「毛虫じゃないの。早く捨てなさい」
男の子は、母親の反応が理解できないという表情になった。
「怖くないよ。かわいいんだよ、ママ」
子供は、指の先で毛虫を触ろうとした。
「やめなさいっ」
母親は、その葉を地面に払い落とすと、我が子の手をつかんでいい聞かせた。
「毛虫は刺すの。悪い虫なの。触ったら、指の先、イタイ、イタイになるのよ。そうなってもいいの?」
男の子は口をヘの字に曲げて、頭を横に振った。
「ほーら、いやでしょ。虫なんか触っちゃいけません」
男の子は、足元で蠢いている毛虫を見おろした。焦げ茶色の毛がびっしりと生えた、人指し指くらいの虫が、もぞもぞ動いていた。男の子は、ゆっくりと足をその上に持っていって、靴の先で虫を踏んだ。毛虫は、ぐしゃりと|潰《つぶ》れて、小さな靴の横から、黄色く濁った汁が地面に|滲《にじ》みだしていった。私は虫から目を背けた。
——どろ虫でてけ、さし虫でてけ——
地の底から歌声が聞こえた気がした。
そして昨夜の夢を思いだした。
あれは子供の頃、祖母に連れられて、虫送りを見にいった時の夢だった。
祖母は、京都の|太秦《うずまさ》に住んでいた。洋装品店をはじめたばかりだった両親は、忙しくなると、私を車に乗せて祖母の家に預けにいった。妹はまだ生まれてなかったから、私がいないと、たっぷり仕事に打ちこめたのだ。一度預けられたら、私は、二、三日は滞在することになった。
祖母の古めかしい家は、太秦の田園風景のなかに、城のように|聳《そび》え立っていた。祖父が亡くなった後、伯父一家が移ってきたのだが、それでも使ってない部屋がたくさん残っていた。端の擦り切れた覆いのかかった鏡台がぽつんと置かれている和室、薄暗い納戸、何に使ったのかわからない、二畳だけの部屋……。祖母の家に滞在することは、いやではなかった。大きな家を探検していると、一人遊びも苦にならなかった。
家の造りは、大人になっても、頭に焼きついている。竹の生け垣に囲まれた家の門をくぐると、てっせんの茂みがあった。その横を通って玄関を入ると、小さな三畳間。そして長い廊下が続いている。廊下の横には階段。二階には、伯父夫婦の寝室と書斎があった。一階には客間、茶の間、台所。茶の間の向こうにさらに廊下があって、|従兄弟《いとこ》の孝太郎さんの部屋、祖母の居室と続いていた。祖母の部屋は縁側に面していて、よくそこに腰かけては、昔話をしてもらったものだ。
今でもよく覚えているのは、応声虫の話だ。京都市内の長三郎という男の子が、ある時、原因不明の病気になった。そして熱が下がると、腹に人の口そっくりの形をしたできものができていたという。その口は、長三郎のいったことを、そっくりそのまま|口《くち》|真《ま》|似《ね》するうえに、とんでもない|大《おお》|喰《ぐ》らい。困り果てた両親が、高名な医者に頼んで薬を調合してもらった。
——ほな、お|尻《しり》からでてきたんどす。頭に角の生えた虫が、にょーろにょろにょーろにょろ……。
私は悲鳴をあげたものだった。祖母は、私を怖がらせて笑っていた。
あれは七夕も過ぎた頃だった。その日、私は浮き浮きしていた。両親が、祖母の家に預けられた私を迎えにきてから、花火に連れていってくれる約束だったのだ。
ところが、夕方になって電話がかかり、急用ができたので花火は中止、もう一泊、祖母の家に世話になるようにといわれた。一度もらった誕生日の贈り物を、中を見ないままに返せといわれたようなものだった。怒って、泣き叫んでいる私に、祖母がいった。
「めぐみ、ほな、虫送りにいこ。今晩、近くであるみたいやし」
|怪《け》|訝《げん》な顔をする私に、祖母が教えてくれた。
「虫送りゆうんはな、悪い虫を、遠いところに送りだすもんどす」
そして私たちは手をつないで、虫送りを見にいったのだ。
あの夢の通りだった。松明を持った農家の男たちが、行列をなして歩いていた。
