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作者: 当前章节:15497 字 更新时间:2026-6-23 00:42

 シゲの祈りは、|闇《やみ》に降りつづける雨に溶けていった。

 仙頭直郎は、ぬかるんだ道を歩きつづけていた。全身、雨が滴り落ちている。撃たれた左肩が、ずきずき痛んだ。草に覆われた|洞《どう》|窟《くつ》が見えた。直郎はその中に倒れこむと、這うようにして、狭い洞窟の奥の岩に身を寄せた。外の景色が、稲妻に白く浮かび上がる。岩の縁からとめどなく流れ落ちる雨。寒気が|足《あし》|許《もと》から|這《は》い上がってくる。傷を負った肩だけが、火照るように熱かった。

 直郎は上衣をずらして傷口を見た。幸い弾は貫通しているようだった。傷口から、潰れた肉の繊維が見える。その間に骨が|覗《のぞ》いていた。衣類や身の回りのものを入れた|頭陀袋《ずだぶくろ》は岩屋寺に置いてきてしまった。仕方なく上衣の裾を裂くと、包帯にして巻いた。布はすぐに血で染まっていった。

 直郎は傷をいたわるように、洞窟に横たわった。たぶん、ここも彼の先祖たちが使っていた岩屋のひとつだろう。岩屋寺から石鎚山まで、|古《いにしえ》の道が続いている。それは、直郎の村から石鎚山に向かう道と合流していた。今は獣しか通らない廃れた道だ。直郎を撃った警官たちには、決して見つけることはできない。直郎の村の者だけしか知らない石鎚山への道だった。

 直郎の村では人が死んで一年たつと、肉親は、この道を通って石鎚山に登っていく。そして山頂で死者に祈りを|捧《ささ》げ、降りてくる。両親が死んだ時も、妻の節子が死んだ時も、直郎はこの道を通って石鎚山に登った。今も彼は、この道を通って山に行こうとしていた。あの声が告げたように、石鎚が汚されようとしているなら、行って止めなくてはならない。

 石鎚山は、聖なるものしか登れない山だ。直郎の村の人間も、用がないのに石鎚山に登ることはしない。山に宿る神は静けさを好む。天に近いところに漂い、子孫である直郎の村の者を見守っていてくれるのだ。汚れたものは、そこには近づけないはずだった。そしてまた近づけさせないためにも、直郎たちは四国を巡ってきたのだ。

 激しい雨音の中で、直郎は自分の祖先を想った。四国を巡りつづけてきた祖先を。体が温かくなるのを感じた。肩の痛みが薄らいだ。

 神はそばにいる。彼の顔に笑みが浮かんだ。

 ビールの白い泡がこぼれそうになって、文也は慌てて口をつけた。比奈子が、ごめんなさいといって笑った。

 二人は|浴衣《ゆかた》姿で向かい合っていた。前には川魚料理が並んでいる。外では相変わらず、森が|怒《ど》|濤《とう》のような音をたてて荒れていた。しかし、閉めきった雨戸の内側にまで、|嵐《あらし》の這いいる|隙《すき》はない。

 面河村でやっと見つけた木造旅館の一室だった。台風に備えて宿の主が、玄関付近のものを片付けている最中に飛びこんだのだ。ちょうど予約取り消しの電話が相次いでいたところらしく、部屋はあった。ただ、別々に部屋をとりたいというと、主は困った顔になった。台風なので、本館の部屋だけを使ってもらいたいのだという。本館の部屋といっても二階の三室しかなく、あとの二室はもう客が入っていた。文也が困って比奈子の顔を見ると、彼女は遠慮がちに、私ならいいわといった。

 文也は今夜、同室になることを思い、慌てて比奈子の顔から目を逸らせた。自分の想像が彼女に伝わるのが恥ずかしかった。その時、宿の女が部屋の|鍵《かぎ》を持って案内に立ったので、救われた気分になったものだ。

 だが、こうして温かい部屋で夕食をとっていると、戸惑いも薄らいできた。最初は緊張していた比奈子も、今ではくつろいでいる。二人は、駆け落ちした君彦とゆかりの話に花を咲かせていた。

 ふと文也は、ここにこうしているのが不思議に思えた。どうして崖崩れを起こすほど雨がひどくなる前に、ひき返さなかったのだろう。比奈子に肩を揺すられて我に返るまで、自分が自分でなかったような気がした。雨が降りはじめたのも、どこか遠い世界の出来事のように思えていた。石鎚山に行かなくてはいけないという気持ちでいっぱいだった。

 いったい自分がどうなっていたのか、わからない。さっき役場に連絡したら、無断で休んだことなぞ今までなかった文也だけに、誰もが驚いていた。しかし、いちばん驚いているのは文也自身だった。

