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角川文庫
蟲
[#地から2字上げ]坂東眞砂子
[#ここから3字下げ]
五月待つ花橘の香をかげば
昔の人の袖の香ぞする
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]読人知らず
蟲
序 章
海が細やかな光を反射していた。なだらかな山の斜面一面に、|蜜《み》|柑《かん》の濃い緑色の葉が輝いている。|多田純一《ただじゅんいち》は、|芥《から》|子《し》色のジャンパーのファスナーをおろした。首筋が、|微《かす》かに汗ばんでいた。
「さすがに、こっちは温かいですね」
「東京は、まだ冬ですか」
煙草をくゆらせながら、隣を歩いていた|安《やす》|川《かわ》が笑った。純一も自分の煙草を出して吸おうとして、かろうじて辞めた。もう一本吸えば、気持ちが悪くなるだろう。
太陽の光で目がちかちかする。肩筋が、ぎしぎしと音をたてそうなほど|強《こわ》|張《ば》っている。徹夜で図面を仕上げてから、朝の新幹線に飛び乗ってきたせいだ。脳の奥深いところで、誰かが絶えずお|喋《しゃべ》りをしているような不快感が続いていた。
働きすぎだ。わかりすぎるほど、わかっていた。こなしても、こなしても、仕事は終わらない。深い霧に閉ざされた山を登っているようなものだ。流す汗の量で、どれくらい頑張っているかわかる。しかし、頂上は見えないし、今、自分が山のどこにいるのかもわからない。それは、この静岡の仕事の、主任担当者になったためだった。都内の楽な仕事だけにしておけばよかったのだ。出張もない分、疲れも少なくてすむ。
だが、彼にとっては、おそらく二十代最後の大きな仕事だ。純一の将来を左右する機会だったのだ。
以前の純一なら、出世を意識してがむしゃらに働くことなぞ、考えもしなかっただろう。好きな造園設計の仕事に没入できていれば満足だった。しかし年齢とともに、純粋な情熱に、社会的欲望という|媚《び》|薬《やく》が混ざりこんできた。家庭を持ったせいだろう、と思う。そして彼は、そういう自分の変化を、あながち悪いものとは|捉《とら》えてなかった。
この疲労感さえ別にすれば……。
純一は眼鏡の下から指をさしこんで、目頭をもんだ。温かさの中に小さな|刺《とげ》のような冷気を含んだ潮風が、彼の茶色がかった髪の毛をかき乱していった。
二人は、川の土手の上に続く道を、海に向かって歩いていた。ブルドーザーが三台、ゆっくりと動いている。トラックの荷台から流れ落ちる赤茶けた土が、ブルドーザーに押しやられ、河原の上に広がっていく。海と川の美しい調和をみせていた自然が、機械の力で変形させられていく。色白で|痩《や》せた純一は、この自然と機械の力の|拮《きっ》|抗《こう》の中では、ひよわな子供のように見えた。
安川が、煙草の煙を吐きだした。
「地ならしもほとんど終わったし、この調子なら、四月から本格的な整備にかかれると思いますよ」
「しかし、これ三月着工予定でしたよね」
「あっははは。多田さん。|苛《いじ》めないでくださいよ。工事に遅れはつきもの」
安川は豪快に笑って、純一の肩を|叩《たた》いた。
急流で知られる富士川だが、河口周辺は、穏やかな川辺の風景が広がっている。この広い河原を利用して、運動公園が作られる計画が進んでいた。設計、施工を請け負ったのが、東京に本社のある純一の会社『内田建設』だ。完成すれば、テニスコート、サイクリングコース、野球場などを備えた大規模な運動公園に生まれ変わることになる。しかし、まだ土地は、生まれたばかりの赤ん坊のように、血ならぬ土にまみれていた。
「三年もここで現場監督ですか。単身赴任でしょう。大変ですね」
純一は、安川のごま塩頭を眺めていった。
「そりゃ、|飛《ひ》|騨《だ》の山の中なんかだったら、つらいですがね。東京までは近いし、気候はいいし、魚はうまいし。なんたって天下の富士山のお|膝《ひざ》|元《もと》ときてる。アパートの窓からはみだすくらいの絶景でね、これが。大変どころか、もういうことなし」