——どろ虫でてけ、さし虫でてけ——
|田圃《たんぼ》にでてくる虫の名を呼ばわりながら、藁人形を掲げて、村境まで虫を送っていく。藁人形につけた藁の箱には、害虫がはいっていた。そうして夏の間、虫害から農作物を守ってくれ、と祈るのだ。もう二十年以上も前のことなのに、よく覚えていたものだ。
しばらく私は、明るい日射しを浴びながら、昨夜の夢を|反《はん》|芻《すう》していた。食べた草を再び|噛《か》む牛のように、ゆっくりともう一度、味わいながら。
初夏の夜気。満天の星。揺れる松明の火。緑の稲の苗の香り。何の憂いもなく、ただじっと、移りゆく眼前の風景を見つめているだけでよかった子供の頃……。
ふと、夢の中の最後の会話を思いだした。
——みんな、どこまでいくの?——
——この世と、あの世の境までどす——
虫送りの時、祖母は、あんなことはいわなかった。
この世と、あの世の境……。
突然、風が吹いてきて、地面の桜の花びらが舞いあがった。私はびくっとして、ベンチから腰を浮かせた。生暖かい春の風は、死者の息吹。そんな思いが、頭を|過《よぎ》った。立ちすくんでいる間に、風は吹いてきた時と同じように、一瞬にしておさまり、息吹の名残が地面の近くで桃色の花びらを円舞させていた。両腕をかきあわせると、鳥肌が立っているのがわかった。
私は新聞を小脇に抱えると、足早に公園をでていった。
公園の近くには、小さな商店街が続いている。気分を変えて、買い物をすることにした。八百屋、魚屋、豆腐屋、酒屋……。古ぼけた商店が軒を並べている。仕事をしていた時は、スーパーでまとめ買いをしていた。この商店街を利用するようになったのは最近だった。八百屋の店先で、赤ら顔の店主がだみ声を張りあげていた。
「小松菜一束百五十円、安いよ。新たまねぎ一袋二百円。あっ、奥さん、こんちはっ。どう、この前の玉葱、おいしかったろ」
声をかけられ、私は教師に呼びとめられた生徒のように、びくっとした。
「えっ、ええ。ほんと甘くてね」
この前の玉葱とは、どの玉葱だっただろう。たいして味は変わらなかったと思いながら、口は反射的に模範生徒の返事になっていた。店主は早くも空の白いビニール袋に手を伸ばしながら聞いた。
「なっ、いった通りだ。で、今日は何にしますか」
別にこの店で買う気持ちがあったわけではない。しかし、もう逃れられなかった。私は、店先に積みあげられた緑の野菜を見回した。
「|韮《にら》と、ほうれん草とピーマンください」
「はいはい、韮とほうれん草。このほうれん草は、柔らかくておいしいよ。生のままで食べられるくらいだ。おっとと、ピーマンを忘れていた。そうそう|長《なが》|葱《ねぎ》はどうだい。ぬたにするといいよ。一束百円、安いんだから」
ぬたの作り方を知らないからというと、店主は目を|剥《む》くようにして、最近の若い奥さんはこれだからな、と怒鳴って、ぬたの作り方の講釈をはじめた。他の客の買い物を扱っていた店主の奥さんが、からからと笑った。
「よしなよ、お父さん。いっぱしの料理家みたいにさ。お客さん、この人のいうこと、信じちゃいけませんよ。だいたい家で台所に立つと雪が降るくらいの人なんですよ。その通りに作ったら、まずい、まずい」
奥さんのしかめ面に、私も笑いながら聞いた。
「じゃあ、おいしいのはどう作ればいいんですか」
「まずお|味《み》|噌《そ》をすり鉢にいれて、お砂糖とお酒をちょっといれて、よく練るんですよ。好みで|胡《ご》|麻《ま》や、お酢をいれる。味をみながら少しずつ混ぜあわせていくのがこつですよ」
大根を買っていた女性が会話に加わった。
「うちはね、それを小松菜と|烏賊《いか》で|和《あ》えるの。主人が好きでね。おいしいのよ」
私も奥さんも、なるほどといっている横から、店主がまた口をだした。
「俺は、やっぱり|鮪《まぐろ》と長葱だな」
