堅が玄関の戸を開けた。比奈子は家の中に足を踏み入れた。湿った空気が鼻をついた。森田夫婦がこの家を出てから、一か月が過ぎていた。勝美が比奈子の先に立って説明をはじめた。
「うちらの荷物は一応全部、出しました。|襖《ふすま》も張り替えちょきました。お風呂場の戸は大工さんの都合がつき次第、直してくれるゆうことです。プロパンガスもまだ残っちゅうし、電話も切ってないき、まだ使えます。それから、こっちの部屋は畳を新しゅうしたき、寝室にしたらええ思いますよ、ヒナさん」
比奈子は、ヒナはやめてくれ、と頼んだ。生まれ故郷の村で、そんな歯の浮くようなペンネームで呼ばれると、我ながら気恥ずかしい思いにとらわれた。
——明神比奈子って、田舎臭い名前だな。もっと都会的な名前にしろよ。比奈……、そうだ、いっそローマ字でHINAがいいんじゃないか——
そういったのは彼だった。
沢田透。
比奈子の|眉《み》|間《けん》に、かすかな|皺《しわ》が寄った。今は思い出したくない、彼のことは。
がたがたと大きな音をたてて、堅が雨戸を開けている。すり硝子を|嵌《は》めた戸で仕切られた台所と食堂。六畳と八畳の和室、そして六畳の洋室。|暗《くら》|闇《やみ》から、少しずつ懐かしい家が姿を現す。
家の建てられた昭和中期、矢狗村では和洋折衷の家はまだ珍しかった。比奈子は自分の家が自慢だった。しかし、その家も今は老朽化して、窓枠や柱は|歪《ゆが》み、壁には幾筋もの傷が走っている。台所の隅の神棚には|埃《ほこり》がたまっていた。それでも家の中には、冷蔵庫や古びた食卓、|鍋《なべ》類もあって、どこか人が住んでいる風情を漂わせていた。森田夫婦は、新しい家に不要の品を残したのだという。
「へごなもんやけど、食器も置いちょきました。ここにおる間はどんどん使うてください。比奈子さんが帰られたら、うちら取りに来ますき」
比奈子が礼をいうと、勝美は、いいんですといいながら、冷蔵庫を開けた。
「なんか冷たい飲み物でも買うちょくんやったわぁ……あ、麦茶のパックがあるわ。よかった。水出しやわ。比奈子さん、ちょっと待っちょってください」
勝手知った様子で食器棚を開けている勝美に、比奈子は軽い不快感を覚えた。自分の家を取られたような気がした。
弟と走り回った茶の間と食堂。|隙《すき》|間《ま》風の吹きこんできた廊下の硝子戸。火鉢の横に座って、そば粉を練ってくれた祖母。
左官屋だった祖父が、白い|漆《しっ》|喰《くい》の飛び散った作業着のまま縁側に座って煙草を一服していたのを覚えている。比奈子は縁側に出て、庭を見下ろした。子供の時にあった柿の木が今もそこに立ち、|天鵞絨《ビロード》のような緑の葉を茂らせている。小さかった南天が、比奈子の背丈ほどに伸びている。大きくなった庭の木々が、その向こうの矢狗村の景色を隠していた。庭からの眺めは父の自慢の種だった。客が来ると、この縁側に連れ出して披露したものだ。
勝美が、庭に面した和室に麦茶を運んできた。堅も続いて入ってきて、三人は縁側でコップの中の氷を揺すりながら麦茶を飲んだ。比奈子は問われるままに、二十年前、小学校を卒業するまでは矢狗村に住んでいたことを話した。堅は考えるようにいった。
「ほんなら比奈子さん、秋沢文也さんと一緒の年やないですかね」
「そうよ。同じクラスだったわ。知ってるの?」
「俺と一緒に村役場に勤めよります」
「村役場に?」
比奈子は驚いていった。
秋沢文也は活発な子ではなかったが、クラスでは目立つ存在だった。もの静かで頭のいい子。きりっとした顔だちの中に、大人びた雰囲気を漂わせていた。他の男の子たちと騒いでいても、彼はどこか違っていた。何といっていいかわからないが、一種の優雅さが|具《そな》わっていた。莎代里と遠い|親《しん》|戚《せき》関係にあるということで、小学校に行く前までは三人で遊ぶこともあった。
引っ越していってから、莎代里の次に思い出したのは、文也のことだった。授業中、遠くの山に視線をさまよわせていた、文也の横顔が妙に心に焼きついていた。
「結婚したのかしら」
無意識にこんな言葉が口から出ていた。勝美が飛びつくように答えた。
