「で、秦さんのほうは? 仕事を辞めた感想は?」
私が妊娠のために退職すると決めた時、彼女は反対した。出産休暇をもらえばいいと主張した。しかし、私は、多分一年で復帰はできないだろうといって、辞めてしまった。職場の雰囲気が恋しいなどと答えれば、それみたことか、といわれるのはわかっていた。私は、のんびりしています、と答えた。
「毎朝、ゆっくり起きて、丸一日、家にいてね、本を読んだり、テレビを見たりして、ただ寝ているの」
「それで、後は子供ができるのを待つばかりか。平和だこと」
独身の彼女は少し冷やかな口調でいった。彼女は、愛人との結婚は|諦《あきら》めていた。今のままで、ずっと一生を過ごすかもしれないと、私に|洩《も》らしたことがある。そういう覚悟をした人間にとって、私の生き方は逃避のように思えるのだろう。しかし、あの頃、私は企業の資料室での仕事にうんざりしていたのだ。建設会社ということで、集める資料が専門分野に偏っていた。一度、仕事を辞めて落ち着いたら、もっと大きな公立の図書館に勤めたいという希望が芽生えていた。
だが、それは北村にはいってない。いえば、彼女の職場を否定することになる。地下の女王として君臨できる資料室が、北村にとっての城。家庭に匹敵する城だった。だからこそ彼女は、城を堅固にするために情熱を傾けた。だが私は、女王である彼女の侍女の役目を果たすことがいやになっていたのだ。
スープが下げられて、メインディッシュの|鱸《すずき》の香草焼きが出てきた。魚を切りながら、北村が|窺《うかが》うように私を見た。
「で、何なの」
突然、聞かれて、私がきょとんとしていると、北村はしたり顔でいった。
「何か相談事があるんでしょ。こんな高いところでランチを|奢《おご》ってくれるからにはね」
もちろん、そのつもりだった。だが、いざとなると、どう切り出していいかわからない。
「いいなさいよ」
北村が命令口調で促した。
時々、かちんとくるのは、彼女のこのいい方だ。一瞬、黙っていようかと思った。しかし、北村に悪気がないのはわかっていた。
「実は、聞きたいことがあるんです」
北村は頷いた。私は少しためらってからいった。
「純一のことなんです。彼、最近、変わったことはないですか」
「変わった?」
彼女は戸惑いを見せた。
「ええ……」私は口ごもった。
「最近、仕事も早めに切りあげて帰ってくるし。なんだか前とは変わった気がして。……それに、この前、同じ課の酒井さんと話したんですが、……彼、純一のこと、怒っているみたいで」
「どうして酒井君が、多田君のことを怒っているのよ」
「純一の仕事が、酒井さんに回ってくるとかで……」
北村は|眉《まゆ》をぴくりとあげた。前髪を全部後にひっつめて、|髷《まげ》を結っている彼女の顔には、そんな表情がよく似合う。北村は、二、三回、軽く|頷《うなず》いてから口を開いた。
「そういえば、そんな話、聞いたことがあるわ。誰か、造園課の人が資料室でこぼしていたのよ。最近の多田は、まるで丸の内のOLみたいだ。五時になったら、さっさと帰っていくって」
「五時?」
私は聞き返した。北村は、五時に帰る日はけっこう多いみたいだと答えた。
そんなに早く、純一が退社していたとは、知らなかった。私は驚いて、まじまじと北村の顔を見た。
「やだ、多田君の帰ってくる時間くらい、秦さんのほうがよく知ってるんじゃないの」
北村の声には、好奇心が混じっていた。しかし、彼女にすべてを話す気にはなれなかった。私は、家で、のんびりしすぎて、時間の感覚がなくなっているのだといい繕った。
北村は、くすくす笑った。
「|惚《ぼ》けるには早いでしょ。そういえば多田君のこと、誰かが惚け老人みたいだって、ひどいことをいってたわよ。父親になるせいか、やけに落ち着いてきて、年寄りみたいだ。つまんなくなった、結婚なんかするものじゃないって。思いだしたわ、こんなこというの、あいつよ、吉田。設計課のプレイボーイ。彼に関しての話なら、腐るほどあるわよ、つい昨日だって……」
もう北村の話は聞いてなかった。純一のことで頭がいっぱいだった。五時に退社して、まっすぐ家に帰ると六時半に着く。しかし、帰宅はいつも八時頃だ。一時間半の空白の時間。彼は、何をして過ごしているのだろう。
女?
