「また?」
「実は、この前も、あなたぐらいの女性が倒れて、車で病院に運ばれた、という話を聞いたからね。またそんなことになって、サンクチュアリでは人がバタバタ倒れるなんて、へんな|噂《うわさ》でもたったら大変だから」
ガードマンは、太い声で笑った。額に汗が浮かんだ。私はポケットを探ってハンカチを取りだした。そして、すみませんと、また頭を下げて、ソファから立ちあがった。このまま居続けると、以前、倒れたのも私だと見破られて、非難されそうな恐怖を覚えた。
机の上に置いてあったハンドバッグを返してもらい、礼をいって出口に向かおうとした。
「こっちですよ、こっち」
ガードマンが呼びとめた。見ると反対側に、もうひとつドアがある。
「そっちはサンクチュアリに続くドアでしてね。こっちのほうが、直接、外に出られますよ」
そのドアの向こうは廊下だった。つきあたりは、人々が行き交っているエレベーターホールになっていた。廊下に出た私は、ふと聞いた。
「そういえば、あの橘、蕾がついてましたけど……」
「ええ、もうすぐ花が咲くんです。秋には、金色の実がなるそうですよ」
その言葉に、金色に輝く実が眼前に現れた気がした。ざわめく緑の葉。たわわに実った金色の実。爽やかな|柑《かん》|橘《きつ》|系《けい》の香りを含んだ風が、あたりに吹き渡る……。
見たこともないはずなのに、その映像は不思議にありありと、私の脳裏に浮かんだ。
なぜかはわからないが、心の中に幸福感が広がった。私は知らないうちに|微笑《ほ ほ え》みを浮かべていた。微笑みは水に落とした青いインクのように、ゆっくりとガードマンにも伝わり、彼の顔にもまた笑みが浮かんだ。
「私も妙に、橘が好きでしてね。なんともいえない、いい香りがしますからね。なんでも、あの橘は、わざわざ沖縄から取り寄せた原生木らしいですね。けっこう見にくる人も多いんですよ。花が咲いたら、また見物人が増えるでしょうな」
「きれいでしょうね」
ガードマンは頷いた。
しばらく私たちは、無言のままドアの前に立ち尽くしていた。橘の香りが私たちを包み、優しく子守歌を歌ってくれているようだった。私は急に眠気を覚えた。ガードマンも、|欠伸《あくび》を|噛《か》み殺した。
「またいらしてください。でも、倒れるのは、今回で最後にしてもらいたいものですよ」
私は肩をすくめた。
「どうも御世話になりました」
ガードマンは軽く会釈して、ドアの後に引っこんだ。『サンクチュアリ管理事務所』と書かれたドアが閉まった。
私は廊下を歩いていった。つきあたりのエレベーターホールを曲がって、出口に向かう。通路のガラス越しに、サンクチュアリの緑の木々が見えた。内部の水蒸気で、ガラスの表面がうっすらと曇っている。
何気なく見ていると、つつつーっとその表面に水滴の筋が縦に走った。次に、横に線が走る。まるで、見えない一本の指が、ガラスを|撫《な》ぜているようだ。筋は、震えながら形をなしていく。線が増えるごとに、水滴が、たらたらと滴り落ちる。
ぎくしゃくした線が交差し、|撥《は》ねあがる。何かの文字のようだ。四角ばった線が、ひとつの形に|綴《つづ》られていく。ガラスの表面を見つめる私の全身に、鳥肌が立ってきた。
『蟲』
震える文字は、そう書かれていた。
私は、悲鳴をあげそうになるのを必死でこらえた。もういい加減にして、と叫びたくなった。
その不気味な文字は、私が凝視するうちに、新しい水蒸気に覆われて跡形もなく消えていった。
私は、|喘《あえ》ぐように息をした。また、倒れてしまうかもしれないと思った。
隣をOLたちが、笑いながら通り過ぎていく。ガラスの表面は、何事もなかったかのようにうっすら曇っている。
目の錯覚だ。ガラスに水が滴っただけだ。
私は自分にそういい聞かすと、サンクチュアリから顔を背けて歩きだした。
玄関の回転ドアの向こうでは、雨はまだしめやかに降り続いていた。
十 章
