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文章简介

作者: 当前章节:15389 字 更新时间:2026-6-23 00:42

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角川文庫

 死国

[#地から2字上げ]坂東眞砂子

 炎が赤い舌のように揺れていた。|蝋《ろう》|燭《そく》の灯に、輪になって座る男たちの顔が浮かび上がる。彫刻師が丹念に刻みつけたような、深く険しい|皺《しわ》。高い頬骨、筋肉で盛り上がった肩、張りのある太股。男たちの体つきも顔つきも、どこか似通っている。

 そこは暗い岩屋の中だった。湿った岩肌に、重なり合う男たちの影が揺れている。

「もう三か月が過ぎた」

 男たちの一人がいった。

「あれの家の桜が狂い咲きしゆうぞ」

「山犬が、おかしげな|吠《ほ》え方をしよったが」

「今年は桃がえらいようできた。別れ作やないか」

 男たちの輪から天変地異を告げる低い声が次々に洩れた。話が出尽くすと、声は、岩屋のじっとりとした空気に呑みこまれていった。

「死んだか……」

 静まりかえったなかに、老人の声が重く響いた。出入口の方向と向かい合うように座っていた長老たちの一人だった。輪になって座る男たちは、それに沈黙で応えた。

「次は誰の番じゃ」

 男たちは互いに視線を交わし合った。首を横に振ったり、|頷《うなず》いたりする影が、蝋燭の灯の中で操り人形のように動いた。

「わしかの」

 しゃがれ声が響いて、一人の男がのっそりと立ち上がった。岩屋に吹きこんできた一陣の風に、蝋燭の炎が強く揺れた。皆、押し黙っていた。それが承認のしるしだった。彼は居並ぶ者たちに一礼すると、出入口へと向かった。

 外に足を踏み出したとたん、男は、小鳥の|囀《さえず》りに包まれた。木々の|逞《たくま》しい緑が目を射る。そこは小さな神社の境内だった。神社の本殿が、男たちのいた岩屋だ。鳥居の向こうに、|山《やま》|間《あい》の小さな村が見渡せる。猫の額のような水田、斜面にへばりつくようにして建つ粗末な家々。村の頭上には、険しい山々が|聳《そび》えている。猪の牙のような尾根の中で、ひときわ厳しい線を見せて|屹《きつ》|立《りつ》する岩山があった。男は、その山に向かって目を閉じた。

 岩屋の中から、|呟《つぶや》くような声が流れてきた。彼を送る祈りの声だった。

 男は静かに境内から去っていった。

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 第一部

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 ———かごめかごめ

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かごのなかのとりは

いついつねやる———

[#ここで字下げ終わり]

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   1

 薄暗い駅の構内の向こうに、光に|溢《あふ》れる世界があった。緑の葉の上で、太陽の|雫《しずく》を転がしているような|椰《や》|子《し》や|蘇《そ》|鉄《てつ》の木々。白く乾いたビル群の上に広がる南国の青い空。大きな荷物を抱えた帰省客たちがタクシー乗場に立ち、|眩《まぶ》しそうに目を細める。

 列車の窓辺に頬杖をつき、|明神比奈子《みょうじんひなこ》は駅前の光景を眺めていた。こうしていると、子供の頃を思い出す。教室の窓から、家の窓から、心の窓から、いつも外を眺めていた。この暗く窮屈な部屋から、光に溢れる外の世界に飛び出したいと願っていた。もうずいぶん昔のこと。子供時代。大人の世界に出ていく前の、期待と怖れの入り交じった日々。あの頃、外の世界は、胸を高鳴らせるほどの強い輝きを放っていた。しかし本当は、暗く窮屈な部屋だと思っていた子供時代こそ光に満ちていたのだ。優しく包みこんでくれるような、暖かな光に。今ではそれがわかる。

 かすかな風に吹かれて、ほつれ毛が舞い上がり頬にへばりついた。比奈子はもの憂げに、それをかき上げた。むっとくるような夏の湿った空気は、暗い駅のホームにまで押し入ってきていた。

「ゆうべ、こじゃんと飲んだがやき」「情けないこというなや、ちっくとならええじゃろ」日焼けした二人連れの男が、怒鳴るような声で|喋《しゃべ》りながら、列車の前を通り過ぎた。比奈子は思わず|微笑《ほ ほ え》んだ。土佐弁。この乱暴で素朴な言葉を聞くのは何年ぶりだろうか。

 やはりどこか土佐弁の響きをまとわりつかせた構内放送が、中村行き普通列車の発車を告げた。ジリリリリという、けたたましいベルの音とともに、一輛しかない列車は動きはじめた。

