頭の中で、からかうような声が響く。
「そりゃあ、俺だって気にいったものにしたいよ」
——休日の夫の昼寝のお供にも、テレビはぴったり。
「だから、お金のことは別にして、まず好きなものを選んで。安いのはデザインが嫌だ、高いのは値段が気にいらない。これじゃ、いつまでたっても決められないわ。デザインか値段か、どっちかにしなきゃ。私は、値段を後回しにしたほうがいいと思うの。これから先、何年も、子供が生まれてからだって、そのテレビとつきあっていくんだから」
——退屈した子供の遊び相手に、テレビをどうぞ。
自分と子供が、黙ってテレビに目を注ぎながら、夫の帰りを待っているイメージが浮かんで、ぞっとした。たかがテレビ一台買うことで、いい合っていることが馬鹿らしくなって、私は黙った。
純一は口を|尖《とが》らせて、売り場を見回した。やっと真剣に自分の欲求を検討しはじめたようだ。セール中のテレビと最新型のテレビを、しげしげと見比べている。
私は、近くにあった椅子に座った。
妊娠しているせいか、人込みにいると疲れる。バッグの中からウェットティッシュを取りだして、額を|拭《ふ》いた。
少し離れた展示スペースに、縦に四台、横に五台、計二十台の黒の最新型のテレビが並んでいる。店員に最初に説明された商品だ。全ての画面に、無音のまま番組が映っている。野球の試合、ホームドラマ、時代劇、バレエの舞台中継、お笑い番組、旅番組……。
旅番組では、レポーターが清水寺の本堂の欄干の前でマイクを持っていた。背後に京都の町並みが見える。それで実家のことを思いだした。今頃、父や母はどうしているだろう。自分たちの経営するブティックで、客相手にお喋りしているだろうか。それとも狭い京都の道を、車で問屋回りをしているだろうか。
東京の大学に通うようになって以来、家に帰るのは、年に一、二回がせいぜいだった。なのに近頃、妙に故郷が懐かしい。やはり里帰りして、出産しようか。二十八歳で初めての出産。不安感はあった。
私はバッグから手帳をだした。出産予定は十一月。十月くらいに帰省して、正月明けに東京に戻る。純一は何というだろうか。考えながら手帳をぱらぱらとめくった。今年始めのページには、予定があれこれと書きこまれていた。『資料作成締切』『コピー機、定期点検』『報告書作り』……。そして二月二十日の『送別会 PM6〜』を境にして、ぷっつりとスケジュールは真っ白に変わる。
三月の予定に書きこまれていることは個人的な用件ばかりだ。あさっては大学時代の友人の|加《か》|奈《な》と会う。今週の終わりには、産婦人科の定期検診……。もう、今年のこの手帳に、仕事の予定が入ることはないのだ。私は、しげしげと手帳の文字を見ていた。
ふと気がつくと、あたりを静寂が支配していた。あれほどに騒がしかった人の話し声も店内アナウンスも聞こえない。手帳から顔をあげたとたん、悲鳴が喉元まで出かかった。
展示スペースの二十台のテレビ画面全部に、同じ老婆の顔が映っていた。
おばあちゃん……。
私は、声にならない呟きを洩らした。音という音が消えた無音状態の中で、ほつれた白髪をなびかせた二十人の祖母が、私を見据えている。黒く四角いテレビの枠が祖母の顔をとりかこみ、葬式の写真が並んでいるようだ。祖母の口がゆっくりと開かれた。
——ムシガイル——
低い囁き声が、耳の奥に響いた。その音が静寂の中に消えたと思うと、次の瞬間、すべての音が戻ってきた。まるで誰かがパチッと指を鳴らして、開演の合図をしたようだった。テレビ画面には、もとの通り野球の試合や、お笑い番組が映しだされている。食べ物に群がる蠅の羽音を思わせる、客や店員の話し声が聞こえてきた。そして、純一のにこにこした顔が現れた。
「決めたよ、めぐみ。最初に見た、黒の最新型だ。ローンにして買うんだ」
はしゃいだようにいってから、私の様子に|眉《まゆ》をひそめた。
「どうしたんだ。気分、悪いのか」
私は黙って頷いた。さっき見たことを、どういっていいかわからなかった。
いや、本当に「見た」のだろうか。
どんなに展示スペースのテレビ画面に目を凝らしても、祖母の幻影のかけらすら残ってはいない。私はポケットからハンカチを出して、口にあてた。
気分が悪かった。吐きそうなほど、気分が悪かった。