|闇《やみ》の奥から電話の音が聞こえた。私は、うっすらと目を開けた。寝室のドアを隔てて、電話は鳴り続けている。隣の純一は、背中を丸めてぐっすりと眠っていた。
枕元の時計が二時を指している。誰だろう、こんな時間に。
私は手探りでドアに向かった。
受話器を取って耳にあてたとたん、加奈のかすれ声が聞こえた。
「ごめんなさい、めぐみ。こんなに夜遅く……」
「どうしたの?」
しばし沈黙があった。そして大きく息を吸う音。様子がおかしい。眠気が波のように引いていく。
私は、もう一度、どうしたのかと聞いた。
なんでもない、と加奈は答えた。ただ、ちょっと話したくなったのだと。スタジオに遅くまでいると、人恋しくなったのだ。あなたはそんな時、夫がいるからいい、どんなに夜遅くても話相手がいるのだからと、|羨《うらや》みの混じった声で|呟《つぶや》いた。酔っているようでもない。加奈は疲れた声で|喋《しゃべ》り続けた。
「今日、私、大変だったの。インタビューの仕事で、機材をセットして待っていたら、急に相手が具合が悪くなったとかで来れなくなって、仕事はパア。帰りの車は混んでいて、ちっとも前に進まないし、カメラを落として、フレームにヒビが入っちゃうし」
加奈は、めったに仕事の愚痴はこぼさない。こぼすにしても、失敗談をおもしろおかしく語るくらいで、こんなにくどくどと話し続けることはなかった。私は不安になってきた。
「ねえ、加奈、大丈夫?」
加奈は、電話の向こうで乾いた笑い声をあげた。
「大丈夫、大丈夫。彼が他の女と寝ていたって大丈夫。そのことで大喧嘩しても大丈夫、男が出ていっても大丈夫」
私は受話器を握りしめた。浅川が原因だったのか。加奈は、わざと茶化していった。
「カメラバッグ抱えて、ふてくされてスタジオに帰ったらさ、あいつ、他の女を連れこんで、いちゃいちゃしていたってわけ。とんだ浮気者だよね。この私のスタジオで、よくもあんなことができるもの……」
彼女の声が震えた。
私は加奈の名を呼んだ。返事はなかった。すすり泣きが|洩《も》れてきた。闇に響く泣き声は、私の心の中にこだまして、強く揺さぶった。なぐさめの言葉を探したが、どれも|虚《うつ》ろに思えた。泣き声を聞いているうちに、次第に、それが彼女の中から流れてくるのか、私の内から|溢《あふ》れてくるのか、わからなくなってきた。私まで一緒に泣きたくなってくる。
「加奈、今、行くから。そこにいるのよ、わかった?」
いいのに、と加奈は、しゃくりあげながらいった。私は「行くから」と、押しつけるようにいい放って、電話を切った。
寝室に走りこんで電気をつけると、純一を起こした。彼は、|煩《うるさ》そうに目を開けた。
「加奈の様子がおかしいの」
すぐには加奈が誰なのか、わからないようだった。私が大学時代の友達の加奈だと説明したので、ようやく思いだして、ああ、あの背の高い子、と眠そうな声をもらした。
「泣きながら電話をかけてきたのだけど、様子がおかしいの。スタジオまで、車で連れてって」
純一は眉をひそめると、何もいわずに|頷《うなず》いた。そして、ベッドから上半身をむくりと起こした。
スタジオの入口は、二センチほど開いていた。ドアの|隙《すき》|間《ま》に、煙草の吸殻が落ちている。|憮《ぶ》|然《ぜん》とした表情で、吸いさしのキャメルを投げ捨てて出ていく浅川の姿が容易に想像できた。私は小さくノックして、部屋に入っていった。
部屋は|廃《はい》|墟《きょ》と化していた。一か月ほど前に私が立ち寄った時、この部屋には幸せが宿っていた。しかし今、床には写真が散らばり、|椅子《いす》は転び、コップや酒がこぼれている。あの日の輝きは失せていた。
乱雑な部屋の隅に、加奈が放心したように|佇《たたず》んでいた。壁に背中をあずけて、|両膝《りょうひざ》を立てて座っている。私は彼女の名を呼んで駆け寄った。加奈は力なく|微笑《ほ ほ え》んだ。
「ごめんね」