 比奈子は前向きに座り直した。車窓に沿った長い座席には、客の姿はまばらだ。開け放した窓から、生暖かい風が吹きこんでくる。窓の外に、高知市街が流れ去っていく。比奈子は籐製のハンドバッグから扇子を出すと、ゆっくり|煽《あお》ぎはじめた。シャネルの〈ココ〉の甘い香りが、周囲に広がっていく。買物袋を|足《あし》|許《もと》に置き、友人と話していた隣の女が比奈子のほうを見た。

 三つ編みにした長い黒髪。青いリボンを巻いたストローハット。肉感的な体を包む褐色の麻のパンツスーツ。黒目がちで小さな鼻。美人とはいえないが、個性的な顔だち。隣の女は、水を入れたグラスの中に異物を見つけたような表情で比奈子を|一《いち》|瞥《べつ》すると、再び友人との会話に戻っていった。

 比奈子は、自分がこの車輛の中で妙に浮き上がっていることに気がついて、扇子を動かす手を止めた。そして息をひそめるようにして、また窓の外に目を遣った。列車が進むにつれて、雑然とした町並みに少しずつ緑の水田や山が入りこんでくる。真新しい団地やマンション。宅地造成のために切り崩された赤茶色の山肌。けばけばしい色のドライブインの看板。比奈子の実家のある千葉県の田舎とさほどちがわない景色が続く。ここにも都市化の波が押し寄せてきている。

 仕方のないことだ。二十年前と同じ光景が残っているはずはない。そう思いながらも、比奈子は少しばかり幻滅を味わっていた。

 |矢《や》|狗《く》|村《むら》はどうなっているのだろう。

 彼女は、険しい四国の山並みが続く列車の行く手を見遣った。

 矢狗村は、比奈子が小学校時代を過ごした土地だ。中学校に入る前、機械技術者の父親の仕事の関係で関東に引っ越した。その一年後、村に残っていた祖父が死んだ。一人になった祖母は、長男である父の許に身を寄せた。以後、たまに墓参りに矢狗村へ帰っていた祖母だったが、十年ほど前から一人旅はできなくなっていた。父の兄弟も、今では皆、高知県外に住んでいる。明神家にとって、矢狗村は遠い土地となってしまった。

 埼玉から千葉へ。住まいを変わりながら、中学、高校時代を過ごした。そしていつしか比奈子の記憶から、矢狗村のことは薄れていった。しかし、こうして四国に戻ると、それは決して消えたのではなく、眠っていただけなのだとわかる。心の底で眠りつづけていた記憶は、列車が四国の山に分け入っていくにつれて少しずつ目覚めてくる。足を泥だらけにして手伝った田植え。川に流しに行った七夕の笹竹。吐息のような光を放つ蛍を追った田舎道。鉢巻きをしめて裸足で走った運動会。

 一学年三十人ほどの小さな学校だった。あの頃、一緒に遊んだ友達はどうしているのだろうか。

 白鶴のような少女の顔が脳裏に浮かんだ。

 |莎《さ》|代《よ》|里《り》ちゃん……。比奈子は心の中で|呟《つぶや》いた。

 日浦莎代里。小学校時代、いちばんの仲よしだった。おかっぱ頭で切れ長の目。色の抜けるほどに白い美しい子。大人に干渉されるのを極度に嫌う性質だった。一人でいる時は、満ち足りた表情でにこにこしている。その穏やかな顔につられて大人が話しかけたとたん、笑顔はふっとかき消え、無表情な能面のような顔に変わるのだ。莎代里は、近づけば逃げていく鳥のようだった。

 動物にたとえていうなら、比奈子のほうは亀に似ていたかもしれない。自分の感情をどう表現していいかわからず、厚い殼に閉じこもっている愚鈍な亀に。

 比奈子は、莎代里の白鶴のような美しい姿に感嘆し、大人に|媚《こ》びない|毅《き》|然《ぜん》とした態度に、自分もそうありたいと望んだ。比奈子は、莎代里の後を追うように山を歩き、川辺をたどり、花を|摘《つ》んで遊んだ。彼女のそばにいると、なぜか楽な気分でいられた。黙っていても、つまらない子だと非難されることもなかった。それは莎代里も同じだったにちがいない。「川に行こうか」とか「お腹、空いたね」というような、短い言葉を口に出すだけで事足りた。誰かが嫌いだとか、父に叱られたとかいうことを洩らしはしても、話はそこで終わってしまった。慰めたり、自分の意見をいったりするような、複雑な会話を交わすことはなかった。

