饭饭TXT > 海外名作 > 《死国(日文版)》[日]坂东真砂子【完结】 > 《死国(日文版)》[日]坂东真砂子【完结】.txt

第 10 页

作者: 当前章节:15388 字 更新时间:2026-6-23 00:42

「日浦康鷹さんの病室はどこでしょうか」

 たるんだ顎が|蜥蜴《とかげ》を思わせる女が、比奈子の顔をじろりと見て、即答した。

「四階の脳外科病棟です」

 女が調べもしないで病棟を答えられたことに驚き、すぐに当然だと思い直した。日浦康鷹は、十七年もの間、この病院で眠りつづけているのだ。比奈子は礼をいって、エレベーターに向かった。

 日浦康鷹に会ってみようと思ったのは、昨日読んだ原稿のためだった。|昏《こん》|睡《すい》状態の彼に会っても、どうしようもないのはわかっていた。しかし、あの原稿を読んでから日浦康鷹がひどく身近に思えた。長い間、誰も見舞いに行ってもないだろう。それを思うと気の毒でもあった。

 エレベーターのドアが開いて、比奈子は他の患者や見舞い客たちと一緒に外に吐き出された。四階の廊下は一階と比べて閑散としていた。病室の窓|硝子《ガラス》ごしに、ベッドの上で休んでいる患者たちの姿が見えた。

 比奈子は廊下を歩いていって、日浦康鷹の名札が掛かっている病室の前で足を止めた。

 その病室の六つのベッドは、同じような昏睡状態の患者で埋まっていた。酸素吸入器をつけて横たわる女。カンフルを注入している老人。廊下側のベッド脇には見舞いに来た家族が、意識のない父の名を泣きながら呼んでいた。

 日浦康鷹の名前は、窓際のベッドの頭上にあった。比奈子は、頭のほうに回りこんで、彼を見下ろした。康鷹は一見、健康そうに見えた。頬は桜色に張り、体もそれほど|痩《や》せてはいない。短く刈った白髪交じりの髪がどこか小学生じみた幼さを漂わせていた。

 だが、その表情には動きというものが欠如していた。天井の一点を見つめているだけの目。顔の筋肉は|弛《し》|緩《かん》し、口は半ば開かれていた。表情をかたちづくろうとする力が失われているのだ。人間から表情を取り払うと、誰でも似たような顔になる。個性を失った顔は、腐敗段階に入る前の死者のようにも見えた。

 比奈子はシーツの上に出た康鷹の手をそっと握った。温かく柔らかな手だった。そのぬくもりが、康鷹が生きている証拠だった。

 夫の見舞いに来ていた妻と子供二人は、肩を落として病室を出ていった。部屋には、昏睡状態で横たわる患者たちと比奈子しかいなくなった。あたりが静かになると、患者の異様に大きな|鼾《いびき》や、|痰《たん》のつまった|喉《のど》の鳴る音が耳にさわった。

 眠りつづける康鷹。精神の平衡を失ってしまった照子。行方不明の耕治。そして死んでしまった莎代里……。どうして日浦家はこんなことになってしまったのか。人の運命は一歩先は|闇《やみ》だ。いや、それともこれはすべて決められていた運命なのだろうか。莎代里の死を起爆剤にして連鎖爆発していく運命のダイナマイト……。

 康鷹がかすかに動いて、比奈子の手を握り返した。彼女は驚いて康鷹を見た。康鷹の唇が震えていた。

「おじさん」

 比奈子は|耳《みみ》|許《もと》で呼んでみた。康鷹の硝子玉のような瞳が動いた気がした。意識を取り戻したのだろうか。比奈子は、康鷹の肩を軽く揺すった。康鷹の瞳孔がひきしまるのが見えた。彼は目を彼女に向けた。

「莎……代…里が……」

 かすれた声が洩れた。十七年ぶりに口を開いたのだ。康鷹は、発声練習をするようにひと言、ふた言、苦しげな息の下から言葉を押し出した。

「い……石…は死霊を…集める力がある……神の…谷…底から…出してしまった……」

 比奈子は誰かを呼ぼうとした。しかし康鷹は放すまいと決心しているように、強い力で彼女の手を握りしめた。

「あの娘は……神の…谷を……神を…おとろ…しい…こと…が……」

 康鷹の目がぐいっと開かれた。

「莎代里…を……とめてくれ……。わしには…できん……。わしは…半分、死の国に……おる。死の国に……」

 比奈子は|茫《ぼう》|然《ぜん》として康鷹の顔を見つめていた。|眉《み》|間《けん》には|皺《しわ》が寄っていた。|喋《しゃべ》るほどに、どこか痛むように顔をしかめる。さっきまでの無表情な顔の男はもういなかった。康鷹は静まりかえった死の|淵《ふち》から頭を出した魚のように、|喘《あえ》ぎながら言葉を発していた。