「子供の頃は台風が好きだったわ」

 山菜の天ぷらを|箸《はし》でつまみながら、比奈子がいった。文也はわざと驚いた顔をしてみせた。

「女の人ってみんな台風を怖がるもんだと思っていたけど」

 比奈子は笑いを含んだ顔で、首を横に振った。酔いのためか桜色に染まった頬が、|艶《つや》のある黒髪に包まれている。それがとても色っぽくて、文也はぞくりとした。しばらく遠ざかっていた女の存在感だった。

 彼女の男関係はどうなっているのだろう。東京から来たという、にやけた男と肉体関係にあったことは想像がついた。比奈子があの男と別れて、自分に話をしにきたといった時、認めたくはないが文也は喜びで体が熱くなった。しかし、それを素直に受け入れると、次にやってくるものが怖かった。

 男と女の関係は、ひとつところに止まってはいられない。前進しつづける列車のようだ。恋愛が成就しても、列車は走りつづける。燃料は女の感情だ。女はいつも新しい場所を求めている。先の景色が、今の景色より美しいと信じているのだ。そして列車の旅の果ての景色に幻滅したら、別の列車に乗り換えて、今度こそ美しい光景に出会えると期待する。女は基本的に楽天家だと思う。

 比奈子と一緒に列車に乗ったら、どんな駅に行ってしまうのだろう。「失敗」という名の駅に着くとは限らないのはわかっている。だが、「幸福」という名の駅に着くとも限らない。だいいち、幸福とは何なのだろう。自分にとって幸福とは、どういう状態なのだろうか。人間は誰でも幸福と不幸の|狭間《はざま》を行ったり来たりしている。たとえ恋愛をしても、幸福の側にいつまでもいることはできないだろう。

 比奈子がビールをついでくれた。

「文也君は、台風、嫌い?」

 好きでもあるし、嫌いでもあると彼は答えた。好きなのは、外に出ていかなくていい理由ができるから。嫌いなのは床下浸水。

「一度、僕の家、床下浸水、やったんだ。その頃の家はまだ建て直す前でね、外便所だった。浸水がひいてから庭を歩くと、そこらじゅう臭くて、しばらく悩まされたもんだ」

 二人は一緒に笑った。強い風が建物に吹きつけて、二階の部屋が揺れた。まるで笑い声が強風を巻き起こしたようだった。

「失礼します」

 |襖《ふすま》が開いて、仲居が|膳《ぜん》を下げに来た。手早く皿を片付けながら、愛想よく話しかけてきた。

「せっかく来られたのに、こんな天気でお気の毒ですねぇ」

「高知からなんだけど、道路が崖崩れで帰れなくなったんです」

「そうらしいですねぇ。他のお客さんも、どうしょうかゆうて困ってました。こんなこと、あんまりないですけどね。なんやら二日間くらい通行止めになりそうですとね。村の者もええ迷惑ですわ」

 |痩《や》せた体を尺取り虫のように伸ばして座卓の上を|拭《ふ》きながら、仲居はいった。比奈子が文也に困ったような顔を向けた。

「二日も交通止めですって」

「弱ったな。いくらなんでも仕事を三日間も休むわけにはいかないし……」

「お客さん、高知といいなさったね」

 仲居が皿を載せた盆の隅に布巾を置きながら聞いた。文也は|頷《うなず》いた。

「ほんなら別の道を通って帰ったらええですよ。石鎚山の土小屋から|瓶《かめ》|ケ《が》|森《もり》林道を通っていくと、寒風トンネルの入口に出るんです。そこはもう百九十四号線ですから、高知に抜けられますよ」

「そりゃよかった」

 仲居は|一《いっ》|旦《たん》、膳を片付けてから、すぐに布団を敷きに戻ってきた。そして今夜の台風は大荒れになるだろうが、建物はしっかりしているので安心してくれといって下がった。

 文也と比奈子は、それからもしばらく話を続けた。今の仕事のこと、東京生活のこと、日浦康鷹の書いた本のこと。話が途切れた時、二人は肩が触れるほどに近づいていた。

 文也は比奈子にキスをした。いや、顔を近づけてきたのは比奈子だったかもしれない。二人は引力にひき寄せられるように少しずつ近づいていき、腕をからめ合わせ、抱き合った。

 比奈子の浴衣に手を滑りこませながら、文也は列車に乗ってしまったことを感じた。ためらう気持ちよりも先に、体が動いてタラップに足をかけていた。文也は比奈子の柔らかな唇を|貪《むさぼ》り、ほのかな香水の匂いに顔を埋めた。やがて比奈子が立ち上がり、電気を消した。部屋のなかは真っ暗になった。そして二人は布団の上に転がりこむようにして、浴衣をほどいていった。

