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作者: 当前章节:15425 字 更新时间:2026-6-23 00:42

 雑木林を貫く|小《こ》|径《みち》を歩いていく。林の中に逆川の小さな流れが見えてきた。川底の石が水面に顔を出している。水量が減っているのだ。日照りが続いているわけでもないのに、どういうことだろう。シゲは不思議に思いながら、木の板をさし渡しただけの橋を越えた。

 小径はやがて神の谷へと続く道と合流する。その|三《さん》|叉《さ》|路《ろ》でシゲは、ちらりと神の谷の方向を見遣った。さっきの気に入らない空気が一段と濃くなったのを感じた。シゲは慌てて神の谷に背を向けて歩きだした。

 神の谷は、死霊の谷。死人の神が住んでいる。

 シゲは口の中で南無阿弥陀仏と唱えて、村の方向へと足を早めた。ゴム草履の音が静かな山にぺたぺたと響く。夕焼けに染っていく空。木立を吹き抜ける生暖かな風。気がつくと、薄暗い小径の奥から人影が近づいてきていた。女のようだ。いったい今頃、誰が山に入ろうとしているのだろう。

 シゲは立ち止まって、女が近づいてくるのを待った。神の谷には行かないほうがいいと、いってやるつもりだった。

 しかし相手の顔を見たとたん、そんなお節介な気分は消えてしまった。

 口寄せ|巫女《みこ》の日浦の女。気にさわることをいって、犬神でもくっつけられたら事だ。シゲは道の脇に寄った。

 矢狗村の者は、原因不明の病気になったり、不作に悩まされたり、不幸が続いたりすると、そっと日浦の家を訪ねていく。犬神の|祟《たた》りといわれることもあるし、田の神さまの祭りを忘れていたために怒りを買ったのだといわれることもある。その理由は、|依《より》|童《わら》を務める日浦|嘉《よし》|子《こ》の娘、照子の口から伝えられる。

 今、近づいてきている女は嘉子だ。そう思ってから、嘉子はとうに死んだことに気がついた。葬式に出たのだから確かだ。では、あの女は照子か。

 シゲは、女の顔をまじまじと見つめた。日浦の女たちは、皆なんとよく似ているのだろう。照子も確か、自分とよく似た娘を依童にして口寄せを行っていた。明神の孫娘と仲のよかったのが、その照子の娘だったはずだ。何という名前だっただろうか……。

 照子は、ふらふらと近づいてきた。普通の歩き方ではなかった。誰もいないのに、絶えず後ろを振り返っては笑って、ひとりごとをいっている。

「もうちょっとかね。そりゃ、ええ。そりゃええわ、莎代里」

 莎代里。そうだった。照子の娘はそんな名前だった。だが、あの娘は死んだはずだ。シゲは体を硬くして、さらに道脇に退いた。照子は、シゲの姿なぞ目に入らないように通り過ぎた。

 シゲは肩をすくめて、小径を遠ざかっていく照子の後ろ姿を見送った。行く手には、|薄《うす》|闇《やみ》が降りてこようとしていた。

「こりゃ、待ちや、莎代里っ」

 森の奥から照子の笑い声が流れてきた。シゲは肩を震わせると、小径を歩きだした。早く家に帰りたかった。照子が神の谷に何をしに行くのか、考えたくもなかった。夜気を含んだ風が吹いてきて、雑木林をざわざわと揺らしはじめた。

 ドーン。小気味のよい音がして、夜空が明るくなった。大きな花火が、空に円を描いて花開いた。赤い火花がきらめきながら、ゆったりと流れる仁淀川の上に落ちていく。

「きれいねぇ」

 比奈子が|呟《つぶや》いた。横を歩いていた文也が笑った。

「隅田川の花火には負けるだろうけどね」

「あれね」比奈子は顔をしかめた。

「ずいぶん前に行ったけど、人ばっかりで疲れただけ。後はテレビのニュースで見るくらいよ。こっちのほうが、ずっと花火大会って感じがするわ」

「そりゃよかった」

 その言葉の温かな響きに、比奈子は幸せな気分になった。

 矢狗村から文也の車に乗って北野町に着いたのは、六時半を過ぎていた。会場は北野町小学校。川沿いの校庭から、仁淀川の上空に打ち上げられる花火がよく見える。校庭には、近隣の人々が押しかけていた。|浴衣《ゆかた》を着た家族連れ、ふざけあっている若者たち。校庭には屋台が出て、焼きとうもろこしや、タコ焼き、イカ焼きなどを売っていた。