二 章
久し振りに会った加奈は変わって見えた。長身を赤の皮ジャンと|色《いろ》|褪《あ》せたジーンズに包み、新宿の人込みを|掻《か》き分けてやってくる。キャリアウーマンです、と自己主張しながら揺れているような、がっちりした茶色のバッグ。ベリーショートの髪が、弱々しい春の光の中で、これから伸びていこうとする緑の草を思わせた。
「いかにも若手のカメラマンって感じね」
「つまり貧乏フリーカメラマンってことね。わかってるよ、いいたいことは」
加奈は、あっさりと|誉《ほ》め言葉をいなして、ブルーのジャンパースカートに包まれた私の下腹部に目をやった。
「めぐみはちっとも変わってないね。お腹も大きくなってないじゃない」
「まだ三か月目よ。でも、なんとなく突っ張った感じはあるの」
私は照れと誇らしさの入り混じった気分で、白いモヘアのカーディガンの前をかきあわせた。加奈は、私の下腹部から視線を|逸《そ》らせた。
私たちは、新宿三丁目のほうに向かって歩きだした。平日の昼間だというのに、新宿通りは人で|賑《にぎ》わっている。私は無意識に、手で下腹部をかばいながら歩いていた。脇をすり抜けていく会社員、大きな買い物袋をさげて亀のように歩いてくる女性の一団、くすくす笑いながら肩をぶつけあい、お|喋《しゃべ》りに夢中になっている女子学生たち。加奈と私が並んで歩くのも難しい。
いったい、これだけの人間が、昼間から何を求めてこの路上に|溢《あふ》れだしてきているのだろう。私は、加奈の背中に声をかけた。
「昔は、新宿もこんなに人が多くはなかったわよね」
「新宿も変わったよ」
加奈は大声で応えた。
「東口はまだいいけど、西新宿の変わりようなんて、すごいものね。どんどん新しい高層ビルが建ってるわ。今度、またスペーシアってのができたんだって。おもしろいビルとかいうんで、けっこう話題になってるの」
私は西新宿の方向を振り返った。白く|霞《かす》んだスモッグの中から、都庁を中心に高層ビル群が頭を突き出している。広告や電線にまといつかれた雑多な町並みの頭上で、そこだけは異次元空間のように見える。白く濁った空に向かって伸びるバベルの塔。塔は、神のいる天国に向かっているのだろうか、それとも破滅の門に向かっているのだろうか。
加奈が、伊勢丹百貨店の入口を指さした。私たちは、ガラスのドアの向こうのきらめく世界に入っていった。何万円もの値段のついている靴やバッグやブランド物の衣服の中を通り、新館八階の美術館に行く。『英国幻想イラストレーション展』という金色の大きな看板が立っていた。加奈はバッグの中から招待券を二枚だして受付に渡した。彼女と新宿で会う約束をした時、仕事先でもらった美術展の券が余っているので行ってみようという話になり、それほど絵に興味のない私もひきずられて来たのだった。
私たちは会場に入っていった。|仄《ほの》|暗《ぐら》い照明の中に、大小の絵がかかっている。客は、それほど多くはなかった。美術愛好家らしい中年女性のグループが、会場の一角で素人解説を披露している声が耳に触るくらいだ。私は一枚の絵を指さしていった。
「あら、不思議の国のアリスだわ」
それは、アリスと、頭は豚で体が海亀の怪物が、海辺で話している銅版画だった。
「私、この挿絵のついた本、持っていたのよ」
母に買ってもらった本だった。私には本、妹にはぬいぐるみや人形。母からのプレゼントは決まっていた。それが最も喜ぶ品物だと信じていたのだ。だが現実は、私は、母が思うほど満足してはいなかった。母が買い与えてくれる本は、どれも書店の店員に勧められたものばかりで、何の基準もなかった。たまに気にいる本はあったが、三分の二はつまらなかった。この『不思議の国のアリス』もそうだった。子供の私には、その中に潜むナンセンスや風刺など、皆目わからなかったのだ。むしろ、いかめしい顔つきのトランプの女王や、目をぎょろぎょろさせた帽子屋のウサギ、木の間から、にやにや笑っているチェシャ猫の不気味な絵に|脅《おび》えた。夜、ページの中から、それらの怪物たちが|這《は》いだしてきそうで、本棚の奥に本を突っこんでいたくらいだった。
私がそんな思い出話をすると、加奈は、おかしそうに笑いながら絵に顔を近づけた。
