比奈子は闇の中に横たわっていた。こうしていると、目覚めているのか、眠っているのかわからなくなる。自分と闇の境界は消え、肉体の感覚は消滅し、意識が闇の中にどろどろと流れ出していく。
子供の頃、夜、眠るのが怖かった。闇の中に自分が溶けて消えてしまうような気がした。祖父が死んだ時、しばらくそのことが頭から離れなかった。祖父は土葬だった。土の中で溶けていく祖父の|痩《や》せた肉体。しかし、意識は腐りはしない。墓から漂い出て、闇に混ざりこんでいく。闇には死者の意識が漂っている。祖父、そして莎代里の……。
比奈子は、暑苦しい空気の中で荒い息を吐いた。風呂に入ったとはいえ、同窓会で飲んだ酒の酔いがまだ体に残っていた。
妙に寝つけなかった。莎代里のことが思い出されてならない。同級生たちに会ったためだろうか。いや、照子の言葉のせいだ。
——莎代里は帰ってきました。昔のまんまの姿で——
確信に満ちた口調で、照子はこういった。
莎代里。あんたは、ここにいるの?
比奈子は闇の中で呟いた。
家の外でかすかな音がした。比奈子は体を硬くした。タオルケットを握りしめて耳を澄ましたが、もう何の音も聞こえなかった。空耳だったのだ。眠ろう。眠るのだ。自分にいい聞かせて、目を閉じようとした。
しかし眠れない。
比奈子はとうとう起き上がると、手探りで部屋の|襖《ふすま》を開けた。廊下を通って台所に入る。コップに水を汲んで一気に飲んだ。深い息を吐いて、茶の間を見ると、月明かりが縁側に面した障子を|仄《ほの》|白《じろ》く浮かび上がらせていた。比奈子はコップを手にしたまま茶の間に入り、障子とその向こうの硝子戸を開けた。上弦の月が空にかかっていた。矢狗村が青白い月光の底に沈んでいる。遠くで蛙の声が聞こえていた。
その静かな光景を眺めていると、心も落ち着いてきた。これで眠れるかもしれない。硝子戸を閉めようとした時だった。庭で音がした。草を踏む足音のようだった。
「誰かいるの?」
比奈子は恐るおそる声に出してみた。
返事はない。
がさり、がさり。音は、ゆっくりと庭先を横切るようにして続く。比奈子は硝子戸の縁を握りしめた。泥棒だろうか。近くの大野の家に助けを呼ぶべきだろうか。
比奈子は思いを巡らせながら、|山茶花《さざんか》や南天の木の茂る庭を見つめた。月明かりの中でどんなに目をこらしても、誰の姿も見えない。かすかな草を踏みしだく音が続くだけだ。何かが庭を歩いていた。人間ならば、庭の低木にぶつかって、枝の揺れる音もするはずだ。猫だろうか。だが、猫がこんなはっきりした足音をたてるだろうか。
「いたずらはやめてっ」
彼女は悲鳴のような小さな叫びをあげた。
足音が突然、止まった。比奈子は、しばらく縁側に|佇《たたず》んで耳を澄ました。もう物音は聞こえなかった。しかし、今もそこに何かがいた。闇の中から息をひそめて、自分を見つめている。
莎代里だろうか。
比奈子はふとそう思い、身震いした。彼女はぴしゃっと硝子戸を閉めると、台所に戻って、また水を一杯、飲み干した。水で膨れ上がった胃から不快感が広がっていく。このままではとても眠れそうもない。
台所の棚の上に、黒光りする電話があった。がっちりしたダイヤル式のその電話が、今はとても頼もしく思えた。比奈子は受話器を取って、ダイヤルを回した。過去五年間、幾度となく回した番号を。
長い呼び出し音が続く。留守なのだろうかと思いはじめた時、受話器が取られた。
「はい……」眠たげな透の声が聞こえた。
「私よ」比奈子は|囁《ささや》いた。そして何といったらいいのかわからなくなった。
透は少しあらたまった口調になった。
「比奈子か。こんな時間にどうしたんだ」
「声が聞きたくなって」
違う。そのためではない。私は怖くて、眠れなくなったのだ。物音に|怯《おび》えて、誰かに抱きしめてもらいたくなった、それだけだ。なのに、そのことは口に出せなかった。
「あぁ、なんだい二時半じゃないか。せっかくいい気分で寝てたのに。少しは、こっちの都合も考えてくれよ」
透の不機嫌な声が耳を打った。比奈子の心の中で感情の波がひいていった。透は文句をいいつづける。
