「おまたせ」
加奈は、大股で歩み寄ってくると、隣の男を私に紹介した。彼女の恋人は、|浅川章《あさがわあきら》といった。日に焼けて、がっちりした体型。人の良さそうな顔つきだが、私と向かいあっても、硬い表情を崩さない。加奈は、こんな人を選んだのか。意外な感じがした。
「よろしく」と、私は会釈した。
「加奈から、お|噂《うわさ》は伺ってました」
浅川は、何といっていいかわからないというように|曖《あい》|昧《まい》に笑った。口下手の恋人をかばって、加奈が私の手を取った。
「おいでよ。私のスタジオ、見せたげる」
加奈のスタジオは、小さなビルの一室だった。十畳ほどの空間に、ソファセットやカメラ機材が置かれていた。真新しいファックス付きの電話が置かれた、部屋の隅の机。緑色のファイルボックスが並んだ窓際の棚。棚と反対側の壁にはコルクボードが掛けられ、写真展の案内状や、何枚かの写真、カレンダーやメモがピンで留められていた。
私は感心していった。
「すごいわ。こんなところ、一人で借りてるなんて」
「仕事のためだものね」
加奈は、満更でもない顔で答えると、私にソファを勧めてくれた。浅川は、やはり無表情なままに机の前の椅子に腰かけた。
加奈がお茶をいれている間、私は浅川と向かいあう形になった。
「突然、お邪魔してすみません」
私は何か話をしなくてはと思いながら、口を開いた。しかし浅川は、そんな努力は評価にも値しないという風に、いえ、と呟いただけだった。
「池袋で用があったものですから、ついでだと思って」
今度は、はあ、だった。とことん無口なタイプらしい。こんな人と加奈は、どんな会話をしているのか想像もつかなかった。最初の出会いで、加奈にあれこれと話しかけてきたということ自体信じられなかった。それとも、彼は私が嫌いなのだろうか。しかし、私たちは会ってまだ十五分とたってない。嫌われる覚えはない。
加奈は、私の持ってきたケーキを皿に取り分けている。お湯はまだ沸いてもいない。私は沈黙に耐えきれずに、再び会話の糸口を探す旅にでた。
「お住まいはどこなんですか」
大森という返事が返ってきた。私の知らない町だった。一度だけ会社の用で図面のコピーを届けに、あのあたりに行ったことがある。小さなビルの建設現場だった。東京のどこにでもありそうな、ごたごたした町並みが続いていた。大森はどんな町なのかと聞こうという気にはなれなかった。
「やはりカメラマンなんだそうですね」
加奈の恋人だというだけで、辛抱強く会話をしようとしている自分に感心しながら、再び話を向けた。関係のない男性だったら、相手のほうが気まずくなるまで、私も仏頂面をきめこんでいたにちがいない。
浅川は私の質問に頷くと、机の上に置いてあったキャメルを取って、煙草を一本引きだした。
「加奈とは違って、僕は地道にテーマを追いかけるほうなんだけどね」
「テーマ?」
カチッとライターで煙草に火をつけて、浅川は頷いた。
「東京をテーマにしているんだ。場所を決めて、そこに集まる人たちを撮っていてね」
急に口調が滑らかになった。
「知ってる? 同じ東京でも、びっくりするくらい、場所によって集まる人間が違うんだよ。浅草の路地を歩いているおじいちゃんたち、上野に集まる国籍不明のアジア人たち、青山を歩くファッショナブルなお姉ちゃんやお兄ちゃんたち。人種が違うといっていいくらい、場所によって、人間も町の雰囲気も変わる。そういった意味で、東京はおもしろいところなんだ。写真を並べた時、見る人が、これが同じ町だろうかと驚くような作品を撮るのが、俺の夢でね」
スイッチ・オン。電流が流れだして浅川ロボットが動きだした。私が黙って、彼のお|喋《しゃべ》りを聞いていると、加奈がティーカップとケーキを乗せたお盆を持ってきた。
「めぐみ、章ちゃんの話につきあっていたら、夜になっちゃうよ。自分の写真の話になるととまらないんだから」
おもしろいからいいわ、と私はお世辞をいった。加奈は、わざと腹立たしそうな顔で浅川を|睨《にら》んだ。
