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作者: 当前章节:15391 字 更新时间:2026-6-23 09:08

 出口に向かって殺到する観客に逆らって、私は舞台の方に進んでいった。

 舞台の後片付けは、もうはじまっている。布で仕切った簡素な楽屋を|覗《のぞ》きこんだ。役者たちが、裸になって着替えていた。私は慌てて首をひっこめた。

 関係者たちが、お祝いをいったり、椅子をしまったりしている。公演が終わった後まで、会場にいるのははじめてだ。私は、どうしていいかわからず、あたりを見回した。

 舞台に敷きつめていた黒い板を取りはずしていた男と目が合った。私は、この機を逃がすまいと、舞台に近づいた。青いバンダナを頭に巻いた太った男は、用をいってみろ、という風に|頷《うなず》いた。

「カヤって人に会いたいんですが」

「カヤ?」

 彼は、鼻に|皺《しわ》を寄せた。

「そのへんにいない?」

 私は頭を横に振った。男は、太鼓腹から響き渡るような声をあげた。

「おーい、カヤーッ。いるかーっ」

「はぁーい。ここよぉーっ」

 誰かが女の声音で返事した。あちこちで笑い声が巻きおこった。階段を下りてきた、白いショールの受付の女の子がいった。

「カヤなら電話かけてくるってさ。今、出てったよ」

「戻ってくるんですか」

「決まってるじゃん。今日で舞台、終わりだもん。後片付けがあるんだ。帰ってこなかったら、縛り首だよぉ」

 おさげ髪の女の子は、右手で首を縛るふりをして笑った。私は礼をいって、階段をあがっていった。

 ビルの前に立ってカヤを待った。光を背に受けて、細長く伸びている私の影。アスファルトの地面を横切る、巨大な|蚯蚓《みみず》のようだ。私の中の虫は、こんな形をしているのだろうか。死刑の宣告を受ける前の罪人のような気分だ。私の中に、本当に虫がいるのだろうか。『クラブ・夜の女王』というネオンの赤い光に照らされて、道の向こうに燃えるような金髪が現れた。カヤだった。袖をまくりあげた、トルコブルーのシャツに、白の綿パンツ。暗い新宿の路地に舞い降りた天使のように見える。片手でリズムをとりながら、踊るような足どりでやってきた。

 私から三メートルほどのところに来て、その足がぴたりと止まった。カヤは目を細めて、こっちを見た。私が誰だかわかったらしい。彼は、一歩、後ずさった。

「逃げないで」

 私は彼のほうに足を踏みだした。

「教えてくれるまでは、追いかけ回すわよ」

 一瞬の間を置いて、カヤの絹ずれのような声がした。

「なにを……教えろというんだ」

「私に関すること、すべてよ」

 私は彼を見つめた。彼の視線が鋭利な|刃《やいば》となって、私を突き通した。うす暗い路地では、その瞳に映る表情は計りがたい。首元の水牛の角の白いペンダントが、ネオンの光で血の色に変わって見えた。しばらく私たちは、そうやって睨み合うように向き合っていた。

「よおっ、姉ちゃんたち、つきあわないかぁ」

 カヤまで女性だと思った酔っぱらいが、私たちの間を通り過ぎた。私たちは、お互いの視線を外した。騒がしさと酒臭い空気が消えてから、私は再び口を開いた。

「私の家で石の器を見て、なにを感じたの? どうして私から逃げようとするの?」

 カヤは、降り注ぐネオンの光を透かして私を見た。そして他の誰かに聞かれるのを恐れているような、小さな声で聞いた。

「あんたは……なにも感じないのかい」

「えっ?」

 彼は、ごくりと|唾《つば》を飲みこんだ。

「虫だよ」

 その言葉は、荒々しい風となり、私をなぎ倒した。それと共に、やはり、という気持ちが湧きあがってきた。

「あなた……虫が見えるの?」

 自分でも声が震えているのがわかった。

 カヤは私に視線を注いだまま、ゆっくりと頷いた。金髪が、仏像の光背のように輝く。

「ああ。ぼんやりとだけど。……最初、お宅に行った時、あの石の容れ物の中から、生き物がいた|気《け》|配《はい》がした。この世のものじゃない生き物だった。でも、家の中に、そいつはいなかった。だけど、この前、あんたに通りで会った時、僕には|視《み》えた。……あんたの中に、そいつがいるのが」

 私は自分の下腹部を押さえた。常世虫は、ここにいるのだ。ここにいて、私の心を|喰《く》い続けている。足元の地面が沈んでいく。この体が自分のものではないような気がした。

