時々、自分には別の人生もあったかもしれないと思う。シゲは、今朝見た明神の家の孫娘の姿を思い出していた。この歳になっても視力はよかった。上の家から小柄な女が出てきて、迎えに来た紺色の車に乗りこむのが見えた。大きな耳飾りをつけて、胸の大きく開いた上衣を着ていた。あまりにも|垢《あか》|抜《ぬ》けていて、別世界から来た女のようだった。孫の嫁、里美も時々眉をひそめる|恰《かっ》|好《こう》をした。だが、あの女の全身から立ち昇る|華《はな》やかさに比べたら、まだ地味なものだった。
自分もこの村から出ていっていたなら、違った女になったかもしれなかった。無口で目立たない子供だった明神の孫娘が、あれだけ派手な女になったように。そうしたら力馬と結婚することはなかっただろう。夫に若くして先立たれて、苦労することはなかっただろう。
ひょっとしたら最初に竹雄と出会っていたかもしれない。あの男と結婚していたなら、自分は幸せだっただろう。だいいち、あの男は女の扱いがうまかった。あの男の体には、自分を狂わせるものがあった。
そこまで思って、シゲはびくりと顔を上げた。冷たい影がシゲの前に立った感じがしたのだ。
風ひとつない豌豆畑の中で、夏の熱気が立ち昇っている。あたりは目が痛いほどに明るい。暗い部分といえば、地面に落ちる豌豆の茂みの影だけだ。
誰もいないではないか。
シゲは首にかけていた|手《て》|拭《ぬぐ》いで頬の汗を拭った。しかし奇妙な感覚はまだ尾をひいていた。なぜかはわからないが、さっきの影が竹雄のような気がした。
盆のせいだ、|遥《はる》か昔に死んだ男のことを思い出してしまうのも。
シゲは、庭の物干し台に縛りつけられたホーカイを見上げた。|竹《たけ》|竿《ざお》の先は、天空を指す焼けた指のように黒く焦げている。今日で盆は終わる。死者の霊がこの家を訪れていたとしても、今日また戻っていく。|何処《いずこ》と知れぬ死の国へ。
ホーカイの先から神の谷の方角へ視線を移した。シゲは目をしばたかせた。矢狗村と神の谷をへだてている低い山陵の木々が揺れている。大風を受けたように、木がしなっている。まるで|田圃《たんぼ》に吹きこんだ一陣の風だ。木々が易々となぎ倒されていく。何かを追いかけるように、さあーっと山を横に走る風の吹き過ぎた跡が見えた。
「通り魔じゃ」
シゲは|呟《つぶや》いた。
風は突然、ぴたりとやんだ。シゲはその場にしゃがみこんだまま、神の谷の方角を見つめていた。青い空が輝いている。そのあまりに深い空から、恐ろしいものが降ってくるように思えた。|虻《あぶ》が羽音をたてて、シゲの頬をかすめていった。
静まりかえった空気を震わせて、車のエンジンの音が聞こえてきた。シゲは、ようやく金縛り状態から解き放たれて、音のしたほうを見た。逆川を渡って紺色の車が走ってきた。車はシゲの家の横の坂道を上りきって、上の家の前で止まった。車から明神の孫娘が降りてくるのが見えた。髪は乱れ、シャツは土の上を転げ回ったように汚れている。車の中にいるのは男のようだった。
シゲは顔をしかめた。最近の若い者は、盆の間くらい慎むということを知らないのか。あんな娘がやってくるから、通り魔なぞが起きるのだ。
シゲは地面に向き直ると、力まかせに草をひきむしった。ぶつっ。鈍い音をたてて、草の根がちぎれた。
比奈子は家に戻ると、昨夜の風呂の残り湯をかぶった。服を着替えて、畳の上に横になる。裏山から聞こえる蝉の声。家を吹き抜ける涼しい風。心を落ち着けようとしたが、さっきの神の谷での出来事を頭の中から消し去ることはできなかった。
追いかけてくる風のうなり。行く手を阻むように立ちはだかった木々の枝。ようやく止めた車にたどり着いて、飛び乗った。車の中でひと息つくと、比奈子は文也に、今しがたのことは何だったのかと聞いた。ただの風だ、と文也は答えた。山では突然、風が荒れ狂うこともあるといった。
「でも、かごめかごめの歌は……」
そういいかけた比奈子の言葉を、文也は怒ったようにさえぎった。
「空耳だ」
比奈子は黙ってしまった。
空耳だったかもしれない。比奈子は、そう思いこもうとした。
しかし、あれは莎代里の声だった。かごめかごめの歌声は。
