理香は渡り廊下に続く戸に手をかけて、茶の間の家族を振り向いた。
「尾峰から来ゆう中学生が、私のこと、狗神筋やゆうて、はやしたてるがや」
道夫は茶碗を卓袱台に置いた。浅黒い顔に、目が鋭く光った。
「校長に文句、ゆうちゃる」
理香は慌てていった。
「ええよ、ええよ、お父ちゃん。そんなことされたら、ますます面倒になる。それに文句やったら、もう奴田原先生にゆうてもろうたき」
突然、飛びだした晃の名に、美希は、どきりとして顔を上げた。理香は戸口に立ったまま、嬉しそうに続けた。
「かっこよかったわ。その子らに、迷信を種にして人を|苛《いじ》めるとはなんだ、今度そんなことをしたら許さん、ゆうてくれたがや」
晃だけは、自分たちの味方なのだ。
美希は思わず口許をほころばせた。
理香はくるりと背中を向けると、茶の間から消えた。
道夫はため息をつくと、湯呑み茶碗をじっと見つめた。百代は、食べ終わった食器を流しに運びはじめた。母が「ごちそうさん」といって腰を上げたのを機に、美希も食卓を離れた。
渡り廊下に出て、風呂場の横の洗濯場に行く。洗面所で、理香が歯を磨いていた。仕事に行きたくない、といったわりには、鏡を見つめて鼻唄を歌っている。
美希は脱水機から取り出した洗濯物をバケツに入れると、南庭に出た。
水色の空に雲がぽつんぽつんと浮かんでいる。いい天気になりそうだった。美希は、物干し台の下にバケツを置き、洗濯物を干しはじめた。
|竿《さお》に道夫のズボンを通しながら、コンクリートの塀の下の斜面にへばりつく尾峰の村落を眺めた。重なり合う灰色の屋根の間に、白い洗濯物や布団が干されている。
池野川の流れる谷底のほうに移っていった美希の視線は、誠一郎の家に来て止まった。生け垣で囲われた家の庭を、数人の人がうろついていた。土居の家は誠一郎と克子の二人暮らしのはずだった。昨晩の念仏といい、様子がおかしい。
美希は物干し竿を台に戻すと、コンクリートの塀に歩いていった。
土居家の庭にいた男たちが、慌てたように門から道路に出てくるのが見えた。そして県道と、尾峰の集落に続く村道のほうへ、二手に分かれて散らばっていく。ますます|腑《ふ》に落ちない行動だった。
「何を見ゆうがかね、美希」
いつの間に来たのか、隣に母が立っていた。美希は、川の辺の土居の家を指さした。
「土居さんくよ。昨日の晩から、変なが。夜遅う、あそこから念仏やら|鉦《かね》や太鼓の音が聞こえてきよったがやき」
「なんじゃと」
富枝は驚いたように|呟《つぶや》くと、コンクリート塀に前かがみになって、|黒瓦《くろがわら》が鈍い光を放つ土居家を見つめた。
「|念《にん》|祈《ぎ》|祷《とう》までしたがか。こりゃあ、また狗神様が出て行ってしもうたか……」
「念祈祷?」
母は|爪《つめ》が喰いこみそうなほど、両手の指で塀の上側を強くつかんだ。
「念祈祷とはな、夜、村の男のしが狗神様に|憑《つ》かれた家に集まって、お伊勢踊りをしながら念仏を唱えることじゃ。太夫さんの力でも、狗神様を|祓《はら》えん時にやるがよ。ほいで念祈祷してもいかんようなら、今度は……」といいかけて、富枝は頭を横に振った。そして真剣な眼差しで美希に聞いた。
「誰が喰いつかれたがやろ。克子さんか、誠一郎さんか……」
「克子さんやわ」
そう答えると同時に、昨日の克子の様子がまざまざと脳裏に浮かんだ。
指の先から、肌を縫うように走った何本もの|水《みず》|脹《ぶく》れのような筋。奇妙な声をあげながら、全身をがくがく震わせて、跳ねるように逃げていった克子。
胃の底から、酸っぱい臭いがこみあげてきた。美希は、うっ、と|喉《のど》を鳴らすと、口を手で押さえて庭の隅に走った。|無花果《いちじく》の木の下に来ると、こらえきれなくなって地面にかがみこんだ。温かい液体が口から|溢《あふ》れ、足許に、さっき食べたばかりの白飯や味噌汁がぶちまけられた。
「どうした、気分が悪いがか」
母が心配そうに声をかけた。
