結婚してはいないらしい、若い二人。あの女は、妊娠したとわかったら、どうするだろう。|堕《おろ》すか……産むか?
美希には、どうしていいかわからなかった。私生児を育てるほどの勇気が自分にあるだろうか。だが、堕すのはためらわれる。
もうすでに子供を一人、亡くしていた。きっとあの子は、この世に生きることができなかったことで、母親の自分を恨んでいる。
昨日の夜、墓地の下で見た赤子の顔が頭に浮かんだ。幻覚というには、あまりにも真に迫っていた。
幸い、昨夜は、あの子の夢は見ずにすんだ。しかし今夜はどうだろう。夢だけならまだいい。現実に出てきたら、どうしよう。私を殺そうとするかもしれない。自分が殺された|復讐《ふくしゅう》に……!
美希はハンドルを握りしめた。
ああ、また、私は、あの子が母に殺されたと考えている。母がそんなことするわけはないではないか。否定しても否定しても、この不吉な疑念が湧いてくるのは、どういうわけだろう。
美希はアクセルを踏んで、車を思いきり飛ばしたい衝動をこらえた。こんな曲がりくねった道でそうしたら、あっという間に道路脇を流れる池野川に転落してしまうだろう。
考えがひとつところにまとまらない。赤子の悪夢、妊娠、晃のこと、|狗《いぬ》|神《がみ》……そして昨夜見た、黒い|闇《やみ》にひそむ……獣?
美希は、奥歯を|噛《か》みしめた。
|雪崩《なだ》れ落ちるような山の急斜面の底に、池野村が見えてきた。美希の車は、村を貫く道に入っていった。スーパーや自転車屋、居酒屋や農協が並んでいる。池野川を挟んだ向こう岸にあるのは、池野中学校と高校だ。
生徒たちが中学校の校庭で野球をしている。放課後の部活動だろう。晃はまだ学校にいるのだろうか。
晃のことを思っただけで、また妊娠の事実を、目の前に突きつけられた気がした。
美希は道路へと視線を戻した。
堕すべきか、産むべきか。
結論の出ないまま、車は池野村を抜けて、尾峰へと続く|田《たん》|圃《ぼ》の中の道に入っていく。
三十代後半になってから、美希は、自分がまた子供を産むかもしれないとは考えなくなっていた。妊娠しにくいといった医者の言葉を妊娠しない、と思いこんで、年を経るごとに、出産を、自分とは縁のない世界へと追い遣っていた。
今、突然、期待もしていなかったことを授けられても、戸惑いと不安を覚えるだけだ。
晃に相談してみようか。彼は何というだろう。自分から逃げるかもしれない。
隆直のように……。
美希は、昨晩、二人の子供のことを告げた時の隆直の|茫《ぼう》|然《ぜん》|自《じ》|失《しつ》ぶりを思い出して、皮肉な笑いを浮かべた。
いくらでも、驚いているがいい。男は後になって、二人の行為の結果を知るだけだ。そして、妊娠という事実を受け入れるか、拒絶するか決めるだけでいい。自分の責任ではないといい張って、逃げだすこともできる。
しかし、女は|孕《はら》んだら、決心をつけるしかない。
産むべきか、堕すべきか。
道路はすでに池野と尾峰の境を過ぎていた。池野川の幅が狭くなり、両側に迫る山が切り立ってくる。番所山の斜面に、灰色の|要《よう》|塞《さい》のような尾峰の村落が見えた。どの家も、石垣に年月という根を絡みつけて建っている。美希の生活も、村の家々のようにしっかりと固定して、揺るがないもののはずだった。何百年も番所山の斜面にへばりついてきた村と同じく、変化というものは存在しないものと信じていた。
この春先、誰かが美希に、静かな生活も今に一変するよ、といったとしても、彼女は、ただ笑い飛ばしただけだろう。
だが、変わってしまった。何もかも。
美希の生活は、内側からも外側からも一変した。心は晃との恋愛に|翻《ほん》|弄《ろう》され、彼女を取りまく環境は、|狗《いぬ》|神《がみ》騒ぎによって暗く塗り|潰《つぶ》されている。
