「そうやったらええけどな。……ほな、まあ、おやすみ」
静かな音をたてて襖が閉まった。部屋の空気は、よそよそしく私を包んでいた。この部屋で眠るのははじめてだった。帰省するたびに、私は自分の部屋で寝ていた。しかし今回、帰ってみると、その部屋は店の商品置き場と化していた。どうせビルに建て替えた時に作ってくれた部屋だ。その部屋で過ごしたことは、ほとんどない。|馴《な》|染《じ》みのない部屋だったので何とも思わなかったが、家の中から、私の存在が薄らいでいく寂しさは残った。
私は電気を消して、布団にもぐりこんだ。テレビの音が聞こえている。朔美と母の笑い声が二重奏のように流れてきた。
いつも、この家では親子三人、ああして夜を過ごしているのだろう。私が出ていってから作られたこの家は、最初から三人家族の家として出発したのだ。両親と朔美の歴史が着実に積み重ねられてきている。その中に私はいない。この家にとっては、私はよそ者だ。普段は使われていない客間と客用の布団。それが、この家での私の位置をよく示している。
私の居場所は、東京の狭いマンションのあの一室しかないのかもしれない。小さなキッチン、ダイニングテーブルに、本や雑誌の積み上げられたリビングボード。そしてテレビの前に、でんと居座るソファ。あの、物のごたごたと置かれた家こそ、私の家。二人で買いにいった食器棚。どのデザインがいいかで|喧《けん》|嘩《か》になったランプシェード。裸で抱き合っていた時に足元のコーヒーカップが倒れてできたカーペットの|滲《し》み。私と純一の歴史が積み重ねられてきた、あの家。
今頃、あの家に一人、ぽつねんと座っているだろう夫を想った。その体に両手を回して抱きしめたくなった。そうやって抱きあって、何百もの夜を過ごしてきた。夜毎に|洩《も》れゆく二人の吐息が、少しずつ家の中に満ちていき、私たちの家の空気を造りあげたのだ。
私は布団から起きあがった。電気もつけずに手探りで襖を開けた。廊下の明かりが部屋に射しこんできた。私は玄関口にある電話の前に行った。
一息おいてから、家の番号を押した。呼び出し音が鳴っている。カチリと受話器がはずれて、純一の物憂げな声が聞こえてきた。私だとわかっても、彼は驚きもしなかった。
「今、京都の家」
私はわかりきっていることをいった。純一は、そうか、と|呟《つぶや》いて、両親は元気かと聞いてきた。私は一通り、実家の様子を説明した。
「純一は? なにも変わったこと、ない?」
「べつに。駅の近くの食堂で、てんぷら定食を食って、ビールを飲んで、今帰ってきたところさ」
もう何年も、一人でそんな生活を送ってきたかのような淡々とした口調だった。今の彼にとっては、私なんて、家にいてもいなくても同じことなのだ。
胸の底に、うっすらと悲しみが|湧《わ》きあがってきた。
私がいなくて、寂しくないの?
そう訊ねたかった。しかし、その問いを口にしなくても、返事はわかっていた。優しくなった彼はきっと、寂しいよ、と答えてくれるだろう。
だが、そんな言葉を引きだしても、何にもなりはしない。ままごと遊びをしているようなものだ。パパ役とママ役の人形を向かい合わせる。お帰りなさい、あなた。ただいま、おまえ。食事はどうするの。もらおうかな。愛してるわ、あなた。僕もだよ——。幼い時にやったたわいない遊び。
いいや。今は、ままごと遊びのような夫婦の会話はしたくない。
二人の間に沈黙が流れていた。電話から、すうすうという彼の呼吸音が聞こえてきた。その息が私の心にはいりこんできて、空虚な音を響かせた。
「おやすみ」
私はたまらなくなって、いきなり電話を切った。そして、うす暗い玄関の片隅で、泣きだしたい気分に襲われた。
風呂場から、朔美に風呂にはいれ、と勧める母の声が聞こえた。私は、風呂場から出てくる母に見られないように、足早に部屋に戻った。
部屋は、私の心を、その暗く湿った空気で包んでくれた。さっきよりこの部屋が好きになって、私は布団にはいった。
これからどうすればいいのだろう。夫の側にいれば、巨大な虫を連想して、我慢できなくなる。しかし、こうして離れても、何の解決にもならない。私の居場所は、純一と暮らしたあの家以外にはないのだから。
どうすればいいのだろう。わからない。どうすれば……。
堂々巡りの思考の中で、私はいつか眠りに落ちていた。
蒸し暑かった。全身、じっとりと汗ばんでいる。私は寝返りを打った。どこかで、ちいぃぃいんという|鉦《かね》の音がした。
