莎代里の視線が、彼をとらえた。その目は彼を見つめていた。子供の頃と変わらない、|憧憬《しょうけい》と熱情のこもった目で。
その時、文也は理解した。これから先、どんなに比奈子を愛していこうと、自分は莎代里から離れることはできないだろう。莎代里の視線は、あまりにも幼い頃から、あまりにもひたむきにそそがれていたために、大人になった彼の恋愛すべてに関わり合ってきた。彼の人生そのものが莎代里の視線と離れがたいほどに、からみ合ってきた。
比奈子と自分と、二人だけで幸せになることなぞできはしないのだ。三人きりのかごめかごめ。いつも誰かが鬼になる。今までは、莎代里が鬼だった。
文也はその場にひざまずき、莎代里の顔をまっすぐに見つめた。もう視線を|逸《そ》らさない。受け入れるのだ、と思った。自分の感情、解決をつけてこなかった心の奥を見つめるのだ。
泥の海に浮かぶ能面にも似た莎代里の顔に、自分の顔をゆっくりと近づけていく。莎代里の底のない暗黒のような瞳に文也が映っていた。莎代里は|微笑《ほ ほ え》みながら、両手を彼の首にからみつけた。ひんやりとした指先が彼の髪の毛をまさぐり、ひき寄せる。
莎代里の赤い唇が|濡《ぬ》れていた。彼女は、文也の唇に自分の唇を重ねていった。
——かごめかごめ
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かごのなかのとりは
いついつねやる——
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夕日の中を赤トンボが飛んでいた。比奈子は目を閉じて、暖かな風を感じていた。草の上で、かごめかごめの遊びをした自分と文也と莎代里が見えるような気がした。
——よあけのばんに
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つるとかめがすべった——
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三人とも仲がよかった幼年時代。どうして文也を奪い合うことになってしまったのか。子供のままでいられたなら、そんなことはなかっただろう。しかし人は死によってしか時の流れを止めることはできない。比奈子と文也は成長して大人となり、死んだ莎代里は、少女のままで死の国に取り残された……。
——うしろのしょうめん だあれ——
文也と莎代里の声を聞いた気がした。比奈子は、はっとして背後を振り向いた。
窪地の底の泥の中に、文也が倒れていた。比奈子は叫び声をあげながら、斜面を駆け降りた。文也は|俯《うつぶ》せになり、泥に顔を突っこんでいた。腕が何かを求めるように泥をつかんでいる。
比奈子は彼を抱き起こした。ぞっとするほど体が冷たい。
「文也君っ」
揺さぶってみたが、文也はすでに息を止めていた。黒く汚れた文也の顔には、満足気な表情が浮かんでいた。
比奈子は文也を抱きしめた。風が二人のまわりを渦巻いた。
ふと、笑い声を聞いた気がして、比奈子は顔を上げた。泥地を渡る風が、彼女の髪をかきまぜていく。耳許を、風が音をたてて通り過ぎる。風の中に莎代里の笑い声が聞こえた気がした。それはもう少女のものではなく、成熟した女の|嬌声《きょうせい》……。
ひゅぅぅぅぅううふふふふふふ。
笑い声は風に乗って、神の谷に広がっていく。
比奈子は、文也の胸に顔を埋めて泣いた。
墓地は朝露に濡れていた。|櫟《くぬぎ》の|梢《こずえ》からこぼれてくる日射しが秋の気配を漂わせている。まだ墓石もできていない文也の墓は、板で作った角塔婆だけが立てられていた。比奈子はバッグを地面に置くと、持ってきた花束を供えて合掌した。
文也の死因は|溺《でき》|死《し》だった。浅い泥の中で|溺《おぼ》れ死んだのだ。それが莎代里の死因と同じだったことが、比奈子を最終的に打ちのめした。結局、莎代里に文也を奪われたことを、まざまざと見せつけられた気がした。