今朝、新聞を取りに家の外に出たら、ふさを見かけた。挨拶しようとすると、彼女は美希に憎々しげな視線を投げつけて、逃げるようにバイクを走らせていった。村を歩いていても、恐れと憎しみの混じった人々の視線が背中に|貼《は》りつく。|和《おだ》やかだった尾峰の雰囲気は消え、今では、ぎすぎすした空気に包まれている。
人間の心とは、なんと変容するものだろうか。
美希は、県道から林道へと車を入れた。道路沿いの土居家の前に、葬式の黒と白の|垂《た》れ幕が張り巡らされていた。しかし、あたりに人の姿はなく、式は終わったのかもしれなかった。誠一郎の親類縁者とは、もう顔を合わせたくはなかったので、美希はほっとしながら、土居家の前を過ぎて林道を登っていった。
正面に坊之宮家の墓地の丘が見えてきた。夕方の淡い光を受ける墓標の間に、すらりとした人影があった。
晃だと思い、胸が高鳴った。
仕事場に続く山道の入口に、彼のバイクが止まっている。美希は、はやる心を抑えながら、車を墓地の斜面の下に止めた。
車の外に出ると、晃がこっちを向いた。美希は手を振った。彼が白い歯を見せて笑っているのがわかった。日曜日から三日間、会っていない。美希は自然に駆け足になって、草の茂る小道を上がっていった。
斜面を登りきると、幾列にもなって整然と灰色の墓が並んでいた。湿った土に刺した剣のように墓場を飾る|卒《そ》|塔《とう》|婆《ば》。その奥で、墓地を|睥《へい》|睨《げい》する、先祖の五輪塔が|聳《そび》えている。石に刻まれた「御先祖様之墓」という文字が、やけにくっきりと見えた。
晃は墓地の縁に立っていた。いつもの黒の皮ジャンの下に、長袖のシャツ、フラノのズボンを|穿《は》いていた。学校の帰りなのだろう。
美希は、息を切らせながら彼にいった。
「何しゆうの」
晃は、下に続く林道を眺めた。
「仕事場に行ったんだけど、美希さん、いなかったから、散歩していたんだよ」
美希は墓地を見回して、顔を曇らせた。
「でも、何も、こんなところで待たなくてもよかったのに」
「眺めがいいからね、ここは。それに」と、晃は美希の顔を|覗《のぞ》きこんだ。
「僕たちの記念すべき場所だし」
あの雨の日のことを思い出して、美希は顔を赤らめた。
夕日を浴びた墓地は静けさに満ちていた。なだらかな斜面の下に、美希の車が止まっている。その横に、ぽつんと|佇《たたず》む地蔵の姿も、牧歌的に目に映る。この柔らかな光の中で見ると、昨夜、地蔵の前で起こったことは、あまりに非現実的に思えた。
あの時の精神状態の|昂《たかぶ》りを考えれば、赤子に変わった地蔵の顔も、|妄《もう》|想《そう》に過ぎないのかもしれない。闇の中から聞こえた足音も、野良猫か野犬が草の間をうろついていただけではないだろうか。すべては、暗闇への|畏《おそ》れが生みだしたことだ。
美希は、隣にいる晃に|微笑《ほほえ》みかけた。
「このところ忙しかったの?」
彼は、まあね、と肩をすくめた。そして、美希を抱き寄せると耳許で聞いた。
「三日間、何してた」
|狗《いぬ》|神《がみ》騒ぎ、赤子の夢、克子の死。色々なことが頭を|過《よぎ》り、再び美希の顔が曇った。晃は|眉《まゆ》をひそめた。
「どうかしたかい」
「克子さん……前に、晃さんが、私の仕事場で会うた、土居さんのお母さんが亡くなったの」
晃は|頷《うなず》いて、美希の体を放した。
「知ってるよ。学校にも口さがない教師がいてね、逐一報告してくれる」
それにまつわる|噂《うわさ》も聞いたような口ぶりだった。
美希は腕を組んで、正面を見つめた。尾峰の村落を隔てた向こうの山の|麓《ふもと》にも墓標が並んでいる。坊之宮家以外の、尾峰の家々の墓地になっていた。その中の一区画に紫色の新しい花輪が並んでいた。克子の墓だろう。埋葬が終わったところらしく、喪服姿の人々が|蟻《あり》の行列のように山道を降りてくるのが見えた。
「村の皆は、私が克子さんに狗神を喰いつかせて、殺したと思いゆうがよ」
晃が承知しているとわかっていても、美希はいわないではいられなかった。
彼の温かな手が、肩に回されるのを感じた。
「くだらない噂は忘れたほうがいい」