「莎代…里を……」

 康鷹の口の中で、舌が硬直するのが見えた。それでも彼はものすごい努力をしながら語ろうとしていた。

「と……め…ろ……」

 比奈子を握りしめていた康鷹の手から力が抜けていった。

「おじさんっ」

 比奈子は、康鷹の顔にかがみこんだ。康鷹は、すがるような視線で彼女を見た。その瞳の焦点がだんだんぼやけていく。そして目を閉じた。頭が|枕《まくら》に沈んでいった。

 比奈子は病室を飛び出した。

「看護婦さんっ、看護婦さんっ」

 廊下を歩いていた小柄な看護婦をつかまえて、康鷹が意識を取り戻したことを告げた。看護婦は驚いて病室に入っていった。そして康鷹の様子を見て、首を横に振った。

「今は眠っておいでです」

「でも、さっきちゃんと言葉をいって…」

『安田智子』という名札をつけた看護婦はとまどった表情になった。むりもなかった。十七年間、昏睡状態を続けた患者が一瞬、意識を取り戻したといわれても、信じられないだろう。比奈子は康鷹に声をかけてみた。彼は目を閉じたままだった。

「あなたは……日浦さんとはどういう?」

 看護婦は警戒するような顔で聞いた。娘の友人だと答えると、彼女は表情を和らげた。

「わざわざ、お見舞いに? そりゃあ日浦さんも喜びますやろねえ」

 五十歳くらいだろうか。目許や口許の細かな皺が、干し柿を思い出させるような丸顔の看護婦だった。人の好さそうな顔のつくりの中で、小さな目だけが異様に強い光を放っていた。康鷹の体をシーツの上からさするようにしていった。

「ほんとに意識を回復したがならええけど、長いことこのままじゃきね。あんまり期待はせんほうがええですよ」

「……そうですね」

 比奈子はもう一度、康鷹の手を握り、何の反応もないのを知ると、|諦《あきら》めた。

 あれは一時的なものだったのだ。だが彼女の手には、まだ康鷹に握られた感触が残っていた。

 比奈子は看護婦に礼をいって病室を出ると、エレベーターに乗り、一階に降りた。康鷹の|謎《なぞ》めいた言葉が頭に残っている。しかし長年、昏睡状態にあった人間だ。意識が回復したといっても、意味をなす言葉をいったかどうかは怪しいものだ。

 ただ、気にかかる。なぜ彼は石のことを知っていたのだろう。さっきの言葉は、文也が神の谷で見つけた石柱のことを指していたとしか思えない。昏睡状態の康鷹に、どうしてそれがわかったのだ。

 ひょっとしたら、康鷹は死霊となって見ているのだろうか。浮遊する康鷹の霊は、今ここに漂っているのかもしれないのだ。比奈子は、ぞっとして、あたりを見回した。ベンチで静かに雑談している患者たち。行き来する看護婦。医師を呼ぶ院内放送の声。とりたてて変わりのない病院のロビー風景のどこかに、康鷹の霊は紛れこんでいるのだろうか。

 ——莎代里を……とめてくれ。わしには……できん。……わしは半分…死の国におる——

 きれぎれの言葉が、比奈子の頭に反響していた。

 無数の緑の石が宙に浮かんでいた。石たちは、ゆっくりと動きながら、ひとつの場所に集まっていく。まるで誰かが石の山を築いているようだ。わずかな|隙《すき》|間《ま》も残さず積まれていく石片は、空高く伸びる山となり、天を貫く。

 文也は、切り立った山の頂を見上げている。彼の体もまた、その石の山へと吸い寄せられていく。緑色の石のなす|峻厳《しゅんげん》なる山の頂上へ。

〈文也、文也〉

 自分を呼ぶ声がした。山の映像に重なって、母の顔が見えた。何か、さかんにいっているが、その言葉は蜂の羽音のように意味をなさない。まだこの山を見ていたいのに、母の顔が邪魔をする。文也はうるさくなって首を横に振った。

 母の顔が消えて、再び険しい山肌が眼前に迫ってきた。文也は山肌に沿って昇りはじめた。山を|這《は》い上がる雲になったようだ。石だらけの斜面をゆっくりと上がっていく。

 頂上が見えた。あと少しだ。文也はさらに上に昇ろうとした。その時、何かが彼の体をひっぱった。石ががらがらと崩れはじめた。文也は無数の石片とともに落下していった。

 彼はびくんと体を動かして目を覚ました。家の中は静まりかえっていた。ブラインドの隙間から、弱々しい光が射しこんできている。枕許の時計を見ると、十時二十分を指していた。役場に遅刻していたが、たいしたことには思えなかった。