安川は、|蕗《ふき》の|薹《とう》のようにずんぐりした親指で、頭上に|聳《そび》える富士山を指さした。
まだ白い雪を頂いている山は、静かな威厳をたたえ、あくせく働く下界の人間たちを冷たく見下ろしている。純一は、富士山から、なだらかに続く蜜柑山へと目を移し、確かに、そうかもしれないと思った。家の窓を開けたら、隣のマンションの壁が見えるのが関の山の彼の東京の住まいと比べたら、ここは何と自然と光に恵まれていることだろう。
安川は煙草を地面に落とすと、太い腕を後に回して、気持ちよさそうに伸びをした。
「多田さんも、こっちに引っ越してきたら、どうですかね。煩わしい女房も、でかくなって口ばかり達者な子供もいない。いや、極楽、極楽ですよ。はははは」
「極楽ですか」
眼前に広がる海は霞んでいた。|仄《ほの》|白《じろ》く沈む水平線のあたりは、海と空がひとつに溶けあっている。そこは、影すらも色を失い、柔らかな空気に満ちている世界。純一は、その海と空の|狭《はざ》|間《ま》に吸いこまれていくような気がして、目を|逸《そ》らせた。
安川は、捨てた煙草の吸殻に丹念に足で土をかけた。
「ここはね、けっこう古くから人が住んでいた土地らしいですな。縄文時代の遺跡が多いんですよ」
運動公園の設計前の下調べの段階で、そんな資料を読んだ記憶があった。河口から少し山の方向に入った地区には、縄文時代の遺跡ばかりでなく、六、七世紀の古墳も多く発見されている。純一は、かつてこの土地に住みついていた古代人たちに思いを馳せた。
「昔の人も、どうせ住むなら温かいところがいいと思ったんでしょうね。蜜柑を食べて、のんびり昼寝をして……」
「それが多田さん、今でいう蜜柑ってのは、もともと日本にはなかった果物なんです。蜜柑の系統で日本原産のものは、|橘《たちばな》だけということですよ」
橘。聞いたことのある名前だった。
「それも蜜柑の一種ですか」
「そうです。日本でも温かい土地にしか自生しない木とかいいますな。昔、このあたりにも橘が生えていたらしいですよ。その花は、なんとも芳しい香りがしたとか、土地の年寄りがいってましたが」
詳しいんですね、と純一がいうと、安川は日に焼けた顔に照れたような笑いを浮かべた。
「私の趣味は、植物観察でしてね」
温かな|日《ひ》|射《ざ》しの下で仕事をして、休みの日にはポケット植物図鑑を片手に、野道を歩くのだろうか。夕方には、新鮮な魚を買い、家に帰って台所に立つ。そして夕暮れに沈む富士山を窓ごしに眺めながら、日本酒を飲む。安川の生活が頭に浮かんできた。
|俺《おれ》に、そんな暇ができるのは、いつのことだろう。
また後頭部の不快感が襲ってきた。こんな潮風の吹きすさぶ土手の上で、他人の生活を|羨《うらや》ましく思う時間があるのなら、毛布をひっかぶって横になっていたい。一日、誰にも邪魔されずに眠っていたい。
「おっと、そこ、危ないですよ」
安川が、純一の胸を押さえた。足元の土手が崩れていた。純一は、薄い体を折り曲げるようにしてつんのめった。しかし、時すでに遅く、足は宙に浮いた。純一は土手をずるずると滑り落ちて、二メートルほど下の柔らかい土の中にはまりこんだ。
「大丈夫ですか」
土手から安川が見下ろしていた。純一は、ずり落ちた眼鏡をかけ直すと、照れ隠しに|大仰《おおぎょう》に手をふった。
「命に別状はありませんがね」
ズボンが土にまみれていた。はたいてみたが、湿った土のために、|裾《すそ》にこすったような黒い跡が残った。
——いい年して、泥んこ遊びはやめてね。
妻の甘い低音の声が聞こえるような気がした。同い年の妻は、いつも純一を子供のように扱う。母親のような妻と、子供のような夫。二人の生活の端々が、その関係で色づけられていた。しかし純一は、本当のところでは違うとわかっている。彼こそ、妻の「ままごと」につきあってやっているのだ。それが、彼女に対する愛情の証だと思っていた。
純一の妻、めぐみは、ほっそりとした肢体に、高い|頬《ほお》|骨《ぼね》、肉感的な唇を持つ、美しい女だった。もっと身長があれば、モデルにもなれたかもしれない。そして決して、馬鹿ではなかった。彼は、めぐみの、美しさと知性を宝物のように愛していた。