美希は口を手の甲で拭きながら顔を上げた。一気に胃の中のものを出したせいで、もう気分の悪さはおさまっていた。
「朝食べたもんが、悪かったがやろ」
富枝はじろりと娘の顔を見た。
「子供ができたがやないが」
美希の頭に、とっさに晃の顔が浮かんだ。しかし彼女は激しい調子で否定した。
「私が子供のできん体やゆうこと、知っちゅうやろ」
「昔のことや。あんた、また元気になったがかもしれん」
美希は黙って母に背を向けると、庭の井戸のところに行って、水で口を|漱《すす》いだ。そしてバケツに水を汲むと、自分の吐いたものを流した。じゃああっ。汚物が草の間に広がり、土に吸いこまれていった。
美希は井戸端にバケツを戻すと、物干し場に戻って、再び洗濯物を手に取った。
彼女の行動を観察していた母の低い声が聞こえた。
「お母さんの目は誤魔化されんで。あんた、隆直の子をみごもった時と一緒や。吐くくせに、食欲はようあるみたいやいか」
いわれてみれば、最近、食欲|旺《おう》|盛《せい》だ。それに昨夜も吐いた。美希の|狼《ろう》|狽《ばい》が顔に出た。
富枝は、娘の腕を揺すった。
「ゆうてみ、相手は誰や」
「そんな人、おらんてっ」
富枝は彼女の言葉を無視して、たたみかけた。
「相手は、誠一郎さんか?……ひょっとして克子さんが狗神に喰われたんは、そのことで……」
「違うちっ」
美希は、母の視線から逃れるように、洗濯したブラウスを手に取って、物干し用のハンガーにかけた。しかし富枝は娘の前に回りこんで、いい募った。
「へんしも医者に行くんや。できちゅうか、できてないか、診てもらうがええ」
「できてない、いいゆうやろ」
美希は叫んだ。
妊娠ではない。寝不足で体調がおかしくなっているだけだ。
彼女は、十五年ほど前、生理不順で相談に行った時、婦人科の医者から、妊娠は難しいといわれたことを信じていた。だから、晃と交わる時も、避妊のことなぞ考えていなかった。若い時でさえ、妊娠困難な体だったのだ。自分はもう四十一歳だ。こんな年で妊娠するはずはない。
だが、確かに三十代に入って、体力が出てきて、あまり病気しないようになっている。受胎能力が回復していたとしたら、どうだろう。四十一歳。妊娠できない年齢ではない。
だとしたら、晃の子だ。
下腹のあたりが熱くなった。まさか……。そんなことになったら、どうしよう。
不意に風が吹いてきて、美希の手からタオルを|攫《さら》っていった。
「ああ、ああ」
それを見ていた母が声をあげた。
白いタオルは、ひらひらと|捩《ね》じれるようにして、塀の向こうに落ちていった。
美希は慌てて塀から身を乗りだした。
坊之宮家の敷地を区切る十メートルほどの高さの石垣の下は、|蜜《み》|柑《かん》畑になっている。タオルは緑色の蜜柑の木の中に落ちていた。
ため息を|洩《も》らして、取りに行こうと決めた時、蜜柑畑の縁にある何か白っぽいものが目に入った。人の形をしている。
目を凝らした美希は大声をあげた。
「誰か、倒れちゅうっ」
物干し竿の下で、母が振り向いた。
「なんやって」
「下の蜜柑畑よ、お母さん」
美希は走りだした。母も驚いたように、後についてきた。
下の畑に出るには、|一《いっ》|旦《たん》、玄関の門から外に出て、隣の家との境の下水路の縁を通るのが近い。美希は母と一緒に、石垣に挟まれた幅五十センチほどの溝に沿って降りていった。
すぐに目の前が開けて、蜜柑畑に出た。
濃い緑の葉がつやつやと輝いている。小型の森のような畑の縁に、女が倒れていた。白地に小さな花柄のネグリジェ姿でうつ伏せになっている。
「どうしたんですかっ」
美希は、女の背中に手をかけて、体を起こした。
克子だった。両手を紅葉のように開いて、全身を硬直させて、死んでいた。
「たまあ、なんちゅうこと……」
横で、母が|喘《あえ》ぐような声を|洩《も》らした。
克子の顔は恐怖に引きつっていた。口は横に開き、目はかっと見開いている。その顔や首筋、腕などに、何かが噛んだような歯形が紫色の|痣《あざ》になっていた。