「そしたら、晃さんと私の噂は?」
美希は晃の顔を見上げた。女性にしては背の高い美希だが、晃は頭ひとつぶん高かった。彼は浅黒い|喉《のど》を天に向けて笑った。
「こっちは忘れるわけにはいかないだろうね。事実なんだから」
「晃さん、困るでしょ」
「何が困るんだ。美希さんに夫があるわけでもないし、僕に妻があるわけでもない。お互い、縛るものは何もないだろう」
「けど、年が……」
「まだ、そんなことをいっているのか」
美希の肩を抱きしめようとする彼を、彼女はそっと押し止めた。
「私、子供ができたの」
美希は、晃の顔を見つめた。
そこに浮かぶわずかな表情の変化も見逃さないつもりだった。少しでも怒りや逃げ腰の兆候があれば、|堕《おろ》そうと思った。
しかし彼は戸惑ったように、目を見開いただけだった。
「ほんとうか」
晃は低い声で聞いた。
「今日、病院でいわれたわ」
彼は黙って、宙に視線をさまよわせた。その表情からは、どんな思考が頭を巡っているのか、わからなかった。
美希はため息をついた。
さっき考えたばかりではないか。人の心の変容のしやすさを。こんな事態になって、晃の心に、美希との関係へのためらいが生じたとしても仕方ないだろう。
「私、堕してもいいのよ」
そう|呟《つぶや》いたとたん、腹が蹴られる感覚を覚えた。腹の中の胎児が、自分たちの会話に耳を澄ましているような気がして、美希は、びくっと肩を震わせた。どうしてこの子は、妊娠して間もないうちから、こんなに動くのか。普通ではない。
「結婚しよう」
晃の声がした。
美希は驚いて顔をあげた。晃が真剣な面持ちで彼女を見ていた。
「結婚……やって……」
「子供ができたなら、そうするのがいちばんいいと思う」
心に湧きあがってきたのは、嬉しさだった。しかし、美希はその気持ちを押し|潰《つぶ》した。冷静にならなくては、と思った。
「子供のせいで、晃さんの将来を決めさせとうはないわ。晃さんはまだ若い。これから、もっといい人が現れるかもしれん」
「わかってないな」
晃は、|苛《いら》|立《だ》たしそうにいった。
「僕は美希さんが好きだ。だったら結婚するのに、何の支障があるというんだ」
「でも私、私……」
美希は、ぎゅっと目を閉じた。
「だめよ。うちは|狗《いぬ》|神《がみ》|筋《すじ》ながよ。私と結婚したら、晃さんの家まで狗神筋になる。御両親が迷惑がるわ」
「狗神なんて、くだらない噂だとさっきいったばかりじゃないか」
美希はうつむいて、首を横に振った。
「それに……それに私は昔、子供を産んだことがあって、その子は死んだけど、父親というのが……」
「やめるんだ」
晃が強い口調でいった。
「過去がどうだろうと、関係ない。年齢の差も、美希さんの家のことも関係ない。問題は、僕たち二人の気持ちだろう。美希さんは、どう思うんだ。僕と結婚することは」
美希は唇を結んだ。
目の前にいる若い男。つい一か月前に会ったばかりの男。結婚を口にするのは、あまりに早すぎると思った。私は、彼を愛しているだろうか。ただの情熱に|翻《ほん》|弄《ろう》されているだけではないだろうか。
きっと、そうだ。彼も私も、一時的な情熱に狂っているだけなのだ。しかし、子供ができたなら、情熱ではすまされない。自分と晃の間の子だ。
美希は、自分の下腹に目を遣った。まだ、せり出してもいないが、ここには小さな命が宿っている。この子をまた死なせたくはない。結婚して、子供を産んで、家庭を作りたい。自分の居場所が欲しい。兄の家庭の隅にちょこんと座っているのではなく、自分の家庭の中心に座りたい。
「どうなんだ、美希さん」
切迫したような晃の口調に、彼女はふり向いた。
彼の顔は|強《こわ》|張《ば》っていた。美希の表情を食いいるように見守っている。
そして、美希は気がついた。彼は、自分の返答を恐れている。拒絶されることを怖がっている。いつも自信たっぷりに見えた晃が、美希の返事を、息をつめるようにして待っていた。