「ほんと、他人の事務所を我が物顔に使って、お喋りしているだけなんだから」
「電話番、ただでやってくれるなら、ありがたいっていっただろ」
浅川は、ぷーっと白い煙を吐きだした。ティーカップとケーキをテーブルに並べていた加奈が慌てていった。
「あっ、煙草はだめ。めぐみは妊娠してるのよ」
私の、少し|脹《ふく》らみかけた下腹部にはじめて気がついたように、浅川は煙草を消した。
「ほんとに男って鈍感なのね」
と、加奈がいった。
「鈍い女ってのもいるから、世の中、釣り合いはとれているよ」
浅川が、ぼそっと|応《こた》えた。
「おや、誰のこと?」
加奈が、浅川に近づいて、ぱしんと背中を叩いた。私は笑った。
加奈と浅川の|辛《しん》|辣《らつ》な言葉の応酬は、仲のよい恋人同士のじゃれ合いそのものだった。
浅川と加奈が向かいに座ると、私たちは、ケーキと紅茶に手を伸ばした。
ベリーショートの加奈と、角刈りの浅川が並ぶと、ユニセックスのカップルのようだった。体つきも同じくらいだ。ひょっとすると、浅川のほうが小柄かもしれない。
元気にしてたかと、加奈が聞いた。
この前、会ってから一か月は過ぎていた。私は、元気だと答えようとして、口ごもった。ケーキを口に運ぼうとしていた加奈の動きが止まった。
「どうかしたの?」
私はティーカップをテーブルに置いた。
「たいしたことじゃないけどね。……最近、変な夢をみるの」
それは虫送りの夢だと説明したが、加奈にはぴんとこなかったようだった。
浅川が口を挟んだ。
「昔の行事だろ。前は夏が近くなると、日本のあちこちの村でやっていたというよな。俺も、実際に見たことはないけど」
「私、知らないわよ」
「加奈は横浜生まれでしょ。無理ないわ。私も小さい時に一度、見ただけなの。それがしょっちゅう夢にでてくるの」
しかも夢は、連続ドラマのように進んでいた。最初の夢は、子供の頃に遠くから眺めた虫送りの光景と、ほぼ同じだった。現実には、その後、私と祖母は家に戻った。だが夢の中では、私と祖母はそのまま行列につき従っている。|田圃《たんぼ》風景はすでに遠ざかり、今では私は、夢の中の知らない世界で、進行する虫送りの儀式の傍観者となっている。
そんなことを喋りながら、視線を落とすと、加奈の手が浅川の|膝《ひざ》をゆっくりと|撫《な》ぜていた。二人は微笑みながら、時々視線を交わしている。とたんに私は、馬鹿らしくなった。自分たちのことしか目にはいらない恋人たちの前で、夢の話をして、何になるだろう。
「妊娠のせいで、ちょっと神経がまいってるんでしょうね」
私は夢の話を切りあげた。
加奈は、生き生きした表情で頷いた。
「そうよ、気にしちゃいけないよ。続きものの夢なんてさ、たまに私だって見ることあるわ。妊娠中だからって、あまり家にこもってるのがよくないんじゃない。ちょくちょく外にでて、気分転換してみたらいいのよ」
恋する者は、エゴイスティックだ。自分が幸せの絶頂にいる時、他人の不安など理解できはしない。私もかつてそうだった。加奈と浅川に、以前の自分と純一の姿を見ている気がした。恋人時代、二人きりでいる時は、会話の必要性など感じなかった。会話は意識しないで|溢《あふ》れでてきた。しかし、今は会話を続けることが難しい。
今夜は、彼と、どんな会話ができるだろう。
そう思って、もう夕方になっていることに気がついた。
私は、帰る、といってソファから立ちあがった。
「もう少し、いればいいのに」
加奈が不満気に頬を膨らませた。
「だめなの。夕食の支度をしなくちゃ。最近、純一ったら、どういう風の吹き回しか、早く家に帰ってくるの」
感心な夫ね、と茶化す加奈に、私は顔をしかめてみせた。
「とんでもない。毎晩の夕食の献立を考えるのって、大変なのよ。たまには遅く帰ってもらいたいわ」
浅川がぼそりといった。
「亭主なんて、陰で何をいわれているか、わかんないもんだな」
私と加奈は、顔を見あわせて苦笑した。
