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作者: 当前章节:15382 字 更新时间:2026-6-23 00:42

 突然、莎代里の体が震えだした。きれぎれの声が聞こえはじめた。照子は、ますます激したように、わけのわからない言葉を唱えながら回りつづける。目はつり上がり、|唾《つば》が飛び散った。突然、莎代里の口から言葉らしいものが洩れた。普段の莎代里とは似ても似つかぬ、大人の男の声だった。比奈子は恐ろしくなって走って帰った。

 その時見たことは、決して莎代里には伝えなかった。話すと、莎代里が突然、あの大人の男の言葉を話す怪物に変わってしまう気がした。

 母から、日浦家が口寄せ|巫女《みこ》の家系だったと聞いたのは、引っ越してからだった。死者の霊を、娘の体に降ろすのだと告げられても、さほど驚きはなかった。子供心に、日浦家に関する不可解さを感じていたのだと思う。娘を|依《より》|童《わら》にして、回りつづける白衣の照子の姿。大人になってからも、脳裏にしっかりと焼きついている光景だった。そして今、照子の顔には、あの口寄せの儀式に見た時と似た表情が浮かんでいた。

「莎代里も喜んじょります」

 照子はひたと宙を見つめたままいった。|恍《こう》|惚《こつ》とした表情に|微笑《ほ ほ え》みが広がった。

「比奈ちゃんとは、ほんとに仲ようしてもらいましたきね。あんたが引っ越していってからもしょっちゅう、思い出したみたいに、比奈ちゃんどうしゆうろうね、いいよったくらい」

 胸に痛みが走った。どうして、あのままになってしまったのだろう。中学校に入ってから、比奈子は二通手紙を書いた。祖父の初盆の時、矢狗村に帰って莎代里と再会した後のことだった。会話らしい会話を交わせなかった自分に不満で、長い手紙を書いた。莎代里をいかに懐かしく思っているか。小学校時代の自分にとって、莎代里はただ一人の友達だった。そんなことを書いた気がする。

 最初の手紙には返事がきた。神の谷の様子を書いた短い手紙だった。莎代里はまだ神の谷で遊んでいるのかと思うと、複雑な気持ちになった。中学生になっても子供っぽい遊びを続けている彼女に対する優越感が、混じっていたかもしれない。比奈子は、次の手紙で自分が美術部に入ったことを知らせた。莎代里にも何かクラブに入ることを勧めた。返事はなかった。比奈子は、莎代里はもう自分を忘れてしまったのだと思った。再び手紙を出すことはしなかった。返事がこないことで、傷つきたくなかった。

 しかし莎代里は返事を書けなかったのだ。死んでしまったのだから……。

「すみません。莎代里ちゃんが亡くなったなんて、私、全然知らなくて……」

 比奈子は小声でいった。

 照子は、ゆっくりと彼女の顔に視線を移した。そして、莎代里は川で|溺《おぼ》れて死んだのだと告げた。

「逆川ですよ。神の谷の近くやった。莎代里はあの谷に行く途中やったらしい。ほんで岸辺から足を滑らしたみたいでね。普通なら、よう溺れんばあ浅い川やに……。頭を強う打って、意識がのうなったまま溺れ死んだがです。盆のしまいの日やったもんで、死人に足をひっぱられたがじゃ、ゆう人もおりました」

 では、莎代里が死んだのは、十八年前の今頃のことだったのだ。彼女は小さく息を吐いて、家の中に目を遣った。

 開け放った家は裏庭まで見通せた。隅々まで、すっきりと片付いている。隣の部屋の座卓の上に湯呑み|茶《ぢゃ》|碗《わん》が一個、所在なげに残されていた。どくだみの茂った裏の石垣から、息苦しいほどに湿った空気が流れてきている。人の気配はなかった。莎代里の父や兄はどこにいるのだろう、と比奈子は不思議に思った。

 子供の頃、遊びに来ると、中学生だった莎代里の兄、耕治の部屋から耳をつんざくようなロックが流れていた。音を下げるように怒鳴りながら、父親の|康《やす》|鷹《たか》が長靴を履いて、酒蔵の裏手から出てきたものだ。

 雇い人たちも十人ほどいただろうか。半裸姿で大きな桶やざるを洗ったり、酒瓶を運んだりしていた姿を覚えている。午後になると茶菓子を囲んで、雇い人たちが縁側で一服していた。たまに莎代里の父が何か夢中になって話しはじめると、茶を運んできた照子もその場に残り、穏やかな笑みを浮かべて耳を傾けていた。そんな時には、照子の冷やかな風情も薄らいで見えた。

