加奈が家を見回して、純一のことを尋ねた。彼は、日野の実家に呼ばれて帰っていた。私も誘われていたが、加奈が来ることを口実にして行かなかったのだ。義母や義姉に、流産のことでとやかくいわれるのは苦痛だった。
加奈は、純一が不在だと知って、くつろいだ顔をした。加奈は、純一のことを、私の背中のリュックサックと見なしている。私が背負っている限り、加奈は何ともいわないが、心の底では、重いからおろせばいいと思っている。もし自分がそのリュックを背負うはめになれば、さっさと道端に投げ捨てるだろう。
結婚する前、加奈が私に、なぜ、あんな偽善者とつきあうのかと聞いたことがある。彼女は正しかった。当時の私は、彼のものわかりのよい言動を、知性の現れだと思っていた。それがただの仮面だったと気がついたのは、ずっと後だった。しかし私にいわせると、浅川もまた、なかなかの偽善者だ。無口で、男っぽいというポーズをとっている。
お互い、背負ったリュックの不格好さだけはよくわかるのだ。私もまた、加奈の、浅川というリュックを背負うはめになったら、道端に放りだしてしまうに違いない。結局、女友達にとって、相手の夫や恋人とはそんなものだ。本質的には、友達同士で一緒に山に登ったり、野を歩いたりできればいい。付随物はそれぞれで管理していれば問題はないのだ。
私は冷蔵庫を開けて、作りおきのアイスティーを取りだした。クッキーを添えて持っていくと、加奈はテレビの前に立って、しげしげと見ていた。
「そのテレビ、この前、買ったばかりなの」
テーブルの上にお盆を置いて、私は加奈の隣に立った。
「かっこいいじゃない」
加奈は腕を組んでいってから、「あら、これなに?」と、隣の食器棚に置かれていた石の器を取りあげた。
「石の小物入れよ。純一が静岡で拾ってきたものなのよ。けっこう古いものらしいわ」
加奈は興味をそそられたように、椅子に座って、石の器を眺めはじめた。私は自分の分のアイスティーを飲みながら、加奈の様子をぼんやりと見ていた。
「何か文字が書いてある」
加奈がいった。
「木の模様じゃないの?」
その木の模様が文字になっているのだと、加奈は興奮したように答えて、石の器を電灯の光にかざした。私も横から|覗《のぞ》きこんだ。木の枝と思っていた模様だが、そういわれれば、文字らしくも見える。しかし表面に彫られた溝は、長い年月にさらされて薄くなっている。木の模様と、後でついたようなひっかき傷とを区別することすら難しい。
「うーん。おもしろいわねぇ」
加奈が|唸《うな》るようにいった。
この石の器もまた、啓蟄の日に、家にはいりこんできたのだ。考えてみれば、私は、この石の器のことを不思議に思っていたのだった。まず、石を置いていたテレビが壊れた。次に石を動かした先にあったステレオの調子がおかしくなった。最後に、石の横に置いていた時計が遅れたのだ。
私は、テーブルの上の丸い時計を見た。三時二十分。ビデオの時計と同じ時間を指していた。もう遅れてはいない。このところ何も問題は起きてないのは、電気製品のない食器棚に置かれていたせいなのかもしれない。
この石の器に、何かがあるのだろうか。電気製品の調子を狂わせる不思議な力が。そういえば、テレビを届けにきたカヤという青年も、妙なことをいっていた。
「写真に撮れば、読めるかもしれないよ」
加奈の声に、私は、はっとした。
「なんの話?」
「この石の模様に、斜めから照明をあてて、溝の影を出すの。肉眼で見るよりも、被写体のおうとつがわかるものよ」
私は、ぜひ写真に撮ってくれと頼んだ。加奈は、二つ返事で引き受けてくれた。
「ちゃんと料金は払うから」
石の器の中に入れていた装身具類を取り出して、加奈に渡しながらいった。
「水臭いなぁ、お金なんかいいよ」
「でも忙しいのに悪いわ」
「じゃあ個展を開いたら、私の写真、買ってくれるってのは?」
「いいわよ。いつ開くの?」
加奈はバッグに石の器を入れながら、来年の春あたりだと答えた。