 比奈子の母は、いつも「莎代里ちゃんとあんたは似た者同士やね」といっていた。しかし比奈子にはわかっていた。二人は決して似てなぞいなかった。感情を表すことが下手というところで似ていたにすぎない。

 はっきり覚えているのは、莎代里の家で飼っていた猫が死んだ時のことだ。二人は、前の夜から帰ってこない猫を探し歩いていた。道路脇に横たわる灰色の小さな塊を最初に見つけたのは、莎代里だった。二人は走り寄った。探していた猫だった。頭も尻尾も生きていた時と同じように、ふわふわした毛に包まれていて、寝ているようだ。しかし胴体が半分ほど欠けていた。鳥か野犬に食われたらしく、内臓がごっそりなくなっていた。黒ずんだ肉の間に細いあばら骨が見えた。

 比奈子は息を呑んだ。猫の前にしゃがんで泣きじゃくっている莎代里の背後で、比奈子は立ちすくんでいた。かわいそうというよりも怖かった。小さな死骸は、地の底から|湧《わ》いて出た化け物のように思えた。比奈子は、その場にいるのがたまらなくなった。

「莎代里ちゃん、おばさんにいいに行こう」

 しかし莎代里は首を横に振って、そっと猫の頭を|撫《な》でた。いとおしげに灰色の尻尾に触れ猫の名を呼んだ。やがて立ち上がると、猫の頭と尻の下に手を差し入れて持ち上げた。肉の食いちぎられた胴体がだらりと垂れ下がり、そこから黄色に濁った体液が滴り落ちた。莎代里は自分の手が汚れるのも気にせずに死骸を道端に運ぶと、草の上に横たえた。

 そして近くの棒を拾ってきて、穴を掘りはじめた。|茫《ぼう》|然《ぜん》としている比奈子に、莎代里は墓を造るのだといった。

「きれいなお墓にするがよ。丸い土を盛って、石を並べて。お花やお魚を供えるところもちゃんとあるがで」

 莎代里は、それがどんなに美しい墓になるか語った。その様子は、|愉《たの》しそうですらあった。猫の死はすでに頭から消え、墓を造るという考えに夢中になっていた。

 その時比奈子は、自分の考えていることと莎代里の考えていることはずいぶん違うのだと、おぼろげながら理解したのだった。絹と麻が異なるように、魂の肌ざわりが違うことに気がついたのだ。

 お互い内に潜むものが違っていたからこそ、仲がよかったのだろう。しかし引っ越して以来、簡単な手紙を数度やりとりしただけで、連絡は途絶えた。たぶん二人とも、文字や言葉で感情を伝えるすべを知らなかったせいだ。顔を合わせていれば、同じ時を重ねていれば、感情を伝え合うことができた。しかし遠く離れて別々の人生を歩むようになると、二人は別の世界の人間になってしまった。

 祖父の初盆で、両親とともに最後に矢狗村に帰ってきた時も、比奈子はその足で莎代里を訪ねた。二人とも中学一年生になっていた。だが、ひと言ふた言、言葉を交わすと、もう何をいっていいかわからなくなった。二人は、はにかみながら向き合っているしかなかった。言葉によって離れていた時間を埋め合わせることができるほど、大人にもなっていなかったし、言葉なしで満たされた気分になれるほど子供のままでもなかったのだ。

 大人になり、比奈子はイラストレーターとして絵という手段で他人に感情を伝えるすべを身につけた。言葉を使うことも上手になったと思う。人類が道具を使いこなすことで進歩してきたように、比奈子も言葉という道具を使いこなして、外の世界に出ていくことができるようになった。莎代里は、どんなふうに感情を伝えるようになっているだろう。どんな女になっているだろうか。今、あの鶴のような莎代里をつかまえて、その心の内を見つめたら、自分との違いがわかるだろうに。子供の自分ではつかみきれなかった、二人の魂の違いがわかるだろうに……。

「きゃあああっ」

 甲高い子供の声が、比奈子の思考を引き裂いた。車輛の前のほうから、小さな男の子が笑いながら飛び出してきた。

「おい信春っ、走ったらあかん。こけたらどないするんや」

 派手な半袖シャツを着た男が座席から腰を浮かして、子供の後を追いはじめた。男の子は比奈子の前でよろめいた。比奈子はとっさに手を差し伸べた。子供は彼女の手にすがると、にやっと笑った。ふてぶてしい子供だと思って、比奈子は手を放した。

「すんまへんなぁ」と大きな声でいいながら、父親らしい男が近づいてきた。後退しかかった額の髪にゆるやかなパーマをかけた、細身の男。突き出した額が、目の前の子供とよく似ている。