『妊娠中、夫の浮気に御用心!』
以前に見た、雑誌の見出しが頭に浮かんだ。浮気中の夫は、妻に優しくなるという。最近の彼の優しさは、浮気が原因なのだろうか。あんなに「眠い、眠い」というのも、考えればおかしい。本当に疲れ果てているのではないか。他の女とのセックスで。
食事を終えて、北村と別れてから、私は歩きはじめた。
結婚して三年、彼が他の女に|惹《ひ》かれているような兆候はなかった。私も彼も、お互いだけを見つめていたと思う。しかし、ここ数か月、その確信も揺らいでいる。彼の変化も、私に対する無関心も、すべては疲れているせいではなく、他に女ができたことを示しているように思えた。
二人は、会社の電話で連絡をとりあって、帰りに待ち合わせるのだ。一時間半あれば何でもできる。デートしたり、映画を観たり、……ラブホテルにいくことすら。
私は|拳《こぶし》を握りしめた。いやらしい想像をしている自分が腹立たしくなった。
灰色のタイルの敷きつめられた歩道の上を、ベビーカーに子供を乗せた母親が歩いていた。ベビーカーから、溶けかかるアイスクリームを握りしめた小さな手が突き出している。公衆電話で、笑い声をあげながら受話器の奪いあいをしている女子高校生たち。スニーカーにリュック姿の中年の外国人カップルが地図を片手にきょろきょろしている。『初夏に向かってのクリアランスセール』という垂れ幕が、暖かな風に翻る。こんなに平和な風景の中で、私は|猜《さい》|疑《ぎ》|心《しん》に|苛《さいな》まれ、暗く濁った心を抱えて歩いている。
「問題は、皆さんの心の中にあるのです。心を病んだ人間が増えているからこそ、この世界も今、病んでいるのです。まず、あなた自身の心の病を治すこと。それが、あなた自身、ひいては世界を救うことにつながるのです。心静かに、私たちと共に祈りましょう!」
『救心教』と書かれた宣伝カーが、教義を説きながら、私の横を走り去っていった。
そうかもしれない。問題は、私の心にあるのかもしれない。夫を疑うのは、よくないことだ。しかし、そう思う端から、どろどろとした疑問が湧きあがる。
純一は、浮気しているのではないか?
パッパーッ。耳許で、車のクラクションが鳴った。赤信号の横断歩道を渡ろうとしていた私に、乗用車に乗っていた、髪を逆立てた青年が、ガラス窓の向こうで口を大きく開いて通り過ぎた。「ばかやろーっ」。音にならない声が飛んできた。私は走り去る車に向かって、怒鳴り返したい気分に襲われた。
——オマエナンカ、シンジマエ!
私は目を閉じた。自分が、凶暴な殺人者になった気がした。何も考えてはいけない。気持ちを空っぽにするのだ。大丈夫。純一は、浮気なんか、してはいない。
ついこの間も、愛している、と私にいったじゃないか。
しかしどうして、彼はそんな言葉を口にしたのか。愛している、と口に出すのは、愛していないことを隠すためではないのか。
私は立ちどまって、息を整えた。
命令もしないのに動き続ける脳を冷凍庫に入れて、凍らせてしまいたい。そうすれば何も考えないでいられる。
「大丈夫ですか」
顔をあげると、銀色の髪をきれいに撫でつけた品のよさそうな男性が、心配そうに私を見ていた。夫よりも、この見ず知らずの初老の男のほうが、まだ私に近い存在に思えた。|溢《あふ》れそうになる涙をこらえて、私はいった。
「ええ、ありがとうございます」
私は、深く息を吸うと、お辞儀をして歩きだした。
純一の背中が、人混みの中でふらりふらりと揺れていた。彼は、私の前をゆっくりと歩いている。
夫のあとをつける妻。これでは、昼のメロドラマのヒロインそのものだ。きっと彼は、まっすぐに家に帰るだろう。そして私は、|安《あん》|堵《ど》と、疑ったことに対する恥ずかしさを覚えるに決まっている。
やめるのだ。こんなみっともない|真《ま》|似《ね》は。
自分自身にいい聞かせているのに、足はやはり夫の跡をつけている。どんよりとした曇りの日だった。西の雲の切れ間から覗く夕日が、|錆《さ》びたような柿色に光っていた。