「画家はジョン・テニエルだって。知ってた?」
私は頭を横に振った。ジョン・テニエルという人物は、自分で作った登場人物たちの悪夢に悩まされはしなかったのだろうか。
ニール・ペイトンの『水の子』、アーサー・ラッカムの『ピーターパン』、アンブリー・ビアズリーの『サロメ』……。画家の名前は知らなくても、見たことのある絵は多かった。加奈が、嬉しそうな声を|洩《も》らして、一枚の水彩画の前で足を止めた。
「ウィリアム・ブレイクよ。私、好きなんだ」
彼女は、うっとりしたように絵を見ている。
奇妙な図柄だった。土の中から、大勢の裸体の男女が浮かびあがっている。青白い燐光を放ちながら、天使に見守られて天に昇っていくところだ。しかし死者たちは、昇天をありがたがっている風でもなかった。|蒼《あお》ざめた顔で、天に引き寄せられていく。喜びの表情を浮かべる回りの天使たちと比べると、その違いは皮肉なほどだ。
『死者の復活』
絵の題名が目に飛びこんできた。
脳裏に、テレビ画面に映った死んだ祖母の顔が浮かんだ。ほつれた白髪をなびかせて、こっちを|睨《にら》み据えていた。今にも、この絵の死者の顔のひとつが、祖母に変わりそうな気がした。絵から離れようとした私に、加奈が得々としていった。
「ね、いいでしょ」
「この絵、あまり好きじゃないの」
むっとしたような加奈の表情に、私は、素っ気なくいいすぎたことに気がついた。
「ごめんなさい。これを見ていて、なんだか気分が悪くなったの」
とたんに加奈の顔が曇った。私の背中に手をのばして聞いた。
「大丈夫? ちょっと休む?」
私は、いいの、いいの、と答えて、次の絵に移った。加奈は、すっかり|悪阻《つわり》のせいだと思ったようだった。私も、テレビに映った祖母の顔について、話す気にはなれなかった。
あれから何度も、祖母の幻想について考えた。なぜテレビだけに映ったのか。
虫が起きた。虫がいる。
耳の奥に響いた、この言葉は何だろうか。しかし、幻覚と幻聴の土台の上に、論理の城を築こうとしても無駄なことだ。私はすぐに、この砂遊びをやめてしまった。しかし、それですべて忘れられるわけはなかった。幻覚だとわかっているのに、死者からの声は、心のどこかで私を脅えさせていた。
会場を歩きながら、ちらりと絵を振り返った。死者たちは相変わらず、沈鬱な表情で天を見上げていた。
「で、優雅な奥様業はいかが?」
加奈の茶化すような質問に、私は肩をすくめてみせた。
「まあね。お金はないけど、時間だけはふんだんにあるわ。今まで読みたかった本やビデオを片っ端から見ているところ」
美術展を見終わってから、私たちはデパートの中にあるティールームに入っていた。
軽やかなクラシック音楽が流れている。店の中は、圧倒的に女性が多かった。隅のほうで、背広姿のサラリーマン二人が仕事の話をしていたが、女性客たちの華やかな色に埋没していた。
加奈はバッグから煙草をだして、一本引き抜いた。口に含んで、ライターを探そうとして、はっとして|呟《つぶや》いた。
「いけない、妊娠してたんだ」
私は|頷《うなず》いた。彼女は煙草をしまうと、手持ち無沙汰にストロベリーソーダのストローを回した。
私は悪いような気分になっていった。
「吸いたければ、どうぞ」
「ううん。いい、いい」
加奈は唇を丸めてソーダを|啜《すす》った。
ふと、学生時代によく行った喫茶店を思いだした。授業を抜け出して、友達と店の奥にある黒い丸テーブルを囲んでいた。私たちの大学は、そこそこに名のある私立の女子大だった。平和な家庭に生まれ、周囲からは「いいお嬢ちゃまね」と誉められて育ち、中の上くらいの成績で、表だった波風もたてずに生きてきた娘たち。そんな学生たちにできるささやかな不良行為が、授業をさぼっての喫茶店の長話だったのだ。集まる顔ぶれはいつも違っていたが、私がいるなら、必ずといっていいくらい加奈もいた。飲み物一杯で、何時間も喋っていたものだ。あの頃、何をそんなに話していたのだろう。
加奈のことで、最も記憶に残っているのは、ナイフの話だった。横浜の輸入雑貨の店で見つけたといって、ある日、銀色の美しい曲線のナイフをみんなの前にだした。そして、意味あり気な顔で、これで手首を切って死ぬのだと|囁《ささや》いた。その場にいた友人たちが、真剣に理由を尋ねたり、止めたりするのを硬い表情で聞いていた加奈は、突然、大きな声で笑いだした。「やだな、私が自殺なんかするタイプと思ってるの」。誰もが冗談だったと知って、彼女を吊るしあげたものだった。