 あちこちで、顔見知り同士の話がはじまっていた。文也も知人から、何度か声をかけられていた。

「いやあ、明神さん!」

 突然、自分の名を呼ばれて、比奈子は驚いた。浴衣姿の女と、スポーツウェアを着た、ずんぐりした男が現れた。勝美と堅だった。堅は、文也に頭を下げた。

「こりゃ、お二人で」

「案内しちゃりゆうがや」

 文也は照れたふうに応えた。勝美が比奈子に飛びつくように話しだした。

「東京に戻る前に忘れんと、うちに寄ってくださいよ。明神さんのサイン、ポスターに書いてもらおう思いゆうがやき」

「サインなんて……そんな恥ずかしいわ」

 堅が口を挟んだ。

「勝美のゆうこと、取りあわんとってください。こいつ図々しいがやき」

「そりゃあ、私なんかのサインでよかったら、お安い御用ですけど。たいしたものじゃないですよ」

「いいんです。私、明神さんの絵、好きながやき。ほんなら絶対、書いてくださいね」

 勝美と堅は|賑《にぎ》やかな空気をふりまきながら、別の友人を見つけて行ってしまった。

 文也が感心したように比奈子にいった。

「比奈ちゃんの絵、人気があるんだね」

「ただのイラストよ」

 そういいながらも比奈子は、誇らしい気分を抑えることはできなかった。

 屋台が並んでいるところに来た。『北野町青年会』と書かれた白いテントの下で、飲み物やかき氷の模擬店が開かれていた。どの店の前にも行列ができている。

「ビールでも飲むかい」

 文也が聞いた。比奈子は|頷《うなず》くと、彼はちょっと待っていてといいおいて、行列に並んだ。比奈子は、隣の店を見遣っていった。

「そしたら私、タコ焼きでも買ってくる」

「おっ、いいなあ」

 目を細めた文也に笑いかけて、比奈子は隣のテントに行った。タコ焼きコーナーの前の行列についた。ソースの焦げるおいしそうな匂いが漂ってくる。辺りでは相変わらず、花火の打ち上げられる音が続いている。比奈子はくつろいだ気分になって、空を彩る火の花を眺めた。

「比奈ちゃんやないが」

 |耳《みみ》|許《もと》で名前を呼ばれた。振り向くと、後ろにゆかりが立っていた。桜色の薄手のワンピースを着て、若やいで見える。比奈子は顔をほころばせた。

「あら、こんなところで」

 ゆかりは|挨《あい》|拶《さつ》もそこそこに、比奈子のブラウスの袖をひっぱった。

「聞いたで。昨日、文也君と一緒に車に乗っちょったとね」

 比奈子は言葉につまった。それで確信を得たらしい。ゆかりは勝ち誇ったようにいった。

「やっぱりやわ。うちの人が、配達の途中で文也君の車とすれ違うたんやって。きれいな女の人、乗せちょったゆうて聞いて、ピンときたがで。デートやったがかえ」

 神の谷から帰ってくる時だ。昨日の出来事を思い出したくなくて、比奈子はぶっきらぼうに答えた。

「神の谷に連れていってもらっただけよ」

「へええ」ゆかりは、にやにやした。

「ここも、文也君と一緒?」

 比奈子は口ごもりながら、そうだといった。そして隠すことでもないのに、どぎまぎしている自分が腹立たしくなった。

「ゆかりちゃんは? |旦《だん》|那《な》さんと?」

「ううん。うちの人は店番やし、子供はまだ小さいからお義母さんに預けてきたが」

「じゃあ一人で?」

「まあ、そんなとこ」

 ゆかりは素っ気なく答えてから、言い訳がましく付け加えた。

「私やって、たまには息抜きさせてもらわんとね。毎日毎日、店番ながやき。つくづくいやになるわ。比奈ちゃんは東京に住んじょって、おもしろいやろうねぇ。都会やき、刺激がいっぱいあるんやろ」