 カヤが私の下腹部から目を|逸《そ》らせるようにしていった。

「そこにいる虫が何なのかわからない。……変なんだ。普通なら、悪い霊とか、いい霊とか、僕にはわかる。だけど、その虫の存在が、いいものかどうかもわからない」

「どうしたらいいの。教えて、私、どうしたら……」

 思わず、カヤに近づこうとしたとたん、

「寄るなっ」

 悲鳴があがった。カヤは、両手で頭を抱えこんでいた。顔が真っ青になっている。しかし、目は私に釘づけになったままだ。その視線が、だんだんと遠い宙の一点へ集中していく。彼が脱け殻のように見えた。魂が今にも浮遊していきそうだ。

 私はカヤの肩に手をかけて揺すった。

「どうしたの?」

 カヤは、はっとして|瞬《まばた》きすると、私から飛びさがった。

「そいつを俺に近づけるなっ」

 彼は脅えていた。唇に唾が飛んで、白く小さな泡がくっついていた。

「なにを怖がっているの」

 カヤは、ゆっくりと頭を左右に振った。

「わからない……。ただ、そいつが語りかけているんだ。新宿で、そいつを視た時からだ。昼も夜も、僕に何かをいおうと、触覚を伸ばしてくるのがわかるんだ」

「いったい何を……」

 その時、ビルの階段のところに人影が現れた。銀のスパンコールの入った黒いTシャツを着た男だった。町の|巷《ちまた》に消えて行く前に、カヤを見つけて声をかけた。

「こんなとこにいたの。みんな探してたぜ。音楽のテープのことでさ」

 カヤは救われた表情で、「今、行く」と答えた。そして私を避けるようにして、ビルの階段に向かった。私はその前に立ちふさがった。

「教えて、その虫は、どんな感じなの」

 カヤは、ぎくりとしたように私を見た。

「いってよ。知らないでいるのは嫌だわ」

 その答えを聞くまでは、絶対に引きさがらないつもりだった。カヤは、風の中の風船のように体を揺らせた。そして大きく息を吸って私の上に視線をさまよわせた。|喉《のど》から|囁《ささや》き声が|洩《も》れた。

「そいつは……大きい。そして……どんどん大きくなろうとしている」

 カヤは顔を|歪《ゆが》めると、私の横をすり抜けて、階段を走りおりていった。

 大きい。私の体ほどに大きい。私の体のほとんどは、あの虫に占領されているのだ。

 私は|茫《ぼう》|然《ぜん》として、その場につっ立っていた。頭が|痺《しび》れたようになっていた。回りのビルが、ネオンサインが、人々がどろどろと形を崩していく。赤や紫、黒、黄色。毒々しい色が、夜の町の|坩《る》|堝《つぼ》の中で溶けあっている。

 その中に私が立ち尽くしている。

 いいえ、それは私ではない。虫だ。巨大な長い虫が、のたりのたりと、都市という、毒々しい色の泥の中を|這《は》いずり回っている。

 なんて、おぞましい想像だろう。

 私は歯を食いしばり、ビルの壁に背中をもたせかけると、天を見あげた。街の明かりに染まった夜空もまた、色のついた泥に見えた。震えている私のうえに、歌舞伎町の|喧《けん》|騒《そう》が、覆いかぶさってきた。

「ほぉう、いい飲みっぷりだな」

 隣の男が感心したようにいった。私は、ちらりとその男を見ると、カウンターに空のブランデーグラスを置いた。男は、にやにや笑いながら、それを指さして、バーテンダーにいいつけた。

「おい、こちら、ブランデー、もう一杯だって」

 バーテンダーは|慇《いん》|懃《ぎん》に一礼して、空のグラスを取りあげた。もう何杯目のレミーマルタンか、覚えてなかった。

 心地好いジャズの流れる静かなバーだった。歌舞伎町でも、こんな店があるとは信じられないほどだ。あのまま家に帰る気にはなれなかった。町をあてもなく歩いていた私に声をかけたのが、今、隣にいる男だった。

 年は五十代くらい。仕立てのいいスーツを着ている。どこかの会社の、地位のある人物のようだった。彼が私を、このバーに連れてきたのだ。

 酔って、なにもかも忘れてしまいたい。そう思ってグラスを重ねるのに、意識のどこかが常に|醒《さ》めている。自分の頭を切り開き、虫の記憶をごっそりと取りだして、トイレに流してしまいたかった。