純一はこれ以上ズボンが汚れないように裾をたくしあげて、赤茶けた土の中からごぼっと足を抜いた。そのはずみに、土にまみれた丸いものが飛びだした。純一は、興味をそそられて、それを取りあげた。
鶏の卵くらいの青味がかった灰色の石だった。地中にあったせいか、ひんやりしている。汚れを拭うと、表面にびっしりと模様が彫られていた。ただの石ころではなさそうだ。石の周囲に、粘土を固めたような線が巡っている。|爪《つめ》で掘り返すと、浅い溝が現れた。石を横半分に割って走る亀裂だった。
「どうしたんですか」
安川が上から声をかけた。純一は、「へんなものを見つけたんですよ」と答えると、ポケットからボールペンを出して、粘土に埋まった溝を掘っていった。接着剤代わりだった粘土をすべて除くと、両手で石を開いた。カッという小さな音がして、|胡桃《くるみ》が割れるように石がまっぷたつになった。
割れた石の器の中に、丸く白い玉が見えた。水中に沈む蛙の卵にも似て、半透明にゆらめいている。指で触ろうとすると、その白い玉はふっと消えた。
相当、疲れてるな。純一は頭を振った。首筋がゴキゴキと音をたてた。
安川が、純一の名を呼んだ。顔をあげると、気掛かりそうにこっちを見ている。
「あ、ああ。すみません。僕をひっぱりあげてくれますか」
安川は、今になって気がついたというように、慌てて手をさしのべた。
土手に上がった純一は、石の器を安川に見せた。安川は無骨な手で石の器をひっくり返して、驚きの声を洩らした。
「珍しいものですな。ずいぶん昔のものみたいだ。何をいれてたんでしょうね」
一瞬、さっき見た白い玉のことをいいそうになった。しかし、笑われるのがおちだと思い直して、純一は黙った。
「これ、木の模様みたいですよ」
安川は、石全体をおおっている模様を指さした。そういわれれば、曲がりくねった線と、木の葉型の模様が複雑に組みあわされている。しかし角度を変えると、何かの文字のようにも見えた。純一がそういうと、安川は、うーんと|唸《うな》って、また石の器を眺めた。二人はしばらく、その模様を見ていたが、やがて安川がため息をついて、「わかりませんな」と純一に石の器を返した。
「古墳からの出土品だったりしたら、もうけものですからね」
彼は石の器をハンカチにくるんでポケットにしまいながら、安川にいった。
「そりゃそうだ。わしもひとつ、この土手を掘り返してみますか」
安川は、おどけてみせてから、
「おっと、多田さん。そろそろ新幹線の時間じゃないですか」
純一は時計を見た。もう五時近くになっていた。新富士駅発の新幹線は、確か五時三十分だったはずだ。駅まで送ってくれるという安川と共に、二人は土手から、車の置いてある道路におりていった。
夕日が向かいの山に落ちようとしていた。その山の斜面一帯は墓地になっている。夕焼けに染まった墓標の連なりが、朱色の波のように見えた。
車の前で、純一は立ちどまり、不思議な感覚を覚えた。
はるか空の彼方からやってくる朱色の波だった。次から次へと覆いかぶさってくる、無数の墓標の波。波は音もなく山肌を流れ落ち、彼の足元にまで押し寄せてくる……。
頭の奥が、ずきん、と痛んだ。純一は、奥歯を|噛《か》みしめた。
安川も山を見上げていった。
「なかなかすごいでしょう。富士川のあたりの人の御先祖様は、あそこから子孫が何をしているか、見下ろしているってわけですよ」
「そうですね」
それだけいうのがやっとだった。妙に気分が悪かった。純一の様子には気がつかず、安川は太い声で続けた。
「この土手の土は、あの山の裏側から取ったものなんですよ」
純一は、安川の顔を見た。
「じゃあ、さっきの石の器の埋まっていたのも……」
「ええ。あの山ですよ」
純一は眉をひそめた。安川が車の|鍵《かぎ》をポケットから出して笑った。
「なーに、山の裏には墓はありませんよ。仏さんのものを取ったわけじゃないから、安心してくださいよ」
別にそんなことを考えたわけではなかったが、その言葉にほっとしたのは事実だった。安川が助手席のドアを開けてくれた。純一は、車に乗りこんだ。