がらがらした老女の声だった。恋に生き生きしていた加奈は、もういなかった。そこに座っているのは、愛の|葛《かっ》|藤《とう》に疲れ果てた一人の女だった。
彼女は虚ろな声で呟いた。
「最近、なんとなく勘づいてはいたの。それがもとでちょくちょく|諍《いさか》いはしていたのよ。だけど、ついこの前、あの女とは別れたなんていったのに……。とんでもない嘘つきだわ」
そんな男と早く別れて、よかったのだ、となぐさめると、加奈は頷いた。泣き|腫《は》らした目は赤く濁っていた。
「自分が情けない、あんな男に夢中になっていたなんて」
加奈は自分の腕の中に頭を埋めた。私は彼女の横に座ると、肩に手を回した。
どういっていいかわからなかった。彼女の悲しみが、波のように私の心に押し寄せてきていた。こんなことは、はじめてだった。普通なら、いくら親友が悲しんでいようと、心のどこかに冷静な部分が残っていて、相手を離れたところから見ていられた。だから、なぐさめの言葉も簡単に見つかったのだ。
しかし、今、私の心は、彼女の悲しみで満たされていた。まるで彼女の心にはいりきらない悲しみを、私の心を差し出して受けとめているようだった。
涙すら浮かびそうになって、私は驚いた。もらい泣きをする年頃は、とうに過ぎているのに。私は気を取り直していった。
「もう遅いわ、加奈。眠ったほうがいいわ」
自分はここで寝るからいいのだと、加奈は投げやりな口調で|応《こた》えた。
「だめよ。寝る場所なんかないじゃない。ね、帰って寝たほうがいいよ。純一の車で送っていくから」
「純一さん?」
加奈は顔をあげた。そして、戸口で手持ち無沙汰に立っている純一に目を止めた。
「純一さんまで来てくれたの?」
「ええ、車を運転してもらったのよ」
加奈は背筋を伸ばした。そして、無理に笑って、純一に声をかけた。
「明日の仕事もあるのに、ごめんなさい。純一さんにまで迷惑をかけちゃって」
純一は、部屋に一歩、足を踏みこんだ。
「僕のことはいいんです。それより家まで送りますよ。帰りましょう」
私は加奈の肩を揺すって、そうしようと勧めた。彼女は、部屋の中を見回して、首を横に振った。そして、自分は部屋の中を片づけて帰るからといった。
「明日、こんなひどいありさまで、一日をはじめたくないものね。また男に裏切られたことを思いだしちゃう」
加奈は唇の端を曲げて笑った。
「じゃあ手伝うわ」
「いいよ。ほんとに、もう帰って」
「そんなこと、できるわけないじゃない」
私は立ちあがると、床のコップや写真を拾いはじめた。逆さにして振り回されたような部屋には、加奈の逆上した様子がそのまま映しだされていた。落ちた物のひとつひとつが、彼女の|剥《む》き|出《だ》しの精神状態の産物だった。その中に割れた石の破片があった。拾いあげると、片方の面に模様がついていた。
純一が拾ってきた石の器だった。
加奈が、あっ、と声を|洩《も》らした。
「ごめんなさい、私がやったのよ。もう、何がなんだかわからなくなって、そこら中のもの、投げつけたものだから……。どうしよう、大切なものだったのに……」
おろおろした声で謝る加奈に、私は、どうせ拾ったものなのだから気にしないで、といった。純一も横から、たいしたことではないと口添えしてくれたので、加奈もほっとしたようだった。
青灰色の石の破片は、スタジオの明るい照明を受けて、鈍い色を放っている。私は石のかけらを集めはじめた。表面に刻まれていた模様が、ばらばらになったジグゾーパズルの断片に見えた。それは、やはり木の模様だった。ぎざぎざした葉。曲がった枝。
|橘《たちばな》の木に似ている、と思い、私の動きが止まった。
|啓《けい》|蟄《ちつ》の日に、純一が家に持ちこんできた石の器。その模様が、橘に似ているというのは、どういうことだろうか。しかも、この石の器が来てから、おかしなことが起きるようになったのではなかったか。
虫、祖母、橘……石の器。
何か関係があるのだろうか?