 比奈子は苦笑して、首を横に振った。

「仕事をしていれば、どこでも同じじゃないかしら。そうそういつも、変わったことなんかありゃしないし……」

 毎日、同じ自宅兼仕事場で寝起きして、仕事をする。ほとんど家から出ていくこともない。会うのも仕事関係の人間ばかり。友人たちは、結婚して家庭に入り、話題も離れてしまっている。『コンビニエンス・フジモト』のレジに座るゆかりと自分と、どう状況が違うというのだろう。違うのは、環境だけ。東京では、山並みがビルでできていて、川は道路でできている。

 しかし、ゆかりは比奈子の言葉を信じたようではなかった。

「一度、都会で暮らしてみたいちや」

 彼女は夢見るようにいった。比奈子が、そんなにいいものではないと答えようとした時、威勢のいい声が聞こえた。

「はい、お待たせっ!」

 比奈子の順番がきていた。慌ててタコ焼き一折を頼んで、屋台の男を見ると、見覚えのある顔だった。名前を思い出す前に、後ろのゆかりが叫んだ。

「忠志君やない。こんなところで、何しゆうがぁ」

 同窓会にも来ていた片田忠志だった。首からタオルをかけ、Tシャツを汗で|濡《ぬ》らせて働いていた。忠志は、器用な手つきでタコ焼きをひっくり返しながらいった。

「どうもこうも。俺、北野のスーパーに勤めゆうやろ。職場の者に手伝えいわれて、いやいややらされゆうがや」

 横で、缶ジュースを氷水の中に入れていた角刈りの男が忠志の背中をどやした。

「文句あるかや。後でビール飲み放題ゆうたら、ほいほい来たくせに」

 同じテントの中の仲間から笑い声が起こった。比奈子も笑いながら代金を払って、タコ焼きを受け取った。そして、ゆかりに声をかけようとして振り向いた。ゆかりは、人込みの中の誰かに合図しているところだった。その視線の先を見ると、君彦がいた。派手なアロハシャツを着て、半ズボンのポケットに手を突っこんでいる。君彦も一人のようだった。

「君彦君と来たの?」

 比奈子の声に、ゆかりはぎくりとしたように顔を向けた。

「いやや。違うわ。今、そこで会うただけやき。忠志君、タコ焼きひとつちょうだい」

 ゆかりはタコ焼きを買うと、比奈子に、またね、といって、そそくさとテントを離れ、君彦のいる方向に消えていった。

 比奈子はタコ焼きを抱えて、文也を探した。彼は少し離れたところで手を振っていた。比奈子は人の間を抜けて、文也のほうに歩いていった。

 文也は片手に二本の缶ビールを持って、比奈子をジャングルジムの前に連れていった。

「ここからなら、よく見えると思うよ」

「特等席ね」

 二人はジャングルジムの一番上に登って、花火を眺めながら、タコ焼きをつまみ、ビールを飲んだ。夜空に|炸《さく》|裂《れつ》する光の下に北野町が浮かび上がる。

「昔は矢狗村でも花火大会をしたのにな」

「あっ、覚えてるわ。やっぱり学校の校庭でやっていたわ」

 打ち上げが十本も上がったらおしまいの小さな花火大会だった。それでも村人はみんな楽しみにしていたものだ。文也は、あの花火大会はもう十年はやっていない、といった。

「費用がかかるんだ。役場でも何度か花火大会を復活させるように議案が出されたけど、いつも予算がとれないってことでおしまいさ」

「確かにね。ひと晩でなくなってしまうお金だものね。考えてみると、つくづく人間って無駄なことが好きなんだと思うわ」

 文也は肩をすくめた。

「人生、無駄なことばかりさ。何に時間を費やそうと、結局、人は死んでいく。すべては無になる。これ以上に無駄なことはない」

「そんなふうに考えちゃいけないわ」

 比奈子は文也に顔を向けた。

「花火は無駄かもしれない。だけど、きれいだったって気持ちは残る。無駄って、決して悪いことばかりじゃないわ」

 文也が|微笑《ほ ほ え》んだ。比奈子は口を|噤《つぐ》んだ。青春ドラマの|台詞《せりふ》のような言葉だったと思って、我ながら恥ずかしくなった。文也は缶ビールを膝の上に置いたまま、静かにいった。