フロントガラスの向こうで、朱色の墓標の波がぎらりと輝いて見えた。
一 章
『中国チベット自治区の独立運動は、自治区全体に広がりをみせています。この反政府運動に対して、中国政府は、軍隊によって鎮圧すると発表。またインド政府が、独立派に加勢しているとして非難しました。そしてこの状況が続くならば、今後両国の関係は悪化の一途を|辿《たど》るだろうと警告しています』
テレビの女性キャスターが冷静な口調でニュースを読みあげている。
画面には、インド経由で送られてきた映像として、傷ついた反政府運動派の市民の全身が大写しになっていた。ソファの上に置いた新聞の一面には、南米で起こった大地震の写真と、『フランスの原子力発電所、放射能漏れ』という見出しがでかでかと載っている。
まるでコメディ映画のパイ皿戦争だ。世界中の国が、パイ皿がわりに厄難を投げあっている。投げられた厄難パイは、地上に落ちて|潰《つぶ》れてしまう。この騒ぎが終わった時には、白いクリームにまみれた地球だけが残るのだろうか。ただ、そのクリームが、甘くておいしいものでないのは請けあいだ。
外では夜が|密《ひそ》やかに息づいていた。世界の|派《は》|手《で》なニュースも、この静けさのうわっつらを|撫《な》ぜて通るだけで、その下に潜む重苦しい夜の静寂を破ってはくれない。私は、厚いコンクリートの壁に囲まれたマンションの一室で、一人きりだ。
流し台のところに行って、ブランデーの瓶に手を伸ばした。棚の縁にピンで留めてあるカレンダーが目にはいる。
三月七日。日付の横に『|啓《けい》|蟄《ちつ》の日』と書かれている。虫が土からでてくる日。暦の上では、もう春。三月、妊娠三か月目……。
ブランデーを持った手が一瞬、止まった。玄関の方に耳を澄ませた。
純一は、まだ帰ってきそうにもなかった。
本当に今日、帰ってくるのだろうか。昨日は、夕食の茶碗を洗っている時に、電話がかかってきた。「今夜は、帰れそうもないよ」。疲れた彼の声が、待ち疲れた私の耳に響いた。電話の向こうは、何の音もしなかった。それが私の気分を|苛《いら》|立《だ》たせた。私も彼も、同じ静かな夜の|闇《やみ》の中にいる。なのにどうして、一緒にいることはできないのだろう。
仕事、だ。いつも、この二文字が、飼い主の仲の良さに|嫉《しっ》|妬《と》する猫のように二人の間に割りこんでくる。朝から晩まで一緒にいないと嫌だと甘える、新婚ほやほやの妻というわけでもない。だけど、自分の仕事を辞めて、はじめて気がついた。
夜がこんなにも長いことを。
家の中では、テレビの音が空虚に響いている。私はブランデーの瓶を傾けた。こぽこぽと音をたてて、黄金色の液体がグラスに注がれていった。右手でグラスを持ち、左手でお腹を撫ぜた。そしてブランデーを口に含んだ。熱くふくよかな液体が|喉《のど》をおりていった。
酒の匂いを|嗅《か》いだだけでも気分が悪くなる妊婦の話もよく聞くが、私に関しては、幸か不幸か、そんなことはなかった。妊娠中の飲酒がよくないのはわかっている。でも、どうしようもない。長い夜を一人で過ごすには、酒はいい友だ。
ソファに戻って、またテレビに目を|遣《や》った。今度は、アフリカのどこかの国の食糧難のニュースに変わっていた。骨と皮ばかりになった子供を抱いた老婆が、|虚《うつ》ろな顔をしてこっちを見ていた。
私はどきりとした。
おばあちゃん。
高い|頬《ほお》|骨《ぼね》。後にぴたりと撫ぜつけた白髪。老婆の顔は、子供の頃に死んだ祖母そっくりだった。老婆の口が動いた。
——ムシガオキタ——
背中に冷たい水をたらされたようだった。私はびくっとして、テレビを凝視した。
老婆は、祖母と似ても似つかない顔だった。テレビからは、聞いたこともないアフリカの言葉が流れてきていた。画面の下にテロップが写っている。
『この子に食べ物をください。もう一週間も、ろくにものを食べてないのです』
空耳だったのか。私は、うんざりした気分で、目の前の旧式のテレビを眺めた。