だが、何も思いつかなかった。
私は考えるのは止めて、石の破片をごみ箱に投げいれた。がらがらっ。石のぶつかり合う音が響いた。この石が割れたことで、一連の不可思議なことも終わってくれればいいのに、と私は|密《ひそ》かに思った。
三人で片づけたので、すぐにスタジオはきれいになった。部屋の中はがらんとして、私がこの前に来た時よりも、物が少なくなった気がした。浅川が自分のものを持ち去ったのか、二人の関係が失われたぶん、部屋が寂しく見えるのか、わからなかった。
加奈は部屋の中を眺めていった。
「これでおしまいか」
それは、片付けのこととも、浅川との関係のこととも取れるいい方だった。
彼女は大きく肩で息をすると、私と純一に向き直った。
「ありがとう。ほんとうに」
私は、彼女の言葉を遮るように、その肩を|叩《たた》いた。純一も横から、気にしないでくださいといい添えた。
加奈の顔が泣きそうに|歪《ゆが》み、呟きが洩れた。
「優しいのね……」
加奈を家に送って帰途につくと、もう四時を回っていた。空の端が薄明るくなっている。夜を引き裂く赤紫色の朝焼けが、でこぼこしたビルの稜線にかぶさる。
|欠伸《あくび》をしながら運転している純一に、私はいった。
「ありがとう」
純一が怪訝な顔をした。加奈のことで、朝までつきあってくれたことに対してだというと、彼はにっこりした。
「当然だよ。めぐみの友達なんだもの」
通り過ぎる車のヘッドライトに、彼の横顔が浮かびあがった。髪の毛が乱れている。慌てて着てきたポロシャツの襟が|捩《よじ》れていた。私は微笑んで、彼の襟元を直した。そして、その手を彼の膝に置いた。
自分から彼に触れるのは、流産の日以来、はじめてだった。彼に触れようとするたびに、虫のイメージが浮かんできて、気持ちが|萎《な》えるのだ。しかし、今は彼を避ける気持ちは消えていた。
私の|掌《てのひら》を通して、彼の温もりが伝わってくる。自分が優しい気分になるのを覚えた。
運転している時に、彼の膝に手を置くのは、私の癖だった。彼は片手で私の手を握り返してくれる。そして私たちは、満ち足りた気分でドライブを続けたものだ。
私は期待をこめた目で彼の顔を見た。純一は、前を向いたまま運転を続けている。その顔は穏やかで、道路の|遥《はる》か遠くを眺めている。何を考えているのだろう。膝の上に私の手が乗っていることすら気がつかない。私は、そっと手を引いた。
私を抱きしめてくれるのは、夜明け前の冷気だけだった。
薄明の中に、おばあちゃんが浮かんでいた。もう夜は消えていた。橘の木も、行列の人々もいない。おばあちゃんだけが、ゆらりゆらりと浮かんでいる。しかし、その姿すら、あちこちにぼろぼろと穴があき、今にも崩れていこうとしている。
おばあちゃんの|皺《しわ》だらけの口が開いた。
|喉《のど》の奥から声がした。
虫が|喰《く》う。
低い男の声だった。
「新宿、新宿。終点です。どなたさまもお忘れ物のないように、お降りください」
電車のアナウンスに、私は、はっと顔をあげた。まわりの人が立ちあがり、ドアから外に出ていった。私も、ぼんやりとした頭を振りながら立ちあがった。
またおかしな夢を見てしまった。
この頃は、夜、夢を見ない。その代わり、夢は、昼間の居眠りに割り込んでくる。それは決まって、虫送りに関係した夢だ。
虫送り……『蟲』。サンクチュアリで見た、ガラスの上の文字を思いだした。
まわりの物すべてが、私に何かを語りかけているようだ。しかし、何を?