「浅川さんと?」
加奈は幸せそうに頷いた。
味のある人だと、あたりさわりのない言葉で、私は浅川を|誉《ほ》めた。
「味はあっても、金がねぇ。気にいらない仕事は引き受けないで、好きな写真ばかり撮ってるから、困りものね。先々思いやられるわ」
加奈は、ちっとも困ってないような顔でいってから、急に真顔になって私に向き直った。
「ねえ、めぐみ、これからどうするつもり?」
私は、その意味がわからずに、加奈の顔を見返した。
「専業主婦におさまるの?」
何も考えてはいなかった。私はクッキーをポリッと|齧《かじ》った。そして、わからないと答えた。退院して一週間しか経ってなかった。自分の傷をなめるのに一生懸命で、まだこれから先があることなど忘れていた。
「いつまでも、家でくよくよしててもしょうがないよ。また働きにでたら?」
「そうねぇ。公務員試験でも受けて、公立の図書館にでも勤めてみようかなぁ」
私は無理して明るい声を出すと、背中を椅子の背に押しつけて、伸びをした。がたん、と音をたてて、下腹部がテーブルにあたった。無意識に下腹部を守るように手が伸びた。私は苦笑いを浮かべた。
「不思議ね。まだ赤ちゃんがいるみたい……」
悲しみは、それを忘れた時を見計らって、襲いかかってくる。不意を突かれて、泣きだしそうになった。加奈が私の腕に触った。
「そうだ、めぐみ。夏になったら、大島あたりに行かない? 船に乗ってさ、ちょっとしたクルージングよ」
私は笑った。
「ただのフェリーでしょ」
「覚えてる? 大学の夏休みに、二人で船に乗って北海道に行った時のこと。あんた、船酔いでげえげえ、やっててさ」
「覚えてるわよ。私が苦しんでるってのに、加奈は、船で一緒になった大学生の男の子とべったりしててね」
加奈は口を|尖《とが》らせた。
「そんなことないよ。彼が船酔いにいい薬持ってるっていうから、頼んでたのよ」
「それが、ただのウイスキーのストレートだったんだものね」
私たちは大きな声で笑いだした。そして、ひとしきり昔の話に花を咲かせた。
やがて加奈は、新宿で人と会う約束があるからと立ちあがった。今度、カナダに出張があるという。私が|羨《うらや》ましがると、彼女は、つまらなそうな顔をした。浅川と離れることになるので、気が進まないようだった。
玄関口に立った時、加奈は真顔でいった。
「何かあったら、いつでも相談してね」
私は頷いた。やっぱり友達だ。胸に暖かいものが広がった。一人で落ち込んでいる必要はないのだ。ここに手を差し延べてくれる人間がいる。私のことを気にかけて、考えてくれる人がここに……。
その時だった。私の思考に、突然、冷たい風が流れこんできた。加奈の友情に対して抱いた、胸にせりあがるような熱い感情が、かき消えてしまった。
まるで燃えかけた炎が、誰かの息でふっと吹き消されたようだった。
何だろう……。
私は、|呆《ぼう》|然《ぜん》として自分の心を探った。心の中に異質なものの息吹を感じた気がした。
「それじゃあ、またね」
加奈が玄関の戸を開けた。生暖かい風が家の中に吹きこんできた。
私は我に返って、|微笑《ほ ほ え》んだ。
「来てくれて、ありがとう」
そして心に浮かんだ疑問は、初夏の風と一緒に家の奥へと流されていった。
八 章
白い煙が頼りなげに立ち昇っていた。|闇《やみ》の中に、ぼうっと浮かびあがる|橘《たちばな》の木に、煙が絡みつく。まるで体を|捩《よじ》らせて泣く亡霊のようだ。
くすぶり続ける赤い|燠《おき》|火《び》を囲む男たちが、青白く無表情な顔で、煙の流れる方向をじっと見つめている。風に乗った煙は、闇の果てまで続く一本道の彼方に消えていく。
私は人の輪から離れて、煙を見送っていた。隣にはおばあちゃんがいた。その顔の表情もまた凍りつき、顔を縁取る白髪は、煙のように風になびいて舞いあがる。
私は、おばあちゃんに聞いた。
虫、どこに行ったの。
おばあちゃんは、煙のたなびく空の彼方を指さした。
あの世どすがな。
あの世?