美希は、はじめて晃の内面を見たような気がした。達観した態度も生意気なところも、すべて彼の|鎧《よろい》だったのではないか。その内側に隠された、傷つきやすい心を守るための。
美希は、晃の胸に顔を埋めた。
「結婚したい……晃さんと」
晃が、よかった、と|呟《つぶや》くのが聞こえた。美希の顔に|微笑《ほほえ》みが広がった。
二人はそのまま静かに抱き合っていた。
「不思議な気がする。なんだか昔から、こうなることがわかっていたみたいな、すごく落ち着いた気分だよ」
晃が|呟《つぶや》いた。美希は、彼の胸から頭を起こして、含み笑いをした。
「そんなの、おかしいわ」
彼は頭を揺すって、額にかかる髪を払った。
「いや、ほんとうだ。僕がここにいて、美希さんが隣にいる。何もかもがあるべき場所に収まった、そんな気分なんだ」
幸福感が美希の全身に広がった。
彼女は、晃の顔から視線を|逸《そ》らせた。このまま彼を見ていると、涙がこぼれそうだった。
山を降りてきた葬式の列席者たちが、下の林道にさしかかっていた。埋葬に使った|鍬《くわ》を担いだ男や、太夫、頭にかぶっていた白い手拭いを揺らせて戻る親族が続く。その中にいた一人の男が、こちらに顔を向けた。
誠一郎だった。
彼は美希と晃の姿を認めたらしく、足を止めた。そのまましばらく遠い距離を隔てて、美希にじっと目を注いでいた。
その表情はわからないが、|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ち尽くしている。
誠一郎を傷つけてしまった。美希の心が|疼《うず》いた。しかし、事態は、もうどうしようもないところまで進んでしまったのだ。
美希は、心の痛みを和らげるように晃の手をまさぐり、握りしめた。
誠一郎の様子に気がついた人々が、振り向いた。そして人々の歩みが止まった。|杖《つえ》をついた味元老人がいる。琴もいる。ふさの|舅《しゅうと》や姑。見知った顔が、墓地に立つ二人をじっと見上げていた。
美希は青ざめて、葬列から顔を背けた。そして、自分たちを見ていたのは、葬式の参列者だけではないのに気がついた。
畑で鍬を持った男がいた。店の並ぶ通りを歩いていた子連れの女。庭先に出た老人。村の人々が、皆、動きを止めて、こっちを向いている。
震えそうになった美希の手を、晃が強く握り返した。美希は、彼の顔を仰いだ。晃は、わかっている、というように|頷《うなず》いた。そして、村の人々に挑戦するように、|昂《こう》|然《ぜん》と頭を上げた。
山際に夕日が沈もうとしていた。ぽかりと浮いた雲が|茜色《あかねいろ》に染まっている。晃の彫像のような顔も燃えるような色に変わっていた。美希の心の中に力が湧いてきた。
この人と一緒なら、何も怖くない。
美希は、晃の手をさらに握りしめた。
私は長い間、この手を探していたのだ。自分の手を握り返す力強い手を。そして、今、見つけたのだ。この手の温もりの中に、私の居場所がある。私と晃と、腹の子の……。
美希の顔に決然とした笑みが浮かんだ。沈もうとする夕日が、顔に熱く感じられた。
16
「なんですとぉ」
道夫が大きな声をあげた。
晃は正座したまま、もう一度いった。
「美希さんと結婚させてください」
坊之宮家の客間だった。|欅《けやき》の座卓を囲んで、道夫、百代、そして富枝が座っている。
美希は、晃の横で、兄や母の顔を眺めた。前置きなしに用件を切りだされて、誰もが何といっていいかわからない表情をしていた。最初に意見らしいものを発したのは、百代だった。
「奴田原先生、御自分のいいゆうことが、わかっちょりますか。美希さんは、ずっと年上で、先生には理香くらいがええと……」
理香が始終、|噂《うわさ》をしていた晃だけに、百代は、彼と娘の結婚を|密《ひそ》かに夢みていたようだった。
百代の言葉を聞いて、美希は、理香はどこにいるのだろう、と思った。晃が訪ねてくると、いそいそと台所に立って、茶の用意をしていた。しかし、茶は一向に運ばれてくる気配はなく、壁ひとつ隔てた台所は静まり返っている。