 彼の頭の中には、さっきまでありありと見えていた山があった。文也はベッドに起き上がった。外はとても明るいのに、部屋の中はやけに暗かった。本棚の奥や机の下、|襖《ふすま》の向こうにひそむ|闇《やみ》が部屋全体に|滲《にじ》み出てきたようだ。

 文也はパジャマを脱ぎはじめた。上衣が汗で|濡《ぬ》れている。額や|腋《わき》の下が汗ばんでいた。悪寒がした。|風邪《かぜ》でもひいたかな、と思った。仕事を休もうか。今、何時だったろう。文也はまた時計を見た。十時二十八分。パジャマの上衣を床から拾い上げて、汗に湿っているのに気がついた。そういえば、さっき脱いだのだった。また着ようとしたのだ。役場に行かなくてはいけないのに。……いや、休もうとしたのではなかったか。

 水に落ちる赤い血のように、思考が重く沈んでいき、意識の底に停滞する。文也は、衣装|箪《だん》|笥《す》の中からのろのろと服をひきだした。シャツを頭から被る。ズボンに足を突っこむ。体はいつも通りに動いているが、意識は|混《こん》|沌《とん》とした世界をさまよっていた。その世界で、ただひとつ、現実感に満ちて迫ってくる光景があった。

 それは宙に浮かぶ無数の緑の石。石たちは、ゆっくりと動きながら、一つの場所に集まっていく。まるで誰かが石の山を築いているようだ。石の山は空高く伸びていき、天を貫く……。文也の意識は再び、緑の山を高く高く昇りはじめていた。

「ミックスサンドはこっちですね」

 比奈子は、はっとして顔を上げた。まだ高校生のような女の子が、サンドイッチの皿を持って立っていた。彼女は|頷《うなず》いて、テーブルを指した。髪の毛を赤茶色に染めた娘は、皿を置くと、店に流れる音楽に合わせるように尻を振りながら歩み去った。

 北野町の喫茶店の中だった。病院を出てから軽く食事をしようと、ふらりと立ち寄った店だった。重たげな赤い|天鵞絨《ビロード》のカーテン。焦げ茶色の|椅《い》|子《す》。模造大理石の天板を|嵌《は》めこんだテーブル。精いっぱい重厚に見せた安物の調度品でまとめられている。まだ昼前で客の姿はまばらだ。比奈子はコーヒーを|啜《すす》りながら、サンドイッチを頬張った。

 目の前の壁にポスターがあった。海辺の窓際の風景を描いたしゃれた絵柄だ。ふと仕事のことが頭に浮かんだ。いいかげん、東京に戻らないと。仕事の依頼もきていることだろうに、ほうったらかしになっている。ここ二日間、留守番電話を聞いてもいない。プッシュホン式の公衆電話がすぐそばにないと、つい聞くのを忘れてしまう。いや、それよりも、仕事のことを考える余裕がなかったのだ。

 考える時間はすべて文也のことに費やされていた。彼を思うと、比奈子の心がまた痛んだ。このまま東京に帰ろうか。そして文也なんか関係なかったように生きていくのだ。

 また逃げるの? 心の中で|嘲《あざけ》るような声がした。比奈子は食べかけのサンドイッチを皿に戻した。

 文也は自分のことを|酷《ひど》い女だと思い、怒っているだろう。東京に帰ってしまえば、彼にとって自分は永遠に浮気な女で終わってしまう。そんな人間ではないのだと主張しない限り、ずっとそう思われてしまう。

 莎代里とのことも同じ。何もいわなくても、二人の気持ちは通じていると思っていた。とんでもない思いこみだった。比奈子が莎代里について思っていたことと、莎代里が比奈子について思っていたことには、大きな開きがあった。黙っていれば、それだけ二人の距離は開いていくばかりだ。

 |甲《こう》|羅《ら》から抜け出すのだ。文也に会って、話をするのだ。拒絶されても、誤解だけは解いておきたい。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。今、矢狗村に戻ったら、役場の昼休みに間に合う。文也に会えるはずだ。

 比奈子は立ち上がると、代金を払って店を出た。道路の向こうにタクシー会社の看板が見えた。比奈子は横断歩道の前に立った。

 歩行者用信号は青になったところだった。向こう側から小学生が二人、飛び出してきた。比奈子は横断歩道を歩きだした。走ってきていた紺色のセダンが減速するのが見えた。文也の車と同じ型だと思い、何気なく運転席に目を遣った比奈子は驚いた。ハンドルを握っているのは、ほんとうに文也だったのだ。