しかし私だけは、後で加奈に打ち明けられた。本当に死のうかなと思ったのだと。彼女が、二歳年上の大学院生の恋人と別れたのは、それからすぐ後のことだった。
次の年、加奈は学校を辞め、写真の専門学校に通いはじめた。そして私たちの人生は分かれていった。
「加奈こそ、最近はどんな調子?」
私は、あの頃よりも痩せてきれいになった加奈を見つめた。
「そうねぇ。まあまあってとこ。コマーシャルの撮影も入るようになって、少しは認められてきたし、自分のスタジオも持ったし」
「まあ、スタジオを」
「高田馬場にあるの。一度、新宿にでてきたついでにでも寄ってよ。おんぼろビルだけど、お茶ぐらいは出せるわ」
彼女の顔は誇らし気に輝いていた。心臓にちくりとした痛みを覚えた。加奈は着実に、自分のキャリアを積みあげている。
大学で過ごしたあの時期、同じスタートラインにいた。しかし、今、私たちの生活も状況も、どんどん離れつつある。
「他に変わったことは?」
別にないけど、といいながら、加奈の顔が少しほころんだのを、私は見逃さなかった。
「いいこと、あったんじゃない」
加奈は照れたように笑った。
「いいなさいよ」
私は加奈の腕を揺すった。加奈はストローをいじりながら、恋人ができたのだと告げた。相手は同じカメラマン。会ったのは、去年のクリスマスの夜。
「かといって、ロマンチックな出会いではないの、ちっとも」
加奈は、むきになっていった。
その夕方、銀座でクリスマス風景を撮るという仕事のあった加奈が、あらかじめ目をつけていた撮影場所に行ってみると、そこには、すでにもっさりした男がカメラの三脚を立てて陣どっていた。怒りを押さえて、隣で仕事をはじめたが、男はぼそぼそと彼女に話しかけてくる。そっけない応対をするのに、彼はひるむ様子もない。「銀座の交番の警官って英語、喋れるの、知ってる?」「いい年した大人がクリスマスではしゃいで、みっともないな。サンタさんってのは子供の遊びだぜ」という調子で、くだらないことを話し続ける。だが、自分でも驚いたことに、夜も更けて撮影が終わった時には、男の誘いを受けて一緒に飲みに行く気になっていた。
その妙な男が、恋人になってしまったのだと、加奈はわざとらしく困った風な顔をして見せた。
「いいじゃない。同じカメラマンなら、話があうでしょう」
「とんでもない。|喧《けん》|嘩《か》のほうが多いんだ。下手に仕事が同じだけに、相手のやり方が気にくわないわけ。私は、仕事なら何でも引き受けるけど、彼は社会的なテーマを追っていて、それを週刊誌や新聞に売っていきたいと思っている。だから彼にいわせると、私のやり方は節操がないっての。私にとっては、彼のやってることは、採算のあわないアマチュア仕事みたいなものに思えちゃうのよ」
「刺激的な関係じゃない」
加奈は吹き出して、そんなかっこいいものじゃない、と|応《こた》えた。
「だけど、お互いの存在が刺激にはなってるのかな。今度、作品を|貯《た》めて二人展をやろうって話してるんだ」
加奈の目が輝いていた。
私はぬるくなったミルクティーを啜った。
「いいわね」
ふと言葉が口をついてでた。
「やだ、優雅な奥様が何をいうの」
私は皮肉な笑みを浮かべた。
優雅な生活とは何だろう。何もしないで、じっとしていることだろうか。掃除も洗濯も、さほど時間はかからない。帰宅の遅い純一は、たいてい食べてくるから、毎日の献立で頭を悩ませることもない。時々、自分が大学時代に戻り、一人暮らしをしているような気分になる。一日、アパートで本を読んで暮らしていたあの頃。親の仕送りが、純一の稼ぎとすりかわっただけだ。
「仕事をしていた頃が、遠い世界のことみたいだわ」
加奈があきれた声をあげた。
「なにいってんの。まだ辞めたばかりじゃなかった?」
「一か月前よ」
「つい、この前じゃないの。大げさねぇ」
「でもね……。なんだか今までの社会と、ずいぶん離れてしまったなと思うの」