「しばらく一人でいたいといったのは、きみだろう。三日もたたないうちに、声が聞きたいとかいって、こんな時間に電話してくるなよ。そんなことなら、最初から強がりをいわなきゃいいんだ」
一人になりたいといったのは、強がりではなかった。悲鳴だったのだ。二人の関係を見直してほしい、と彼にいいたかったのだ。自分も考えるから、彼にも考えてほしかった。
透の前から姿を消すことで、彼に自分の存在の大切さを感じてもらいたかった。ひょっとして、追いかけてきてくれることを期待していたのかもしれない。「僕にはきみが必要なんだ」そんや安っぽいメロドラマのような言葉が欲しかったのだ。単純なことだ。あまりに単純すぎて、自分がそんなことを求めていたことに気がつかなかった。彼に求めても無駄なことはわかっていたのに。
比奈子は電話をしたことを後悔した。
「ごめんなさい」
比奈子は小さな声で謝った。透が聞いた。
「今、どこにいるんだ」
蛍光灯の光に古ぼけた台所が照らし出されていた。どこからか入ってきた|蛾《が》が、電灯のまわりを飛び回っている。
「高知よ。……矢狗村っていうところにいるの」
「高知だってぇ」
透は絶句した。
「いったい、なんだってそんなところにいるんだ。仕事はどうしたんだ。俺んところから回した仕事、あっただろう。あれ、ちゃんとやってくれたのか。いつ帰ってくるつもりなんだ」
比奈子は、仕事は一段落つけておいたこと、いつ帰るかわからないということを告げて、彼の返事も待たずに受話器を置いた。
結局、何も変わりはしない。電話を切ると、寂しさが全身にこみあげてきた。
これならまだ、死者に怯えているほうがましだったかもしれない。比奈子は皮肉な笑いを浮かべた。
寝室に戻って布団にもぐりこむ。もう闇は怖くなかった。この闇に莎代里が息づいているとしても、彼女は自分を傷つけない。眠りの世界に溶解してゆく意識の中で、比奈子は思った。
庭の闇の奥でゆらりと空気が揺らいだ。
5
緑の木立の間に、青い海がきらめいていた。遠くに室戸岬の険しい|崖《がけ》が見える。男はかすかに目を細め、下生えの草を|杖《つえ》で払いながら細い山道を歩いていく。
今もこの道を使うのは、彼の仲間だけだ。目をこらさないとわからないほどの小道が、薄暗い森の中に続いていた。
この道を歩くのは何度目かを数えようとしたが、思い出せなかった。ただ、最初に歩いた時のことは、はっきりと覚えている。二十二歳だった。どうして自分が新妻を置いて旅に出なくてはいけないのかと憤りながら、父の後ろを歩いていた。父とともに四国を回ったのは、後にも先にも、その時一度きりだった。
子供の頃から、村の神社の岩屋の奥で、男たちが集まりを開いていることは知っていた。会合が終わると、決まって誰かが旅に出た。その者が旅から帰ると、再び会合が開かれ、別の者が村から消えた。
何年に一回か、父の順番も回ってくる。そのたびに母はため息をつき、押入れの|行《こう》|李《り》から白衣を出した。父は水ごりをしてから、白衣を着る。その時の父の顔を見るのが怖かった。それは、一人の人間が|変《へん》|貌《ぼう》していく過程だった。いかにも気のいい平凡な農民の父の顔から、表情というものが消えていく。代わりに|僧《そう》|侶《りょ》のような静かな顔が現れる。白装束に身を包み終えた男は、彼の知っている父ではなかった。父は、別人となって家を出ていった。
帰り着くのは、一か月も半ば過ぎた頃。頬はこけ、目には異様な光が宿り、|憔悴《しょうすい》しきった姿で戸口に現れた。
彼の小さな村では、男たちの誰もが、いつもそうして|何処《いずこ》へともなく出かけ、疲れ果てた顔で帰ってきた。「うちの人は、今お勤めに出ています」それが留守を守る妻たちの決まり文句だった。
お勤めの意味を知ったのは、彼が結婚して独立した世帯を持った時だ。祝言の前の晩、男は父に連れられて村の神社に行った。
いつもはがらんとした|洞《どう》|窟《くつ》の中は、その晩、人いきれに満ちていた。赤い魂のような|蝋《ろう》|燭《そく》の灯に、輪になって座る村の男たちが浮かび上がっていた。彼が指示に従ってその輪の中に座ると、正面に座った村の長老が|謡《うた》うような声で語りはじめた。お勤め、その由来。その|掟《おきて》。長老の口は、|涸《か》れることを知らない言葉の泉。語りは夜が更けるまで続いた。