よく見ようとかがみこんだ時、ぷん、と強烈な臭いが鼻を衝いた。昨夜、仕事場の裏の杉林の中から漂ってきた、あの臭いだ。
今、その臭いが、何に似ているかわかった。獣だ。獣の毛の臭いだ。
では、克子は、夜中に村を|徘《はい》|徊《かい》しているという、大きな山犬に殺されたのだろうか。
「克子さんよーっ」
「お母さーん」
叫び声に、美希は顔を上げた。
蜜柑畑の前の村道を人が、克子の名を呼びながらやってくる。その中に誠一郎の姿もあった。
富枝が|囁《ささや》いた。
「克子さんを探しゆうで」
美希は、地面に倒れている克子に目を遣ると、ふらふらと合図の手を上げた。
蜜柑畑の低い石垣ごしに、誠一郎が美希を見つけた。髪を乱して|憔悴《しょうすい》した顔の彼だが、なんとか笑みを作った。
「ああ、美希さん。うちの母を見んかったやろうか。今朝、起きたら、姿がないがや」
美希は震える手で、自分の足許を指さした。誠一郎の視線が、克子の花柄のネグリジェに釘づけになった。
「お母あっ」
彼は石垣をよじ登ると、畑の縁を走ってきた。一緒に探していたらしい、他の男たちも後に続く。それを見た母が、彼女の腕を引っ張った。
「美希、家に戻ろう」
美希は、誠一郎と、地面に倒れている克子を見比べながらいった。
「けど、何か手伝うちゃらんと……」
「帰るがじゃ」
母が有無をいわさぬ口調で|唸《うな》った。
そこに誠一郎が到着した。克子の死体にかがみこんで、かすれた悲鳴を|洩《も》らした。他の三、四人の男たちも集まってきた。
「たまあ、むごい……」
「こりゃあ、どうしたがじゃ」
皆、克子を見て、|呆《ぼう》|然《ぜん》として|呟《つぶや》いている。
富枝が美希の手をつかみ、もときた小道を引き返しはじめた。彼女は当惑していった。
「どうしたがよ、お母さん。逃げゆうみたいやいか」
「私らは、あそこにおらんがええがや」
「どうしてよ」
母は苦々しい面持ちで、|顎《あご》で背後を指し示した。美希も母につられて振り返った。
そのとたん、誠一郎の周囲に集まった男たちの視線とぶつかった。彼らは、美希と目が合うと、さっと顔を伏せた。
しかし、美希は見逃さなかった。
男たちの|瞳《ひとみ》に浮かんでいた、|怯《おび》えと……憎しみを。
14
玄関脇の電灯に、和紙に書かれた「忌」の文字が黒々と浮きあがっていた。家の入口に垂らされた|簾《すだれ》ごしに、うずくまるようにして座る人々の背中が見える。
美希は土居家の玄関に立ったまま、中に入るのをためらっていた。通夜の終わり頃を見計らって、こうして遅くに来たのだが、まだかなりの|弔問《ちょうもん》客が残っていた。
今日の午後、|乾《いぬい》医院に高血圧の薬をもらいに行った富枝が医師から聞いてきた話では、克子の死因は、心筋|梗《こう》|塞《そく》だということだった。今までその兆候もなかったのに、と医師は驚いていたという。克子の体に残っていた|噛《か》み傷には、医師は気がつかなかったらしい。あれほどはっきり残っていた傷が、死亡診断の時には消えていたのだと、富枝は恐ろしそうに告げた。
美希は、それを聞いてほっとした。
克子は心筋梗塞のために死んだのだ。前夜、|闇《やみ》の中にひそんでいた得体の知れない獣とは、何の関係もない。恐らく、誠一郎のいいだした美希との結婚話に衝撃を受け、それが心臓に負担をかけたのだろう。
克子の死の遠因は自分にもあると思うと、誠一郎に一言、お悔みをいっておきたかった。
だからよそよそしい対応を受けるだろうとは覚悟の上で、こうして通夜に来たのだった。
美希はハンドバッグから出したハンカチを握りしめると、思いきって玄関の敷居を|跨《また》いだ。上がり|框《がまち》の先は細長い板の間になっていて、それに座敷が続いている。座敷では黒っぽい服を着た村人たちが、茶を飲み、盆に載った干菓子をつまんでいた。
「こんばんは」