むろん文也の両親には、そんなことはいえるはずもない。ただ文也と二人で神の谷を見に行って、どういうわけかわからないが、溺死するような事故に遇ったのだと告げた。彼の両親は息子の死を受け止めるだけで精一杯で、その説明の納得のいかなさにまでは気が回らなかった。
神の谷にいたはずの日浦康鷹は、あの日、すでに死んでいた。彼を殺したという看護婦が逮捕されて話題を呼んでいた。しかし、比奈子は、康鷹が自ら死を望んだのではないかと思った。自分の手で娘を埋葬するには、死んで彼自身が|蘇《よみがえ》る必要があったのではないか。
台風の翌日、矢狗村の三人の人間が死んだ。文也、康鷹、そして何者かに惨殺された大野シゲ。村の人々は恐ろし気にその原因を|噂《うわさ》し合った。そうでなくても、その日は四国各地で不思議な事件が起こっていた。四国全域を霧とも雲ともつかないものが覆い尽くし、死者がこの世に現れた、と誰もが口をそろえた。霧や雲の中に、途方もなく広がる荒涼とした大地を見たという人間もいた。しかし夕方には空は晴れ、死者たちは跡形もなく消えてしまった。ある学者は、台風の後の気圧の変化が異常気象を生み出したのだといった。別の学者は、台風の被害が大きかったために、集団ヒステリーに陥ったのだと語っていた。
比奈子は、勝手|気《き》|儘《まま》に大騒ぎしている村や世間から離れて、生まれ育った古ぼけた家にこもり、一人、文也の死をかみしめていた。
台風の夜、激しく抱き合ったこと。あれはほんとうにあったことだろうかと思った。あまりに早く時が過ぎ、文也は死の手に連れ去られてしまった。
これからはじまるだろう彼との日々を思い、悔しさで涙がこぼれた。せっかく見つけた新しい恋だった。文也と新しい人生を歩むことができたなら、どれほど素晴らしかっただろう。しかし文也は比奈子の傍にはいない。この冷たい土の下で骨となっている。
雑木林に囲まれた秋沢家の墓は、矢狗村を見下ろす山の斜面にあった。木立の間に、澄みきった|蒼穹《そうきゅう》が広がっている。この空の下を再び手をつないで歩くことも、もうないのだ。
比奈子は長い間、文也の墓の前で手を合わせていた。やがてのろのろと立ち上がった。花束を包んでいた新聞紙を拾い、バッグを持ち、もう一度文也の墓に目を遣ると、山の中の墓地を後にした。
山道を下る足取りは重く、悲しみがまたこみあげてきた。やりきれない気分で、手にしていた新聞紙に目を落とした。『石鎚山の修験者 |謎《なぞ》の死』。黒々とした見出しが飛びこんできた。比奈子は立ち止まって、記事を読んだ。
〈台風二十四号のために、山頂への道が不通になっていた石鎚山に、八月二十三日、地元の消防団が登頂。山頂で男性の遺体を発見した。服装から石鎚山の修験者と思われ、台風の前後に登頂して帰れなくなり、衰弱死したもよう。警察で身許を探している〉
二週間も前の新聞だった。比奈子は、考えこみながら再び歩きだした。石鎚山で出会った不思議な男のことだった。全身から厳しい雰囲気を漂わせていた男。彼は何者だったのだろう。
山道が終わり、アスファルトの道路に出た。比奈子は稲穂の揺れる田圃の中の道を歩いていた。稲は黄金色に変りつつある。道端に|曼《まん》|珠《じゅ》|沙《しゃ》|華《げ》の真っ赤な花が咲いている。秋はすぐそばにきていた。
後ろで車のクラクションが聞こえた。軽トラックが横づけして、窓から真鍋久美の顔が|覗《のぞ》いた。
「比奈ちゃんやない。どこまで行くが」
「バス停まで。これから東京に戻るの」
「へえ、東京に?」
「いつまでも仕事ほったらかしにして、ぶらぶらしてるわけにはいかないから」
比奈子は小さな旅行用バッグを見せた。他の荷物は、もう東京の自宅に送っていた。久美は助手席のドアを開けた。