「離婚したがですよ。東京で勤めよった時に。ほいでこっちに帰ってきたが。お子さんがおらんかったきね。今は実家で家族と一緒に暮らしゆうがですよ」
「いらんこというなや」
堅が妻のお喋りを押し止めて腰を上げた。
「ほんなら明神さん、俺ら、これで帰りますきに」
まだ比奈子と話したがっているふうの妻の手をつかんで、堅は玄関に出ていった。何かあれば連絡をくれといいおいて車に乗りこんだ二人を見送りながら、比奈子は心の中で文也の離婚という事実を|反《はん》|芻《すう》していた。
莎代里が死んだことが理解できないように、あの文也が大人になり、女と知り合い、離婚したということが理解できなかった。君彦やその他の同級生なら、そんなこともあり得ると思う。なのに、どうしてだろう。莎代里と文也は特別だった。
自分は文也のことが好きだったのだ。
比奈子は不意にそう思った。あまりに淡い恋心だったから、自分でも気がついていなかった。あれはたぶん初恋だったのだ。
白の軽自動車が、ハッチバック式の車体を左右に揺らせながら坂道を遠ざかっていく。道の先には矢狗村の全景が広がっていた。細長い盆地の底を逆川が流れている。点在する集落。川沿いのひとかたまりの集落が、村の中心だ。そこにある学校まで、毎日ランドセルを背負って通ったものだった。
比奈子は幼い頃の思い出に誘われるように、家の門を出て坂道を降りはじめた。
段々畑の中の道を下っていくと、大野の家がある。その前はもう逆川だ。橋を渡って、|苔《こけ》むした石塚の立つ道の角を、逆川に沿って左に曲がる。夕暮れが迫っていた。暑さも薄れて、緑の稲穂の上を涼風が吹き渡る。昔ながらの農家があるかと思えば、水田が|潰《つぶ》されて新しい家が建っていた。逆川の両岸は、灰色のコンクリートの堤防で固められている。水田の中に新しい道ができていた。矢狗村はホノグラムの肖像のようだった。ある一瞬はよく知っているように見えても、次の瞬間はまったく別の顔に変わる。
自転車に乗った、中学生らしい男の子たちの一団が横を通り過ぎた。白いTシャツを着た若鹿のような背中が、水田の中に小さくなっていく。頭上に|聳《そび》える|蒼《あお》みがかった山々。比奈子は、胸いっぱいに夏の空気を吸いこんだ。体の隅々にまで解放感が広がっていく。東京の生活が遠ざかっていく。
道端には、小さな野の花が揺れていた。この道を朝夕、莎代里と一緒に歩いたのだ。学校から帰ると、よく山に遊びに行った。莎代里の家は、逆川の上流にある。最初に比奈子が自分の家に戻り、ランドセルを置いてから、莎代里と一緒に彼女の家に行く。そして身軽になった二人は出かけるのだ。
神の谷に——。
比奈子は逆川の上流を見遣った。切り立った谷の|間《あわい》が夕もやに煙っている。その向こうに神の谷があった。神の谷で遊ぶようになったのは、いつの頃からだろう。最初は、莎代里に誘われて行った記憶がある。谷は、花に埋もれた美しい場所だった。初夏には紫色に白い筋のついた|蝮蛇《まむし》|草《ぐさ》の花、夏は鬼百合。秋には真っ赤な|曼《まん》|珠《じゅ》|沙《しゃ》|華《げ》が咲いていた。
神の谷で莎代里と比奈子は、花を摘んだり、草を踏みしだいて迷路を作ったりして遊んだ。神の谷に来る子供は、めったにいなかった。二人は誰にも邪魔されることなく、心の通じ合う自分たちだけの世界で遊ぶことができたのだ。
比奈子の視線は逆川に沿って流れていき、やがて山裾にある、どっしりした家で止まった。莎代里の家だった。矢狗村でただ一軒、造り酒屋を営んでいた。あの白壁の家には、もう莎代里はいないのだ。いや、莎代里が死んだとは、到底信じられなかった。
比奈子は莎代里のことを思い出すのを避けるように、神の谷に背を向けた。
道は村の中心部に入っていった。学校の帰りにいつも立ち寄った駄菓子屋、母がひいきにしていた八百屋の店先では、記憶にある親父はいなくて、息子らしい男が客となにか話していた。クリーニング屋、美容室、酒屋……。ところどころ新しい建物に変わっているが、ほとんど昔のままだった。
比奈子は学校の前に立った。『矢狗村村立矢狗小学校』と『矢狗村村立矢狗中学校』という札が、左右の門にひとつずつ掛かっている。門の間から見える校舎は、黄淡色に塗られたコンクリートに変わっていた。比奈子が通っていた頃は、まだ木造の校舎だった。建てられて何年たつのだろうか。壁にはひび割れができていた。