部屋は、重油のようにねっとりとした空気に満ちていた。その漆黒の|闇《やみ》の中で、部屋の片隅がぼうっと白く光っていた。光は、白い帯となって畳の上をじりじりと近づいてくる。
やがて、布団の上に|這《は》いあがり、輝く蛇のように鎌首をもたげて、私の上に覆いかぶさってきた。悲鳴をあげようとしたが、干からびた|喉《のど》からは、かすれ声すらでない。体は布団の下で硬直している。光の蛇は、私の足から、腰、そして胸へと、ずりりずりりとせり上がってくると、私の顔を包んだ。土臭い、湿っぽい|臭《にお》いがした。
——常世蟲を退治せよ——
頭の奥で声がした。
パチン。電気スタンドのスイッチをつけた。赤味がかった光の中に、畳の部屋が浮かびあがった。時計を見ると、午前二時半。汗が乾いたせいか、寒気がする。油のように重苦しかった空気は消えていた。
今、見たのは何だったのだろう。夢だったのだろうか。
私の目が仏壇で止まった。閉まっていたはずの扉が開いていた。一瞬、体が硬直した。私は立ちあがって、部屋の電気をつけた。蛍光灯の光が、部屋の隅々まで行きわたった。私を|脅《おび》えさせるような、どんな暗がりもない。それでも私は、びくびくしながら仏壇に近づいていった。
開いた仏壇の扉の奥に、祖父母の|位《い》|牌《はい》があった。その前に、祖母の写真が飾られている。祖母は、|毅《き》|然《ぜん》とした顔で私を睨みつけていた。その時、私は気がついた。厚い唇。大きく見開かれた目。祖母の顔は、|広隆寺《こうりゅうじ》にあった秦河勝の像に似ていた。
ということは、秦河勝に似ているということか。
祖母は、秦河勝は、先祖だといっていたという。それが本当なら、私には、秦河勝の血が流れている。常世虫を退治した男の血だ。
私にも、常世虫を退治できるのではないだろうか。純一の体に巣くう、あの虫を。
水が沸騰する直前、小さな気泡が水面に沸きあがるように、少しずつ少しずつ、体の中に力が湧いてきた。
私は仏壇の扉を閉めた。その閉まる音と共に、心が決まった。
『卵から孵化する蚕の幼虫は「|毛《け》|蚕《ご》」といわれています。毛蚕は、生まれたとたんに柔らかい桑の葉を食べはじめます。バリバリと音をたてて|貪《どん》|欲《よく》に食べ続け、脱皮を繰り返しながら大きくなっていきます。約二十五日で、毛蚕の時の一万倍以上の大きさに成長すると、やがて動きが緩慢になってきて、繭を作りはじめます。そして|蛹《さなぎ》となり、約二週間、繭の中にいます。
この時期、蛹の内部では、奇妙な変化が起こっています。幼虫の体が分解されて、どろどろになるのです。成虫は、その栄養素を再構成して生まれます。その再生が完成されると、|蛾《が》となり、繭の外に出てくるわけです。
蛾の雌は、雄と交尾をして、一晩で五百個以上の卵を産みます。
卵の孵化する温度は、二十五度です。冬の間とか、それよりも低い温度の場所では、いつまでも孵化しないで、卵のままでいつづけます。これが休眠卵です。
二十五度以上で孵化した卵からは、また毛蚕が生まれます。こうして次々に世代を交代させながら、蚕はどんどん増えていくのです』
読み進むうちに怖くなってきた。
常世虫が、蚕に似た虫というからには、ここに書かれた記述に、あてはまる部分は多いだろう。ひっかかったのは、低温状態では、蚕の卵がいつまでも孵化しないということだった。「常世蟲」と刻まれた石の器は、地面に埋められていたのだ。地中の温度は一定しているし、高温状態にはなりにくい。ということは、常世虫の卵が、七世紀の昔から地中で眠り続けていた可能性はある。そして、純一によって地上に出されたせいで孵化して、彼の体内にはいりこんだ。虫は大きくなり、やがて蛹になる。純一の肉体は、蛹をくるむ繭だ。常世虫の蛹は、その安全な繭の中で、成虫となるために、どろどろに体を溶かして再構成をはじめる……。
私は顔を|歪《ゆが》めた。突拍子もない想像だ。第一、本当に巨大な虫が肉を食らっているなら、純一の体にその兆候が現れているはずだ。
——人の心を喰い荒らす蟲——
蚕の社で聞いた声が頭に|閃《ひらめ》いた。
もし、常世虫の食べるものが、目には見えない人間の心だとしたら、純一が外見的には変化がないのも|頷《うなず》ける。彼は、心を常世虫に食べられて、性格が変わってしまった。
しかし、虫に心を食べられた人間には、何が残るのだろうか?
