「やっぱり古いものだったんだ」
再び|苛《いら》|立《だ》ちが波のように沸き立った。石の器の古さをいいたいのではないのだ。どうしてわからないのだろう。それでも私は落ち着こうと努めた。
「あなた、新幹線で虫の夢を見たといっていたでしょ」
彼は、そんなこと、いったかなぁと首を|傾《かし》げた。私は、いったのだと、押し殺した声で告げた。純一は困ったように答えた。
「覚えてないけど、いったとして、それがどうしたんだ?」
常世虫は、純一の体の中にいるのだ。
私は、心の中で怒鳴った。声に出していわなかったのは、ぎりぎりのところで理性が仲裁にはいったからだった。
馬鹿げている。
私の理性は、きっぱりといった。
おまえの聞いた祖母の声も、虫送りの夢も、純一の体から出てきた虫も、すべては思いこみ。疲れているのだ、幻覚だ。それで一笑に付されるのがおちだ。
私はため息をついて、|呟《つぶや》いた。
「なんでもないわ」
純一は、わけがわからないという顔をして、またテレビに視線を戻した。番組が変わって『特別討論会・自衛隊海外派遣を考える』という文字が映しだされていた。
私は驚いて何のことかと聞いた。
「中国とインドの戦争だよ。国連がインドを支持して、平和維持軍の派遣が決まっただろ。それで自衛隊も行くことになったのさ」
テレビでは、背広姿の男たちが、難しそうな顔つきで日本の役割だとか、世界の風評だとかについて話しあっていた。純一はポテトサラダを箸で挟みながらいった。
「やめればいいのにな。平和維持軍の派遣だなんて。結局は、ますます戦争を複雑にさせるだけじゃないか」
私は彼を見つめた。
武力には、武力で鎮圧を。
ついこの前まで、そういっていたのは、純一だった。私が、そのことをいうと、彼は、きょとんとした顔で、そうだったっけと聞き返した。今日の食事で、彼が自分の言葉を覚えてなかったのは、これで二回目だ。私は、再び「いったのよ」と繰り返した。
純一は唇を突きだすようにして考えていたが、やはり思いだせないようだった。
「ま、そうだとしても、今は違う考えだよ。自衛隊が、他の国にまでしゃしゃり出ていくことはないよ。静かに自分たちの平和を守っていればいい。それが世界平和につながるんだから」
こんなに人の意見が変わるものなのだろうか。私は純一から目を|逸《そ》らせた。彼を見つめ続けていると、再び巨大な虫が這い出してきそうな気がした。
やがて純一は、空になった茶碗を置くと、またソファに戻って、ごろりと横になった。
風呂にはいったらどうかと声をかけたが、生返事が返ってきただけだった。二度ほど勧めても、彼が動きそうもないので放っておくことにした。私は手早く後片付けをすませて、先に風呂にはいった。
風呂からあがって純一を見ると、やはりさっきと同じ|恰《かっ》|好《こう》でテレビを見ていた。鼻の頭が、テレビの光を反射させて、てらてらしている。白い喉仏がゆっくりと上下していた。私はもう一度、入浴するように声をかけて、寝室に行った。彼が風呂にはいろうが、はいるまいが、どうでもいいことだと思った。
ベッド脇の鏡台の前で、化粧水を手にする。頬骨の高い顔が、ぼうっと浮かびあがった。自慢の肉感的な唇。濃い|眉《まゆ》。一瞬、夢の中の祖母と向きあっているような錯覚を覚えた。
私は真綿を化粧水に浸して、顔に|叩《たた》きつけた。ふと、鏡台の上に置いた写真が目に飛びこんできた。新婚の頃、二人で行った日光で撮った写真だった。私と彼が腕を組んで笑っている。純一は、ひょうきんに両手でVサインを出している。彼が、そんなに子供じみたポーズをとるのは珍しかった。私はカメラを意識して、挑むような顔つきをしていた。
写真の中にいる二人が、知らないカップルのように見える。かつて自分たちが、こんなに楽しげな顔をしていたことが信じられなかった。いったい私たちはどうしてしまったのだろう。
私は、薄い黄色のクリームを指ですくった。鏡に映った部屋のドアの間から、テレビに向かう純一の姿が見えた。
私たちの間を埋めていた愛情は、今や希薄になっていた。このコンクリートの密室の中で、二人して愛という名の空気をほとんど吸い尽くしてしまったのだ。