彼女がここで学んでいた時代は、この、すでに古びたコンクリートの校舎が建つ前だった。比奈子は、自分がとほうもなく年寄りになって、この村に帰ってきた気分になった。
地面から|湧《わ》き上がるようなエンジンの音が聞こえたかと思うと、バスが向かいの道路脇に止まった。佐川町から帰ってきた人々を降ろすと、空のバスは器用に方向転換をして走り去った。矢狗村が終点だった。バスが去った後に、『コンビニエンス・フジモト』という看板がかかった、真新しい商店が現れた。昔の藤本商店だ。比奈子は、さしあたって食料がないことを思い出して、道路を横切り店に入っていった。
村人たちが備えつけの|籠《かご》を提げて、棚の間を買物している。あちこちで盆の支度のことで会話が交わされていた。比奈子に気がつくと、奇異な視線を送り、慌てて目を|逸《そ》らす。自分が「よそ者」と大きな字で書いた紙を背中に|貼《は》りつけて歩いているような気がした。野菜と肉類、卵を籠に入れて、レジに行く。
「いらっしゃいませ」
レジに座っていた丸顔の女が、比奈子を見た。そして口を丸くすぼめるようにして、顔をぱっと輝かせた。
「いやぁ、比奈ちゃん!」
比奈子は驚いて女の顔を見た。くりっとした目に、少し上を向いた鼻。小づくりの顔だち。西川ゆかりだった。そういえば、君彦が、ゆかりは藤本商店に嫁いだというようなことをいっていたのを思い出した。
ゆかりはレジの椅子から身を乗り出すようにして、比奈子の顔を見た。
「変わったねぇ、比奈ちゃん。君彦君から聞いてなかったら、あたしもわからんかったやろね」
「君彦君?」
ゆかりは、君彦はさっきこの店に寄って牛乳や紙おむつを買いこんで帰った、とおかしそうにいった。首を|傾《かし》げかげんにして、口を半開きにしたまま話すゆかりの癖は、昔と変わらなかった。かわいらしくて、誰からも好かれていた。クラスの男の子は、みんな彼女に|憧《あこが》れていたのではなかったろうか。
小学校一年の頃だった。お姫さまごっこという遊びが|流行《はや》った。お姫さま役は、いつもゆかりだった。ジャングルジムのてっぺんにゆかりが座り、侍女役の女の子たちは下のほうにへばりついて守りにつく。そこに攻めてきて姫を奪うのが、男の子たちの役目だった。侍女役の女の子たちと、騎士に見立てられた男の子たちの間で、とっくみ合いの|喧《けん》|嘩《か》が繰り広げられた。子供ながらに“女を奪う”という行為に興奮するのか、男の子たちはこの遊びを好んだ。しかし侍女役しか回ってこない比奈子たちにとっては、おもしろくもなんともなかった。自分ではなく他の女を、男たちがこぞって奪い合うのを眺めるのは、幼かったとはいえ、楽しいことではなかった。
そしてジャングルジム城のお姫さまは、最後には、藤本商店の跡取りに略奪されたというわけだ。比奈子は、しっかりと化粧をしたゆかりの顔を眺めながら思った。
「イラストレーターなんやってね。君彦君から聞いたわ。そういや比奈ちゃん、絵が上手やったもんね。いっつも絵が教室の後ろに飾られちょったの覚えちゅう。あたしも比奈ちゃんみたいに絵がうまかったらええに、と思うたもんやった」
ゆかりは、比奈子の買ったものをレジに打ちこみながら笑った。比奈子は、ゆかりが自分のことを少しでも|羨《うらや》ましく思っていたことに驚いた。ゆかりこそ、比奈子の羨むすべてを持っていた子供だった。愛らしくて、話し上手。幸福に包まれた子供時代を送ったはずの人間だった。
比奈子の後ろに客が並んだ。花柄の日除けのついた帽子を被った、|割《かっ》|烹《ぽう》|着《ぎ》姿の農家の女だった。ゆかりは、手早く品物をビニール袋に詰めていった。
「そうそう、ええとこに戻ってきたわ。明日、同窓会をやるんで。比奈ちゃん、来てや」
「同窓会?」
「毎年、盆と正月にやりゆうが。明日の二時から、うちの二軒隣の仕出し屋の岡田よ。みんなぁ集まるがやき」
比奈子は|曖《あい》|昧《まい》に返事した。もともと学校では目立つほうではなかった。莎代里がいないのに同窓会に出席しても、つまらないと思った。ゆかりはビニール袋を差し出しながら念を押した。