考えてもわからなかった。喉の奥に、魚の小骨がひっかかった気分だ。
「ちょっとお客さん」
後から声をかけられた。振り返ると、電車のドアの間から、車掌が傘を振っていた。私の忘れ物だった。慌てて引き返すと、傘を受け取った。
新宿駅東口に出ると、雨はほとんどあがっていた。私は、それでも傘をさして、新宿三丁目のほうに向かって歩きだした。今日、外出したのは、退院の快気祝いの品を選ぶためだった。数はそれほど多くはなかったが、入院中や、退院してからも、お見舞いに来てくれた|親《しん》|戚《せき》や友人がいた。快気祝いの品を何にしようかと迷ったが、結局、百貨店にでかけていって選ぶのがいちばんだと思ったのだ。
伊勢丹百貨店が見えてきた。三月、加奈と一緒に、ここの美術館に展覧会を見に来たのだった。あの時の加奈は、|眩《まぶ》しいほどに輝いていた。五日前の、泣き崩れて、絶望した彼女とは別人のようだった。精神的な打撃が、どれほど人を変えてしまうことか。あれから何度か、加奈のスタジオと家に電話をかけたが、いつも留守番電話になっていた。気がかりだったが、今はそっとしておいたほうがいいのかもしれない、と思っていた。
「お願いします」
傘の下から白い腕が滑りこんできて、黄色いビラが差しだされた。私は、何気なく受け取って、傘を上げた。
「あら」
以前、家にテレビを配達してくれた青年が立っていた。髪を金髪に染めた、カヤという男だった。|色《いろ》|褪《あ》せたジーンズに、袖をまくりあげた白い綿のシャツ。首には、先日見たと同じ、白い水牛の角のペンダント。電気屋の制服を脱いだ彼は、ますますその女性的な顔が際立ち、中性的な魅力をかもしだしていた。
彼も私のことを覚えていたらしい。金色の髪に雨粒を宿らせて、笑みを浮かべた。
「先日はどうも」
私も、奇遇に驚きながら会釈した。彼はビラを指さしていった。
「僕たちの劇団の公演なんです。ぜひ、観に来て……」
カヤの指が、私の手の甲にあたった。その瞬間、言葉がかき消えた。カヤの顔色が、さっと変わった。目は私に釘付けになっている。その|瞳《ひとみ》が大きく見開かれた。
「どうかしたの?」
私は心配になって聞いた。彼は、後ずさった。背中が他の通行人にぶつかったが、まるで気がつかないように、私の顔を凝視している。その表情には見覚えがあった。家で、あの石の器を見た時も、彼はこんな|脅《おび》えた顔をしていた。
——もう大丈夫です——
カヤのいった、不思議な言葉を思いだした。あの時、彼は、何が大丈夫だといったのだろう。その後に我が家に起こったことは、大丈夫とは程遠いことばかりだった。彼は何か知っているのだろうか。
「ねえ、あなた……」
私は、カヤの腕を取ろうとした。彼は悲鳴のような声を洩らして走りだした。
一緒にビラを配っていた男が、驚いたように声をかけた。
「おいっ、カヤッ」
しかし彼は振り返りもせずに、人混みに消えた。
浮世絵入りのTシャツを着た仲間の男が、きょとんとして私を見た。
「どうしたんですか、あいつ」
私は首を|傾《かし》げた。そして、私の顔を見て、突然、逃げていったのだと答えた。
「ははあ、またか」
男は、にやりとした。
「あいつ、霊能者なんですよ。道を歩いていて、霊につけられたから逃げてきたとか、部屋に入ったとたん、悪い霊がいるって騒ぎだしたり。変なものが見えるんだ。お姉さんにも、何か見たんだな、こりゃ。それにしても、仕事を放りだして逃げだしたくらいだから、よほどすごいものだったのかもしれないな」
「私に何が見えたっていうの?」
おもしろがっているような口調に、私は気分を害していった。男は、まだにやにやと私の全身を眺めながら、自分には、きれいな女の人しか見えないから安心してください、といった。彼の想像の中で、自分が裸にされたのがわかった。下品な男だ。私は、むっとした顔で立ち去ろうとした。後から、男の声が追ってきた。
「アルバトロスの公演、よろしくねっ」
私はビラをくしゃくしゃに丸めて、ごみ箱に突っこむと、百貨店にはいっていった。
買物は、|恰《かっ》|好《こう》の気分転換になる。快気祝いの品を選んでいるうちに、カヤの不可解な行動も忘れることができた。結局、|佃煮《つくだに》セットを選び、発送も頼むと、私は百貨店の中をぶらついた。初夏に向けてのタイトな白のワンピースと、それに合う白いサンダルを買って、足取りも軽くマンションに戻ると、ロビーの郵便受けに、大きな封筒が入っていた。
差し出し人は、吉見沢加奈。私は驚いて、その場で封筒を開いた。
中には、大きく引き延ばした写真が入っていた。あの石の器の写真だった。はらりと手紙がこぼれ落ちた。私は床から拾いあげると、手紙を読んだ。
『この間は、ひどいところを見せちゃって。今、思えば、お恥ずかしい限りです。めぐみと純一さんの優しさ、身にしみました。どうもありがとう。
あの石、割っちゃって、ごめんなさい。幸い、その前に約束の写真は撮っていました。表面の模様、やっぱり文字みたいだけど、めぐみはどう思う? 本物が壊れてしまったので、今さらわかっても、何にもならないかもしれないけど、一応、写真、お送りします。
私は、明日からカナダへ出張。しばらく、すべてを忘れて、仕事に没頭したいと思います。男は消えても、仕事は残る。頑張るゾ。
[#地から2字上げ]加奈
P.S. たいしたことじゃないけど、この前の夜、あなたたち、素敵なカップルだと羨ましくなっちゃいました。前は、もっとケンカ口調の時が多かったのに、まるくなったというか……、変わったなと思いました。あんな優しい旦那様なら、私も見つけたいものです。羨ましい!』
変わったな……?