私は『蚕の一生』と題された本を棚に押しこむと、書店から出た。京都の駅ビルには、たくさんの店がはいっている。旅行バッグをぶらさげて行き交う人々の間に薬屋の看板を見つけて、私は歩いていった。
「虫下し、ください」
カウンターに立って頼むと、白衣を着た店の男性に聞き返された。
「何の虫ですか」
常世虫。心の中で答えてみて、私は笑いそうになった。常世虫を退治する薬があるというのなら、いくら払っても惜しくはない。
「あの、お客さん……」
店員は、私を促すように、また聞いた。
「何の虫でもいいんです。体の中の虫を追いだしたいんです」
店員は興味をそそられたように私を見た。
「南の国にでも、旅行しはったんですか」
|怪《け》|訝《げん》な顔をした私に、店員は、東南アジア付近に旅行して、寄生虫をもらってくる人が多いのだと説明した。寄生虫というのなら、あの虫も同類には違いない。私は、とにかくありったけの虫下しをだしてくれ、と頼んだ。
店員は戸惑いながらも、後の棚から小さな薬の箱をいくつか取りだした。
「こちらは回虫の特効薬。こっちは|鉤虫《こうちゅう》、|蟯虫《ぎょうちゅう》、回虫などにも効きますが、副作用が強いし下剤と一緒に飲まなあきまへん。そして、こっちは|鞭虫《べんちゅう》、蟯虫、回虫向けのサントニン配合の……」
列車の時間が迫っていた。私は、店員の話を遮った。
「全部いただきます」
店員は、あきれたように私を見た。
相手が純一の心を食べる虫だとしたら、買い求めた薬が効くとも思えないが、私の心の鎮静剤にはなった。私は紙袋を抱えて、新幹線の乗り場に向かった。
新幹線のホームから見ると、東京の方向の空は、灰色にどんよりと曇っていた。私を待ち構える|得《え》|体《たい》の知れない虫のように、雲はつかみどころなく、重く垂れこめている。
私が急にまた東京に戻るといいだした時の母は、もう、うんざり、という顔になった。
「あんたなぁ、勝手もええ加減にしときや。なんや知らへんけど、突然、家をでてきた思うたら、次の日にはもう帰るやなんて。ほんま、人騒がせな子や。純一さんかて、そのうちに怒らはりますえ」
その純一なのだ、問題は。私は、そういい返したいのをこらえた。
私の帰る場所は、純一と築いてきたあの家しかない。
夫の体から虫を追い出すのだ。二人の関係を修復するのだ。私自身のためにも……。
「まもなく東京行き、ひかり号が参ります。ホームの白線のところまでお下がりください」
アナウンスが聞こえた。新幹線の白い車体がぐんぐん近づいてくる。
——常世蟲を退治せよ——
あの声が、耳の奥でこだましていた。
十四章
「なんだか腹の調子がおかしいんだ」
会社から帰ってきた純一が、下腹部を押さえながらいった。私は夕刊から目を放して、彼の顔色を|窺《うかが》った。いつにも増して青白い。
「お腹をこわしたのよ。下痢、しなかった?」
「うん。会社でトイレに駆けこんだ」
「その時、変なものでなかった?」
純一が|眉《まゆ》をひそめた。
「何だい?」
私は小さな声で答えた。
「虫とか……」
彼は皮肉な笑いを浮かべた。
「まだ俺が虫を飼っていると思ってるの」
私は言葉に詰まって、夕刊に目を落とした。
『インドと中国の戦争、国境近辺で泥沼化。危ぶまれる核兵器使用』
死神の|烙《らく》|印《いん》にも似た、黒々とした文字が紙面を行進していた。道端に転がっている、こんもりとした死体の白黒写真が、道を|這《は》う|蛆《うじ》|虫《むし》のように見える。こんなに緊迫した世の中なのに、少しも現実感はない。その死の蛆虫たちが、私の世界にまで行進を続けてきて、ようやく恐怖の叫び声をあげはじめるのだろう。しかし今の私にとっての現実とは、夫との関係でしかない。