 記憶の壁を、何かがひっかいた。

 子供ではない。別の誰かに似ている。

 息子の手を引いて戻ろうとする男に、比奈子はおずおずと声をかけた。

「あの……あなた君彦君じゃないかしら……」

 男は|怪《け》|訝《げん》な顔で振り返った。

 やはりそうだった。島崎君彦。つるりと出た額のために、小学時代はデコキンと呼ばれていた。

 比奈子を思い出せないらしい君彦に、彼女は自分の名前を告げた。君彦は大きな声をあげた。

「比奈子ぉ? |嘘《うそ》やろ」

 彼は、比奈子をじろじろと見た。

「そういわれりゃ、比奈子やなぁ。けど、ごっつう変わったさかい、ちっとも気ぃつかへんかった」

 君彦は、大阪弁の混じった言葉で大仰に驚いてみせた。

「二十年ぶりだもの。仕方ないわね」

 そういいながらも、確かに変わったにちがいないと思った。

 子供の時の写真は見たくない。|臆病《おくびょう》そうな目つきでレンズを見ている、もっさりした子供。それが比奈子だった。

「ほんで、今、どこに住んでんのや」

「東京よ」

「結婚して?」

 比奈子は心に突き刺さる|棘《とげ》を感じながら、結婚はしていない、と答えた。三十歳を過ぎてからは、あまり耳にしなくなっていた質問だった。彼女は、あれこれ聞かれる前に、イラストレーターをしているのだと答えた。君彦はますます驚いた顔をした。

「カタカナ職業やな。かっこええやんか」

「そんなことないわ」

 |謙《けん》|遜《そん》しながらも、最近手がけた大手企業のポスターをいえば、君彦も知っているだろうと思った。比奈子は〈HINA〉というペンネームで、イラストレーターとしてはけっこう知られていた。

 ——きみを見つけたのは俺だぜ——

 男の声が頭の中に響いた。比奈子は無意識のうちに扇子を握りしめると、君彦に聞いた。

「それで君彦君は何してるの」

 君彦は、もみ手をしながらいった。

「大阪で細々と商いをやってま。大阪商人でっせ」

 比奈子は笑い声を洩らした。君彦は昔から同級生を笑わせることが上手だった。

「へえ、大阪に住んでるの」

「そうや。お盆で帰ってきたとこ。比奈子こそ、なんで高知に?」

 仕事に疲れたから。恋人から逃げ出したかったから。子供時代が懐かしくなったから。比奈子の脳裏にさまざまな理由が浮かんだ。彼女は、最もあたりさわりのない言い訳を選んだ。

「家のことでね。私の家、まだ矢狗村に残っているの。ずっと人に貸していたんだけど、今度、その人たちが出ていくというので、家の状態を見に帰ってきたわけ」

「一人で?」

「うん。私が全権大使。また人に貸すか、改築するか、売るかを決めるの」

 君彦の子供が、母親の|許《もと》に戻るとむずかりだした。君彦は息子の尻を叩いた。

「ああ、行け行け。おとなしゅうしとくんやで」

 よちよち歩いていく子供の後ろ姿を眺めながら、比奈子はいった。

「君彦君も、もう立派なお父さんね」

 君彦は照れ臭そうな顔をした。

「もう三十三や。俺だけやないぞ。みんな、ええおっさん、おばはんや。豊は家業を継いで農業やってるし、恭三は農協勤め。ゆかりは藤本商店に嫁いだし……」

 君彦は小学校時代の同級生たちの消息を告げた。

「莎代里ちゃんは? 今、どうしているか知ってる?」

 君彦は口を半ば開いたままで、比奈子を見下ろした。そして暗い声でゆっくりと聞いた。

「莎代里のこと、聞いてへんか」

 比奈子は首を横に振った。いやな予感がした。

「あいつ、死んだんや」

 ガタンゴトンという列車の音が急に大きく耳に響いた。うつろいやすい笑みを浮かべた莎代里の顔が、心の中で|硝子《ガラス》のように砕け散った。比奈子は何を言っていいかわからず、君彦の顔を見つめていた。君彦は、両手で|吊《つ》り皮にぶら下がったまま、莎代里は中学三年の夏に事故で死んだのだといった。

 信じられなかった。比奈子の脳裏には、まだしっかりと莎代里の顔が焼きついている。矢狗村を離れて以来、子供時代の記憶の中には、いつも莎代里がいた。突然、彼女が二十年近く前にこの世から消え去っていたのだといわれても、現実のこととは思えなかった。比奈子の中で、莎代里は今の今まで生きていたのだ。