純一が学生時代から持っているテレビだ。画面が小さくて、野暮ったいデザイン。リモコンは、とうの昔になくしている。すぐに買い換えるという言葉を信じて、私の持っていたテレビは、結婚する時、友人にあげてしまった。ところが買い換えの話が出るたびに、彼は、まだ充分に映るといいはった。そして、三年が過ぎた。
彼は、物を捨てられないのだ。おかげで、この家は、どれほど彼のがらくたでいっぱいになっていることか。
八畳しかない、名ばかりのLDKの壁は、やはり純一の物だったリビングボードに占められている。その上にはテレビと、うず高く積みあげられた新聞や雑誌。リビングボードの前には、これまた彼が学生時代から使っていたソファ。|肘《ひじ》|掛《か》けの部分がすりきれたので、白い大きな布をかけて隠している。この空間で、私のものといえば、カントリー調のダイニングテーブルと二脚の木の|椅子《いす》だけだ。LDKに面して、六畳の和室と洋室がある。和室は、まるで物置だ。結婚した時、母が買ってくれた|桐《きり》|箪《たん》|笥《す》と、純一の白木のクローゼットがのさばり、隣の寝室は、部屋の真ん中に鎮座したダブルベッドに占められている。
私は、家にあまり物を置いておくのは好きではない。少なくともソファと、|図《ずう》|体《たい》ばかり大きくて、使い勝手の悪いクローゼットは捨ててもいいと思っている。この二つがなくなっただけで、どんなに家はすっきりとするだろう。しかし純一は、自分の長年使ってきた物にとても執着を抱いていて、私がそういいだそうものなら、あからさまに不機嫌な顔をする。つい二週間前も、彼が仕事に出ている間に、引き出しが動かなくなった小型の整理箪笥を捨てた。いかにも安物の合板製だった。帰ってきた彼にそういうと、あれは死んだ父の使っていたものだ、と怒りだした。その場は、私が謝っておさまったが、不満が残った。形見を大事にするのはいいが、壊れた整理箪笥なんか、後生大事に取っておくことはないだろうに。
夫は時々、他の者が見たら、くだらないとしか思えないような部分で、自分の我を通そうとする。結婚して、そんなところが見えてきた。私は、それは、純一の執着心の強さから来ていると思っている。彼は、何に対しても、執着する。一度、自分のものとなったら、余程のことがないと手放しはしない。彼の持ち物もそうだし、彼の習慣、彼の生き方、彼の愛するもの、すべてについていえる。
彼の性格で、私の神経を逆撫でするのは、そこだった。子供のように我執にしがみつく点。だが、他の部分では、私は彼に満足していた。一緒にいて楽しい男だ。仕事で忙しいというのは、有能だということでもある。
結局、人間、人生にあまりに多くのものを期待してもだめなのだ。
またブランデーをちびりと飲んだ。
玄関のドアの開く音がした。純一だ。私は、グラスに目を落とした。後ろめたい気分が走った。そして、すぐそう思った自分に腹がたった。自分の体は自分で管理する。酒のおかげで、胎児がみんなアルコール症群に|罹《かか》るわけではないだろう。
私はグラスを床に置くと、廊下のほうに顔を向けた。すぐに青白い純一の顔が現れた。彼は「ただいま」と疲れたようにいうと、|芥《から》|子《し》色のジャンパーを脱いで椅子の背にかけた。
「遅かったのね」
言葉にだしてから、非難の口調が混じっていたのに気がついた。しかし彼は何も感じなかったらしく、私の横に腰をおろして、やっぱり夜は冷えるなぁと、関係のないことをいった。私が|怪《け》|訝《げん》な顔をしていると、
「知らなかった? 雪が降ってるよ」
窓の外を見ようと、腰を浮かしかけた時、純一のにやにやした顔が目にはいった。いつもの子供っぽい冗談だ。私は、彼を|睨《にら》みつけてまた腰をおろした。純一は、私の横に座って、まだ薄笑いを浮かべていった。
「いくら夜が冷えても三月だよ。雪が降るわけないだろう」
そして一人で悦にいっている。彼は、私の肩に手を回して機嫌よさそうに続けた。
「それにしても、富士川のあたりは温かかったな。静岡って、けっこういいところだよ。俺、寒いのは苦手だから、老後はあんなところで暮らすのもいいな。富士山の見える|蜜《み》|柑《かん》畑に、しゃれた家を建てるんだ。サンルームを広くとって、リビングと続きにする。書斎と寝室は二階で、子供部屋は離れにしてさ、廊下でつなぐってのも|斬《ざん》|新《しん》だよ」