加奈は、私を玄関まで見送ってきた。
「せっかく来たのに、こんなに早く帰るなんてさ。またゆっくり来てよ」
私は、彼女の後の浅川に会釈して応えた。
「いいの。今日は、彼に会っただけで、目的は果たしたから」
「僕は見せ物ってとこか」
浅川は下唇を突き出して、おどけた表情をして見せた。少しは私に打ち解けたようだった。私は、ほっとしていった。
「しばらく加奈の友達の見せ物になるのは、覚悟しておいたほうがいいですよ」
ぞっとしたような顔の浅川の腕に、加奈が自分の手を絡めた。
「大丈夫。章ちゃんのこと、打ち明けたのは、今のとこ、めぐみだけだから」
「今のとこ、ね」
浅川が呟いた。
私は二人に手を振って、エレベーターに歩いていった。背後で、スタジオの茶色のドアが閉まる音がした。
私の去ったあのドアの向こうで、加奈と浅川の親密な時がはじまる。その親密な時の流れは、二人をどこに導いていくのだろう。
私はエレベーターのボタンを押した。
ゴトン。エレベーターの動きだす、鈍い音が聞こえた。
五 章
『で、交番にいく途中で見つかったんだよ、落とした財布が』
『そりゃあよかったな』
『俺んじゃないけどね』
『おいおい、それじゃ泥棒じゃないか』
テレビから|賑《にぎ》やかな笑い声が流れてくる。私はダイニングテーブルの上で、新聞をめくりながらいった。
「純一、八チャンネルで映画やってるよ。そっちがおもしろそう」
返事はなかった。顔をあげると、彼はソファにうつ伏せになって寝ていた。パジャマに着替えた体を長々とのばして、|肘《ひじ》かけから足の先を飛びださせている。
私はその姿をじっと眺めた。部屋の中で動いているものといえば、テレビの中の芸人だけだった。この部屋の主人公である夫も妻も、ぜんまいの切れた|玩《がん》|具《ぐ》のように動かない。
私は長いため息をついた。息を吐き尽すと、今度は怒りが|湧《わ》きあがってきた。
私は、新聞をテーブルの上に置いた。
「純一ったら!」
彼がゆるゆると動いた。ソファの背もたれの向こうから、むくりと頭が持ちあがった。そして、まだ半分、寝ているような声で「なんだい」と聞いた。私は、腹立たしい気分を鎮めるように努めながら口を開いた。
「テレビ、見ているの?」
純一はテレビに目を|遣《や》った。そして平気な顔で、うん、と答えた。それがさらに私の神経に触った。
「|嘘《うそ》よ。寝てたじゃないの。まだ九時半よ。少しは起きていたら? 寝すぎよ」
彼は|煩《うるさ》そうに|頷《うなず》くと、また頭をソファのクッションに埋めた。私は|椅子《いす》から立ちあがると、彼の肩を揺すった。
「まだ寝る時間じゃないわよ」
彼は、何かもぞもぞと|呟《つぶや》いた。私は、その耳元で大きな声をだした。
「眠り病みたいよ。どこか悪いんでしょ」
「悪くないよ。……すごく気持ちがいいんだから……」
彼は、頭を腕の中に埋めた。私は、カーペットの上に座りこんだ。正体もなく眠りこけているこの男が、夫とは思えなかった。少なくとも、私の知っている純一だとは。
早く帰宅するようになったことは、ありがたい。しかし帰ってきても、ソファに横になってぼんやりしているか、寝ているだけだ。さすがに食事中は、私の話を聞いているふりをしているが、右から左に流れていっているのはわかる。加奈の恋人の浅川よりもひどかった。浅川はまだ自分の仕事の話になると、夢中になった。しかし純一に会社の話を聞いても、別に変わったことはない、で、会話は途切れてしまう。この傾向は、日を追うごとにひどくなっていた。最近では、夕食時間は私の独壇場になっている。
——スーパーのレジ打ちの女の子が|莓《いちご》の値段を間違って打ちこんだから、莓、違いますっていったの。そしたら不思議そうな顔して「これ、莓ですよ」だって——電車に乗ったら、高校生の男の子二人が話しているの。「ホモジナイズって、ホモサピエンスの一種?」「まさかぁ。きっとそれ、ホモになる、って動詞だよ。でも、どうして牛乳に、そんな名前がついてるのかな」——
