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作者: 当前章节:15368 字 更新时间:2026-6-23 00:42

 心が洗われるような透明で青い空がひろがっていた。太陽は暖かく輝いている。こんな天気のいい日に、苦痛に顔を|歪《ゆが》ませ、悪寒に震えているのがおかしいくらいだった。ひきつるような笑いを顔に浮かべて、再び歩きだした時、三の鎖から山頂に続く道を登る人影が見えた。台風の翌日に登ってくるとは、よほど山が好きな連中にちがいない。

 直郎は登山者といわれる者たちを好きになれなかった。山は遊びで登る場所ではない。|崇《あが》め仰ぐ場所なのだ。しかも、あの一行はどうだ。子供まで連れて登っていく。

 そう思ってから、鉄板の階段を登る男女の後についていく子供の様子がおかしいことに気がついた。少女のようではあるが、その姿がはっきりしない。|蝋《ろう》|燭《そく》の炎にも似て、絶えずかたちを変えている。ある時には、おかっぱ頭の黒髪が見えたかと思うと、次の瞬間には顔も体も立ち昇る煙のように|捩《よ》じれてしまう。歩いているようではなかった。頼りなげにふらつきながら、階段を滑っていく。まるで黒い水が低いところから高いところに、ずるずる|這《は》い上がっていくようだ。

 直郎は息を止めた。

 まさか……。

 少女の周囲には、影のような黒いもやが渦巻いていた。それは山の清浄なる空気とは違う空気。

 ——石鎚が汚されようとしている——

 岩屋で聞いた神の声が彼の全身を打った。直郎は山頂に向かって走りだした。

   4

 岩だらけの山頂に風が吹きすさんでいた。眼下に緑の尾根が続いている。空がひときわ近くなったようだ。太陽の光がその輝く腕で辺りを包みこんでいる。比奈子は風に舞う髪を押さえながら、荒い息を整えた。冷たい風に、汗はすぐにひいていった。

 石鎚山の頂上は、学校の教室ほどの広さの岩場になっていた。下のほうには、石鎚神社のコンクリートの|祠《ほこら》が立っている。比奈子は文也に、神様にお祈りすると声をかけて祠の前に立った。

 祠には、丸い鏡が|捧《ささ》げられていた。比奈子はその前で|柏手《かしわで》を打った。

 文也との仲がうまくいきますように。真っ先に頭に浮かんできた願いを心の内で|呟《つぶや》いた。祠から離れて文也の姿を探すと、かれはさらに二メートルほど上にある、岩場の頂上によじ登っていくところだった。その一帯は岩が崩れるのを防ぐように、太い鉄の鎖で覆われている。頂上は、木の|柵《さく》に囲まれた四角い神域になっていた。『キケン立入禁止』という立て看板を見て、比奈子は叫んだ。

「文也君っ、だめよ、そこ」

 文也は、にやりとして手を振ると木の柵をまたいだ。その背中が二重にだぶって見えた。背中から影のようなものが現れて、ふいっと垣根を越えて、神域に滑りこんだ。

 比奈子は目をしばたかせた。明るすぎる光のせいだろうか。四角い神域が急に暗くなったようだった。胸騒ぎを覚えて、文也を追って岩を登っていった。

 柵に囲まれた神域の前の立て札に、石鎚山の開祖役小角記念の地というようなことが書かれていた。中には無数の石が積み重ねられ、小山のようになっている。文也はその石の山の上にかがみこんでいた。どの石の表面もつやつやと光って見えるほど明るいのに、文也の顔がよく見えない。彼のまわりに黒い空気が渦を巻いている気がした。

「文也君っ」

 比奈子は恐ろしくなって声をかけた。

 文也が顔を上げた。その手には緑色の石が握られていた。

「見て。これ、神の谷の石柱と同じ石だ」

「ほんと……?」

 比奈子も柵を越えて、文也の横に立った。緑色の石は確かに神の谷の石柱とそっくりに思えた。

 文也は緑色の石を指先で|撫《な》でながらいった。

「古代人たちは、これで作った石柱を神の谷に持ってきて、礼拝の対象にしていたんだ。たぶん死者に対する礼拝だったんだろう。しかし時代が変わり、石柱は泥に沈んでしまい、礼拝の対象はなくなった……」