 外では雨が激しく降っていた。遠くで雷の音がした。比奈子が文也の耳許で|囁《ささや》いた。

「私のこと、怒ってる?」

 文也は、怒ってないと囁いた。比奈子が彼の体に強くしがみついてきた。比奈子の情熱が、彼のためらいを焼き尽くしたようだった。文也は、彼女の内に燃えている情熱の炎に手を伸ばした。体に力が|漲《みなぎ》るのを感じた。このまま比奈子と一緒に、どことも知れない未来に行ってもいいと思った。老人でもあるまいし、村で隠居したような生活を送るのは、馬鹿げている。自分には、まださまざまな未来があるはずだ。

 文也は比奈子の中の情熱の炎をつかみ、呑みこんだ。体の中で火が燃える。比奈子が|喘《あえ》ぎ声を洩した。二人はお互いの炎に焼かれながら、固く抱き合った。火のまわりを巡りながら踊りつづける原始宗教の崇拝者のように、激しく体を動かした。興奮と陶酔のなかで、文也は神の谷の石柱を思い出していた。

 かつて人々は|恍《こう》|惚《こつ》の表情を浮かべて、あの石柱のまわりを巡り、交わった。瞼の裏に、昨日から絶えず浮かび上がってくる映像が現れた。石柱の下で喘ぐ男と女。声をあげて射精する男。満足気に笑うつり目の女。日浦の女……。そして、彼女たちはこの世に自分の分身を生み出すのだ。死者と生者をつなぐ者、死者を復活させる女を……。

 体に震えが走り、文也は一気に射精した。

 ドドーン。強い風が旅館を直撃して、部屋が大きく揺れた。窓辺が、がたがたと鳴り、不意に窓の外が明るくなった。雨戸がはずれて落ちたのだ。突然、テレビのスイッチを入れたかのようだった。窓|硝子《ガラス》に、大きく揺れる木々と、稲妻の閃く空が映っていた。強い風と雨が硝子を震わせる。薄明かりの中に、比奈子の裸体が浮かび上がった。彼女は、虚ろな顔で|微笑《ほ ほ え》んだ。

「台風は好きよ……」

 その声に呼応するように稲妻が走った。バリバリバリッ。木がひき裂かれるのにも似た音が|轟《とどろ》き、窓の向こうの渓谷に青白い火柱が上がった。雷が落ちたのだ。すぐにまた、くねる蛇のような白い稲妻が空を貫いた。部屋全体が小刻みに揺れている。床の間の掛け軸がするすると落ちた。消したはずの電気が、点滅しはじめた。

 比奈子の顔に恐怖が浮かんだ。台風は好きなんだろう。そういってからかいたかったが、文也もまた恐れに近いものを感じはじめていた。文也は比奈子を布団に招じ入れると、彼女を抱きしめた。体のぬくもりが、脅えを追いやってくれる気がした。

 と、思った瞬間、ひときわ強い風が宿を揺さぶった。パァーン。鋭い音とともに窓が割れた。硝子の破片が部屋に降りそそぐ。風と雨が吹きこんできて、カーテンがちぎれるほどにひるがえった。湯飲み|茶《ぢゃ》|碗《わん》が倒れた。座卓の上に、どす黒い血のような色の茶がじわじわ広がっていく。比奈子が震えているのがわかった。

「だいじょうぶだよ。硝子が割れただけ……」といいかけた。

 その時、あの視線を感じた。自分を見つめる、熱く、冷たい視線を。文也は恐怖を覚えて半身を起こした。

 比奈子がもの問いたげにかれの顔を見た。その瞳の中に何かを認めたらしい。比奈子の顔が|歪《ゆが》んだ。

「莎代里…」

 彼女がかすれた声を洩らした。

「違うっ」

 文也が怒鳴った時だった。ぱたりと風がやんだ。部屋の中が静かになった。すべてが動きを止めた。空気すらも凍りついた。ざあざあという雨音だけが部屋に満ちている。その静寂のなかで、あの視線がさらに強くなったのを感じた。かつてなかったほどの強烈な怒りをこめて、文也の背中に食いこんでくる。

 違う。莎代里ではない。彼女は死んだのだ。

 文也は心の中で叫んだ。そして歯をくいしばるようにして後ろを振り向いた。割れた窓があった。彼は窓の向こうを|睨《にら》みつけた。

 闇が漂っていた。夜空に映る影絵のような木々の奥に、底のない暗闇が広がっていた。漆黒の闇は動いていた。木立を抜けて、この部屋に迫りこようとしていた。あたりに漂う静寂こそ、闇の足音。文也を呑みこもうと、割れた窓からその黒い舌を伸ばしてくる……。彼は思わず身震いした。