「比奈子、あいつと仲よかったさかいなぁ」

 こわばった表情の比奈子を見て、君彦がいたわるようにいった。

 どうして今まで知らずに過ごしてきたのだろう。祖母が墓参りに四国に帰った時、耳にしてもいいはずだった。いや、祖母は後年、急速に|惚《ぼ》けてしまった。孫の幼なじみの消息なぞ、聞いたとしても記憶から滑り落ちてしまったにちがいない。

 莎代里は、比奈子の知らない間にこの世から消え去っていた。裏切られたような、悔しいような複雑な気持ちだった。

 列車は川沿いの盆地を走っている。盆地の底には、小さな家が固まっていた。青や赤のてらてらと光る屋根や、コンクリートの四角い家。新建材で建てられた家の多い、まとまりのない町だ。アナウンスが聞こえた。

〈次は佐川、佐川。お降りの方は、お忘れ物のないようにお願いします〉

 佐川は、矢狗村の最寄りの駅だった。車輛の前のほうで、乳飲み児を抱えた女が立ち上がった。君彦は、妻らしいその女に合図すると、「ほな、またな」と明るい声でいって去っていった。比奈子は気の抜けた顔で、その背中を目で追った。さっき聞いた莎代里の死の|報《しら》せが、黒い泥のように胸の底に沈澱していくのを感じていた。

 男は細い山道を下っていた。白装束で、首から|頭陀袋《ずだぶくろ》をかけ、足には草履。遍路の旅姿と似ていた。道脇の草むらから熱気が立ち昇る。

 暑い日だった。乾いた汗が白い塩となって、男の顔にこびりついている。少し前かがみになった男は、膝をバネにして、たったっと小道を降りていく。短く刈りそろえた頭。象の皮膚のように細かな|皺《しわ》の刻みこまれた肌。若々しい身のこなしとは対照的に、外見は老けている。四十の声を聞いたばかりだというのに、五十歳は過ぎているように見えた。

 眼下に小さな町が現れた。男は立ち止まって息を整えた。狭い県道沿いに続く町並み。てんとう虫のような車が行き交っている。町の一角にある寺の境内に、人々が集まっているのが見えた。竹を組んで、|櫓《やぐら》を作っていた。通りに沿って|提灯《ちょうちん》も下げられている。

 祭りだろうかと思ってから、今日が盆の入りだったことに男は気がついた。盆踊りでも催されるのだろう。灰色の屋根の下では、女たちが|蒸《むし》|籠《かご》で赤飯を蒸しているにちがいない。男の妻も、盆には必ず作った。妻の赤飯はうまかった。ふっくらと蒸しあがった赤飯を、男は何杯でも食べたものだった。しかし、もうその妻の赤飯を食べることはできない。

 頭の隅に、妻の姿が|蘇《よみがえ》ろうとしていた。血に染まった下半身。どす黒い血が白い着物を染め、裸足の甲に滴り落ちていた。紫色の|死《し》|斑《はん》が浮かんだ顔が不意に持ち上がり、力の失せた瞳は男を……。

 遠くで太鼓の音が響いた。男はびくりと頭を上げ、目をしばたかせた。男はむりやり、妻の姿を記憶の|闇《やみ》の中に押し戻した。そして厳しい顔つきで、再び歩きはじめた。斜面を下っていく男の頭上で、不意に太陽が雲の中に隠れ、山の緑が|色《いろ》|褪《あせ》ていった。

 矢狗村は、佐川町からさらに二十キロほど四国山脈の中に分け入ったところにある。駅前でタクシーを拾い、国道三十三号線に沿って北上すると、道はやがて|仁《に》|淀《よど》|川《がわ》と合流する。深い山と急流の|狭間《はざま》を、灰色の糸のような道路が続く。午後の強烈な太陽の下で、山も川もぎらぎらと生命の炎を燃え上がらせている。

 比奈子は冷房の効いたタクシーの窓から外を眺めていた。景色に見覚えはあるのに、懐かしさを感じるほどには心に迫ってこない。どこで|撮《と》ったか思い出せない、昔の写真を見ているようだ。そのもどかしさは、少しずつ故郷に近づくにつれて強くなっていた。

 車が北野町に入った。道路脇にスーパーマーケットや病院、農協が立ち並んでいる。『ようこそ。秋桜と平家隠れ里、北野町へ』という大きな看板が立っている。整備された歩道や川沿いの公園を横目に車は国道を離れ、仁淀川の支流の|逆《さか》|川《がわ》に沿って、さらに深い谷間に入っていく。山の急斜面を切り崩して、アスファルトの道路が延びている。比奈子は感心していった。