「年齢のことは、気にしていません」
晃の返事が、美希の注意を彼に戻した。今日は|葡萄《えび》|茶《ちゃ》|色《いろ》の背広にネクタイを締めている。正装した彼は、都会の会社員のような雰囲気が漂っていた。
道夫が、がっちりした掌で後頭部を|撫《な》ぜながら|呟《つぶや》いた。
「そりゃあ、美希をもろうてくれるゆうたら、ありがたいことやけんど……」
晃の顔をじろじろ見ていた富枝が、体を乗りだした。
「先生とこの親御さんは、このこと知っちょりますか」
「まだいってません」
「ほいたら、親御さんが大反対されるかもしれん。美希がえづいめにおうたら、かわいそうですがの」
晃は富枝に向き直ると、さらりと答えた。
「反対するなら、僕は、奴田原の姓を捨てるつもりでいます」
道夫と百代は驚いて顔を見合わせた。
「坊之宮の姓になるゆうがかね」
道夫が|猪《い》|首《くび》を伸ばすようにして聞いた。
「はい。養子になってもいいです」
百代が、美希の顔色を|窺《うかが》いながら、口を挟んだ。
「先生も知っちゅうやろう。うちが|狗《いぬ》|神《がみ》……」
道夫が、黙っておけ、というように、妻の名を呼んだ。しかし晃は、美希を振り向いて、にこりとした。
「知っていますが、そんな迷信に左右されるつもりはありません。僕は、この土地が好きなんです。美希さんと一緒に、ここに住みたいと思っています」
道夫も百代も、晃のあまりに確信を持った口調にあっけにとられたようだった。富枝は、まだ晃に|不躾《ぶしつけ》な視線を投げかけている。
美希は、晃の堂々とした態度が誇らしく、居住まいを正した。
部屋の中は静かになった。床の間の|鷲《わし》を描いた日本画の下で、美希が置いた|皐《さ》|月《つき》の花が鮮やかな朱色を放っている。一昨日、晃が墓地で、土曜日に結婚の申込みに行くといったので、朝から家を念入りに掃除して、花を飾ったのだった。|濡《ぬ》れ|縁《えん》の先では、築山の白い雪柳の花が満開になっていた。池に落ちた花びらが、|鯉《こい》につつかれて揺れている。
結婚したら、この日のことをずっと忘れないだろうと、美希は思った。
晃の少し緊張した声が部屋に響いた。
「それに、美希さんは、僕の子を妊娠しているんです」
「子やってぇ」
道夫と百代が大きな声をあげた。台所から、がちゃん、と何かが落ちる音がした。富枝は観念したように目を閉じた。
道夫は怒りに満ちた顔を美希に向けた。
「おまんは……おまんは……こっそり……」
百代が後を引き継いだ。
「美希さん、あんた、他人に狗神を喰いつかしただけじゃあ、まだ足りんがか。結婚する前に子供ができたらあて、また坊之宮の家のことを悪ういわれる種、作ってからに。ちっとは身内の者のことを考えちゅうがかえ」
声を荒らげて非難する百代を、美希は|睨《にら》み返した。
「村の皆がどう思おうと、かまやせん」
そして母と兄を交互に見遣った。
「私は晃さんと結婚します。それで、この家を出て行きます」
道夫も百代も、美希をはじめて見るような顔をした。
これまで美希が自分の意思を明確に口に出したのは、和紙の仕事場を持つと宣言した時くらいのものだった。それ以外で家族と正面きって対立したことはない。対立しそうになると、美希がひいてきた。|喧《けん》|嘩《か》してまで、通したいほどの願望はなかったのだ。しかし、今は違った。心から手に入れたいものがあった。晃との新しい生活だ。
彼女は背筋をぴんと伸ばして、家族の者と向き合った。
ようやく晃の顔から視線をひき|剥《は》がした富枝が、息子と嫁をなだめるように口を開いた。
「ありがたいことじゃ。村の皆が坊之宮のことを口さがのういいゆう時に、こんな申込みをしてくれるとはな」
「まあ、そりゃあ、そうだ」
道夫は、下唇を突きだすようにして、二、三度、|頷《うなず》いた。そうすることによって、自分を納得させているふうだった。