 木々が揺れはじめた。木立の奥から、風の音が聞こえてきた。ひゅうううううぅぅぅうう。まるで誰かが泣いているような音をたてて、突風が部屋に吹きこんできた。

   3

 青空がずいぶん高いところに見えた。険しい山々の|狭間《はざま》に時折、不器用に岩を削ったような石鎚山の姿が現れる。文也の車は石鎚スカイラインを走っていた。不通になった道を避けて矢狗村に帰るには、|一《いっ》|旦《たん》、石鎚スカイラインを通って、登山口にあたる土小屋に出て|迂《う》|回《かい》しなくてはならなかった。

 開けた窓から、|爽《さわ》やかな風が吹きこんでくる。路面に散らばった木の葉や小枝が、昨夜の|嵐《あらし》のよすがを止めていた。前にも後にも車は見えない。こんな台風明けの早朝に石鎚山に向かう者は、誰もいなかった。

 比奈子は窓の外に顔を出して、息を吸いこんだ。冷たい空気が、寝不足でぼんやりした頭に心地よかった。

 昨夜、部屋の窓が割れてから、二人は大急ぎで服を着て、宿の宿直室を叩いた。深夜に起こされて不機嫌だった雇い人も、部屋の惨状を目にすると驚いたようだった。すぐに代わりの離れの部屋を準備してくれた。しかし部屋を移っても、恐怖は去らなかった。比奈子と文也は、湿気のこもる部屋で、脅えた子供のように抱き合って横になった。そのまま朝まで、よく眠れなかったのだ。

 彼女は花柄のバッグからコンパクトを取り出して、鏡を|覗《のぞ》きこんだ。目の下に|隈《くま》ができていた。肌も張りを失っている。比奈子は、文也を見た。うっすらと生えた不精髭。|憔悴《しょうすい》しているようだった。彼女は苦い笑いを洩らした。

「どうかした?」

 文也が聞いた。

「ひどい顔ね、私たち」

 文也は左手で顎を|撫《な》でた。

「ひどい夜だったもの……」

 そういってから、比奈子に目を遣って、気まずそうな顔になった。彼女は、窓に顔をそむけた。自分の顔が歪んでいるのがわかった。

 ひどい夜! 二人で過ごした初めての夜を、そういい表すしかないとは。情けなくなった。普通なら、二人は笑い合い、幸福感に包まれていたはずだ。比奈子の目から涙が|滲《にじ》んだ。|嗚《お》|咽《えつ》がこみあげてきた。

 車が減速して、路肩に止まった。

「どうしたんだい」

 文也が|訊《たず》ねた。比奈子は黙って、うつむいていた。膝に置いた手が涙で|濡《ぬ》れていた。文也がその手に、自分の手を重ねた。比奈子は、彼の首にしがみついた。彼の体は温かく、冬の日だまりのようだった。文也はそっと彼女の背中に手を回した。二人は夜が明けるまでそうしていたように、しっかりと抱き合った。比奈子の気持ちが少しずつ落ち着いてきた。顔を上げると、文也と目があった。気遣いと不安がないまぜになった瞳だった。比奈子は自分の衝動が恥ずかしくなって、気弱く微笑んだ。文也が彼女にキスをした。

 ぐしゃっ。何かが|潰《つぶ》れるような音に、文也と比奈子は顔を上げた。フロントガラスに赤い血が広がっていた。見ているうちに、血は下へ滴り落ちていく。

 比奈子は小さく悲鳴を洩らして、文也の胸に顔を埋めた。文也はゆっくりと比奈子から体を離すと、ドアを開けて外に出た。比奈子は恐るおそる、前を見た。ボンネットの上に柔らかな羽毛に覆われた小さな塊が落ちていた。文也は木の枝で鳥の死骸をはね飛ばすと、運転席に戻ってワイパーのスイッチを押し、フロントガラスを掃除した。