お義理の笑い声もないワンマンショー。フィナーレの拍手は、席を立つ音だけ。これでは、あんまりだ。
意見の食い違いなら、話をすればいい。しかし、これはもっと違うものだった。私たちの間を構成していた何かが、ぼろぼろと崩れ落ちていく。私は、二人で創りあげた空間が崩壊していくさまを、傍観者のように見ていることしかできない。
涙がこみあげてきた。私は声をあげて泣きだした。自分でも子供っぽいと思った。泣いて、夫の注意を|惹《ひ》こうとするとは。しかし私は手持ちの札を出し尽くして、途方に暮れていた。
ようやく純一が、首をこちらに向けた。
「どうしたの」
純一は何も気がついていない。私の|苛《いら》|立《だ》ちも、自分の変化も。襲いかかろうとする無力感を|撥《は》ねのけて、私はいった。
「あなた最近、変よ」
彼は|眉《まゆ》をひそめた。突然、妻がおかしなことをいいだした、としか思ってないのだ。
「私が何をいっても知らん顔じゃない。自分の殻に閉じこもって……」
私は言葉を探した。寝てばかりいるので変。食事の好みが変わったのが変。ビールも、煙草も吸わなくなったのが変——。結局、こんな陳腐な説明しかできない。無力感が力を取り戻し、襲いかかってきた。
「私のことなんて、もうどうでもいいんだわっ」
私は大きな声をあげた。語尾が悲鳴のように破裂した。また涙が溢れてきた。
純一は顔を曇らせて、起きあがった。そして床に座りこんでいる私の肩を抱くと、優しい声でなぐさめた。
どうでもいいだなんてことはない。疲れているだけだ。自分は、この家で寝ているのが最高に幸せなのだ。つまり、めぐみの側にいることが。こんなことで、ヒステリックになるのは、馬鹿げている。
神経を優しく撫でさすってくれるような言葉に、気分が少しずつ落ち着いてきた。
そうなのだ。純一は疲れているだけだ。家でくつろぎたいだけ。私の居る家庭で……。
心の底で「気をつけろ」と|囁《ささや》く声がした。
おまえは、|溺《おぼ》れそうな人間のように、彼の言葉にしがみついている。疲れている、などという魔法の言葉にだまされてはいけない。それはただの言い訳。開けゴマといったほうがまだわかりやすい。
しかし、私はその言葉を無視した。
「愛してるよ」
純一が囁いた。
私は|微笑《ほ ほ え》むと、彼にキスをした。純一は軽くキスを返してきた。私は彼を抱きしめた。彼の暖かな体温が私に伝わってきた。彼の息遣いが、首筋にかかった。
すぐ横にリモコンが転がっていた。私はテレビを消して、純一の顔を見あげた。
「寝る?」
彼は頷いた。私たちは肩を抱きあって、寝室にはいっていった。彼がベッドに横になると、私は電気を消した。そして彼の唇にキスをしながら、パジャマの下から手を滑りこませた。脇腹から|尻《しり》にかけて、その|痩《や》せた体をそっと|撫《な》ぜていく。しばらくセックスしていない。私は期待をこめて、またキスをした。
純一は赤ちゃんがむずがるような表情を見せて、居心地が悪そうに動いた。そしてくるりと背を向けると、「眠いんだ」と呟いた。
私は純一から体を離した。隣の部屋から|洩《も》れてくる光の中に、その骨ばった背中が浮かびあがっていた。彼のめくれたパジャマを、強く引っ張ってもとに戻すと、羽根布団をかけた。無視された怒りに、自分の息が荒くなっているのがわかった。私はベッドから降りると、寝室のドアを乱暴に閉めて出ていった。
グラスにブランデーを|注《つ》いで、ソファに腰をおろす。クッションには、まだ彼の温もりが残っている。
——愛している。
さっきの彼の言葉がまだ耳元に残っていた。自分の馬鹿さ加減を|嗤《わら》いたくなった。優しい言葉をいうのは簡単だ。煩く泣く妻を黙らせるには、愛の囁きほど効果的なものはない。私はまんまと、それにのせられただけだ。
少し|脹《ふく》らみかけた下腹部から目を|逸《そ》らすようにして、ぐいっとブランデーを飲んだ。焼けるような液体が、怒りと一緒に喉を滑り落ちていった。
