白い霧が空を覆っていく。山の|稜線《りょうせん》を滑り落ち、木々の間に忍びこみ、斜面を|這《は》うように広がっていく。シゲは縁側に座って、落ち着かない気分で外を見ていた。夏の昼間、それも台風の後に、矢狗村に霧が出たことなぞ見たことも聞いたこともなかった。
靖造も千鶴子も昼食後、台風の被害を調べに|田圃《たんぼ》に出ていった。満は学校だし、里美も武を連れて買い物に出かけていた。家はひっそりとしていた。
ふと頭上で、まだタツよけの鎌が光っているのに気がついた。そうだ、あれをしまっておかなくては。タツよけのおかげで、昨夜は無事に過ごせた。
シゲは草履を履くと庭に出て、タツよけの|竹《たけ》|竿《ざお》をくくりつけた物干し台に歩いていった。縄をほどいて、竹竿を下ろそうとした。竿がぐらりと揺れた。シゲは竿が地面に叩きつけられないように、慌てて力をこめた。ふっと竿が軽くなった気がした。見ると、竿の先を男が支えてくれていた。
シゲは礼をいおうとして、あっと思った。その顔に見覚えがあった。
色白で、しゃくれた鼻。笑っているような三日月形の目。竹雄だった。シゲと会う時によく着ていた、薄茶色のズボンと上衣。まるで生きているようだ。
竹雄の三日月形の瞳の奥に、怒りが燃えていた。
〈俺は忘れんかった。あの時、逃げた、おまんを忘れやせんかったぞ〉
シゲの手から竹竿が落ちた。脚が震えだした。どうして竹雄がここにいるのだ。頭が混乱して、何も考えられない。
竹雄の白い手が、ゆっくりと竹竿の先についた縄をほどきはじめた。シゲは凍りついたように、その手許を眺めていた。
縄がぱらりとほどけた。竹雄は鎌を手に取って、シゲにゆっくりと近づいてきた。
〈よくも俺を見棄てたことも忘れて、おめおめと生きてきたもんじゃ〉
股間に生温かいものを感じた。尿がモンペの裾から滴り落ちた。それを見て、再び顔を上げた時、銀色の|閃《せん》|光《こう》が目の前を走った。
5
「おかしげな天気やなあ」
運転席の男が、シートにかがみこむようにして|呟《つぶや》いた。比奈子も窓の外を見た。空は白っぽく曇っていた。雲とも霧ともつかない無数の塊が流れている。
「うろこ雲にしちゃ動きが早すぎるし……。見たこともない雲や。気象庁に電話でもして、新種の雲を発見したゆうちゃろか。田代雲ゆうて名前がついたら、こりゃいばれるぞ」
男は一人でけらけら笑った。田代俊一と名乗ったこの若者は、長いドライブの間中、一人で|喋《しゃべ》っていた。最初は比奈子のことを気遣ってくれているのかと思ったが、だんだん根っからの話し好きなのだとわかった。比奈子がろくに返事もしていないのに、気を悪くするふうでもなく喋りつづけていた。おかげで彼のことはよくわかった。北野町の隣、越知町の農家の跡継ぎらしかった。高校を出て父親の手伝いをしながら、遊び暮らしている気のいい極楽トンボ。週一回の、土小屋までの自家製漬物の配達が、ただひとつ彼に押しつけられている責任のようだった。
俊一の他愛ない話を聞いていると、昨日からの出来事が夢のように思えた。台風の恐怖。石鎚山での莎代里の|蘇《そ》|生《せい》。あまりに非現実的だった。しかし文也と寝たのは事実だ。彼の温かい感覚はまだ体に残っている。あれだけは自分でつかみとった確かな感触だ。放したくない。比奈子は痛切にそう思った。
「ありゃあっ」
俊一がすっとんきょうな声をあげて、ブレーキを踏んだ。
道路の真ん中に小さな子供が飛び出してきた。車は子供の一メートルほど手前で止まった。幸い後続の車はなかったので追突はまぬがれた。子供の後ろから母親らしい女が出てきて、道路を横切った。子供たちが車の前に飛び出したことに気づいてないように、こっちを向きもしない。俊一が窓を開けて怒鳴った。
「もうちょっとで|轢《ひ》くところやったぞ、おばちゃん。気ぃつけやぁ」
女と子供が車のほうを向いた。その顔を見て、比奈子は奇異な感じを覚えた。表情のどこかがちぐはぐだった。こっちを見ているのだが、焦点が合っていない。石鎚山で見た莎代里の目を思い出した。俊一も戸惑ったように、口を|噤《つぐ》んで車のエンジンをかけた。
比奈子は、その母子の顔をどこかで見たような気がして、後ろを振り返った。女は二人の子供の手をつないで、道路に面した小さな電気店の前に立っていた。