彼の言葉が途切れた。視線は床に置かれたブランデーの入ったグラスに注がれている。彼の|咎《とが》めるような視線を、私は|撥《は》ねのけた。
彼は、私のグラスを取りあげるとブランデーを|啜《すす》った。苛立ちの兆候が、その右上がりになった口許に現れていた。テレビの音が急に大きくなった気がした。番組はニュースから、ホームドラマに変わっていた。若い男女が、街角でいいあいをしていた。
しかし、彼は非難めいたことは、何も口に出さなかった。ほっと息をつくと、眼鏡を取って、|瞼《まぶた》を|揉《も》みながらソファに身を沈めた。急に疲れに襲われたようだった。私は純一の|膝《ひざ》の上に手を置いた。
「働きすぎよ」
彼はゆっくりと頷くと、|自嘲《じちょう》気味にいった。
「仕事が趣味だなんて、ださい生き方だと思ってたけどな」
「仕事がなくて、時間をどうやって|潰《つぶ》していいかわからないよりは、ずっといいわよ」
私は、考えながら答えた。
「時間の潰し方ならわかってるさ。まず寝るんだ。何日も、ぶっ続けで寝る。腹が減ったら起きて、食べて、そしてまた寝る」
純一は、はだけたシャツの首許に手をつっこんで、ぽりぽりと|掻《か》いた。私は彼のシャツのボタンをはずした。ひっかいた跡が|蚯蚓《みみず》|脹《ば》れになっていた。
「どうしたの、これ」
「新幹線の中で、虫にでも刺されたかな」
顔をしかめた私をおかしそうに見て、純一は、冗談だよ、といった。
「虫がいたのは俺の夢の中。新幹線の中がすごく暖房がきいていて、気持ちよくってさ、居眠りしていたんだ。そしたら妙に胸のあたりが、もぞもぞする。見ると、黒い毛虫みたいなものが動いているんだ。半透明で、幻みたいだった。そいつはゆっくりと|這《は》って、俺の胸の中に頭を突っこもうとしていた。はっとして飛び起きると、煙のように消えてしまった。夢に決まってるけど、気持ち悪くてね。それから胸のあたりがむず|痒《がゆ》いんだ」
——虫が起きた——
耳の奥で、さっきの幻聴が|蘇《よみがえ》った。
腕の産毛が逆立っていた。私は、純一の手からグラスを取ると、一口|啜《すす》った。
「おい、いい加減にしろよ」
純一がきつい口調でいった。
「少しくらいならいいって、お医者さんもいってたわ」
「医者のいうことより、俺のいうことだ。子供は半分、父親のものでもあるんだぜ。俺だって、家の中で煙草を吸うのは止めてるんだ。こっちの意見だって聞いてもいいだろ」
私は彼に向き直った。
「生むのは私よ。それに純一のいい分なら、たっぷり聞いているわ。子供が大きくなるまでは、母親の手で育てて欲しいっていうから、仕事だって辞めたんじゃない」
「へーえ。仕事はもう、うんざりだ。辞めてもいいっていったの、誰だったっけ」
私は言葉に詰まった。確かに、私はそういった。あの仕事に、うんざりしていたのは本当だ。しかし、だからといって、仕事をまるっきり辞めてしまうことは、歩くのは飽きたから、一生歩かないと宣言するのと同じようなものだ。ちょっとの間、車に乗って、また歩きだしてもいいではないか。少なくとも私はそのつもりだった。
しかし彼は、私が一生、外に出ないで、家にいることを望んでいる。今は、このことでいい争いはしたくなかったが、子供が生まれて落ち着いたら、ゆっくり話し合わなくてはならないと思っていた。
彼は勝ち誇った顔で、私の手からグラスを取りあげると、一気に飲み干した。すべての問題は終わったといわんばかりのその態度に、私はカッとした。ソファから立ちあがると、流しに行き、新しいグラスにブランデーを注ぐと、彼の前に立って、ぐいっと飲んだ。彼の顔が怒りで赤くなった。
「やめろといってるだろ」
私は、独身時代から大事にしている、手造りの木の椅子に腰をおろした。