声をかけると、近くにいた女が振り向いた。和紙工場で働いている良子だった。土居家の|親《しん》|戚《せき》にあたる良子は、灰色のワンピース姿の美希を見て、はっとしたように玄関にやってきた。
「これは美希さん。御丁寧に」
美希は、頭を下げてお悔みの言葉をいい、座敷に上がろうとした。
「帰っとうぜ」
男の声が飛んできて、靴を脱ぎかけた美希の動きが止まった。座敷の中央であぐらをかいた、額の出た男がこちらを|睨《にら》んでいた。克子の弟、和彦だ。和紙工場に時々、顔を出していたので知っている。
和彦は彼女を見据え、太い声でいった。
「よう、ここに来れたもんじゃ。あんたが|狗《いぬ》|神《がみ》を喰いつかせたおかげで、姉やんは死んだがぞ」
和彦の周囲にいた者たちが、同意の印に|頷《うなず》くのが見えた。彼らの目に宿る憎悪を見てとって、美希の唇が震えた。
その時、人を|掻《か》き分けて、誠一郎が現れた。黒い喪服に身を包み、パーマをかけた髪がいつもよりさらに乱れている。誠一郎は、叔父の和彦を横目で見て、美希の前にやって来た。
「ようきてくれました、美希さん。さあ、上がってください」
座敷にざわめきが起こった。誠一郎は、それを制するように大きな声で続けた。
「皆、気が立って、ありもせんことをいいゆうけど、気にせんとってや」
和彦が怒ったように、ぷいと顔を横に向けた。美希は、このまま帰りたくなった。しかし帰れば、克子に狗神を|憑《つ》かせたのは自分だと認めることになる。
「お邪魔します」
美希は周囲に響く声で挨拶すると、靴を脱いだ。
誠一郎に案内されて、座敷の奥に通された。そこに|屏風《びょうぶ》が逆さに立てられ、布団に克子が寝かされていた。枕元には、箸を一本だけ立てた枕飯。あたりには線香の匂いが漂っている。
美希は克子の前に座り、顔を覆っていた白い布をめくった。
硬直した克子の顔が現れた。醜く|歪《ゆが》んでいた形相も、首筋の噛み跡も消えている。それでもじっと見ていると、土気色の克子の肌の奥から、|苦《く》|悶《もん》の表情が|滲《にじ》みでてきそうな気がした。美希は、克子の前で合掌した。
座敷にいた者の視線が、自分の背中に集中するのがわかる。美希は、それを|撥《は》ね返すように、背筋を伸ばした。
私は何も悪いことはしていないのだ。
彼女は自分にいい聞かせると、合掌した手を下ろして、隣の誠一郎に向き直った。
「こんなことになって、どうゆうてええかわかりませんが……」
誠一郎は両|膝《ひざ》に手を置いて、言葉はいらない、というふうに、首を横に振った。
「お葬式は明日ですか」
「ああ。土葬にしちゃろうと思いゆう。死んだ父も土葬やったき……」
「大変ですねぇ」
誠一郎は、少しやつれた頬に弱い笑みを浮かべた。
「いやぁ。喪主は楽やよ。葬式のことは、|当《とう》|魔《ま》組がやってくれるき」
「当魔組?」
誠一郎は|頷《うなず》いて、|襖《ふすま》の向こうの隣室を見遣った。そこには近所の者らしい男たちが数人集まって、何か話している。穴掘り役は誰か、|棺《かん》|桶《おけ》は誰が担ぐか、といった声が聞こえた。
「近所の取り決めながや。葬式が出た時は、組の家同士が手助けするてな。尾峰の家やったら、皆、どこかの当魔組に入っちゅうがやないろうか」
美希は、父が死んだ時のことを思い出した。墓掘りも、葬式の準備も、皆、坊之宮家の一族で執り行った。当魔組の存在なぞ聞いたことはない。それは坊之宮家が狗神筋だったからではないか、と彼女は思った。
ひょっとしたら、昔から坊之宮一族は、村八分をされていたような存在だったのかもしれない。
今まで信じてきた足場が、砂と化してさらさらと崩れていくような気分を覚えた。尾峰の中で、自分たちの家が孤立していたなぞ、想像したこともなかった。
美希はそっと周囲を見回した。茶を飲みながら話す|弔問《ちょうもん》客の注意が、自分と誠一郎に向けられているのが痛いほどわかった。