 私の前に新しいブランデーグラスが置かれた。透明な|飴《あめ》|色《いろ》の液体が、バーの照明を反射してきらきらと輝いている。隣の男が、煙草をうまそうに吸いながら話しかけてきた。

「なにか悩み事がありそうだね」

 私は頷いた。酒をがぶ飲みしている女を見て、幸せそうだという男がいるとしたら、とんでもない|朴《ぼく》|念《ねん》|仁《じん》だ。

「悩みなんて、まったくの他人に話してみると、気が楽になったりするものですよ」

——私の心を虫が食べてますの。この世のものではない、巨大な虫が。

 そんなことをいって、気が楽になるものなら、百万遍でもいってやる。

 私は、ブランデーをぐいっと飲んだ。黒い服を着て、ポマードで|撫《な》でつけたバーテンダーの頭が、海草のようにゆらゆらと揺れている。カヤにいわれたことが、とても|滑《こっ》|稽《けい》に思えてきた。

 私は、なにかとんでもないコメディ番組に出演しているのだ。カヤは役者。純一も役者、加奈も役者。みんなで私を担いでいるのだ。隣の男も実は役者。このバーは芝居のセット。そして私は、この芝居のヒロイン。

——私には、ちょっと荷が重すぎる。この役、おろしてもらいたいわね。

 隣の男が、煙草とバーボンの|臭《にお》いの混じった息を吐きかけてきた。

「きみの悩み、いってごらんよ」

 浅黒い肌の上に、|世《よ》|馴《な》れた風情を身にまとい、スマートな中年だと自信たっぷりに思いこんでいる。

「私ね、病気なの」

 彼は|眉《まゆ》をひそめた。

「そんな風には見えないけどね」

「外見は、普通に見えるけど、私の体の中はもうだめ。虫に|喰《く》い荒らされているのよ」

 男の驚く顔に自虐的な喜びを感じながら、私はいいつのった。

「祖母が、寄生虫のいる魚を食べて、体中、虫だらけにして死んだのよ。これって、血統なのかしら」

 男は笑いだした。

「おかしな|女《ひと》だ。俺を怖がらせようとしてるんだろ。その手には乗らないよ」

 私は男を|一《いち》|瞥《べつ》して、ブランデーをあおった。

「もう一杯」

 バーテンダーが、私のグラスを受け取った。隣の男は、まだ薄笑いを顔にとどめて、私ににじり寄った。

「本当のことをいってごらんよ。何を悩んでいるんだい」

 酒と煙草に荒れた男の顔は、腐った水を思い出させた。私は顔を背けた。かたん、と小さな音をたてて、新しいブランデーが置かれた。その強い芳香を|嗅《か》いでいると、すべてがどうでもいいことのように思えてきた。

「私の夫がね、浮気をしているの」

 頭に浮かんだ言葉をいってやると、男は、おおげさに驚いた顔をした。

「きみ、人妻なの? いやあ、そうは見えないなぁ。ひどいね、こんなきれいな人を放っておいて、浮気する亭主なんて」

 男は、とたんに|饒舌《じょうぜつ》になった。自分にわかる分野の話になったので、喜々として私を諭しはじめた。浮気に走るのは、男の|性《さが》だ。その原因は、夫にもあるし、妻にもある。もちろん、きみのような場合は、夫が悪いに決まっているが……。まるで会社で部下に演説しているようだ。演題は『夫の浮気についての自己弁護』。

 私はグラスを取りあげて揺すった。ブランデーが、ガラスの壁にぶつかって渦を巻く。

 純一が「常世蟲」と彫られた石の器を持ち帰った夜も、こうしてブランデーを飲んでいた。|遥《はる》か昔のことのようだ。一人で過ごす夜が寂しくて、ブランデーを傾けていたあの頃、私は幸せだったのだ。今になって、そうだと思える。純一が残業ばかりで遅く帰っても、私に対する独占欲を発揮しても、そのせいで口喧嘩が起きても、彼は彼だった。欠点も長所も、私の愛している夫の一部だったのだ。しかし、今、純一は、ただの優しい人。それ以上、どんな形容詞がつけられるだろう。

 幸せとは、失ってはじめてわかるもの。だけど、これほど悲しいことはない。幸せを感じるために、不幸にならないといけないとは。人は、不幸と幸福の|狭《はざ》|間《ま》を振り子のように行き来する。幸福の次は、不幸、不幸の次は、幸福と。今の私が不幸というなら、次は幸福が訪れる順番だ。だが、そんな時がきても、虫に喰われた心は、幸福を感じることができるのだろうか。

 |琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の液体は、私の思考のように、グラスの中でぐるぐると渦を巻く。落ち着く場所の見つからないブランデーを、一気に飲みほした。永遠に、私の胃の中を回っていればいい。私は、皮肉な笑いを浮かべた。