比奈子は起き上がると、土で汚れたビニールバッグの中から煙草をひっぱり出して、もどかしい気分で火をつけた。バッグの中からスケッチブックが|覗《のぞ》いていた。開くと、神の谷で描いたスケッチが現れた。
谷に向かってなだれ落ちるような山の斜面。頭をぴんと立てた鬼百合の花や、掌を|窪《くぼ》めたような谷の風景が細いサインペインで描かれている。細部から細部へ目を移していた比奈子は、不意に煙草を口にしたまま動かなくなった。
窪地の中央に黒々としたものが立っていた。細長い岩のようだ。先端が山形に|尖《とが》っている。文也が泥の中で発見した石柱とそっくりだ。
しかし彼が石柱を立てたのは、比奈子がスケッチを終えてからだった。これを描いていた時の自分は、石柱の存在なぞ知りもしなかったのに。
比奈子は、黒い斜線で陰影をつけられた岩を見つめた。どうしてこのスケッチに石柱を付け加えたのか思い出せなかった。ただ夢中でサイペンを走らせていただけだ。
比奈子は、スケッチブックを閉じた。灰になった煙草を欠けた小皿に押し|潰《つぶ》す。タンクトップからむきだしになった腕には、鳥肌がたっていた。
ざくっ。庭先で音がした。
比奈子は体をこわばらせた。恐るおそる縁側のほうを見た。そこに女が立っていた。
「比奈ちゃーん。おるぅ?」
真鍋久美のおっとりした声が耳に飛びこんできた。比奈子は、ほっと肩の力を抜いた。いったい何だと思ったのだ。自分の|臆病《おくびょう》さがおかしくなった。
「はーい」比奈子は立ち上がって出ていった。手に大きなビニール袋を提げた久美は、比奈子を見ると、昨夜はどうも、と|挨《あい》|拶《さつ》した。そして突然の来訪を驚いている比奈子に、自分の家の畑がこの近くにあるのだといった。
「畑のもん、|穫《と》りに来たついでに寄ってみたが。はい、これ、おすそ分け」
麦わら帽子をかぶった久美は、ビニール袋を縁側に置いた。袋の中からは、穫れたてのトマトの青臭い匂いがした。
「ありがとう。トマトは大好きよ」
比奈子は明るい声をあげた。トマトよりも久美が来てくれたことが|嬉《うれ》しかった。今は一人でいられる気分ではない。誰でもいい、話し相手が欲しかった。そうすれば神の谷でのことを考えないでいられる。
比奈子は冷蔵庫からジュースを出して、久美に勧めた。久美は麦わら帽子を脱いで、縁側に座った。昨日の同窓会では化粧していたせいか気がつかなかったが、今、昼間の光にさらされた素顔は、肌も荒れ、ずいぶん老けて見えた。
比奈子が子供のことを聞くと、久美は、上の子は小学生だし、下の子二人は同居している姑が見てくれていると答えた。そしてしばらく自分の家のことを|喋《しゃべ》ってから、比奈子の顔を|窺《うかが》うようにいった。
「本当は、今日寄ったんはね、ゆうべ比奈ちゃん、莎代里ちゃんのこと聞きたそうにしちょったのが、気になっちょったがで。私、あれからカラオケに夢中になってしもうて、何も話してあげられんかったき」
比奈子は儀礼的な声で、ありがとう、といった。今、最も話題にしたくないこと、それが莎代里の話だった。だが、久美にそんなことがわかるはずもなかった。彼女は、莎代里のことを熱心に語りはじめた。
莎代里は中学生になって、ずいぶん同級生たちと話すようになったらしい。しかしそれも以前と比べてのこと。休み時間は一人でいることが多かったし、放課後、誰かの家に遊びに行くこともなかった。
「うちらと一緒におる時やって、いっつも輪の端のほうで、何考えゆうかわからんようなところがあったよね」
久美の言葉に比奈子は|頷《うなず》いた。それでも莎代里が、みんなの輪の中に入っていたこと自体、大きな変化だと思った。比奈子が亀の|甲《こう》|羅《ら》から頭を出したように、莎代里も少しずつ自分の殼から脱皮していたのだ。
久美は爪の間につまった黒い土を眺めながら、思い出をひき出していった。
莎代里は、理科クラブに入って、久美たちと一緒に実験をした。地質調査といってハイキングにも行った。中学二年も終わりの頃になると、莎代里はずいぶん打ち解けてきた。久美には、クラブ活動の合間に自分の意見を洩らしたりもした。先生のこと、将来のこと、おしゃれのこと。