「絶対、来てね。楽しみにしちゅうき」
比奈子はしぶしぶ|頷《うなず》いた。
「ええ、できるだけ行くようにするわ」
ビニール袋を持って外に出ようとドアを開けた時、後ろにいた女が、ゆかりにいっている声が聞こえた。
「どこの人ぞね。えらい東京弁を話しよったが……」
比奈子は、どきりとした。
自分は、この村の人間ではないのだ。
いいようのない寂しさが胸に広がった。
夕焼けが、山々を赤く染め上げていた。縁側に座っていた大野シゲは、空を見上げて目をしばたかせた。このあたりには、夏に血のような夕焼けの日が続けば害虫に注意しろ、という言い伝えがある。何日もそんな夕方が続いたら、虫送りをしないといけない。以前、虫送りを怠ったために、|蝗《いなご》の大群が発生して、畑の作物を食い荒らしたことがあった。
あれはいつのことだったろう。戦前だろうか、戦後だろうか。夫がまだ生きている時分だっただろうか。シゲは入れ歯の内側を舌で|舐《な》めた。最近、時間の感覚が薄れている。むりもない。もう九十歳に近い。我ながら、よく生きてこれたと思う。
そうだ、夫の力馬が死んだのは、自分が二十九歳の時だった。六十年ほども前になる。六十といえば、力馬の母が死んだ歳。あの日は雪が降っていた。墓掘りに行った近所の者が、土が硬くて往生したといっていた。|棺《かん》|桶《おけ》を担いで山に埋めに行く時も、雪は降りつづいていた。村を囲む山々の頂が、うっすらと白くなっていた。このところ、冬になっても雪を見た覚えはない。いったい、どういうことだろう。冬が暖かいのだ。それどころか汗ばむほどに暑い。違う、違う。今は夏だ。まだ冬のことを考えるのは早い……。
シゲの思考は、ころころと変わる。ひとつのことを考えつづけるのは難しい。だが、節くれだった手は休みなく動いていた。松の根と麻幹を混ぜて束にしている。束ができると、力をこめて|麻《あさ》|紐《ひも》で縛った。
納屋の後ろから嫁の|千《ち》|鶴《ず》|子《こ》が現れた。
「おばあちゃん、これでええですかね」
まるまるとした手には青い|竹《たけ》|竿《ざお》が握られている。千鶴子も、この家に嫁いできた時には、頬の赤い元気な娘だった。太っているのは昔と同じだが、今では顔の肉は張りを失い、容赦のない老いの影が忍び寄っている。
シゲは縁側に立てかけられた竹竿に触れた。
「ちくと弱いかもしれんが、まあええじゃろ」
そして、竹竿の先に|木《き》|屑《くず》の束をくくりつけはじめた。千鶴子もシゲの横に座ろうとして、動きを止めた。
「あ、上の家に灯がついた」
シゲは顔を上げた。山の斜面の中腹に小さな家がある。ついこの前まで借りていた若い夫婦が引っ越していってからは誰も住んでいなかったはずなのに、今は白っぽい明かりが灯っている。伸び上がるようにして隣家を見つめていた千鶴子がいった。
「初枝さんのお孫さんが帰ってきちゅうがやとね。ほら、あの比奈ちゃん。えらいこときれいになっちょって、びっくりしたわ。さっきお菓子を持って|挨《あい》|拶《さつ》に来てくれたんやけど、そのお菓子からして違うがやき。やっぱり東京のもんはしゃれちゅうねぇ」
初枝と聞いて、シゲは昔近所に住んでいた女をおぼろげに思い出した。シゲがこの家に嫁に来た後で、初枝も明神家に嫁いできた。長い間、いい話し相手だった。そういえば無口な孫娘がいた。弟は活発で挨拶もちゃんとしたが、姉のほうは愛想のない子だった。
逆川に沿って神の谷のほうに歩いていく姿をよく見かけた。自分だったら、孫を神の谷で遊ばせることはしないと初枝にいったことがある。しかし初枝もその息子の嫁も矢狗村の者ではなかったから、シゲの言葉を聞き流しただけだった。
神の谷には近づかないこと。あそこは神の宿る谷。それも尋常な神ではない。語ってはならぬ神、見てはならぬ神がいる。
シゲは、幼い頃、祖母から聞かされた言葉を教えてやった。だが、初枝は笑っただけだった。確かにその頃にはもう、そんなことを真面目な顔でいう者はいなくなっていた。いかにも、あそこは美しい谷だった。村人も、時には花を見に出かけたりするようにもなっていた。ただ、神の谷は子供が遊ぶような場所ではない。これだけはわかっていた。