クリームをゆっくりと顔に広げていく。不思議と悲しみはなかった。心が、つるつるとしたガラスに変わっていた。すべての感情が、ガラスに落ちた水滴のように、私の心から滑り落ちていく。ガラスの向こうにいるのは彼。私たちは、冷たくて硬いガラスの板によって分かたれているのだ。
私の手の動きが止まった。
それでいいのだろうか。私たちは夫婦ではないか。
鏡に映る彼をもう一度見た。ソファに座って、テレビを漫然と見ている、鏡の世界の夫。その姿がとても孤独に見えて、目に涙が滲みそうになった。私は両手で顔を強くこすった。このままではいけない。二人の気持ちは、離れてしまう一方だ。私は、思いきってドレッサーから離れると、夫のいる居間に|戻《もど》っていった。
彼の横に座って、手をその膝に置く。彼は微笑んで、私の手の上に自分の手を重ねた。私は彼の肩に頭を乗せた。
夫の体内は、人間の肉で詰まっているのだ。薄緑色のぬめぬめした虫が、内部にいるわけはない。自分自身にいいきかせた。
彼は、私が急に体を寄せていっても、当然のような顔をしてテレビに目を注いでいる。私がずっと彼を避けていたことにも気がついているかどうかわからなかった。ましてや、私が逃げ出したい気持ちを押し殺しながら、肩に頭を乗せているとは想像もつかないだろう。
テレビは野球番組を映しだしていた。私たちは手を握りあって、ソファに並んで座っている。結婚以来、何百夜と過ごした夜と、何ひとつ変わりはなかった。|全《すべ》て、気の迷いなのだ。彼が変わったということも、私たちの愛情が希薄になったということも。
以前、彼はテレビを見ながら、よく番組について講釈したものだった。私は、それに意見をさし挟む。そして夜は更けていった。今は、私たちの間に会話はない。
いけない、そんな風に考えては。
私は会話のきっかけを探して、テレビに目を|遣《や》った。あいにく野球は、スポーツ番組の中でも、最も私の興味を|惹《ひ》かないものだった。他人がボールを打ったり追いかけたりするのを見て、どこが楽しいのかと思う。何度も、その件で純一といい合いになった。彼は最後には「しょせん女にはゲームの|醍《だい》|醐《ご》|味《み》がわからないんだ」と、男女の性差のせいにした。それでまた、ひとくさり|喧《けん》|嘩《か》したものだ。
しかし今は、そんな喧嘩を蒸し返す気力も|湧《わ》かなかった。私はつまらない気分で、ふと視線を下に向けた。彼の腹がゆっくりと上下していた。胸から下腹部にかけて波だっている。腹の下を、巨大な虫が動いているのだ。私はごくりとつばを呑みこんだ。肩が|痙《けい》|攣《れん》するように震えた。
「どうしたの」
彼が私の背中に手をかけた。肩に虫がとりついた気がした。私は肩を揺すって、|弾《はじ》けるように立ちあがった。純一は|怪《け》|訝《げん》そうに私を見た。私は彼を見返した。
純一の体が虫の姿とだぶってくる。ソファに長々と体を横たえる薄緑色の虫。
もうだめだと思った。抑えようとしても、抑えきれない。
「あなた……虫がいるのよ」
私は、ゆっくりといった。舌がうまく回らない。
「さっきいったでしょ。七世紀に、富士川のほとりではやった虫。常世虫よ。あなたの体の中に、その虫がいるの」
純一は戸惑った顔で、「変なこというなよ」といった。口の端が少し上がっていた。妻のいいだした冗談に笑っていいのか、単に受け流していいのか、決めかねているというふうだった。その態度が私をかっとさせた。私は一気に|喋《しゃべ》りだした。
「私、見たのよ。新宿のスペーシアでよ。あなたの体から、大きな緑の虫が出てきたの。純一の体の中には虫が巣くっているのよ。その虫は、昼も夜も、あなたの体の中を這い回っているんだわっ」
私は叫んでいた。叫びながら、心の隅で、まるで、テレビの中で私そっくりの別の人間がわめいているようだと思った。そんな自分の冷静な部分を感じたくなくて、私はさらに怒鳴った。
「気持ち悪いのよ、ずっと。あなたの中の虫のことを思うと、いてもたってもいられないわ。その虫は、純一を食べているのよっ」
純一は立ちあがって、私に手を伸ばしてきた。
「めぐみ、いったいどうしたんだ」
私は彼の手を払った。
「私は正気よ」
「わかってるよ。だけど、興奮しすぎてるよ。ね、もう寝たほうがいいよ」
自分の中に虫がいるといわれたのに、怒りもしないし、否定もしない。興奮する妻を優しく気づかう夫の態度を貫き通す。私は、そのことに|愕《がく》|然《ぜん》とした。