『北添電気』という看板が見えた。店の前のワゴンにカセットを並べていた男が、母子連れに気がついて大声をあげた。
「美奈子っ」
夫らしかった。妻と子供たちのところに走り寄っていく。鼻の横に|黒子《ほくろ》のあるその男の顔に、比奈子は、はっとした。
思い出した。この顔はテレビで見た。大野の家を訪ねていた時だ。北野町で、車が突然、道路脇を歩いていた母子連れのほうに突っこんだ事件だった。テレビで涙ながらに語っていたのが、あの男だ。そして死亡した妻と二人の子供は……。
男は妻と二人の子供を抱いて泣いていた。商店の向かいのガードレールがひしゃげていた。あの三人は死んでいるはずだ。
まさか。莎代里だけでなく、他の死者もこの世に|蘇《よみがえ》っているというのか。
「おっとぉ、矢狗村はここから曲がるんやったな」
俊一が車を左折させた。車は仁淀川を渡って逆川の方向に入ると、川沿いの道を走りはじめた。白く曇った空が、ますます低く垂れこめてくる。逆川を|遡《さかのぼ》るにしたがって霧も出てきた。俊一は八月に霧が出るのはおかしいと、しきりに呟いている。比奈子は、|痺《しび》れたような頭で窓の外を眺めていた。川は白い湯気に似たものを泡立てながら、渦を巻いて流れていた。矢狗村の方向へ。
逆さに流れている!
流れはひたひたと逆川の上流に向かっている。石鎚山の岩の中から|滲《にじ》み出ていた水にちがいなかった。
石鎚山で会った奇妙な男がいっていた。神の魂が山を下っていくと。神の谷の神が死者であるように、彼の語った神も死者を意味するのではないのか。死者の魂は水を伝い下界に降りて、神の谷に向かう。そこには死者の心が待っている。魂と心はひとつとなり、死者は蘇る。そして四国は蘇った死者の国となる。
四国は死国。死者の国となる。
比奈子は震えそうになるのをこらえた。
|嘘《うそ》だ。そんなことがあるはずはない。そんな馬鹿なことが起こるはずはない。
車がカーブを曲がった。霧の谷間に佇む矢狗村の集落が見えた。
「着いたで」
俊一がいった。
矢狗村の空は、民家の屋根に届きそうなほどに重く垂れさがっていた。山々は真綿のような雲にすっぼりと包まれている。
しかし、その下に広がる矢狗村の光景は、なにひとつ変わっていなかった。うっすらとたなびく霧に滲むような、稲穂の|瑞《みず》|々《みず》しい緑。点在する農家。のんびりと走る自転車や車。学校の校庭では子供たちが草野球に興じている。役場に出入りする人々。『コンビニエンス・フジモト』の店先では、客たちが空を見上げて話をしている。
|安《あん》|堵《ど》で、思わず|口《くち》|許《もと》がほころんだ。こんな|山《やま》|間《あい》の村で、何が起こりえるというのだ。台風の後で、天気がおかしくなっているだけだ。異常気象なら、世界各地で起こっている。この霧とも雲ともつかないものが、自分を不安がらせているだけなのだ。さっきの電気店の親子のことも思い違いに決まっている。テレビで見ただけの人の顔を、はっきり覚えているほうがおかしい。石鎚山で現れた莎代里も幻覚だったかもしれない。死者が蘇ることなど、あり得るはずはない。
「お姉さんの家は、どこで」
俊一が聞いた。比奈子は自分の家の場所を告げてから、真っ先に文也の家に行ったほうがよかっただろうかと思った。しかし慌てふためいて文也の家に飛びこみたくはなかった。すべてが幻覚だったとしたら尚更、自分を置き去りにしたことで、彼を一方的に非難してしまいそうな自分が怖かった。
一度家に戻って着替えて、少し落ち着いてから、文也に会って聞けばいい。なぜ先に帰ってしまったのか。たぶん彼もまた莎代里の幻影を見て、パニックに陥ったにちがいない。きっとそうだ。彼も今頃、自分のことを心配しているにちがいない。
比奈子はむりやり、そう思いこんだ。
逆川の橋の前で比奈子は俊一の車を降りた。ここまで送ってもらったうえ、細い坂道を上って家の前まで行くように頼むのは気がひけた。
比奈子は、何度も礼をいってから俊一の車を降りた。彼はクラクションを鳴らすと帰っていった。比奈子は坂道を上りはじめた。大野の家の横を通る時、何気なく庭を見た。薄くたちこめる霧を通して、庭先に誰か倒れているのが目に入った。比奈子は驚いて、庭に飛びこんだ。