「あの……造り酒屋さんのほうは、もうやってないんですか」

 照子は頭を横に振った。

「うちの主人が入院しちゅうもんですき。事故に|遇《お》うたがですよ、莎代里が死んだ次の年に。交通事故で植物人間になってしもうて。しばらく息子が跡を継いでやってくれよったが、みょうなことでヤクザ者と|喧《けん》|嘩《か》して、ここにゃおれんなりました。今はどこにおることやら……。莎代里がのうなってから、うちはろくなことがないですわ」

 他人事のように語るその口調には、怒りも悲しみも感じられなかった。そんな感情すら、不幸に押し流されてしまったようだった。思いもよらなかった日浦家の悲運を慰める言葉も浮かばず、比奈子は視線を表の庭にさまよわせた。白い洗濯物がはためいていた。上衣の背中に『|南無大師遍照金剛《なむだいしへんじょうこんごう》』の黒々とした墨文字が揺れていた。

「昨日、おばさんの姿、見ました。逆川に沿って歩いてましたよね」

 照子の無表情な口許がぴくりと動いた。

「莎代里が死んでから、四国八十八ケ所、回るようになったがですよ。そりゃもう何遍も何遍も……」と不意に言葉を切って、真剣な顔つきで比奈子に向き直った。

「比奈ちゃん、|逆《さか》|打《う》ちゆうの、知っちょりますかね」

 比奈子は首を横に振った。照子は|囁《ささや》くような声でいった。

「逆打ちゆうんはね、八十八ケ所の最後の礼所から、一番目の札所に逆回りでお参りして歩くことです。莎代里と仲がよかったあんたやき打ち明けますけど、この日浦の家には昔から言い伝えがあるがですよ。左回りは、死の国に行く道ゆうてな。死んだ者のことを一生懸命考えながら、四国を死んだ者の歳の数だけ左向きに回るがや。ほいたら死んだ者を死の国から連れ帰ってこれる」

 比奈子は一瞬、どのような顔をしていいのかわからなかった。しかし、照子の真剣な顔つきに、唾を呑みこんだ。照子は比奈子に|頷《うなず》きながらいった。

「私はね、比奈ちゃん。十五回、回ったがですよ。昨日で十五回目。莎代里の死んだ時の歳の数だけ」

 つり上がった目が細められ、鎌の刃のように光っていた。その視線を比奈子の頭上に移し、照子は満足そうな笑みを浮かべた。

「おかげさまで莎代里は帰ってきました。昔のまんまの姿で。莎代里は帰ってきたがですよ」

 照子は、まるでそこに誰かがいるように、宙に笑いかけながら座っていた。いつの間にか、比奈子の首筋に鳥肌がたっていた。恐るおそる頭上に目を遣ると、染みの広がった天井の木目が見えただけだった。

 照子は甲高い声で笑った。

「まだですが、比奈ちゃん。もうちくと待たんといきません。莎代里が元の通りになるには、もっともっとみんなぁに思い出してもらわにゃいかん。そうゆうちょります」

 照子は確信のこもった顔で、比奈子の顔を見つめていた。狂っている。比奈子は視線を|逸《そ》らせた。家の奥からは、相変わらず湿った空気が流れてきていた。

 目が覚めると、|枕許《まくらもと》の時計は十時を指していた。寝過ごしたかと一瞬慌てたが、すぐに今日は休みなのに気がついた。文也はのろのろとベッドから手を伸ばしてブラインドを細めに開けた。薄明かりの中に雑然とした部屋が浮かび上がった。

 灰色の|絨毯《じゅうたん》を敷いた六畳と、隣の三畳の間。秋沢家の二階全部が、文也の領土だ。三畳の部屋は本棚が並び、書庫のようになっている。だが、増えつづける書籍類は割り当てられた場所に収まっていてはくれない。机とベッド、洋服|箪《だん》|笥《す》の置かれた六畳の部屋にも侵入してきて、床の上に山積みとなっていた。

 文也は、手探りでベッドの下にあった本を拾い上げた。『四国の古代文化』。昨日、役場から持って帰った小冊子だった。本の隅が|紙魚《しみ》に食われて黄色くなっている。楠瀬康鷹という人物が書いた、自費出版らしい小冊子だった。

 昨夜、寝る前に読もうと思って枕許に置いたまま、開きもしないで眠ってしまったのだ。文也は本をめくった。

〈国|稚《わか》く、浮く脂の如く、|海月《くらげ》の如く、漂える時——。

 古事記の冒頭の件に、このような記述がある。天と地が分かたれてまだ間もない頃、この世は大海原に浮かぶ海月のように漂っていた。始原の海に次々と姿を現した神々の命により、日本の国土を生むようにと遣わされたのが、|伊邪那岐命《いざなぎのみこと》、|伊邪那美命《いざなみのみこと》の男女二柱の神である。