やはり、昔の純一ではない。
私は、食卓の|椅子《いす》に腰をおろすと|呻《うめ》いた。
「こんなんじゃ、結婚生活、続けられないわ」
純一は、わけがわからないというように首を横に振った。
「いったい、どうしたんだ。なにがいけないんだよ」
どうしたんだ、とは。打ちのめされた気分だった。さっきから私のいっていることが、少しも通じていない。
「あなたには、わかってないんだわ」
私は呟いた。
純一は眉をひそめた。その顔に、途方に暮れた子供のような表情が浮かんだ。ふと以前の純一を|垣《かい》|間《ま》|見《み》た気がした。
「虫が体に巣くうようになってから、あなたは変わったのよ。あなた自身は気がついてないけど、私にはわかる」
自分でも驚くほど優しい声だった。私は、まだ彼を愛しているのだと思った。できることなら彼に抱きついて、みんな冗談だ、からかっただけだといってやりたかった。彼は手を伸ばせば、触れるほど近くにいた。そうするのは簡単なはずだった。しかし、今の私には、彼に触れる勇気すらないのだ。彼の中の虫に|脅《おび》えていた。虫が現実のものであろうとなかろうと、すでにそれは私の心の中に実在し、大きく成長していた。私と彼との間には、どうしようもない異質のものが横たわっていた。
「私……実家に帰るわ」
気がついた時には、こんな言葉が口から出ていた。純一は、一瞬、息を止めて、やがて、そうかと頷いた。
「そのほうがいいかもしれない。ゆっくり休んでくるといいよ」
そうすることは、私にとっていいのだと本心から思っているようだった。妻が実家に帰るといいだして、こうまで穏やかな顔をしていられるものだろうか。私は、彼の体を揺さぶって、その落ち着きを振り落としてやりたくなった。
しかし、それも無駄だろう。純一の全身からは、何ものにも動かされない空虚な静けさが漂っていた。それは、あの常世虫の青い目を思いださせた。深い湖のように静けさに満ちた目を。
私はそれ以上、純一と向かい合っていられなくなり、寝室に飛びこんだ。
ばたんっ、という大きな音が、私と彼の間を決定的に引き裂いた。
十二章
雨の中に、白い四階建てのビルが立っていた。雨粒を滴らす『ブティック・フロール』という看板が|侘《わび》しげに見える。
帰ってくるたびに思う。
ここは、本当に私の家なのだろうかと。
実家が新しいビルになったのは、私が東京で大学生活をはじめてからだった。ある時、帰省すると、それまでの木造モルタルの店舗が真新しいビルに変わっていた。店の奥にあった住まいは、その三、四階に移っていた。以来、このビルは、懐かしい家の後釜に座った、ふてぶてしい顔をした建物にしか見えない。
傘をバラの花に縁どられた傘立てに入れて、私は店の中に足を踏みいれた。白いリノリウムの床、模造大理石の壁や階段。小さなスポット照明が、店内に飾られたドレスを色鮮やかに浮きたたせている。あちこちに客の姿があり、店は、けっこうはやっているようだった。
奥のカウンターに座って帳簿を調べていた母が顔をあげた。「おいでやす」といいかけて私だと気がつくと、はちきれんばかりの声でいった。
「おかえり。えろ早う着いたんやな」
昼を過ぎたばかりだった。私は朝一番の新幹線に乗って、京都に戻ってきたのだった。
昨夜は、まんじりともしなかった。純一がベッドで寝返りをするたびに、私は身を硬くした。|暗《くら》|闇《やみ》に紛れて、彼の体から、薄緑色の虫が|這《は》い|出《だ》しそうな気がした。結婚以来、あれほど長く感じた夜はなかった。しかし、このモダンな店の中では、昨夜のことすべてが非現実的に思えた。
母が、せっつくように聞いた。
「どないしたんや、いったい。急に帰ってくるやなんて」
家を出る前にかけた電話では、ただ帰る、と告げただけだった。母に帰省の理由を何といえばいいのかと迷っていると、後から大きな声がした。
「いやぁ、お姉ちゃん」
陳列してあるドレスの間から、妹の朔美が顔を出した。髪をショートカットにして、大きな銀色の丸いピアスをぶら下げている。白いブラウスに、|派《は》|手《で》なオレンジ色のパンツを|穿《は》いていた。
帰省の理由を説明する時間が稼げたので、私はほっとしていった。