一度、あの子に直接、神の谷には行かないほうがいいと忠告してやったことがある。あの子は、きょとんとした顔でシゲを見返した。すると隣にいた子が、初枝の孫の手をひっぱった。そしてシゲのいったことは無視して、また神の谷のほうに歩きはじめた。シゲは忌ま忌ましい思いで、二人の小さな背中を見送っていた。その時、友達らしいもう一人の子が振り返ったのだった。
つり上がった目、白瓜のような頬。その表情はよく覚えている。いらぬことはいうな、と脅迫している顔だった……。
「あの子といっつも一緒に遊びよった子がおらんかったね」
千鶴子は声をひそめた。
「日浦さんとこの子供やろ。もうずっと前に亡くなったじゃろ……」
シゲは、日浦の娘かと|呟《つぶや》いた。千鶴子が何かいいたそうに頷き、二人は意味あり気な視線を交わした。
砂利をはねとばす音がして、軽トラックが庭に入ってきた。シゲの息子、|靖《やす》|造《ぞう》だった。|埃《ほこり》にまみれた運転席のドアを開けて、地下足袋を履いた靖造が降りてきた。彼は、縁側に座っている母と妻に目を止めた。
「まだホーカイ、上げてないがかや」
シゲは、木屑をくくりつけた竹竿を指さした。
「用意はできたき、おまん、上げとうぜ」
「なんじゃ、わしを待ちよったがか」
靖造はぶつくさいいながら、土で汚れた手で竹竿を持つと、庭の物干し台のところに歩いていった。そして妻の千鶴子にいって、マッチを持ってこさせた。マッチに火をつけながら、靖造は千鶴子に聞いた。
「時男と厚子が帰ってくるんは、土曜日やったな」
「ええ、もう仕出し屋に|皿鉢《さ わ ち》は注文しちょきました」といいながら、千鶴子はシゲに大きな声でいった。
「おばあちゃん、今週の土曜日には孫の時男と厚子が帰ってくるがですよ」
シゲは口を曲げた。
「盆が明けてから来たち、御先祖さまは帰った後じゃ。何にもなりゃせんが」
靖造が苦笑いした。
「むりゆうてもいかん、おばあ。子供らぁやち、仕事の都合があるがやき」
「盆にゃみんなぁ、仕事を休むもんじゃ」
シゲはむっつりと答えた。
「みんなで何しゆうがですか」
庭に面したまだ新しい家から、孫の嫁の里美が|曾《ひ》|孫《まご》の武の手をひいて現れた。
千鶴子がホーカイを上げるのだと答えると、里美は思い出したように、ああ、と声を洩らした。そして武に、「今にきれいな火が上がるき、見よろうね」と話しかけた。
千鶴子がマッチを擦って、シゲの|撚《よ》り合わせた木屑に火をつけた。火は油分の多い松の根に燃え移り、赤い炎を燃え上がらせた。靖造が火のついた竹竿を物干し台に縛りつける。空を焦がすような炎が皆の頭上で燃え立った。
武が、「火や。火やでぇ、お母ちゃん」と大きな声を上げた。
シゲは縁側から、夜の|帳《とばり》がおりようとしている矢狗村を見遣った。ぽつんぽつんと、ホーカイの朱色の火が灯っていた。昔はどの家も、盆の三日間、ホーカイを上げたものだ。その時は、村中がいっせいに巨大な|蝋《ろう》|燭《そく》を灯したように竹竿の先の|松明《たいまつ》が燃え上がった。最近では、この風習を守るのは、シゲのような年寄りのいる家だけになってしまった。
今、ホーカイの上がっている家を見ると、それが誰の家なのかすぐにわかった。北畑の重秋さん、狩場の牧さん。東のほうに見える灯は、確か谷之内の大石さんの家だ。点在するホーカイは、その家に住む年寄りの命を示すように頼りなげに燃えている。
「さあさあ、おばあちゃん。夕ご飯にしましょ」
千鶴子が、武を抱いた里美を促して家に入った。靖造は農具をしまいに納屋に入っていった。庭には、シゲ一人が残された。
風のない宵だった。じっとりとした熱気がこもっていた。シゲは庭に立ったまま、村中のホーカイを見守っていた。松明の炎が、ひとつまたひとつ消えてゆき、矢狗村がまたいつもの寂しい夜を迎えたことを確認すると、シゲは家に入っていった。
縁側の開け放した障子の向こうから、蛙の鳴き声がうるさいほどに響いていた。蚊取り線香の白い煙が、部屋の中で一筋の帯のようにたなびいている。比奈子は静まりかえった家で、荷物を整理していた。
何日この村に留まるか、予定もないままに帰ってきた。自分が無意識に服を幾枚もバッグに詰めこんでいたことを発見して、どれほど遠くに逃げたがっていたのか気がついた。