 このあまりに知られた話、今更聞くまでもないと、立腹される読者諸兄もおられると思う。しかし、ここで諸兄に注意を喚起していただきたいのは、神々の契りにより生まれた子の素性と順番なのである。暫く、お付き合い頂きたい。

 伊邪那岐命と伊邪那美命が天の浮橋に立ち、天の|沼《ぬ》|矛《ぼこ》で海水を掻き混ぜて、ひき上げると、その滴り落ちる潮で島が出来た。そこで二神は島の中央に一本の柱を立て、まわりを巡った。右と左、それぞれの方向から回る男女の神は、やがて出会うことになる。そして互いに声をかけ合い、臥戸に入って契りを結んだ。最初の子は失敗に終わったが、再び柱巡りからやり直して出来た子が、日本の国々となった。

 最初に産まれたのは「|淡道《あはじ》|之《の》|穂《ほ》|之《の》|狭別《さわけ》|嶋《しま》」。淡路島である。次に「|伊豫《いよ》|之《の》|二《ふた》|名《なの》|嶋《しま》」が生み出された。この島は、身が一つに顔が四つあり、顔ごとに名があった。続けて、「|伊《い》|豫《よの》|國《くに》」を「|愛比賣《えひめ》」、「|讃岐國《さぬきのくに》」を「|飯《いひ》|依《より》|比《ひ》|古《こ》」、「|粟國《あはのくに》」を「|大《おほ》|宣《げ》|都《つ》|比《ひ》|賣《め》」、「|土《と》|佐《さの》|國《くに》」を「|建《たけ》|依《より》|別《わけ》」という、と説明されている。それぞれ愛媛、香川、徳島、高知の古名であるから、「伊豫之二名嶋」とは、四国を指すことがわかる。「二名嶋」の由来は、讃岐と土佐の男神、伊予と阿波の女神がそれぞれ二柱ずつおいでになるからだという説や、伊予、現在の愛媛県にある「二名」という地名からきているという説などがある。

 ところで最初に生まれた淡路島であるが、この「淡」と、現在の徳島県の古名「阿波」は同じ発音である。古代、日本語の音に中国伝来の漢字をあてはめて、文字表記としていたことを考えれば、この「淡」は「阿波」を意味しよう。つまり「淡路」とは「阿波路」、阿波に続く道という意味を持つ。最初に阿波である四国に続く道、淡路島が出来て、そして四国が生まれた。淡路島は、次なる四国を生むため、そこに|辿《たど》り着くための産道のようなものだったのだ。

 こう考えると、日本列島の他のどの島より先に、四国が生まれたということにもなるであろう。それだけ古代において、四国は重要な意味を有する島だったのである。

 四国のほぼ半分を占める国が土佐である。土佐は昔から、鬼の住む国といわれてきた。古くは、鬼とは死者の霊を指した。つまり土佐は、死者の住む国と思われていたのだ。

 死者の住む国とは、平明にいえば|黄泉《よみ》の国である。この黄泉の国は、|黄泉津《よもつ》|大《おほ》|神《かみ》の治める黄泉津国である。ヨモツクニは、|四方《よも》つ国。この言葉の最初の文字と最後の文字を取ると、四国となる。

 これらのことから、見えてくるものは自明である。つまり四国は古来、死者の国、死霊の住まう島であったのだ〉

 文也は苦笑した。四国が死霊の島だとは。こんな突拍子もないことを書いたのは、どんな人物だろう。彼は著者紹介の欄をひっくり返してみた。

〈楠瀬康鷹/本名日浦康鷹。高知県高岡郡矢狗村在住〉

 文也の目が名前のところで|釘《くぎ》|付《づ》けになった。日浦康鷹。莎代里の父親だった。

 康鷹は文也の父のいとこだった。父はよく「タカさん」と呼んでいた。あの康鷹が、こんな本を出版していたとは思いもよらなかった。

 文也はベッドからむっくと起き上がると、本をつかんだまま階下に降りていった。

「お父さんっ」

 茶の間に顔を出したが、誰もいなかった。茶の間の向こうの部屋から、母の声が返ってきた。

「文也、起きたがかえ」

「うん。お父さんは?」

「出かけたよ」

 |襖《ふすま》が開いて、母が出てきた。ショートカットの髪を薄紫色に染めて、|鶯色《うぐいすいろ》の派手なワンピースに身を包んでいる。

「お盆で本家のほうに行ったが。ほんとなら、あんたもついていきゃよかったけどね。公香もデートやゆうて、おしゃれして出ていったし、こんな時間まで寝よったんは、あんたばぁのもんで」