物干し台の横に大野シゲが仰向けに倒れていた。その首には深々と鎌が刺さっている。鎌の刃は首の骨のところで止まっていた。シゲは自分が殺されたことが信じられないように、目を見開いていた。|驚愕《きょうがく》と、笑いが混じったような不思議な表情。死という運命を迎えるように両手を広げている。開いた傷口から流れた血が地面をどす黒く染めていた。
膝が震えた。すべてがあまりに非現実的に思えた。比奈子は、|唾《つば》を何度も呑みこんで、倒れないように念じながら家の玄関によろめきながら入っていった。
「誰か、誰かいませんかっ」
家は静まりかえっていた。悲鳴のような声をあげつづけたが、返事はなかった。
どうすればいいのだろう。警察に電話しなくては。それとも、家の人を探すほうが先決だろうか。混乱した頭に思考が|錯《さく》|綜《そう》する。
ざりっ、ざりっ。背後で土を踏む音がした。誰か来たのだ。
よかった。比奈子は、安堵のあまり泣きたい気分で玄関から外に飛び出した。そして、体が動かなくなった。
目の前にシゲが立っていた。きちんと着物を着て、両手を前にだらりと下げている。目は笑うように細められている。比奈子はほっとして、その場にくずれそうになった。
これもまた幻影だったのだ。シゲは生きていた。息遣いも聞こえるほど近くにいた。
シゲが口を開いた。
〈竹雄さんを見んかったかね〉
どこか遠いところから聞こえてくるような声だった。比奈子は、不自然なものを感じてシゲを凝視した。その目は、妙に生気がなかった。彼女はゆるゆると視線を庭にさまよわせた。そこに、もう一人のシゲが倒れていた。さっき比奈子を驚愕させた通りの|恰《かっ》|好《こう》で、首に鎌が刺さったまま、血まみれになって死んでいた。
比奈子は、庭に転がっている死体のシゲと、目の前にいるシゲを見比べた。頭が、この事実を理解することを拒絶していた。
シゲがぎこちない足取りで近づいてきた。草履が土を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
〈教えてつかあさい〉
すえたような臭いが、口の奥から吐き出された。
比奈子は後ずさった。足がもつれて|尻《しり》|餅《もち》をついた。シゲは、途方に暮れた子供のような表情でかがみこんできた。
〈竹雄さんに会いたいがじゃき……〉
比奈子は悲鳴をあげて、|這《は》うように逃げ出した。
文也は、白い|蝋《ろう》を思わせる固い乳房に手を触れた。莎代里が|微笑《ほ ほ え》んだ。彼女の薄い腹が、彼の腹部にぴたりと吸いついている。文也もまた全裸になっていた。二人は霧のたちこめる池の中で抱き合っていた。
目の前には緑の石柱があった。この光景は以前に見た。乳白色の海原に漂う島に、一本の柱が立っていて、その下で、裸の男と女が抱き合っている。そして子供を産むのだ。いや、子供ではなかった。四国だ。ああ、違う。それは、伊邪那岐命と伊邪那美命の話だった。今、ここにいるのは莎代里だ。どうして莎代里と自分はここにいるのだろう。文也は頭の中の考えを必死でまとめあげようとした。しかし、その思考はすぐに|朦《もう》|朧《ろう》とした意識の中に消え失せていく。
なぜ莎代里とここにいるのか、という疑問も、やがてどうでもよくなった。莎代里は文也を見つめていた。彼のよく知っている視線で、彼だけを見つめていた。
〈あたし、大人になりたい。ほんで子供を産みたい。文也君とあたしの娘を〉
莎代里が脚をからませてきた。しかし、それからどうしていいのかわからないように、彼にしがみついているだけだ。
文也は自分が|勃《ぼっ》|起《き》しないことを不思議に思っていた。莎代里を抱きながらも、何かが彼を止めていた。莎代里が燃えるような目で、|囁《ささや》いた。
〈文也君、おねがい〉
直郎はがくりと膝をついた。高熱のために視界がぼやけていた。冷たい風が彼のまわりを渦巻いている。直郎が巡りつづけたおかげか、岩から|滲《にじ》み出る水は止まっていた。だが、眼下に広がる雲海はさらに厚みを増したようだった。
この雲の海の下に、広大な国が広がっていると思った。それは蘇った死者の国。四国はもはや四国ではない。
彼は力をふりしぼって立ち上がった。自分のお勤めの時に、こんなことが起こるとは、なんと運の悪いことだ。直郎はまた巡りはじめた。しかしすぐに突き出した岩に足をとられ、どうと倒れた。起き上がろうとしたが、腕に力が入らない。笛のような風の音が彼を包んだ。
俺はこのまま死んでいくのか。