 バーテンダーが、もう一杯、作るかと聞いた。私は、カウンターの端に座っていたカップルが立ちあがるのに気がついて、時間を尋ねた。

「三時です」

 バーテンダーが腕時計を示した。そのとてつもなく遅い時間が、酔っぱらった頭に|滲《し》みこんでいった。友達と朝まで飲み明かしたことはあっても、一人で、こんなに夜遅くまで外にいたのは、はじめてだった。ついでにいえば、町でひっかかった男と、そのままバーに入るというのも、はじめてには違いない。

「帰らなきゃ」

 腰を浮かしかけた私の腕を、隣の男がつかんだ。

「おいおい、もうちょっと、いいだろ」

「もう遅いから」

「どうせ旦那も浮気しているんだろうに」

 私は男を|軽《けい》|蔑《べつ》の目で見た。男は、その視線を意にもかいさずにいった。

「週末だし、タクシーを拾うのも大変だよ」

 路上で、あてもなくタクシーを探して立ち往生することを考えた。そこまでして帰宅する必要があるだろうか。

 あのコンクリートの部屋は、もう私の家ではない。私と純一が作り上げた空間は崩壊してしまった。私にとって、純一はもはや遠い存在だ。

「どうだい」

 肉厚の手が、肩に置かれた。

「もう一軒、行かないか」

 網膜にへばりついた黒い滲みのように見える男の顔に、私はゆっくりと頷いた。

  十六章

 乳白色の空に浮かんだ黒い満月のような|瞳《ひとみ》が、私を|睨《にら》みつけていた。私が見守るうちに、その瞳は遠ざかっていき、やがてひとつの顔が現れた。

 厚い唇。ぼってりとした鼻。高い|頬《ほほ》|骨《ぼね》。

 秦河勝だった。彼の唇が動いた。

——蟲を送れ——

 低いその声が、私の頭に満ちていく。

 蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。……。

 私は、はっとして目を開けた。暗い部屋の中だった。空気を|微《かす》かに震わせるエアコンディショナーの音。ベッドサイドのデジタル時計が五時二十六分を示している。

 隣で大きな影が動き、男の|唸《うな》るようないびきの音が聞こえた。

 私は全裸のままベッドに寝ていた。酔っぱらって|辿《たど》り着いたホテルの一室。性急なセックス。下腹部の奥に鈍い痛みが残っている。少しも気持ちよくはなかった。興奮して声をあげる男の顔を眺めながら、私は自分の肉体が消えてしまっているような感覚を味わっていた。いいや、肉体だけでなく、感情自体が消えてしまっていた。

 なにも感じなかったのだ。セックスの高揚も、罪の意識も、嫌悪感すら。

 私はベッドから起きあがった。暗い部屋で、ぶよぶよに膨れた腹をさらして、大の字に寝ている男。この名も知らない男が|羨《うらや》ましく思えた。単純に女の体を求めた後、充足して眠っている。妻の|許《もと》に戻れば、わずかな罪悪感と、してやったりという満足感の入り交じった感情に揺らぐことだろう。その感情を自分の生きている証のように|呑《の》みこんで、まあ、人生、いろいろあるさ、という顔で世の中を渡っていくのだ。

 頭がずきずきする。気持ちが悪い。私はバスルームにはいり、お湯の蛇口をひねった。シャワー口から熱い湯が吹き出してきた。

 激しい湯に肌を打たせながら、丹念に体を洗いだした。少しずつ頭がはっきりしてくる。昨夜の出来事が、カヤの言葉との会話が思いだされてきた。私は自分の下半身に目を|遣《や》った。|濡《ぬ》れた肌が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。腹にあいた小さな口のような|臍《へそ》が、何かを語りたがっているように動いていた。

 ここに、虫がいるのだ。あの緑色に黒い|斑《まだら》の巨大な虫が。この柔らかな皮膚の下で、体をくねらせて動いている。そして私の心を|貪《むさぼ》り|喰《くら》い、私を私でなくならせていく。