そうとも。この世からあの世へ。
低い男の声がした。
私は驚いて、おばあちゃんの顔を見た。
おばあちゃんは私を見返した。その青白い顔の真ん中に、ぽつんと白い穴があいた。穴は、音もなくじわじわと広がっていき、やがて、おばあちゃんの顔だけでなく、まわりの景色までも浸食しはじめた。まるで古い写真が|紙《し》|魚《み》に食べられて、崩れていくようだ。
私は叫び声をあげて後ずさった。
周りの橘の木も、男たちの姿にも、どこもかしこも穴がぽつぽつとあいている。私の腕にも、ぽつんと穴があいて、見る見るうちに広がっていった。私の肩が、胸が腰が|蝕《むしば》まれていく。穴の向こうに、霧のような色の空虚な空間が現れた。周囲の景色は、見えない力によって浸食され、崩壊していく。
おばあちゃんの耳のかけら、男の指、橘の緑の葉、夜の断片、煙の一筋……。景色の切れ端が、薄明の空間に浮かんでいる。しかし、それすらも写真の最後の一片が虫に食べられるように、次第に消えていく……。
私は目をあけた。頭の上では、電気が|煌《こう》|々《こう》と|灯《とも》っている。
『中国政府が国連の調停案を拒絶したため、和平交渉は暗礁に乗りあげました』
テレビが七時のニュースを流していた。私はテレビの前のソファに座っていた。
夢を見ていたのだ。
しかし、何という夢だろう。突然、夢の中の光景がきれぎれになり、消えていくとは。私はまだ覚めきらない頭で思った。
どこからか焦げ臭い匂いが漂ってきた。はっとして起きあがると、ガスレンジの上でシチューが焦げついていた。
その夜の食事は、黒ずんだミートボール・シチューだった。しかし純一は、焦げ|滓《かす》の浮いたシチューを文句もいわずに食べはじめた。皿の上にかがみこんで、スプーンでシチューを|啜《すす》る。唇を突き出すようにして、舌をちろちろと出して、ずずずっ、と音をたてて汁を飲む。一息ごとに、頭をわずかに上下に振り、|喉《のど》を伸びあがらせる。その姿は、頭をもたげた虫を連想させた。
私は軽く目を閉じた。
そんなことを考えてはいけない。
だが、忘れようと思っているのに、心にかぶせた|蓋《ふた》の下から絶えず|這《は》いだしてくる、サンクチュアリで見た虫の姿。それが純一とだぶって見える。
私は、純一の前にアスパラガスとトマトのサラダの皿を押しやった。彼がサラダに|箸《はし》を伸ばした。虫の印象が消え去った。
私たちは、しばらく黙って食事をしていた。テレビの音が、二人の間に横たわる沈黙を埋めてくれる。
私は、何気ないふりをして口を開いた。
「また仕事に出ようかしら」
加奈にいわれて、考えはじめたことだった。純一の考えを聞きたかったのだ。
しかし、彼は顔もあげずに、そうかい、と|呟《つぶや》いただけだった。
「で、純一はどう思うの」
私は、しつこく|訊《たず》ねた。彼はちらりと顔をあげて、「いいんじゃないの」と|応《こた》えた。
探している文字が辞書に見つからないような、もどかしさを覚えた。そんな返事を求めたわけではなかった。
「で、また妊娠したら、仕事を辞めろというの?」
「好きにしたらいいだろう」
私は口に運ぼうとしていたスプーンを下に置いた。カチャッと音がして、茶褐色のソースがテーブルに飛び散った。
「子供が大きくなるまでは、母親が育てて欲しいといったのは、純一でしょ」
思わず声が大きくなった。純一は眼鏡の奥の目を見開いた。今夜はじめて見る、生き生きした仕種だった。
「そうだったっけ」
「忘れたの?」
私は低い声で聞いた。気味悪さが、背筋を這いあがってきた。私の目の前にいるのは、本当に純一なのだろうか。虫の形をした人間なのではないだろうか。
純一は、そんなことをいった気もする、と|曖《あい》|昧《まい》に答えた。
「考えを変えたのね」
私は断定的にいった。そんなことをいった記憶はない、というよりは、意見を変えたといわれるほうが、まだましだった。純一は「そうなるかなぁ」と無責任に呟くと、テレビのドラマ番組に視線を移した。