男には長老のいっていることが、どこまで真実なのかわからなかった。わかったのは、お勤めは自分の息子が一人前になるまで続くこと。それがこの村の男たちの定めということだった。
しかし自分は、子供に恵まれなかった。男は心に刺すような痛みを覚えながら思った。お勤めは死ぬまで続くのだ。最近では、村の人口は減っている。お勤めをひき継ぐ者もほとんどいない。彼の番が回ってくるまでの間隔は、どんどん短くなっている。
自分は、この四国を巡る山道のどこかで、野垂れ死にすることになるだろう。村にとうとう戻ってこなかった、彼の前の番の男のように……。
男は道をふさぐ|蔦《つた》を杖で払った。どこに隠れていたのか|蝙蝠《こうもり》が、鋭い声をあげて飛び去った。
背後で悲鳴が聞こえた。振り返ると、比奈子が道の脇に|尻《しり》|餅《もち》をついていた。
「大丈夫かい」
文也は彼女を助け起こした。ジーンズの腰のところが泥で汚れていた。比奈子はそれを見て、顔をしかめた。
「あーあ、ひどい道」
空気はじめじめとしていた。赤土を踏み固めてできた|小《こ》|径《みち》は、水を含んで軟らかい。
「気をつけないと、神の谷に着く頃には泥人形になるよ」
文也は笑いを含んだ声でいった。比奈子は近くの切り株に腰をおろした。そしてティッシュペーパーでジーンズの泥を|拭《ふ》きながらこぼした。
「こうなったらもう泥人形になったも同じ。洗濯することには変わりないもの。家じゃ洗濯、ひと苦労なのよ」
文也も、彼女の向かいの岩に体をもたせかけた。
「洗濯機に放りこむだけだろ」
比奈子は大仰に顔をしかめてみせた。
「残念ながら、森田さんたち、そればっかりは置いていってくれなかったの。洗濯は昔ながらの手洗いよ。お風呂もガスで沸かさないといけないし、台所は、お湯も出ない。すごい生活だわ」
「便利な東京の暮らしとは大違い?」
比奈子は|頷《うなず》いた。そして泥のついたティッシュペーパーを丸めながらいった。
「でも、この不便な生活を私、わりと楽しんでいるの。次に借す人が見つからなければ、あの家を改造して、別荘にしてもいいなと思いはじめてるくらい。別荘を持ってるって、かっこいいじゃない」
「八ケ岳や那須あたりならいいけどね。高知の矢狗村に別荘を持っているといっても、東京じゃ自慢にならないよ」
比奈子は明るい声で笑った。
「とにかく今夜、家の面倒を見てくれていた大野さんの家に行って、別荘にできそうかどうか聞いてくるつもりよ」
|足《あし》|許《もと》に、りんどうの花が咲いている。頭上から降りそそぐ蝉の声。細い山道は、ゆるやかな上り坂になって、雑木林の奥に続いていた。林の間から逆川のせせらぎが聞こえてくる。神の谷は逆川の上流にある。矢狗村から遠くはないのだが、人があまり通らないせいで道は荒れていた。
比奈子は肩から下げた花柄のビニールバッグから煙草を取り出し、ライターで火をつけた。文也は煙草は吸わない。比奈子の吸い慣れた手つきを見ながら、彼はしっくりしない気分を感じていた。
子供時代の比奈子の印象は薄かった。川原に転がっている、ずんぐりした灰色の石。他の石とたいして差はない。しいていえば、そんなところだ。だが目の前にいる女は、記憶の中の比奈子とは別人だった。会話を交わして、一緒に笑えるような相手だとは思ってもいなかった。そして、それ以上に外見が変わっていた。小柄だが肉づきのいい体から、いやみのない色気が匂ってくる。昨日、同窓会で比奈子を見た時は、心底驚いた。たぶんその驚きと戸惑いは、あそこにいた男全員、感じていただろう。
こんなにいい女になると知っていたなら。そう後悔したにちがいない。もちろん、そうと知っていて、何をどうできたわけでもない。しかし、誰もが|密《ひそ》かに自分の妻と比べていたことだろう。
比奈子を神の谷に誘ったのも、突然、目の前に現れた彼女に心|惹《ひ》かれたためだ。そんな気持ちになったのは、ここしばらくないことだった。
比奈子は煙草の煙をおいしそうに吐くと、首を伸ばすようにして、あたりを見回した。耳の金色の大きなピアスが光った。
「莎代里ちゃんと文也君と、三人そろって最後に神の谷に来た時のこと、覚えてるわ。小学校の四年生だったでしょ」