「だれもお父さんの意見なんか聞いちゃいませんよ」
奥さんがこういったので、私も客の女性も大きな声で笑った。結局、長葱も買って、私はまだ笑みを顔に浮かべたまま、八百屋を後にした。
魚屋と肉屋で買い物をすませてから、クリーニング屋に寄った。年寄り夫婦が、家の一部を改造して、クリーニングの取り次ぎをしている店だ。
いつも店にでている老婆はいなかった。代わりに頭の|禿《は》げあがった夫が、カウンターに|頬《ほお》|杖《づえ》をついて、うつらうつらしていた。二、三度声をかけて、彼はやっとゆっくりと目を開けた。そして私を驚いたように見あげた。
「おや、こりゃあ、こりゃあ……」
また大きな|欠伸《あくび》をした。すえたような口臭が私の顔に吹きかかった。老人は、照れ笑いを浮かべていった。
「店番、頼まれた揚げ句に、うたた寝しちゃったよ。夢まで見ていたんだから、おめでたいですな、あははは」
春ですものね、と調子をあわせて、私はクリーニングの引換え券を渡した。老人は慣れない手つきでビニールのかかった服の山をひっくり返しはじめた。
「春らしい、いい夢でしたよ。故郷の人たちの中にいるんですよ。もう、ずいぶんと会ってない人ばかりだった。|親《しん》|戚《せき》の者や、幼なじみ。あはは、みんな生きているかどうかもわからないな、この年になると」
老人は、独り言のように喋り続ける。
「そしてね、私の前には、なんだかとってもいい香りのする木があるんですよ。その木を見ていると、悲しいとか、嬉しいとかじゃなくて、ただもう静かな気分で、気持ちいいんです。私は、じっと、そこに黙って立っているんです」
老人は微笑んだ。顔に刻まれた|皺《しわ》の奥まで明るくなったような笑みだった。
「私も、そんな気持ちのいい夢なら見てみたいものだわ」
「あはは、こんな年寄り臭い夢。奥さんみたいな若い人は見たくても、見られやしませんよ」
いいえ、昨夜、おかしな夢を見たんですという言葉を、私は呑みこんだ。虫送りの夢が|蘇《よみがえ》りそうになった。あの夢には、何か私を不安にさせるものがあった。私は無理やり心のドアを閉めて、あの夢は思い出さないことにしようと決めた。
「ああ、これかな。まったく、|婆《ばあ》さんがいないと、よくわかりませんでね」
老人が預けていた衣類を引っ張りだした。私は買い物袋とクリーニングを入れた袋を両手に抱えて、帰っていった。
マンションのエレベーターを降りると、家のドアの前に、お揃いの薄茶色のつなぎ服を着た、二人の男が立っているのが見えた。手持ち無沙汰な様子で煙草をふかしている。
角刈りの頭に耳にピアスをした、筋肉質の男。その横には、金色に染めた髪を後で束ねたほっそりした男。異様な風体に、私の足が止まった。
いやだ、私の家の前で何をしているのだろう。そう思った時、二人の足元にある大きなダンボールの箱が目にはいった。電気メーカーの名前が書かれていた。私は、はっとした。
「あのう……、テレビの配達の人?」
二人はこっちを振り向いた。ピアスをした男が煙草を床に投げ捨てると、メモに目を走らせて聞いた。
「多田さんですか」
「ええ。すみません。お待たせしたかしら」
私は家の|鍵《かぎ》を開けながら聞いた。
「いや、いいですよ。さあ、カヤ」
カヤと呼ばれた金髪の男は、ポケットからカッターを出して、手際よくその場でダンボールの箱を開けはじめた。私は部屋に入ると、慌てて壊れたテレビの上に置いてあったものを他に移した。
「おじゃましまーす」
ピアスの男が元気のいい声で|挨《あい》|拶《さつ》をして、居間にはいってきた。
「テレビ、どこに置きますか」
私は壊れたテレビのある場所を指さした。古いほうは引き取ってもらうことになっているというと、ピアスの男は|頷《うなず》いて、カヤの名を呼んだ。カヤがカッターを手にしたまま現れた。二人の青年は、ビデオのプラグをはずして、壊れたテレビを運びだすと、すぐに新しいテレビを持って戻ってきた。