「馬鹿な鳥だ。止まっていた車に、向こうからぶつかってきた」

 文也が、たいしたことはないといいたそうな口ぶりでいった。だがその声には、不自然な緊張がこもっていた。比奈子は、座席に体を埋めて|呻《うめ》いた。

「莎代里ちゃんね」

 文也は怒った顔でエンジンをかけた。車は再び走り出した。比奈子は声を大きくしていった。

「ゆうべのことも莎代里ちゃんのせいよ」

「莎代里は死んだんだ」

 文也は前を向いたままで答えた。比奈子の頭に血が上った。青龍寺での態度と同じだ。文也は決して、莎代里のことを認めようとしない。

「何もかも莎代里ちゃんのせいよ。私たちに怒っているのよ。わかってるでしょ」

 文也は返事をしなかった。車が大きなカーブを曲がった。少しずつ石鎚山が近づいてくる。

「莎代里ちゃん、文也君のこと好きだったのよ。知ってた?」

 文也は|頷《うなず》いた。比奈子は内心驚きながら、また聞いた。

「文也君は彼女のこと、どう思っていたの」

「何も思ってなかった」といってから、文也は眉根に|皺《しわ》を寄せた。

「いや……わからない」

 自分のことはどう思っていたのか、そう聞こうとして、比奈子は|躊躇《ちゅうちょ》した。返事を聞くのが怖かった。自分はこうして言葉を呑みこみつづけてきたのだと思った。言葉を|甲《こう》|羅《ら》の中に隠しながら、こぼれた感情を絵に吐き出してきた。相手と話し合うことなく、感情だけを昇華してきた。だから、透とのつきあいでも何も生み出せなかったのだ。

 やめようと決心したはずだ、自分の中だけで完結していくのは。比奈子は思いきっていった。

「私も文也君のこと、小学校の時から好きだった」

 文也が意外だという表情で彼女を見た。

「だけど私って、いつも亀みたいに甲羅に閉じこもっていた。だから表には出せなかったのよ」

 比奈子はフロントガラスを睨みつけながら続けた。一度口を開くと、どこで話をやめていいかわからなくなった。言葉はつっかえながらも次々に出てきた。子供の頃のこと。透との恋愛のこと。何も与えず、何も得なかったこと。それをやめようと思ったこと。もう語ることがなくなると、比奈子は大きく息をして座席に体を沈めた。

 文也は黙ったまま、前を向いて運転している。比奈子は急に不安になった。言葉を発しても、無意味なのかもしれない。話したからといって、他人が自分を理解してくれるわけではないのではないか。

 しばらく車のエンジンの音しかしなかった。車を降りて逃げ出したくなった時、文也が口を開いた。

「強いね、比奈ちゃん」

 比奈子はその意味がわからなくて、文也の顔を見た。

「みんな程度はどうであれ、甲羅は被っているよ。それは自覚すればするほど重くなる自分の殼だ。だけど比奈ちゃんは、その重さを感じながらひきずってきた。強いんだと思う。僕は……」

 文也は言葉を切って、ハンドルを回した。車はまたカーブを曲がった。

「僕は、甲羅というものを見ないようにしてきた」

 文也は苦々しげにいった。

「自分が、人生にも、他の人たちにもものわかりのいい人間だと信じてきた。ものわかりがよすぎたから、早くから人生に疲れたのだと思ってきた。だけど、今では何だかわからない。……ひょっとしたら僕は安全な自分の甲羅の中にいて、外の世界に自己流の解釈をつけていただけかもしれない。甲羅の外の世界に出ていくことをせずに、それを直視することを避けてきた。純子……別れた妻が抱いていた不満も……莎代里の視線も……」

「莎代里の視線?」

 比奈子は|囁《ささや》くように聞いた。

「莎代里は昔から僕を見ていた。僕のことを好きだとは、うすうす勘づいていた。しかし、僕は気がつかないふりをしてしまった」

 文也はぷつんと言葉を切った。向こうに駐車場が見えてきた。

「土小屋についたよ」

 文也は話を打ち切るようにいった。

「せっかくだから、石鎚山を拝んでいこうか」

 比奈子は、それもいいわねと答えた。車は駐車場に入っていった。

 駐車場のまわりには数軒の|土産《み や げ》|物《もの》屋やレストランが集まっていた。『石鎚山登山口 土小屋』という看板が立っている。比奈子は車の外に出た。駐車場には他の車は一台も止まっていなかった。土産物屋やレストランはシャッターをおろしている。|人《ひと》|気《け》のない登山口は、台風の後の|清《すが》|々《すが》しい空気に満ちていた。目の前には石鎚山の|尖《とが》った山頂が天を貫くように伸びている。この山は、見る角度によってずいぶんと形を変えていた。