その言葉が文也の心の底に沈んでいき、すっかり忘れていた記憶を突っついた。
その日、遊び友達と|喧《けん》|嘩《か》をした。ふてくされて一人で学校から帰る途中、莎代里と比奈子に会ったのだ。
——文也君、神の谷に行こう——
莎代里は、あの切れ長の目で、ひたと彼を見つめていった。文也は自分でも知らないうちに頷いていた。
小学校に入る前、莎代里と比奈子と三人で、ちょくちょく神の谷に行くことはあった。しかし当時まだ生きていた祖父に、神の谷に行くものではないと、こっぴどく叱られて以来、他の男の子たちと遊ぶようになった。小学校四年の時には、神の谷に行くことはなくなっていた。
「あれが三人で来た最後だったのか」
文也は、山道を一列になって進んでいく三人の子供たちの姿を思い出した。先頭を行くのは莎代里。莎代里とはぐれるのを怖がっているように、比奈子がすぐ後に続いた。自分はどこにいただろう。道端の植物を観察しながら、二人の後からゆっくり歩いていたかもしれない。
文也は自然を観察するのが好きだった。虫の動き、雲の流れ、風のそよぎ。そんなものを眺めながら、子供だった自分はいったい何を思っていたのだろう。あの頃の思考は、まだ生まれたばかりだった。今となっては霧の中の光景のようだ。
「行きましょうか」
比奈子は煙草の火を消して、吸殻を土の中に埋めた。二人は腰をあげた。
文也は歩きながら、東京での大学生活を話しはじめた。文学部の史学科だったから、休暇になると教授に発掘調査に駆り出された。成り金が税金逃れで埋めた大金を掘り出して、大騒ぎになったり、テントで寝ていて|蟻《あり》が服の中に入りこみ|痒《かゆ》くてたまらなくなった話。比奈子は楽しそうに|相《あい》|槌《づち》を打ちながら聞いていた。
女の子の一人が、うっかり冬眠中の蛇の巣を掘り起こして文也に抱きついてきたという話をした時、比奈子が意味あり気な視線を送って聞いた。
「文也君の彼女だったの?」
|狼《ろう》|狽《ばい》が顔に出たにちがいない。比奈子はくすりと笑った。
「そうだったのね」
文也は照れながら頷いた。
学生時代につきあっていた女は、ひとみといった。同じ学科にいた女。初めて寝た女。しかし文也が就職すると、デートもままならなくなり、自然消滅のように別れてしまった。社会に出たばかりの彼は無我夢中だった。会社では、人材開発を担当した。毎日、仕事をしているという確かな自覚が、彼の生活に張りを与えていた。別れた妻の純子と会ったのは、そんな時だった。彼女は、企業研修の運営を引き受けている会社の窓口だった。気が強くて、仕事のできる女。欲しいものを手に入れるまで、|諦《あきら》めない女。
彼女のことはもう過去のことになっているのに、時々ふとしたはずみに思い出す。愛情は消えていたが、彼女との間で育んだ生活には愛着が残っていた。
不意に体がよろめいた。文也は近くの木の枝にすがりついた。思い出に気をとられていて、足が滑ったのだった。彼は苦笑して、比奈子に聞いた。
「僕ばっかり話してるな。比奈ちゃんは、大学の頃はどうしてたんだい」
比奈子は、美術大学の雰囲気を語った。誰もが個性的であることを競っていた。比奈子は、そんな中では平凡な学生だった。とはいえ映画に狂ってみたり、ロックコンサートに行ったり、仲間に誘われてひと通りのことはしたといった。
文也は、比奈子が最初に男と寝たのは、いつだったろうかと思った。大学の頃だろうか。その後だろうか。背後から聞こえてくる|喘《あえ》ぐような息遣いに、文也は彼女が男と抱き合っている姿を想像した。そして自分たちが二人きりで人気のない林の中にいることに思い到って、慌てて|淫《みだ》らな連想を振り捨てた。
突然、林が終わった。目の前に、小さな谷が現れた。谷は丈の低い緑の草に埋め尽くされていた。天に首を突き出すように咲く鬼百合の群落。その毒々しいまでの朱色が、穏やかな谷の光景に活気を与えている。青い空からふんだんに注がれる光が、谷全体を草色に明るく浮き上がらせていた。
神の谷だった。比奈子は息を吸いこむと、ため息のような声を出した。
「昔と変わってないのね」