 恐怖がじわじわと|湧《わ》きあがってくる。しかしその恐怖感すら、幾重にも重ねた布を通して、ようやく脳に達してくる。少しも直接的ではない。私の中の激しい感情が磨滅していっているのだ。恐怖も、愛憎も、悲しみも、怒りも。これも、あの虫のせいなのか。

 私は、もどかしさに奥歯を|噛《か》みしめた。悲しみを感じるよりも先に、私は泣いていた。涙が、頭から降り注ぐ熱い湯と一緒になって、足元に流れ落ちていく。涙だけは、私に忠実だった。|溢《あふ》れる涙を両手ですくって、抱きしめてあげたい。これだけが、私の感情を|直截《ちょくせつ》に表してくれている。

 だけど、どうしたらいいのだろう。このまま何もしないで、虫に心を喰わせ続けろというのだろうか。

——蟲を送れ——

 秦河勝の声が頭に響いた。

 私は、ぎくりとして顔をあげた。シャワーの湯が、雨のように降りかかってくる。

 蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。蟲を送れ。

 まるで脳が「蟲を送れ」という文字を書き|綴《つづ》った経文になってしまったように、頭いっぱいに、その言葉が浮かんでくる。

 虫送りの夢が、鮮明に|蘇《よみがえ》った。

 橘の木の下で、めらめらと燃える朱色の炎。羽を焦がして、落ちていく虫たち。灰と化していく、害虫のはいった|藁《わら》の箱。ジャアジャアというシャワーの音が、やがて、ぢりぢりりりりり、という音に変わった。

 虫の焼ける音だった。

 六月の朝の空気が、肌をひんやりと包みこむ。私は、朝まだきの新宿を歩いていた。新聞配達の青年がバイクで通り過ぎる。浮浪者たちが、ダンボールの箱の中で眠りこんでいる。朝まで飲み明かした男が二人、ふらふらと駅のほうに歩いていく。毎朝、この町で繰り返されているだろう光景が、今日も同じようにはじまっていた。

 しかし、私にとっては、今日は、いつもとは違う。目を覚ましたら、自分の家の中ではなく、ホテルの一室。横に寝ていたのは、知らない男だったのだから。そして、これからやることは、日常では決して、実行する勇気も生まれないことだ。

 虫送り。虫を、あの世に送り返す儀式。

 私は、ポケットの中でホテルのマッチを握りしめると、朝もやに|聳《そび》え立つ白い高層ビルを見あげた。

 スペーシア・ビルの入口は開いたばかりだった。私は回転ドアを押して、がらんとした玄関ロビーにはいっていった。

 サンクチュアリの入口には立て札があった。

『本日は終了いたしました。またのお越しをお待ちしております』。立て札を横目に、エレベーターホールへと進む。つきあたりを曲がると、『サンクチュアリ管理事務所』のドアが見えた。そのドアのノブをそっと回した。

 事務所の中には誰もいなかった。机の上に開かれたままに置かれた日誌。壁にはガードマンの私服らしい、茶色のズボンをかけたハンガーがぶらさがっている。私は事務所を横ぎって、サンクチュアリの中に続くドアを押した。ドアには|鍵《かぎ》はかかっていなかった。

 サンクチュアリの天井を覆うガラスから、白々とした朝の光が|射《さ》しこんでいた。私は緑の木立の中に足を踏みいれると、足音を忍ばせて|橘《たちばな》のほうに歩いていった。

 橘は、緑から白へ衣替えをしていた。小指の先ほどの白い|可《か》|憐《れん》な花が、枝いっぱいに咲き誇っている。周囲の緑の木々は、橘の白い花を浮きたたせるように、鮮やかな新緑に燃えている。橘は、白い花模様の衣をまとい、サンクチュアリの中で輝いていた。

 |爽《さわ》やかな香りが、あたり一面に漂っていた。私はゆっくりと木に近づいていった。

 一歩、一歩、近づくにつれ、花の香りが私の心に染みいってくる。気が遠くなる。あの時と同じだ。この前、ここに来て、気を失った時のようだ。

 いけない。しっかりしなくては。

 私は心を引き締めた。

 しかし、体内に流れこんでくる橘の香りは、そんな自戒も簡単に吹き飛ばしてしまう。陶然とした気分が私の内に忍び込んできた。心が静かになってくる。ただ心地良い。木の幹に手を伸ばそうとした。

 その時、目の前の色が朱に変わった。

——蟲を送れ——

 頭の中で声が響いた。

 そのとたん、どういうわけかわからない。突然、橘の木と重なるようにして、秦河勝が現れた。彼の姿は、朱色の炎に包まれていた。瞳をかっと見開いて、憤怒の表情を浮かべながら、火の中にすっくと立っている。火に焼かれているというのに、勝ち誇ったような顔をしていた。

 やがて、その渦巻く炎の中から、別の顔が現れた。|皺《しわ》におおわれた厳しい顔。白髪が煙のように逆立っている。

 おばあちゃんだった。

 祖母は、炎の中で叫んだ。

——あんたの中の蟲を送るんやっ。

 そして、また炎の中に消えた。

 次には若い女の顔が現れた。泣きながら叫んでいた。

——蟲を送って!