「相変わらず、すごい|恰《かっ》|好《こう》やな、朔美」
朔美は両手を腰にあてて、むくれた顔をした。
「お姉ちゃんがもっと派手な服、着はったらええんやわ。私、選んだろか」
「ええわ。あんたにまかせたら、後が怖い」
朔美は、失礼ね、といって、けらけらと笑った。母によく似た笑い声だった。
父のことを聞くと、母は、奥の事務室を指さした。
「下村さんと話したはりますわ。どうせまた、町内会の集まりのことやろ。ほんまにもう、毎週毎週、ええ大人が集まって、ろくなことしてはらへん」
「町内のこと、決めてるんやないの」
「せやったらよろしけどな。私は、集まりの後のカラオケ目当てに、ああしてごちゃごちゃ約束を取りつけてはるんやと|睨《にら》んでるわ」
私は、くすりと笑った。のんびり屋の父は、昔からやり手の母の目を盗んでは、息抜きを見つけていたものだ。以前は稽古事だった。店の主たるもの、教養がないといけないといって、仕事の合間を縫って習字に俳句、お茶まで習ったものだった。残念ながら、どれも稽古を放りだして仲間との交遊に走るので、母の怒りが爆発し、稽古事の時代は終わった。しかし私は、それには稽古事先で知りあった女性関係も絡んでいたと思っている。私が高校の時、一時、家の雰囲気がおかしくなったことがあった。
母は、カウンターの帳簿をぱたんと閉じるといった。
「ほな、めぐみ。上行って、ゆっくりしよ。私も一息つきたいと思うてたとこやし」
母は、客の応対に戻っていた朔美に店を頼むと、私を連れて階上にあがっていった。
三階の玄関から家にはいり、居間のカーペットの上に腰をおろす。壁にかかったユトリロの複製画。ピアノの上の陶器の人形。グレーのソファ。どれも私が東京で暮らしはじめてから、この新しい家に来たものだ。私にとっては見慣れぬ調度品だ。
棚の上に貝がら細工の小箱を認めて、懐かしい友に会った気分になった。それは昔の家から来たものだった。現在も小物入れとして使っているのだろうか。取れたボタン、もうどこに使うのかもわからなくなった|鍵《かぎ》やネジ……。過ぎてゆく時とともに忘れられてしまう、そんな昔の家の落とし物が、かつてはしまわれていた。だが、きっと今、あの小箱を開いても、私の見覚えのない小さなものが収まっているだけだろう。
母はクーラーをつけると、ブラウスの|裾《すそ》をぱたぱたとはためかせて、太った胸に風を送った。
「ほんまに、いやになるな。毎日毎日、雨ばっかり。この、むしむしするのがかなわんわ」
「梅雨やもの、しょうがないわ」
クーラーの冷気が急速に部屋に満ちていく。私はほっと息をついた。昨夜から張り詰めていた気が、ふっと抜けたようだった。
「純一さんは、元気か?」
母が何気ない風に聞いた。
私は、元気よ、とそっけなく答えた。母は身を乗りだして、私の顔を見つめた。
「あんた、純一さんと|喧《けん》|嘩《か》でもしたんやないの」
私はどきっとして聞き返した。
「どうして?」
「こないに急に帰るの、普通やないわ」
母は有無をいわせない口調でまた聞いた。
「何があったんや」
純一の体に、巨大な虫が住んでいる。
|喉《のど》|元《もと》まで、その言葉が出かかった。しかし、私はひと呼吸おいていった。
「なんでもないわ」
「めぐみ」
母が非難する目で、私を見た。
「ほんとに何もあらへんって」
思わずきつくいい返して、ますます母に、純一との間に何かあったという確信を抱かせてしまったのに気がついた。
私は話題を変えた。
「それより朔美、なにあれ。すごいショートカット。|爪《つめ》まで真っ赤っかにしてから」
母もとりあえずは、私のことはそっとしておこうと決めたらしい。わざと口をヘの字にして、朔美に対する愚痴をこぼしだした。
「あの子ゆうたら、親が何ゆうたかてきかへん。ブティックの店員は、人がびっくりするくらいの恰好がええのんですと」
「まあ、そういわれれば、そうかもね」
「若い人のファッションには、もうついてけへんわ」
母は、ため息をついた。
「おいおいは、この店、朔美に継いでもらおう思うてるから、ええけどな」
「朔美ならうまいことやるやろ」
私は駄目だ。ブティックの経営など、できはしない。母から朔美へ。似た者同士。つながっていくものがある。私なら、祖母。祖母から私。何を伝えてくれたのだろう。
夢? 虫送り?