「比奈ちゃんのそんないい方、好きだよ」

 優しさのこもった声だった。比奈子は、顔を赤らめた。

「矢狗村には、いつまでいるの?」

 文也が聞いた。比奈子は缶ビールを握りしめた。

「まだ決めてないの。少し、ゆっくりしてから東京に帰りたいと思ってるわ。せっかくだから、あちこち見て回りたいし……」

「よかったら、連れていってあげようか。車があると便利だろ」

「ほんと?」比奈子は目を輝かせた。

「あさっての日曜日はどうかな」

「せっかくの休みなのに……」

「いいさ。どうせ、ぶらぶらしている身なんだ。朝からドライブすれば、けっこう見て回れるよ」

 文也と二人でドライブ。考えただけで心が騒いだ。

「どこに連れていってくれるの」

「考えとくよ」

「びっくりツアーね」

 二人は笑みを交わした。

 ドーン。花火の音がした。比奈子は大輪の光の花が拡がる夜空を見上げながら思った。あさってドライブに行ったら、また誰かに見られて|噂《うわさ》をされるだろう。私はそれでもかまわない。

 文也のひきしまった横顔が浮かび上がった。大人になって、彼とこうして隣合せで花火を見る日がこようとは想像もしなかった。しかもジャングルジムの上で。

 ジャングルジムのお姫さまごっこ。小さい頃は侍女でしかなかったけれども、今、自分はこうしてジャングルジムのてっぺんの、お姫さまの席にいる。隣にいるのは文也だ。

 大人になるのは、悪いことではない。子供の時には夢でしかなかったことが、現実のものとなることもある。自分は、もっと違う夢を見てもいいのではないだろうか。透との破れた夢は投げ棄てて、新しい夢を追いかけるのだ。

 花火大会は終わりに近づいていた。体を揺さぶるような|轟《ごう》|音《おん》をたてて、次々に大型の花火が打ち上げられる。仁淀川の川面がきらきらと輝いている。そういえば、シンデレラ物語の最後は、結婚式の花火大会だった。赤や緑に染まった夜空を眺める比奈子の胸に、淡い幸福感が広がっていった。

 星がまたたいていた。漆黒の森林が空を覆っている。男は小さな地蔵堂の軒下に座り、冷えた弁当を食べていた。昼に立ち寄った岩本寺の門前で買ったものだった。

 男は弁当に入っていた|鶏《とり》の空揚げを、暗い茂みに放りこんだ。油は冷めると胃に悪い。昔は途上のあちこちに遍路宿があった。夜には温かい食べ物にありつけたものだが、今はそんな宿はほとんど消えてしまっている。

 町に降りていって小さな旅館に泊まってもよかった。しかし、そうすることで気持ちの張りが失われるのが怖かった。

 四国巡りには、気力が必要だった。夏場はまだましだが、冬は気をゆるめると体調を崩しかねない。それがもとで途中で野垂れ死にした仲間も多かった。

 村の誰かがお勤めの途中で死ぬと、男の妻は、しばらくふさぎこんでいた。妻は男に幾度か、村から逃げようと|囁《ささや》きもした。子供のいない男が、いつの日かお勤めの途中で死んでしまうのは目に見えていた。実際、そうして村から逃げていく者もいた。

 しかし男は逃げることを考えもしなかった。彼は、お勤めがいやではなかったのだ。何年かに一度、すべてを投げ出して、四国を巡る。先祖の歩いてきた太古の道を、巡るだけを目的として歩きつづける。妻のことも畑仕事も、すべて忘れてひたすら歩く。それは別の世界に入りゆくこと。村で一生を終える定めの男が自由になる時だった。

 私はどうなるのだ。男が村から逃げる意思がないとわかると、妻はよくそういった。今度も無事に帰れるだろうかと不安にさいなまれながら、あんたを待つのはいやだ、と泣いた。もしあんたが死んだら残された自分はどうなるのか。

 だが、そういっていた妻のほうが先に死んでしまった。しかも彼がお勤めに出ている間に。妻の死を思うと、男の|腸《はらわた》をヤットコで挟まれてひきぬかれるような痛みを覚えた。