百代はまだ不満気な顔をしていた。しかし夫が|姑《しゅうとめ》に賛同した以上、表立った反論はしなかった。そこに富枝がたたみかけた。
「うちから文句をいえるような筋合いはありゃせんわ。こんな年になって、子まで|孕《はら》んだ美希をもろうてくれるゆうがやき。こっちがお頼みせにゃいかんところや」
それでもう道夫も百代も何もいえなくなった。道夫は、まだ事態に困惑しているらしかったが、晃に、よろしく、というように頭を下げた。
百代が|苛《いら》|々《いら》した顔で、台所に向かって大きな声を上げた。
「理香っ。お茶、早う持ってきてや」
美希が慌てて腰を浮かせた。
「私、見てくるき」
廊下に出て、台所の硝子戸を開けて、中を|覗《のぞ》きこんだ。理香は床にしゃがみこんで、割れた湯呑み茶碗のかけらを拾っているところだった。
「理香ちゃん……」
顔を上げた理香の大きな|瞳《ひとみ》が|濡《ぬ》れたように光っている。その口許には、引きつった笑みが浮かんでいた。
「おめでとう、美希さん」
美希は台所に足を踏み入れると、|姪《めい》に近づいていった。理香が、晃と|叔母《おば》との関係を知って大きな衝撃を受けただろうことは、容易に想像できた。
「理香ちゃん、私……」
理香はショートカットの髪をぶるんと振って、美希を見上げた。
「何もいわんでええよ。しかたないわ。先生は、美希さんに譲っちゃる」
と、にやりとした姪の精一杯の虚勢に、美希は胸を|衝《つ》かれた。
背後の廊下で、|襖《ふすま》の開く音がした。
「せっかくですが、これから用があるので、僕はもう失礼します」
晃が、引き止める百代に断りをいいながら、廊下に出てきた気配がした。
「美希さん、先生が帰るがやと」
百代の声が響いた。
理香は立ちあがると、美希の腕を人さし指で押した。
「早う行きや。ぼやぼやしよったら、私が先生、取っちゃるき、気いつけや」
姪の丸顔には、冗談とも本気ともつかない表情が浮かんでいた。美希は苦笑して、理香の肩をぽんと|叩《たた》いた。
「そんなこと、させんよ」
理香が目を見開いた。今までの美希なら、決して口にできないような応答だった。
美希も自分自身に驚きながら姪に背を向けると、玄関へと歩いていった。
二畳ほどの玄関には、道夫も百代も富枝も|揃《そろ》って、見送りに出ていた。美希は、晃と少し話がしたかったので、送っていくと告げて、急いで靴を履いた。晃は、美希の準備ができると、見送りの家族に向き直った。
「それでは、僕は両親と話をしてから、またこちらにお伺いします」
お辞儀をして、出ていこうとした晃に、富枝の声がかかった。
「あの、先生」
富枝は、曲がった背中から首を彼のほうに突きだして、愛想笑いを浮かべた。
「もしよかったら、明日のうちの先祖祭りに来てくれませんやろか」
「先祖祭り?」
|怪《け》|訝《げん》な顔をしてから、晃は、あっ、と目を輝かせた。
「美希さんに聞きました。なんでも、一族の方が年に一度、集まるお祭りとか」
「はい。四時頃からやります。先生に来てもろうたら、御先祖様も喜ぶと思いますけんど」
晃が先祖祭りに来たら、隆直とも会うことになる。美希は母にしかめ面を向けた。
「晃さんが養子になると決まったわけやないがよ。なにも先祖祭りに来んかったって、ええじゃないの」
「あんたと結婚するんやったら、坊之宮の者になるのも同然じゃ」
富枝はぴしりといい返すと、道夫を見た。
「のう、道夫。ええじゃろう」
道夫は口の中でもぞもぞと、そりゃあ、もちろん、と答えた。
「出席させていただきますよ」
晃は気軽に答えた。
富枝は張り子の|虎《とら》のように頭を何度も|頷《うなず》かせた。いかにも嬉しそうだった。
美希は晃と連れ立って、家を出た。
五月晴れの青空から降りそそぐ、午後の明るい日射しが|眩《まぶ》しい。木々を揺らせて、番所山から風が吹きおろしていた。|爽《さわ》やかな風に背中を押されるように、二人は村道を下っていく。
晃が、乱れる髪を|掻《か》きあげていった。
「僕、今日はこれから高知市に戻って、両親に報告してくるよ」