私は息を吐いて、グラスを揺らした。|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》の波がガラスの壁にぶつかって、押しもどされる。出口のないグラスの中で、液体は渦を巻くしかない。その渦を見ているうちに、私の心に疑問が浮かんだ。
優しい言葉をいうのは簡単、だろうか。
議論好きだが、愛情表現となると苦手な純一は、今まで面と向かって私に「愛している」といったことはない。愛の言葉も、感謝の気持ちも、いつも茶化していうことしかできなかった。プロポーズの言葉さえ、「僕たちの関係をこのまま続けていくつもりなら、社会的には、結婚したほうがいいだろうな」と、まるで|他人《ひと》|事《ごと》のようにいったものだ。
その彼が、どうしてさっきは照れもしないで、「愛している」などといえたのだろう。
私は寝室に目を遣った。ことり、とも物音はしない。閉ざされたドアの向こうで、ひたすら眠り続ける男のことを想った。
いったい彼はどうしたというのだろう。
早々に帰宅して寝てばかり。ここ一か月、セックスもしていない。私の今まで知っている純一は消えて、別の人格が現れたようだ。
私と彼とを隔てているのは、合板製の薄っぺらな一枚のドアに過ぎないのに、世界の反対側にいる気がする。
私は寝室のドアに背を向けるようにして、またブランデーをあおった。
「いえね、メーカーさんのほうに修理に持っていったら、どこも壊れてなかったっていうんですよ」
電気屋が困った顔でいった。『大原電気』という近所の電気屋の主人だった。白髪頭に、紺の野球帽を|被《かぶ》っている。私は、電気屋からメーカーの修理部へ、無駄な旅を経て、居間のカーペットの上に再び返ってきたステレオを見おろした。
「変ね。あの時は絶対、壊れてたのに。電気屋さんも確かめたでしょ」
電気屋は頷いた。そして、しゃがみこむとステレオのスイッチをいれた。日本語のポップスが流れてきた。ボリュームの調節をする。どこにもおかしいところはなかった。
「たまたま何かの加減で調子が狂っていたのかもしれませんね。とにかく、これじゃお代はいただけませんや」
彼は笑いながらいうと、玄関に向かった。
私は礼をいって、玄関の戸を閉めた。居間に戻ると、ステレオの調子は上々で、女性歌手の声がよどみなく流れている。とにかく修理代がいらなかったのは、ありがたい。
私は椅子に腰かけようとした。そのはずみに、ダイニングテーブルの上に置いていた時計に肘があたって倒れた。白くて丸い時計を起こしながら表示板を見ると、四時だった。まだそんな時間なのだろうかと、ビデオのデジタル時計に目を遣ると、そっちは五時五分を示していた。遅れている。電気が切れたのだと思って、つい一か月ほど前に電池を替えたばかりだったのに気がついた。
私は時計を取りあげて、時間を合わせた。
壊れてしまったのだろうか。最近、ものが壊れてばかりだ。テレビ、ステレオ……そして、時計。ステレオは壊れてなかったが、調子がおかしかったのは事実だ。
その時、時計の後に置かれていた石の器が目にはいった。頭に何かが|閃《ひらめ》いた。私は、石の器に手を伸ばした。すべすべした青灰色の塊が、ずしりと|掌《てのひら》に沈んだ。表面を覆う模様が、石をさらに重々しく見せている。
この石の器は最初、テレビの上に置いていたのだ。そしてテレビが壊れて、ステレオの上に移動した。次にステレオの調子がおかしくなって、ダイニングテーブルへ。そして今、同じテーブルの上の時計が遅れはじめた。
まさか、この石の器のせいだということがあるだろうか……。
ルルルルル。
突然、電話が鳴り、思わず石の器を落としそうになった。私はそれをテーブルの上に置いて、食器棚にある電話を取った。
「私ですよ。日野の多田です」
笑っているような、元気な声が聞こえてきた。日野市に住む純一の母だった。