私は、再びスプーンを取りあげてシチューを啜りながら、上目遣いに彼の青白い顔を見た。少し太って|頬《ほお》が|弛《ゆる》んだせいか、顔つきが変わったように思える。私が妊娠した時には、あれほど母親が家にいることにこだわった純一だった。今更、何をいいだすのだ、と詰め寄りたい気がした。
「それじゃあ、私の好きにするわ」
私は、ぶっきらぼうにいった。純一は、どうでもいいという風に軽く|頷《うなず》いた。
私たちは、誰かに手繰られている人形のようだった。口をぱくぱく開いて、言葉を交わしているだけ。その会話の中に、感情のぶつかりあいも、触れ合いもない。こんなことはもうたくさんだと、叫びたくなった。テーブルをひっくり返して、泣きわめく自分の姿が頭に浮かんだ。そして私は無言のうちに、その想像の馬鹿ばかしさを|嗤《わら》った。
純一がスプーンを置いた。シチューを食べ終わっていた。
「おかわり、どう?」
純一は首を横に振った。
「じゃあ、サラダは?」
といってから、ほとんど私が自分で食べてしまったことに気がついた。
「ごめんなさい、また作るわ」
「いいよ。お腹いっぱいだ」
彼は席を立ってソファに座ると、夕刊を読みはじめた。後片づけをしながら、ふと彼を見ると、白い首筋が目にはいった。私は顔を背けた。
あの巨大な虫は、彼の首筋から這い出てきたのだ。いかにあれは幻覚だと思っても、未だに、私は彼の首筋を直視できない。目に触れるたびに、鳥肌が立ちそうになる。
しかし、退院してもう三週間は過ぎている。いつまでも自分の幻覚を引きずっていてはいけない。このままでは、二人の間の溝は深まるばかりだ。今、何とかしないと、取りかえしのつかないことになってしまう。
私は皿を洗い終わると、|布《ふ》|巾《きん》で丁寧に手を拭いた。そしてソファに歩いていくと、純一の横に座った。
「私、疲れているみたい」
「あんなことがあったんだ。無理ないよ」
純一は夕刊から顔をあげて、|微笑《ほ ほ え》んだ。私は彼の首筋に目を|遣《や》って、さっと|逸《そ》らした。
「……そうね。気分転換が必要みたい」
彼は、どこかに行こうかと誘った。
「いいわね。ゆっくり温泉にでも行きたいわ」
少し気分が軽くなった。そうだ、温泉にでも行ってゆっくりすれば、私にとり|憑《つ》いている虫の幻想も消えるはずだ。
「いつ行く?」
純一は、眼鏡を上にずらして、鼻梁をもんだ。
「もう少しで、仕事が一段落するから、その時にしよう。夏前には行けるよ」
私は探るように、仕事は忙しいのかと聞いた。彼は、まあまあだと答えた。
今も、彼は早く帰宅している。入院中も退院後も、かつての同僚から何もいってこないことを考えると、彼は、私の流産のことを会社ではいってないようだった。ありがたいと思う半面、同僚との不仲を物語っている気がした。
「仕事のことで、他の人に恨まれたりしないでね」
冗談めかしていった私の言葉をどうとったかはわからなかったが、純一は「大丈夫さ」と請け合ってみせた。そして温泉の話を蒸し返して、行く場所を考えておくと約束した。
私たちはソファに並んで、テレビの画面に顔を向けた。
そこではホームドラマが進行中だった。赤ん坊を抱いた母親が海の見える土手を歩いていた。顔見知りに|挨《あい》|拶《さつ》しながら、嬉しそうな顔で、散歩する若い母親。通りすがりの人が目を細めて眺めている。
流産しなければ、私もああして子供をあやしていただろう。小さな体を胸に抱いて、一緒に笑っていたはずだ。
でも、あの子は死んでしまった。もう、この世にはいない……。
その時、お腹の中で何かが動いたような気がした。私は、はっとして、自分の下腹部を見下ろした。クリーム色のワンピースの下で、腹部が動いている。呼吸に合わせて、上下しているだけだった。
私は、体の力を抜いた。
気のせいだ。赤ちゃんは、もうこの体の中にはいないのだ。
だが、心の底には、まだ気味の悪さがわだかまっていた。内側から|叩《たた》かれたような、あの感じが、まざまざと残っている。まるで死んだ赤ちゃんが、自分の存在を忘れるな、といっているような胎動が……。