純一は前かがみになって寝室にはいっていった。私は食卓の|椅子《いす》に座ったまま、新聞の陰から、彼がベッドの上に服を脱いでいく姿を見守った。シャツをぺろりとめくると、彼の上半身が|剥《む》き出しになった。純一の裸を見るのは久しぶりだった。京都から帰って以来、私は隣の和室に布団を敷いて寝るようになっている。もうずっとセックスもしていない。彼は私を誘いもしないし、たとえ誘われても、私は応じないだろう。少なくとも、今は到底、そんな気にはなれない。
純一の白く|痩《や》せた背中を見ていると、小さな|拳《こぶし》のように浮きでた|脊《せき》|髄《ずい》の骨の間から、ひょいと緑色の巨大な虫が頭を|覗《のぞ》かせそうな気がした。私は新聞に視線を戻した。
「ああ、頭痛までする」
純一の|呻《うめ》き声が聞こえた。私はさすがに気になって、寝室に様子を見にいった。彼はベッドに横になり、半ば目を閉じていた。
「大丈夫?」
声をかけると、純一は弱々しく答えた。
「吐き気と下痢と、頭痛だ。|完《かん》|璧《ぺき》に風邪の症状だよ」
駆虫薬のせいだ。副作用に悩まされるほど、たっぷり飲ませたのに、虫は出てこないのか。私はがっかりした。
「具合が悪いのなら、お医者さんに行かないと。検査してもらったら?」
駆虫薬が効果がなければ、医者に行く。それはもう決めてあったことだった。自分が、夫を計画的に殺そうとしているような気がした。純一は、それは、おおげさだといいながら、横になったまま額に手をあてた。顔色が悪い。かわいそうに。
私は、ベッドの端に腰をおろした。
「前から思っていたのよ。一度、ちゃんと健康診断をしてもらったほうがいいわ。レントゲンも撮ってもらって……」
「いいよ。めんどくさいし」
「明日は土曜日で、休みじゃないの。ね、行きましょ」
私は彼のほうに身をかがめていった。しかし、体に触れる勇気はなかった。交通事故の現場をとおまきに見ている野次馬のように、こわごわと夫の顔を覗きこんでいる。病院に行かなければいけないのは、私のほうかも知れないと思った。
「行ってよ。お願いだから」
強要口調でいうと、純一はしぶしぶ|頷《うなず》いた。
「約束よ」
私はベッドから立ちあがると、逃げるように寝室を後にした。
広げた蝶の羽に似た、|肋《ろっ》|骨《こつ》が浮きあがっている。二つの肺が、雲のようにぼんやりと並んでいる。医者は、レントゲン写真と、カルテを見比べながらいった。
「どこも悪いところはありませんでしたよ。しいていえば、肝臓の機能が少し低下しているくらいで」
純一が、私を振り向いていった。
「ほら、心配することはなかったんだ」
私は、医者が光にかざしたレントゲン写真をまじまじと見ていた。虫は、私の目には見えたが、レントゲンには映らないのだろうか。何か、うっすらとした影のようなものでも映っていてくれればよかった。
私を支えていたものが、崩れ落ちてしまいそうだ。
|常《とこ》|世《よ》|虫《むし》なんて、本当にいるのだろうか。すべては私の思い過ごしではないか。しかし、私の心が、それは真実だと叫んでいた。
「まあ、これからも時々、定期検診に来てください。今、健康でも、明日はどうなるかわかりませんからね。もっとも、明日、核戦争でも起こりかねない世の中だ。健康を害する前に、世界が終わってしまうかもしれないですな。あははは」
ぞっとするような自分の冗談に笑いながら、医者は看護婦に視線を|遣《や》った。看護婦が診察室のドアを開けて、帰りを促した。私たちは、部屋から出ていった。
白いトンネルのような病院の廊下を歩いていく。診察室の前のベンチに座った人々の|囁《ささや》き声。険しい表情で歩く、白衣の医師や看護婦たち。腹を突き出した妊婦が誇らしげに通り過ぎる。枯れた草のような顔色の老女が、パジャマ姿で壁に体をもたせかけている。目の下には|隈《くま》ができていて、運命の女神のひと息で、その命の灯も吹き消されそうだ。新たなる生を抱えた女と、死を抱えた女。今の私の抱えているものは何だろう。生でもなく、死でもない。
玄関を出ると、梅雨の合間の久々の太陽が目に飛びこんできた。病院を囲むようにしてそびえる木々の上に、澄んだ青空が広がっている。純一は、すでに習慣になってしまった、あの静かな|微笑《ほ ほ え》みを浮かべていた。髪の毛に太陽の光がまとわりついている。