待ち伏せをはじめて三日目だ。朝、その日の予定を聞いて、純一が、打合せや現場にいくために会社から外に出ないとわかれば、私は午後三時半頃、家を出る。そして『内田建設』の社員通用口の前にある喫茶店で、彼を待つのだ。六時まで待って、現れなければ、そのまま家に帰る。この二日間は、私が家に着いて二十分も経たないうちに、彼が帰ってきた。
しかし今日、彼は五時過ぎに会社を出てきたのだった。
自分が|嫉《しっ》|妬《と》に狂った妻の役目を演じているのはわかっている。しかし、どうしようもなかった。夫が浮気をしているのではないかという疑惑と戦いながら、どろどろとした嫉妬を胸に抱え、家でじっと彼の帰りを待っていることはできなかった。
純一は山手線に乗って新宿で降りた。ここから家までは、電車で一本だ。彼は寄り道せずに家に帰るはずだ。私は、祈るような気分で、純一の背中を見つめた。
彼は、京王線には乗り換えずに、西新宿の方向に出ていった。頭から血の気が引いていく。やはり誰かと待ち合わせているのだ。彼は、高層ビル群の下を東京都庁のほうに歩いていく。目標を定めた、しっかりした足どりだった。心臓が大きく収縮する。これから目撃するだろう光景のことを思うと、逃げだしたくなった。
世の中には、知らないほうがいいことがある。知ったばかりに後悔したことは、これまでにもたくさんあった。好きになった相手の心の内を聞いて、彼から友情以上のものを引きだせなかった時。親友だと思っていた人間が、自分の悪口をいっていたと知った時。大学時代の友人が万引きで捕まったことを知った時……。
愛しているからといって、相手のすべての面を知り尽くすことがいいとは限らない。相手の中の、見ていたい部分だけに目を開いているほうが、幸せに暮らしていける。
わかっているのだ、そんなことは。知らないのが、いちばん。知らなければ、悩みも、苦しみもない。しかし、人間とは、基本的にマゾヒスティックな生物なのかもしれない。知らないですますよりは、知って苦しむほうを選んでしまう。
灰色の城のような都庁の向こうに、中央公園が見えてきた。再開発の波は、緑に覆われた公園でかろうじて止まり、公園の背後には、低層の|煤《すす》けたビル群が肩を寄せあっている。その、古ぼけたマッチ箱を集めたような町並みと、高層ビルの立ち並ぶ未来都市との|狭《はざ》|間《ま》に、新しいビルが|聳《そび》えていた。半円形の白いビルで、下方はガラス張りの円形になっている。
純一は、そのビルの中に吸いこまれていった。ビルの入口の壁に青いプレートがある。『スペーシア』。加奈が、この名前のビルのことを話していたことを思いだしながら、私は入口の回転ドアをくぐった。
突然、緑の森に迷いこんだような錯覚を覚えて、足が止まった。背後で、ちっ、という舌打ちが聞こえて、続いて入ってきた男が通り過ぎていった。立ち止まった私にぶつかりそうになったのだ。私は、自分が悪いのに不快な気分になって、足早に去っていく男の背中を|睨《にら》みつけた。
それから気をとりなおして、ゆっくりと森に近づいていった。ガラスを隔てて、木々を植えた空間が作られている。植物園のようなその半円形の空間に沿って通路が続いている。通路の両端は森の向こうのエレベーターホールにつながっているようだった。
ガラスの壁には『サンクチュアリ』と書かれていた。この植物園の名前らしかった。緑の木々の間に、ちらりと純一の背中が見えた。私は慌ててガラスのドアを押して中に入っていった。
木の香りが私を包んだ。四、五階分はありそうなガラスの吹き抜けの中に、別世界が広がっていた。空調の風に緑の葉が揺れている。木々の間に赤レンガ敷きの散歩道が作られていた。あちこちにベンチも設けられている。ベンチに座って休む人、書類を抱えて通り過ぎる人、立ち話をしている人。サンクチュアリの中は、静かなざわめきに満ちている。純一は、林の中の散歩道に消えていくところだった。私は彼の後を追いかけた。
中は、かなり広かった。純一は小道に分け入り、人気のないほうに入っていく。|微《かす》かなざわめきも遠のいていく。ガラスの天井の向こうには、錆びた柿色の弱々しい夕焼けの空が広がっている。人里離れた森の中をさまよっている気がしてくる。