「私も行かなくていいかしら」
彼は少し考えるようにしたが、首を横に振った。
「まず、僕が説得してからがいいと思う」
美希は顔を陰らせた。
「反対されそうながやね」
「大丈夫だよ」
晃は表情を和らげた。
「高校以来、両親はもう僕のやることに反対はしない。二人が期待しているのは上の兄だけさ」
彼はゆっくりと歩きながら続けた。
「いつか僕と両親の間には、深い溝ができてしまった。わかりあう努力もしなくなっている。不思議だな。ずっと同じ家に暮らしてきた家族なのに、|絆《きずな》がふっと切れてしまった」
「同じ家に暮らしていても、家族の関係は変わってくるがよ」
美希は考えながらいった。
「百代さんが嫁に来て、子供を作ってから、私の育った家は、もう違う家になってしもうた。あの家に流れちゅう血が違うがよ。別の血が入ってきて、私には居場所がない」
晃は笑った。
「僕たちは、居場所のない者同士だ」
美希は|微笑《ほほえ》みを返した。
二人は石段を並んで降りていった。路傍の水路のせせらぎが立ち昇る。色硝子の棒のような|糸《いと》|蜻蛉《とんぼ》が、路傍の|蓬《よもぎ》から飛びたつ。優しい表情で、その行方を目で追っていた美希の頬を何かがかすめていった。
「あっ」
軽い痛みを感じて、頬に手をあてた。
かつん、かつん。小石が石段を転がり落ちていく。
「|狗《いぬ》|神《がみ》っ」
子供の声がした。顔を向けると、晴子の家の庭で、男の子が仁王立ちになって次の石つぶてを握っている。まだ幼い顔に宿る憎しみに、美希はぎくりとした。
「文彦っ」
叫び声がして、晴子が家から飛びだしてきた。家の横から夫の耕作が顔を出した。薪を割っていたらしく、手に|斧《おの》を持っている。
晴子は、息子を背後から抱きかかえると、美希を見て後ずさりした。丸く太った顔に嫌悪の情を浮かべている。家の中から、晴子の上の娘が二人、こわごわとその光景を眺めていた。
「晴子さん……」
美希が|呆《ぼう》|然《ぜん》として声をかけた時、耕作が、妻と子を守るように前に立った。
「子供の悪さじゃ。許しちゃってや」
耕作はぶっきらぼうにいうと、早く行ってくれ、というように|顎《あご》を動かした。右手に握った斧の刃が、ぎらりと銀色に光った。
美希は開きかけた口を閉じると、歩きだした。晃は、じっと夫婦を|睨《にら》みつけていたが、美希が呼ぶと、石段を降りてきた。その後ろで、耕作が地面に|唾《つば》を吐いて、薪割りに戻っていくのが見えた。
美希は中野家から顔を背けた。
晴子まで自分を憎んでいる。そう思うと悔しさと悲しさがこみあげてきた。
美希は頬を手でこすった。血が|滲《にじ》んでいる。ポケットからハンカチを出して拭きながら、彼女は横に並ぶ晃の顔も見ずにいった。
「わかっちゅう、晃さん? 私と結婚したら、同じめに|遇《あ》うがで」
「いつか忘れてくれるよ」
晃が静かにいった。
美希は石段の途中で立ち止まった。
「忘れることはないがよ」
輝く太陽の光が、棚田に囲まれて肩を寄せ合うように立つ家々を包みこんでいる。一輪車と|鍬《くわ》を載せて走る軽トラック。家の前で立ち話する|手《て》|拭《ぬぐ》いをかぶった女と、子供を抱いた若い母親。収穫した黄金色の麦を、庭に敷いた|筵《むしろ》に干している年老いた農夫。
美希は、のんびりと土曜の午後を過ごす村人たちに向かっていうように続けた。
「村の者は何ひとつ忘れやせん。私のお父さんやお祖父さんがどんな人やったか、お祖母さんがどこから嫁に来たか、ちゃんと知っちゅう。うちが狗神筋やゆうことも、私の過去も、しっかり覚えちゅう。村全体が過去帳みたいなものよ。それには何でも載っちょって、村の人間は気が向いたらめくって、昔のことをいいたてる。どんなに時代が変わっても、ここに人が住んじゅう限り、その過去帳は存在する。忘れるゆうことはないがよ」
「それがいやなら、美希さんは、どうして、ここから出ていかなかったんだ」