私はソファの背もたれに、体を沈ませた。
未練たらしく、まだ赤ちゃんのことを考えている自分が情けなかった。私は下腹部を見ないように、再びテレビに目を遣った。
画面の母子は、いつか海辺の砂浜を歩いていた。母親が子守歌を口ずさんでいる。
ねんねんころりよ、おころりよ。
ぼうやはいい子だ、ねんねしな。
そうだ。私の赤ちゃん。いい子だから、眠るのだ。死の世界で安らかに眠っておくれ。生きているふりをして、私をもう悩まさないで……。
「……おい、めぐみ。めぐみっ」
肩を揺すられて、目を開けた。
「こんなところで寝るんだったら、ベッドに行ったほうがいいよ」
私はいつか彼の肩に頭を乗せていた。
「いやだ、私、寝てないわよ」
そういいながら、|瞼《まぶた》を手でこすった。頭の|芯《しん》がぼうっとしている。本当に眠っていたのかもしれない、と思った。
純一は、なだめるようにいった。
「寝ていたよ。最近、めぐみ、やけに眠そうだよ。まだ体力が回復していないんだろう」
私は不承不承、頷いた。実際、彼のいう通りだった。朝、なかなか起きれないし、家事の合間にも居眠りするようになっている。
時計を見ると、まだ九時半だったが、私はソファから立ちあがった。
「純一は?」
彼はテレビに目を注いだまま、首を横に振った。細い体がブラウン管のほうに伸びている。繊毛のような柔らかな茶色の髪。眼鏡の奥の二つの目が、一瞬、青くきらめいた。サンクチュアリで見た巨大な虫の目が、頭に|蘇《よみがえ》った。
私は奥歯を|噛《か》みしめた。
彼が虫のはずはない!
心の中で叫びながら、もう一度、彼を見直した。青い海を映すテレビの映像が、眼鏡に反射していただけだった。
私は|痙《けい》|攣《れん》に似た笑みを彼に送った。
「おやすみなさい」
純一はテレビから顔をあげると、静かな声で、おやすみ、と|応《こた》えた。
私は寝室のドアをきっちりと閉めると、パジャマに着替えてベッドにもぐりこんだ。
これ以上、夫と向かいあっていないですむのはありがたかった。起きていれば、虫の幻想が夫と重なり、私の心を|苛《さいな》むだけだ。
目を閉じると、すぐに眠気に襲われた。夢ひとつない眠りが、甘い香りを漂わせながら、優しく私を包みこんだ。
九 章
灰色の空から、とめどなく雨粒が落ちてくる。道を歩く人々は、雨傘の下で|眉《まゆ》をひそめ、恨めしそうに天を仰いでいる。
私は、銀行のキャッシュコーナーのガラス窓越しに外を見ていた。ガラスについた水滴が筋になって伝わっていく。一つの筋が消えると、次の筋が現れる。それは綿々と続く時の流れを思わせた。
私の生活は、妊娠していた頃と何の変わりもなく過ぎていた。朝、純一を送りだしてから、掃除と洗濯をして、新聞や雑誌を読み、テレビを見る。そして午後になると、近所の商店街に買物に出かける。純一は、いつも八時半頃帰ってくる。彼が五時に退社しているのかどうかは、もう知りたいとも思わない。浮気はしていそうもなかったし、興味もなくなっていた。私の|嫉《しっ》|妬《と》|心《しん》は、胎児と共に体内から流れ落ちてしまった。
以前は、この生活も子供が生まれるまでの一時的なものだと思っていた。今は、いつでも終わりを告げられるかわりに、いつまでも続けられる。また仕事にでようかと迷ううちに、いたずらに日が過ぎてゆく。
決められないのだ。新しい仕事を見つけて、働きにでる決心も、家で主婦を続ける決心もつかない。何もかも面倒な気がした。面倒なままに人生が過ぎていく。それでいいのかもしれない、と思った。これをやりたいということもなかったし、かといって子育てに専念したいという情熱も|湧《わ》かなかった。
私が失ったのは子供ではなく、人生を刻む時計の針だった。人生の目標を失ったというのはおおげさすぎる。ただ昨日と今日の境目をどうつけていいか、わからない。|茫《ぼう》|然《ぜん》と時の過ぎるのを眺めている間に、私は空白の空間に沈んでいく……。
|苛《いら》|々《いら》と肩を|叩《たた》かれた。見ると、後の女性が険のある顔つきで、私の前を指さしている。列の間に隙間ができていた。私は一歩、進んだ。私の後の人たちが、ぞろぞろと前に移動した。