やがて純一は立ち止まった。彼の前に一本の木があった。ごつごつした幹が、老人が骨ばった両手を広げたように上に伸びている。枝には、深緑色の葉が繁っていた。
それは、虫送りの夢にでてきた木を思い出させた。炎に包まれて、燃えていた純一。彼の体の焼け爛れていく音が耳の底で響いた。そうだ、あれはこんな木の下だった。純一が炎の中で|悶《もだ》えていたのは。見れば見るほど、そっくりだ。その幹の曲がり方、葉の形……。背中に震えが走った。
しかし、これは夢ではない。ここは新宿の新しいビルの中。そして彼は、燃えてもいない。あたりには火の気もない。そう思い直すと、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
純一は静かに木に近づいていくと、幹を両手で包みこむように触り、体をもたせかけた。そして、そのまま動かなくなった。
私は彼の背後に忍び寄った。木には名前を書いた札がついていた。
『ニッポンタチバナ(橘) Citrus tachibana』。
橘。聞いたことのある名前だった。
純一は身動きひとつしないで、心地良さそうに、橘の幹に額をつけている。誰かを待っているようではない。彼は、浮気していたわけではなかったのだ。
ほっとしたと同時に、ここで何をしているのだろうという疑問が頭をもたげた。私は彼の肩に手をかけて揺すった。
「純一……」
彼の体は|芯《しん》を失ってしまったように、ぐねぐねと揺れた。純一の名を重ねて呼んだ。やはり返事はない。
どこからかいい香りが漂ってきた。レモネードのような爽やかな匂い。私は頭をあげた。橘の緑の葉が、|柑《かん》|橘《きつ》系の香りを放っている。
私は胸いっぱいに息を吸いこんだ。|爽《さわ》やかな芳香が、私の体を満たした。全身の血が清められるようだ。香りは血の成分となり、指の先、皮膚の表面にまで|滲《にじ》みわたっていく。胸の底にわだかまっていた、暗く濁った猜疑心の塊が消えていく。
私は微笑みながら純一を振り向いた。そして、血が逆流するのを感じた。
うつむいた純一の首筋に、薄い緑色のものが見えた。半透明のぬめぬめと光る粘膜に覆われたものが、彼の白い首から蠢きながら|這《は》い出してくる。海中のクラゲのように、それは緑の木々の中に透き通っていた。口らしい先端の小さな突起が、絶えず動いている。二つの青い目が見えた。
それは虫の頭だった。
純一の首筋から、粘液を引きずるように出てくる巨大な虫。頭を天に向け、空気を|嗅《か》ぐようにゆっくりと回している。口の上に二つついた触覚が、ぴくぴくと動いていた。
私はその場に凍りついた。|喉《のど》の奥で、いいようのない不快感が膨れあがり、息が詰まりそうだ。
黒い斑模様に覆われた虫の結節が、順番に、純一の体からこぼれ出る。ぼこり、ぼこり。結節が抜け出すたびに、音が聞こえる気がした。粘膜に包まれた結節が鈍く輝く。小さな突起のような足が次から次に現れる。外に出た虫の頭部は、純一の体を足場にして、橘に向かって頭を伸ばしていく。
虫の体はあまりに長く、永遠に純一から這い出し続けるように思えた。それは、純一の体から溢れる腸に似ていた。腐りかけて、あちこちに黒い死斑の浮きでた薄い緑色の巨大な腸。しかし、この腸は生きていた。生きている虫だった。虫は長い体の前半分を橘の幹に這わせながら、まだ下半身は、純一の体から出てこようともがいていた。
目の前の光景が理解できなかった。ただ、おぞましいことが起こっていることだけが、わかった。
永遠とも思える時間が過ぎ、虫の|尻《しり》がぷつりと純一の体から切れた。彼は、脱け殻のように、地面に崩れ落ちた。
私の喉からかすれ声がもれた。悲鳴をあげようとしたのか、泣こうとしたのか、自分でも定かではなかった。
私の声に気がついたのか、橘の幹に吸いついていた虫が、こちらに頭を向けた。虫の青い目が私を|捉《とら》えた。深く澄みきった湖のような、静けさをたたえた目だった。
虫は、長い上半身を、ゆらゆらと私の前にもたげてきた。