「私の出番はないとは思いますが、もし、何かお手伝いできることがあったら、ゆうてください」
お辞儀して、腰を浮かそうとした手を取って、誠一郎がまた美希を座らせた。困った顔の彼女に、彼はきっぱりといった。
「村の者が何をゆおうち、俺は、母の死が狗神のせいやとは信じちゃあせんきな」
美希の目頭が熱くなった。この場の|刺《とげ》|々《とげ》しい空気の中で、張り詰めていた神経がふっと緩んだ気がした。
誠一郎は、美希に|頷《うなず》いた。
「元気だしてや」
彼女はハンカチを握りしめて|微笑《ほほえ》んだ。
「これじゃあ、反対やわ。ほんとうなら、私が土居さんを慰める役やのに……」
誠一郎は、美希にかがみこむようにして|囁《ささや》いた。
「昨日、母が来る前にいいよったこと、俺、まだ考えちゅうで」
真剣な眼差しの彼から、美希は目を|逸《そ》らした。この場では、晃とのことは、いいだせそうもなかった。
「私のことは、忘れてください」
彼女はそれだけいうと、逃げるように席を立った。
座席の人々の間を通り抜けて、玄関で靴を履く。出がけにちらりと振り向くと、誠一郎が立ったまま、じっと自分を見つめていた。
美希は|会釈《えしゃく》して、玄関を出た。
すぐさま背後で人の声が湧きあがった。
「塩やっ、塩っ」
「誠一郎っ、どうしてあんな狗神筋の女を家に上げたっ」
誠一郎が何か抗弁するのが聞こえた。
美希は、その騒ぎから逃れるように土居家を後にした。
門の前は、県道から分かれた林道になっている。池野川の流れる谷の前にそそりたつ番所山に向かって、美希は歩きだした。
空に輝く上弦の月。月明かりに照らされたアスファルトの道が、暗闇にくねくねと延びている。尾峰の村落の灯が、山腹にとまった蛍の群れのように輝いていた。
美希は、晃の家の明かりを探したが、一階も二階も窓は暗かった。
昨夜、土居家から流れてくる|念《にん》|祈《ぎ》|祷《とう》を聞いて、不安な気分で家路についた折、彼の家の前を通った。その時、バイクは止まっていたが、やはり家の灯は消えていた。早々に寝たのかもしれないと思って、そのまま通り過ぎてしまった。今日こそ晃に会えるかと心待ちにしていたが、夕方になっても、彼は仕事場に現れなかった。
晃と会わない日は不安になる。彼が他の女と一緒にいるのではないか、と疑ってしまう。なにしろ、自分は彼より遥かに年上だ。いつ何時、晃が同世代の女性に気持ちを傾けても不思議ではない。それだけ、相手の愛情を信頼できない自分が|哀《かな》しい。
年上女の恋の代償だ。美希は暗闇の中で、ふっと笑った。
「克子さんも気の毒に」
突然、ひんやりした夜気の中に声が響いた。見ると、すぐ先で合流する村道に二つの影があった。一人は杖を突いた老婆、もう一人は頑丈な体格の男だった。やはり土居家の通夜に行くのだろうか。美希のいる林道のほうにやってくる。
今は村人とは顔を合わせたくない気分だった。美希は、そのまま林道を登っていった。番所山を越える林道と、尾峰の村道との合流点は三か所ある。次の場所で村道に入ればいいと思った。
二人の人物は、美希には気がつかなかったようだ。林道に出ると、土居家のほうに下っていく。
「狗神に|憑《つ》かれて死ぬらぁて、よっぽどのことじゃ」
「悪い夜も続きよりますろう。おかしげなことばっかりでもう……」
会話の断片を闇に残して、足音が遠ざかっていった。
美希は、沈んだ気分で再び林道を登りだした。村中の者が、克子の死は狗神のせいだと思っているのだ。今では誰もが、坊之宮の一族に憎悪と恐れを抱いている。
林道の正面に坊之宮家の墓地が見えた。|冴《さ》えわたる月光を浴びて、整然と並んだ長方形の墓標が、尾峰の村落を見下ろしている。まるで今の村の人々と、坊之宮の一族の関係を象徴するように、その間は闇によって隔てられていた。深く、黒い闇に……。
美希は、ぎくりとした。
これは、あの闇だ。真夜中になると村を包む、救いのない暗黒。墓標の立つ地面を覆う|冥《くら》さは、あの漆黒の闇に似ている。