「純一は元気かい」
義母は真先に聞いた。
「ええ。最近は仕事も楽になったのか、早く帰ってくるのが、健康にはいいみたいですね。よく寝て、よく食べて。少し太ったかもしれません」
私は言葉を選びながら|応《こた》えた。
「そりゃ、いいことだ。あの子はちょっと痩せすぎだったからね」
「今度は運動不足が心配ですよ。最近のあの人ったら、休みの日もごろ寝してるばかりで。この調子じゃ、今度の連休だって、どこかに行く気力はなさそうだし」
義母は、私が心の底で息子を非難しているのを感じたのか、かばうようにいった。
「そりゃ、あの子は優しいから、めぐみさんの体のことを心配しているんだよ。連休だからって下手に出て行って、無理したらお腹の子に悪いからねぇ」
義母は、自分の二人の息子を|溺《でき》|愛《あい》している。彼女に、純一のことをこぼした自分に後悔しながら、私は、そうですね、と気乗りのない|相《あい》|槌《づち》を打った。
「それより、めぐみさん。実は今日、突然、浩一の会社の人から宅配便が届いたのよ。産地直送の鮮魚セットとかいってね。そりゃあまあ、どっさり|蟹《かに》やら魚やらが入っているの。家だけで食べるの、もったいないから、今夜、あんたたちも夕食に来ないかと思ってね」
義母が夫を亡くして以来、同居するようになった、義兄の浩一一家の顔が頭に浮かんだ。陰気な兄嫁、騒がしい三人の子供たち。いつもだったら、断ったかもしれない。しかし、このマンションで、純一と向かい合って黙々と食事することに比べれば、大勢で、|賑《にぎ》やかに食べるほうがまだましだ、と思い直した。純一の気分転換にもなるだろう。
私は義母に、純一の会社に電話して、彼の予定を聞いてから、連絡すると答えた。
「純一に、おいしいもの食べさせてあげる、といってやってね」
義母の張りきった声が受話器から響いた。
私は電話を切ると、彼の会社の電話番号を押した。
呼び出し音が一回鳴っただけで、受話器が取られた。
「はい、内田建設です」
造園課の|酒《さか》|井《い》の声だった。何度か純一に誘われて、三人で飲みにいったことがある。
純一の名前を告げただけで、私が誰だかわかったらしい。
「やあ、|秦《はた》さんじゃない。元気」
酒井は、打ちとけた声で聞いてきた。会社に勤めていた時の旧姓で呼ばれて、懐かしい気分が湧きあがった。毎晩、夫を相手にワンマンショーを演じているともいえず、私は、元気だと答えて、酒井の近況も聞き返した。酒井は乾いた笑いを洩らした。
「元気とはほど遠いな。もう忙しくてね、徹夜の連続さ」
「あら、まだそんなに忙しいの」
「ああ、この仕事は夜が勝負みたいなところがあるからな。毎日、早く帰れたら|羨《うらや》ましいが、結局、その|皺《しわ》|寄《よ》せはこっちに……」
酒井は急に言葉を切った。私はぴんときた。純一のことをいっていたのだ。
「あ、ごめん、すぐに多田を呼ぶから……」
酒井は慌てていうと、保留の音に変わった。しばらくして保留の音が切れた。
「純……」といいかけた私の耳に、また酒井の声が聞こえた。
「あ、秦さん。ご亭主の姿は、今、ちょっと見えないな。社内のどこかに居ると思うけど。何か伝言、しとこうか」
私は、家に連絡するようにと伝えてくれ、と頼んで、電話を切った。
心の中で割り切れない思いが残っていた。純一の帰宅が早くなったのは、残業がなくなったせいだと思っていた。まさか仕事を他の人間に押しつけて、帰っているとは思わなかった。純一は、そんな人間ではないはずだった。彼は仕事が好きだった。責任感もあった。疲れるとか、大変だとか、文句をいいながらも、造園設計には夢を抱いていた。
——都市に緑がないっていうけど、俺たちはそれを作っているんだよ。都市の中に組みこまれた、人工的な緑地かもしれない。だけど、人の心に潤いを与えることはできるんだ。
酔っぱらって、こんなことをいっていたことがある。その彼が、どうして急に仕事への意欲を失ったのだろうか……。