 比奈子は大きく腕を広げて深呼吸した。肩の荷がおりた気がして、気持ちがよかった。思っていたことを口に出したせいかもしれない。

 ——強いね、比奈ちゃん——

 文也のいった言葉が、胸の奥にしっかりとしみこんでいた。自分の性格が強いといわれたのは、はじめてだったから、|嬉《うれ》しかった。

 文也は駐車場の横にある案内図を見ていた。

「高校の時登ったことがあるけど、表参道っていわれる北側からだったんだ。こっちの裏参道のほうが近いな。それでも、山頂まで二時間半だって」

「石鎚山か。私は登ったことないわ」

 文也は腕時計を見て、八時半だといった。そして青い空に屹立する石鎚山を見た。

「どうせ今から役場に出ていっても遅刻だ。登ってみてもいいな、どう?」

 比奈子は一瞬、迷った。それほど登りたいという気持ちもなかった。しかし、登ることにすれば、今日一日、文也と一緒にいられる。それが彼女を決心させた。

「登りたいわ」

 文也はにっこりした。

「じゃあ行こう。実は僕、タカさんの書いていたことが気にかかっていてね。石鎚山は死者の魂の行く山だってことなんだけど、何かおもしろいものが見つかるかもしれない」

 比奈子はいやな気がした。二人の間に、死者の話なんか出てきてほしくはなかった。比奈子は彼の手の中に自分の手を滑りこませた。

「タカさんのことよりも、ハイキングよ」

 文也は、そうだなといって、比奈子の手を握りしめた。そして、役場に明日から出勤することをいってくる、と公衆電話に走っていった。比奈子は車に戻って、バッグからハンカチとティッシュペーパーを取り出した。財布一式はバッグごと置いていくことにした。山登りで貴重品を落としたくはなかった。小銭だけポケットに入れると、車をロックしてドアを閉めた。文也が電話から戻ってきた。

「道路が不通になってるっていったら、すんなり休ませてくれたよ」

「悪い人ね」

「年休が余るよりは、いいさ」

 文也は笑って比奈子の手を取った。二人は手をつないで|栂《つが》林にかこまれた登山道に入っていった。

 木の|梢《こずえ》から落ちた水滴が、直郎の|襟《えり》|許《もと》に降りかかった。彼は驚いて肩を震わせた。茶色の|栗鼠《りす》が木をかけ登っていくのが見えた。直郎は弱々しい笑みを浮かべた。

 頭が|朦《もう》|朧《ろう》としている。肩が燃えるように痛む。|足《あし》|許《もと》がふらついていた。

 目の前には、|灌《かん》|木《ぼく》の茂る林が続いている。下生えの草を注意深く観察しないと、そこに道があるかどうかわからない。しかし直郎は長年の勘で、無意識に道を感じとり、山に分け入った。

 最後にこの道を通ったのは、妻の節子が死んで一年たった時だった。直郎と、妻の年老いた母と兄妹と登っていった。義母は七十歳になろうとしているのに、足腰は驚くほど丈夫だった。|杖《つえ》をつきながら、曲がった腰で坂道を登りつづけた。あれはどこだっただろう。深い沢を渡っている時、義母が急に足を止めた。下方から吹いてくる爽やかな風に涼んでいるのかと思っていると、やがて低い声で、誰かの魂が今、山に昇っていったと|呟《つぶや》いた。その時、直郎は、節子の魂もこの沢を渡っていったのだろうかと思った。そして節子の死を思い出し、心の底が抜けたような空虚感を覚えた。

 節子が死んだのは、秋も深まった頃だった。|芒《すすき》の穂をかきわけて、その夕、直郎が長いお勤めから帰ると、家は庭先まで明かりが灯り、人で|賑《にぎ》わっていた。直郎はとっさに赤ん坊が生まれたのだと思った。お勤めに出る前、節子は臨月に近かった。

 直郎は喜びにはちきれそうになりながら、家の中を|覗《のぞ》いた。そこに見たのは、黒い着物を着た人間ばかりだった。部屋に漂う影法師のように、見覚えのある人々が酒を飲み、料理を食べていた。その中から、直郎の父が出てきた。父は言葉につまりながら、難産で母子共に死んでしまったのだと告げた。

 信じられなかった。父は、縁側に座りこんで|茫《ぼう》|然《ぜん》としている直郎に、葬式は今日終わったところだといった。

 直郎は、すぐさま墓に駆けつけようとした。父が彼の腕をつかんだ。

「行ったらいかん」

 恐ろしい形相で父がいった。なぜ、駄目なのかわからなかった。直郎は、父の手を振り払って、先祖代々の墓に向かった。

 墓地には、人がいた。鎌を手にした村の老女たちだった。女たちの足許で、妻の|棺《かん》|桶《おけ》が開かれていた。鎌が振り上げられ、節子の下腹部に突き刺さった。そして黒々とした塊がひきずり出された。胎児だった。手足が、丸焼きにした|鶏《にわとり》のように縮こまっていた。鎌の先の黒い血が、粘るように滴り落ちるのが見えた。