生活に割りこんでくる電話。人の|噂話《うわさばなし》。中傷。仕事先への気遣い。机に向かって絵を描いているだけなら、これほどに疲れることはなかっただろう。言葉では表せない感情を、絵にする行為だけで生きていけるのなら。しかし生活はそれだけではすまされない。都会で生きていくとは、人と人の間に張り巡らされた糸の中で、自分の巣を張っていく行為だ。比奈子は、|蜘蛛《くも》のようにとめどなく糸を吐き出すことはできなかった。比奈子の糸は、すでに枯渇しようとしていた。
そんな時、両親からこの家のことを相談された。売るべきか、このまま持っておくべきか。気に入ったら、改築するなり、比奈子の自由にしていい、といわれた。
これまでの比奈子なら、家の様子を見に行くという、それだけの理由で四国に帰ってきたかどうかわからない。ただ、彼女は逃げ出したかったのだ。
沢田透から……。
透。彼のことを思うと、胸が苦しくなる。彼との関係は、すべて砂上の楼閣だったのだ。いや、二人の築いてきたものが、果たして関係といえるほどに緊密なものであったかということすら今は疑わしい。
バッグの底をかきまわしていた指が、ざらざらしたものに触れた。ひっぱり出すと、スケッチブックだった。比奈子は皮肉な笑いを|口《くち》|許《もと》に浮かべた。
こんなところにまで、仕事を持ってきている。
比奈子が絵を本格的にはじめたのは、中学生になってからだった。一家で移り住んだ埼玉県の中学校に美術部があった。放課後、美術室に座って、木炭を手にイーゼルに向かう。相手はものもいわない石膏像。紙の上に再現されるのは石膏像の陰影でしかなかったが、少なくともそれは、比奈子の目を通して見た風景だった。そこに彼女は、自分の感情を表現できる場を見出した。こうして沈黙の時間を積み重ね、少しずつ亀の|甲《こう》|羅《ら》の下から自分の手足を伸ばしていくすべを学んでいった。
一浪して美術大学のグラフィックデザイン科に入り、やがてイラストレーターになった。最初は売れなかった。絵での表現力は進歩しても、比奈子は自分を言葉で表現することは下手だった。率直にいった言葉が相手を怒らせたり、お愛想のつもりの話がいやみにとられたりする。仕事は人間関係で大きく左右される。子供時代の比奈子は自分の内なる壁につまずき、大人になってからは、外との壁につまずいた。
友達もほとんどなく、雑誌や企業のPR誌に小さなカットを描いて暮らしていた比奈子の前に現れたのが、沢田透だった。広告会社のプロデューサーの彼は、比奈子に大きな仕事を与えてくれた。彼女がイラストレーターとして名が出たのは、それからだった。
こんな経緯があるだけに、透は、いつも比奈子に対して強気だ。俺のおかげで、おまえは現在ここにいる。無言のまま彼はそういいつづけていた。
畳の上で、線香の煙にまかれた蚊が仰向けになり、四肢を震わせていた。月明かりが部屋の明かりと溶け合って、縁側に続く敷居の上を淡く浮かび上がらせている。
自分が築いてきたと思っていたものは何だったのだろうか。
仕事。そこそこの成功。優雅な独身生活。金銭的にもゆとりはあるし、仕事も順調に進んでいる。高層ビル十八階のマンションが仕事場兼自宅。しゃれたインテリアで整えた家で、いかにも都会的な生活を送っている。
透もまた、その都会的生活の一部だった。これは透が定めたことだ。お互いをお互いの生活のインテリアとしてみなすこと。つきあいはじめた最初から、透は比奈子を彼の一部ではなく、彼の生活の一部と考えた。
透は大手広告会社のプロデューサーという仕事柄もあって、そこそこに女にもてて、金回りもよい。結婚して家庭に縛られるタイプではない。しかし精神的につながっている女は欲しいからと、その役回りを比奈子にあてたのだ。金、仕事、女。彼の生活は美しく完結していた。これ以上のものも、これ以下のものも必要としていない。
比奈子と透は、同じように自己完結したボールだった。しかしボール同士、一緒に遊ぶことはできても、合体することはできない。球体自体、すでに究極のフォルムだから。
そして二人は、お互いの完結した生活を揺るがさない程度の交際を続けてきた。