「莎代里ちゃん、あれでけっこう音楽が好きでね。ロックやらも聞きよったがで。お兄さんの影響やったと思う。アメリカのなんとかいうロックグループのファンでね、家に遊びに行くといっつもレコードをかけてくれた。歌詞みたいなもんも作りゆうみたいやった。絶対、見せてくれんかったけど、帳面に詩をいっぱいつけよった」
比奈子は久美の語る莎代里の話に、しっくりいかないものを感じていた。莎代里は、自分の代わりに久美を友人の対象としたのだろうか。信じられなかった。莎代里は、久美とは違いすぎる。莎代里と久美の魂は、銀河系の端と端にいるくらい離れていた。久美は、莎代里が心を打ち明けるような人間ではないと思った。
だから久美が、莎代里は男の子の話になると口を閉ざしてしまったといった時、ほっとした。当然だと思った。
「莎代里ちゃん、きれいやったき、けっこう上級生の男の子にもてよったがやき。ラブレターもいっぱいもらいよったみたいやった。けんど誰ともつきあいはせんかった。莎代里ちゃんは男の子に興味はないがやろうゆうて、みんな|噂《うわさ》しよった」
比奈子は軽く頷きながらジュースを飲んだ。二人は縁側に腰をかけて、庭を見ながら話していた。
「けどね、私、わかっちょった」
久美は不意に顔を上げて、比奈子を見た。
「莎代里ちゃん、ちゃんと好きな人がおったんで」
「誰?」
比奈子は思わず大きな声を出した。
久美は、他人の秘密を暴く人間に特有の、獲物を追いつめた狩人のような表情で答えた。
「文也君。莎代里ちゃん、文也君が好きやったんで」
比奈子は、はっとした。驚きと、やはり、という思いが交錯した。子供の時からそんな予感はあった。口数の少ない莎代里が、文也に関することは好んで話題にした。
「昨日、文也君のお父さん、家に来て、夕ご飯を食べていったで」「文也君、転んで怪我したがやと」「|親《しん》|戚《せき》のおばちゃんところのお祭りで、文也君に会うたで」
莎代里は何かにつけて文也のことを比奈子に告げた。比奈子は、二人が遠い親戚関係にあるためにすぎないからだと思っていた。それでもどこかで感じていた。莎代里が文也を見る視線の熱っぽさを。
「文也君のこと、好きやゆう女の子はけっこうおったけど、莎代里ちゃんは、絶対、自分も好きやとはいわんかった。けど、私、莎代里ちゃんが理科クラブに入ったんも、文也君がおったせいやと思う」
比奈子は、莎代里の家で見た彼女の遺影を思い浮かべた。少女から女へと成長する一歩手前の顔。細面の顔。涼しげな|目《め》|許《もと》。美しい女になっただろう。人の中で自分を表現するすべを身につけたら、文也との恋が叶うことがあったかもしれない。しかし莎代里は死んでしまった……。
台所で電話が鳴った。莎代里の思い出に浸っていた比奈子は、びくっとした。比奈子は、久美に謝って家の中に走っていった。受話器を取って返事をしたが、向こうの答えがない。
「明神ですけど」
比奈子はもう一度いった。ようやく、ためらうような声が聞こえた。
「あの……秋沢だけど……」
比奈子は息を呑んだ。
「さっきは悪かった。さんざんな目に遇わせてしまって」
体の中の緊張が溶けていくような気がした。文也と気まずく別れたことが無意識のうちに、心にひっかかていたのだ。
「文也君のせいじゃないわ」
比奈子は答えた。莎代里のせいだ。そんな声が頭の隅で響いた。比奈子は慌てて、その声を追い払った。
「残念ね。せっかく連れていってくれたのに、あんなことになって……」
「その……おわびというか、気分直しというか……。明日の晩、よかったら一緒に花火大会に行かないか」
「あら、いいわね」
思わず声がうわずった。
「北野町であるんだ。近隣の人たちが集まって、けっこう|賑《にぎ》やかだよ」
「嬉しいわ。しばらく花火なんか見たことないもの」
文也は明日の夕方迎えに行くといって電話を切った。比奈子は縁側に引き返した。さっきまでのふさいだ気分が吹き飛んでいた。
「誰からやったが?」
久美に聞かれて、比奈子は、とっさに母からだと|嘘《うそ》をついた。莎代里の話を聞いた後で、文也のことはいいたくなかった。久美は少し疑うように比奈子を見たが、腕時計を見て腰をあげた。