リビングボードの上にテレビを置いて、ピアスの男が、新しいテレビにビデオを接続しておくかと聞いた。
「お願いします。よくわからないんで」
「そりゃそうですよね。最近は、電気製品も複雑になってるから、どこのプラグをどうつなげばいいかなんて、わかんないのが普通ですよね。僕らも、この仕事をはじめて、やっとわかったくらいですよ」
ピアスの男は、人なつこい笑みを浮かべた。よく見ると、りりしい若武者のような顔つきをしている。私は作業をはじめた二人の背中を見ながら聞いた。
「この仕事、長いんですか」
ビデオのプラグを調べていたカヤが、ぷっと吹きだしていった。
「電気屋が板についてきたなぁ、ミナミ」
柔らかな絹ずれのような声だった。切れ長の目。すっと通った鼻筋。|瓜《うり》ざね顔の美青年だ。日本的な顔だちと染めた金髪が、不思議な調和をみせている。ミナミというらしいピアスの青年といい、このカヤといい、地味な電気屋の仕事には似つかわしくない雰囲気を持っていた。
「じゃあ、アルバイトなの?」
ミナミがテレビの背面を調べながら答えた。
「何が本職っていっていいかわかんないけど、俺たち、芝居、やってんですよ」
年は私より二歳か三歳、下だろうか。確かに二人とも、舞台が似合いそうだ。人に見られることに慣れている身のこなしというのだろうか。だが、芝居というよりも、ロックバンドの雰囲気だ。私がそういうと、ミナミは、指をぱちんと鳴らした。
「あたり。俺たちがやってるの、ロック・ミュージカルみたいなもんなんですよ」
「どんなところで公演するの?」
「全然、メジャーじゃないもんで、小さなスペースを借りてやってますよ。新宿が多いかな」
ミナミが答える。
カヤは無口な性格らしく黙々と仕事をしている。劇団の名前はアルバトロス。フランス語で|阿《あ》|呆《ほう》|鳥《どり》という意味だ、とミナミがいった時、皮肉気なカヤの声がした。
「僕たちには、日本語の名前が合ってるって」
そして、一人でくっくと笑った。
何をいっても様になる美しい青年たち。狭い居間は、この二人の存在感で膨れあがっていた。私は、自分がまだ三十前の女で、この家に一人だということを強烈に意識した。まだまだ女としての魅力には自信がある。独身だったら、こんな恋人をもってみたいと思ったかもしれない。心の底で|囁《ささや》き声がした。
——どうして今はだめなの?
私はどきりとした。それは結婚して以来、見ないようにしている心の部分だった。『立ち入り禁止』と赤い文字で書かれた札がぶら下がっている、秘密の領域。
純一との結婚生活に不満だというわけではない。かといって百パーセント満足というわけでもない。その|隙《すき》|間《ま》に時折忍びこむ想像。もし、他の人と結婚していたら、どうなっていただろうか。気持ちをそそられる男性を見ると、ふと想像してしまう。想像した先の結末は、心の中の秘密の領域の中に隠されている。もし、純一とではなく、こういった男性と結婚していたら……。
その時、誰かの視線を感じて、私ははっとした。カヤが、突き刺すような澄んだ目で私を見ていた。私は心を読まれた気がして、うろたえた。
「そうだ、音楽でもどう?」
私は独り言のようにいって、ステレオのスイッチを押した。ブゥウウウウン。かすかな音が聞こえてきた。私はボリュームを上げた。音は雑音に変わった。電源ははいっている。ラジオのスイッチを切り換えて、テープにしてみた。すでにセットされていたテープが回りはじめた。しかし、やはりブゥゥウウンという、音しか出ない。
「どうしたんですか」
ミナミが聞いた。
「ステレオの音が変なんです」
ミナミがカヤに、「後で見てあげろよ」といってから、私に顔を向けた。
「こいつ、音楽に詳しいんですよ。俺たちの芝居の音楽も担当してるんだから」
「それは、ありがたいわ」