私は後ずさった。|膝《ひざ》が震え、足がもつれた。赤レンガの地面が、ゆっくりと目の前に迫ってくる。
倒れているのだ、と私は他人事のように思った。やがて赤いレンガの地面に、顔が叩きつけられた。下腹部に鈍い衝撃が走った。衝撃は鋭い痛みに変わり、私は悲鳴をあげた。
だが、その声は、はるか遠く、闇の彼方から聞こえてくるようだった。
七 章
目を開けると、クリーム色の天井が見えた。四角い埋め込み式の電気がついている。私は頭を巡らせた。隣にはスチールパイプの空のベッドがひとつ。白いカーテンの奥のガラス窓に、暗い曇天が広がっていた。今にも小雨が降りだしそうだ。遠くで医者を呼びだす放送が聞こえている。
病院だった。
どうして私がここにいるのか、すぐにはわからなかった。純一に知らせなくては、と思い、体を起こそうとした。そのとたん下腹部に鋭い痛みが走り、私は|呻《うめ》き声をあげた。
きれぎれの記憶が頭を|過《よぎ》った。腰から下を|鉈《なた》で断ち切られたような痛み、病院の長い通路、私の上にかがみこんで「大丈夫か」と叫んでいた白衣の医者と看護婦。それらが、スライドのようにパッパッと浮かんでは消えた。違う。これは、もっと後のことだ。その前に見たのは——。
私は、吐き気を覚えて目を閉じた。
虫だった。純一の首筋から、もぞもぞと|這《は》いだしてきた虫。ちょうど|林《りん》|檎《ご》に巣くっていた虫が、中身を食べ尽くして出てきたようだった。しかし、あれは本当に私が見たことだったのだろうか。あまりにも現実離れしている。幻覚に決まっている。
私は心の中で叫んだ。
あんなこと、あるはずはない。
ドアのノブの回る音がして、病室に誰かがはいってきた。私は目を見開いた。
「お母さん!」
弱々しい声しか出なかった。それで私は、自分が衰弱していることに気がついた。母は、私を見てほっとしたように、「目ぇ、覚めたんか?」と聞いた。
「どうして、ここにおるん」
母は、ハンドバッグをベッドの|裾《すそ》に置くと、脇の|椅子《いす》に腰かけた。
「あんたな……」
そして言葉を探すように、視線を宙にさまよわせた。いつも会うなり、ぽんぽんと言葉を繰りだしてくる母だった。嫌な予感を覚えて、私は母を見つめた。
母が思いきったようにいった。
「流産したんや」
一瞬、時が止まった。私をとり囲むすべてのものが色を失った。私は目を閉じて深呼吸した。「気分を落ち着けるには深呼吸が一番」。小学生の頃、習っていたピアノの先生の口癖だった。発表会で出番を前にした生徒の一人一人に同じことをいったものだ。私は、ゆっくりと目を開けた。時の流れも回りの色も、元に戻っていた。しかし、私の心は元通りにはならない。
下腹部に手をあててみた。まだ赤ちゃんがいるような気がした。今まで私のお腹の中で動きながら、ここにいるよ、と主張していた生命。それが消えてしまったとは信じられなかった。
母は、私に何かいわれるのを怖がっているかのように、一気に|喋《しゃべ》りはじめた。
「いや、もうたまげたわ。夕べのこと、多田のお義母さんから電話、もろうたんや。あんたが病院に担ぎこまれたゆうて。そいで今朝、一番の新幹線で駆けつけたんやけど、もうみぃんな、終わった後やったわ。多田のお義母さんと、純一さん、一晩中あんたの側についてはったんやで。私がここに着いた時は、純一さんは仕事があるゆうて家に服を着替えに帰らはって、多田のお義母さんしかいてはらへんかったけどな。それから私が交代して、ここに残っとったんや」
私は母を遮って聞いた。
「赤ちゃん、女やったの、男やったの?」
母は苦しそうな表情で、知らへん、と答えた。むきになった私が、それなら担当の島元医師に聞くというと、母は首を横に振った。
「ここ、あんたの通うてたとこやあらへんし。伊東病院ゆうとこ。新宿の救急病院やて聞いたけど」
新宿。その地名に、また昨日の出来事が悪夢のように|蘇《よみがえ》ってきた。まさに悪夢だった。私は、スペーシアに入った時から、夢を見ているのかもしれない。ぱん、と手を|叩《たた》けば、催眠術にかかった患者のように目が覚める。
ぱんっ。ほら、目が覚めた。