彼がわからない。哀しみと、もどかしさを同時に覚えた。
常世虫が心を食べたというのなら、陽光の中で微笑んでいる、この彼には、心がないというのだろうか。だが、優しさは|溢《あふ》れるほどに残っている。それは彼の心から発するものではないのか。
常世虫が食べる心とは、彼を彼たらしめる感情かもしれない、と思った。私への愛、執着心、独占欲、彼のあらゆる情動が消え、後に残るのは、無関心ともいえる優しさだけ。
もし、常世虫を退治できたとしても、彼の心はもとに戻るのだろうか……。
涙が溢れそうになって、また引いていった。全身に無力感が広がった。私には、常世虫を退治することも、彼をもとに戻すことも、何もできはしないのではないか。
「さあ、めぐみ」
彼が車のドアを開けて、私が乗りこむのを待っていた。
「ありがとう」
私は|呟《つぶや》いて助手席に座った。彼はそれを確認すると、運転席についた。
今の私を近くで見ている人がいるとしたら、優しい夫を持って幸せな女だと思うかもしれない。外からは、心の中までは見えはしない。私の心を占める絶望はわからない。
私は助手席に体を沈めた。車は、|眩《まぶ》しい六月の中に走りだした。
加奈のスタジオのドアを開けたとたん、中から出てきた男性とぶつかりそうになった。
謝りながら顔をあげた私は、びっくりした。加奈と別れたはずの浅川だった。私の驚いた顔を見て、彼は、にやりとした。
「ああ、いらっしゃい」
平気な顔でそういうと、スタジオの中を振り返っていった。
「加奈、めぐみさんだよ」
「えっ、もう来たの?」
加奈のうろたえ声が聞こえた。浅川は、私に軽く会釈すると、肩を揺すってエレベーターのほうに歩いていった。
私はスタジオの中にはいって、ドアを閉めた。加奈はソファに座り、小型のライティングデスクの上で写真のフィルムを見ていた。
「どういうことなの?」
私がソファの前の椅子に座って聞くと、彼女はフィルムの上にうつむいたまま、なんでもないふりをして答えた。
「仲直りしたのよ」
「だって、あんなことの後なのに……」
「彼、後悔しているっていうの。もう一度、やり直させてくれっていってきたのよ」
「それ、信じるの?」
加奈が顔をあげた。ベリーショートだった髪も今では伸びて、間の抜けた感じになっていた。少し痩せたようだった。
「泣きながらいったのよ。大丈夫、もうやらないと思うわ」
彼女は、落ち着かなげにいい返した。私は、そうかしら、といった。先程、会った浅川の顔を見る限りでは、後悔している様子は感じとれなかった。
「そりゃあ私だって、最初は|嘘《うそ》だろうっていったわ。そしたら、彼……、本当に大事なのは、私だとわかったんだって。私たち結婚するの。夏までには、彼は私を両親に紹介するっていうの。もう電話で、連れていきたい人がいるといっちゃったんですって。俺の顔を|潰《つぶ》さないためにも、来てくれっていわれたら、ねぇ」
加奈は、私が言葉を差し挟むのを怖がっているように、とめどなく|喋《しゃべ》りはじめた。その顔は、彼と幸福になるという、彼女自身の妄想に|憑《つ》かれていた。
加奈が痛々しく思えた。|溌《はつ》|剌《らつ》として仕事をしている女のイメージは消えていた。そこにいるのは、荒波に揺れる小舟の上で目を閉じて、豪華客船に乗っているのだと信じたがっている女。愛に足をすくわれて、自分で造り上げた夢の中に閉じこもってしまった女。かわいそうに。目に涙が浮かびそうになって、我ながら自分の感情の動きに驚いた。
加奈は、私の同情のこもった視線に気がついたのか、話を止めた。
「ところで、めぐみは? 電話では話があるっていってたけど」
純一のことを相談しようと思って電話したのだった。彼女はカナダから帰ったばかりでスタジオにいた。しかし、こんな状態だとは思わなかった。今の加奈に、私の悩みを打ち明けても無駄な気がした。