ステレオのスイッチを切ると、部屋に、沈黙が訪れた。二人の青年が作業する、かちゃかちゃという音だけが響く。落ち着かない気分になって、私は会話を探した。
「それじゃ、電気屋さんの仕事でお金を貯めて、お芝居をしているのね」
ミナミがテレビのリモコンを押した。画面にコマーシャルが映っていた。アイドル女性歌手が、激しく体を動かしながら歌っていた。ミナミは画面をじっと見つめていった。
「芝居だけじゃ食ってけませんからね」
「大変ね」
「でも好きなことですから」
ミナミはチャンネルを変えた。英会話の番組が映った。彼は私の横に立って、リモコンの使い方の説明をはじめた。
「テレビを見る時は、このボタンを押してください。ビデオにする時は……」
私の肩が彼の腕に触れた。
私は体を離した。胸が、小さな音をたてて、どくんと鳴った。
青年に対する自分の動揺が恥ずかしかった。私は彼の説明を上の空で聞いていた。
ミナミは最後に説明書を渡して、これに詳しく出ていますからと告げて、カヤにステレオを調べるように促した。カヤは気軽に頷いて、ステレオに近づいた。
「ええっと、スイッチは……」といいかけた彼の言葉が途切れた。彼の目は、ステレオの上に置かれた石の器に釘づけになっている。
「すみません。邪魔ね」
私は、その石をどけた。カヤの目が、私の持った石の器を追っていた。私はそれを、ダイニングテーブルの上に置いた。ミナミがじりじりしたようにいった。
「おい、カヤ。ステレオ」
カヤは、はっとしたように、ステレオのスイッチをつけた。その顔はこわばり、青ざめていた。私は、石の器とカヤの顔を見比べた。
どうしたのだろう。何か変だった。
カヤは、しばらくステレオの音量を上げ下げしたり、スイッチを切ったりつけたりしていたが、最後に「壊れてますね」と告げた。
「壊れてるの? いやだわ。テレビの次は、今度はステレオの番?」
あきれた声をあげる私を、カヤは何を考えているかわからないような目で見た。
「ちょっと僕では、直せそうもありません。近くの電気屋さんにでも持っていったほうがいいですよ」
カヤはこういうと立ちあがって、ミナミを誘って玄関に向かった。私も二人を送っていった。ミナミがぺこりとお辞儀していった。
「それじゃ、どうもありがとうございました」
「こちらこそ」
私も頭をさげた。ミナミが出ていってからも、カヤは落ち着かない様子で玄関に立っていた。
「どうもごくろう……」と、礼をいいかけた私を遮って、彼は口を開いた。
「奥さん、あのステレオの上にあった石……。どうしたんですか」
私は|眉《まゆ》をひそめた。いったい、あの石の何を気にしているのだろう。
夫が、静岡で拾ってきたものだと答えると、カヤは少しためらってから、|訊《たず》ねた。
「中に何かはいってましたか」
「いいえ」
カヤの顔から緊張が溶けていった。
「そうですか」
彼は、ほっとしたように息を|吐《つ》いた。
「あの、何か……?」
カヤは頭を横に振った。金色の波のように髪が揺れた。首にかけた水牛の角の形をした白いペンダントが、鈍い光を放った。カヤは絹ずれに似た声で、ゆっくりといった。
「だったら大丈夫です」
いったい何のことをいっているのだろう。私が戸惑っていると、彼は突然、別人のようなはきはきした声をだした。
「ありがとうございました。またよろしくお願いします」
カヤは玄関の戸を閉めて出ていった。ドアの閉まる音に、私は我に返った。慌てて、外に顔をだした。
「待って、大丈夫ってどういうこと?」
カヤはもう廊下にはいなかった。
きょろきょろすると、つきあたりのエレベーターが見えた。閉まろうとする灰色のドアの隙間に、金髪に縁どられたカヤの顔が|覗《のぞ》いていた。
彼の細い目が、私を認めた。能面のような表情に|逡巡《しゅんじゅん》が走った。
カヤの薄い唇が、何か告げようと、動いた気がした。
何だろう?