 比奈子は|嬉《うれ》しくなって、彼に手を振った。しかし文也は彼女に気がつかない様子で、止まった車の中から、ぼんやりと前を見ている。無視しているのだろうか。比奈子は手を下ろした。悲しい気分でまた横断歩道を渡りはじめた。目の前にタクシー会社の看板がある。あそこからタクシーに乗って、役場に行くはずだった。文也に会うつもりだったのだ。しかし文也はここにいる。横断歩道を渡った先には、比奈子の行き場はない。

 青信号は点滅しはじめていた。比奈子は、紺色のセダンを見遣った。自分が行きたいと思ったのは、あそこだ。横断歩道の向こう側ではない。

 比奈子は、文也の車に駆け寄った。前部席の窓は開いていた。彼女は運転席の文也にいった。

「文也君、話があるの」

 彼が顔をこちらに向けた。その視線は比奈子を突き抜けて、向こうのどこかを見ていた。比奈子はたじろいだ。彼の虚ろな表情は照子を思い出させた。

「乗ってもいい?」

 比奈子は、おずおずと|訊《たず》ねた。文也が何か答えた。しかし、その声は|不明瞭《ふめいりょう》で聞きとれない。比奈子がもう一度、問いかけようとしたとき、後ろで車のクラクションが鳴った。車道の信号が青に変わっていた。文也がエンジンをふかそうとした。比奈子はとっさに窓から手を伸ばしてドアのロックをはずし、助手席に滑りこんだ。ドアを閉めるのと、車が発車したのが同時だった。その衝撃で比奈子はよろめいて、文也に肩をぶつけた。

「ごめんなさい」

 彼は何もいわなかった。

「怒ってるの」

 重ねて聞いたが返事はなかった。比奈子は下唇を噛んで、窓の外を見た。車は北野町の中心街を通り抜けた。そのまま国道三十三号線に沿って仁淀川も|遡《さかのぼ》っていく。

「どこに行くの」

 彼は、まっすぐに前を見てハンドルを握っているだけだ。

 昨日一日、会っていないだけだったのに、文也は変わって見えた。やつれた頬。|隈《くま》のできた目。熱を帯びたような目つき。

「ねえ、文也君。何かいってよ。役場は今日は休み?」

 文也が比奈子を見た。今度こそ、焦点は彼女に合っていた。しかし、それはまるで路上の石ころでも眺めているような目付きだった。冷水をかけられた気がして、比奈子は口を|噤《つぐ》んだ。

 車は四国山脈に向かって走りつづけていた。どこに行くつもりなのだろう。比奈子は、『松山』と書かれた国道の表示を見つめた。こうなれば文也の目指すところまで、黙ってついていくしかない。比奈子は覚悟を決めて、座席に身を沈めた。

 大型トラックや乗用車とすれ違う。文也はすごいスピードを出していた。比奈子はふとバックミラーに視線を移した。細長い鏡の中に後部座席が映っていた。リアウィンドウの脇に置かれたティッシュペーパーの箱。小さなアヒルのカーアクセサリーが揺れている窓。薄汚れた|硝子《ガラス》の向こうに、黒いものが見えた。比奈子は目をこらした。黒髪だった。さらさらした黒髪が風になびいていた。まるで誰かが、車の屋根から逆さに|覗《のぞ》いているように……。

 比奈子は悲鳴をあげて、目を閉じた。彼女は|暗《くら》|闇《やみ》に閉ざされた。ブゥウウン。車の低いエンジン音が聞こえる。次第に気持ちが落ち着いてきた。比奈子は目を開けると、思いきって後ろを振り返った。

 何もなかった。窓の外には、後続のバンが映っているだけだ。

 比奈子は息をはずませながら、文也を見た。彼は、さっきの悲鳴も聞こえなかったようにやはり運転を続けていた。

 幻覚だったのだろうか。自分が悲鳴をあげたのも幻覚だったのだろうか。

 比奈子は両手を膝の上で握りしめた。車は険しい四国山脈に向かって疾走していた。

 誰かが乱暴に肩を揺すっていた。男は|呻《うめ》き声をあげて、細く目を開いた。顔に|眩《まぶ》しい光が当てられている。背後の暗闇に、自分を取り巻く数人の男たちがいた。

 男は目をこすった。岩屋の中だった。昨夜、岩屋寺で過ごしたことを思い出した。この闇の中では、朝なのか夜なのかわからない。どのくらい寝てしまったのだろう。疲れがたまっていたせいか、眠りすぎたことを、だるいような体の感覚が告げていた。