「なんなの?」
ためらっている私の様子に興味をそそられたのか、加奈は重ねて聞いた。私は他の話題を探した。机の上に、引き延ばされた白黒写真が何枚も置かれているのに気がついた。
私はそれを手に取った。
加奈が、浅川の撮った写真だといった。銀座の交差点、原宿の竹下通り、浅草の下町の商店街。東京の町が写っている。以前、浅川と会った時、東京のいろいろな場所を撮っているといっていたことを思いだした。
私は、大判サイズに焼かれた写真をめくっていった。
「こうして見ると、おもしろいわね」
加奈は自分のことを|誉《ほ》められたように、顔を輝かせた。
「でしょ。私もなかなかだと思うんだ。ほら、その新宿なんてユニークよ」
西新宿の高層ビル街の写真だった。その背後には、今も新宿に残る平屋の家屋や、小さなビル群が映っている。横に広がる、乱雑な町並みと、直線的に天に向かって伸びていく高層ビル街。別世界の二つの町が、無理やりくっつけられたようだ。その境界線を示すのは、スペーシア・ビルの白い塔だ。私は、また一枚めくった。サンクチュアリの写真が現れた。
加奈が身を乗りだした。
「さっきも章ちゃんがいってたの。そのスペーシアのサンクチュアリ、どこか変なんだ。ほら、見て、これ」
写真の中央に|橘《たちばな》の木があった。遠目でも、白い|蕾《つぼみ》が膨らんでいるのがわかる。木を囲むように、ぽつんぽつんと影のような人の姿があった。
「その人たち、昼間から、そうしてぼんやりと立っているんだって。なにをする風でもなく、じっと木を見あげているというのよ。章ちゃん、その中の一人に、何をしているのか、聞いたんですって。そしたら、待っているんです、と応えたというの。だけど本人にも、何を待っているか、わからないみたいなんですって。わけがわかんないね、って、二人で話していたところ」
橘が関連しているせいだろうか、加奈の言葉に、胸の底がざわめいた。私は、写真に目を凝らした。
レンズの位置が遠くて、人々の顔まではわからない。木々に隠れるようにして|佇《たたず》んでいる黒い人影は、木立ちの間に配された不吉な印のように見える。私は妙に不安な気持ちになって、写真をテーブルの上に戻した。
加奈が思い出したように、あの写真は届いたかと聞いた。とっさに、どの写真のことかわからずにいると、加奈は、人差し指でとんとんとライティングデスクを|叩《たた》いた。
「ほら、カナダに行く前に送っておいた……」
心臓をどんと突かれたようだった。私は動揺を表に出さないように、ゆっくりといった。
「届いたわ。どうもありがとう。確かに文字だったの。『常世蟲』っていう……」
加奈は小首を|傾《かし》げた。
「常世虫? 何かしら」
純一の体に巣くっている虫のこと。
そう答えれば、加奈は笑いだすだろう。そして、帰ってきた浅川と笑い話の種にしてしまうのだ。
——気の毒にね、めぐみも。あの二人、うまくいってないのね——夫婦になったら、いろいろあるんだよ——
二人の会話が聞こえる気がした。
私は、わからないとだけ答えた。本当に、わからないままでいたほうがよかったのかもしれない。そうすれば、今のように苦しまないでいられただろうに。
加奈は、組んだ足をほどきながらいった。
「常世虫か。そんな虫をいれておいた容れ物だったのかしら、それとも何かのお守りだったのかしらね。でも、古いものでしょ。きっと価値のあるものだったのよ。私、大事なもの、壊しちゃったのね……」
「もういいの」
加奈は、ジーンズの|膝《ひざ》の上に両手を置いて、私に向き直った。
「手紙にも書いたけど、本当にあの時は、お世話になったわ。ありがとう。嬉しかった」
私は再び、もういいのだ、と答えた。しかし、加奈はしみじみした口調で続けた。
「あの時、つくづく変わったなと思った」
当然だ。以前の純一は、すでにその「常世蟲」に|喰《く》われてしまったのだから。私は悲しみの混ざった声でいった。
「純一でしょ」
加奈は笑った。