私は、木の椅子に腰をおろした。日野の義母の家に行く気分も|萎《な》えていた。
学校で、手に余る宿題を与えられた生徒のような気がした。解けないとわかっているのに、やらなくてはならない。
いったい、純一に何が起こったのだろう。彼の不可解な部分が膨れあがっていく。
ぴくん。腹の奥で、胎児が動くのを感じた。
私は、あ、と声を洩らして、自分の下腹部を見下ろした。
私たちの子は、そこで着実に育っていた。
この子を出産する時、二人の関係はどうなっているのだろう。もうすぐ親になるというのに、私たちは、空中を漂う煙のようにゆらゆら揺れている。
こんなことでいいだろうか。泣きたい気持ちで、両手で腹を撫ぜた。張ったような腹が、掌を押し返す。|喉《のど》に熱いものがこみあげる。胎児を腹に抱え、私は孤独だった。このコンクリートの空間に閉じこめられたまま、誰に助けを求めていいかもわからない。
テーブルに肘を突き、頭を抱えた。
部屋の静寂が、私の上に舞い降りてきた。
六 章
満天の夜空が広がっていた。|闇《やみ》の中に一本の白っぽい道が延びている。道の脇に、節くれだった老人の手のような木があった。深緑色の葉の繁るその木の下で、|松明《たいまつ》を持った男たちが輪になっていた。
私は離れたところからそれを見ていた。隣には、おばあちゃんが立っていた。
男たちの輪の中に、ぼっと赤い灯がついた。炎が、はためく無数の朱の布のように、ひらひらと空に舞いあがる。
——つき虫でてけ、のろい虫でてけ——
虫送りの声が、まわりから聞こえてきた。炎に照らされた人々の影が、道の上に長くのびている。私は、おばあちゃんの手を握ったまま、輪の中を|覗《のぞ》きこんだ。
炎の中で、めらめらと|藁人形《わらにんぎょう》が燃えていた。人形の胸にくくりつけられた藁の箱の中では、小さな虫たちが黒い灰になっていく。
藁人形と虫の体から立ち昇る白い煙は、頭上の木の葉を包みこみ、さらに風に乗って向こうに延びる道の彼方に消えていく。
——|憑《つ》き虫でてけ、|呪《のろ》い虫でてけ——
地の底から|湧《わ》きあがってくるような人々の声が、燃える藁人形に投げつけられる。ごおおおおっ。草をざわめかせて、風が吹いてきた。炎が揺れて、人形の顔が現れた。
息が止まりそうになった。
純一!
それは藁人形ではなく、私の夫だった。赤い炎の中で、燃えた髪の毛が灰となってこぼれ落ちる。火に|炙《あぶ》られ、酸化した銀の色に黒ずんでゆく皮膚。炎に包まれた体は、黒い影にしか見えない。その影は、マリオネットの踊りのように不自然な|恰《かっ》|好《こう》で動いている。
私は走り寄ろうとした。しかし、おばあちゃんの手が放さない。その手を振りほどこうとしたが、おばあちゃんは、万力のような力で私の手を握っている。
放してっ。
私は叫んだ。おばあちゃんは厳しい顔つきで、首を横に振った。私はなすすべもなく、燃えていく夫に目を|遣《や》った。
彼は炎の中をのたうち回っていた。顔も手も足も、黒く焼け|爛《ただ》れている。両手を空にさしのべて、|虚《むな》しく宙を|掻《か》きむしる。口を大きく開けている様子から、悲鳴をあげているのはわかるのに、不思議と声は聞こえない。
ぢりぢりぢりりりり。純一の体の焼ける音だけが、耳の奥で響いていた。
私は目を覚ました。
カーテンの|隙《すき》|間《ま》から|射《さ》しこむ街の明かりが、寝室をぼんやりと浮かびあがらせている。隣では、純一が軽い寝息をたてて眠っていた。
枕元の時計を見ると、午前二時半。
真夜中だった。
私は横になったまま、荒い息を吐いていた。全身がじっとりと汗ばんでいる。
なんて夢だろう。あまりにも真に迫っていた。彼の体の燃える音が、まだ耳に残っていた。
しかし、夢でよかった。目が覚めてよかった。私は再び眠りにつこうと、目を閉じた。
その時、音が聞こえた。|幽《かす》かな音だった。薄い皮がめくれあがるような音。まるで何かが燃えるような……?