「あんた、ここで寝たがか」

 懐中電燈を持った男が聞いた。男はがらがら声で、そうだと答えた。

「やっぱり怪しい」

「こいつに決まっちょる」

 まわりを囲む男たちが口々にいった。男が何のことかわからずにいると、誰かが彼の腕をつかんで立たせた。

「ともかく、ここから出るんだ」

 男はひきずられるように岩屋から連れ出された。

 外は明るい光に満ちていた。気温がかなり上がっているところをみると、もう昼近くらしかった。男は、しまったと思った。うかうか寝ている場合ではなかったのだ。

 彼は数人の者に囲まれていた。一人は制服を着た警官だった。あとは寺の者だ。誰もが殺気だった顔をしている。寺の者の一人が警官に、この男だと囁いた。警官は頷くと、男に詰め寄った。

「おまんは、誰だ」

 男は、こんな時の|常套句《じょうとうく》になっている言葉をいった。

「お四国の者です。遍路で回りゆうがです」

 遍路だといえば、大抵の面倒は避けられた。浮浪者のように、どこの軒下で寝ても、白装束に身を包んでいれば、尊敬の混じった|眼《まな》|差《ざ》しで見てもらえた。

 しかしこの警官は違った。詰問口調を変えずにいった。

「そんなこと聞いちょりゃせん。名前と住所じゃ」

「名前は、仙頭直郎といいます。家は、この先の二名の向こうの村です」

 直郎はしぶしぶ答えた。寺の者たちが顔を見合わせた。

「近くやないか」

「二名ゆうたら、|久万《くま》川の先か」

「そうです」

 警官がうさんくさそうに彼を見た。

「この近くの者が、どうして家やのうて、ここで寝ゆうがじゃ」

「ほんやき、お遍路やと……」

 直郎は内心焦りながらいった。こんなところで時間をつぶしている暇はない。今にも山が|汚《けが》されようとしているのだ。

「おまん、本当は|賽《さい》|銭《せん》泥棒に来たがじゃろう」

 警官が直郎の胸を押すようにしていった。

「めっそうもない」

 直郎は首を横に振った。

「|嘘《うそ》をついたらためにならんぞ。ここんとこずっと続いちゅう賽銭泥棒は、おまんにちがいない」

 警官は直郎の腕をつかんだ。

「駐在所まで来てもらおう。話を聞きたい」

 おとなしくついていけば、誤解は解けるだろう。しかし、そのために何時間も無駄にしたくはなかった。直郎は警官の腕を払うと走りだした。

「待てっ」「こいつぅ」

 寺の男たちが追いすがった。直郎は彼にむしゃぶりついてきた男を突き飛ばした。寺の男はよろめいたはずみに足を滑らせた。

「うわああああっ」

 悲鳴をあげながら石段を転げ落ちていった。別の男が前に立ちふさがった。直郎はその男の股間を|蹴《け》り上げた。男は倒れて、石の縁に頭をぶつけた。|剃《そ》った頭から血がたらたらと滴り落ちた。

「待てっ。待たんと逮捕するぞっ」

 警官が怒鳴って、警棒を直郎に振り下ろした。頭を打たれて、一瞬気が遠くなった。男の一人がすかさず直郎をはがいじめにした。警官が手錠を出すのが見えた。直郎は彼を押さえこむ男の手に噛みついた。男が絶叫して手を離した。直郎の口から、男の手の甲の肉片が吐き出された。口許が真っ赤になっていた。

 警官の顔に脅えが走った。その|隙《すき》に、直郎は石段を駆け上がった。警官や寺の男たちが、人殺しだ、人喰いだと大声をあげながら追いかけてくる。本堂のある境内に出た。左手に山門が見えた。山門の向こうに、道が続いている。山の奥へと続く|古《いにしえ》の道だった。

「待てーっ、撃つぞーっ」

 背後でわめき声が聞こえた。口の中に血の味が残っている。直郎は|唾《つば》を吐き散らしながら走りつづけた。バアンという音が|轟《とどろ》いた。直郎の肩に激痛が走り、彼はよろめいた。

「当たった!」

 驚いたような声がした。

 茶褐色に汚れた白装束が血に染まっていく。しかし直郎は体を起こすと、再び走りだした。石ころだらけの山道を登っていく。

 ——止めるのだ——

 ——石鎚が汚されようとしている——

 彼の頭に神の声が響き渡っていた。

   2

 碧緑色の水をたたえて、仁淀川が静かに流れていた。行く手には、青みがかった四国山脈の山並が重なり合っている。道の両側にも、迫る山々。山頂近くまで続く段々畑。斜面にへばりつくようにして農家の集落が点在する。

 文也の車は、国道三十三号線を走っていた。彼は相変わらず黙りこくっている。車内に比奈子なんかいないように、運転を続けている。見ず知らずの他人に対しても、これ以上、|完《かん》|璧《ぺき》に無視することはできないだろう。

 文也の様子は釈然としなかった。比奈子への怒りではない。何か得体の知れないものが彼の内部に居すわっていた。いったい何が、彼の意識を占領しているのか?