月曜日だった。キャッシング・マシンの前には長蛇の列ができていた。週末に金を使い果たしてしまった人々が、空の財布を抱えて並んでいる。誰もが、神経質そうな表情で、機械の前で手続きをしている人の手元を見ている。少しでももたつくと、その人の背中に非難の視線が集中した。
雨のせいか銀行の中の空気は、湿気がこもっていた。水蒸気の中に、眠りの精のまく粉でもはいっているかのように、重い眠気に包まれた。
誰かが肩をぶつけるようにして、私の横を通り過ぎた。はっとして目を開けると、私は行列の一番前にきていた。空いた機械に、後にいた女性がカードを差しこんでいるところだった。割りこまれたのだ。怒る気力もなかった。ただ体がだるく、息をするのすら面倒だった。私は、肩からずり落ちそうになったバッグを揺すりあげた。
ひとつの機械が空いた。私は前に進むと、カードを差しこんだ。
現金をおろすと、次は電話料金の払いこみが残っていた。受付待ちの番号札を機械から引きぬいた。二百四十九番。窓口には、現在の受付番号の、二百三十五という数字がでていた。しばらく待たないといけない。どちらにしろ、家に帰っても、やることなぞなかった。私は銀行のソファに腰をおろした。
待ち合いコーナーの隅のテレビが、昼のニュース番組を放送していた。画面には、戦車が出動して、砲撃を行っている映像が映っていた。
『ついにインドと中国の国境で戦闘がはじまりました。チベット自治区内でも、引き続き独立運動が行われている模様ですが、そちらの情報は流れてきていません』
砲弾で燃えあがる家屋。|瓦《が》|礫《れき》の山に散らばる黒々とした死体。逃げまどう人々。すべては、この世の外の出来事に見えた。
そして、どうしてだかわからない。不意に涙が|溢《あふ》れてきた。悲しいわけでもないのに、涙がぽろぽろと落ちる。自分の体と、心が分離してしまったようだ。心には何も伝わってこないのに、肉体だけが何かに反応していた。私は自分自身に驚きながら、バッグからハンカチを取りだして、目許を|拭《ふ》いた。
「年をとってくると、同じような夢を何回も見るものなんでしょうかね」
すぐ隣で男の声がした。私はどきりとした。虫送りの夢を思いだしていた。
そっと横を見ると、老人が二人、並んで座っていた。ハンチングをかぶったほうが、「そんなものですかね」と首を|傾《かし》げると、もう一人の、|痩《や》せた白髪の老人が半ば目を閉じていった。
「この頃、不思議な夢を見るんです。いい匂いのする木の下でね、これから何もかもがうまくいくと思っているんです。そりゃもう、何度も何度も、夢に、同じ木が出てくるんですよ」
いい匂いのする木。どこかで聞いたような夢の話だと思った。
「その木の下にいるのは、私だけじゃないんですよ」
白髪の老人は、遠くを眺める表情で続けた。
「誰かは思いだせないが、昔、ずっと昔に知っていたような顔ぶればかりなんです。ひょっとしたら、私の故郷の人かもしれない」
ハンチングの老人が驚いたようにいった。
「えっ、あんた、東京の人じゃなかったんですか」
白髪の老人は笑って、違います、と答えた。
「ご自分が東京出身だからって、みんなそうだ、と思っているんじゃないですか」
ハンチングの老人は頭に手をやり、苦笑した。二人のかさかさとした声を聞いているうちに、私は、似たような夢の話をどこで聞いたのか思いだした。
クリーニング屋の主人だった。彼もまた、いい匂いのする木の夢について話していた。いい匂いのする木……|橘《たちばな》の木。
そう思ったとたん、銀行の無機質な空間の中に、あのレモネードのような|爽《さわ》やかな香りが漂うのを感じた。
私は小鼻をひくつかせた。
気のせいだった。|埃《ほこり》っぽい空気の中には、何の香りもない。窓口でせっついている客の背中や、にこやかな笑みを顔に|貼《は》りつけた案内係の姿が見える。爽やかさに包まれた一瞬は消え、銀行のざわめきが私に襲いかかった。