私は、エレベーターに乗って、五階のボタンを押した。
やはり純一は変わったのだ。私だけの思いこみではなかった。最後通牒を突きつけられた気がした。
私は手紙を持ったまま、唇を|噛《か》んだ。そして手元の写真に視線を落とした。石の表面が拡大されて映っている。斜めから照明をあてた写真は、光の強さを変えて四枚撮ってあった。一枚、一枚、めくっていく。確かに何かの文字のようだ。
エレベーターのドアが開いた。私は外にでた。外廊下の光の中に、四枚目の写真が浮かびあがった。
『常世蟲』
写真には、その文字が薄く映っていた。
私は立ちどまった。
普通の「虫」の字ではない、古い文字の「蟲」。サンクチュアリのガラスに記された文字と同じ字。
常世蟲。蟲。
夢の声が|蘇《よみがえ》った。
——虫が喰う——
『変わったなと思いました。』
加奈の手紙の文字が見えた。
純一は変わった。
彼が変わったのは、啓蟄の日。この石の器を拾ってからだ。そして私は、虫送りの夢を見るようになった。
虫送り。虫。蟲。常世蟲。常世。常世国。非時の香の木の実の国。橘の実る国。橘。
しりとり遊びのように、関連する言葉が頭を巡った。どこかに、この言葉をつなぐ糸があるはずだ。うまくつなげば、ひとつの意味が浮かびあがってくる。私を悩ましているものが、姿を表してくるのではないだろうか。
私は、家のドアの前で、じっと写真を見つめた。
「常世蟲」。そのぼやけた文字が、私を|嘲《あざ》|笑《わら》うかのように震えていた。
十一章
蛍光灯の青白い照明の下に、本棚が整然と並んでいる。私は古い本の匂いに包まれて、棚の間の狭い通路を歩いていた。雨の日だけあって、図書館は人影が少なかった。建物の中に侵入してくる絶え間ない雨音を聴きながら、石像のように静かに|佇《たたず》む人々が、本を選んでいる。
百科辞典がずらりと並ぶ棚の前に来て、私は立ち止まった。「ト」の項の辞典を引きだして、ページをめくる。『とこぶし常節』『とこやま床山』。「とこ」の項目を追っていた私の視線が止まった。『とこよのくに常世国』という文字があった。
『海の彼方にあるという、死者や祖霊の住む国。記紀には、|垂《すい》|仁《にん》天皇は、食べると不老不死となるという非時の香の木の実(|橘《たちばな》のことといわれる)を取りに、|田《た》|道《じ》|間《ま》|守《もり》を常世国に遣わしたことが記されている。』
夢の中で見た、橘の木がまざまざと頭に浮かんできた。夜の中に、両手の指を広げるようにして立っていた橘の木。その向こうに広がる草原……。
橘の木の実のなる国。夢の中のあの草原は、常世国だというのだろうか。
私は頭を振って、また辞典に目を落とした。
『永遠の命と|豊穣《ほうじょう》なる楽土。それが常世国の基本的イメージとなっている。』
常世国に関する記載は、それで終っていた。次の項目に目を|遣《や》って、一瞬、体を硬くした。
『とこよのむし常世虫』があったのだ。私は、こわごわ読みはじめた。
『古代の俗信仰である常世神の一種。日本書紀、|皇極《こうぎょく》三年(六四四年)の条に、以下の記述がある。
秋七月、東国、富士川のほとりに住む人物、|大《おお》|生《ふ》|部《べの》|多《おお》が、常世神と称して虫を祭る。この虫を信じれば、貧しき者は富み、老いた者は、若返るといわれて、民衆の間に大流行した。人々は家財を投げだして、常世虫を祭り、歌い舞い狂ったという。』
富士川のほとり。純一が石の器を拾った場所だ。本を持つ手の指先に、いやな感覚が走った。
『常世虫は、常に橘の樹に生じる。長さ、四寸あまり。太さは親指ほど。色は緑で黒い|斑《まだら》があり、蚕によく似た虫だった。』
緑で黒い斑。橘の木の下で、伸びあがっていたあの虫と同じだ。しかし四寸どころではない。私の見た虫は、もっと大きかった。