 石には死霊を集める力がある。

 昨日、病院で聞いた日浦康鷹の言葉が|蘇《よみがえ》った。あの石柱は、死者の霊を集めるために置かれたのだ。死者の場所としての神の谷の力を強めるために。

 それを谷の底から出してしまったのは莎代里だ、と康鷹は告げた。石柱を文也に立てさせたのは、莎代里ということか。一昨日、神の谷で見た照子は、莎代里と一緒だといった。照子に石柱のまわりを左向きに回るようにそそのかしたのも、莎代里にちがいない。神の谷は、四国の中で最も死国に近い場所。そして左回りは死国への道だ。神の谷で石柱を左に回っていた日浦母娘は、石の力を増大させ、死国から死霊たちを呼び寄せていたのではないか……。

 背中に冷たいものが走った。比奈子は考えを打ち切った。

「ここは立ち入り禁止区域よ。出ましょ」

 緑の石を捨てて立ち上がった文也が、あっと声を洩らした。

「霧が出ている」

 下のほうから、白い霧が|湧《わ》き上がっていた。切り立った深い谷を、熊笹の茂る斜面を、細くカーブしながら続く道路を、霧は信じられない早さで覆い隠している。

「大変だわ。降りられなくなる」

 比奈子は柵のところに戻ろうとした。しかし文也はその場から動かない。比奈子は、文也の名を呼んだ。彼は興奮したようにいった。

「古事記だ」

 比奈子は眉をひそめた。こんな時に何をいいだすのかと思った。それでも文也は目を輝かせて下界を見つめている。

 もう霧は、どっぷりと下方を覆っていた。比奈子たちの立つ山頂のこの岩場だけが、浮島のように白い霧の海に浮かんでいる。霧の表面は煙立ち、全体が大きな渦を巻いていた。比奈子は恐怖を覚えた。世界が白い霧に覆い尽くされ、消滅してしまった気がした。

 文也の呟きが聞こえた。

「国|稚《わか》く、浮く脂の如く、|海月《くらげ》の如く、漂える時……」

 比奈子は|苛《いら》|々《いら》していった。

「何いってるの。早くここから降りないと」

「古事記だよ。タカさんの『四国の古代文化』の冒頭にもあった、この世のはじまりだよ。見てごらん、比奈ちゃん。そっくりじゃないか」

 文也は下界を指さした。

 どこまでも続く霧の海。空は青く輝いている。湧き上がる白い波間に浮かぶ島のように、石鎚山の頂上だけが残っていた。

「|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》と|伊邪那美命《いざなみのみこと》が国を生んだ時の様子って、こうだったんじゃないか。乳白色の海から浮かび上がってきた、|伊《い》|豫《よ》|之《の》|二名嶋《ふたなのしま》。四国のことだよ。大海原から最初に現れた土地こそ、四国最高峰の石鎚山の頂上だったにちがいない。四国は、今僕らが立ってる、この場所から生まれたんだ」

 熱に浮かされたような文也の言葉が、比奈子の心にしみこんできた。確かに、この光景は世界のはじまりのように思えた。世界がまだ|混《こん》|沌《とん》としていて、かたちを成していない時代。霧の海に浮かんだ、最初の島……。

 文也の声を聞きながら、比奈子はあたりを見回した。と、その時、くるぶしまで届く霧の海から、黒々とした手がにゅっと突き出された。血まみれの手が近くの岩をつかんだと思うと、次に頭を短く刈ったいかつい男の顔が現れた。比奈子は悲鳴をあげた。

 直郎が怒鳴った。

「そこから降りろっ」

 汚れて煮しめたようになった白装束。顔の髭は長く|剃《そ》ってないらしく野放図に生え、目はらんらんと光っている。左肩から滲んだ血が、|赤《あか》|錆《さび》色に広がっている。直郎は、ふらふらと二人に近づいてきた。文也が比奈子をかばうように前に立った。

「おんしらは石鎚を汚した」

 直郎は二人を殺しかねない剣幕でいった。

「何のことですか」

 文也が比奈子を柵のほうにひき寄せながら問い返した。

「汚れた霊を連れてきおった。やつらは自分の力ではここには登れやせん。あいつらを連れてこれるのは生きた人間じゃ。あいつらに魅入られた人間、おんしらのことじゃ」

 突然、高らかな笑い声が響いた。三人は、はっとしてお互いの顔を盗み見た。笑い声は続いている。|嘲笑《あざわら》うような少女の声は、その場の者が出しているものではなかった。

 笑い声は、神域の中央から聞こえていた。三人の視線がゆっくりと移動していき、そこに|釘《くぎ》|付《づ》けになった。

 石を積んだ山の上に、黒いものが漂っていた。ぼんやりと人のかたちをした影法師。その下の岩から、水が|滲《にじ》み出していた。水の表面から白い霧が立ち昇っている。いや、霧とも違う何かだった。どろどろと重たげに地面から|這《は》い上がり、影を包みこんでいく。卵の白身のように影を覆ったと思うと、人の姿をかたちづくりはじめた。最初に細面の少女の顔が現れた。白くまだ柔らかい粘土を、見えない手が彫刻しているようだった。目の部分が落ち|窪《くぼ》み、切れ長の瞼が刻まれた。顔の中央に、鼻がひねり出された。墨色の影が頭頂に集まり、髪の毛となった。鶴のような首筋、膨らみかけた胸、すんなりした腕。そこに、ほっそりした体をセーラー服に包んだ少女が立っていた。

 莎代里!