糸を切られて、はじめて自分が地面と|繋《つな》がっていたのがわかった気分。今の私は、ふわふわと空に浮かぶ風船だ。ぼんやり夢見心地のうちに、下界が遠ざかっていく。先程見た『死者の復活』の絵を思いだした。喜びも悲しみもない。|虚《うつ》ろな表情で天に昇っていく死者たちは、今の私のような気持ちなのだろうか。
加奈は、じれたように目を|剥《む》いた。
「めぐみ、あんたらしくないよ。しょぼくれちゃって。子供が幼稚園にでも通いはじめたら、また勤めればいいじゃない。人生、長いんだもの」
よくわかっていた。しかし、幼稚園にいくようになるまでの三年か四年間、私は家庭という風船に乗り、宙に浮いているのだ。いざ仕事に戻ろうとした時、ぱちんと風船を割って下界に|墜《お》ちていく勇気をなくしているのではないだろうか。私は、それが怖かった。
ピーピーピー。甲高い音がした。回りの客がこっちを見た。加奈が慌ててベルトに手をのばした。ポケットベルだった。彼女は「ちょっとごめん」と謝って、ティールームの入口にある公衆電話に行って、電話をかけはじめた。分厚いシステム手帳をだして、メモをしている。きびきびした雰囲気が漂っていた。そこには私が背中を向けた世界があった。仕事という糸を通して、社会と繋がっていた世界。仕事にうんざりしていたとはいえ、あの頃の私の生活には張りがあった。
ふと胎動を感じた。
とん、とん、と小さな鼓動が体の内壁を|叩《たた》く。まるでお腹の赤ちゃんが、他の世界を見てはいけないと警告したようだった。
私は下腹部に手をあてた。
自分で選んだことだ。仕事を辞めたのも。しばらく育児に専念しようと決めたのも。
今更、後悔はするまい。私は、自分にいい聞かせた。
加奈が受話器を置くのが見えた。
向かいのマンションの外壁タイルに、夕日が反射していた。四角い建物にとり|憑《つ》いた、赤い火の玉のようだ。ベランダの洗濯物をとりこみながら、どうして、こんな家に住むことにしてしまったのだろう、と思った。
窓から見える景色といえば、白いタイルのマンションの外壁。台所や居間には窓はなく、昼間でも電気をつけないといけない。仕事に出ている間は、家にいるのは朝と夜だけだったからよかった。しかし一日中、家で過ごすようになると、暗いLDKは私の気分を憂鬱にさせた。
ここは穴蔵みたいだ。もっと広く、快適なマンションに移りたい。しかし、どうやって? 私が仕事を辞めて、収入は減ってしまった。これ以上、いいマンションに移れるはずはない。
——優雅な奥様業はいかが?
加奈の声が|蘇《よみがえ》った。
「ええ、とっても素敵でございますわよ」
私は独り言をいって、シャッとカーテンを引いた。それが合図ででもあったかのように、居間で電話が鳴りだした。私は洗濯物を放りだして、受話器をとった。
「ああ、めぐみぃ?」
関西|訛《なま》りで名前を呼ばれた。
私は、お母さんかぁ、と呟いた。
「なんや、そのいい方。ちっとも連絡ないから心配してたんや。どうやの、赤ちゃんは。順調?」
「うん。この前、定期検診にいったら、大丈夫だって、太鼓判、押されたわ。その時、超音波検査も受けたの。お腹の中の赤ちゃんの体が見えて、すごかった」
「超音波検査か。私らの時代とは、えろう違うてんやな。で、悪阻は?」
「ほとんどない。油の匂いがきついと、時々うっとくるくらい」
「うちもせやったわ。仕事があったもんやから、ほんま助かったわ。まあ、もし悪阻がえろうても、そんなことで仕事、よう休めへんかったやろけどな」
胸を針で刺された気がした。長く仕事を続けてきた母は、私が妊娠のために仕事を辞めると聞いて反対したのだ。
「みんな、元気?」と、私は話題を変えた。
「ああ、お父さんは、最近、町内会の世話役の集まりに忙しゅうて、ちいとも店のほうにいてはらへん。|朔《とも》|美《み》はゴルフをはじめてな。パターやらなんやらクラブを買うゆうて、お金せびられてばっかり。かないまへんわ」
「ゴルフやって? 生意気やな」
母につられて、無意識に故郷の言葉遣いがでてきた。
「独身貴族どすがな。ゴルフに行くボーイフレンドもぎょうさんおって、私には、誰が誰かわからへんくらいや。そいでも店の手伝いは、ようやってくれるからええけど。この前は、自分で仕入れるゆうて、けったいな服ばっかり入れてしもうてな。お父さん、目ぇ飛びでるくらいたまげてはったわ。ところが、その服の評判ようて、私らもびっくりしたわ。あの子、けっこうこの仕事に向いてるんやな。うちの店、どんどん大きゅうしたるて、豪語してるわ」