 母は非難するように文也を見た。彼はそれを無視して、手にした本を見せた。

「タカさんがこんな本、出したが、知っちょったかや」

 母は、興味なさそうに古ぼけた本を見た。

「ああ、それか。どこで見つけたが」

 役場の資料室だと答えると、母は首を|傾《かし》げた。

「うちにもあったで。できた時に、タカさんが持ってきてくれたが。日浦の家に養子に来る前の楠瀬姓で書いたゆうてね。タカさん、博学やったきね。それが今はあんなになってしもうて、かわいそうに……」

 廊下で電話が鳴った。母は言葉を切って、慌てて応対に出た。文也は内心ほっとした。日浦家のことが話題になるたびに、いたたまれない思いに襲われる。

「文也、あんたによ」

 母が呼んだ。

 文也は、本を小脇に抱えたまま受話器を耳にあてた。

「俺や、忠志。今日は休みみたいやな、文也」

 片田忠志のがらがら声が聞こえた。同級生の忠志は、北野町のスーパーに勤めている。話し下手で一見おとなしい男だが、面倒見はよかった。友人同士で何か事を起こす時は、決まって彼に世話役が押しつけられた。電話の用件も、今日の同窓会の確認だった。

「二時からや。来るやろ」

「あ、ああ……」

 文也は、気乗りのしない返事をした。同窓会のことなど、すっかり忘れていた。

「待ちゆうきにや」

 行けないとは、いいにくかった。文也はしぶしぶ、承知したと答えた。

 電話を切って、文也は洗面所に行った。鏡に向かって歯を磨きながら、やはり行きたくないな、と思った。

 同級生。同じ年に生まれ、同じ学校に通い、今も同じ村に住む。同じように二十代初めに結婚して、同じように子供を二人か三人もうけている。矢狗村に残っている同級生たちは、ほとんど同じ人生の路線を歩んでいた。それは、村という共同体に組みこまれて生きるためには必要な資格だった。

 村に生きるとは、他の者と同じ歩調で生きることだ。文也は、子供の時から、そんな村の生活の流れから抜け出したいと思っていた。他の人間と同じ経験をしたくはない、村から出て、父や友人たちとは違う人生を送りたい、と願っていた。

 東京の大学に入り、一人暮らしをはじめて、文也は念願の新世界に踏み出した。東京という大都市は、未知の女に似ていた。彼はその女の尻を追いかけて、さまざまな場所に頭を突っこんだ。酒場、アングラ演劇の芝居小屋、学生の政治討論会、コンパ。社会に出ると、会社という組織の中で新しい経験を|貪《どん》|欲《よく》に味わおうとした。

 しかし、やがて自分が|檻《おり》の中で回転車を回すハムスターのような気がしてきた。新しい経験の新奇さは、一度味わえば消滅する。興奮できるのは、最初の一瞬。二度目からは輝きを失う。次々に新しい何かを追い求めることと、いつも同じことを繰り返すことは、結局同じことなのだと思いはじめた。

 そんな徒労感の終局に、離婚があった。新しい経験を味わうのは、もうたくさんだと思った。何も起こらない静かな生活を求めて、彼は矢狗村に帰ってきた。なのに、村の生活に溶けこめない。自分の居場所が見つからないのだ。同窓会に顔を出せば、自分と他の者たちの差を|否《いや》|応《おう》なく見せつけられ、疎外感を味わうことは、わかりきっていた。

 文也は重い気分でタオルで顔を|拭《ふ》いた。

「ちょっと文也」

 母の元気のよい声が廊下から聞こえた。洗面所から出ていくと、母が玄関の戸を開けているところだった。

「私、これから店に行くき。家でごろごろしゆうんやったら、たまには部屋の掃除もするんで。家中で、あんたの部屋がいちばん汚いがやきね」

 農協で事務員をしているもの静かな父とは対照的に、商売上手で積極的な母だ。実家のある北野町に手芸品を扱う小さな店を開いていて、週のほとんどは店に出て過ごす。

「いやや、雨が降りだした」

 母は大きな声をあげると、外に走り出ていった。その太り|肉《じし》の背中を見送りながら、文也は、ふと幼かった自分を思い出した。

 幼い時から、母はいつも彼に背中を向けていた。母が見つめているのは、彼女の店、人間関係、そして父だった。母が文也を可愛がらなかったということではなかった。ただ彼女の心の中が、文也のことだけで占められることはなかった。