それにしても話が符合しすぎている。読み進むのが怖くなった。だが読むことをやめることは、もうできなかった。私の目は、次の行に釘付けになっていた。
『この事態を憂慮した地方豪族、|秦河勝《はたのかわかつ》により、大生部多は打ち懲らしめられ、騒ぎはおさまった。』
秦河勝。
遠い昔、その名を聞いた覚えがあった。同じ名字だから、覚えていたのだろうか。
私は百科辞典をもとに戻すと、棚に目を走らせた。『古代人名辞典』という本があった。もどかしい思いで「ハ」の項目をめくる。秦河勝の記事はすぐに見つかった。
『秦氏は、養蚕に関する専門知識を独占して栄えた渡来系の地方豪族。本拠地は、|山背国《やましろのくに》(今の京都)の|太秦《うずまさ》。秦河勝は、この秦氏の七世紀後半における大首長。聖徳太子の近侍者。聖徳太子より賜った仏像を安置するために、京都、太秦に|広隆寺《こうりゅうじ》を建立する。』
太秦は、祖母の家のあった場所だ。
私は本棚に背をもたせかけて、じっと宙を見つめた。これまでのことが、ひとつひとつ頭に浮かんできた。
純一が富士川のほとりで『常世蟲』と書かれた、石の器を拾った日、私は祖母の声を聞いたのだ。
虫が起きた、と。
その時、今まで忘れていたことが、頭に浮かんだ。
新幹線の中で、純一は、おかしな夢を見たといっていた。十センチメートルほどの虫が胸の中に頭をつっこもうとしていた、という話だった。十センチメートル。昔の尺度に換算すれば、約四寸ではないか。
あの石の器の中に、常世虫がいたとしたら、どうだろう。そして十三世紀の時を経て、虫が起きたのだ。純一の体内にもぐりこんだ四寸の虫は、成長して、彼の体ほどの大きさになる。とすると、私が橘の木の下で見た虫は、幻覚ではないかもしれない。彼の中に、実際に虫が住んでいるのかもしれない。
背中から、氷のマントをかけられたようにぞくぞくとした。心臓が大きく打っているのがわかる。額や|脇《わき》に、じっとりと汗が浮かんできた。
まさか、そんなことはあるはずがない。
あの虫が実在して、寄生虫のように純一の体内に巣くっているというのなら、宿主である彼が平気でいられるはずはない。あんな大きな虫を抱えていたら、病気にでもなっているはずだ。でも純一は、ぴんぴんしているではないか。
しかし、純一は変わってしまった。
意地悪い声が心の中で|囁《ささや》いた。
彼はもう、以前とは違う。
虫が体内にいることの影響が、彼の精神に出てきたのだ。梅毒のようなものだ。脳が病菌に冒されると、精神の異常をきたす。
心臓が|押《お》し|潰《つぶ》された気がした。
違う。純一は正常だ。ただ、優しくなっただけじゃないか。
だけど、あれは以前の純一ではない。虫に食われたのだ。そして、彼の内部は崩壊して、精神が変容してしまった。彼の変化は、虫を抱えているせいではないか……。
まさか、あまりに突拍子もない考えだ。彼の中の虫なんて存在しないのだ。
思考が、破れた紙きれのように、散り散りになって舞っている。なんとかそれをつなぎ合わせようとするのだが、考えはまとまらない。足から力が抜けていく。私はうずくまり、両腕のなかに頭を埋めた。
常世虫。それがあの虫の正体なのだろうか。七世紀にいた虫が、どうして現代に現れたのだ。しかも、なぜ、よりによって純一と私の前に……。
何かが、私の脇腹にあたった。顔をあげると、むっつりした顔の男が、うずくまった私の体を|膝《ひざ》で押していた。蛍光灯の光の中で、男の顔は鉛色に見えた。無言のまま、迷惑そうに私の頭上の棚を指さしている。
私は立ちあがって、場所を譲った。男は、本棚に手を伸ばした。私は古代人名辞典を棚に返すと、図書館の出口へと向かった。