 比奈子は両手で口をふさいで、叫び声をあげそうになるのをこらえた。叫びはじめたら、やめることはできないだろう。声が|嗄《か》れ果てるまで叫びつづけるにちがいなかった。今、見ているものが夢であってほしいと願った。

 しかし莎代里は、そこにいた。彼女の覚えている莎代里より少し大人びた姿で立っていた。それは、日浦家の仏壇の遺影に映っていた莎代里だった。中学生に成長し、死ぬ直前の彼女。それでも小学生の時の面影を色濃く残していた。射るような瞳の奥に宿る、誇り高い精神。

 莎代里は文也に向かっていった。

〈文也君、あたし、帰ってきた〉

 莎代里は、彼に見せつけるように自分のすべすべした白い手を|撫《な》でた。莎代里の|足《あし》|許《もと》の石が、彼女の重みでカチリと音をたてた。

 文也は真っ青になって莎代里を見つめていた。莎代里は|微笑《ほ ほ え》んでいた。それは、生きている人間の笑みではなかった。冷たく、張りのない笑み。死者の顔だった。

「そこから出ろ、汚れた霊めっ」

 直郎が木の柵を越えてきた。

 莎代里は嘲るような表情を浮かべた。

〈どうして、あたしが汚れた霊やの。おんなじよ。谷におる霊も、山におる霊も。汚れたやの、汚れてないやのは、あんたらの決めたこと。うちは、この世に戻ってきとうてたまらんかっただけ。ほんやき魂を取りに来た〉

 莎代里は歌うように続けた。

〈この世に戻りたがっちゅうんは、あたしだけやない。みんなあ、戻りたがっちゅう。死国やのうて、この四国に〉

 莎代里は運動靴の先で、足許の石を|蹴《け》った。小石の山が四方に飛び散った。それが合図だったかのように、山全体が揺れはじめた。頂上の岩がガラガラと崩れていく。岩にからみついていた鉄の鎖が、強い力にねじ曲げられるように飛び散った。

 大地に揺さぶられ、直郎がよろめきながら倒れた。比奈子は叫び声をあげながら文也にしがみついた。岩の表面が|濡《ぬ》れてきた。透明な水が中から|滲《にじ》み出てきて、岩が汗を流している。水は、さっき莎代里の影を覆った白い霧に似たものを|湧《わ》き立たせながら、細かな筋となって山から流れ落ちていく。

 ようやく起き上がった直郎が怒声とともに、莎代里につかみかかった。莎代里は|陽炎《かげろう》のようにするりと逃げた。追いかけようとする直郎の前に、文也が立ちふさがった。

「邪魔するな。そいつは魔物ぞっ」

 直郎が叫んだ。文也がたじろいだ隙に直郎は、また莎代里に向かっていった。

「待ってくれっ」

 文也が直郎の腕をつかんだ。直郎は文也を殴りつけた。文也は殴り返した。水が滲み出した岩の上で、直郎の足が滑り、柵に背中をぶつけた。木の柵は根元から折れて、直郎は柵もろとも倒れ、悲鳴をあげながら岩場から落ちていった。比奈子は、直郎の消えていった深い霧を見遣った。

「文也君っ。あの人、怪我しているのよ」

 返事がなかった。

 文也は莎代里と向かい合っていた。二人の視線は見えない糸でつながっているように、からみ合っている。その緊迫した|眼《まな》|差《ざ》しに、比奈子は立ちすくんだ。地鳴りも地面の揺れも遠ざかっていった。わずかの間だったのに、永遠の時間が流れたように思えた。