文也は神の谷を見渡した。雑木林の流れは谷の際でぴたりと止まり、木は一本も生えていない。端から端まで十分もあれば歩ききってしまえるほどの狭い空間だ。谷というよりも、|山《やま》|間《あい》の小さな空地というにふさわしいかもしれない。実際、標高は矢狗村よりも高いところにあった。だが、ここは昔から神の谷と呼ばれ、それ以外の場所ではなかった。
谷には、風ひとつ吹いていなかった。草の葉の先までも動きを止めている。確かに神の谷は昔と同じだ。ここには時の流れすら存在しない。
二人は、滑りやすい地面を踏みしめながら神の谷に入っていった。やがて小径も消え、文也と比奈子は雑草の生い茂る谷に立った。
「最後に来た時、かごめかごめをやったっけ?」
文也の言葉に、比奈子は笑うような声をあげた。
「そうそう、そんなことしたわね」
誰がいいだしたのか、三人きりだというのに、かごめかごめをはじめた。輪が小さすぎて、手もつなげない。鬼の子のまわりを二人で巡る、ささやかな、かごめかごめ。
かごめかごめは、幼稚園児の遊びだ。小学四年の子供にとっては、もう卒業した遊戯だった。しかし、その時の三人はさらに幼い頃に戻って遊んでいた。人は、いつの時代でも過去を振り返るものだ。子供だった三人もまた、もっと仲がよかった幼い時代を懐かしんでいたのかもしれない。
——かごめかごめ
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かごのなかのとりは
いついつねやる——
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静かな谷に、細い声が響きわたった。
「私が鬼になったの、覚えてる?」
比奈子に聞かれて、文也は首を|傾《かし》げた。比奈子はその時のことを話しはじめた。二人しかいないのだから、後ろにいるのは誰かすぐにわかりそうなのに、ちっとも当たらない。
「目を閉じていると、文也君と莎代里ちゃんが、私のまわりをぐるぐる回っているのがわかる。だんだん怖くなってきたわ。このまま永遠に私は輪の中に閉じこめられて、出ることはできないのじゃないか。そう思うと泣きたくなった」
聞いているうちに、文也にもその情景が思い出されてきた。あの時、彼と莎代里は歌いながら回っていた。時折、比奈子の丸めた背中ごしに、莎代里が彼を見た。切れ長の目がますます細くなり、薄い唇が笑みをたたえていた。目が合うたびに文也の顔が赤くなった。今にして思うと、そこには何か|淫《いん》|靡《び》なものがあった。人目を盗んで、秘密の合図を交わしているような……。
「後ろのしょうめん、だあれ」
比奈子の声が耳に飛びこんできた。文也は、はっとした。風に飛ばされて髪の毛にまとわりつく草の葉をつまみながら、比奈子がいった。
「何度目だったかしら、莎代里ちゃんが、わざとこんな大きな声を出して、自分が後ろにいることを教えてくれたのよ。次に莎代里ちゃんが鬼になった。やっぱりちっとも当たらなかった。だけどなんだか、わざと間違って名前をいっているみたいだった。私、莎代里ちゃん、鬼でいるのが好きなのかしらと思ったわ」
鬼とは死者の霊。
昨日読んだ小冊子の一節が突然、頭に浮かんだ。文也はその言葉を追い払うように、地面に視線を落とした。|足《あし》|許《もと》の鬼百合が暗赤色の花粉をいっぱいにつけた口を開けて、文也を見返していた。
「鬼百合、きれいねぇ」
文也の視線を追っていた比奈子が明るい声をあげながら、花柄のショルダーバッグに手を入れた。
「ちょっとスケッチしていいかしら」
文也は、比奈子がイラストレーターだといっていたのを思い出した。
「どうぞ。僕はこのへんを散歩してるよ」
比奈子は草の上に腰をおろした。文也は、ぶらぶらと谷を歩きはじめた。
神の谷の中心には、すり鉢状の小さな|窪《くぼ》|地《ち》がある。そこが谷の最も低い地点だった。文也は窪地に向かって、なだらかな斜面を降りていった。地面が湿り気を帯びてくる。スニーカーの先を土の中にめりこませながら、窪地の底に着いた。ここは水気が多すぎるのか、鬼百合も生えていない。よく見ると泥の中から、小さな気泡が|湧《わ》き出ている。深い地底から不満の|呟《つぶや》きのように、黒い泡がぷすぷすと出ていた。