私は、無意識に肩を震わせていた。
「寒いんか?」
母が聞いた。
私はクーラーのせいだとごまかした。母がクーラーの設定温度をあげていると、玄関の戸が開く音がして、父が、にこにこしながら居間にはいってきた。
「よう帰ってきたな、めぐみ。なんや、|挨《あい》|拶《さつ》もせえへんと、こっちにあがってきてからに」
私は、接客中だったのでといい訳した。母が皮肉っぽく、お父さんは町内の人と話すんで忙しいから、と口を挟んだ。父は苦笑いして、グレーの革張りのソファに腰をかけた。その、穏やかな笑みがソファにまで広がっていき、|椅子《いす》全体が笑っているような感じがした。父は、どこにいてもその場の風景に溶けこんでしまう人間だ。父が母と隣合わせに座ると、母の存在感に圧倒されて、まるで黒子のように見えてくる。
「純一さんは元気か」
また同じ質問だった。私が口を開く前に、母がいった。
「元気やて。この子、なんや、急に里心がついて帰ってきたらしいわ」
暗に、父に、それ以上聞くな、といっているのだった。父は母の合図に気がついたかどうかはわからなかったが、外面はその答に満足した様子で、今度は東京の生活や、義母の様子などを聞いてきた。母も交えて、ひとしきり身辺の話題で花が咲いた。しかし流産の話はひとつもでなかった。二人とも示しあわせたように、それを避けている。その心遣いが、かえって私を落ち着かなくさせた。
「私、夕方まで、ちょっと出てくる」
「どこへ?」
母が驚いて聞いた。
「|太秦《うずまさ》」
父も母も当惑したようだった。私は、祖母の家が懐かしくなったのだと説明した。
「けど、もうあの家、あらしまへんで」
母がいった。私は、わかっていると答えた。
「あのへんも、えらい変わってしもうたしなぁ」
父が煙草に火をつけながらぼやいた。
「この前、用があって通ったけど、なんや知らん町みたいやったわ。昔、お袋に預けてためぐみを引き取りに行った帰りに、よう立ち寄った|寿《す》|司《し》|屋《や》があったやろ。あれかて、もうマンションに変わっとったわ」
「せやろ。お義母さんの家、手放したら損やって、私、お義兄さんにあないにいうたのにな。あのまま持ってはったら、今頃はなんぼの資産になっとったことか……」
それは、十年ほど前、伯父が祖母の家を売り払い、転勤先の福岡に家を建てて以来、続いている母の口癖だった。まだ何かいいたそうな母を制して、私は聞いた。
「お父さん、秦河勝ゆう人、知ってはる?」
父は、聞き覚えがあったらしく、思い出そうとするように首を|傾《かし》げた。奈良時代、太秦に住んでた豪族なのだというと、父は、ああ、と|頷《うなず》いて、祖母が、そんな人のことをいっていた、といいだした。
「確か……、そうやった。太秦に蛇塚ゆう古墳があるんや。子供の頃、そこで遊んどったのがばれて、この罰当たりが、ゆうて、えろう怒られたわ。その時、聞いたんが、あそこがご先祖様の秦河勝のお墓ゆうことやった」
「ほんまやの」
父は煙草の煙を吐き出しながらいった。
「まあ、はっきりした証拠はないみたいやがな。お父さんの子供の頃は、そのあたりは蛇がぎょうさんおるんで有名やったんや。秦河勝ゆう人も気の毒に。自分の墓が、そないな蛇の巣になってしもうてからにな」
常世虫を退治した秦河勝が、蛇塚に葬られる。蛇とは長虫。また虫だ。
私は顔を|歪《ゆが》めた。父が気づかわしそうに聞いた。
「それが、どないかしたか」
「ううん。ちょっと、そんな人の話、聞いたんでな」
私は、話を切りあげて、出かけるために立ちあがった。
父が、太秦まで送っていこうかといいだして、母に、店の仕事が残っていると釘をさされた。私は、電車で行くからといって、窓の外を見た。
もう雨は小降りになっていた。