また朔美の話だ。母は、昔から妹のほうがお気にいりだった。私は、まだ話したそうにしている母に、ぶっきらぼうにいった。
「私、夕食の支度、せなならんから」
「ああ、私かて忙しいんや。これから会計士と会わんならん。年度の変わり目やからな、税金対策でおおわらわや。ほな、体、大事にしてな」
母は早口で締めくくると、私の|挨《あい》|拶《さつ》も聞かないで電話を切った。私の生活に乱入してきた、慌ただしい空気が不意に消えた。そして部屋の静かな空気が、またひたひたと押し寄せてきた。
夕食の支度など、それほど急ぐことでもなかった。母に素っ気ない対応をしたことに少し後悔しながら、洗濯物をたたみはじめた。
いつもそうなのだ。母と話していると、少しずつ|苛《いら》|立《だ》ってくる。多分、母が妹に満足していて、私に不満を抱いているせいもあるためだろう。私は、いつも母の期待を裏切ってきた。小さい時から「いい子」で「賢い」、そして「可愛らしい」子供として通ってきた長女なのに、店も継がず、大学を卒業しても東京に残り、企業の資料室勤務という、上昇志向の母にとっては何の面白味もない地味な仕事に就いた。そして妊娠すると、退職してしまった。私の生き方に対する母の苛立ちが、私に伝わり、二人の間にわだかまっている。
洗濯物を|箪《たん》|笥《す》にしまい、夕刊を取りにいくと、ソファに座った。外を走る車の音が、小さく聞こえてくる。
私は、ゆっくりと新聞をめくりはじめた。
チベットの独立運動は、インドと中国の対立に発展していた。フランスの放射能漏れに抗議して、国民の大規模デモが起こっている。オーストラリアでは、海岸に四百頭もの鯨が打ちあげられて、腐臭の中で死につつあると報じられていた。
ひと通り夕刊を見ると、時計を見た。まだ八時。今頃、純一は何をしているのだろう。あの造園課の窓際の製図版に向かって、図面を引いているのだろうか。それとも、夕食は中華料理屋に行くか、焼き鳥屋にするか、弁当を注文するかと、仲間と一緒に騒いでいるだろうか。造園課や設計課の部員ときたら、食事のことしか頭にないのだ。……ひょっとしたら、この東京のどこかで打合せと称して、飲んでいるのかもしれない。仕事相手か、同僚か友達か……若い女性かもしれない。
ふと浮かんだ、いやな想像を、慌てて頭から追い払った。
私たちは職場結婚だった。大学で図書館司書の資格を取った私は、『内田建設』の資料室に採用になった。地下にある、青白い蛍光灯の光に浮かび上がる空間。灰色の本棚が、永遠に呼ばれることのない朝礼の点呼を待ちながら、静かに整列している資料室。その部屋が、私の人生を決定した。ここで私は、同期入社の純一と親しくなったのだから。
私たちは、本の後でデートの約束をとり交わし、本棚の間でこっそりとキスをした。二人の関係は、社内では秘密だった。私は、「秘密」という、甘い言葉の響きに酔っていた。彼も私も独身だったのだから、べつに秘密がばれても困ることはなかった。自分たちが傷つかないですむ程度の「秘密」だからこそよかったのだ。
純一は、秘密をわかちあう相手としては申し分なかった。飛び抜けてハンサムというわけではないが、すらりとした長身は、都会的でかっこよかったし、理知的で話題も豊富だった。
何よりも他の男たちのように、デートを重ね、一緒にホテルに行っても、「この領土、占有しました」といわんばかりの態度をみせなかった。つきあいはじめると、待っていたかのように、私の生活や習慣にまで口を出してくる男たちには、うんざりしていた。
「その服さ、少し胸が開きすぎてない?」「電話してもいなかったぞ。今まで何していたんだよ」。愛情と引換えに、そんな|台詞《せりふ》を当然の権利のように、私に押しつけてくる男が多すぎる中で、純一だけはあくまでも、私の自由を尊重する態度を示した。
「いい男女関係は、お互い、個人として独立していることが基本条件だよな」などと、けろりとしていっていたものだ。
しかし、結婚してわかった。やはり彼もまた、心の底では思っていたのだ。