文也は降りてきた斜面を見上げた。生命力に|溢《あふ》れた緑の世界が彼を取り囲んでいた。草が、木々が、山が、いっせいに背伸びをして覆い被さってくる。空は|遥《はる》か高いところに広がり、厳しい顔つきの山々が、文也を|威《い》|嚇《かく》するように見下ろしていた。
足許から、ひんやりとした感覚が|這《は》い上がってきた。うつむくと、スニーカーが黒い泥の中に半分以上めりこんでいる。突然、そのまま地底に沈んでいくような恐怖を覚えて、文也は右足をひき抜いた。白いスニーカーの下半分が、べっとりと黒い泥で汚れていた。左足もひき上げようとすると、今度は右足が泥の中に沈んだ。
底なし沼に沈んでいくのに似た恐怖を覚えた。訳のわからない|怯《おび》えを|圧《お》し殺しながら彼は歩きだした。針のように|尖《とが》った星草の葉が足首を刺す。あたりには湿っぽい臭いが漂っていた。泥沢地となった窪地の底を注意して進みながら、昔はこれほど水気は多くなかったのにと不思議に思った。
中学校の時、神の谷の調査に来たことがある。理科クラブの活動のひとつとして、逆川の源流を探るために訪れたのだった。調査とはいえ、中学生のことだ。担当教師の指導で、逆川の流れをたどったり、岩石を拾って地質を調べたりした程度だった。逆川は、神の谷のはずれの林の中から突然、小さな流れとなって出現する。周囲の山々から神の谷に流れこんできた水が伏流水となり、その地点で地上に現れてくるのだろうという結論になった。
珍しく反対意見を述べたのが、莎代里だった。莎代里は、神の谷の窪地こそ逆川の源だといった。窪地には水なぞないではないかという他の部員を、|睨《にら》むようにしていた莎代里の顔をよく覚えている。白い顔を上気させて、首を横に振りつづけていた。誰が何といおうと、真実は自分だけが知っている。そんな確信に満ちた顔だった。
莎代里が今の状態を見たなら、満足するにちがいない。この窪地の底から湧き水が出ているといっても、反対する者はいないだろう。
しかし莎代里は死んでしまった。それも理科クラブで神の谷を訪れた数か月後に。
莎代里の葬式には、理科クラブの部員たちとともに文也も出席した。最後の|挨《あい》|拶《さつ》を、といわれて列席者が|柩《ひつぎ》の前に進み出た。その時に見た莎代里の死顔は、穏やかとはいいがたかった。顔はいつにも増して白く、口許は怒っているように|歪《ゆが》んでいた。|溺《おぼ》れる前の|驚愕《きょうがく》がそのまま顔に張りついていた。つり上がった目が今にも開いて、文也を見つめそうだった。その死顔を思い出すと、今でも首筋を冷たい手で|撫《な》でられたみたいな気分になる。文也は掌で首筋をこすった。どうして莎代里のことばかり思い出すのだろう。
突然、何かにつまずいて滑りそうになった。慌てて体の均衡をとり、かろうじて転ばないですんだ。見ると、足許の泥の中から石の角が突き出ている。文也は忌ま忌ましくなって、スニーカーの爪先でそれを押した。泥がこぼれ落ちて、緑色をした石の表面が現れた。こんな緑色がかった石は珍しかった。しゃがんで観察すると、石のまわりの黒い泥が揺れている。無数の気泡とともに、地底から黒い泥が沸き上がっていた。文也が石につまずいたとたん、何かのスイッチを押してしまったかのようだった。さっきまで穏やかだった泥の表面が今、波立っている。
文也は眉根を寄せて沸き立つ泥を見つめていた。泥とともにじりじりと、緑色の石が押し上げられてくる。文也の腕の太さほどもある長方形の石だ。横倒しになったままゆっくりと地底から吐き出されてくる。
びちゃっ。小さな音をたてて、石が泥の上に現れた。表面のあちこちが、粗く削られている。でこぼこの岩を長方形に整えようとしたようだ。自然石ではなかった。
「比奈ちゃん」文也は叫んだ。
比奈子は草の上に座って、慣れた様子でスケッチしていた。顔を前に向けたまま、手許を見もしない。それでも手先だけは素早く動きつづけている。
文也はさらに大きな声で、彼女の名を呼んだ。比奈子がゆっくりと顔を上げた。文也がもう一度、名を呼んで、ようやくこっちに気がついたようだった。
比奈子が何かいった。しかし、くぐもった声だったので、意味はわからなかった。