目の錯覚だろうか。
美希の足が止まった。
ざざざあっ。
林道の横の竹林が、風もないのに揺れた。
はぁっ、はぁっ、ふうぅっ。
竹林の奥から、荒い息遣いが聞こえてきた。
彼女は恐るおそる、暗い竹林を|覗《のぞ》きこんだ。夜陰の中に、何かが動いていた。影が黒い波のように揺れている。
昨夜、杉林の闇にひそんでいた怪しげなもののことが頭を|過《よぎ》った。また、あれがいるのだろうか。
美希はまじまじと林の間に|蠢《うごめ》く影を見つめた。不意に、その影が二つに割れた。
「はあっ」女の溜め息が聞こえた。
「もう帰るがやの」
「うん。あんまり遅うなると、また園子がうるさいき」
隆直の声がして、大きな影がのそりと道路に出てきた。そして、前に立つ美希に気がついて、ぎくっとした。
月明かりに、隆直の面長の顔が照らされていた。彼の後から出てきた女は、かねてから|噂《うわさ》のある池野村の女だった。美希が見ていたのがわかると、慌てて林道の脇に止めていた車に乗り、県道のほうに降りていった。
隆直は舌打ちして、遠ざかる車のヘッドライトから目を背けた。浮気の現場を見つかったことに、腹を立てているらしい。
「夜遅う、なんでこんなところを歩きゆうがや」
|苛《いら》|立《だ》った口調で聞いた。
美希が、克子の通夜の帰りだと答えると、隆直は、ふん、と鼻先で笑った。
「やめちょきゃええに。どうせ、ろくなこと、いわれんかったろ」
「行かんかっても、悪ういわれるわ」
「そりゃ、そうじゃ」
隆直の顔の表情は、薄闇に隠れてよくわからなかった。彼女は、のっぺらぼうの男に向かっていった。
「ちょっとは園子さんのこと、考えちゃったらどうですか。ええかげん、女遊びはやめちょいたがええよ」
「おまんにそんなこと、いえんやろが。中学校の先生とええ仲になっちゅうそうな」
「誰がそんなこと……」
美希は気色ばんだ。
「園子よ。この前、仕事場に行ったら、えらいもん見てしもうたゆうて、早速、俺にいいつけてくれた」
隆直は吐きだすように応えた。
美希は、ハンドバッグの|把《とっ》|手《て》を握りしめた。
晃が学校の後で、仕事場に来た日のことをいっていたとすれば、縁側の障子の間から、二人が抱き合っている姿を見たのかもしれない。園子が目にしたはずの光景を想像して、恥ずかしさに顔が赤くなった。
隆直が両手で美希の肩をつかんだ。
「なんで、あんな若い男をてがうがや」
「隆直さんに関係ないことですやろ」
「関係ない、やとうっ」
隆直は、美希の肩を揺すぶった。
「俺らぁ、好き合うた仲やないか」
暗がりで、隆直が自分を見ていた。
彼の婚礼の日以来、まともに美希の視線を受けとめたことがなかった彼が、今、彼女を見つめていた。そして闇が彼に力を与えたかのように、突然、美希に対する自分の権利を主張しはじめたのだ。
むらむらと怒りが湧きあがってきて、彼女は隆直の手を肩から振り払った。
「昔の話を持ちださんといて。今の私らは、何も関係ありません」
その場を去ろうとした美希の前に、隆直が立ちふさがった。
「俺のこと、恨んじゅうがやろ。そりゃあ、わかる。けんど、仕方なかったがや。俺らは兄妹や。結婚できるわけない、といわれた。俺はやけくそになって、結婚したがや。そんでも俺は美希のことが忘れられんかった。俺が女遊びするがも、美希、おまんへの気持ちをなんとか紛らそうとしてのことや」
「自分の浮気の言い訳に、私のことを使わんでください」
「言い訳やないっ」
隆直は、美希に一歩近づいた。
「それに、美希やって、今まで結婚もせんできたのは、俺のことをよう忘れんかったきやろう」
美希は、隆直の|自《うぬ》|惚《ぼ》れに驚き、そしてあきれた。
「何いいゆうがですか。私は、もう隆直さんには何の感情も持ってません」
「|嘘《うそ》ゆうなっ」
隆直が怒鳴った。
「ほんとうです。今は私、好きな人がおります。隆直さんとのことは、もう忘れました」