「道も、すっかりよくなったわね」

「このへんだけですぞね、お客さん。もうちょっと行くと、車同士、すれ違うこともできんほど狭うなってきますきに」

 白い手袋をはめた運転手が答えた。

「それでも昔と比べると、立派になったわ。前は舗装もしてなかったのに」

「そんな昔の逆川を知っちょりますかね」

「ええ、小さい頃、矢狗村に住んでいたから」

 運転手は、バックミラーの中の比奈子を見遣った。生真面目な表情の奥に戸惑いが浮かんだ。比奈子と矢狗村が結びつかないようだった。

「この道が舗装になる前ゆうたら、こじゃんと昔になりますぞね」

「二十年以上は前ね。あの頃は台風が来るたびに、国道に出るこの道が|崖《がけ》|崩《くず》れで閉鎖になったものだわ」

「そりゃあ、今でもおんなじじゃ」

 初老の運転手は笑った。無愛想だった声に明るい調子が混じってきた。

「逆川ゆう名前はどこから来たか知っちょりますかね」

 比奈子が知らないというと、運転手は得々として説明した。

「逆川は逆さ川。昔、仁淀川からの水がえらい増えて逆川に流れこんで、そのまま上流に向かってごんごん流れたことがあったと。ほんで逆川ゆう名前がついたんじゃ」

 比奈子は、まさか、と笑った。

「昔話ぞね、お客さん」

 彼自身、信じてないというように、少し笑いながら運転手はハンドルを切った。

 車がカーブを曲がったとたん、|眩《まぶ》しい太陽が比奈子の目をまっすぐに射た。一瞬、谷間が白色に変わった。その無彩色の風景に、ひときわ白く輝く人の形が浮かび上がった。比奈子は路肩に目をこらした。白衣姿に白い|脚《きゃ》|絆《はん》。|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》に死者の旅姿のような|恰《かっ》|好《こう》。背中に小さな|行《こう》|李《り》を背負っている。頭の|菅《すげ》|笠《がさ》には、筆で黒々と『|同行二人《どうぎょうににん》』と書かれていた。

 遍路だった。前に一人。そして、後ろには子供のような小さな姿。重なるように歩いている。照りつける日射しの下で|陽炎《かげろう》のように揺れながら、ゆっくりと矢狗村に向かっていた。

 タクシーは、あっという間に白装束の遍路に追いついた。運転手がいった。

「歩きゆうとは感心なお人じゃ。四国八十八ケ所の霊場も、近頃はみんなぁバスで回るゆうに」

「ほんとにね」

 比奈子は窓の外を見た。車が白い人影を追い抜いたところだった。彼女は、あらっと思った。

 遍路は一人しかいなかったのだ。

 どす黒い顔色をした初老の女だった。杖にすがって、足をひきずるようにして歩いている。二人だと思ったのは、目の錯覚だったのだ。それでも比奈子は不思議な気がして、遍路が遠ざかるまで体をねじって後ろを見ていた。

 やはり一人だった。

 車が次のカーブを曲がった。目の前に、渓流沿いに開けた細長い谷間が現れた。険しい斜面に作られた段々畑では、緑の稲穂がさわさわと揺れ、農家の鼠色の屋根が鈍い光を反射している。うっそうとした深い山が、|遥《はる》か向こうの四国山脈へと連なる。

 矢狗村だ。

 比奈子は車の窓を開けた。夏草の匂いを含んだ風が吹きこんできた。

 川が心地よい音をたてて流れていた。つるりとした氷のような水面に、木々の緑が映っている。こんな日には、木陰で本でも読んでいるにかぎる。

 秋沢文也は、ため息をつくと窓際から離れた。目の前には、相変わらず雑然とした光景が広がっていた。

 矢狗村村役場の資料室の中だが、物置といったほうがふさわしい。スチール製の灰色の戸棚と段ボールの箱が、ひしめき合って狭い部屋に詰まっている。床には、|蓋《ふた》を開けた段ボールの箱が置かれている。中にあった本やパンフレットがおおまかに分類されて積まれていた。『高知県の歩み』、『土佐勤皇志士覚え書』、『土佐の民俗と風習』……。長年、役場にためこまれていた郷土資料が種々雑多に広げられている。文也は、うんざりした顔でその雑然とした光景を見下ろした。