小雨の中に朱色のスペイン瓦がつやつやと光っている。その白い壁の洋風の家は、祖母の家だった敷地に建っていた。祖母の家がここにあったのは、|遥《はる》か昔のことだった。今、その土地は、二つの区画に分けられて、スペイン風の家の横には、どこの町にでも見かける平たい屋根のプレハブ住宅が建っていた。プレハブ住宅の塀ぎりぎりに、隣の家が続いている。
私は、あたりを見回して、変わったな、と思った。祖母がまだ生きていた頃、この付近は水田だった。今では水田は消えて、住宅が野放図に広がっている。祖母に連れられて虫送りを見にいったのはどの地域だったのか、思いだすのも難しい。
私は傘をたたんで、霧雨の中を京福電鉄の駅のほうに戻りはじめた。トラックやバスに混じって、のんびり走る路面電車だけは、昔と変わってなかった。よく祖母と一緒に、太秦の映画撮影所あたりにまで散歩に行ったものだった。時折、時代劇の恰好をした役者たちが門から出てくるのに会うと、私は後についていこうとした。そんな時、祖母は、私の手をぎゅっとつかんで放さなかった。
私は、自分の手を広げて見た。この手が、今は鬼籍にはいっている祖母の生きた手を握りしめていた時があったのだ。
|広隆寺《こうりゅうじ》の門の前に来た。秦河勝の建てた寺だ。そういえば、ここも祖母と私の散歩コースだった。ベールを少しずつ|剥《は》ぐように、幼い頃の思い出が|蘇《よみがえ》ってくる。夕暮れ時になると、祖母に手をつながれて、この門にはいっていったものだった。
門の向こうは、広い砂利道が続いている。うっそうと繁る木々のトンネルの正面にあるのは本殿だ。祖母は、いつも本殿ではなく、右手にある小さな社の前で手を合わせていた。私は、祖母がお参りしていた社に近づいていった。『太秦殿』という看板のかかった社だった。縁起にこう書かれていた。
『往古より秦氏を|祭《さい》|祀《し》せる神社なり。本尊は秦河勝』
やはり、という気がした。見えなかった糸が、少しずつ現れてくる。
後で砂利を踏む、いくつもの足音がした。振り向くと、修学旅行らしい紺の制服姿の一団がこっちにやってきていた。
「はーい、ここで止まって。こちらが聖徳太子様のお像をご本尊として|祀《まつ》っております、本殿でございます」
黄色の帽子と黄色のスーツに身をかためたガイドの女性が、やはり黄色の声を張りあげていた。学生たちは、小声で話しながら遠巻きに本殿を見ている。静かな空気が、カチャカチャとセルロイドをつぶすような音をたてて崩れていく。私は逃げるように、本殿から離れた。
本殿の裏に、霊宝殿というコンクリートの建物があった。せっかく来たのだからと思い、拝観料を払って中にはいった。
うす暗い展示スペースの中に、たくさんの仏像が並んでいた。怒りを|露《あら》わにした四天王像や不動明王像。無数の|蠢《うごめ》く手を持ちながら、その胴体は微動だにせず落ち着いている千手観音像。たくさんの仏像の中央に、|弥《み》|勒《ろく》|菩《ぼ》|薩《さつ》像があった。まわりに人だかりがしているのを見ると、有名なものらしかった。私は、その像の前に立った。
秦河勝が聖徳太子から賜ったとされる仏像で、日本で最も古く、美しい弥勒菩薩像という説明がついていた。右足を左の|膝《ひざ》の上に乗せて、静かに考えている弥勒菩薩の|半《はん》|跏《か》|思《し》|惟《い》像だ。筆ですっと|撫《な》ぜたような半円形の|眉《まゆ》、薄く閉じた目、|微笑《ほ ほ え》みを浮かべた|口《くち》|許《もと》。自己の内部に広がる深遠を見つめて、ただ満ち足りた表情。
私は、純一のことを思いだした。静かに座り、じっとテレビに目を注ぐ純一。彼の目は、テレビの画像を追ってはいない。この弥勒菩薩像のように、内なる宇宙に向けられていたのではなかったろうか。
私は、それ以上、純一と重ね合わせて考えるのが怖くなって、弥勒菩薩像から目を|逸《そ》らせた。