「やだ、純一さんもだけど、めぐみ、あんたのことよ」
私は驚いて、加奈の顔を見た。加奈は、テーブルの上に置いてあったキャメルの箱から煙草を一本抜きとって、火をつけた。
「前のあんたって、傷つけられないように警戒しているようで、どこか自分と回りの間に、わざと距離をとっているようなところがあったのよね。いつも、ちょっぴり皮肉な目で、すべてを見ていた。だけど、あの時は本当にすぐ飛んできてくれて、なぐさめてくれたじゃない。嬉しかったわ」
胸の内が不穏な音をたてて、揺れはじめた。
「前の私なら……そうしなかった?」
加奈は、ふーっと白い煙を吐いて、首を横に振った。
「もちろん、めぐみはすぐ飛んできてくれたと思う。でも……なんていったらいいのかな。前のめぐみだったら、なぐさめてくれる口調に、女同士ならではの批判が滲み出ていたと思う。そんな男にひっかかった、あんたが悪い、って。だけど、この前は違った。私の陥った状況を批判も何もなく受けとめてくれた。今だってそうよ」
加奈は、いいにくそうにいった。
「多分、さっき章ちゃんと会って、驚いたと思うの。私を|軽《けい》|蔑《べつ》したかもしれない。だけど、あんたは何もいわない。そうやって、優しい目で私を見ていてくれる」
自分では、そんなつもりはなかった。しかし確かに、加奈に対する軽蔑や苛立ちはなかった。ただ哀れに思っただけだ。
加奈がいった通り、以前の私なら、そうは受け取らなかっただろう。加奈を問い詰めて、どうしてよりをもどしたのかと非難したに違いない。
加奈は微笑んだ。
「めぐみ……優しくなったよ」
優しくなった? 私が、純一に対して感じたと同じことを、今、加奈が私にいっていた。私は、思わず大きな声でいい返した。
「優しくなったのは、純一よ」
加奈は驚いたように、
「やあねえ。なに、むきになっているのよ。そりゃあ、純一さんも、この前、会った時、ずいぶん変わったな、と思ったわ。かっこつけ屋のところが、影をひそめてたし。だから、めぐみが変化したのは、きっと彼の影響だろうけどね」
心臓が、|槌《つち》で叩かれているように鳴っていた。性格が変わったのは、純一のはずだった。私の性格まで変わったはずはない。
加奈は煙草の白い煙の中で、にっこりと笑った。
「とにかく、いいことよ。|羨《うらや》ましいわ。夫婦でいい影響を与えあってさ、素敵よね。きっと、いつもそばにいると、いいものが移っていくのよ」
私は|喘《あえ》ぐように息をした。
常世虫。あの虫が、私の体に移ってきたのではないだろうか。虫は貪欲に|喰《くら》い続ける。純一の心を喰い荒らした常世虫は、今、私の体内にいるのかもしれない。
胸の奥から酸っぱいものがこみあげてきた。拳を握りしめた。指の先が赤くなった。
加奈が眉をひそめた。
「どうかした?」
私はハンドバッグを持って、立ちあがった。
「ごめん、帰るわ」
驚いている加奈にろくに返事もしないで、私はスタジオを飛び出した。
ビルの外では、また雨が降りはじめていた。私は腹を押さえて、高田馬場の駅へと歩きだした。傘をさす気力もなかった。|不精髭《ぶしょうひげ》を生やした浮浪者が、紙袋を抱えて、よろよろと歩いている。ぼんやりと腕を組んで、雨宿りしている学生。無表情な顔で足早に歩く会社員。駅前のロータリーは、大勢の人間が渦巻いている。
この無数に|蠢《うごめ》く人々の心は大丈夫なのだろうか。誰も虫に喰われてはいないのだろうか。見えないけれども、貪欲に心を喰らっていく虫を飼ってはいないだろうか。緑色の巨大な虫が、体の中をずるずると動いてはいないだろうか。そう、この私のように……。
胃がせりあがり、気管が|痙《けい》|攣《れん》した。私は、口を手で覆いながら駅のトイレに駆けこんだ。空いているブースに飛びこんで、体をかがめる。糞便のこびりついた便器の中に、どろどろとした液体が吐き出された。鼻が酸っぱい臭いにつんとなり、苦しくて涙が出た。