「あ、もうお昼過ぎやわ。ゆっくりしたかったけど、家に帰ってご飯の支度せんといかん。ほんなら、また寄るわ」
比奈子がトマトの礼をいうと、久美はまるまるとした顔に人のよさそうな笑いを浮かべた。
「なんちゃあじゃない。うちにゃ売るばあ、あるがやき」
そして家の前に止めてあった軽トラックに乗りこむと、短くクラクションを鳴らして帰っていった。
地蔵像を刻んだ小さな墓石が肩を寄せ合って並んでいた。その背後には、|孟《もう》|宗《そう》竹の茂みが涼しげに揺れている。
四国第三十二番霊場|禅《ぜん》|師《じ》|峰《ぶ》|寺《じ》。黒い|縞《しま》の入った青い奇岩が、境内を囲むように、にょきにょきと突き出ている。小高い山の上の寺はひっそりとしていた。男は本堂の階段に腰をおろして、疲れた足を休めていた。
境内の向こうに、鮮やかな黄緑色の|刷毛《はけ》でひと|撫《な》でしたような南国平野が見える。平野に沿って広がる海は、空との境目がわからないほど青かった。
ちりんちりん。澄んだ鈴の音がした。|菅《すげ》|笠《がさ》に白衣の遍路が一人、腰に下げた鈴を揺らせながら本堂の前にやってきた。四十半ばだろうか。黒光りするほど日に焼けた肌に、厳しい表情を漂わせている。左手の指に白い包帯を巻いていた。全身から深い疲労感が滲み出ている。男と目が合うと、軽く合掌して|呟《つぶや》いた。
「|南無大師遍照金剛《なむだいしへんじょうこんごう》」
遍路同士の|挨《あい》|拶《さつ》だった。男は口の中でもぞもぞと挨拶を返して頭を下げ、そっと視線を|逸《そ》らせた。話をするのは苦手だった。この遍路が話し好きだったら困ると思った。しかし彼は男のいる本堂に背を向けて、黙って海を見つめた。男はふと、この遍路は漁師ではないかと思った。まだ巡礼の旅に出たばかりらしい。真新しい白装束が、疲れ果てたような彼の様子とそぐわなかった。ひょっとしたら、今日が出立ちの日かもしれない。
遍路はやがて本堂に向き直った。そして灯明と線香を上げると、合掌して経文を唱えはじめた。
「納め奉る。この所の御本尊、高祖弘法大師をはじめ、当山鎮守、総じては日本国中、大小の|神《じん》|祇《ぎ》に祈願し奉る。|至《し》|心《しん》|発《ほつ》|願《がん》、天長地久、即身成仏、|密《みつ》|厳《ごん》|国《こく》|土《ど》、風雨順時、|五穀豊穣《ごこくほうじょう》、世界平和、|万《ばん》|民《みん》|豊《ほう》|楽《らく》、|乃《ない》|至《し》、法界平等|利《り》|益《やく》……」
線香の香りと読経の声がひとつになって、境内を流れていく。男は目を閉じて、それに聞き入っていた。経は終わりがないように思えた。|祈《き》|願《がん》|文《もん》から|開経偈《かいきょうげ》、|懺《ざん》|悔《げ》|文《もん》と続き、|般若心経《はんにゃしんぎょう》、そして|回《え》|向《こう》|文《もん》で終わるまで、遍路はつかえながらも唱えつづけた。
男は、霊場のあちこちで、遍路の読経を聞くのが好きだった。意味はわからないが、気持ちが落ち着く。かといって、自分も覚えて唱えようという気はない。男が信じてきたのは、別の神だったからだ。
遍路は、大師堂やその他のお堂にも経を上げると、最後に境内の隅にある観音堂の前に立った。そして懐から供え物でも取り出すように小さな物を堂の前に置いて、再び経を唱えはじめた。今度は、さらに長い経だった。かんかんと照りつける日射しが容赦なく降りそそぐ。何かよほど祈らなくてはいけないことがあるのだろうか。炎天下の中、太くしゃがれた声で一心に経を唱えつづける。
四国霊場を回りながら、男は幾度となく、似たような光景を目にしてきた。遍路たちは皆、心に切ない願いを抱きながら、四国を巡っているのだ。だが、彼らは気づいていない。弘法大師へのその祈りが、実は四国という土地への祈りへとつながっていることに。
四国を巡りつづける人々の祈りを正しい方向に向けることが、我らのお勤めなのだ。長老は、そういっていた。そうすることで、四国に恐ろしいことが起こるのを防いでいるのだと。
ようやく祈りを終えると、遍路は澄んだ鈴の音とともに、石段を降りていった。