隣には、男女の像が置かれていた。『秦河勝御夫妻像』とあった。目をかっと見開いた、意思の強そうな男の像だった。きりりとつりあがった眉、引き締まった口許。厚い唇。太い筆先のような|顎《あご》|髭《ひげ》を生やしている。それが秦河勝だった。常世虫を追い払った人物。蛇塚に埋葬された男。
私は、また隣の弥勒菩薩像に目を|遣《や》った。静けさに満ちた菩薩と、激しい感情を|漲《みなぎ》らせたような男。聖徳太子に賜ったものとはいえ、果たして秦河勝は、この弥勒菩薩像が好きだったのだろうか。
横に並べられた二つの像の表す表情は、あまりにも違いすぎた。
外に出ると、灰色の雲の間から、弱々しい|陽《ひ》が|射《さ》していた。境内の木々の若葉が透き通って見える。
——ほな、もうちいっと回っていきまひょか。
祖母の声が聞こえた気がした。
一度散歩に出ると、私たちは、かなり長く歩いたものだった。映画撮影所から、広隆寺へ。そして……、そうだった。蚕の社に足を向けたのだった。
広隆寺から歩いて五分ほど、大きな神社が今もそこにあった。『蚕の社』と彫られた石柱の向こうに、濃い緑の森が広がっている。大木に囲まれて、昼でも薄暗い神社の中にはいると、祖母は、こういったものだった。
——めぐみちゃん、うちはな、ずっとお蚕様の御陰で栄えてきた家なんや。さあさ、お蚕様にお礼を申しあげまひょ。
そして境内にある神社にお参りした。祖母の思い出を追いかけるように、私は蚕の社に足を踏みいれた。
雨あがりで、境内のあちこちには水たまりができていた。まわりを囲む森の中から、白いもやが漂ってくる。
ぱんぱん。大きな|柏手《かしわで》が響いた。見ると、薄茶色のズボンをはいた、|痩《や》せた老人が、境内に点在する|祠《ほこら》のひとつひとつにお参りしてまわっていた。
私は、もやのたなびく森の中に歩いていった。石段を少し降りると、小さな泉がある。音もなく|湧《わ》き上がる水は、泉から|溢《あふ》れだし、細い川となって、太秦の地へと流れていく。泉の中央に三本足の鳥居が立っていた。
私は、鳥居の前に立って、その奇妙な形を見つめた。
ちょうど正三角形の位置に、鳥居の柱が三本立っている。普通の鳥居は前後、二面しかないが、この鳥居は三方に開かれている。とはいえ、泉の真ん中に立っているので、誰もその下をくぐることはできない。
祖母と一緒に訪れていた頃、子供心にも、この三本足の鳥居は不思議な存在だった。いったい誰があの鳥居を使うのかと、祖母に尋ねたことがあった。
——あそこをくぐらはるんは、生きたはるお人やあらへん。
泉に浮かぶ鳥居をじっと眺めながら、祖母は、こういったような気がする。しかし遠い昔のことだ。それは、今、この三本足の鳥居を見ているうちに、私の頭に浮かんできた言葉なのかもしれなかった。
ぽとっ、ぽとっ……ぽとん。静まりかえった泉の周囲で、木の葉から落ちる雨の|雫《しずく》が、小さな音をたてていた。白いもやが、鳥居の下の水面から絶え間なく湧きあがっている。
突然、耳元で柏手が響いた。
ぎょっとして見ると、さっきから境内をまわっていた老人が|頭《こうべ》を垂れて、隣で合掌していた。白いもやに包まれて、老人の姿は亡霊のように見える。
私は、彼の祈りを妨げないように、そっとその場を離れようとした。その時、老人は顔をあげた。
——常世蟲をはびこらすな——
低い声が聞こえた。私は驚いて老人を見た。彼は、まっすぐに私を見つめている。
——あれは人の心を|喰《く》い荒らす蟲——
しゅうしゅうと歯の間から息を吐きだすようにしていった。奇妙に単語のはっきりしない言葉だった。老人の目は黄色く濁り、顔は|頬《ほお》|骨《ぼね》から|顎《あご》にかけて、あらぬ方向に|捩《ね》じ曲げられたように|歪《ゆが》んでいる。
——憎きは、大生部多のやつ。せっかくあやつめを討ったというに、ただひとつ、卵を残しおった。無念じゃ、無念じゃ——