 莎代里が視線を|逸《そ》らせた。そして壊れた柵の間を通って神域の外に出た。文也は莎代里の後に続こうとした。比奈子は文也にすがりついた。

「しっかりして。莎代里は死んだのよ。死んでいるのよっ」

 しかし文也は、比奈子の言葉を聞いてはいなかった。彼の瞳には、何も映っていなかった。昨日、石鎚山に向かって夢中で車を運転していた時の文也にそっくりだった。

 莎代里のせいだ。昨日も、そして今も。莎代里が文也の心をつかみ、彼の意識を現実から遠ざけているのだ。

「莎代里のこと、考えちゃだめっ」

 比奈子は文也の肩を揺さぶった。彼は彼女の手を邪険に振り払うと、岩場を降りはじめた。比奈子は慌てて彼の後を追った。

 山はまだ揺れつづけている。岩から流れ出る水はますます量を増していく。滴り落ちる水で、岩場全体が川になったようだ。湧き上がる白い気体が湯気のように立ち昇るなか、文也は石を伝って軽々と遠ざかっていく。比奈子は必死で足場を探しながら降りていった。

 文也の前には、莎代里のセーラー服の四角い襟がひらひらと揺れていた。下方に広がる霧の中に消える直前、莎代里が振り向いた。黒髪が、白い顔のまわりで蛇のように揺れた。

〈文也君はあたしのもんよ〉

 莎代里がいった。勝ち誇ったような響きが、比奈子の心に突き刺さった。莎代里の顔が霧に消えた。文也の背中も薄れていく。

「待ってっ」

 比奈子は走りだそうとした。その時、誰かが足首をつかんだ。比奈子はバランスを崩して、地面に叩きつけられた。|向《むこ》う|脛《ずね》に痛みが走った。

「助けて……く……れ」

すぐ近くで|呻《うめ》き声がした。霧の中から、直郎の顔が現れた。転げ落ちた時、したたか打ちつけたのだろう。額から血が流れていた。下半身は山頂の|崖《がけ》から飛び出してもがいている。手ががりとなる岩は、水を流して滑りやすくなっている。今にも直郎の体は深い谷に落ちそうだった。最後の力をこめて、通りかかった比奈子の足首をつかんだのだ。放っておくわけにはいかなかった。比奈子は急いで、直郎をひきずり上げた。

「ありがたい」

 直郎がいった。比奈子は、その汗と|垢《あか》の混じった臭いに顔をしかめた。

 ガタンガタガターッ。耳をつんざくような音がした。比奈子と直郎は顔を見合わせた。比奈子は、下に続く道へ向かった。鉄板で作られた階段が壊れていた。岩を留めていた大きなネジがはずれて、ぶらぶらしている。傾いた鉄板は、見ているうちに|断《だん》|崖《がい》の下へ落ちていった。

 山頂に取り残されたのだ。山は、ますます激しく揺れていた。比奈子は怖くなって、直郎の許にひき返した。直郎は額の血を|拭《ぬぐ》おうともせずに、水を滴らせる岩の上に座りこんでいた。肩の傷口が開いたらしく、新たな鮮血が白衣を染めていた。

「下に降りる道は、あそこしかないの?」

 ざあさあと大きな音をたてて流れる水音に負けないように、比奈子は声をはりあげた。直郎はそれには答えずに|呟《つぶや》いた。

「神の魂が山を下っていく」

 比奈子が、その意味を聞こうとした時、大きな音が|轟《とどろ》いた。二人のいる場所の岩に亀裂が走った。

「ここにいたら危ないわっ」

 直郎はだまって岩場の向こうを指さした。比奈子は、そこに別の道でもあるかと思って行ってみた。太い六筋の鉄の鎖が深い霧の底まで続いていた。三の鎖だった。六十メートルはあるといった文也の言葉を思い出して、比奈子の足がすくんだ。しかし山は揺れつづけていた。霧の底から、水の轟きが聞こえてきた。水を吐き出した岩はもろくなるのか、砂のようにぼろぼろと崩れていく。崩れた岩の断面から、とめどなく水が流れつづけている。

「早う降りたがええ」

 気がつくと、直郎が横に立っていた。

「わしのお勤めの時に、こんなことになるとは……」

 比奈子は、直郎の目から涙が流れているのに気がついた。涙と額から流れる血が一緒になり、いかつい顔を汚している。

「あなたは……どなたです?」

 直郎は深い霧の奥を見つめた。

「四国巡りの者じゃ」

 大きな音をたてて、石鎚神社の|祠《ほこら》が崩れ落ちた。三の鎖を留めている岩も小刻みに揺れている。留め具の鉄輪がゆるみそうだ。このままでは鎖もいつまで保つかわからない。直郎は比奈子を促した。比奈子は鎖に手をかけた。冷たい鉄の鎖が掌にぴったりとくっついた。

「あなたは?」

 直郎はくるりと比奈子に背を向けて、山頂の岩場に戻りはじめた。足許に、肩から流れる血が点々と落ちていた。比奈子は降りたほうがいいと叫んだが、直郎は振り返りもしなかった。