 悲鳴をあげて止めに入ろうとした直郎を、後ろから太い手が幾本も伸びてきて止めた。村の男たちが、暴れ狂う直郎を墓地から連れ出していった。

 |身《み》|籠《ごも》ったまま死んだ女は、埋葬後、腹の子を取り出して、二つ身にしてもう一度埋めないといけない。そういうしきたりがあると知ったのは、後のことだった。そうしなければ、母も子も共に山に行くことはできない。永遠に、この世をさまようことになるというのだった。

 墓地で見た光景は今も直郎の脳裏に焼きついている。腹から子をひきずり出されて、横たわる節子の姿。その記憶が強烈すぎて頭から離れない。子供は男だったという。

 直郎は木立の間にのぞく石鎚山を見上げた。妻と子は、あそこにいるのだろうか。黒い血の滴る胎児を抱いた節子の姿を思い浮かべて、|眉《み》|間《けん》の|皺《しわ》がさらに深くなった。

 五葉松が尖った葉を天に向けて立っていた。救いを求めるように枯れた枝を広げる白骨樹、地面を覆う深緑の|熊《くま》|笹《ざさ》の原。吹き上げてくる風に揺れる熊笹の音を聞きながら、文也と比奈子は歩いていた。道は台風のせいでぬかるんでいた。雷に打たれた大木が、黒こげになった枝を力なく垂らしている。幾重にも連なる斜面の向こうに、石鎚山の岩だらけの山頂がくっきりと見えた。

 文也は時折立ち止まっては、比奈子を振り返った。彼女は荒い息を吐きながら、一生懸命に彼についてきていた。さっき車の中で打ち明けられた話のせいだろうか。その姿は、|甲《こう》|羅《ら》を脱ぎ棄てて変わろうと努力している亀のように思えた。

「足許に気をつけて」

 朽ちた木の階段を昇ってくる比奈子に、文也は手を差し出した。

「ありがとう」

 汗の|滲《にじ》んだ顔に笑みを浮かべて、比奈子が彼の手を握った。その様子がいとおしくて、文也も笑みを返した時だった。彼女の肩ごしに誰かが立っているのが見えた。文也は、はっとして、目をこらした。

 誰もいなかった。熊笹が風に揺れているだけだ。ざざざわわ。熊笹の音が、彼を包んだ。

「痛いわ」

 比奈子の声がした。気がつくと、彼女の手を強く握りしめていた。文也は、ごめん、と謝って、そっと熊笹のほうに視線を戻した。やはり誰もいなかった。そばに、ひょろりとした白骨樹が立っていた。空に広げた枝の一本一本が、奇妙にばらばらの方向に揺れている。見ているうちに、自分の心まで四方八方にひっぱられて均衡を失いそうな気がした。

 文也は前を向くと、ずんずん歩き出した。背中にまた、あの視線を感じていた。

 熊笹の原を抜けると、岩だらけの斜面に道が続いている。石鎚山はその名の通り、石でできている山だ。積み重なった石の上に生える|苔《こけ》。岩の間に根をはり、斜面にへばりつく木々。ところどころに立っている『落石注意』の札。古木の股や平らな枝の上、道端の岩の上に、小さな石が積み重ねられているありさまは、|賽《さい》の河原のようだ。

 山の小動物だろうか、時折、草むらでかさこそと何かが動く音がする。頭のすぐ上に、石鎚山の頂上の岩が|屏風《びょうぶ》のようにそそり立っている。かつて父から、あの|崖《がけ》っぷちに半身乗り出して度胸を試す修験者の修行があると聞いたことを思い出した。

「あれ、何かしら」

 比奈子が、前方に見える青い小屋を指さして聞いた。

「二の鎖小屋だよ。あそこに二番目の鎖があるんだ」

 比奈子が|怪《け》|訝《げん》な顔をしたので、文也は山頂までには三つの岩場があって、それぞれ鎖を登って上がることになっていると説明した。

「この道は、二の鎖のところに出るみたいだな」

「なんだ、もうすぐ到着ね。四国最高峰っていっても、意外と楽じゃない」

 文也はにやりとした。

「ところが、ところが。最後のひとふんばりが、大変なんだよ。確か二の鎖は五十メートル、三の鎖となると六十メートルくらいはあるんだからさ。楽なんていってて、後で泣きっ面するなよ」

「意地悪ね」

 比奈子は文也の肩を叩いた。文也はふざけて逃げるふりをした。

 カランカラカラ。突然、頭上で音がした。|遥《はる》か上の岩だらけの斜面から、小石がひとつ二人めがけて落ちてきていた。子供の|拳《こぶし》ほどの石は二人の間を裂くようにして、さらに深い谷底に落ちていった。