私は息を|呑《の》んだ。
老人の顔は、さっき見た秦河勝の像に似ていたのだ。ごつごつとした四角い顔。肉付きのいい鼻。厚い唇。老人は、かっと目を見開いて、怒りに満ちた声をあげた。
——蟲を増やしてはならぬ。常世蟲を退治するのだ——
老人は私に向かって叫んだ。そして、不意にぷつんと言葉を切った。その顔から、怒りの表情が消えていく。同時に、老人の顔が変わりはじめた。張りつめていた肉がしぼんでゆき、無数の|皺《しわ》が波立ちながら現れてきた。唇は縮み、小鼻が空気を抜いた風船のように小さくなった。黄色に濁っていた目に、|幽《かす》かに光がさしてきた。まるで奇術師が布を頭からかぶせて、いち、に、さん、と数えたようだった。老人の頭から見えない布がとり去られると、まったく別の顔になっていた。年老いた鶏のような顔。秦河勝の面影は、もうどこにもなかった。
老人は目をぱちぱちとさせた。そして三本足の鳥居に向かって一礼すると、立ち去ろうとした。私は慌てて聞いた。
「お|爺《じい》さん、どういうことやの。さっきの話」
老人は、きょとんとして私を見た。
「話? なんのことどすか」
「さっき、私に常世虫のこと、いわはったやろ」
老人は驚いた顔を私のほうに突き出した。
「わし、あんさんには何もゆうてまへんがな」
足元から、じくじくとした泉の冷気が|這《は》いあがってくる。私は、それを払いのけるようにいった。
「いわはりました。それも大きな声で」
老人は困ったような笑いを浮かべた。
「わしは、ただここで柏手を打って、神様にお祈りしてただけどすがな。お祈りの最中に、あんさんと話なんかするわけないだすやろ」
覚えてないのだ。
私は、まじまじと黄色い鶏に似た老人の顔を見つめた。彼は、私の視線を疎ましそうに避けると、そそくさと神社から出ていった。
さっきのは夢だったのだろうか。獲物を見つけた鷹のように、再び冷気が襲いかかってきた。私は両手で体を抱えこんだ。
あれは、私の幻覚だったのだろうか。変化した老人の顔も、あの言葉も……。
——常世蟲を退治せよ——
いいや、あの声は、まだ私の頭に響き渡っている。しゅうしゅうという息遣いまでも、しっかりと耳の奥に残っている。
私は震えそうになりながら、目の前の泉を見つめた。三本足の鳥居の下から、もやが湧きあがっている。それは私に、虫送りの夢を思い出させた。燃やされた害虫から立ち昇る、あの白い煙を……。
十三章
|襖《ふすま》を開けると、湿っぽい匂いがぷんと漂ってきた。電気のスイッチをつけると、|箪《たん》|笥《す》と仏壇が置かれているだけの、がらんとした和室が浮かびあがった。いつもは使われていない部屋の真ん中に、客用の布団が敷かれていた。横に立った母が聞いた。
「なんか足らへんもの、ないか」
枕元には、電気スタンドに目覚し時計。部屋の隅には、私のバッグが置かれている。忙しい仕事の合間に、母は私のために寝支度を整えてくれていた。
私は、これで充分だといって、掛け布団をめくった。
「もう寝るんか?」
母が驚いた声をあげた。まだ十時前だった。
「うん、疲れたし」
私は応えた。昼間、蚕の社で見た幻影が、まだ頭の隅にどっかりと腰をおろしていた。夕食中、両親や妹を相手に話しをしていても、常にあの老人の声が頭に響いていた。
母がためらいがちに|訊《たず》ねた。
「純一さんには電話、せえへんの?」
私の顔がこわばった。そして、実家に着いてから、彼から何の連絡もなかったことを思いだした。
「ええわ。用があったら、向こうから電話をかけてくるやろ」
母は私の顔を|睨《にら》みつけるようにして、小声で聞いた。
「あんた、ほんまに純一さんとの間になんもなかったん?」
私は、何もないとつっぱねた。母は、まだ何かいいたそうにしていたが、結局、視線を畳の上に落とした。