「そんなはずはないっ」
隆直が抱きついてきた。ぷんと、先の女の香水の匂いがした。
「おまんは俺のもんや。ずっと俺のもんや」
「勝手なこと、いわんといてっ」
美希は彼を突き飛ばして、逃げだした。
「待てっ、美希」
隆直が追いかけてくる。美希は林道を走った。走りながら、怒りで体が爆発しそうだった。
なんと、弱い男なのだ。美希に手を出し、兄妹だからだめだといわれると、親のお膳立てした結婚に乗っかった。しかし胸の内では、美希が一生、自分のことを愛し続けるものと信じていた。すべてのことを、自分の都合のいいように解釈して生きてきた。そんな男に|惚《ほ》れていた時期があったのだと思うと、自分が情けなかった。
墓地の斜面の下に、灰色の地蔵が見えた。暗がりの中でも、その表情はわかった。凍りついた微笑を浮かべる、幼子の顔……。
美希は突然、立ち止まると、くるりと振り返った。隆直が息を切らしながら走ってくる。
「今まで黙っちょったけど、隆直さん。ここで、教えときます」
美希は憤怒に燃える|瞳《ひとみ》で叫んだ。
「私はね、高校を休学した時、子供を産んだがよ。隆直さんの子よ。生まれてすぐ死んで、誰にも知られんで葬られたわ」
隆直は衝撃を受けて、その場に棒立ちになった。
「なんやと……」
声が震えていた。
美希は長年|溜《た》めていたものを吐きだすように続けた。
「隆直さんは、結婚もして、他の女に手も出して、それで運命に仕返ししたつもりかもしれん。けんど、何の責任もとらんでよかったやない。そんなん、ただの八つ当たりよ。女はねぇ、そんなに簡単なもんじゃない。自分の体で、やったことの責任、とらにゃいかんがよ」
言葉を失っている隆直に、美希は一歩、近づいた。
「私は、自分の始末はつけてきた。責任のひとつも、とるようばんかった隆直さんに、何をいわれる筋合いもありゃあせんよ」
隆直は歯を食いしばり、美希から顔を|逸《そ》らせた。
もう二度と、たとえ暗闇の中でも、隆直は自分と視線を合わすことはないだろう、と美希は思った。
隆直は無言のまま、美希に背を向けた。そして重い足取りで村道に入っていった。
美希は、闇に溶けていく隆直の後ろ姿を、|暗《あん》|鬱《うつ》な面持ちで見送った。
返す言葉もない彼に、美希は|軽《けい》|蔑《べつ》しか覚えなかった。あんな男の子供まで宿して、そのことで狂った自分の人生とは何だったのだろう。
彼女は、路傍の地蔵を振り向いた。月光の下で、灰色の顔が柔和に|微笑《ほほえ》んでいる。美希は、岩に安置された地蔵に合掌した。
安らかに眠ってください。
過去、何千回となく祈った言葉だった。
それは、この地面の下に眠る子への言葉。死んだ、我が子への祈りだった。
出産後、雑貨屋で求めた|甕《かめ》に、子供の死体を入れて、美希は母と共に村に戻ってきた。その夜、父と三人で、この墓地の下に来た時、母がいったのだった。
生まれてすぐに死んだ子は、人の踏むところに埋めるものだ、と。
「また生まれ変わってきたりしたら、次の子もすぐ死んでしまうきの」
母は言い訳めいた説明をした。坊之宮の墓地に、こっそり埋葬するつもりだった父は|躊躇《ちゅうちょ》したが、結局は、古くからのしきたりが大事だという母の言葉に押しきられた。
親子三人は黙々と|鍬《くわ》を振るって、土を掘って、甕を埋めた。後日、その上に大きな石を置き、地蔵を注文して据えたのは父だった。父は、路傍に子供を埋めたことに、後ろめたさを感じていたのだと思う。
だが、父と口論をしてまで、母は自分の主張を通した。それだけ、あの子が生まれ変わってくるのを恐れていた。ということは、母が自分の手で、赤子を殺したからではないだろうか……。
美希は合掌していた両手をきつく握り合わせた。
何ということを考えるのだろう。母が、孫を殺すはずはないではないか。
自分にいい聞かせながら、両手の力を抜いたとたん、心臓がどくんと大きく打った。