大人の男と女の縛り合わない関係。週に一、二度デートをして、抱き合う関係。言葉にすればかっこいいが、その内実は空虚。欲望の|捌《は》け口にすぎない肉体関係。
比奈子が二人の間のことをそう思いはじめたのは、今年に入ってからだった。何がきっかけというわけでもない。ただ毎日眺める鏡の中の自分の肌に、昔のように張りがなくなってきたことに気がついたからかもしれない。
老いはゆっくりと、だが確実に迫ってきていた。死が近づく足音が聞こえた。何も奪われないと同時に何も得ることのない関係に、無意味さを感じた。そんな時、透の浮気が発覚した。今までの比奈子なら、大人の女を演じようと、水に流しただろう。
——肉体は肉体。私と彼は精神的にはつながっている。それでいい——
そう自分にいい聞かせたはずだ。しかし、その言葉も、空虚でしかなかった。
比奈子は小型のスケッチブックを部屋の隅に置いた。そしてバッグからこぼれた煙草の箱を拾うと、縁側に出た。湿り気を帯びた夜気が、体にしみこんでくる。比奈子は、箱から一本、煙草を抜き出して火をつけると、深く息を吸いこんだ。
矢狗村の家々に明かりが灯っていた。夕方に美しく灯されたホーカイは夜の|闇《やみ》に消えようとしていた。あれがホーカイというものだと教えてくれたのは、比奈子のために布団を持ってきてくれた大野千鶴子だった。それで、子供の頃、祖父母がホーカイを上げていたことを思い出した。
比奈子はゆっくりと白い煙を吐き出した。それは自分の体内から流れ出る魂のようにも思えた。死者の魂は、ホーカイの灯を目印に空から降りてくるのだ。しかし生きている者の魂は、何を目印に進む方向を定めればいいのだろう。
莎代里の顔が浮かんだ。彼女がそばにいたなら、わかってくれただろう。今の自分のことを、言葉に出さないでもわかってくれただろう。莎代里もまた、外との距離をどう置いていいかわからない人間だったから。
莎代里に会いたい。比奈子は痛切にそう思った。大人になった莎代里と、いろんなことを話したかった。だが今では、莎代里がどんなふうに成長したか、確かめるすべはない。比奈子にできるのは、昔の莎代里を思い出すことだけだ。
白鶴のように美しい女の子の姿を……。
庭で小さな音がした。誰かが、草を踏むような音。比奈子は、はっとして闇をすかし見た。しかしそこには、土の臭いの混じった静寂が漂っているだけだった。
3
|樒《しきみ》の木立をかきわけると、こぢんまりした境内が広がっていた。鉛色の空の下、あたりは陰気な空気に包まれている。男は、のっそりと境内に足を踏み入れた。|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》をついて石段を登ってきた遍路の一人が、|怪《け》|訝《げん》な顔で彼の現れた茂みを見遣った。その奥には、深閑とした森が続いていた。
早朝の四国八十八ケ所十一番札所藤井寺。遍路の腰に下げた鈴が、澄んだ音を境内に響かせている。和気あいあいと話しながら、カメラを向け合ったり木陰で休んだりしている遍路たちには目もくれず、男は大股で境内を横切っていく。
彼のいでたちは、正装した遍路の姿とは少し違っていた。白装束に、足袋、|脚《きゃ》|絆《はん》、手甲、|菅《すげ》|笠《がさ》は同じだが、どこにも経文は書かれていない。洗いざらした白の布一色。手に数珠もなければ、杖にも「地水火風空」を表す|梵《ぼん》|字《じ》が刻まれていない。本堂の前で、経や真言を唱えることもない。ただ境内を回り、片隅に静かな場所を見つけると座りこんで黙想する。やがて目を開けると、再び木立の中の小道へと立ち去るだけだ。
|参《さん》|詣《けい》することが目的ではない。巡ることが大切なのだ。男は、うっそうと繁る木々に囲まれた薄暗い山道を歩きつづける。地面に積もる枯葉の腐臭が、彼の全身にまとわりついていた。
白壁の酒蔵を見たとたん、比奈子は懐かしさに胸がいっぱいになった。子供の頃遊んだ莎代里の家の庭は、いつもかすかな酒粕の香りが漂っていた。鼻孔をくすぐるその甘い匂いは、莎代里の思い出と耐えがたく絡み合っている。
比奈子は朝露に|足《あし》|許《もと》を|濡《ぬ》らしながら、家の前に立った。今朝起きて、まだ|醒《さ》めやらぬ頭の中で莎代里の死を想った。やはり現実とは思えなかった。朝食をすませると、散歩がてらここまでやってきたのだった。