 窓を開け放っていても、室内にはむっとした空気がたちこめている。汗で額にへばりついた茶色がかった髪の毛をかき上げながら、文也は再び床に座りこんだ。段ボールの中から、小冊子の束を抱えて床に投げる。もわっと|埃《ほこり》が舞い上がった。再び分類に取りかかった時、ドアのきしむ音がして、森田堅のにきび面が顔を出した。

「やりよりますねや、先生」

 森田は資料室の乱雑な様子を認めて、おかしそうにいった。

 文也のあだ名は先生。矢狗村の歴史や遺跡に関することに詳しいためだ。彼は二年ほど前、逆川の河岸段丘で縄文時代の住居跡を発見した。そのことが新聞や地方のテレビ局に取り上げられたせいで、先生というあだ名が定着してしまっていた。

 本来の仕事は役場の広報係だが、それにかこつけて矢狗村の歴史を調べている。役場に眠っている郷土資料を整理して、郷土史資料室として一般に公開したらどうかと村長に提案したのも、自分の興味による部分が大きかった。もっとも、資料整理がこんなに大変な仕事だとは思いもよらなかったが。

 文也は苦笑しながら、堅に埃まみれの両手をかざしてみせた。

「手伝いに来てくれたんなら、大歓迎や」

 堅は慌てたように頭を振った。

「遠慮しときます。それより秋沢さん、実はちくと留守番、頼みたいんじゃけど」

 床にちらばった本を調べている文也を困ったように見ながら、森田は続けた。

「今日から盆休みに入った者が多うて、今、窓口、俺一人なんですわ。ほいたら、さっき勝美から電話があって、急に家のことで行かにゃいかん用ができたがやき。すまんけど、窓口におってくれませんやろうか」

 文也は、役所の人手不足も|無頓着《むとんちゃく》に資料室にこもっていた自分に気がついて、すまない気持ちになった。

「そんなん、お安い御用や。すぐ行くよ。気にせず出かけろや」

 文也は、手にしていた本の束を床に置いた。一番上の小冊子の表紙の題名が目をひいた。『四国の古代文化』。明日から彼も盆休みに入る。休暇中に読むのによさそうな本だった。文也は古ぼけた小冊子を手に取ると立ち上がった。

 道路に面した役場の玄関は、南向きになっている。日射しが容赦なくふりそそぎ、資料室よりもさらに暑かった。壁に取りつけた扇風機は故障していて、不在の村民課の課長の机ばかりに風を送っている。手を洗った文也が熱帯のような席に戻ると、森田が出ていこうとするところだった。

「そうそう川上さんが、それを村便りに入れてくれ、いいよったで」

 文也の机の上には、クリップで留めた原稿用紙が載っていた。

 外でパッパーッという車のクラクションが聞こえた。役場の|硝子《ガラス》窓ごしに、白の軽自動車に乗った森田の妻の勝美が手を振っているのが見える。森田は半時間ほどで帰ってくるといいおいて、妻の車に乗りこんだ。

 役場の中には誰もいなくなった。文也はワープロを机の上に置くと、村長の川上の原稿に目を通した。

〈夏も終わりに近づきますと、気の緩みから川や山に於ける児童の事故が発生致します。そのような悲惨な事故を防ぐ為に、父兄各位の一層の注意を喚起したいものであります〉

 相変わらず、|杓子《しゃくし》定規の文章だった。文也は『村長からのご|挨《あい》|拶《さつ》』と打った。

 月一回発行の『矢狗村便り』の原稿作りは、広報係の文也の仕事になっている。村長の挨拶からはじまって、村の行事や出生、死亡者の報せ。そして文也が集めた村のささいな記事が載っている。自己顕示欲の強い村長は月の半分をかけて文章をこねくり回して、原稿を持ってくる。文也は、格式ばって回りくどい村長の文章を手直ししたいのを我慢しながらワープロを打っていった。

〈間もなく二学期です。児童達が元気な姿で全員|揃《そろ》って学校に戻れるように、御協力を仰ぐ次第であります〉

 夏休みが終わって二学期となる。二学期が終わると冬休み。三学期の次には春休み。時間と規則に縛られた学校生活には、いつも休みという救いがあった。大人になって、長い休みがなくなる日がくるとは想像もしなかった。そればかりか、自分が将来、暗い村役場の片隅に座りつづける運命にあるとは考えもしなかった。学校の行き帰りによく見かけた“おじさん”たち。村役場の硝子戸の向こうで、似通った表情を顔にへばりつかせて机に向かっていた。もしもあの頃、おまえは将来、その一人になるのだという大人がいたとしても、彼は声を大きくしていっただろう。僕は絶対にならない、と。