「こいつは俺の女だぞ」と。
私の反発を察して、そういう自分の内面を見せなかっただけだ。しかし一皮|剥《む》けば、純一も他の男と同じだった。
もちろん今でも、露骨には、私に自分のそんな気持ちを押しつけるようなことはいわない。だからこそ私は、彼との結婚生活を、続けてこれた。
でも、一緒に暮らしていると、|些《さ》|細《さい》なところで、隠していた気持ちがこぼれ出る。会社のコンパで、他の男性と冗談口を叩いている時に感じる、純一の不機嫌な視線。私が、女友達と、旅行や夕食の約束をしたことをいいだした時に、彼の顔を|過《よぎ》る苛立ち。そんな表情の変化に、私は彼から放たれる、見えない糸を感じる。自分の世界の中に、私を手繰り寄せようとする糸を。
会社に勤めている頃は、その糸の存在を感じるたびに、腹立たしくなったものだ。私は、自衛手段として、母親の役割を演じることにした。甘えん坊で、独占欲の強い子供の態度を、やんわりといなす母親役。その試みは、けっこううまくいった。純一は、私が諭すような態度を見せると、いたずらが見つかった子供のように照れ笑いをして、自分の主張を引っこめた。
私が会社を辞めると、彼は見えない糸を手繰ることはしなくなった。その必要がなくなったのだ。家という、彼の世界に、私がいるようになったから。
だが、純一の心の平安と引換えに、私は自分の内に不安を抱えることになった。
家の外にいる時の夫の姿が見えない。同じ会社で働いていた頃は、廊下や資料室で、絶えず彼の姿が視界にはいった。出勤する時も、退社する時も、一緒のことが多かった。当時は、いつも純一が、どこで何をしているかわかっていた。昼食には誰と出かけたか、打ち合わせで外に出ているかどうか、夕食には何を食べることにしたか。
……しかし今は、彼が会社で何をしているのかわからない。彼が、遠いところにいってしまった気がする。
私は頭を振ると、そばにあった女性雑誌を取りあげた。本を開くと、大きな見出しが目に飛びこんできた。
『妊娠中、夫の浮気に御用心!』
いやだ。私は乱暴に雑誌を閉じて、ソファの上に放りだした。
そしてテレビをつけようと、前まで歩いていって気がついた。まだ新しいテレビは届いてないのだ。壊れたままの暗いブラウン管に、私の姿があった。背後には、台所と、寝室に続くドアが奇妙に曲がった形で映っている。まるで、自分自身が|歪《ゆが》んだ家に閉じこめられている気分を覚えて、私は暗いブラウン管から目を逸らせた。
テレビの上の石の器が目にはいった。
取りあげると、しっとりとした石の冷たさが伝わってくる。表面の模様を、じっくりと調べた。何かの木を表しているようだ。かなり古いものだといっていたが、いつの時代のものなのだろう。私は、リビングボードの横に置いてあるステレオをつけた。FM局から、ジプシー・キングスの軽快なスペイン語の歌が流れてきた。私は石の器をステレオの上に置いて、またソファに戻った。
食器棚の上の時計が八時十六分を指している。私は、放りだした雑誌に手を伸ばすと、のろのろとページをめくりだした。
三 章
蛙の鳴き声が響いていた。満天の星空、白い薄絹のたなびくような天の河の下で、水田の稲の苗が、夜の涼風に揺れている。
ちぃいいいん、ちぃいいいん。
風に乗って、|鉦《かね》の音が流れてくる。燃えさかる|松明《たいまつ》を掲げた人々の行列が、水田の|畦《あぜ》|道《みち》を進んでくる。緑の苗の上で振り回す松明の赤い火が、水面に反射する。揺れる松明の炎の周囲を、小さな羽虫の群が飛び回っていた。
行列に連なるのは、男ばかり。みんな青白い顔をして無表情だ。ただ口だけがぱくぱくと開き、くぐもった声で唱和している。
——どろ虫でてけ、さし虫でてけ——
行列の先頭の男が、|藁人形《わらにんぎょう》を抱えている。人形の胸には、やはり藁で作った箱がくくりつけられていた。それに続く男が小さな鉦を鳴らしていた。ちぃいいん、ちぃいいん。霊前に置く、供養の鉦だった。
私は|爪《つま》|先《さき》立って、行列を見送っていた。誰かが私の手を握っている。顔をあげると、おばあちゃんだった。私たちは、遠くからその行列を眺めていた。
虫送りの季節やなぁ。
おばあちゃんは|呟《つぶや》いた。
虫送り?