 比奈子は彼の心がつかめないことに|苛《いら》|々《いら》して、バッグから煙草を取り出して吸った。白い煙が窓の隙間から滑り出ていく。矢狗村を出る時には晴れていた空は、雲に覆われはじめていた。窓から入りこんでくる風は、べたべたと肌にまとわりつく。

 比奈子は煙草の吸殻を車の灰皿に入れて、窓を閉めた。急に車内が静かになった。前を見つめる文也の横顔は、彫像のように動かない。比奈子は彼の少し|尖《とが》った顎の線を美しいと思った。

「何を考えてるの」

 比奈子は聞いた。文也は、やはり何も答えなかった。

 比奈子は泣きたくなった。このままでは、とりつくしまもない。沈黙に耐えきれなくなって、勝手にラジオのスイッチをつけた。文也が文句をいうなら、そのほうがありがたかった。しかし彼は何もいわない。ローカルラジオ局のディスクジョッキーのお|喋《しゃべ》りが流れてきた。

〈えー、次は吾北村の山本さんからのお電話が入っています。山本さん、山本さん。うちんくの村自慢。さあ何でしょうか〉

 電話に出た女が、家の畑に巨大な|南《なん》|京《きん》が実ったと告げた。

〈両手で持てんばあ大きいがです。近所の人も集まってきて、おばけ|南瓜《かぼちゃ》じゃいいよります。このあいだは記念写真を|撮《と》りたいゆう人も出てきて、まあえらい騒ぎです〉

〈そりゃあ、僕も見てみたいですね。でも、そんなおばけ南瓜、どうやって食べるつもりですか〉

〈食べやせんよ。こんなん食べたら、ほんとにおばけになって出てくるかもしれんき〉

 女の陽気な笑い声が車の中に広がった。

 文也は前の車を次々に追い越していく。彼が妙に急いでいるのが気になった。

 道路脇に『愛媛県』の表示が出ていた。仁淀川は面河川と名を変えた。車は川に沿って、四国山脈の奥へ分け入っていく。やがて川が大きく|迂《う》|回《かい》して中洲を作っている場所に出た。河畔に突き出した大きな岩。緑と青が混じり合った水の色。深い山の中から流れてきた面河川と久万川の二本の川が、ここで合流していた。流れが|拮《きっ》|抗《こう》する合流地点では緑色がかった水面は湖のように静かだ。

 文也がハンドルを切った。車は「面河村」という標識に沿って右折した。別の標識に『石鎚スカイライン』という文字を見つけて、比奈子は、はっとした。

「石鎚山へ行くの」

 文也は答えなかった。フロントガラスをひたと見つめているだけだ。

 康鷹の原稿の中にあった石鎚山。山に呼ばれていると、|綴《つづ》っていた。文也も、それを目指しているのではないだろうか。

 車は面河川に沿って細い道を進んでいく。対向車はほとんどなかった。右手には、山肌を切り崩した急|勾《こう》|配《ばい》の斜面。左手には深い渓谷。切り立った|崖《がけ》の底に澄んだ川が流れていた。ところどころに落石注意の看板がある。道路脇には、山から落ちてきた大きな岩が転がっていた。アスファルトで補修せず、ネットを被せただけの道路脇の斜面も多い。落石事故が起きても不思議はなかった。

 フロントガラスに、ぽつぽつと小さな水滴が当たった。雨だ。

「いやだわ」比奈子は|呟《つぶや》いた。

 やはり文也は無言のままだった。比奈子はますます泣きたい気分になった。

 遠くの山の頂に白い霧が降りてきていた。彼はワイパーのボタンを押した。フロントガラスの水滴がワイパーに押しやられていく。シャッシャッというかすかな音が車内に響いた。比奈子は、ひき返したほうがいいといいたいのをこらえた。何をいっても無駄だった。しかし、いったい何が彼をこれほどまでに|頑《かたくな》にしているのかわからない。