私は耳を澄ませた。寝室の中は、静まりかえっていた。窓越しに、車の通り過ぎる音が聞こえるだけだ。
気のせいだろう。そう思ったとたん、また音がした。すぐ側から、枯れ葉を踏むような、いや、何かを|押《お》し|潰《つぶ》すような……そう、闇の深部で、何かを|噛《か》んでいるような音だ。
私は枕元の電気をつけた。
純一が背中を丸めて眠っていた。部屋の隅に上半身を起こした私の影が映っていた。ドレッサーの鏡の中に、|脅《おび》えた顔の私がいる。しかし、それだけだった。部屋の中に動くものの|気《け》|配《はい》はない。
パアーッ。遠くで車のクラクションが聞こえた。純一を起こそうかと思ったが、結局やめて、その顔を覗きこんだ。電気をつけたことにも気づかずに、眠りこけている。筋肉の|弛《し》|緩《かん》した死体にも似た、無表情な寝顔だった。最近では、見慣れてしまった顔つきだ。すべてに無関心になった彼は今や、起きている時でも、この寝顔のように表情を失っている。
私は、そんな夫を心のどこかで憎んでいるのだろうか。だから、あんな夢を見たのだろうか。私はもう彼を愛してないのだろうか。
眠る純一の顔が、一瞬、痙攣するように歪んだ。淡い光の下に、目の下の細かな|皺《しわ》が現れた。彼も年をとってきたのだ、と思った。
知り合ってから、六年経つ。その年月を、私たちは一緒に過ごしてきた。彼のこの皺は、私の皺でもある。彼が変わったように見えても、ここにちゃんと私たちの経てきた歴史が残っている。
私は|微笑《ほ ほ え》んで、彼の目の下から頬にかけてそっと|撫《な》ぜた。そして、彼を愛しているのだと思った。
もう何の音も聞こえなかった。やはり気のせいだったのだ。私は電気を消すと、毛布をひっかぶって、無理やり目を閉じた。
「いいの、こんな高いところ」
「まかせといてください。退職金、たっぷりもらったんだから」
私は胸を|叩《たた》いてみせた。
『内田建設』本社近くの静かなレストランの中だった。普通のランチを食べるには、少々値の張る店なので、昼時でも空いている。
「うちの会社が、そんなにたっぷり退職金をくれたとは信じられないわ」
北村美津子は、ピンクの布のかかったテーブルの向こうで、ふくよかな|頬《ほお》にえくぼを浮かべた。三十歳はとうに過ぎているのに、そのえくぼのおかげで若く見える。
私は、お金のことは気にしないでといって、メニューを広げた。三種類ほどのランチメニューが載っていた。どれもスープからはじまるコースになっている。北村の昼休みの時間が限られているせいもあって、一番簡単なコースに落ち着いた。
注文が終わると、まずはお定まりの近況報告になった。私は、気になっていた自分の後任の女性のことを聞いた。
「まあ、いい子よ」
北村は、テーブルの上のスプーンをいじりながら答えた。
「いわゆる今風の子ね。かわいくって害はなくて。純真とバカとの間、紙一重ってところで揺れてる子。お|頭《つむ》の工合は、水はけの悪いスポンジ。十いえば、三つくらいは残るわ。悪くはないわね」
私は苦笑した。久し振りに聞く北村の毒舌だった。いつも私が一言いうと、三言ほどの|辛《しん》|辣《らつ》な意見が返ってきたものだ。
「仕事に関しては、時々大チョンボをやるけど、素直にあやまるところが取り柄ね」
「私とは大違いだっていいたいんでしょ」
北村が、けろりとして「そうよ」と答え、私たちは低い声で笑いあった。
最初、私たちはぶつかってばかりいた。ずばずばとものをいう先輩の彼女の前で、新入社員の私は|萎縮《いしゅく》してしまっていた。緊張すると、思わぬところで失敗する。しかし、それを指摘されると、とたんに私は強情になった。素直に謝りもせずに、言い訳ばかりしていた。今、思えば、北村は大人だった。かんしゃくを起こしながらも、辛抱強く、私に仕事を教えてくれた。
だが、何度か衝突を繰り返すと、お互いの性格を理解するようになった。結局、私たちは似た者同士だったのだ。資料室の静かな空間と、本を読むことを愛していた。ただ、感情の表現方法が違うだけだった。北村は、その場その場で毒舌をふるって発散させる。私は考えを|溜《た》めこんでから、最後にどっと堤防決壊してしまう性格。そこを納得すれば、私たちはお互いの欠点を補いあうことのできる、いい仲間となった。
資料のコンピュータ入力も、データベース導入も、渋る会社を説得して行った。私と北村とで、資料室の内容はずいぶん充実したはずだ。私の退職を、社内で最も残念がってくれた人間は北村だったと思う。
スープが運ばれてきた。しばらく黙ってアスパラガスのポタージュを|啜《すす》ってから、北村が聞いた。