 文也は頭上を仰いだ。風も吹きつけていないその斜面に、動くものはなにもなかった。石たちは地面に|貼《は》りついている。落ちてきた小石だけが、命を持って動きだしたかのようだった。比奈子が脅えた顔で、彼を見た。

「行こう」

 文也は、ぶっきらぼうにいうと歩きだそうとした。

「私を先に行かせて」

 比奈子が彼の前に割りこんできた。文也は、いいよといいながら、彼女もまたあの視線を感じているのだと思った。

 再び歩きだしてからも、誰かに見られているという感覚は消えなかった。背筋がぞくぞくして、首のうしろの産毛が逆立った。振り返ると莎代里がいるような気がした。

 いや、そんなはずはない。莎代里は死んだのだ。死んだ莎代里が自分を見つめているとは、絶対に認めたくはなかった。

 子供の頃、視線を感じて振り返ると、そこにはいつも莎代里がいた。しかし文也はそれを無視していた。莎代里の視線にこもる愛情を無視したのだ。彼女の愛情を受け入れたくなかった。そうしたら、自分の気持ちも受け入れないではいられなくなる。自分の気持ち、それは——。

 文也は石ころだらけの道を|睨《にら》みつけた。

 莎代里の視線に感じた心地よさ。

 文也は奥歯を噛みしめた。自分は莎代里の視線を浴びることが好きだったのだ。好きだったからこそ、気がつかないふりをしていた。そうすれば、その視線は永遠に自分にそそがれるであろうことを、本能的に悟っていたのだ。彼は正しかった。子供から大人になり、結婚しても、さらには離婚してからも、視線は文也から離れることはなかった。彼は、そこにこもる熱く冷たい愛情に心地よいものを感じていた。

 彼自身、そのことを今まで明確に意識したことはなかった。考えることすら避けていた。

 しかし事実なのだ。彼は、莎代里の視線が好きだった。いつも誰かが自分を見ていてくれるという思いは、彼の孤独感を癒してくれたから。

 だが莎代里の視線は、中学三年の夏を境に、死者のものとなってしまった。以後、その存在を意識の外へ追いやろうとしてきた。死者の視線に心地よさを感じている自分を認めるわけにはいかなかった。彼は生きているのだ。生きていたいのだ。

 莎代里はもう死んだのだ。

 悲鳴にも似た声で、これまで幾度となく思ってきたことを、文也は心で叫んだ。

「着いたっ」

 比奈子がほっとしたようにいった。青いペンキで塗られた二の鎖小屋が、明るい日射しの下に立っていた。登山者の休憩所や、宿泊場所に使われているようだが、今はトタンの雨戸に閉ざされていた。台風で下山した小屋の者は、今日は商売にはならないと踏んで、上がってこないのだろう。二人は小屋の前の自動販売機でジュースを買うと、ベンチに座って少し休んだ。比奈子が小屋の前に『石鎚大天狗』と書かれた小さな石像を見つけて、ふざけながらお祈りした。小屋を抜けると茶色の大きな鳥居があり、その奥に岩だらけの急斜面が続いている。斜面には鈍い色を放つ鉄の鎖が下がっていた。

「あれ登るの」

 こわごわ尋ねる比奈子に、文也は別の道があるといって鳥居の前を通り過ぎた。鎖を登れない者のために、|迂《う》|回《かい》路が設けられていた。とはいえ、それも決して安心できる道ではなかった。急な小道は、ところどころで絶壁に分断され、その間は鉄板で作られた階段でつながれていた。手すり代わりに張られたロープを伝っていかないといけない。

「ここで待ってるかい」

 文也が聞いた。比奈子は、さっと後ろに目を遣った。からりと晴れた空から、太陽の光が降りそそいでいる。比奈子は目を細めて首を横に振った。この|眩《まぶ》しいほどの明るさの中で、彼女は|怯《おび》えていた。

 文也は比奈子の手を握った。そしてまた手を離すと、先に立って迂回路を登りはじめた。あたりは静かな明るさに満ちていた。眼下に連なる鮮やかな緑の山並。透明感のある空気。石を照り返す光。文也は緑がかった石に覆われた頂を仰いだ。

 ここは、あまりに天に近い。|畏《おそ》れに似た感情にとらわれて、彼は目がくらみそうになった。

 直郎は石鎚山の山塊を仰いだ。三の鎖がぶら下がる絶壁が見えた。この道は、三の鎖を迂回する道に通じていた。額から|脂汗《あぶらあせ》が流れた。悪寒がした。直郎はしばらく立ち止まって、呼吸を整えた。肩の痛みは、ずきんずきんと波のように押し寄せてくる。力が脂汗とともに、体から抜けていく。

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