直郎は思った。自分の村のすぐ近く、それも石鎚山頂で死んでゆくのか。自分が死んだら、家の梅の木は狂い咲きするのだろうか。たわわに実をつけた木を見た村の者は、別れ作だといい、直郎が死んだことを知るだろう。そしてまた誰かがお勤めに出る。しかし、その男の歩く道は、もう今までの道ではない。そこは死国。死者が生きていた頃のままの姿かたちでさまよう国。生者も死者も、同じように存在する世界。人と人が、死によって分かたれることのない世界。
すべて自分が非力だったせいだ。
直郎は悔しさに目の前の石を握りしめた。土で汚れた裸足が見えた。直郎は、ゆっくりと顔を上げた。女が立っていた。白装束に身を固め、手には小さな白い布に包まれたものを抱いている。
直郎は口を半ば開けたまま、|惚《ほう》けたように女を見つめた。
妻だった。死んで埋葬された節子だった。下腹部から、赤い血を流していた。腕の、白い包みの底にも血が滲んでいる。
節子は弱々しい笑みを浮かべて直郎の前にかがみこむと、白い包みを広げた。中には、どす黒い皮膚をした胎児がくるまれていた。
〈うちらの子や〉
節子はいとおし気に子供をあやしながらいった。
〈もうええやない、あんた。帰ろう、うちらの村に。もうどこにも行かんでええ。家族一緒に暮らすがや。これからずっと……〉
赤ん坊が小さな声で泣いていた。直郎の顔が|歪《ゆが》み、やがて微笑みに変わっていった。
「これから……ずっと……」
それが生きている直郎の最後の言葉だった。
比奈子は神の谷に立っていた。たちこめる霧の中から、無数の白い空気の塊のようなものが|湧《わ》き出ている。よく溶けてない粉乳をかき混ぜているように谷の上空で渦を巻きながら、どこかへと流れ去っていく。死者の霊なのだ。
死者は|蘇《よみがえ》りはじめていた。やはり、石鎚山でのことは幻覚ではなかったのだ。シゲのところから逃げ出して、その足で神の谷まで走ってきた。
ここに文也と莎代里がいるとわかっていた。莎代里が文也を連れてくるとしたら、神の谷でしかありえないと思った。
莎代里は日浦の女だから。
ここで生まれ、ここで死に、そしてここで新しい生を踏み出すだろう。だが莎代里が、文也をその新しい生の道連れにする権利なぞない。莎代里が文也を必要としているのなら、自分だって必要としている。彼の心を手繰って、死の領域にひきずりこむのは許せない。そんなことは決して、させはしない。
こみあげてくる怒りで、比奈子の体は熱くなっていた。莎代里が実在し、文也を奪おうとしていることを確信した時から、自分でも驚くほどの激しさで、彼を渡したくないと思った。
彼女は、露を含んだ草にジーンズを|濡《ぬ》らしながら、谷に入っていった。花弁に血色の|斑《はん》|点《てん》が広がる鬼百合を踏みしだき、中央の|窪《くぼ》|地《ち》に向かって斜面を降りていく。白く煙った谷の底に池が見えた。そこには、比奈子が無意識のうちにスケッチブックに描いた光景が現出している。湯気のように死者の霊が湧き上がる池。その中央に立つ緑の石柱。
傍に文也と莎代里らしい姿がぼんやりと見えた。浅い池の中で二人は横たわって抱き合っている。比奈子は心臓をもぎとられたような痛みを覚えた。
「文也君っ、やめてーっ」
彼女は悲鳴に似た声をあげて、池に駆け寄ろうとした。
「邪魔したらいかんっ」
草陰から、にゅっと人が飛び出した。照子だった。髪をふり乱し、両手を広げて立ちふさがっている。比奈子は照子を押しのけて斜面を走り降りようとした。だが、照子は細い体に似合わない強い力で、比奈子の体を突き戻した。比奈子はよろめきながら叫んだ。
「止めなくちゃ。あんなこと、だめよっ」
照子はなおも比奈子の動きに用心しながら、|唸《うな》るような声でいった。
「あれでええがや。莎代里は日浦の女を産むんやき」
照子の唇が満足気に半月形に曲がっていた。両目は冬の星のように光っている。
「日浦の女を産む? 何をいっているの。死人が子供を産むというの」
「死んだが、どうした」
照子は吐き出すように応えた。
「あの子はこの世に戻った。生きちゅう男の精をもらえば、子供も産むことができる。日浦の女の血は続かんといかん」
死者を再生させる|巫女《みこ》、日浦の女。死んだ日浦の女と生者との間に子供ができれば、それはどういう子になるのだろう。生も死も超えた子?