「命令口調でいうのは止めてちょうだい。あなた、気がついてないでしょうけど、私が仕事を辞めてから、そんないい方をするようになっているわ。純一はいいわよ。仕事が終わったら、仲間と一緒に飲みにいって、鬱憤を晴らして帰ってくる。家庭のことは放っておいて、自分は好きに外を出歩いている。だけど私は? 一日中家にいて、夜遅くしか帰ってこない夫を待っているだけ。あなたが父親としての権利を主張するのなら、妊娠したからといって家にいなくちゃならない妻の立場をもっと理解できるはずよ。出産の大変さは妻にかかり、子供の養育権利は夫にある、っていうのは理屈にあわないわ。私のことを考えてくれないのなら、とやかくいう権利だってないはずよ」
私は一気にいってのけた。怒りで、組んだ足の膝が震えていた。
彼は、たじろいだらしかった。自分を落ち着けようとするように、目を閉じた。そして、次に目を開けると、にやっとした。
「その調子で、出産における妻の権利について、日本国中、講演して回ったらどうだい。きみみたいな才色兼備の論客を相手にしたら、世の男は太刀打ちできないよ」
私は苦笑した。彼の仲直りの申し出だった。|夫《ふう》|婦《ふ》|喧《げん》|嘩《か》は、たいてい彼が私をからかうところで終わる。仕事で疲れている純一を相手に、とことんやり合う気力もなかったので、私は和解に応じた。
「それじゃ、純一を私の広報官に任命してあげるわ」
「ははっ、ありがたき幸せ」
純一は|大仰《おおぎょう》にお辞儀をしてみせた。そして私たちは笑いだした。しかし笑いながら、私には、問題は解決したわけではないと、わかっていた。
純一がソファから立ちあがって、風呂にはいりたいといいだした時、ズボンの|裾《すそ》の汚れが目にはいった。
「それ、どうしたの」
純一はうつむいて、黒い汚れを見た。そして子供のように目を輝かせた。
「忘れてた、あれがあったんだ」
彼は椅子にかけたジャンパーのポケットを探り、現場で見つけたといいながら、ハンカチにくるんだものを渡した。
ハンカチを開くと、丸い石が出てきた。表面に模様がついている。|容《い》れ物になっていて、石の上半分をひっぱると、|蓋《ふた》が取れた。中は空だった。
「プレゼントだよ。縄文時代のものかもしれないんだぜ」
純一は得意そうに、出張先の富士川の河原で拾ったと説明した。私は、石の器を流しで洗った。複雑な模様に覆われた青灰色の石だった。小さな宝石箱のように、電灯の下でつややかに光っている。
「気にいったわ、これ」
私は、それをテレビの上に置いた。ごとっ。小さな石の器は意外に大きな音をたてた。
骨ばった純一の手が、私の乳房をまさぐっていた。薄闇の中の影に向かって、私は、だめよ、と|囁《ささや》いた。
「どうして」
「赤ちゃんがいるんだから」
「俺の子なんだもの。お父さんのためのちょっとした場所くらい開けてくれるさ」
私は小さな声で笑った。彼の手がネグリジェの下に這いこんできて、私の体を撫ぜまわす。その温もりを心地好く感じながら、私は、彼のパジャマの上衣を脱がしていった。
カーテンの|隙《すき》|間《ま》から忍びこむ街の明かりに、純一の上半身が浮かびあがった。ほっそりした彼の体は、夜の海に跳ねる魚のようだ。私は夫を抱きしめた。|痩《や》せた背骨のひとつひとつを、そっと指でなぞる。
ふと、彼の背中が|微《かす》かに青く光っているのに気がついた。その肩ごしに、寝室のドアを見た。ドアの隙間から、居間の光が見えた。弱々しく、青白い光だ。私は体を起こそうとした。彼が不満気な声を|洩《も》らして、私をベッドに押しつけた。
その時だった。ボンッと大きな音が響いた。
私は悲鳴をあげて、純一にしがみついた。何かの焦げる|臭《にお》いが漂ってきた。彼は、ゆっくりと私から離れて、隣の部屋にいくと、電気をつけた。
「テレビだ……」
純一の声がした。私もベッドから起きあがると、居間にはいった。リビングボードの上に置かれたテレビから、うっすらと煙が立ち昇っている。
「どうしたっていうの」
純一は上半身裸のまま、テレビの前に座りこみ、チャンネルをいじっている。しかしブラウン管は、暗く沈黙したままだ。
「壊れてる」
純一は|呟《つぶや》いた。まるで死刑の宣告のように、重々しい口調だった。無理もない。あれほど執着していたテレビだった。私はといえば、目障りだったおんぼろテレビが壊れてくれたので、むしろほっとしていた。