墓地の斜面を、漆黒の闇が降りてきていた。先に、墓標の下に漂っていた闇が、霧のように草の斜面を|這《は》ってくる。それに従って、夜の闇がさらに黒い絵の具で塗り|潰《つぶ》されていく。やがて、暗黒は地蔵に達した。地蔵の背中から、闇に包まれていく。
深い闇の中に、地蔵のちんまりした姿がおぼろげに浮かぶ。まるで白黒写真を反転させたように、地蔵の輪郭がなぜか暗がりに浮かびあがっている。目を凝らすと、顔まで見えた。膨らんだ|瞼《まぶた》、小さな鼻。歯のない口が半ば開いている。
美希の全身が硬直した。
地蔵の顔は、暗黒の中で夢の赤子に変わっていた。
悪夢だ。しかし私は眠っていない。悪夢が現実になっている。どういうわけなのだ。
赤い前掛けが、ふわりと舞いあがり、|臍《へそ》の緒のように地蔵の首に絡みついた。地蔵の膨れた瞼の下から白目が|覗《のぞ》く。歯のない口がにたりと|嗤《わら》う。
|喉《のど》がからからになった。
闇に赤子の顔が浮いていた。首に臍の緒を巻きつけて、嗤っていた。開いた赤子の口に闇が流れこむ。闇を喰うほどに、赤子の姿が鮮明になってくる。
美希は、その場に縛りつけられていた。逃げだしたいのに、足がすくむ。
助けて。
彼女は、心の中で叫んだ。
それに応えるように、地蔵の後ろの斜面から音が響いた。ざくっ、ざくっ。何かが草を踏む音だ。坊之宮家の墓場から、降りてくるものがある。
いったい、誰だ。今頃、こんなところに。美希は唇を震わせながら、地蔵の背後を凝視した。
底のない闇から湧き上がる足音は、次第に大きくなってくる。はっ、はっ、はっ。小さな息遣いが聞こえてきた。強烈な獣の臭いが、ぷんと鼻を刺した。
美希は救いを求めて、周囲に視線を走らせた。
得体の知れない獣の足音は、すぐそばに近づいていた。
闇に浮かぶ赤子の顔は嗤い続ける。
美希の顔が青ざめ、頭が空白になった。
逃げなくては。そう思うのに、体が大地に|糊《のり》づけになっている。
その時、体の内奥が、とん、と|叩《たた》かれた。
美希は自分の腹に手を遣った。
まさか……。
首筋の産毛が逆立った。
だが、確かに、腹は内側から、小さく蹴られていた。まるで、美希の恐怖を喜んでいるように、とんとん、と蹴り続ける。
「あ……あ……」
|喉《のど》の奥から、悲鳴ともつかない声が|洩《も》れた。それと同時に、彼女を|呪《じゅ》|縛《ばく》していたものが、ぷつんと切れた。
美希は墓地に背を向けると、転げるように駆けだした。
15
碧色の|仁《に》|淀《よど》川が五月の光を受けて、静かに流れている。美希は、川沿いの広い国道を車で走っていた。開けた窓から、甘い新緑の|匂《にお》いが流れこんでくる。しかし彼女の心は、|爽《さわ》やかな季節を味わえる状態には、ほど遠かった。
伊野町の産院からの帰りだ。人目のある池野村は避けて、尾峰から、車で半時間ほどかかる距離をわざわざ出ていったのだ。いくらなんでも胎動を感じるのは早すぎる。妊娠ではない。自分にいい聞かせながら、産院の門をくぐったのだが、不安な予感が的中した。
——おめでたですよ。
初老の医師は満面に笑みを浮かべて、そういった。彼に美希の心が読めたなら、そんな喜ばしい顔はできなかっただろう。
|驚愕《きょうがく》、恐れ、失望。
その小さな町の産院で、懐妊を告げられる多くの女性の反応とは、およそ正反対の感情しか浮かばなかった。高校生の時、妊娠を知らされた時よりも、動揺は大きかった。あの頃は、出産が自分にもたらすものがわかってはいなかったから。
出産が、彼女にもたらしたもの——それまでの世界の崩壊だった。
美希はフロントガラスの向こうを|睨《にら》みつけて、国道から池野村に続く県道に曲がった。カーブの先から二十歳くらいの若者の運転するクーペが飛びだしてきた。美希は慌ててブレーキを踏んだ。百代と共同で使っている白の軽自動車の横を、クーペが|尻《しり》を振って疾走していった。助手席に乗った恋人らしい女が、のけぞるように笑いころげている。