 他人のことを心配するより、今は自分の命すら危なかった。比宗子は決心して、鎖を伝って降りはじめた。すぐに鎖を握る手が痛くなった。足場の岩は、流れ落ちてくる水で滝のようだ。水量はどんどん増している。こんなに多量の水を放ったら、山は砂のように崩れ落ちてしまうのではないかと思った。

 水から湧き立つ白い気体と霧が混じり合い、もうあたりは何も見えない。自分がどれくらい降りたのか、あと地面までどれくらいなのか少しもわからない。鎖は永遠に続いている気がした。底があるとしたら、それは地獄ではないだろうか。死者の|蠢《うごめ》く地獄……。

 突然、鎖の手応えが消えた。次の瞬間、鎖が切れたのがわかった。体が宙に投げ出された。比奈子は悲鳴をあげながら、霧の中に消えていった。

 女の悲鳴を聞いた気がした。直郎は沈痛な表情で霧を見下ろした。山鳴りは大きくなる一方だ。山が泣いていた。魂を流しながら泣いていた。直郎は体をひきずるようにして、石鎚山の頂上の神域に戻った。肩の痛みは耐えられないほどになっていた。激痛に気が遠くなりそうだ。左手の先まで血が滴り落ちていた。出血は止まりそうもなかった。直郎は崩れ落ちていく石の上によろめきながら立った。

 眼下には、白い霧の海が渦巻いていた。その底に広がる世界を見たくないと思った。

 かつて四国は、死国であった。

 長老の言葉が頭に響いていた。

 死者も生者も、同じこの島に住まっていた時代があった。四国を生者の島にしたのは、わしらの先祖。四国を巡ることにより、死者の霊を天に昇る霊と、地に沈む霊の二つに分けて、この世に存在できないようにした。天に昇る霊は、われらの神となり、石鎚へと集まっていった。

 地に沈む霊は、死国とともに、この世の外に追いやられた。しかし彼らは生に執着する。この世で生を取り戻したいと願っている。だから、いつか石鎚に昇った魂を取り戻し、|蘇《よみがえ》ろうともくろんでいる。そうなれば恐ろしいことになる。四国は、死者と生者の入り交じる国に戻ってしまう。

 それが今、現実となろうとしていた。あの忌まわしい少女がここで蘇り、山を汚してしまった。そのため神を天にひきつけていた力が弱まったのだ。神の魂は水に乗り、地に降りはじめた。地に沈んだ霊が呼んでいるのだ。

 四国は死国になろうとしている。

 直郎は、滑る岩の上を歩きだした。右回りに、岩場の上を巡っていく。肩の傷口が焼けるようだ。ふらつく体を前かがみにして、顔を苦痛に|歪《ゆが》めさせて、それでも回りつづける。

 巡ること。四国を巡ること。石鎚を巡ること。彼も、彼の先祖もそうやって巡ってきた。それが彼らの知っている、ただひとつの祈り方だった。代々、その祈りを守ってきたのだ。歩くこと。祈ること。一歩、一歩に、心をこめて前に進むこと。時が移ろうとも、この祈りだけは変わりはしない。

 地底から湧き上がる霧が、直郎のまわりに渦を巻く。地鳴りが続く。四方から水の轟きが聞こえる。山は怒り狂い、|吼《ほ》えていた。

 もう彼を見守る神の存在は感じられなかった。

 シゲは急に陰った空を見上げた。さっきまで真っ青に晴れ渡っていた空を、無数の雲が流れていた。小さな雲が、隊列を組むように山の向こうに遠ざかっていく。台風の後に、これほど多くの雲が流れるのは見たことがない。シゲは下唇を突き出して、しばらく雲の行方を見送っていた。

 台風の後片付けをしていたところだった。庭や家の前の畑には、風に落とされた木の枝や葉、|桶《おけ》やゴミが散らばっていた。

 ゆうべは竹雄のことが思い出されてならなかった。しかし朝になり台風が過ぎてしまったのを知ると、恐怖も|嘘《うそ》のように消えていった。竹雄がこの世に戻ってくるのではないかと怖れた自分が愚かしく思えた。もう過ぎたことだ。今更、何に脅える必要があるというのだ。竹雄には悪いことをしたにはちがいないが、他にどうしようもなかった。

 シゲは、|曾《ひ》|孫《まご》の遊び道具らしいプラスティックのスコップを拾いながら、自分の|皺《しわ》だらけの手に目を落とした。あれは、まだシゲが張りのある肌をしていた頃のこと。遠い昔の話だ。