涙がこみあげてきた。目など覚めるはずはない。これが現実なのだから。
母がハンカチで涙を拭いてくれた。
「ええがな。また子供作りなはれ。それでええがな。泣くことない」
何もかも忘れてしまいたかった。子供のことも、サンクチュアリでのことも。時間を一月前に戻したい。私の妊娠がわかる前、私が会社を辞める前、純一が変わってしまう前に。
虫。虫送りの夢。純一の中の虫。虫に関することが多すぎる。いったい、いつから私たちの生活に虫がはいりこんできたのだろう。
|啓《けい》|蟄《ちつ》の日。
突然、天の啓示のように頭に|閃《ひらめ》いた。あれは、純一が静岡から帰った日、テレビに映ったアフリカの老女が、祖母に見えた日。
——虫が起きた——
彼女は確かそういった。そして、次の日曜日、電気店のテレビにも祖母は現れた。あの時は何といったのだろう。
少しずつ、頭の片隅に追いやっていた記憶が浮かびあがってきた。
——虫がいる——
テレビ画面に映った二十人の祖母がこういったのだ。
祖母と虫。何か関係があるのだろうか。
「おばあちゃん、どんな人やったの?」
突然、祖母のことをいいだされて、母はきょとんとした顔になった。|太秦《うずまさ》に住んでいた祖母のことだとつけ加えると、母はますます戸惑ったようだった。しかし、流産の話以外なら、何でも嬉しかったに違いない。喜々として喋りだした。
「そら、きついお人どしたえ。孫のあんたには優しかったみたいやけど、私ら嫁には怖い|姑《しゅうとめ》でな。かなわんかったんは、迷信深いゆうところ。これこれ、ひとのまわりを三遍回ったらあきまへん。回られた人に災いが降りかかります。いや、目疣ができたんやって。ほな、井戸ん中へ小豆を三粒放りこみなはれ。きれいに治ります。今日は|三《さん》|隣《りん》|亡《ぼう》や、何もしたらあきまへん、ゆう具合で、毎日、毎日、気の休まる日ぃ、あらしまへん」
私は思わず笑いを浮かべた。
母は生来の話し上手だ。どんなことでも楽しい話にしてしまう。またそれが、小さな洋装品店を、四階建てビルのブティックにまで大きくしてこれた|秘《ひ》|訣《けつ》でもあった。
「私もようは知らへんけど、お義母さんの家は、代々続いとった大きい養蚕農家やったらしゅうて、お義母さんも小さい頃は、おんば日傘で育たはったらしいんや。せやけど、お義母さんのお父さんが、他の事業に手ぇだしはって、借金のかたに桑畑を売ってしもうてな。結局、養蚕では食べていけへんようになったんや。ほいで、お義父さんを婿養子に迎えて、今度は服地屋をはじめはったらしいな」
店を継いだのは、祖父の長男、伯父だった。伯父は、最初の頃こそ一生懸命、稼業に精をだしたが、性格に合わなかったのか、まもなく傾きかかった店を弟である私の父に譲った。そして自分は、代わりに太秦の家を受け継いで、会社員になってしまった。父は、京都の伏見の米屋に生まれた母と結婚して、服地屋を洋装品店に変えた。母のファッションセンスに|賭《か》けたのだ。私がそういうと、母は、大きな声で華やかに笑った。ふくよかな体からは、生気が|溢《あふ》れていた。
|頬《ほお》|骨《ぼね》の高く、きつい顔立ちの私と、白い|大《だい》|福《ふく》|餠《もち》のような丸顔の母とは、少しも似ていない親子だった。母に似ているのは妹だ。子供の頃はひがんだものだ。忙しい母が時間を割いてでも、遊びや買物につきあうのは、いつも妹。母と妹は気があった。
私は太秦の祖母に似ていた。嫁に対しては女帝のように君臨していた、頬骨の高い、きつい顔つきの老女に。だからこそ、母は私を祖母の家に預けっ放しにしていても気にはならなかったのだ。
「おばあちゃん、私が小学校の時に死なはったんよね」
母は顔を|歪《ゆが》めて「むごい死に方どしたえ」といった。私は驚いて聞き返した。
「肺炎じゃなかったの?」
「あんたらには、そうゆうてたけどな……」
母は意味あり気に答えた。
「何やの」
「川魚、食べはったんや。その魚に寄生虫がおってな、それが体に卵、産みつけて……。解剖しはったお医者さんが、お腹の中、虫だらけやったゆうて……」