比奈子の全身にいい知れぬ寒気が走った。
「そんなこと……できるはずはないわ」
照子はかすかに笑った。
「できる。あの子にはできる。日浦の女には、できるがじゃ」
その時だった。照子の後ろで、低いくぐもった声が聞こえた。
〈そうはさせんぞ。照子〉
いつの間に現れたのか、草の上に、がっしりした|体《たい》|躯《く》の男が立っていた。比奈子は自分の目を疑った。|昏《こん》|睡《すい》状態のはずだった日浦康鷹が、照子の背後に仁王のように立ちふさがっている。青白い顔に浮かぶ、厳しい表情。きりりとひき結んだ口許。病院の薄水色の寝巻をはおった大きな体に、霧がまとわりついていた。照子は振り向いて、夫をまじまじと見つめた。
「あんた……どうして……」
康鷹は妻に歩み寄った。妙にふわふわした歩き方だった。素足も寝巻の裾も露でしっとり濡れている。康鷹は照子の顔を|睨《にら》みつけた。
〈莎代里は死んだがぞ〉
照子はちぎれるほど首を横に振った。
「莎代里は戻ってきた。日浦の女を産むために戻ってきたわ」
康鷹の顔の|皺《しわ》が深くなった。そして体の奥底から絞り出すような声でいった。
〈死んだ者は、死んだままにおいておけ〉
「男にゃわかりゃせん。日浦の血は続かにゃいかん。私らは続いてかにゃいかんがよ」
照子は夫に向かってわめいた。あんたには日浦の女のことはわからん、わかろうとしたこともなかった、あんたは小屋に閉じこもって|黴《かび》の生えた本を読んでいただけやき、と大声で|罵《ののし》った。何十年間もの恨みつらみを一気に吐き出しているようだった。
比奈子は、その|隙《すき》に照子の脇をすり抜けようとした。
「待ちやっ」
気がついた照子が追いすがった。しかし康鷹の腕が伸びてきて照子の肩をひき寄せ、背後から妻をはがいじめにした。照子は狂ったように歯をむきだし、放せ! と叫んだ。康鷹が力をゆるめないのがわかると、憎しみに|歪《ゆが》んだ顔を|捩《よ》じって、夫に|唾《つば》を吐きかけた。
比奈子は転げそうになりながら、斜面を降りきった。池の水面から白い雲の塊のようなものが次々と湧き上がり、宙に飛び出している。無数の死者の霊に包まれて、文也が莎代里の上に覆い被さっていた。その光景の証人のように、緑の石柱が霧に濡れた岩肌を光らせて|屹《きつ》|立《りつ》している。
比奈子は池に飛びこんだ。|脹《ふく》ら|脛《はぎ》までの浅さだが、ただの水とは思えなかった。骨まで凍りそうな冷気が、足首から|這《は》い上がってきた。水底の泥に足をすくわれそうになりながらも、比奈子は歯をくいしばって文也の両脇に手を差し込み、抱き起こそうとした。
〈うあああああーっ〉
莎代里が、生皮をはがれる獣のような叫び声をあげた。比奈子は|渾《こん》|身《しん》の力をふり絞って、莎代里から文也をひき離した。文也が、焦点の合わない目で比奈子を見た。
「文也君っ、しっかりしてっ」
ひざまずいて彼の頬を叩く比奈子の前に、莎代里の裸体が割って入った。憤怒に瞳が燃えている。|猛《たけ》り狂って比奈子に歯をむくと、深い空洞から響くような声で吼えた。
〈文也君は、あたしのもんでえっ〉
ほっそりとした頬。つり上がった目。滴り落ちる|雫《しずく》が、莎代里の透き通った白い肌に宿る宝石のように見える。比奈子はどきりとした。大人と子供の|狭間《はざま》にいる莎代里。その肉体は、死んでいるとはいえ、若さに輝いていた。
比奈子は莎代里に体ごとぶつかって、突き飛ばした。|華《きゃ》|奢《しゃ》な莎代里は転がるように池に倒れこみ、|一《いっ》|旦《たん》頭まで水に沈んだ。しかしすぐに顔を上げると、唸り声をあげて比奈子を睨みすえた。らんらんと光る目には憎しみが渦巻いている。憎悪で人が殺せるものなら、比奈子は莎代里に百回だって殺されただろう。比奈子は、文也を守るように抱きかかえた。