「バス停まで送ってくわ」
軽トラックは、比奈子を乗せて走りだした。フロントガラスに下がった、小熊のぬいぐるみが揺れている。
「今日は朝からばたばたしよってね。子供が熱だして寝ゆうもんで、お昼の用意したり、飲ませる薬をお義母さんに教えたりせにゃいかんかったがやき。やっとこれから畑仕事に行くところよ」
久美は、相変わらず元気な声で話しかけてきた。
「比奈ちゃんは、こんな朝からどこ行っちょったがで。家とはえらい離れたとこ歩きよったけど」
比奈子は文也の墓参りをしていたのだと答えた。久美は悪いことを聞いたという顔をした。比奈子と文也がつきあっていたことは、村の|噂《うわさ》で知っているようだった。しばらくはガタゴトと走る車の音しかしなかった。軽トラックは、学校に行く小学生を追い抜いていく。子供たちの背中でランドセルが無邪気に揺れていた。
「文也君が死ぬゆうてねぇ。私、まだ信じられんわ」
久美はぼそりといった。比奈子は|頷《うなず》いた。久美と、文也のことを話すのはつらかった。このまま黙っていてほしいと思った。
しかし久美は低い声で続けた。
「私ね、小学校の時、文也君のこと、好きやったんで」
比奈子は驚いて久美を見た。彼女は、農作業で皮膚の荒れた顔に笑い|皺《じわ》を寄せた。
「おかしいやろ。三人も子供がおるおばさんになって、こんなことゆうて」
乾いた笑い声に、悲しみが|滲《にじ》んでいた。比奈子は首を横に振った。
「おかしくないわ。私も小学校の時、文也君が好きだった。あの頃から|憧《あこが》れていたの」
久美と目と目が合った。二人は、お互いの瞳の中に、同じ哀しみを見いだしていた。
みんなそうだったのだ。子供時代、口に出せない思いを、どうしたらいいかわからずに胸に抱えていた。|密《ひそ》やかな思いは大人になっても消えはしない。心の大地の奥深くで、地下水のように連綿と流れつづける。誰だって、亀の|甲《こう》|羅《ら》を背負って生きている。文也はそういったではないか。自分一人ではないのだ。比奈子は座席に背を埋めて、深く息を吸った。
車が『コンビニエンス・フジモト』の前のバス停留所で止まった。比奈子は礼をいって、久美の車から降りた。軽トラックは、クラクションを鳴らすと走り去った。
店に入ると、レジに座っているゆかりに気がついた。ゆかりは照れ臭そうに比奈子に|挨《あい》|拶《さつ》した。ゆかりと君彦の駆け落ちの|顛《てん》|末《まつ》は、借りていた布団を返しに行った時、大野千鶴子から聞いていた。結局ゆかりは、大阪に乗りこんでいった夫に連れ戻されたということだった。
佐川町までのバスの切符一枚を頼むと、ゆかりは切符をカウンターに置いた。そして、文也君のこと、大変だったね、といった。比奈子は頷いただけだった。ゆかりは、店に誰もいないのを確かめて|囁《ささや》いた。
「この前は、お世話になったわ。うちの|旦《だん》|那《な》があんまり頼むもんで、戻ってきたけど。大阪いうとこも、どんなもんかわかったし」
ゆかりは、帰ってきてやったといわんばかりだった。きっと誰彼となく、同じように弁解してるのだろう。
「比奈ちゃん、これから佐川まで?」
「ええ。東京に戻るの」
ゆかりは、がっかりしたように、もう帰るのかといった。
「けど、お正月は帰ってくるよね。また同窓会するき、出てや」
その同窓会には、もう文也はいないのだ。比奈子の顔が|歪《ゆが》みそうになった。
表で車のエンジンの音がした。バスが店の前で止まるのが見えた。比奈子は救われた気分で、ゆかりに別れを告げた。
ワンマンバスは、三人の乗客を乗せただけで走りだした。矢狗村が遠ざかっていく。比奈子は窓際に座って、|山《やま》|間《あい》に消えていこうとする村を振り返った。逆川が、仁淀川に向かって流れている。その源にあるのは神の谷。死者の心が集まる場所。