外は雨に煙っていた。図書館の前には、車がずらりと止まっている。屋根やボンネットの上で、無数の雨粒が白く|撥《は》ねあがっている。私は傘を開いて、玄関前の階段をおりていった。アスファルトの地面に足がついた時、靴のすぐ前を、焦茶色の|蚯蚓《みみず》が|這《は》っているのが目にはいった。鈍く光る胴を震わせて、全身を伸縮させながら進んでいる。
純一の体から出てきた虫を思いだした。あの虫も緑色に|濡《ぬ》れた体を|蠢《うごめ》かして、こうして這っていたのだ。
蚯蚓は、私の前を時間をかけて、じわりじわりと横ぎっていく。そのくねるような動きが「蟲」という文字に見えてきた。顔から血の気が引いていくのがわかった。
私は、蚯蚓のまわりを大きく|迂《う》|回《かい》すると、雨の中に走りだした。
その夜、純一は、細い体をかがめるようにして、のそりと家にはいってきた。私は台所に立って、背広を脱ぎ、ネクタイをはずす夫の姿を見ていた。少し太った|頬《ほお》には、穏やかな表情が浮かんでいる。下腹部のあたりの肉が緩んでいる。以前は、もっと引き締まった体をしていたはずだ。彼は緩慢な動作で、脱いだ背広の|皺《しわ》を伸ばしている。
この人の体の中に、ほんとうに常世虫がいるのだろうか。青白い皮膚の下で、あの緑色の虫が蠢いているのだろうか。
純一が私の視線に気がついて聞いた。
「どうかしたの」
私は頭を横に振ると、慌てて|茄《な》|子《す》を洗いはじめた。
純一は寝室にはいって服を着替えると、また居間に戻り、テレビのスイッチをつけた。画面にクイズ番組が映しだされた。司会者とゲストが笑いながら、回答のことでいいあっている。私は食事の支度をしながら、夫をそっと|窺《うかが》った。
彼は、|口《くち》|許《もと》にうっすらと笑みを浮かべて、テレビに見いっていた。最近の純一は口数が少ない。何を考えているのかわからない。
彼の体に虫がいるのならば、それも当然かもしれない。彼の考えも、虫の思考に影響されてしまっているのだろうから。今、ソファに座っているのは、私の夫ではなく、大きな虫といってもいいかも……。
「あっ」
私は小さな声を|洩《も》らした。指から血が|滲《にじ》んでいた。包丁が滑ったのだ。
水で血を洗い流しながら、また純一を見た。彼に私の声は聞こえなかったようだ。身動きもしないで、テレビに目を注いでいた。
食事の用意ができた。刺身とポテトサラダ。それに茄子と豚肉の|炒《いた》め物だ。私たちは黙って食べはじめた。
くちゃくちゃくちゃ。彼が御飯を噛む音が耳に触る。うつむき加減に、ぼんやりとした目つきで食べ続ける純一。規則正しく動く、細い|顎《あご》。歯の間で、唾液が糸を引いている。その動作のひとつひとつが、すべて虫を連想させる。
私は叫びだしたくなった。彼に詰め寄って、虫がいるのではないか、と問い|質《ただ》したい。|箸《はし》を持つ手が震えそうになった。
しかし、その爆発しそうな気持ちは、沸点寸前になって、ふっと消えた。感情が、砂に吸いこまれる水のように引いていった。
「今日、図書館にいったわ」
我ながら、自分の冷静な声に驚きながら口を開いた。
「ああ、そう」
さくさくさく。純一は、茄子を噛みながら|頷《うなず》く。
「純一の拾ってきた石の器のことを調べに行ったの。加奈が撮ってくれた写真を見たら、表面に『常世蟲』って文字が彫られていたの。それが気になったから」
「ふぅん」
彼は頭をぐねりと曲げるようにして|喉《のど》を鳴らすと、口の中の食物を|呑《の》みこんだ。
「そしたら、びっくりすることがわかったの」
私は何も考えないでいられるように、早口で話しだした。
「その虫は、実際にいたらしいの。七世紀に富士川のほとりで、常世虫という虫が、神様として祭られたことがあったんですって」
純一は、へえ、といって|微笑《ほ ほ え》んだ。