「あんたは死んだのよ、莎代里」
〈死んだら、何も欲しがったらいかんが?〉
莎代里の濡れた黒髪の先から、たらたらと水が流れ落ちる。白い歯の間から、苦しげに言葉を吐き出した。
〈死んだら大人になれんが? 死んだら、人を好きゆう気持ちも死なんといかんが?〉
莎代里の顔は悔しさに歪んでいた。
莎代里は大人になりたかったのだ。大人になって、自分を表現するすべを身につけて、文也に恋を打ち明けたかったのだ。
「莎代里ちゃん……」
ためらうように声をかけた比奈子を、莎代里は怒りと|侮《ぶ》|蔑《べつ》のこもった顔で見返した。
〈あんたの同情はいらん。哀れんだげるんは、あたしのほうや。あんたは愚図でのろまの亀。あんたなんかに文也君をやりゃあせん。そんなん、絶対、いややっ〉
全身を氷の刃で貫かれた。素裸にされて、野山に放り出された罪人のような|惨《みじ》めさを覚えた。莎代里は、ざばっと池の中から立ち上がった。そして膨らみかけた胸や尻を優雅に揺らせ、比奈子を|蔑《さげす》むような笑いを浮かべて、近づいてきた。
〈あたしは亀やなかった。人と話さんかったんは、みんなを馬鹿にしちょったきや。あたしはあんたとは違う。小さい時から自分の欲しいもんもわからんかったあんたとは違う〉
そうだった。私は、自分の欲しいものすらわかっていなかった。莎代里の後にくっついて、莎代里の欲しがるものを、自分の欲しいものと思いこんでいた。自分で何かを決めるなんてできなかった。
莎代里の前で、自分がどんどんちっぽけな存在になっていくような気がした。少女から子供へ、赤ん坊に戻り、消滅していく。
莎代里は、比奈子の後ろにいる文也に声をかけた。
〈あたしには、わかっちょった。自分が誰で、何を欲しいか、小さい時からわかっちょった。文也君、あんたやって、わかっちょったやろ。自分が何を欲しがりゆうか、知っちょったやろ〉
文也の青ざめた唇が震えた。比奈子は、その唇が何かいおうとして動くのを見た。文也の言葉を聞くのが怖かった。聞きたくはなかった。彼女は文也の顔を両手でしっかりと挟んで、自分に向けた。彼の頬は氷のように冷たく、血の気が失せていた。その|仄《ほの》|青《あお》い輝きは莎代里の肌を連想させた。
「文也君、何もいわないでっ。私を見て、文也君!」
比奈子は文也を固く抱きしめた。彼の体の中にかすかなぬくもりが残っている。文也は生きているのだと思った。莎代里が何といおうと、彼は生きている。自分と同じ世界にいるのだ。彼とともに生きるのは自分だ。莎代里ではない。
文也の体が比奈子の体温で熱くなってきた。彼の腕にも少しずつ力がこもり、彼女の体を抱き返してきた。
〈いかんっ〉
莎代里の金切り声があがって、二人に向かってきた。
どぉおん。風の塊がぶつかったような衝撃を受けた。比奈子は文也もろとも池に倒れた。冷気が肌に突き刺さった。比奈子は起き上がろうとした。すぐ先では、莎代里が文也の上に馬乗りになっていた。すらりと伸びた、脚を彼の脇腹につけ、固い乳房を彼の胸にこすりつけるようにして、文也の顔にかがみこんでいた。
〈文也君、あたしを見て〉
文也は|眩《まぶ》しそうに莎代里を見た。
「文也君っ」
比奈子は池を這いながら叫んだ。
しかし、遅かった。彼の目は、莎代里にひたと吸い寄せられていた。莎代里は文也に顔を近づけた。唇と唇が触れようとした。二人の黒い髪の毛がとぐろを巻いた蛇のようにからまり合っていた。比奈子は、首を激しく横に振りながら、止めようと前に手を伸ばした。その横を大きな黒い影が走っていった。
〈やめんかっ、莎代里〉