 私自身の顔だった。

 そして炎の色は消えた。老人が両手を広げたように伸びる橘の幹だけが、先と同じように目の前にあった。

 私は白昼夢から覚めて、あたりを見回した。橘の花の香りが、再び私を包みこんだ。ふと、うつむくと、自分の着ている服の白い色が、緑に見えた。白い繊維の間から、緑色がじわじわと|滲《にじ》みだしている。

 純一の首筋から、巨大な虫が出てきた時と同じだった。今度は私の番なのだ。私の中にいた虫が出てこようとしているのだ。

 こめかみが、ずきんずきんと脈打ちはじめた。

 私は震える手で、ポケットに手をつっこんで、マッチを探った。

 虫を送るのだ。私の中の虫を送るのだ。虫を、あの世に送るのだ。それが秦家の血を継いだ者の勤め。それが、先の白昼夢の意味するものだとわかった。

 この体に火をつけて、虫を送ることが——。

 マッチがうまくつかめない。

 私の中の虫が邪魔をしているのだ。

 虫よ、消えろ。この世は、おまえのいる場所ではない。

 私は心の中で叫ぶと、ようやくポケットからマッチを取り出した。震える手で、マッチ棒を取り出し、火をつけようとした。

 その時、誰かが私の前に飛びだした。

 カヤだった。金色の髪の毛が肩から流れ落ちている。昨夜と同じトルコブルーのシャツに白の綿パンツだ。|憔悴《しょうすい》した顔つきだった。しかし、黒曜石の輝きを秘めたその目は、ますます澄み渡り、非難の眼差しを私に向けていた。

 なぜ彼がここにいるのかわからなかった。さっきまで体内に|漲《みなぎ》っていた力が雪のように溶けていく。手からマッチが滑り落ちた。カヤがそれを拾った。

 まわりで|灌《かん》|木《ぼく》の揺れる音がして、木の間に、人々の姿が現れた。十数人いるだろうか。みんな男たちだ。見覚えのある顔が混じっている。クリーニング屋の店主がいた。銀行で隣合った老人もいた。サンクチュアリのガードマンまでいる。彼らは夢遊病者のように、ゆらりゆらりと私を囲む円を狭めてくる。その中心を失った歩き方は、まるで操り人形のようだ。自分の意思どころか顔の表情まで消え失せて、ただ黙って、私に迫ってくる。

 私は後ずさりした。橘の木が背中にあたった。レモネードの匂いを、もっと甘くしたような花の香りが、|怒《ど》|濤《とう》のように私を包む。頭がくらりとする。心地良さが波となって全身に伝わる。下腹部が、火を|灯《とも》したように熱くなる。とろとろとしたその火はやがて、激しい炎をあげはじめ、体内に広がっていく。体の芯が熱く、燃えている。炎は快感となり、私を包みこんだ。

 私は爆発しそうな感覚に身を|捩《よじ》り、橘の幹に|爪《つめ》をたてた。白い花が一斉に揺れた。木全体が、風もないのに震えている。それに合わせて、私の中の炎も揺れる。橘は強い芳香を放ちながら、見えない腕で私を抱きしめた。足元からつき動かされるような幸福感に気が遠くなっていく。体が|痺《しび》れてきた。下半身が形を崩し、溶岩となってどろどろと地面に流れていくようだ。

 私は深いため息をついた。どこからこれだけの空気がでてくるのだろうと思うほど、長い息だった。息が吐き出されていくに従って、私の下腹部がせりあがりはじめた。やがて腹から、薄緑色のゼリーのような半透明のものが出てきた。緑色のボールに似たものを突き出させた私の腹は、臨月間際の妊婦さながらだった。つるつると光る緑色の表面に、二つの青い目が見えた。

 虫の頭部だった。ヘルメットのように硬そうな頭を先にして、私の腹からアメーバが分離するように、ゆっくりと姿を表す。しかし純一の体から出てきた時とは、形が違っていた。青い目は生気を失って濁っている。粘液で、てらてらしていた皮膚も、今は乾ききり、|蝋《ろう》|細《ざい》|工《く》のように光っていた。