「へんなもの、見つけたんだ」
文也は叫んだ。比奈子はスケッチブックを草の上に置くと、斜面を降りてきた。靴が汚れるのをためらうように泥地の手前で止まった彼女に、文也は泥の中に横倒しになっている石を示した。
「それがどうしたの?」
「へんなんだよ。こんな重そうな石が、急に泥の中から湧き出てきたんだ」
「まさか」
「ほんとうだよ。それにこんな緑の石、このあたりのものじゃない。誰かがどこかで長方形に切り出して、持ってきたんだ。とても古いものみたいだ。道標みたいなものだったのかもしれない」
説明しているうちに、自分でも興奮してきた。文也は石のほうに足を踏み出した。
「たぶん、ほら、こんなふうに立っていたんだ」
彼は泥の中に手を突っこむと、指先で石のへりをつかんだ。石の冷たさが指先から全身に走った。いや、冷たさだけではない。いいようのない悪寒が全身を貫いた。文也はとっさに手を離した。
ばしゃっ。石が地面に落ちて泥がはねた。彼の綿パンツが黒く汚れた。まだ悪寒が体の中に留っていた。文也は石を見つめた。ねっとりした泥の中に、墓標のように横たわっている。ただの石だ。水気の多い土の中で冷えていただけなのだ。何でもない。文也は自分にいい聞かせた。
「どうしたの?」
比奈子が心配そうに見ていた。
「手が滑ったんだ。このところ力仕事してないからね」
文也は、わざとおどけて肩をすくめてみせた。
そして、また泥に手を突っこんだ。再び指先が冷たいものに触れた。しかし今度は予期していたせいか、あまり奇妙な感覚はなかった。文也はぬるぬるする泥土の中で石をつかむと、満身の力をこめて持ち上げた。
長方形の石の片方が持ち上がった。黒い泥が、血のように、たらたらと表面を流れ落ちた。文也は先の尖ったほうを上にして、石を押し立てた。石は自身の重みで泥に沈んでいき、やがて動かなくなった。まるで最初から石柱としてそこに立っていたように安定した。石の表面には、何の文字も印も見当たらなかった。高さ七十センチメートルほどの、ただの長方形の石。いつの時代のものか判定もできない。文也は、石柱の山形に尖った先に触れながら呟いた。
「いったい何のための石柱だろう」
ばさばさばさっ。突然、大きな羽音がして、彼方の雑木林から鳥の集団が飛び立った。耳をつんざくほどに甲高い鳴き声をあげている。文也は不安な気分で、遠ざかる鳥の群れを目で追った。
「文也君、空が……」
比奈子の脅えた声がした。見上げると、空の様子がおかしい。さっきまでの澄んだ青は消え、汚れたような色に変わっていた。空のどこかから薄墨を流しているようだ。見ている間にも、空はどんどんと暗くなってくる。生暖かい風が吹いてきた。文也は泥地を横切り、比奈子のいる乾いた地面に戻った。
「どうしたのかしら」
比奈子が文也に体を寄せるようにして聞いた。文也は、わからない、と答えた。
泥の中に、緑色の石柱がすっくと立っていた。そのまわりを黒光りする泥が渦巻いている。地底から湧き上がってくる泥水。渦は左に巻きながら次第に大きくなり、乾いた草の上にまで泥を広げてゆく。比奈子は青ざめた顔で、その渦を見つめていた。文也のスニーカーの靴先に、黒い泥の波が押し寄せてきた。彼は再び地底にひきずりこまれていくような恐怖を覚えた。
「帰ろう」
文也は、声が震えないように願いながらいった。比奈子が彼の手を握りしめた。温かいものが二人の間をつないだ。そのとたん、|呪《じゅ》|縛《ばく》が解けたようだった。二人は全力で斜面を駆け上がった。
比奈子は彼の手を握ったまま、草の上に置いていた花柄のバッグとスケッチブックをつかみ上げた。そして二人は走りだした。
風に吹かれた木々が|吼《ほ》えている。鬼百合が朱色の口をぱっくりと開けて、ちぎれるほどに頭を揺らせている。|嘲《あざけ》るような笑い声が聞こえた気がした。まわりの景色が、一瞬のうちに狂気に陥った。
何が起こったのかわからなかった。ただ、この場から立ち去れと本能が告げていた。矢狗村に続く小径が、林の中に見える。二人はその方向に向かって、草原を駆け抜けた。