 文也は二階に戻ると、ブラインドを上げて窓を開けた。ベッド脇の|硝子《ガラス》戸の向こうは、ベランダになっている。ベランダごしに、母の車が水田の中の道を遠ざかるのが見えた。逆川を中心に、山の斜面に田がびっしりと作られている。その上に、小雨がしめやかに降りはじめていた。

 しっとりした寂しい風景は、子供の頃から何ら変わっていなかった。この村では、時間は水田を吹き渡る風のように住む者の頭上を流れ去る。風に吹かれて成長してきた人間は、冬になり稲が枯れるように死んでゆく。そして地に落ちた稲粒から、また新たなる稲が芽吹いていく。しかし文也は変種の稲穂だった。風に吹かれても、皆と同じ方向になびくことはできない。

 これまで幾度となく思ったように、村を出ていこうという考えが頭をよぎった。せめて高知市に出て、もっと活気のある仕事を探すのだ。自分はまだ若い。活力を与えてくれる環境に身を置くのだ。そうすれば自分の居場所を見つけることができるかもしれない。大都市でも、|鄙《ひな》びた村でもない地方の県庁都市あたりこそ、自分に合った場所ではないのか。今のまま、村にくすぶっていてはいけない。出ていくのだ。

 その時、誰かの視線を感じた。

 文也の顔に苦しげな表情が走った。

 まただ。あたりを見ても誰もいないことはわかっていた。それでも、そろりと見回さないではいられなかった。

 部屋のものはすべて、写真に|撮《と》られた光景のように凍りついていた。物音ひとつしない。窓の外にも、人の影すらなかった。銀の糸のような雨を受けて、緑の水田が続いていた。

 しかし、何かに見られていた。その視線が誰のものか想像できるほどに強く……。

 文也は乱暴にベッドのシーツを|剥《は》ぎ取った。そして大きな音をたてて、部屋の掃除をはじめた。

   4

 |襖《ふすま》を開けたとたん、さっきまで聞こえていた騒がしい声がぴたりとやんだ。比奈子は戸惑って立ちすくんだ。

 十二畳ほどの部屋に座卓が並べられて、|皿鉢《さ わ ち》料理が置かれている。そのまわりに男女合わせて十人ほどが集まっていた。皆、比奈子を|訝《いぶか》しげに見ている。君彦が怒鳴った。

「なんじゃい、みんなぁわからんか。明神比奈子やで」

 一同は口々に驚きの声をあげた。ゆかりが比奈子の名を呼んだ。比奈子は、彼女の隣に腰をおろした。

「遅かったやいか。電話しょうか思いよったとこで」

 ゆかりがビールをつぎながらいった。

 比奈子は、雨の中を歩いてきたからだと言い訳しながらビールを一口飲んだ。

 午前中に莎代里の家を訪ねてから、妙に落ち着かなかった。莎代里が生き返ったと|囁《ささや》いた照子の言葉が、心の底にひっかかっていた。たぶん比奈子自身、まだ莎代里の死を現実のものとして受け止めることができないためだろう。莎代里のことを考えているうちに、気がつくと時計は二時を回っていた。

 しかし、そんな気分も、騒がしく飲み食いしている同級生たちの中にいると薄らいでいった。比奈子の前に座っていた細面の男が、自分のことがわかるか、と聞いた。知っているはずの顔だった。が、名前が浮かばない。比奈子はもどかしい思いで首を傾げた。ゆかりが笑いながら、山崎豊だと告げた。比奈子は、ああ、と大きな声をあげた。休み時間になっても、気弱な顔で机の前にじっと座っていた子だった。あのおどおどした表情は消えていた。今は父親の農家を継いで、子供も二人いるといった。隣にいるのは、いつも一言多いと叱られていた庄野恭三。斜め前にはガキ大将だった西村雅男。寄るとさわると人の|噂話《うわさばなし》をしていた飯野美香が、座卓の隅で、仲よしだった森田克子を相手にやはりこそこそ話をしている。

 座卓を囲む一人一人の顔と記憶が少しずつ一致してくる。それは時間という半透明のゼリー状の壁を通して、過去を|覗《のぞ》き見るような行為だった。ある部分では過去そのままの姿に映るが、別の部分はまったく違った姿形をとって現れる。