 私は、背中を橘の幹にもたせかけて、突き出てくる虫の頭部を凝視していた。頭頂から背中にかけて、くしゃくしゃと皺が寄っている。まるで、皺だらけの人間の大脳を、緑色のゼリーで固めたようだ。私の体はその場に凍りついていた。|膝《ひざ》が震えている。はあはあ、という自分の荒い息だけが聞こえてきた。

 半透明の虫は、私の呼吸に合わせて、少しずつ腹からもがき出てくる。痛みはないが、腸が引きずりだされているような、気味の悪い感覚が続く。頭部の次には、巨大な結節が現れた。ひとつの結節は、私の胴まわりほどある。その結節を小刻みに震わせて、全身を捩りながら腹から吐き出されてくる、緑色に光る虫。結節が一個、こぽりと出ると、次の結節が続く。虫に足はなく、腹部の|蠕《ぜん》|動《どう》運動によって、前へ前へとじりじりと押し出される。

 私は、巨大な虫をこの世に生み出していた。それはもはや、柔らかで細長い虫ではない。硬質の皮に包まれて、バナナのようにそり返り、短い|体躯《からだ》を震わせて|蠢《うごめ》く虫。

 気の遠くなりそうな意識の中で、それが何なのかわかってきた。

 |蛹《さなぎ》だった。

 常世虫は、私の体内で肥え太り、いつの間にか、幼虫から、蛹に変態していたのだ。

 おぞましさで、胃が|痙《けい》|攣《れん》した。その痙攣にあわせて、蛹もびくびくと揺れた。これほどに巨大な蛹が、どうやって今まで、私の中におさまっていられたのか不思議だった。

 永遠とも思える時が過ぎた。ようやく虫の|尻《しり》がするりと私の腹から落ちた。蛹は地面をころころと転がり、橘の木の下で止まった。

 私は、その場に崩れ落ちた。

 眼前には、二メートルはありそうな蛹が横たわっていた。目は、死んだように光を失っている。|楕《だ》|円《えん》|形《けい》の体は、エジプトのミイラを埋葬した|柩《ひつぎ》のように見えた。恐怖や嫌悪感を感じる気力もなかった。私の中の力という力が、蛹とともに、体外に出ていったようだった。私も、カヤもまわりの男たちも、ただ黙って、棺桶のような蛹を見守っている。巨大な蛹は、ぴくりとも動かないのに、不気味な存在感を漂わせていた。

 やがて、その中から、幽かな音が聞こえてきた。枯れ葉を踏むような、乾いた音。私の唇が震えた。以前、夜中に聞いた、純一の体の中から聞こえてきた音を思い出したのだ。音は、次第に大きくなり、蛹は次第に揺れはじめた。節と節の間が伸びてきて、全身が長くなった。そして、背中にぱっくりと黒い亀裂が走った。

 亀裂の中から、白いものがむくりと頭を|覗《のぞ》かせた。二つのすすきの穂のような触角が現れた。細かな繊毛のついた足が、蛹の殻を押し破った。大きく割れた殻の間から、白い産毛に覆われた巨大な昆虫の胸が出てきた。背中には、やはり白い毛がびっしりと生えた羽がついている。最後に、蛹の殻を|押《お》し|潰《つぶ》して、節のある胴体が|這《は》い出した。

 それは巨大な|蛾《が》だった。柔毛に覆われた頭部の二つの目は、再び光を取り戻し、深い青に輝いている。その威圧するような蛾の足元で、蛹の殻は、跡形もなく消えていった。

 白い蛾は、六本の足を使って、橘の幹を|這《は》いあがっていく。木を登るにつれて、縮んでいた羽が大きく広がってきた。白い扇のように、優美な形で震えている。橘の葉や花が、その白い胴体の中を通り抜ける。

 私の体内から出てきた蛹と同様、その蛾も半透明で、実体はないようだった。

 蛾は、やがて木の先端に達すると、ゆっくりと羽をはばたかせた。むせかえるほどの橘の花の香りが波となり、次から次へと私を包みこんだ。その波に洗われて、私の中の何かが外に押しやられていく。恐怖、小さな想念、心の|片《へん》|鱗《りん》……。そういったものが、淡雪のように溶けていき、空虚になった私の心の隅々が、花の香りで満たされる。