ごおごおお、ざざざざあああっ。風が荒れ狂っていた。比奈子が足を滑らせて、地面に転がった。文也が手を伸ばした。その手に草が絡みついた。まるで生命を持つ|蔦《つた》だ。草の細長い葉が、彼の手首を撫でた。
文也は大声をあげて、草をひきちぎった。比奈子が立ち上がるのが見えた。そしてまた走りだそうとした時だった。背中に、視線を感じた。あの視線だった。文也の足が止まった。
〈かごめかごめ
[#ここから2字下げ]
かごのなかのとりは
いついつねやる〉
[#ここで字下げ終わり]
背後から、小さな歌声が聞こえてきた。比奈子が足を止め、凍りついた。
「莎代里ちゃん……」
二人は、はじかれたように後ろを振り返った。
窪地の中央に、緑色の石柱が|屹《きつ》|立《りつ》していた。渦巻く泥の|裳《も》|裾《すそ》をたらした王者のような風格が漂っている。風が石柱の回りを渦巻いていた。かぼそい悲鳴に似たその風音が吹き上がってくる。
ひゅうううかかかかごめかごめ。
風の音が歌に変わろうとしていた。比奈子が口を大きく開けた。彼女が叫びだす前に、文也は乱暴に比奈子の手をひっぱった。
二人は石柱に背を向けて、転げるように走りだした。
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第二部
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———よあけのばんに
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つるとかめがすべった———
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気を許すと、すぐに雑草が土の中から細い葉を伸ばしている。まるで家の中の|埃《ほこり》のようだ。掃除しても掃除しても、いつの間にか部屋の隅や棚の上にたまっている。埃は、雑草だ。いいや、違う。ああ、なぜ埃のことを考えたのか忘れてしまった。
シゲは|豌《えん》|豆《どう》畑にしゃがみこんで、雑草をひき抜いていた。細長い葉を親指と人差し指の間に挟んで、ぐいっと引く。これまで、どれくらい草むしりに時を費やしてきたのだろう。|舅姑《しゅうと》が死ぬまで農作業を手伝い、その後は細々と家の畑を耕し、着物の仕立てをしながら子供たちを育ててきた。畑の草むしりは、生活の裾野の部分にいつもくっついていた。
|母《おも》|家《や》の隣の孫夫婦の新しい家からは、子供たちの騒ぐ声が聞こえてくる。|曾《ひ》|孫《まご》たちを見るたびに、自分はなんと長生きしたのだろうと思う。夫を亡くして六十年近く、よく一人で生きてこられたものだ。
もちろんシゲの長い人生において、何の色恋沙汰がなかったわけではない。今も心に秘めている恋愛関係はあった。篠原竹雄。苗や種の卸商だった。仕事で足繁く家に訪ねてくる竹雄にいつしか好意を感じるようになり、やがて|密《ひそ》かにつきあいはじめた。夫の力馬がまだ生きている頃からの関係だった。魔がさしたとでもいうのだろうか。夫の目を盗んで一度、死んでからは幾度となく抱き合った。
竹雄にも妻と子がいた。二人は、のっぴきならないところに追いつめられたまま、それでも会わずにはいられなかった。肉と肉が呼び合うように、人目を忍んで会いつづけた。しかし、その竹雄もあの世に|逝《い》ってしまった。いつだっただろう、竹雄が死んだのは……。
シゲは、もどかしさに顔を|歪《ゆが》めた。
忘れてしまった。あれほど好きだった竹雄なのに。
ただひとつ覚えているのは、その時からシゲの人生は、白黒テレビのように色を失ってしまったことだ。もちろん白黒とはいえテレビはテレビだ。毎日、いろんな事件が画面に映し出される。しかしシゲの生活には以前ほどの活気はなくなった。竹雄の存在が、どれほど彼女の人生に張りを与えていたことか。
シゲは雑草をひき抜きつづける。竹雄が死んでから、この草ひきのように、頭に浮かぶさまざまな欲望を|摘《つ》み取ってきた。男と寝たい、子供から逃れてどこかに行きたい、着飾って町に出かけたい。毎日、頭をもたげてくる小さな欲望の芽を摘みつづけてきた。今、シゲの心の中に残っているのは、荒涼とした風景。草一本生えない寂しい大地が広がっているだけなのだ。