男も立ち上がった。疲れが少し回復したようだった。境内を横切る時、ふと先の遍路が長く祈りを|拝《ささ》げていた観音堂の前で立ち止まった。堂は|船《ふな》|魂《だま》観音と記されている。前に、小さな|硝子《ガラス》瓶が飾られていた。その瓶の中を見て、男はぎょっとした。
硝子瓶の中には、まだ赤い血が滴っている指が入っていた。先の遍路の包帯を巻いていた指を思い出した。瓶の中には、白い紙が入っており、|拙《つたな》い筆文字でこう書かれていた。『高知県香美郡夜須、寺田稔。息子が生きて帰ってきますように』
男は遍路が消えた石段を眺めた。彼の息子は、どうしたのだろう。行方不明なのだろうか。指を切ってまで祈らずにはいられなかったのだ。
大勢の人間が、やりきれない思いを抱えて、この四国の道を巡っている。だからこそ、そこから大きな力が生まれてくるのだ……。
男は黒ずんだ血の固まりかけている硝子瓶の中をじっと見つめていた。
小さい頃から比奈子は、農家といえば大野の家を思い出した。昔は、ここで山羊や牛を飼っていた。大野シゲと話しこんでいる祖母を迎えに行くたびに、納屋の中を|覗《のぞ》かせてもらい、山羊の鼻づらを撫でたものだった。軒先に下がった干し柿や大根。|筵《むしろ》の上に広げられた|籾《もみ》|殻《がら》。納屋に仕舞われた農耕具……。ここは比奈子にとって、いつも|日向《ひなた》の匂いのする場所だった。
しかし、今、大野の家は夜の|闇《やみ》に包まれていた。|樟《くす》の大樹が、黒々とした枝で家を抱きかかえている。比奈子は砂利を踏みしめて、広い庭へ入っていった。どっしりした造りの|母《おも》|家《や》から、明るい光が洩れている。比奈子は、玄関の前で大きな声をあげた。
「ごめんください」
家の中から、テレビの音と皿の触れ合う音がする。比奈子は玄関の戸を開けて、また、ごめんください、と声を張りあげた。
「はぁーい」若い女の声がして、孫嫁の里美が現れた。今まで何か食べていたらしく、口をもぐもぐさせている。比奈子が用件をいう前に、里美は|口《くち》|許《もと》を手で隠しながら「ちょっと待ってください」といいおいて、家の中に走りこんだ。明神さんが来たという声が、奥の部屋から聞こえてきた。すぐに千鶴子が出てきた。
「こりゃあ、よう来てくださいました。上がってください」
「お食事中でしたら、また出直しますが。七時くらいがいいと伺ってたもので……」
「そんな、ちっともかまやせんですよ。ご飯も、もうすむところじゃき。さあ、どうぞどうぞ」
比奈子は茶の間に通された。隣の板の間が食堂になっていて、大野一家がテレビを見ながら食事をしていた。シゲと靖造、千鶴子、そして里美と二人の子供たちだ。里美の夫はまだ帰ってないようだった。食堂に隣接して土間があり、台所になっていた。
比奈子は一同に挨拶して、茶の間に座った。丸い座卓の置かれた八畳の茶の間は、大野一家の生活の匂いに満ちていた。壁に|貼《は》られた農協のカレンダー。畳の上には転がった里美の子供たちのビニールのアヒルや、ロボット人形。部屋の壁際には、黒光りする水屋が置かれている。天井近くに神棚が|祀《まつ》られていて、まだみずみずしい|榊《さかき》が供えられていた。
比奈子は居心地の悪い思いで、千鶴子の出してくれた麦茶を飲んだ。
東京で暮らしていると、他人のむきだしになった生活に触れる機会は少ない。人と会うのは、街の喫茶店やレストラン。生活と関係のない場で、きれいごとをいっていられる。透と自分がそうだった。生活感のない空間で、内面をさらけださずにつきあっていた。だから五年もの期間、続いてきたのだ。比奈子が矢狗村に住みはじめて、その家に透を連れてきたら、彼は十分といられないで逃げ出すだろう。透が好きだったのは、矢狗村出身の明神比奈子ではない。自分の命名したHINAというペンネームを持つイラストレーターだった。
比奈子は、透のことを思い出したことで、自分でも気がつかないうちに|眉《み》|間《けん》にかすかな|皺《しわ》を寄せていた。
「あれぇ、見て見て。北野町やって」