 その香りに誘われるように、私の目から涙が溢れた。理由もなく、ただ後から後から、涙が頬を伝う。

 白い蛾は、橘の花の|香《か》の中で、何度も羽をはばたかせた後、ふわりと舞いあがった。

 私を取り巻く男たちの間に、どよめきが起こった。蛾は、男たちの頭上をぐるぐると飛びはじめた。銀色の|鱗《りん》|粉《ぷん》が雪のように舞い落ちる。男たちはその粉を浴びながら、両手を天にかざした。

 やがて白い蛾は、カヤの頭上にきてとどまった。蛾の巨大な胴体が震えたかと思うと、尻から白いものが滴り落ちた。カヤは恭しく両手でそれを受け取った。

 半透明の白いもやもやとした卵だった。カヤは、白い蛾に頭をさげると、卵を口に含んだ。細い|喉仏《のどぼとけ》が、こぽりと膨れあがり、卵が呑みくだされるさまが見えた。カヤの顔に豊かな|微笑《ほ ほ え》みが浮かんだ。

「常世神」

 カヤが呟いた。顔は、ますます幸せそうに輝いている。

 常世神、常世神、と、まわりの男たちが口々に叫びながら、白い蛾に両手を差し出した。常世神は、男たちの頭上に飛んでいき、つぎつぎと白い卵を落としていった。そのたびに男たちは歓喜の声をあげて|跪《ひざまず》き、卵を呑みこんだ。

 最後に常世神は、ふわりと宙高く舞いあがった。その体は透明度を増し、青い光を放つ二つの目が星のように輝いていた。常世神は銀色の鱗粉を舞い散らせながら、サンクチュアリの木々の上をひとまわりすると、天井のガラスを通り抜けた。そして白い羽を羽ばたかせて、新しい朝を迎えようとしている東京の空に飛びたっていった。

 今日は、いつもの朝ではないのだ。

 私は、木の下に座りこんだまま、|茫《ぼう》|然《ぜん》と思った。特別な一日なのだ。何が起きたのか、よくわからなかったが、さっきの情景の美しさに、まだ心は高鳴っていた。

 すべては終わったのだ。常世虫は、常世神となった。私の体内の虫は出ていった。私は、このうえなく満ち足りた気分と|安《あん》|堵《ど》|感《かん》に包まれていた。悪夢のような日々は終わった。もう何も私を|脅《おびや》かすものはないのだ。

 静けさに満ちたサンクチュアリの中に、カヤの声が響いた。

「常世神は、この世に飛びたった。神の卵は、全世界に生み落とされる。この世は救われるだろう」

 カヤの金色の髪は燃えるように輝き、その目は常世神の去っていった空の一点を見つめていた。声は深く柔らかく、どこか遠くの世界から聞こえてくるような気がした。

「しかし、まだひとつ、仕事が残っている」

 カヤは周囲の男たちを見回した。

「虫を送るのだ」

 男たちの間から、低い賛同の声が起こった。

「虫を送れ」

「虫を送れ」

「|呪《のろ》い虫でてけ」

「|憑《つ》き虫でてけ」

 地の底から響くような声が湧きあがった。

 私は橘の幹に手をかけると、震えながら立った。顔が青ざめているのがわかる。どうして彼らは虫送りの言葉を知っているのだろう。まるで私の夢を盗み見たようではないか。

「呪い虫でてけ。憑き虫でてけ」

 男たちは、私を囲む輪を縮めてくる。

 カヤが私を指さした。

「おまえの中の悪い虫を送るのだ」

 男たちの骨ばった手が、私の体を押さえつけた。

 いったい、どういうことなのだ。常世虫は出ていった。もう私の中に、虫はいないのに。

 まだ|朦《もう》|朧《ろう》としている頭に疑問が浮かぶ。

 しかし私には、抗議の声をあげる気力もない。すべてが夢の中のように、遠い世界のことに思えた。

 カヤが美しい顔に微笑みをたたえて、私に近づいた。その手にマッチが握られている。私は恐怖に声をあげようとした。しかし喉がかすれて、老人のようなしゃがれた|呻《うめ》き声がもれただけだった。

 しゅっ。耳許でマッチを擦る音がした。その音が私の|呪《じゅ》|縛《ばく》を解いた。

「やめてーっ」

 私は絶叫した。まわりの男たちが、さらに力をこめて私を押さえつけた。カヤが火のついたマッチを私の服に近づけた。ぼっと小さな音をたてて、服が燃えはじめた。朱色の炎がめらめらと広がっていく。

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