「比奈ちゃん、久しぶりやねえ」

 肩を叩かれて振り向くと、真鍋久美の細い目が笑っていた。比奈子は驚きの声をあげた。小学校時代、莎代里の次に仲がよかったのは久美だった。世話好きな|姐《あね》|御《ご》|肌《はだ》。ひっそりと肩を寄せ合うように孤立していた比奈子と莎代里を、何かにつけてクラスの女の子たちの輪にひきこもうとしてくれた。

 もともと体格のよかった久美は、貫禄充分のおかみさんになっていた。農家に嫁いで、三人の子供の母だという。

「結婚した先の苗字も真鍋。今も名前はおんなじ真鍋久美やけど、生活はいっぺんに大変になったわ。家のことやら子供の世話やらで、毎日忙しゅうて忙しゅうて」

「そのわりにゃ、よう肥えて」

 恭三が茶々を入れて、久美に背中をどやされた。しばしば集まっては同窓会をやっているというだけあって、皆仲がよい。二十年ぶりに加わった比奈子には、溶けこみにくいほどの親密さが流れている。

 久美が恭三を押しのけて横に座ると、比奈子にビールをつぎ足しながら聞いた。

「比奈ちゃん、結婚は?」

 比奈子がまだだと答えると、ゆかりがにやにやしながらいった。

「けど恋人くらいはおるやろ」

 比奈子は笑ってごまかした。ゆかりは大きな声で、独身はいいな、といった。すかさず君彦が口を出した。

「ほんなら、ゆかり、さっさと離婚したらええやろが。今度は僕とどうや」

 森田克子が内緒話をやめて、ゆかりにいった。

「ゆかりちゃん、君彦君はやめたがええで。この人、小学校の時、私を|箒《ほうき》で|叩《たた》いてばっかりやった。そんな人が、ええ|旦《だん》|那《な》さんになるわけないわ」

「昔のことはいうなや」

「箒やったらまだええぞ。俺らぁ、デコキンの家に行ったら、|蠅《はえ》叩きを持って追いかけられた」

 恭三の言葉に、どっと笑いが起こった。そして一座は、子供時代の思い出話で盛り上がった。比奈子は同級生の話をくすくす笑いながら聞いていた。|耳《みみ》|許《もと》で久美が囁いた。

「莎代里ちゃんのこと聞いた?」

 比奈子はどきりとした。久美は、気遣うような表情で彼女を見ていた。

 比奈子は、昨日聞いたばかりだと、小さな声で答えた。久美は少し黙ってから、また口を開いた。

「あんたが引っ越していってから、莎代里ちゃんとよう話したんは私くらいやった。中学校になってから、クラブも同じやったし……」

「クラブ? 莎代里ちゃん、何のクラブに入ってたの」

 久美は理科クラブだと答えた。比奈子は意外な気がした。莎代里が理科に興味を持っていたとは知らなかった。久美がまた何かいおうとした時、襖が開いて誰か入ってきた。歓声が起こった。

「おーっ、先生のおでましや」

「遅いやないか」

 部屋の入口に、すらりとした男が立っていた。細面の端正な顔。焦茶色の瞳に、柔和な光をたたえている。短い髪に、白い綿シャツとジーンズが似合っていた。久美が自分の隣を指して叫んだ。

「文也くーん。ここがあいちゅうよ」

 久美の隣に座ろうとした文也の目が、比奈子の前で止まった。比奈子は照れながら、会釈した。久美が比奈子だと告げると、文也はしげしげと彼女を見つめた。

「へーえ、比奈ちゃんか」

 比奈子は顔が火照るのを感じた。まるで昔に逆戻りしたようだった。自分の感情をどう表現したらいいかわからず、亀のように|甲《こう》|羅《ら》に閉じこもっていた女の子に。

「おい、恭三が去年、どうなったか教えちゃおぞ」

 雅男が怒鳴った。

「この会の後で、逆川にこけてなぁ」

「知っちゅう知っちゅう。ずぶ|濡《ぬ》れになって、うちの店に電話貸りに来たわ」

 ゆかりの話をさえぎるように、恭三は、雅男に突き落とされたのだとわめいた。忠志がカラオケのマイクを準備しはじめた。

「よっ、カラオケの女王の出番でぇ」

 みんなの拍手の中を久美が立ち上がり、部屋の隅の舞台に出ていった。そして身ぶり手ぶりも大胆に歌いだした。

「今、どこにおるがで」

 気がつくと、文也が比奈子のコップにビールをついでくれていた。比奈子は東京だと答えた。そして、聞かれるままに、自分の職業をいった。

「イラストレーターか。かっこいいな」

「そんなことないの。自宅兼仕事場で、毎日一人でせっせと絵を描いているだけ。文也君は役場に勤めてるんだってね」

 驚いた表情の文也に、昨日森田から聞いたことを告げた。

「ほんやき田舎は怖い。そいたら僕がどればあさぼりゆうかも聞いたろ」

「ええ。今度、村長さんに直訴するつもりだって」

 文也がぎょっとした顔になったので、比奈子は笑った。文也もすぐに冗談だと悟って、おかしそうに目を細めた。

 |喋《しゃべ》っているうちに緊張がほぐれていった。ビールの酔いが回ってきたようだ。しばらくして文也の口調が標準語になったのに気がついた。彼が以前、東京で暮らしていたといっていた森田の話を思い出した。