「寿命だったのね」
「だけどテレビは消えてたんだぜ。なぜ急に壊れるんだ」
「電源を消し忘れてたんじゃない。さっきこの部屋から、青白い光が洩れていたから」
寝る前にちゃんとスイッチを切ったと、純一はいい張った。私の責任だといいたげな口ぶりだった。いつもの私なら、|濡《ぬ》れ|衣《ぎぬ》だと反論したかもしれないが、今回は聞き流すことができた。なにしろテレビを買い換える口実ができたのだ。
私は、充分使ってあげたのだから、テレビとしても本望だろうとか、ものはいつかは壊れる運命なのだとかと、なぐさめの言葉を並べたてた。それで彼も、ようやくテレビを|諦《あきら》める気分になったようだった。
午前二時だった。純一にしても、壊れたテレビを前にして、通夜をしてあげられるほどの元気はなかった。私たちは、寝室に引きあげていった。
寝室のドアを閉める時、ふとまた青白い光を見た気がした。しかしそれは、純一の拾ってきた石の器が、寝室の窓から|射《さ》しこむ光を反射していただけだった。
「こちらは今年でたばかりの新型29インチでして、ハイビジョン番組用機能をはじめとして、重低音システムもついております」
顔色の悪い若い店員が、パンフレットを丸暗記した口調でいった。純一は『¥299800』という値段にちらりと目をやって「うーん」と|唸《うな》った。店員は察しよく、今度は少し先に展示してあるテレビを指さした。
「あちらの型でしたら、ただいまセール中ですが。衛星放送も見られますし、BSアンテナとセットで十五万五千円です」
「あら、いいじゃない」
私は純一の腕を揺すった。
秋葉原電気街にある家電製品のチェーン店の中だった。四階にあるテレビ、オーディオ売り場は、日曜ということもあって|賑《にぎ》わっていた。売り場を歩く客たちは、家族連れかカップルが多い。肩を寄せあって整列するテレビたちの前を、夫も妻も子も、期待に顔を輝かせながら歩いていく。
家族の誰にとっても、テレビはありがたい友達だ。お|喋《しゃべ》りをして欲しい時は、延々喋ってくれるし、黙っていて欲しい時は、ため息ひとつもらさずに沈黙していてくれる。
——私を選んで。僕を選んで。いい友達になってあげる。
何も映っていない暗いブラウン管の奥から、テレビが|囁《ささや》く。テレビのある楽しい生活。退屈した子供たちの遊び相手に、休日の夫の昼寝のお供に、テレビはいかが。特に、寂しい妻の夜のお伴には、テレビは不可欠だ。
私は皮肉な笑みを浮かべた。
店員の勧めたテレビをじっと見ていた純一が、不満気にいった。
「さっきのと比べたら、デザインがなぁ……」
ぶしつけな純一の言葉にもひるむことなく、店員は、テレビ電話の静止画面のように笑いを顔に|貼《は》りつけたまま答えた。
「そりゃあセール品ですから、去年の型なんです。でも、それほどの差はありませんよ」
「だけど、せっかく買うんだからな」
「だったら、あれは」
私は斜め上のほうに展示してある、黒のすっきりした形のテレビを指さした。店員は我が意を得たり、という風に|頷《うなず》いた。
「あちらはですね、今いちばんよくでているタイプなんです。フラット画面に、文字放送機能つき。もちろん衛星放送も見られます」
「文字放送までは必要ないな」
「あら、いいじゃないの。テレビ映画も字幕スーパーみたいに見られるんでしょ」
「十九万円だぞ」純一が小声で値段をいった。
「いいじゃないの、私の貯金を使うわ」
彼の口の右端が、きゅっと上がった。
「それは出産費用に取っておくはずだろ。俺の予算の中で買えるものにしておかないと、この先大変だぞ」
「先は、先の話よ」
小声でいいあう私たちの横で、店員が困った顔で立っている。私はきまり悪くなって、少し待ってくれと頼んだ。店員が、また静止画面の笑顔を取り戻して、他の客のほうに歩み去ると、私は彼にいった。
「とにかく私は、気にいったテレビを買っておいたほうがいいと思うの。また壊れるまで使うに決まってるんだから」
——寂しい妻の夜のお供に、テレビはいかが。