康鷹が、獲物を見つけた野犬のように二人に飛びかかると、娘の胴を抱えて文也からひき離した。ぎゃあっ、という莎代里の悲鳴があがる。彼は娘を両手で抱え上げた。父の腕の中でもがく莎代里の体から、こびりついていた黒い泥が飛び散った。
康鷹は、四肢を振り回して暴れる娘をしっかりと抱いたまま、池の中央にのしのしと歩いていく。そこには緑色の石柱が立っていた。たちこめる霧、波立つ水面から|湧《わ》き上がる死者の霊。乳白色に揺れる風景の中で、石柱だけが厳然と立っていた。それは、この|混《こん》|沌《とん》とした世界の道標のようだった。
父の目指すものに気がついて、莎代里はますます暴れだした。しかし康鷹は娘を放さなかった。石柱に娘の体を押しつけて、そのまま全身の重みをかける。莎代里の泣き叫ぶ声のなか、石柱はゆっくりと傾いていき、やがて水しぶきをあげて横倒しになった。
そのとたん、水面から湧き上がっていた死者の霊たちの動きがぴたりと止まった。池の面は、鏡のように静まった。康鷹は両手に娘を抱いたまま、倒れた石柱を踏みしめて仁王立ちになった。体がゆっくりと沈みはじめた。
〈やめてーっ、お父ちゃん、あたし、ここにおりたい〉
莎代里の叫びにも微動だにせず、康鷹は厳しい顔つきで|昂《こう》|然《ぜん》と頭をあげている。暗い哀愁を|湛《たた》えた瞳で、霧の晴れはじめた神の谷の自然をいとおしむように眺めていた。
水が渦を巻きはじめた。父と娘は次第に池の中に沈んでいく。水が池の底に吸いこまれていく。まるで吸水口に流れこむ雨水のようだ。
やがて黒い泥の底が見えてきた。石柱も、その上に立つ父娘も泥の中に沈みつづける。足から、膝、そして腰、腹……。康鷹の体が胸まで泥に呑みこまれ、次に莎代里の尻が消えた。莎代里は父の手を逃れようともがきつづけている。しかし康鷹は娘を地の底まで連れていこうと決心しているように、腕にこめた力をゆるめない。莎代里は体半分、泥に沈みながら必死で伸び上がろうと、体を天に向けて突っ張った。
〈助けて、文也君っ、助けてっ〉
文也が身じろぎした。
〈来ちゃいかんっ〉
首まで泥に埋もれながら、康鷹が文也に怒鳴った。
〈莎代里は死んだ。生き返らせるなっ、日浦の女が……〉
康鷹の口に泥が流れこんでいく。彼の最後の言葉は泥の中に消えてしまった。彼の透徹した瞳だけが、泥の上で|光《こう》|芒《ぼう》を放っていた。しかし、その目もやがて黒い泥の中に沈んでいった。
〈いややっ、あそこに戻りとうないっ〉
莎代里はまだ父の腕の中で叫びつづけていた。彼女の白い脚が、乳房が、泥に呑まれていった。手と顔だけが、かろうじて黒い泥面に残っていた。莎代里がすがるような目で文也を見た。文也が彼女に近づこうとした。
「行っちゃだめっ」
比奈子は文也に走り寄り、彼の頭を胸に抱えた。莎代里は、泥の中から比奈子を見つめた。切ないような目つきだった。
〈あたし……もっと生きた……〉
莎代里の小さな声が聞こえた。そして、ずぶりと泥に消えた。
比奈子と文也は泥地と化した池を見つめていた。水がひいたために、ひとまわり小さくなっている。もはや池というより、底なし沼のようだった。頭上に渦巻いていた死者の霊も、霧とともに消えていく。雲の間から太陽の光が射してきて、草の緑が力強く輝きだした。木々が霧の|呪《じゅ》|縛《ばく》から解き放たれ、枝を天に広げている。
比奈子は、長い悪夢から|醒《さ》めたように、あたりを見回した。草の|薫《かお》りを含んだ空気を感じた。神の谷は再び静かな明るさに満ちていた。|窪《くぼ》|地《ち》の石柱も消えている。文也が石柱を立てた時から起こった一連の出来事。それも、もう終わったのだ。死霊をひきつける石柱が消え、死者の霊はもとのところに帰っていった。そして莎代里もまた、父親によって死の国に連れ戻された。……父親に?