「そういえば、さっき入ってきた時、先生って呼ばれていたけど、どういうこと?」

 比奈子が聞くと、文也は照れたようにビールを飲み干した。

「趣味でちょっとやってることがあってね。それをみんなからかっていうんだ」

 二人の会話を聞いていた豊が、座卓ごしに口を挟んだ。

「文也は昔のことに詳しいがじゃ。矢狗村の古い遺跡を見つけて、新聞にも載ったがやき」

「ほんと?」比奈子は驚いて文也を見た。彼は居心地が悪そうにあぐらを組み直した。

「矢狗村近辺は、かなり古くから人が住んでいたところらしくてね。偶然、逆川沿いの縄文時代の住居跡を発見したんだ」

「すごいわ。歴史学者なのね」

 文也は困ったように首を横に振った。

「大学で歴史学をかじったぐらいのものだよ。ただのアマチュアさ。古い文献を読んだり、山や谷を歩き回ることが好きなだけ」

「文也君、山歩き、好きだったものね。昔、莎代里ちゃんと三人で神の谷で遊んだの、覚えているわ」

 一瞬、文也の顔がこわばった。比奈子は、まずいことをいったのかと思って、口を|噤《つぐ》んだ。文也は比奈子を気遣う口調でいった。

「莎代里は……もう死んだよ」

 比奈子は知っている、と答えた。そう話すことによって、心の中で彼女をますます死の国に追いやっている気がした。

「今日、莎代里ちゃんの家に行って、お母さんに話を聞いたの」

 文也は驚いたように比奈子を見た。

「照子さん、いたのか?」

 比奈子が遍路から帰ったばかりだったと答えると、文也はため息をついた。

「年に一、二回は、お遍路さんに出て家にはいない。そんなに根をつめて回らないでもいいと、|親《しん》|戚《せき》中の者が止めるけど、聞きやしない」

 比奈子は、逆打ちのことをいおうとしてやめた。照子の|憑《つ》かれたような目つきを思い出すのが怖かった。彼女はバッグから煙草を取り出した。文也が、ライターで火をつける比奈子の手つきを見ていた。

 文也は、自分がずいぶん変わったと思っているのだろう。しかし、いつまでも亀の甲羅の中に潜んではいられない。比奈子は心の中で|呟《つぶや》きながら、ビールを飲んだ。煙草とアルコールのせいで、頭がくらくらした。

 まわりでは、かつて同級生だった男女が酒を酌み交わし、笑い、騒いでいる。この輪の中に莎代里もいるはずだった。もしいたなら、どんな女になっていただろう。誰かと結婚していただろうか。自分と、どんな会話を交わすようになっていただろうか……。

 比奈子は紫煙の中で目を閉じた。

「神の谷はどんなになっているかしら」

 文也は流れていく煙を見遣った。

「そういえば、僕もしばらく行ってないな」

「行ってみようかな。明日にでも」

「よかったら案内してあげようか。明日、僕、休みだし」

 比奈子は驚いて彼の顔を見た。文也から、そんな申し出を受けるとは思いもよらなかった。何ということもないのに、胸が高鳴った。比奈子は、ぜひ連れていってくれと頼んだ。文也はまだ中身の入ったビールのコップをもてあそびながら、それじゃ明日の朝、迎えに行くといった。

「約束ね」

 比奈子は、照れ隠しに文也のコップに自分のコップをカチンとぶつけて、ビールを一気に飲み干した。

「……ねぇ踊ろうちや、文也君」

 久美の手が二人の間に伸びてきて、文也の腕を取った。気がつくと、カラオケはムード音楽に変わっていた。照明も暗くなり、あちこちでカップルができて踊っている。渋る文也を、久美がひきずるようにして輪の中に連れ出した。