里美の驚いた声があがった。食堂に置かれた小さなテレビを指さしている。靖造や千鶴子とともに、比奈子もテレビに視線をそそいだ。画面には転覆したトラックが大写しになっていた。積み荷の材木が散乱している。
〈今日の午後四時頃、北野町を走行中の大型トラックが国道三十三号線から仁淀川に転落。運転手は重体。路肩を歩いていた主婦と二人の子供がトラックにはねられ、即死しました。現場は見通しのよい一本道で、関係者は死因について首を|傾《かし》げています〉
仁淀川と逆川が合流する地点の近くだった。ぐにゃりと曲がったガードレールの映像が流れていた。
「ありゃあ北添電気店やぞ」
靖造がいった。住居兼用らしい二階建ての小さな電気店が映り、死亡した母と子供二人の写真に変わった。北添美奈子二十九歳。子供はそれぞれ七歳と五歳だった。鼻の横に|黒子《ほくろ》のある夫が|茫《ぼう》|然《ぜん》自失の面持ちで話していた。
〈子供らを幼稚園に迎えに行っての帰りやったがです。わしは店におって、三人が道路脇で車が通り過ぎるのを待ちゆうのを見よったが。ほいたらトラックが……、それまでちゃんと走りよったがやに、突然、妻らぁのほうに突っこんできた。道路の真ん中をよけゆうみたいやったけんど、道路にゃ対向車も、なんちゃあおらんかった。どうしてあんな方向に行きよったか、どうしてよりによって、人のおるほうに突っこんでこにゃいかんかったがやろ〉
テレビを見ていた千鶴子が首を傾げた。
「幽霊でも見たゆうがやろうかね」
里美が笑った。
「やめてや、お義母さん。へんなこというがは」
「どうせ酒でも飲んじょったがや」
靖造はビールの瓶と飲みかけのコップを持ってきて、比奈子の前にどさりと座った。
「いやあ、|別《べっ》|嬪《ぴん》さんを待たせて悪かったねゃ。おい、千鶴子。比奈ちゃんにもビールのコップ、持ってきちゃれ」
比奈子は慌てて、おかまいなくといったが、靖造はさっと千鶴子の持ってきたコップにビールをついだ。
「まあまあ、遠慮せんで飲んどうぜ。久しぶりやきねゃ。わしが覚えちゅうんは、まだこんまい頃の比奈子やったぞ」
|痩《や》せた空豆のような顔をした靖造は目を細めて、比奈子を眺めた。比奈子は、きまり悪くなりながらグラスに口をつけた。ビールはぬるくなっていた。
テレビはニュースを終えて、クイズ番組に変わった。もう誰も見ている者はいなかった。千鶴子は土間の台所で洗い物をはじめ、里美は子供たちを風呂に入れるといって、食堂から消えた。
靖造が煙草に火をつけながら聞いた。
「元ちゃんや絹さんはどうしゆうかのう」
比奈子は父母は元気だ、と答えた。父は退職後も会社の相談役を務めていること、母は|稽《けい》|古《こ》事に精を出していると告げた。そして聞かれるままに、自分の仕事や、塾の講師をしている弟のことを語った。
ぷんと|樟脳《しょうのう》の臭いがした。気がつくと、シゲが食堂から茶の間に席を移して、比奈子の前に座ったところだった。シゲは、顔も手も皺に埋もれていたが、その固太りした体は、まだまだ元気そうだった。
「お久しぶりです。お元気でしたか」
比奈子が声をかけると、シゲはむっつりとした顔で|頷《うなず》いた。そして気乗りしない様子で聞き返した。
「初枝さんも、機嫌がええかね」
「ええ、体のほうは元気なんですが、祖母は少し|惚《ぼ》けてしまって……」
シゲが入れ歯を見せて、わずかに笑った。
「そうかね、初枝さんも惚けたかね。お町で畑仕事もせんと、暇に暮らしゆうきやろ。あてらみたいに毎日、自分のことは自分でせにゃいかんかったら、惚けやせんに」
千鶴子が台所から大きな声を出した。
「やめてや、おばあちゃん。うちらがおばあちゃんの世話、なんちゃあしやせんみたいに思われるやいか」
靖造が笑いながら比奈子にいった。
「ほんとうは、うちのおばあも、ええかげん惚けてきたがぞ、比奈ちゃん。初枝さんにゆうちゃってや」
「あては、まだ惚けちゃあせん」
「惚けてきたち」
シゲと靖造の間で口論がはじまりそうだった。比奈子は用件を切り出した。
「家のこと、これからどうしたらいいか、決めないといけないんですが」
靖造が|怪《け》|訝《げん》な顔をした。
「どうしたらええかゆうて?」