 雨は次第に激しさを増していた。山頂から降りてきた霧は、見る間に視界を閉ざしていく。大粒の雨が地面を叩く。渓流沿いの岩の輪郭は、はじける雨で白く煙っていた。

 ラジオの声が耳に入ってきた。

〈ここで天気予報です。台風二十四号は今日の午後になって進路を東北東に変え、しだいに勢力を強めながら四国方面に向かっています。今日の夕方には足摺岬に上陸するもようです。すでに四国の山間部を中心に天気が崩れはじめており、今夜半から明朝未明にかけて|大《おお》|時化《しけ》になるでしょう。現在、四国全域に大雨洪水注意報、大波警報、暴風波浪警報が出ております〉

 比奈子は文也の顔を見た。文也はハンドルを握りしめている。天気予報も、打ちつける雨も眼中にないようだった。ただ前方を見つめて運転を続けている。比奈子はその横顔に照子を思い出した。昨日、神の谷で石柱のまわりを回っていた照子の顔。ひたと宙の一点を見つめていた。何かに心を奪われて、他のことは考えられない状態。何か、とは莎代里。考えるのは莎代里のことばかり。

「文也君っ」

 比奈子は、たまらなくなって大きな声を出した。

 文也は振り向きもしない。比奈子は彼の肩を揺すった。彼の手が滑り、ハンドルが空回りする。車が横滑りした。キキキキキーッ。ブレーキの甲高い音が耳をつんざいた。

 比奈子も文也も大きく前に倒れた。文也の頭がガツンと大きな音をたてて、車の窓枠にぶつかった。そして車は止まった。道路をふさぐように横に向いていた。目の前に、切り崩した山の斜面が迫っている。正面衝突する直前だった。手足の先で血管が波打った。全身に血を送るのを止めていた心臓が再び動きだしたようだった。

「どうしたんだ……」

 文也の呟きが聞こえた。車に乗って以来、はじめての言葉だった。ほっとしたと同時に、死ぬところだったのだという実感が|湧《わ》いてきた。比奈子は震え声でいった。

「ごめんなさい。私、文也君がちっとも台風のこと気にしてないみたいだから……」

「台風がどうしたって」

「天気予報、聞いてなかったの。これから四国に上陸するっていうのよ」

 文也は激しい雨にはじめて気がついたようだった。車を車線に戻して、エンジンを止めると、戸惑った声でいった。

「すごい降りだな。どうして、こんなところに来たんだろう」

「私が聞きたいくらいだわ。いったい、どうしたの。ひと言もいわずに運転して……」

 文也が|怪《け》|訝《げん》な顔で比奈子を見た。

「なぜ、ここにいるんだ」

 比奈子は心臓を火で|炙《あぶ》られるような気分を覚えながらいった。

「北野町で乗りこんだの。文也君、気がつかなかったの」

 文也は覚えてないらしかった。何かいいかけて口を|噤《つぐ》んだ。しばらく運転席で、ハンドルにもたれかかって考えこんでいたが、しばらくして口を開いた。

「今日は寝坊して……起きたとたんに、石鎚山に行こうと思ったんだ……」

 やはり、と比奈子は思った。文也は石鎚山を目指していたのだ。

「なぜ石鎚山に?」

 文也は、わからないというふうに首を横に振った。

「きみこそ、どうして僕の車に乗ったんだ」

 彼の言葉には|棘《とげ》があった。いわれるのは、わかっていた。彼女は自分のジーンズの膝小僧を見つめた。

「文也君と話したかったの。一昨日のことで」

「聞きたくないよ」

 ぶっきらぼうな文也の返事に耳をふさぐようにして、比奈子は一気にいった。

「あの人、東京から来た彼は、すぐに帰ったわ。もう終わりだったのよ。別れたわ」

 文也はじっと比奈子を見つめてから、やがて視線を|逸《そ》らせた。

「もう帰ろう」

 文也は車のエンジンをかけた。ハンドルを回して、車をUターンさせようとした。そして、|呻《うめ》き声をあげた。

「どうしたの」

 文也は眉をひそめて、ハンドルが重いといった。力仕事でもしているように、ギシギシとハンドルを回す。車はいやがっている馬のように方向を変えた。路面では雨が躍っていた。怒り狂った風が山の木々を揺らしている。車はゆっくりとひき返しはじめた。

「おかしいな、なんか調子が……」

 その言葉をいい終わらないうちに、頭上で割れるような音が響いた。前を見た比奈子は悲鳴をあげた。牛ほどもある岩が二、三個、山の斜面を転がり落ちてきた。文也がブレーキを踏んだ。ずずんという地響きと、ブレーキの音が雨の中にこだました。

 雨と土砂で前方が何も見えなくなった。パンパンパン。細かな岩の破片が車にぶつかって花火に似た音をたてた。しばらく二人は、なすすべもなく車の中で息を止めていた。やがて土煙が消えた。フロントガラスの向こうを見遣って、文也が低い声でいった。