私は、もう一度、あの木の下に立ってみたくてたまらなくなった。
「二百四十九番のお客さま」
コンピュータの呼びだしの声が、遠くで響いている。私は番号札の紙をくず箱に放りこむと、銀行から飛びだした。
雨の日のサンクチュアリはひっそりしていた。天井のガラスを通して入ってくる弱々しい光の中で、木々は眠っているように見える。私はゆっくりと木立の間を歩いていった。空調が行き届いていて気持ち良い。一見、人気のないように見えたサンクチュアリの中だったが、歩いていると、あっちの木の陰、こっちのベンチの上に人が|佇《たたず》んでいた。まるで、だまし絵のように人の姿が木々の間に溶けこんでいる。寂しい雨の日、行くところもなく、都会の|隙《すき》|間《ま》に迷いこんだ人々。私もその一人だった。
赤いレンガの小道を曲がると、橘が見えた。踊っているように見えるほど、くねくねと|歪《ゆが》んだ枝。柔らかに光る深緑色の葉。木全体から、爽やかな芳香が立ち昇っている。天井から降り注ぐ薄明かりの下で、橘は静かに枝を広げていた。
私は少し離れたところで足を止めた。
虫送りの夢を思い出した。夢の中では、この木の下で青白い顔をした男たちが、火を燃やしていた。煙が木の枝を伝うように|這《は》い昇り、|仄《ほの》|白《じろ》く光る道の彼方へと消えていった。
|紙《し》|魚《み》に食われるように夢が崩壊して以来、虫送りの夢は見なくなった。祖母も、あの木も、私の眠りから消えてしまった。
ひょっとしたら、あの木は私の夢の中から抜け出して、この橘となったのかもしれない。
それとも、私はまだ夢を見ているのだろうか。虫送りの夢ではなく、今度はサンクチュアリにいる夢を。純一の後をつけてここに来て、歩道に倒れて気を失って以来、私は夢を見続けているのかもしれない。すべては、夢のことなのだ。私の流産も、橘の木に体をもたせかけた純一の首筋から這い出ていた巨大な虫のことも……。
だとしたら、どんなにいいだろう。
「すみません」
後から声をかけられて、ぎくっとした。
黒い服を着た女性が立っていた。髪をきれいに束ねて、黒いリボンで結んでいる。四十代後半くらいの年齢だろうか。落ち着いて、知的で厳しい雰囲気を漂わせている。彼女の後には、四、五人の学生らしい若い娘たちが従っていた。私は小道の真ん中で、彼女たちの前をふさいでいたのだった。
私は謝って、脇に寄った。黒服の女性は、軽く会釈をして通り過ぎた。後から、サンクチュアリの広さや、木々の大きさに驚きの声をあげる娘たちが続いた。
「新宿にこんな場所があったなんて知らなかったわ」
「最近できたんですよね、ねぇ、先生」
先頭を行く黒い服の教師が、きびきびした声で答えた。
「そんな情報なら、あなたたちのほうが詳しいでしょ。あれだけくだらない雑誌を読みふけっているんだから」
「ひどーい」
「それはないですよぉ」
甘ったるい抗議の声があがった。まるでサンクチュアリに|闖入《ちんにゅう》してきた光る波のようだった。女学生たちは、若さという剣を振りまわし、この静かな雰囲気をなぎ払っていた。
「あら、こんなところに非時の香果があるわ」
教師が橘の前で足をとめた。女学生たちは、きょとんとした顔でトキジクノカグノミと、いいにくそうに|呟《つぶや》いた。
「なんですか、それ」
教師は、うんざりしたように生徒たちを見まわした。
「国文科の学生のくせに、かぐや姫の話を知らないの」
それを聞いた私は、ああ、と思った。
この前、ここを訪れて、橘の名前を見た時、知っているような気がしたのは、あの話があったからだ。かぐや姫が、求婚者たちに要求した無理難題。その中に、非時の香のする木の実を取ってこいと命ずる件りがある。どこかで、それは橘の木の実のことだと読んだ記憶があった。
かぐや姫の話は知っていても、橘とは結びつかないらしい女学生たちに、次の講演がはじまるからとせかして、教師は一団を連れて遠ざかっていった。何かの会議の合間にやってきた、学生と教師のようだった。