「次の借家人はいそうなんでしょうか。あんなに古くなっているので、誰も借りたがらないなら、うちの両親は、売っても仕方ないかと考えているんですが……」
「売るじゃとお」
靖造が大声をあげた。ビールを飲み干して、千鶴子に「酒!」と怒鳴ってから、比奈子を詰問するようにいった。
「ほんなら元ちゃんらぁは、もう矢狗村に帰らんつもりか」
「それは、まだわかりませんが、なにしろ千葉にも家があるし……」
「千葉の家がなんじゃ。わしゃ元ちゃんが、いつかは矢狗村に帰ってくる思うちょったき、喜んであの家の世話をさせてもろうてきたがで。それを今になって帰らんゆうんは、裏切られたも同じじゃ」
靖造は本気で気分を害したようだった。比奈子は内心、困ったことになったと思った。冷や酒を持ってきた千鶴子が口を挟んだ。
「あんた、そんなこと比奈ちゃんにゆうたち、しょうないやろ」
「元ちゃんは、比奈ちゃんを代理によこして、わしんところに顔も出さんで売るつもりがぞ。人をわやにしちゅう」
比奈子は慌てて、まだ売ると決めたわけではないといった。
「どちらにしろ、あの家、ずいぶん老朽化しているみたいですから、遅かれ早かれ、何とかしないといけないと思うんですが」
千鶴子は頷いた。
「そりゃ、比奈ちゃんのいう通りや、私は、借家人は、そのうち見つかると思うよ。けんど家を長もちさせたいなら、今のうちに大工さんに頼んで、手を入れてもろうちょいたがええやろね。ほうっちょいたら、家はどんどん傷んでくるき」
「帰ってくる気がないやったら、さっさと売り飛ばしゃええ」
靖造が口をへの字にして、冷や酒を飲んだ。靖造は昔から、へそまがりのところがあった。父が靖造のことを、「靖ちゃんは、いごっそうやき」といっていたのを覚えている。比奈子が靖造の態度に内心あきれていると、千鶴子が夫を|睨《にら》むようにしていった。
「えらそうなことゆうてからに。許しちやってや、比奈ちゃん。この人、元次さんと老後を一緒に過ごしたかったがやき」
「私、家に戻ったら、おじさんが矢狗村に帰ってくるようにいっていたと、父にいっておきます」
靖造は首を横に振った。
「わしがいつ、元ちゃんに帰ってこいゆうて頼んだ? 一遍、顔を見せて、わしに直接、その話をしろ、いいゆうだけぞ」
その時、シゲの声が割って入った。
「そう、どめかんでもええ、靖造。しまいにゃ、みんなぁ帰ってくるわ」
茶の間の三人は、背を丸めた老婆を見た。シゲは、しなびた|林檎《りんご》のような顔を一同に向けて続けた。
「四国で生まれた者は、死んだら四国に帰ってくる。神の谷の神さまに呼ばれて、もんてくるわ」
神の谷と聞いて、比奈子は息を止めた。今朝のことが|蘇《よみがえ》ってきた。
「|嘘《うそ》やないぞ」
シゲは威圧するような声でいった。
「四国の者は、死んだら神の谷にもんてくる。あそこの神さまに呼ばれてもんてくる」
靖造が不機嫌にいい返した。
「そんな話ゃ、耳にタコができるばあ聞かされたわ。あそこにゃ、ゆうちゃならん神さま、見ちゃならん神さまがおるゆうがやろ」
「そうじゃ」
「ゆえもせん、見えもせん。そんなもん、どんな神さまかわかりゃせんわ」
シゲは息子をじろりと見た。
「そがなことゆうなら、教えちゃる。神の谷におられる神さまはな」
シゲは、丸い座卓を囲む三人のほうに身をかがめた。小さな体が、麻袋のように丸まった。
「死んだ者じゃ」
比奈子の頭に莎代里の顔が浮かんだ。彼女は奥歯を噛みしめた。力を抜くと、体が震えだしそうな気がした。
「神の谷は、死んだ者の場所ながや」
|藪《やぶ》|蘭《らん》の黒い実のような老婆の目が光った。一瞬、茶の間を沈黙が支配した。つけっぱなしのテレビの音がやけに大きくなった気がした。
「また、おばあの迷信話じゃ」
靖造が吐き出すようにいって、冷や酒をあおった。
2
〈四国の地図を広げていただきたい。南北は、高知県の足摺岬から香川県庵治町の北端まで、東西は、徳島県蒲生田岬から愛媛県佐多岬の先まで。この四国の端と端を結んで、その交わる地点を探す。すると、矢狗村、神の谷の文字が見つかるはずである。ここ神の谷こそ四国の中心地点なのである〉