吐き気がこみあげてきて、私は掛け布団の中に顔を埋めた。母が困ったようにいった。
「いや、かんにんな。けったいなことゆうて。あの後、私かてしばらく川魚、食べられへんかったくらいやもんな」
また虫だ。祖母の体を|喰《く》った虫。純一の体を喰っている虫。私のまわりは虫だらけだ。
「あっ、純一さん」
母の明るい声が聞こえた。布団から顔をあげると、純一が病室の入口に立っていた。ひょろりとしたその姿は、長い虫が半身を起こしているようだった。再びサンクチュアリでの悪夢が蘇ってきた。
私は息を詰めて、純一を見つめた。
彼はベッドに身をかがめて聞いた。
「大丈夫、めぐみ?」
優しい声だった。私のことを気遣ってくれているのがわかった。しかし、その声はかえって私を落ち着かなくさせた。
以前、駅の階段から滑り落ちて、骨折したことがある。その時、病室に現れた彼は、からかい口調でいったものだ。「駅でスキーでもしたの」。自分の妻への気遣いをあからさまに表現するような彼ではなかった。
この優しい声は、あの虫が出しているのかもしれない。ふと思って、我ながらその考えにぞっとした。
母が椅子から立ちあがった。
「ここに座っとくれやす」
辞退する純一に、飲み物を買ってくるからといって、母は病室から出ていった。気をきかせたつもりらしかった。しかし私は、むしろ母に居てもらいたかった。引き止める言葉が|喉《のど》|元《もと》まで出かかった。だが、私が声を出す前に、病室のドアは閉まっていた。
純一は、母の座っていた椅子に腰をおろして、何といっていいかわからないらしく、気弱に笑いかけた。私は素直に笑い返せなかった。これは純一だ。虫なんかではない。自分にそういい聞かせた。そうしないと、今にも彼が、あの巨大な虫に変わってしまう気がした。
「どこも痛いところはない?」
純一が聞いた。再び、優しすぎるほどに優しい声。私は体を硬くした。
「ええ、ちょっとお腹が痛むけど」
口に出していってみると、そこにいた赤ちゃんのことを思いだした。私の顔が歪んだ。
彼が私の気持ちを察していった。
「子供のこと……、気にするなよ」
いったい、どうしてこんなことに、と私は|呟《つぶや》いた。倒れたせいだと、純一が医者の言葉を伝えた。
「スペーシアでだよ。気を失って倒れていたんだ。なぜ、あんなところにいたの?」
他でもない、彼のせいではないか。怒りが、こみあげてきた。
「あなたの後をつけていたのよ。このところ五時なんて早い時間に退社してるって聞いたから、浮気でもしているんじゃないかと思ったの」
私は身構えるように、彼の顔を見あげた。きっと怒りだすと思った。妻に尾行されて、喜ぶ夫はいない。
しかし純一は平静だった。「そうだったのか」といっただけだった。きっと私が、夫を殺そうとして待ち伏せしていたといっても、同じように平静だったに違いない。
「あそこには、いつも行くの?」
「スペーシア?」
私は|頷《うなず》いた。純一は、ぼんやりした顔を窓の外に向けた。灰色に曇った空の下に、新宿の町並みが続いている。もうネオンが瞬きはじめていた。
「ああ、そうだな……。よく行くかな」
「どうして、あんなところに」
純一は、無意識に手の甲を|爪《つめ》の先で|掻《か》きながら答えた。
「さあ……どうしてだろう。……最初は、仕事の打合せであのビルに行ったんだ。その時、サンクチュアリに入って、いいところだなと思った。それから家に帰る前に、自然と足があそこに向いてしまうようになった。……自分でもどうしてだかわからないけど」
自分の理由のない行動に、何の疑問も抱いてない口ぶりだった。私は割れきれないものを感じた。ここに男が一人いる。会社に勤める、普通のサラリーマンだ。その男が突然、会社を早退して木を見に行くようになる。その理由は、これといってないという。浮気をしているといわれたほうが、まだわかりやすい。彼は何かを隠しているのだろうか。
私は心の底を針のように突き刺す、|苛《いら》|々《いら》した気分を押さえながら聞いた。
「あそこで何をしていたの?」
純一は首を|傾《かし》げて、ただくつろいでいただけだと答えた。