 ゴミを入れたバケツにスコップを放りこんで顔を上げると、畑の端まで来ていた。正面を逆川が流れている。台風のせいか増水していた。このところ水が少なくなっていたので、ちょうどいい。それにしても水面から白い湯気のようなものが湧き上がっているのは、どういうことだろう。心の中で|呟《つぶや》きながら、川のほうに身を乗り出した。|紙《かみ》|屑《くず》が流れていた。最近の者は、何でもぽんぽん川に投げ棄てる。片付けついでに、あの紙屑も拾ってやりたいものだと、それを|睨《にら》みつけたシゲは、おや、と思った。

 紙屑は上流に向かっていた。水は下流から押し寄せ、山のほうに流れていく。逆川の水は逆流していた。シゲはバケツの柄を握りしめたまま、じっと川の流れを追った。流れの果てにある、神の谷に視線がぶつかった。谷は濃い霧に包まれていた。白い霧が、矢狗村のほうに|溢《あふ》れ出している。

 シゲの内に、得体の知れない恐怖が、またじわじわとこみあげてきた。

 土小屋の|土産《み や げ》|物《もの》屋は開いていた。駐車場には車が数台止まり、観光客たちが霧にすっぽり包まれた石鎚山を恐ろし気に見ていた。相変わらず、山鳴りが轟いている。比奈子は駐車場を歩いていた。膝はすりむけ、手は血だらけだった。鎖が切れて落ちた時、岩場に叩きつけられたはずみに掌を切っていた。幸い地面まで数メートルの距離だった。命拾いしたとほっとする間もなく、二の鎖を降りて、やっとの思いでここまで帰ってきた。

 彼女は紺のセダンを探していた。それらしい車を一台一台、|覗《のぞ》いてまわったのに、文也の車はなかった。比奈子は、駐車場に立ち尽くした。

 文也は、自分を置き去りにしたのだ。そして莎代里とともに行ってしまった……。

 鎖が切れた時のようだった。最後まで信じていたものが、ぷつりと切れて、宙に放り出された。さっきは地面が近かったが、今度は違う。真っ暗な空間をどこまでも落ちていく。何にすがっていいかわからない。

「どうしました」

 |耳《みみ》|許《もと》で声がした。観光客らしい中年の夫婦が比奈子を心配そうに見ていた。比奈子は、自分が泣いているのに気がついた。

「あの、私……」

 そのまま何といっていいかわからずに唇を震わせた。ハンドバッグを車の中に置いていたことを思い出した。金もないまま、石鎚山の中腹に取り残されていた。おまけに、ひどい|恰《かっ》|好《こう》だった。サマーセーターは泥だらけ。ジーンズの膝も破けている。

 手製らしい黄色い布の帽子を被り、首にスカーフを巻いた女が困ったように、比奈子の肩に手を回した。

「家はどこかね。帰ったがええやろうに」

 東京という言葉を呑みこんで、比奈子は矢狗村と答えた。

「でも……一緒にいた人が先に帰ってしまって……どうしたらいいか……」

 いつの間にか近くにいた人たちが集まっていた。矢狗村ゆうてどこかね。どうしたんやろう。そんな|囁《ささや》き声が聞こえた。

「矢狗村なら、俺の家に近いけど」

 若い男の声がした。パーマをかけた、小柄な男が人をかきわけて現れた。

「ああ、よかった。そんなら、この人、送ってったげてくださいよ」

 先の黄色い帽子の女が頼んだ。若い男は、ぼろ布のような恰好の比奈子から目を|逸《そ》らせるようにして|頷《うなず》いた。

「ええですよ。どうせ、これから帰るところやったき」

 パーマの男が車を回してくるといって立ち去ると、野次馬たちも散っていった。黄色い帽子の女は夫に若者の車を待つようにいいおいて、比奈子を手洗い所に連れていった。そして甲斐がいしく彼女の手の傷を洗い、持っていたバンドエイドを|貼《は》ってくれた。

 比奈子は、女の親切を傍観者のように眺めていた。投げやりな気分になっていた。文也は自分を見棄てて、莎代里を選んだのだ。莎代里は死んでいるのに。愛は死を|超《こ》えるという言葉は美しいが、それが現実となれば、死者と生者が愛を奪い合うことになる。理不尽なことだと思った。

 黄色い帽子の女が比奈子を駐車場に連れ戻し、パーマの若者の車の助手席に乗せてくれた。

「早いとこ家に帰って、服でも着替えたら、落ち着くきね」

 比奈子はぼんやりと女を見た。彼女の優しさも、今の比奈子には親切の押しつけのようにしか感じられなかった。比奈子は、小さく頷いただけだった。黄色い帽子の女は、自分の行為に満足したような笑みを浮かべて、車のドアを閉めた。パーマの男が慣れた様子で白のクーペをバックさせた。