しかし私が聞き返す前に、重い音をたてて灰色のドアが閉まり、カヤの白い顔は消えた。
四 章
どこかで音がしたように思った。私は、ほうれん草を洗っていた手を止めて、水道の蛇口を閉めた。……ポーン。脳を震わせるようなチャイムの音が響いていた。ダイニングテーブルの上の時計を見ると六時半。私は冷蔵庫の|把《とっ》|手《て》にひっかけたタオルで手を|拭《ふ》いてから、インターホンを押した。
「どなた?」
「俺だよ、俺」
純一だった。すぐに、玄関の戸の|鍵《かぎ》を自分で開ける音が聞こえてきた。私は、また水道の蛇口を開いて、声を張りあげた。
「どうしたのぉ」
「どうしたって?」
純一がふらりと居間に現れて、聞き返した。
「こんなに早いなんて、珍しいじゃないの。まだ六時半よ」
純一は腕時計を見た。
「七時だよ」
私は、はっとしてダイニングテーブルの上の時計を確かめた。やはり六時半を指している。時計は遅れていた。
「七時としても、ずいぶん早いわよ」
「仕事が乗らなくてね」
彼はブリーフケースを|椅子《いす》の上に置くと、疲れた声で、飯はまだかと尋ねた。
「これから作るところ。先にお風呂、はいってきたら」
純一は、ああ、と答えて、寝室に消えた。
動きが妙に緩慢だ。私はまた大きな声をあげた。
「大丈夫?」
「何がぁ」
「元気ないわよ」
「なんでもない……」
そのまま寝室は静かになった。気になって様子を見にいくと、彼はパジャマに着替えたまま、ベッドに横になっていた。背広もズボンも脱ぎっぱなしで、床に散らばっている。結婚以来、ずっと共働きだったので、純一も、自分の服は自分で管理する癖がついていた。この乱雑さは、彼らしくなかった。
「どうしたの。徹夜明けじゃあるまいし」
声をかけたが、返事はない。肩がゆるやかに上下している。眠っているようだ。よほど疲れているのだろう。私は、スーツをハンガーにかけると、そっと寝室を出た。
ダイニングテーブルの上の時計の電池を替えて、冷蔵庫を開けて中のものを点検しはじめた。
三十分ほどしてから、食事の支度ができた。私は何度か大声で純一の名を呼んだ。やっと起きて、寝室から出てきた彼は、まだぼうっとした顔をしていた。そしてリビングボードの上のテレビに目を|遣《や》って、目を細めた。
新しいテレビは、居間の帝王のように君臨している。純一は、|掌《てのひら》でテレビをぽんぽんと|叩《たた》いた。
「よしよし、かっこいいぞ、おまえ」
私はテーブルの上に皿を出しながらいった。
「テレビが観られるようになったと思ったら、今度はステレオがだめになったなんて、いやになっちゃうわね。今日、近所の電気屋さんに見てもらったら、修理に二週間はかかるって。とにかく持っていってもらったけど」
長方形にへこんだカーペットが、ステレオが置かれていた時間の長さを示していた。純一が兄から譲られたというステレオだった。愛用のテレビの次にステレオが壊れたと聞いた時の純一は、怒りに顔を赤くしたものだ。世の中のすべてが、自分の宝物に攻撃をかけていると思ったようだった。
「いくらかかるかな」
彼は、|憮《ぶ》|然《ぜん》とした表情で|呟《つぶや》いた。一万円くらいだと答えると、純一は不満気な声を|洩《も》らして、テレビのリモコンに手を伸ばした。
「どうしてテレビ、つけてないんだ」
「純一が寝ていたから、静かにしておこうと思ったのよ」
「あ、そうか」
彼は、テレビのスイッチをいれた。
画面に時代劇が映しだされた。
「俺、どのくらい寝た?」
小一時間くらいだと答えると、彼は黙って頭を振った。まだ眠そうだった。
私は食卓に料理を並べ終えると、純一を呼んだ。ハンバーグと、生ほうれん草とベーコンのサラダ、フライドポテト、|胡瓜《きゅうり》と|若《わか》|布《め》の酢のもの。自分一人の夕食なら、サラダと酢のものだけにしておこうと思っていた。冷凍のハンバーグとフライドポテトは、思いがけず早く家に帰った夫のために、慌てて調理したものだった。
純一は食卓を見て、嬉しそうにいった。
「おっ、ほうれん草か。野菜が食べたかったんだ」
そして冷蔵庫からビールを出して、私を見た。私は、どうぞ、という代わりに|頷《うなず》いた。彼は少し考えたようだったが、またビールを冷蔵庫に戻した。