「すまん」

 男の口から低い声がついてでた。

 その時、|耳《みみ》|許《もと》で誰かが囁いた気がした。彼は、ぎょっとして振り向いた。誰もいなかった。しかし、そこに何かいた。|闇《やみ》の中に漂うものが……。

 闇が揺らめいて、底知れぬ森の茂みがざわざわと音をたてた。男は険しい顔で闇を|睨《にら》みつけた。闇の中のものは少しずつ退いていき、やがて霧のように消えていった。

 男は荒い息を吐いた。背中がじっとりと汗ばんでいる。

 ふと不吉な予感を覚えて、男は慌てて打ち消した。まさか。そんなことが、あるはずがない。祝言の夜、長老が語ったようなことが起こるはずはない。老人の|戯《ざれ》|言《ごと》だ。

 男はすっくと立ち上がった。もう弁当を食べる気にはならなかった。月明かりに照らされて、|仄《ほの》|白《じろ》い夜道が山の中に消えている。男は地蔵堂の軒下から出た。弁当を茂みに捨てると、歩きはじめた。歩かずにはいられなかった。巡るのだ。四国を巡るのだ。心の中で|呟《つぶや》いた。

 遠くで犬の|遠《とお》|吠《ぼ》えが聞こえた。

   3

 蝉が短い命を嘆くように盛んに鳴いていた。真昼の日射しが、|樟《くすのき》の|梢《こずえ》に容赦なく照りつけている。シゲは庭に|筵《むしろ》を敷き、薬草を干していた。げんのしょうこ、せんぶり、いしゃいらず、おおばこ……。

 わざわざ山に行って薬草を|採《と》ってこなくても、今は西洋の薬があることはわかっている。しかしシゲは、結局は自分の手で選んだ薬草がいちばん安心できると思っていた。人のいうことは、心底信用してはいけない。それは彼女が長い人生をかけて確信を重ねてきた金科玉条だった。

 小さい頃、人が死んだらアメリカに行く、と友達に教えられた。アメリカには、地獄や極楽があるのだろうかと不思議に思ったものだった。それを親にいったら、こっぴどく叱られた。死んだら神の谷に行くのだと、シゲの母はいった。娘になって、隣の集落の木山猪太がシゲを好きだといった。それを信じていたら、猪太は森トキにも同じことをいっていたのを知った。北野町の製糸工場に働きに行っている時は、色白になるというクリームを行商人から高い値で買わされた。クリームをいくら塗っても白くならないことに気づいたのは、しばらくしてからだった。

 最大の思い違いは、夫の力馬が結婚する時にいった言葉だった。

「うちは長生きの家系や、苦労はさせんき」

 子種だけさっさと|播《ま》くと、自分は結婚して六年目に死んでしまった。

 人のいうことは信用しない。他人には期待しない。この鉄則のおかげで、シゲは長い人生をさほど落胆せずに過ごしてこられた。息子たちが期待していたほどの出世をしなくても、孫の浩が農業を継がずに北野町の材木会社に勤めるようになっても、こんなものだと思うことができた。

 シゲの現在の立場は恵まれているほうだ。靖造と千鶴子も、浩と里美も、自分を邪険に扱ったりはしない。とはいえ、最初から大事にされることを期待していたわけではなかったから、ありがたい気持ちも薄かった。千鶴子が里美との会話のはしばしに、いかに自分が|姑《しゅうとめ》のことを大切にしているかを匂わせるたびに、そんなにしなくてもいいよ、といいたくなった。千鶴子が、里美も自分を大切にしなくてはいけないと暗に告げているのもわかっていた。千鶴子は、そんな女だ。彼女の親切心は、自分が親切にされたい気持ちの裏返しなのだ。

 シゲ自身は、姑に優しくされた覚えは何ひとつなかったが、姑を立てて暮らしてきた。この家の嫁となった運命を甘受しただけだ。力馬の妻となったことが、彼女の人生を決定してしまったのだ。

 シゲは、せんぶりの黄色く枯れた草を集めてわらしべで縛った。|曾《ひ》|孫《まご》の満がランドセルを背負って庭先に現れた。シゲが、おかえりというと、満はうるさそうに「うん」と答えただけだった。