「国道三十三号線に出る道は、|崖《がけ》|崩《くず》れで通行止めや。別の道を通るきな。なに、矢狗村までやったら二時間ばあで着く」

 比奈子は返事をしようとしたが、|喉《のど》の奥からかすれた音が洩れただけだった。男は気の毒そうな顔で彼女を見遣ると、車を駐車場脇の細い林道に入れた。やはり台風のせいか、道には折れた木の枝が散らばっていた。若い男は、比奈子の気持ちをほぐそうとするように|喋《しゃべ》りだした。

「土小屋の土産物屋に、家で作りゆう漬物を納品に来たがやけど、こんな日ははじめてや。石鎚山があんな妙な音をたてたことらあ、今まで一遍もなかった。お姉さん、石鎚山に登っちょったがかえ」

 比奈子は頷いた。

「ほんなら、なんであんな音しゆうがか知っちゅうやろ」

「水よ……」

 比奈子は声をつまらせた。山頂での恐ろしい思いが|蘇《よみがえ》ってきた。彼は比奈子が泣きだすのではないかと思ったらしかった。

「ありゃ、ごめん。ちょっと気になっただけやき。えらいめにおうたがやねゃ」

 比奈子が山で|強《ごう》|姦《かん》にでも遇ったと思っているようだった。

 車は舗装もしていない道に入っていた。男は上手にでこぼこの穴を避けて運転しながら話を変えた。

「来る時、このへんで事故を起こすとこやったがやき。向こうから来た車が、たまるか、カーブでクラクションも鳴らさんで突っこんできよった。ほんで、謝りもせんと、行ってしもうた」

「土小屋からの車?」

 比奈子は顔を上げた。男は彼女が言葉らしいものを発したので、喜んだようにしきりに頷いた。

「うん。青ゆうか、紺の車やった。三十くらいの男と、セーラー服を着た女の子が乗っちょった。中学生みたいの、かわいらしい子やった」

 比奈子は手を握りしめた。文也と莎代里は矢狗村に向かったのだ。文也の隣で、青白い顔に満面の笑みをたたえた莎代里の表情が浮かんだ。莎代里に対する怒りがこみあげてきた。文也の隣、そこは自分の場所だった。莎代里は死んだのではないか。文也は生きているのだ。死者は、死者の場所にいるべきなのだ。

「急いでください」

 比奈子が強い声でいった。男は驚いた顔をした。

「おねがいだから急いで」

 その口調には、|苛《いら》|立《だ》ちと苦しみが|滲《にじ》み出ていた。

 面会時間というのに、病室はひっそりとしていた。台風の次の日に見舞いに来る客はめったにいない。白いシーツにくるまって横たわる患者たちは、誰にも邪魔されずに、いつ目覚めるとも知れぬ夢を見ている。

 患者の様子を見て回っていた安田智子は、日浦康鷹のベッドの前で立ち止まった。相変わらず天井を向いて目を見開いていた。意識を回復した兆候はない。昨日、見舞いに来た女が騒いでいたが、気の迷いにちがいなかった。きっと手を握った時の反射作用で握り返したか、喉のつまった音が声に聞こえたかだろう。十七年間、|昏《こん》|睡《すい》状態だった康鷹が今更目覚めるわけはない。

 智子は康鷹を抱えて、体の向きを変えながら康鷹の耳許で|囁《ささや》いた。

「よしよし、ええ子やねえ。私の赤ちゃん」

 その時、喉に|痰《たん》がからまったような声が聞こえた。

「わしゃ……あんたの赤んぼや……ない」

 智子はぎょっとして思わず手を離した。康鷹の体がベッドに沈んだ。スプリングの振動で小刻みに揺れながら、康鷹がゆっくりと首を智子に向けた。

「起こしと……うぜ。わしは……行かんと……」

 智子はまじまじと康鷹を見つめた。信じられなかった。人形だと思っていたものが、突然喋りだしたのだ。しかも自分の意思で。

 康鷹は非常な努力をして肩肘をついて上半身を起こした。

「時間がない」

 智子は康鷹を押さえつけた。

「動いてはだめ。今、お医者さんを呼んできますき」

 康鷹は顔をしかめた。

「時間がないがや。わしゃ矢狗村に帰る」

 言葉が滑らかになってくる。驚くほどの回復ぶりだ。智子は心の中でもたげてくる不安と闘いながらきっぱりといった。

「だめです。回復しても、まだ入院が必要です」

 康鷹の目に|嘲《あざけ》るような光が宿った。

「ほんで、またあんたの手で触られるがか。いやらしい。この十七年、たまらんかった。わしの体をおもちゃにしおってからに。体が動くもんやったら、はたいちゃったところじゃ」