「たまにはアルコール抜きもいいさ」
私たちは夕食にとりかかった。
珍しく夫が早く帰宅した夕食。楽しいはずだった。しかし、どこか様子が変だった。着ている服の下に|棘《とげ》がはいって、ちくちくする感じ。何か落ち着かない。純一は、テレビをぼんやりと眺めながら、始終、|欠伸《あくび》を|噛《か》み殺している。
「会社のみんなは元気?」
私は話を向けた。純一は頷いて、資料室に新しい子がはいったと告げた。
後任が決まったのか。もう私の場所はない。
胸に寂しさが|過《よぎ》った。
「どんな子?」
「可愛くて、素直な子みたいだな」
彼は興味なさそうに答えて、またテレビの画面に目をやった。私はリモコンを取りあげて、テレビを消したくなった。
「北村さんは、どうしてる?」
「さあ……。最近、資料室にもあまり行ってなくて……」
私は、砂漠でへたりこんだ|駱《らく》|駝《だ》に乗っている旅人。|叱《しっ》|咤《た》激励しても、二、三歩進んで、またへたりこむ。それが今夜の夫との会話だった。そのことを非難すると、疲れているという答えが返ってくるのは目に見えていた。外で働く夫にとって、「疲れている」は魔法の言葉だ。|煩《うるさ》い妻も、面倒な家庭の雑事も、すべて「疲れている」といえば逃れられる。
私は黙って、ご飯を口に運んだ。
テーブルの隅には、新聞のちらし、ガスの使用料通知、雑誌などが積みあげられている。その横には、調味料セット。結婚祝いに、|従姉妹《いとこ》からもらったスウェーデン製のしゃれたデザインだ。二年前結婚した彼女に、私は何をあげただろう。スリッパとマットのセットだったような気がする。従姉妹夫婦も、こうして気まずい食事をすることがあるのだろうか。確か夫となった人は、ごく普通の感じのする会社員だった。つまり、純一と大差はないということだ。
テーブルの上の時計は、八時六分を指していた。今はちゃんと動いている。やはり電池が古くなっていたのだ。時計の後からは、石の器が|覗《のぞ》いていた。いつの間にか、私のアクセサリー入れになってしまった器には、サファイヤの婚約指輪と金のネックレスをいれてある。結婚指輪はない。それは私の指にしっかりと|嵌《は》まっている。私は素早い視線で、彼の指にも同じ結婚指輪がはまっているのを確かめた。最初、純一は、結婚指輪を嵌めて外にでるのを嫌がった。それまで指輪など嵌めたことのない人間だった。しかし純一がつけないなら、私もつけないというと、彼は折れた。契約済み。相手に、その|烙《らく》|印《いん》を押したがっているのは、夫ばかりではない。
ふと妙な音を聞いた気がして、私は顔をあげた。テレビではなかった。
しゃりしゃりしゃり。
どこか遠くから響いてくるような、|微《かす》かな音が続いている。私はあたりを見まわした。そして純一がほうれん草を食べている音だと気がついた。彼の|顎《あご》が震え、草を|噛《か》む音が|洩《も》れてくる。私は|箸《はし》を止めた。
「純一、そんな食べ方、やめてよ」
彼は、きょとんとした顔をあげた。
「ほら、これ」
私は、ほうれん草の葉を箸でつまむと、奥歯で音をたてて噛んでみせた。純一はむっとしたようにいった。
「俺、そんな食べ方、しないぞ」
「したって」
「してない」
彼は、ほうれん草とベーコンをまとめて箸でつまむと、口に、どさっと放りこんだ。そして、|頬《ほお》を膨らませて聞いた。
「どうだ」
私は、それ以上いいあいはしたくなかったので黙った。純一がテレビのチャンネルを変えた。画面が変わって、戦車が映っていた。戦車から|狙《そ》|撃《げき》されて、路上の人間がばたばたと倒れている。
「おっ、どうしたんだ」
純一がテレビのボリュームをあげた。ニュースキャスターの声が流れてきた。
『インド政府は、今日、チベットの独立運動の鎮圧という名目で、中国政府軍が国境を侵したという非難の声明をだしました。中国側が警告を受けいれない場合、戦争にはいる可能性も示唆しています。国連は、この問題解決のために緊急特別会期を招集しました』
「戦争ですって」
私は驚いていった。
「いやだわ。そんなことになったら」
純一も難しい顔をした。
「中国もインドも核を持っているんだ。戦争になったら大変だ。核戦争になりかねない」