「帰れなくなった」

 落ちてきた岩で道路はふさがれていた。

 そうだ。岩が落ちてきたのだ。あの台風の日の|崖《がけ》|崩《くず》れだ。シゲは吹き荒れる風雨の音を聞きながら、仏壇に向かっていた。千鶴子が夕食に呼びに来たが、食べたくないと答えて部屋に閉じこもり、仏壇の前でただひとつ知っている般若心経を唱えていた。

「|観《かん》|自《じ》|在《ざい》|菩《ぼ》|薩《さつ》、|行深般若波羅蜜多時《ぎょうじんはんにゃはらみたじ》、|照見五薀皆空《しょうけんごうんかいくう》、|度《ど》|一《いっ》|切《さい》|苦《く》|厄《やく》……」

 ぴたりと閉めた雨戸の向こうでは、風が荒れ狂っている。それは五十年も前の台風を思い出させた。あの日、シゲは竹雄と|密《ひそ》かに会っていた。朽ちかけた炭焼き小屋が二人の密会場所だった。閉めきった暗い小屋の中で、二人は汗みどろになって抱き合った。|恍《こう》|惚《こつ》とした顔で竹雄がシゲの体から離れ、二人して疲れ果てて横たわった。その時はじめて、外の雨音に気がついた。屋根を突き破りそうなほど強い雨だった。

 竹雄が驚いて、もう時化がきたのかといった。二人とも台風が近づいてきているのは知っていた。だが、こんなに早くやってくるとは思いもよらなかった。慌てて身支度を調えて外に出ると、すでにあたりは暗く、雷が耳をつんざくような音をたてていた。

 しかし台風が過ぎるのを待っていたら、朝になってしまう。朝方、山から降りているところを他人に見られたら、村中の|噂《うわさ》になるにちがいなかった。

 シゲと竹雄は雨の中に走り出た。風に吹き飛ばされそうになりながら、山道を駆け降りていった。そして崖崩れに遭ったのだ。|轟《ごう》|音《おん》とともに土砂と岩が落ちてきて、シゲの前を走っていた竹雄が呑みこまれるのが見えた。一瞬の出来事だった。シゲは竹雄の名を叫びながら走り寄った。手で土砂をかきわけて、竹雄を掘り出した。彼はすでに息がなかった。岩に直撃され、頭が半分|潰《つぶ》れていた。どす黒い血が、雨に打たれて土を汚していた。濁った|脳漿《のうしょう》がゆっくりと地面に広がっていく。シゲは悲鳴をあげて|尻《しり》|餅《もち》をついた。

 雨は滝のように降っていた。土砂はぬかるみとなり、どろどろと崩れていく。竹雄の体が泥土に埋まっていく。助けを呼ばなくては……。だめだ。そんなことをしたら、竹雄と一緒だったことがばれてしまう。シゲは、混乱した頭でどうすればよいか考えた。

 竹雄の顔に雨が叩きつけていた。だが彼は表情ひとつ変えずに、天を|睨《にら》んでいる。竹雄は死んでしまったのだ。シゲは思った。助けを呼んでも、もう遅い。寡婦として生きてきた生活を守るのが大事だ。

 シゲは逃げた。転げるように山道を下り、家に帰った。

 竹雄は三日後、発見された。台風というのに、どうしてそんな人里離れた場所に行ったのか|訝《あや》しむ者もいたが、それだけだった。

 そしてシゲの生活から竹雄は消えた。彼を見棄てて逃げた記憶も、朝露のように消えていった。シゲは忘れようと努め、忘れることができた。竹雄との思い出は楽しいことだけが残った。照子のところに行くまでは……。

 がらがらがらっ。近くに雷が落ちた音がした。シゲは仏壇に手を合わせた。

 竹雄よ。どうか今いる場所にいてくれ。自分をそっとしておいてくれ。

「|不生《ふしょう》|不《ふ》|滅《めつ》、|不《ふ》|垢《く》|不浄《ふじょう》、|不《ふ》|増《どう》|不《ふ》|減《げん》、|是《ぜ》|故《こ》|空中無色《くうちゅうむしき》、|無受想行識《むじゅそうぎょうしき》、|無《む》|眼《げん》|耳《に》|鼻《び》|舌《ぜつ》|身《しん》|意《に》……」

目录
设置
设置
阅读主题
字体风格
雅黑 宋体 楷书 卡通
字体大小
适中 偏大 超大
保存设置
恢复默认
手机
手机阅读
扫码获取链接,使用浏览器打开
书架同步,随时随地,手机阅读
首 页 < 上一章 章节列表 下一章 > 尾 页