文也は|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せて、『四国の古代文化』から顔を上げた。神の谷が出てきたことに、薄気味の悪さを感じた。昨日、石柱を発見して以来、神の谷のことが頭から離れない。彼はベッドの上でごろりと体の向きを変えた。階下から、妹の公香のかけている歌謡曲が流れてきている。熱い午後の空気が、窓から押し入ってくる。二日続けて盆休みをとったのはよかったが、やることもなくこうして昼間から、日浦康鷹の書いた本を開いていたのだった。
文也は、また小冊子に目を落とした。
〈矢狗村のはずれにある神の谷は、山間の小さな谷である。ここは古来、村人によって、神の宿る聖なる場所と考えられてきた。その神は、見てはならない神、語ってはならない神とされている。四国の中心部たる神の谷は、神の宿る場所。私は、この土地こそ、四国の最も聖なる場所と考える。
四国の最も聖なる場所、神の谷に宿る神とは、|遥《はる》か古代の神である。現在の神の谷には、いかなる神の偶像も、|社《やしろ》も存在しない。これは|祀《まつ》られる神そのものが、かなり古い起源のものであることを示している。民間伝承の中によってのみ生きのびてきた神。形を持たない、古代の神なのである〉
古代人たちは山の木の実や草を採集し、鹿や猪を狩って食料としながら、逆川の源流である神の谷で彼らの神を礼拝した。その神は、仏教が伝来する以前、弥生や縄文時代に|遡《さかのぼ》ることのできる神。とすれば、あの石柱が古代人たちの礼拝の対象だった可能性もある。しかも四国の中心が神の谷なら、その中央に位置する石柱のあった場所は、四国の|臍《へそ》といってもいい地点だ。これは何を意味しているのだろうか。
もちろん石柱が本来、あの|窪《くぼ》|地《ち》の中央に立っていたという確証はない。しかし、石柱をあそこに立てたとたんに起こった不思議な現象をどう説明すればいいのだろう。突然、荒れ狂いだした山の自然。突風、からみつく草。かごめかごめの歌。
文也は、無意識に|頁《ページ》をめくる指先に力を込めた。違う。あれは、ただの突風だったのだ。単なる自然現象だ。かごめかごめの歌は幻聴にすぎない。別の何かの力が働いたなどということはあり得ない。そんなこと、信じてはいけない。
文也は『四国の古代文化』をベッドの脇に投げて、別のことを考えようとした。比奈子の顔が浮かんできた。
今夜、また彼女と会う予定だった。北野町の花火大会に行くのだ。その後、ドライブに誘ってみようか。山のほうに上がっていって、夜景を見せてあげてもいい。東京の夜景ほどではないにしろ、きれいなものだ。
そうだ、車を洗っておこう。文也はベッドから起き上がった。そして古ぼけた小冊子から目をそむけるようにして、階下に降りていった。
灰色がかった蛇がくねりながら土の上を|這《は》い、ずるずると草むらに消えた。
シゲは慌てて、左手の親指と人差し指で環をつくり、その中に息を吹きかけた。蛇の|魔《ま》|除《よけ》のまじないだった。
気に入らなかった。気に入らないものが、そこらじゅうに満ちていた。まるで村の空気に得体の知れない成分が少しずつ混じりこみ、村の様子を変えていっているようだ。
シゲは鎌を持ったまま腰を伸ばすと、目を細めて雑木林に囲まれた畑を眺めた。雑草が刈り取られた畑は、散髪をしたばかりの子供のようだ。こざっぱりした|畝《うね》に沿って、芋の葉が元気よく伸びている。家から離れたこの小さな畑を気にかけるのは、家族の中でもシゲくらいのものだ。
孫嫁の里美なぞは来たことすらない。この畑はシゲのものだった。姑に|苛《いじ》められたり、つらいことがあると、ここにやってきた。雑草を刈ったり、実った野菜を|摘《つ》んだりしながら、存分に泣いた。この畑は、シゲの涙を吸い取ってきたのだ。
シゲは、鎌にまとわりついた草を前掛けの裾で|拭《ふ》き取ると、今日はこれくらいにしておこうと思った。そろそろ夕方だった。空の端が赤らんできている。暗くなる前に、家に帰ったほうがいい。|黄昏《たそがれ》|時《どき》の山にいてはいけない。子供の時から、そういい聞かされてきた。地面に立てた棒につけた、野犬よけのまじないの古|草《ぞう》|履《り》に手を合わせてから、畑を後にした。