世界の厄難パイの投げ合いは、キノコ雲風味のパイで終止符を打つ。後に残るのは、パイクリームでべとべとになった地球だけ。
私の手が下腹部に伸びた。私の中の生命は、今は安全だった。まだ、この危険に満ちた世界に出てきてはいないのだから。
純一は眠気を忘れたような口調で続けた。
「残された道は、国連の調停だ。それもだめなら、国連軍の派遣だな。目には目を、だ。武力には武力で鎮圧しないとな」
「そんな理論、嫌いだわ」
「女はすぐ好き嫌いで物事を判断する。世の中っていうのは、それだけじゃ動いていかないんだよ」
純一は断定的にいった。
どうして、こういう話になると、男たちは生き生きとしてくるのだろう。私が会社のことを聞いた時には、あれほど眠そうな顔をしていたくせに。
「男って、戦争が好きなのね」
「そんなことないさ」
純一は驚いたようにいった。そして、にやっとしてつけ加えた。
「|机上《きじょう》の空論が好きなのさ。男は、いざとなるとからきしだめなんだから。戦争自体は好きじゃないんだよ。その点、実際に戦争になったら女は強いよな」
「そうやって持ち上げて、大変な役回りを女に押しつけようっていうわけね」
私は元気をとり戻していい返した。いつもの私と彼との会話の流れになってきた。
「そんな横暴な推理ができるってことが、女の強みだよなぁ」
純一が笑った。私もつられて笑みを浮かべた。その時、彼の皿が目にはいった。
「あら、ハンバーグ、ちっとも食べてないじゃない」
二個のハンバーグのうち、まだ一個半が残っていた。肉好きの彼にしては珍しかった。
「今、食べるよ」
純一は手を伸ばした。しかし箸がつまみあげたのは、ほうれん草だった。口を大きく開けて、緑色の葉を押しこんだ。白い歯が、ゆっくりと上下する。純一は、先程の私とのいい合いを忘れたかのように、また、あの食べ方をはじめた。
しゃりしゃりしゃりっ。
葉を押し|潰《つぶ》すようにして噛む、規則正しい音が続く。私は箸を止めて、絶え間なく動く夫の|口《くち》|許《もと》を見つめていた。
——どろ虫でてけ、さし虫でてけ——
生温かい風に乗って、虫送りの声が流れてくる。|田圃《たんぼ》はいつしか消え、あたりは真の|闇《やみ》が支配していた。行列の男たちの持つ|松明《たいまつ》に照らされて、さわさわと揺れる草の葉が見える。草原の中だった。
草原の向こうは闇に呑まれている。暗闇の中には、石ころだらけの白っぽい道が一本、浮かびあがっていた。松明を掲げた行列は、その道を蛇のようにくねくねと進んでいた。私とおばあちゃんは手をつなぎ、その行列の後に従っていた。
まだやのん?
私が聞くと、おばあちゃんは、まっすぐに顔をあげたまま答えた。
もうじきどす。
かさかさしたおばあちゃんの手は、木肌の感触だ。私は、その手を握りなおした。
——つき虫でてけ、のろい虫でてけ——
ちぃいいいん。ちぃいいいん。|鉦《かね》の音と虫送りの声が、私たちを導いていく。
白い道の横に一本の木が見えてきた。地面から突きだした人間の両手の骨のような幹。木に繁る深い緑の葉が、両手の捧げ持つ供物に見えた。
行列は、木の下でゆっくりと止まった。
ここやの?
おばあちゃんは頷いた。
あの世と、この世の境どす。
「アメリカわぁあ、自らの軍隊にぃ国連軍という名前をつけてぇええ、チベットをぉお侵略しようとぉおうしているぅ。しかるにぃ、ここわぁあアジアであるぅう。アメリカの干渉をぅう許せばぁあアジアの将来わぁああ欧米諸国のおおおぅ手にぃいい握られるのだああっ。日本国民よぉお、今こそアジアのためにぃい立ちあがろうでわぁあないかあっ」
マイクを持った男が声を張りあげて、車の上で演説をしていた。黒く塗られた車には、『チベットに自衛隊派遣を。アジアの自立はアジア人の手で!』という幕が張られていた。その前を、腕を組んだ学生カップルが、ふざけあいながら通りすぎる。結婚式の帰りらしい、白い包みを持った人々が立ち話している。約束に遅れているのか、赤信号の横断歩道を髪をふり乱して走り抜ける会社員の二人連れ。高田馬場の駅前に立って、私はあたりをきょろきょろと見ていた。
「めぐみーっ」
雑踏の中で呼び声がした。加奈が左手を振っていた。右手は男性の手を握っている。