「おじさんっ」
比奈子は、康鷹のことに思い至って窪地に飛び降りた。石柱があったあたりの泥を両手でかき回したが、康鷹の姿は跡形もなく消えていた。石柱の手応えもない。浅い泥なのに、あの大きな康鷹の体も、石柱も見つからない。比奈子は|茫《ぼう》|然《ぜん》と立ち上がった。
「僕は……どうしたんだろう……」
文也の声が聞こえた。ようやく我に返ったようだった。自分が全裸なのに気がついて、慌てて前を隠した。
窪地の傍の草の上に彼の服が放り出されていた。比奈子は泥から出て歩いていくと、服を拾って彼に渡した。文也は照れ臭そうに受け取った。
「着替えるまで、私、上にいるから」
比奈子は斜面を上がっていった。草の中に照子が倒れていた。比奈子は走り寄った。照子は口を半開きにして、|拳《こぶし》を握りしめている。気を失っているだけらしかった。比奈子は、ほっと息を吐いた。急に緊張感がとけて、崩れるように草の上に腰を落とした。顔を上げると、斜面の下で文也はまだ服を着ているところだった。彼女は、窪地に背を向けて座り直した。
日射しが柔らかい。すでに夕方の太陽だった。あたりはほんのり赤く染まっている。よく見ると、薄紫色の嫁菜や、桃色の|山《やま》|辣韮《らっきょう》の|可《か》|憐《れん》な草花がひっそりと咲いていた。秋が近いのだ。鬼百合の毒々しい色も|褪《あ》せて目に映る。比奈子は乱れた髪を手でかき上げた。
夏は終わったのだ。莎代里も|逝《い》ってしまった、死の国へ……。
莎代里の最後の言葉が心に残っていた。もっと生きたかった、といいかけていた。莎代里は死にたくなかったのだ。生きて、大人になりたかったのだ。
莎代里が自分を付属物のように思っていたことも、今は少し許せる気がした。大人になった莎代里と再会できていたなら、彼女も、あの頃をもっと違う目で見るようになっていたかもしれない。しかし莎代里は十五歳で死んでしまった。心の中で渦巻くどろどろとした愛や憎しみを昇華させる時間もなく、死んでしまった。その死とともに、彼女の未知の未来も消滅してしまった。
早すぎる死とは、なんと残酷なものだろうか。比奈子は天を仰いだ。澄んだ青空に、哀しみが広がっていった。
文也は泥沼と化した窪地の|畔《ほとり》で、ズボンを|穿《は》いた。比奈子は黒髪をなびかせながら、草の上に座っている。夕焼けのせいで、彼女の姿が赤く輝いているように見えた。ふと、その背中に母を思いだした。いつも彼に背中を向けて、別のものを見ていた母。
もちろん比奈子は違う。自分を愛している。そう思うと、幸福感が湧き上がってきた。
自分も比奈子を愛している。比奈子だけを……そうだろうか?
心の奥底で聞こえた声に、文也はどきりとした。莎代里の顔が頭をよぎった。白くほっそりとした頬。ひたむきな目で彼を見つめていた莎代里。死ななければ、どんなに美しく成長したことだろう。全身から|仄《ほの》かな色気の漂う、白百合のような女になったのではないか。
文也は自分の心に核のように残っていた、莎代里への想いにたじろいだ。莎代里の視線を心地よく感じながら生きてきた自分。彼にはわかっていた。莎代里は決して、自分に背を向けはしないということを。どんな時でも、痛いほどの愛情をこめて彼を見つめていたはずだ。あの熱い視線で……。
——文也君、あんたやって、わかっちょったやろ。自分が何を欲しがりゆうか、知っちょったやろ——
頭の隅で、莎代里の声が響いた。どこで聞いた声か思い出せなかったが、その問いは|閃《せん》|光《こう》のように放たれ、彼の心を照らし出した。
彼が欲しがっていたもの。手を出さないことで、大事にとっておいたもの。文也には、わかっていた。子供の頃から、心の|深《しん》|淵《えん》にひそませていた願望。それに感づかないことで、それを守っていた。死ぬまで守っただろう……愛。
突然、こぼれ出てきたその言葉に、文也は|愕《がく》|然《ぜん》とした。彼は比奈子の丸い背中に目を遣った。駄目だ。俺は何ということを考えているのだ。あそこに自分を待っている女がいる。愛している女がいる。
文也はシャツを着ると、比奈子の|許《もと》に行こうとした。
その時、冷たいものが彼の足首をつかんだ。文也は驚いて視線を下に落とした。
泥の中から伸びてきた細い手が彼の足を握っていた。身じろぎもできず、文也はその滑らかな手を見つめた。白い|睡《すい》|蓮《れん》の花のような腕が黒い泥に持ち上がってくる。
ぽこっ。小さな音がして、少し向こうに顔が浮かんだ。泥がたらたらと滴り、抜けるほどに白い頬が現れた。莎代里だった。切れ長の目で文也を見上げている。|眼《まな》|差《ざ》しに漂う、仄かな色気。唇は誘うように開いている。それは成熟した女の顔だった。ついさっき、彼が頭に描いた通りの、大人になった莎代里の顔。