私は、こらえきれなくなって叫んだ。
「違うわよ。あなたは、あの橘の木に抱きついていたのよ。様子が変だったわ」
純一は|眉《まゆ》をひそめた。そして、ゆっくりと首を横にふった。
「いいや。俺は、昨日、サンクチュアリの中を散歩していただけだよ。とても気持ちがよかった。橘の前に行ったのは覚えている。俺は、あの木が好きなんだ。胸いっぱいに木の香りを吸いこんでいた。そしたら……急に後で悲鳴が聞こえたんだ。振り返ると、めぐみが倒れていた。俺は驚いてガードマンを呼んで、二人でおまえをタクシーに乗せて、病院に駆けこんだんだ」
虫の話はひとつも出てこない。
そう思って、おかしくなった。出てこなくて当然だ。あれは幻覚だったのだ。事実は、純一がいう通りなのだろう。
私は、彼の様子を眺めているうちに、倒れてしまった。
純一が、橘の木に抱きついていたのも幻覚。
彼の首筋から、虫がでてきたのも幻覚。
しかし、私の流産は現実だ。
胸に重い鉄の玉を打ちつけられたように、ずしんと痛みが響いた。
私は深呼吸した。鼻の奥がつんとなった。純一は、私の髪を|撫《な》ぜた。
「もう過ぎたことだよ。忘れるんだ」
白っぽい蛍光灯に照らされて、清潔な四角い天井が見えた。どこにも不可解な影はない。恐ろしい幻覚なぞ、はいりこむ|隙《すき》のない病室だった。
忘れようと思った。妊娠していたことも、純一の虫のことも、流産したことも。すべてを忘れるのだ。私は、そう決心した。
看護婦が来て、面会時間の終わりを告げた。
「今はとにかく、ゆっくり休むことだ」
純一は別れのキスをしようと、私にかがみこんだ。彼の黒い瞳の奥に、青い光を見たような気がした。あの虫の青い目を思いだして、私はとっさに顔を背けた。純一は、キスをやめて体を起こした。
忘れようと決めたのに。後悔と自分に対する腹立ちを覚えながら、彼を|見《み》|遣《や》った。しかし彼の顔には、拒絶された怒りはなかった。ただ静かに、私を見おろしているだけだ。
これが本当に純一なのだろうか。私の知っている純一なら、怒りを抑えきれないはずだ。唇の右端をつり上げて、「こんなに心配させた癖に、お姫様は、ご機嫌斜めってわけか」などと、皮肉のひとつもいっただろう。
そう、私の知っていた純一なら……。
あの純一は、もうここにはいない。
私の目から涙がこぼれた。彼が指の先で、それを|拭《ぬぐ》ってくれた。
「泣くことはないよ」
私は枕に顔を埋めると、頭を横に振った。
彼は、それ以上、何もいわなかった。ぱたん。病室のドアの閉まる音が響いた。
ドアを開けると、鮮やかな紫色の|花菖蒲《はなしょうぶ》が目に飛びこんできた。私は息を|呑《の》んだ。
「はい、プレゼント」
花の後ろから、加奈が顔をだした。
「ああ、きれい。ありがとう」
私は花束を抱えると、加奈を家に通した。彼女は、首に巻いた薄いブルーのスカーフをほどきながらはいってきた。
「花が|萎《しお》れたら、葉は菖蒲湯にするといいわよ。体が温まるから。あんなことの後は、特に体を大事にしないといけないんですってね」
あんなこと、などと気を遣っていってくれなくていいのにと思いながら、私は加奈の連休の予定を聞いた。彼女は、台所の椅子に腰かけて、つまらなそうにいった。
「それがさ、彼が急にやりたい仕事がはいったからって、予定は全部、お流れ。私は暇を持て余して、毎日スタジオで写真の整理よ」
「あら、気の毒なゴールデンウィーク」
「お互いさまじゃない。めぐみだって、家で療養中でしょ。どう体の調子は」
「おかげさまで、もう、ほとんどいいわ。ちょっと疲れやすい気はするけど」
「それじゃ早いとこ、次の子供をつくらなくちゃね」
励ますようにいった加奈に、私は、そうね、と素っ気なく返事した。誰もが次の子供をつくればいいとなぐさめてくれる。その度に、自分が子供製造機のような気分になる。これがだめなら、次がある。生きている人間は、そう思える。しかし、たった一度の、この世に生まれる機会を逃してしまった子は、何と考えるだろう。忘れようとすればするほど、私の中から滑り落ちた生命が主張しているのがわかる。自分はどうなるのだ、と。