 しかし人生において、絶対ということはあり得ない。かすかな苦々しさを伴いつつそう思い、ワープロを打つ手が止まった。

 役場の前は、村で唯一の商店街になっている。駄菓子屋、八百屋、美容室、コンビニエンスストア、郵便局、医院、酒屋に魚屋……。ひととおり生活に困らないだけの店や施設が並んでいる。子供たちがアイスクリームを食べながら通り過ぎる。麦わら帽子を被った農家の主婦が買物包みを下げて、車に乗りこんでいる。バイクで走っていくのは、農協に勤めている同級生の庄野恭三だ。文也が見ていることを知ってか知らずか、役場の前で片手を上げて挨拶して過ぎた。そろそろ恭三が北野町に飲みに行かないかと誘ってくる時期だなと思いながら、彼は再びワープロに向き直った。

 その時、誰かの視線を感じたような気がした。自分をじっと見据える、熱く、冷たい視線を。

 文也は顔を上げた。灰色の事務机が並んでいる。机の上に積まれた書類。|椅《い》|子《す》にかけられた上着。飲み残しの湯飲み|茶《ぢゃ》|碗《わん》。役場の中は人の気配もなく静まりかえっている。窓の外から、こちらを|覗《のぞ》いている者もない。

 カタカタカタ。扇風機の回る音が、やけに大きく聞こえてきた。

 気のせいだ。文也は頭を横に振ると、猛烈な勢いでワープロを打ちはじめた。

   2

 家は、逆川を見下ろす山際にひっそりと立っていた。茶色に薄汚れたモルタルの壁。端の反り返った玄関の戸。朽ちかけた雨戸。長年雨ざらしになっていた積木の家のようだった。

 タクシーから降りた比奈子は、意外な思いに打たれて、家の前に立った。記憶の中の家よりも小さかった。子供の頃には、もっと大きく奥が深かったはずなのに。幽霊屋敷を昼間に見た時に似ている。仕掛けに陽が当たると、どこをどうひっくり返しても、自分を震え上がらせた空間は見当たらない。たったこれだけか、と問い返したくなる。祖父母、両親と比奈子と弟。この小さな空間で六人の家族が、泣いたり笑ったりして暮らしていたのだ。

 家は小さくなっただけではなかった。何か、よそよそしい顔になっていた。長い間、借家人の手に渡っていたためかもしれない。比奈子の知っているだけでも、三家族がこの家に住んでいた。空家だったこともある。それらの人たちの思い出も融合して、家は以前とは違う空気を漂わせていた。

 捨てられた家が、そこに住む新しい人々と心を通わせるようになるのは仕方のないことだ。比奈子の両親も、長くこの家に帰ってきていない。家のことは近所の大野家にまかせっきりにしてきた。小額の家賃は、家の修理代や維持費にあてられた。両親にとって、家が矢狗村にあるということだけでよかったのだ。それが故郷を忘れないためのお守りのような役目を果たしていた。

 車の音が聞こえた。振り向くと、白の軽自動車が門から庭に入ってきたところだった。

「すんません。待ちましたぁ?」

 髪をひっつめにした若い女が助手席から降りて、大きな声で聞いた。運転席からは、ずんぐりとした固太りの男が出てきて、にきびあとの残る|愛嬌《あいきょう》のある顔で会釈した。ここ三年間の借家人であった森田堅と勝美夫婦だった。佐川町を出る前、これから向かうと電話しておいたのだ。勝美は自己紹介もそこそこに、はしゃいだ声でいった。

「光栄やわぁ。うちヒナさんのファンなんです。あのロボットとピエロが踊りゆうポスター、電気屋さんでむりゆうてもろうてきたんですよ。家に飾ってあるんです。ついこのあいだ、うちらの借りちょった家がヒナさんの家やったゆうて大野さんから聞いて、びっくりしましたわ」

 比奈子は面食らって、口の中でもぞもぞと礼をいった。自分のことがこの地で知られているとは、思いもよらなかった。

 矢狗村にいる間、ぜひ自分たちの建てた新しい家に遊びに来てくれと誘う勝美の肩を、堅がふざけるように揺すった。

「ええかげんにせえや。着いたはしから、おまんのお|喋《しゃべ》り聞かされたら、たまらんが。そうでのうても明神さんは東京から着いたばっかりで疲れちゅうに」

 勝美は今度は大きな声で謝りはじめた。東京の人間は、初対面で、これほど感情をあからさまにはしない。相手の心の底に潜むと信じる本音を探り合い、容易に気を許さない。勝美のあけっぴろげな感情の表現に、比奈子は知らないうちに|微笑《ほ ほ え》んでいた。

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