へえ。悪い虫を遠いところに、追いだすんどす。
どこに追いだすの?
おばあちゃんは黙って遠くの|闇《やみ》を見た。白髪が夜風に吹かれて、|蜘蛛《くも》の糸のように流れていた。松明の赤い炎が、ゆらゆら揺れながら遠ざかっていく。おばあちゃんは、行列の後についていきはじめた。
——どろ虫でてけ、さし虫でてけ——
ちぃいいん、ちぃいいん、という鉦の音と、念仏のような呟きが絡みあいながら消えていく。夜に尾を引く松明の光は、蛇のようにくねりながら、|遥《はる》か先まで続いている。
みんな、どこまでいくの?
私は、おばあちゃんの背中に聞いた。
|幽《かす》かな声が返ってきた。
……この世と、あの世の境までどす。
満開の桜の木の下で、子供たちが砂遊びをしていた。はらはらと散る薄桃色の花びらを髪や腕にくっつけて、歓声をあげている。
私は、日だまりのベンチに座って、伸びをした。ビルと住宅に挟まれた長方形の小さな公園では、若い母親たちが集まって、楽しそうに井戸端会議をしている。
持ってきた新聞を広げると、大きな見出しが目に飛びこんできた。
『チベット自治区からの難民、ネパール、インド国境から続々と国外退避。インド政府は、自治区内で、無差別攻撃が行われていると発表』
私は新聞をひっくり返すと、三面記事から読みはじめた。名古屋で老人の他殺死体発見。暴力団の抗争で五人死傷。中学生グループ、深夜のカップルに暴行、重軽傷を負わす。
「まあ、マルゲンがまた改装するの?」
「知らなかった? 今、大売出し中よ」
「私なんか、ベビー服、もうたっぷり買いこんだわよ」
隣のベンチの母親たちの|賑《にぎ》やかな声に、顔をあげた。うららかな春の光に溢れる公園にいることが不思議な気がした。ここには、新聞に出ているような、暗い事件の影すらない。
私は、二月まで勤めていた内田建設の資料室を思い浮かべた。
厚いコンクリートに閉ざされた地下の空間。あそここそ、この新聞記事にふさわしい場所だった。資料室の一角の、コピー機や貸出票のあるコーナーが、私と|北《きた》|村《むら》|美《み》|津《つ》|子《こ》のデスクだった。北村は、私より四年先輩。不倫の|噂《うわさ》のある女性だった。しかし、いわゆる愛人にありがちな日陰の花のような雰囲気はない。資料室の鉄の女と呼ばれるほどに、その歯に|衣《きぬ》を着せない言動や仕事ぶりで、一目置かれる存在だった。資料室には、資料探しだけでなく、息抜きも兼ねてやってくる社員も多く、私や北村相手によくお|喋《しゃべ》りをはじめたものだ。何気ない世間話から社会問題まで、話題は豊富だった。しかし、人の顔色すら幽霊のように見せてしまう蛍光灯の影響か、北村の皮肉に満ちた意見のせいか、どの話も最後には暗い方向に流れていった。
——|賭《か》けてもいいさ、今に世界は環境問題で破滅するよ——僕が思うに、第三諸国が力をのばしてくるだろ。で、第三次世界大戦に発展するというわけだ——あまり想像したくないことだけどね、人類は今にエイズで滅びるな——
夕方、会社から外にでて、いつもの通り、夕日が輝いていると、不思議に思ったものだ。まだ世界は破滅していないのだと。
目の前を小さな男の子が走り過ぎた。
「ママーッ、虫だよ、虫」
手に持った緑の葉を、隣のベンチの母親につきつけた。母親は、|微笑《ほ ほ え》みながら息子を振り返った。しかし、その葉の上に|蠢《うごめ》くものを見たとたん、悲鳴をあげた。