 智子の顔が青ざめた。秘密の行為がすべて見られていたのだ。退院した日浦康鷹のいう言葉が聞こえる気がした。いやらしい女。彼を「私の赤ちゃん」と呼び、体を触り、性器を|玩《もてあそ》んだことを告げるだろう。

 康鷹は青白い手でベッドのパイプをつかみ、立ち上がろうとしていた。智子はとっさに彼をベッドに押し倒した。

「なにす……」

 康鷹がものをいう|暇《いとま》も与えずに、|枕《まくら》を彼の顔に押しつけた。康鷹が|萎《な》えた手足の力をふりしぼって暴れた。しかし智子は離さなかった。この男の体は智子のものだった。|腋《わき》の下の黒子、胸骨の|窪《くぼ》み、頑丈に張った腰、どんな小さな部分もいとおしみ、世話をしてきた。今更この男に、これが自分の体だと主張させはしない。ましてやそのことで、智子を非難させはしない。

 智子は上半身の力をこめて、ぐいぐいと枕を康鷹の顔に押しつけつづけた。やがて康鷹の手がぐったりと下に落ちた。智子は枕をはずした。康鷹は目をむきだしていた。口から、泡が出ていた。智子は口のまわりをハンカチで|拭《ふ》くと、はだけた康鷹の両脚をベッドの中に行儀よく並べた。康鷹は人形のように動かなかった。この体は再び智子の手に戻ったのだ。

「おりこうさんになったね」

 智子は康鷹の耳許で囁くと、彼の体にシーツをかけて、優しくぽんぽんと叩いた。

 神の谷は静まりかえっていた。文也は莎代里に手を取られて、草の生い茂る谷に入っていった。莎代里の手は冷たかった。冷たく、熱い、彼女の視線と同じだと思った。

 あたりには白い霧がうっすらとかかっていた。昨夜の台風にも吹き飛ばされずに残った鬼百合が点々と咲いている。

 自分は石鎚山にいたのではなかったのか。どうしてここにいるのだろう。文也は、ふと思った。しかし、そう感じたのは|束《つか》の|間《ま》で、莎代里が一途な目つきで彼を見上げると、疑問はまたたく間に消えていった。

 神の谷一帯に霧がたちこめていた。霧のベールの中に、窪地が見える。いや、今はもう窪地ではなかった。池になっていた。緑色の石柱が、池の中央に|屹《きつ》|立《りつ》している。莎代里と文也は斜面を降りて、池の|畔《ほとり》に立った。

 そこには不思議な光景が広がっていた。池は沸騰しているようだった。ぼこぼこと沸き立つ水面から、無数の白い雲そっくりの塊が出ている。そのまま谷に浮かび上がり、しばらく上空を回っていたと思うと、どこか山の向こうに飛び去っていく。まるで無数のうろこ雲が、思いおもいの方向に散っていっているようだ。

〈自分のことを覚えちゅう人がおる霊は幸せよ。その人のところに、その人が思いゆう通りの姿のまんまで戻っていける。ほんであたしも戻ってこれた〉

 莎代里は、文也の手を自分の頬にあてた。そして笑みを浮かべた。

〈あたしにはわかっちょった。文也君、私のこと、ほんとうは好きやったがよ。ほんで、心の底でいっつもあたしのこと、思い出してくれよったがよ〉

 文也の心に莎代里の言葉がしみこんできた。好きな女。誰だろう。目の前にいる少女か、それとも……。こんな情景を夢で何度も見たことがあった。夢の中で納得しながらも、どこか違うと思っている。だけど夢から|醒《さ》めるまで、ほんとうのことはわからない。

 莎代里が自分の手をひくのを感じた。彼は導かれるままに池に入っていった。

〈これからは死んだ者も、生きている者も一緒に暮らしていける。死んだからゆうて、終わりじゃのうなる。死んだ人らは喜んじゅう。四国が死国になるゆうて、喜んじゅう〉

 水はくるぶしまでしかなかった。莎代里は池の中で文也に向き直ると、セーラー服を脱ぎはじめた。下には何もつけていなかった。まだ固い乳房が現れた。スカートもはずし裸になった。

 まだ少女の肉体が、すっくと池の上に立っていた。透き通るほどに白い体は、鶴のようだ。莎代里は文也に両手をさしのべた。

〈文也君、あたし、大人になりたい〉

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