以前、自家製造の酒の販売もしていた表の小さな店は、木戸で固く閉ざされている。久しく使われた形跡はない。土塀を巡らした古い門から庭に入ると、酒蔵の重々しい扉もまた錠が下りていた。酒造場も静まりかえっている。酒蔵と|母《おも》|家《や》に囲まれた庭にも人影はなかった。
この家には、もう誰も住んでいないのではないかと思いはじめた時、庭の片隅ではためく洗濯物が目に入った。今にも雨が降りだしそうな曇り空だというのに、白の上衣や脚絆を干している女がいた。
「すみません」
声をかけると、女が振り向いた。
比奈子は、はっとした。昨日、タクシーから見かけた遍路の顔だった。今やっと、それが莎代里の母の照子だったことに気がついた。彼女の姿を見たのがこの家でなければ、思い出せたかどうかわからなかった。
子供の頃の比奈子にとって、莎代里の母は別世界の人間だった。遊びに行くと、優しく話しかけてくれたり、おやつをくれたりするのだが、その動作や言葉すべてがテレビの中の人間を見ているように現実味が薄かった。矢狗村の他の女たちには見られない優雅な物腰の底に、常に冷気が漂っていた。
だが、目の前の初老の女の顔は、かつての照子とは別人のようだった。こけた頬、日焼けして荒れた肌。あの優雅さは、土俗的ともいえる|逞《たくま》しさの中に消え失せ、ひどく老けて見えた。歳月のためだけではない。それよりもさらに残酷な爪が彼女の顔をひっかき回し、|変《へん》|貌《ぼう》させてしまっていた。
照子は比奈子を見ても、誰だかわからないらしかった。警戒心を露わにした声で、どちらさんですか、と聞いた。
「あの私、明神比奈子です。……莎代里ちゃんと仲のよかった……」
照子の目が見開かれた。
「比奈ちゃん? あの比奈ちゃんやの」
語尾が甲高く響いた。照子は洗濯物を干すのをやめて、比奈子の前にやってきた。
「ようおいでてくださいました。比奈ちゃんが来たゆうて聞いたら、莎代里もそりゃ喜びますやろ」
その口調に、比奈子は一瞬、莎代里がまだ生きているのではないかと思った。しかし通されたのは、庭に面した部屋の仏壇の前だった。|位《い》|牌《はい》の横には、黒枠に囲まれた女の子の写真が飾られていた。中学生時代の莎代里だ。セーラー服を着て、カメラに挑むようなひきつった笑いを浮かべている。彼女らしい表情だった。
仏壇には、盆らしく花や果物が供えられていた。比奈子は位牌に向かって合掌し、目を閉じた。それでも莎代里が死んだとは、まだ信じられなかった。学芸会で芝居を演じている気がした。
比奈子は祈り終えると、照子に向き直った。照子は目をかっと見開いて、比奈子の頭上の宙を見つめていた。比奈子は落ち着かなくなった。その表情に見覚えがあったのだ。
あれは莎代里と遊ぼうと、誘いに来た時のことだった。水田に|蓮《れん》|華《げ》|草《そう》が咲き、村全体が紅紫色に染まっていた。春だったにちがいない。庭で莎代里の名を呼んだが返事がなかった。|桶《おけ》を洗っていた顔なじみの雇い人が、家の奥にいると教えてくれた。
「けんど、今は行かんほうがええぞ」
雇い人の男は、ぎょろりとした目で意味あり気に告げた。その言葉に従って、比奈子はしばらく莎代里を待っていたが、いっこうに現れる気配はない。とうとう|痺《しび》れをきらして、家の裏手から行ってみることにした。
|竹《たけ》|藪《やぶ》と板壁の間の小道を進んでいくと、低い声が聞こえてきた。抑揚をつけた|唸《うな》るような声だ。裏庭に面した奥の部屋から流れてくる。彼女は|硝子《ガラス》窓ごしに、そっと部屋を|覗《のぞ》きこんだ。
カーテンの|隙《すき》|間《ま》から白い人影が見えた。照子だった。白い上衣をはおり、低い声で何か|呪《じゅ》|文《もん》のように唱えながら、左回りにぐるぐる巡っている。その輪の中に、莎代里が座っていた。莎代里は白いワンピースを着て頭を垂れている。部屋の隅には見覚えのある村の女が二人、|固唾《かたず》を呑んで照子と莎代里の親子を見つめていた。
何をしているのかわからなかったが、儀式のようなものであることは感じとれた。