ふたたび静けさが訪れた。私は、橘に近づいた。枝の所々に、小さな白い|蕾《つぼみ》が見えた。まだ固く、握りしめた|拳《こぶし》のような蕾。まもなく花が咲こうとしていた。
私は深い息をした。爽やかな香りが体の隅々にまで満ちていく。頭がくらくらした。全身に波のように心地よさが広がった。私は、ほうーっと息を吐きだした。
非時の香り。確かに、時を忘れるほどの|恍《こう》|惚《こつ》|感《かん》を覚える。純一が、会社の帰り、ここに立ち寄っていた訳がわかる気がした。
私は、もう一度、大きく息を吸いこんだ。
頭の中が真っ白になっていく。心が静かに、清らかになっていく。私は、木にもたれかかろうとした。
突然、胸が苦しくなった。うねりのようなものが、|喉《のど》から胸、そして腹にかけて駆け抜けた。体の中で、何かが暴れまわっている。それは私の体内で膨れあがり、喉を押しあげた。息が詰まった。視界が霞む。まわりのものがスローモーションのようにゆっくりと動いていた。赤いレンガ敷きの地面が眼前に迫ってくる。遠くで誰かが叫んでいる。駆け寄ってくる足音を聞いているうちに、鈍い衝撃を|膝《ひざ》に感じた。
そして私の意識は遠のいていった。
橘の木が頭上で枝を張っていた。足元では、虫送りの後の火がくすぶり続けている。火のまわりに人々が立ち尽くしていた。虫送りに参加していた人たちだった。
見慣れた虫送りの夢の光景だ。しかし、どこか違っていた。橘の木は、奇妙にあちこちが欠けている。枝が途中でちぎれていたり、葉がごっそりとなかったりする。虫送りの人たちも、ある人は頭がなく、別の人は体が半分ない。夜空すらも、あちこちが欠けて白っぽい空間が顔を|覗《のぞ》かせている。
夢の景色は、今にも崩壊しようとしていた。
私の横で何かがもぞもぞと動いている。見ると、おばあちゃんだった。私は叫び声をあげた。その首の上には顔がなかったのだ。体だけが、赤ん坊がむずがるように四肢を動かせている。骨ばった手が宙を指し、ゆっくりと文字をなぞりはじめた。
蛇の這ったあとのような、曲がった線が描かれる。しかし私には何を書こうとしているのか、わからない。そのうちに、ぽつんと指に穴があいた。おばあちゃんの指が、ぽーっと消えていく。最後に残った|爪《つめ》の先も小刻みに震えたかと思うと、ふっと消えた。
映像を浸食する白い穴が広がっていく。そして夢の風景は、白い穴に|潰《つぶ》されていき、薄明の空間へと変わっていった。
乳白色の空間に、うっすらと何かの輪郭が現れた。人の頭のようだ。
——だ……じ…ぶ……か——
遠くで声が聞こえる。帽子をかぶった人の顔が、次第に現れてきた。まるで霧の中で人が近づくに従って、その姿がはっきりとしてくるようだ。
——だいじょうぶで——
「大丈夫ですか」
声が耳に飛びこんできた。そして私の前の霧が晴れた。
私は、灰色の壁に囲まれた部屋のソファに寝かされていた。ガードマンの青い制服を着た初老の男性が、心配そうな顔で私を見おろしている。
私は起きあがった。スチール製の机がひとつ。机には、日誌のようなものが置かれ、壁には、電気のスイッチの並ぶパネルがくっついている。
ガードマンが、ここはサンクチュアリの管理事務所だと教えてくれた。そして、気がかりそうに聞いた。
「気分はどうですか。なんだったら、医者を呼びましょうか」
胸の苦しさは消えていた。私は大丈夫だと答えて、背中をソファに沈めた。まだ頭がぼやっとしていた。
どうして急に倒れたのか、自分でもわからなかった。痛みや苦しみは、その場限りの感覚で、後で思いだすのは難しい。あの、息が詰まるほどの圧迫感が、なぜひきおこされたのか、今となっては、さっぱり理解できなかった。
「ほんとうに、大丈夫ですか」
ガードマンの声に、私は軽く|頷《うなず》いた。そして、乱れたスカートの|裾《すそ》を正して、ソファに座り直した。
「ええ。ほんとに。ご心配かけまして、すみません」
人の良さそうなガードマンは、白髪の混じった太い眉を心配気に寄せていった。
「いや、びっくりしましたよ。突然、人が橘の前で倒れたというもんだから、またかという感じで」