 向かいに座っていた山崎豊が、おずおずと比奈子に踊ろうと誘った。比奈子がやんわり断ると、豊は困ったように酒をちびりと飲んだ。

 奇妙な雰囲気だった。いい年をした大人たちが、無邪気な表情を浮かべて踊っている。不倫というような|淫《いん》|靡《び》な空気はなかった。運動会で手をつないで踊る子供たちのような|微笑《ほ ほ え》ましさが漂っていた。

 豊が呟いた。

「毎年こうなんで。最後はいっつもチークダンスや。君彦の相手は決まってゆかり。あいつ、ゆかりが好きやったもんやき」

「豊君も、そうじゃなかったの」

 比奈子は煙草の煙を吐きながら聞いた。豊は、首まで赤くなった。比奈子は明るい声で笑った。

 曲は終わりに近づいていた。今は父や母となった男と女たちが、黙って体を揺らせていた。安心しきってお互いの肩に手を回した姿が、|薄《うす》|闇《やみ》の中に沈んでいる。それは、もう返ってこない子供時代そのものを抱きしめて踊っているようにも見えた。

 鈍い光を反射するリノリウムの廊下が、まっすぐに続いていた。|硝子《ガラス》窓の向こうでは、患者たちが白いシーツにくるまって寝ている。安田|智《とも》|子《こ》は脳外科病棟の病室に入っていった。

 薄暗い部屋に、|芋《いも》|虫《むし》のように横たわる患者たち。かすかな|鼾《いびき》や、身動きする時の布のこすれ合う音が聞こえる。智子は患者に異常はないか、一人一人見ていった。

 一週間前、屋根かち落ちて|昏《こん》|睡《すい》状態に陥っている初老の男。風呂場で転んで、|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》を起こした老女。職場で倒れて、|脳《のう》|腫《しゅ》|瘍《よう》が発見された働き盛りの男……。意識を失った男や女は、いつ|醒《さ》めるとも知れない眠りを|貪《むさぼ》っている。

 智子は患者の手足をシーツの中に押しこみ、|枕《まくら》を直し、微笑みかける。この病棟の患者たちは子供を連想させる。誰かの手が差し伸べられないと、途方に暮れて、生命すらも落としかねない幼い子供を。

 そんなことを思いはじめたのは、十七年前からだ。義母に幼い二人の子を預け、この病院に勤めだした時だった。

 智子は一人の患者を受け持った。頑丈な体つき。大きな鼻。男らしい顎を持つ男。まだ若く、精力が体に|漲《みなぎ》っているはずの男。しかし彼はまるで幼い子供だった。意識のない彼の体を洗う時、口からこぼれた食べ物を|拭《ぬぐ》う時、智子は自分の子供を世話しているような気分になった。やがて智子の子供たちは彼女の手から離れて大きくなっていったが、彼だけが、いつまでも子供のままだった。

 智子は、窓際のベッドの前に立ち、そこに眠る一人の男を見下ろした。日浦康鷹。北野町の隣、矢狗村の患者だ。

 一時期、勤務の関係で、この病棟から離れたこともあったが、今またここに戻ってきた。康鷹は相変わらず成長しない子供のように一人、彼女を待っていた。彼は孤独だった。彼のベッドは、病院の中の離れ小島のように孤立していた。妻は、めったに訪れない。息子は数年前から、ぷっつりと姿を現さなくなった。親戚の者も盆と暮れに見舞いに来ればいいほうだ。康鷹の様子を毎日見守っているのは、彼の家族ではなく智子だった。|髭《ひげ》を|剃《そ》ってやるのは智子だ。床擦れを気遣い、体を動かしてあげるのも智子だ。十七年の間に康鷹の髪には白いものが交じってきたが、最初に運ばれてきた時の男ぶりは、今も失われてはいない。

 こんな男が意識をなくしてしまうとは、なんと人生は無情だろうと思った。仕事を転々と替えて、稼いだ金は女遊びや酒につぎこむ自分の夫こそ、昏睡状態にでも何にでもなればいいのだ。

 智子は、康鷹の頬を|撫《な》でた。口を半ば開いて眠っている。初老の男が顔の筋肉を|弛《し》|緩《かん》させて眠るさまは、決して見てくれのいいものではない。しかし智子には、いとおしく思えた。何の夢を見ているのだろう。

 彼の唇が、何かを語りたげに動いた。智子は、はっとして顔を近づけた。

 気のせいだった。康鷹は口を開いて息を吸いこんだだけだった。智子は半ば落胆し、半ば|安《あん》|堵《ど》した。康鷹が意識を回復して退院する日がくることは、想像したくもなかった。彼は彼女の永遠の子供だった。いつまでも大きくならないし、彼女から離れていくこともない。

 智子は康鷹に微笑みかけると、病室を出た。

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