四国は死国。神の谷の石柱が泥の中に沈み、死国はこの世の外に消えた。しかし、この島には、今も死者の心が渦巻いている。死者は、私たちのそばにいて、私たちを見ている。私たちが、彼らを呼び出す日を待ちながら……。
文也の死顔が脳裏に浮かんだ。穏やかな顔だった。恐怖も苦痛もなかった。彼の死後、彼女を最も苦しませたのは、あの表情だった。文也は、莎代里のいる世界に行くことを求めたのだろうか。それとも|抗《あらが》ったのだろうか。あの表情からは見当もつかなかった。これから先も、この疑問は自分を悩ますだろうと思った。文也は、自分を愛していたのだろうか、と。
心の痛手を癒そうと帰ってきたのに、またひとつ、痛手が増えただけだった。透とのことを解決したと思っても、また別の問題が生まれてくる。矢狗村の家をどうするかも、まだ決めかねていた。
生きていくとは、こういうことだ。山積する問題を背負いこんで歩く。それが亀の甲羅。比奈子は、膝の上に置いた手を握りしめた。人は皆、意識するにしろしないにしろ、その甲羅を背負って生きている。甲羅を抱えこむこと自体、生きていることの|証《あかし》、生者の特権だ。
その時、誰かの視線を感じた。比奈子は、あたりを見回した。他の二人の乗客は、退屈そうに窓の外を見ている。白いビニールをかけたバスの空席。|吊《つ》り皮が遊ぶように揺れている。誰も彼女を見てはいなかった。
比奈子は、座席に座り直した。それでも、まだ視線はそこにあった。包みこむような視線。彼女が、この夏、慣れ親しんだ優しい|眼《まな》|差《ざ》しが……。
比奈子は、まっすぐ前を見つめた。その顔にゆっくりと静かな笑みが広がっていった。
バスがカーブを曲がり、矢狗村は山の後ろに消えていった。
バスを草むらに避けてやりすごしてから、照子は道路に出てきた。洗いざらしの白装束に、|菅《すげ》|笠《がさ》。|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》をつきながら、また歩きはじめた。
巡りゃええ。|逆《さか》|打《う》ちで、死んだ数だけ、巡りゃええ。照子は心の中で|呟《つぶや》きつづける。何年かけても、何十年かけても、いつか回り終える時がくる。そしたら莎代里が戻ってくる。戻ったら、いい男を見つけて日浦の女を産んでくれる。自分の代で、日浦の女の血を途絶えさせはしない。
アスファルトの道は黒々と延びていた。照子は、やつれた顔に決然とした表情を浮かべて一歩、一歩と進んでいく。腰につけた鈴が揺れる。
ちりんちりん、ちりん。
澄んだ鈴の音が、白いうろこ雲の浮かぶ秋の空に流れていった。
参考文献
「鬼むかし」五来重 角川選書
「遊行と巡礼」五来重 角川選書
「土佐の海風」桂井和雄 高知新聞社
「生と死と雨だれ落ち」桂井和雄 高知新聞社
「古事記」倉野憲司校注 岩波文庫
「新・古事記伝」中山千夏 築地書館
「日本の古代遺跡 39 高知」森浩一企画 岡本健児 保育社
「日本の憑きもの」石塚尊俊 未来社
「私度僧 空海」宮崎忍勝 河出書房新社
「山岳霊場巡礼」久保田展弘 新潮選書
「土佐の神ごと」吉村淑甫 高知市民図書館
「世界の迷路と迷宮」ジャネット・ボード 佑学社
「霊魂の博物誌」確井益雄 河出書房新社
「遍路 四国霊場八十八カ所」監修/四国八十八カ所霊場会 講談社
「佐川の昔ばな志」佐川民話の会
|死《し》|国《こく》
|坂《ばん》|東《どう》|眞《ま》|砂《さ》|子《こ》
平成13年1月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Masako BANDO 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『死国』平成8年8月25日初版刊行
平成11年2月28日16版刊行