美希は言葉に詰まった。体が弱かったから。結婚しなかったから。様々な理由が頭に浮かんだが、どれも真実ではない気がした。
彼女は尾峰の村落を眺めた。山肌を覆う、灰色の石垣。風の中で背中をかがめる老人のように、斜面にしがみつく木造の粗末な家々。
どうして私は、自分の過去を永遠にいいたてるこの土地を出ていかなかったのか。
出ていくことなぞ、真剣に考えたことはなかった。夢想したことはあった。高知市内か、せめて伊野町に出て、一人暮らしをすること。しかし、それはただの夢だった。自分がそうしないことはわかっていた。
「私は、この土地が好きながやと思う」
美希は小さく答えた。
「ここの人やない。ここの空気が好きながよ。ここの斜面の上から、下を見下ろすこの景色が好きながよ。ここにおったら……」
美希は言葉を探すように眉根を寄せた。そして、遠い山並みを見渡していった。
「空に飛びだせそうな気がするき」
晃のしみじみした声が響いた。
「わかるよ。ここは……空に近い」
美希はにっこりとした。
「いちばん最初に晃さんに会うた時も、そんなことをゆうたねぇ。きっと昔、ここに|辿《たど》り着いて、村を築いた坊之宮の御先祖様もそう思うたがやろう」
「美希さんちの先祖のことかい」
「そう。徳島から来たんやって。深い山を越えて、この番所山の斜面が気にいって住みついたがよ」
晃の目が楽しげに光った。
「明日の先祖祭りは、その御先祖様をお|祀《まつ》りするんだね」
美希は墓地のほうを振り向いた。こんもりした丘の上に、黒い指を突きだしたような墓標が立ち並んでいる。遠目にも、ひときわ大きな五輪塔はすぐわかった。
「そうよ、一族の者があそこに集まってねぇ……」
といいかけて、ふと、墓地の横の林が揺れているのに気がついた。番所山に接する林の木の葉がざわざわと震えている。
かーん、かーん。風に乗って、|斧《おの》の音が流れてきた。低い地響きが起こり、林の中の木が倒れるのがわかった。
「いややわ」
美希は|呟《つぶや》いた。
晃は|怪《け》|訝《げん》そうな顔をした。
「あそこの木、組地ゆうて、村の何軒かの家の共有地ながよ。坊之宮家も所有権を持っちょって、木を伐るのに反対しよったがやに。それを勝手に伐りゆう……」
今度は別の木が揺れはじめた。林の木は、歯が抜けるように次々と倒されていく。
身震いする墓地の横の林を眺めて、晃はいった。
「つまり、村の他の家は、坊之宮の家の意見を無視したということか」
美希は|頷《うなず》いた。
「どんどん、村の人がうちを除け者にしていくわ」
村人たちの振るう斧の音が、坊之宮一族に対する、彼らの怒りの声のように聞こえる。唇を|噛《か》む彼女の肩に、晃の手が回された。
「僕がいるよ」
美希は力なく笑った。
晃一人の力で、この状態がどうなるわけでもないことは、よくわかっていた。
それでも、彼女は晃の体に身を寄せた。その温もりが嬉しかった。少なくとも彼は私たちの味方だ。
よかった、この人と出会えて。
美希は、胸の内で呟いた。
二人は肩を寄せ合ったまま、ゆっくりと細い灰色の石段を下っていく。
かーん、かーん、かーん。
木々の間から立ち昇る斧の音は、尾峰の|蒼《あお》い空にいつまでもこだましていた。
17
傾きかけた太陽の光を受けて、池野川が|銀《ぎん》|鼠《ねず》|色《いろ》に輝いていた。横にたなびく煙の筋にも似た山の|稜線《りょうせん》を背景に、坊之宮一族の行列が進んでいく。
先頭を行くのは、本家の当主、隆直だ。その横で一升瓶を|捧《ささ》げ持っているのは頭屋にあたる道夫と博文。尾峰に残る三軒の坊之宮家の残り一軒の当主の治が|皺《しわ》だらけの顔に穏やかな笑みを浮かべ、|杖《つえ》をつきながら続く。さらに、高知市や伊野町に散らばった分家の当主たちが、手に手にビール瓶や酒瓶、|茣《ご》|蓙《ざ》、食器を入れた箱を持って連なる。大皿を抱えて歩くのは、各家の主婦たちだ。皿には、頭屋にあたる美希の家の台所で作った皿鉢料理が盛られ、覆いがかけられている。