アンモニアの臭いが漂う、汚い駅のトイレの中で、私は|喉《のど》の奥から呻き声をあげ続けた。しかし、いくら胃の中のものを吐きだしても、虫が出てくるはずもない。
へとへとになり、吐くものもなくなって、やっと少し冷静になれた。
嘘だ。常世虫なぞ、いやしないのだ。最初からいないのだ。すべては妄想。純一の体の中にも、いなかったのだ。私の頭の紡ぎだした想像にすぎない。
その時、腹の中でなにかが動いた。
赤ちゃんが子宮を|蹴《け》るように、ぴくぴくと……。
私は再び、汚れた便器の中に、黄色い胃液を吐きはじめた。
十五章
新宿は輝く夜を迎えようとしていた。ネオンサインが瞬きはじめている。肩の力の抜けた表情で居酒屋の|暖簾《のれん》をくぐる、会社帰りのサラリーマン。なにやら興奮したように話している、厚化粧をしたミニスカート姿の東南アジアの女たち。輪になってふざけあっている学生の集団。キャバレーの客引きのだみ声。週末のせいか、いつもこんな調子なのかわからないが、通りに人がひしめいている。
私は神経を張りつめて、歌舞伎町を歩いていた。手には住所を走り書きしたメモを握りしめている。『ぴあ』をひっくり返して、やっと見つけた住所だった。『シタン・イベント・スペース』。今夜、劇団アルバトロスの公演が行われる場所だ。あのカヤという青年がそこにいるはずだった。
見えないものが見えるという、不思議な青年。彼の切れ長の|瞳《ひとみ》は、あの虫も見えるのかもしれないと思い至ったのだ。でなければ、『常世蟲』と彫られた石の器を見て|脅《おび》えたり、私に会って逃げだしたりした理由がわからない。
私の中に虫がいるにしろ、いないにしろ、今のように、不安な気分でいるのは耐えられなかった。カヤに、真実を教えてもらいたい。彼だけが、私に起こっていることについて知っている人間だという気がした。
私は、乱暴に走り書きしたメモの住所を|睨《にら》みつけた。
そのイベント・スペースは、雑居ビルの地下にあった。『ソルティ・ガール 劇団アルバトロス公演』という看板が、階段の入口に立てられていた。『最終日』という角張った赤いマジックの文字が、横に書き添えられている。私は、白いレースのショールをかけた女の子から当日券を買って、うす暗い階段を降りていった。
狭い会場には、破けたジーンズにTシャツを着て、髪の毛を緑に染めたカップルや、|派《は》|手《で》な赤のスカートに、チュールの大きな黒のリボンをつけた女、スキンヘッドの男など、異様な風体の若者たちでいっぱいだった。白のタイトなワンピース姿の私は、普通の|恰《かっ》|好《こう》すぎてかえって浮きあがっている。
スチール製の|椅子《いす》に座って、居心地の悪い気分で開演を待った。黒い板を敷きつめただけの舞台。後にかかっている大きな白い布の背後が、即席の楽屋らしかった。間もなく場内が暗くなり、強烈なロック音楽が耳を打った。オレンジ色のライトに照らしだされた舞台で、劇がはじまった。
もともとあまり演劇に興味があるほうではない。年に一度、大きな劇場の、定評のある芝居を見に行くくらいだ。そんな私にとっては、アルバトロスの舞台は、決して楽しめるものではなかった。がんがん響くロック音楽。不条理な展開。カヤに会うという目的がなければ、私は逃げだしていただろう。
カヤは、舞台で起こることを、いつもどこからか眺めているガラス拭きの役で出演していた。金髪に染めた髪を後で束ねて、きゃしゃな指でガラスを磨く。舞台の隅の暗がりに、彼の端正な顔は隠れていた。
あのミナミという、やはりテレビの配達に来た男が準主役だった。|伊達男《だておとこ》の役で、派手に歌ったり踊ったりしていた。
話の筋はめちゃくちゃだった。人が登場したと思ったら、|喧《けん》|嘩《か》をはじめて死んでしまう。全然関係のない人物が不意に現れて、消えていき、また知らない人物が飛び出してくる。しかし観客たちは、こんな展開には慣れているらしい。楽しそうに笑ったり、音楽がはじまると、踊りだす者までいた。幕が下りた時には、拷問が終わったような気分だった。