 満の妙にこまっしゃくれた態度は、シゲの気に入らなかった。あれは姑の血だ。いつも人の欠点ばかり見ていた、|痩《や》せて顔色の悪い、それでいて長生きした姑の血だった。だが、満の顎の張った顔はシゲに似ていた。満の中で、自分の血と姑の血が混じり合っていることが忌まいましかった。

 すべては力馬の妻となったことが原因なのだ。それだけ今の自分の人生に影響を与えた男なのに、夫のことを思い出そうとしても、あまりに記憶はおぼろげた。力馬が死んだのは、半世紀も前。ほとんど忘れてしまっても不思議ではない。九十年近い長い人生で、たかだか六年間、共に暮らしただけの人間。ただひとつ鮮明に覚えているのは、力馬と寝た時のことだ。彼との夜は苦痛以外のなにものでもなかった。力馬は、シゲの苦痛の|呻《うめ》きを悦びの声と信じこみ、さらに性急に挑んできたものだ。竹雄とは、なんと違っていたことか。

 シゲは再び、昔の夢のかけらを集めはじめた。竹雄は彼女に、力馬との間では到底得られなかった満足を与えてくれた。滑らかな肌、すらりと伸びた手足。竹雄は、このあたりではなかなか見かけないような優男だった。時間をかけてシゲの体を|愛《あい》|撫《ぶ》して、お互いの精が尽きるまで|睦《むつ》み合った……。

 風が吹いて、シゲの手許にあったげんのしょうこを鳥の羽のように空に舞い上がらせた。その行方を追って屋根を見上げたシゲは、おや、と思った。

 |母《おも》|家《や》の|鬼瓦《おにがわら》の上に、何かがいた。そのあたりの空気だけが|歪《ゆが》んで見える。水の中に浮かぶ蛙の卵のように、空中でふわふわと半透明な形で漂っていた。

 シゲは目をしばたかせた。もう一度よく見た。何もなかった。生気のない黒い目をむきだしにした鬼瓦が、シゲを睨みつけているだけだ。

 シゲは、また薬草を束ねはじめた。しかし妙に落ち着かなかった。自分の|密《ひそ》やかな思考を誰かに読まれたような気がした。

 再び吹いてきた風が、筵の上の薬草を吹き飛ばしていった。

 役場から家に帰ると、玄関の戸も窓も開けっぱなしになっていた。文也はガレージに車を入れて、母の車も、妹のバイクもないことを確かめた。とすれば、帰っているのは父らしかった。家で日頃車を使っているのは文也と母しかいない。妹は勤め先の北野町の小学校まで、母の車に同乗したりバイクで通ったりしている。父は自転車で農協まで通っていた。

 文也が茶の間に顔を出すと、案の定、父が老眼鏡をかけて新聞を読んでいた。麦茶を入れたコップと、せんべいの袋が|卓袱《ち ゃ ぶ》|台《だい》に置かれている。文也が、ただいまというと、父はちらりと顔を上げて驚いた顔をした。

「えらい早いのう、文也」

「土曜やで、お父さん」

 父は、ああ、と照れたように笑った。

「盆休みが続くと、曜日の感覚がのうなるな」

 文也の父は農協の事務員という仕事によって、その全人格が決定されてしまったような人間だ。帳簿を調べるように新聞を読み、仕事中の禁じられた私語のように言葉を交わす。感情をめったに表に出したことはなかった。しかし不思議なことに、その律せられた態度からは、父の真の穏やかな本質が|滲《にじ》み出ていた。文也は言葉にこそ出さないが、そんな父が好きだった。自己を平穏な生活に埋没させているような人間。彼もまた、似た人生を歩みはじめていたから。

 文也は冷蔵庫を開けて、麦茶の瓶を取り出しながらいった。

「役場に行っても、出てきちょったんは七人じゃった。みんなぁ高校野球を見て暇そうにしよったわ」

「高校野球も、今年は高知は出ちゃあせんき、おもしろうもないやろう」

 父は新聞から目を離さずにぼそぼそと答えた。文也は麦茶のコップを持って、テレビのスイッチをつけた。そして父の前に座ると画面に目をそそいだ。

〈四国最高峰の|石《いし》|鎚《づち》山は夏のハイキング客で賑わっています〉

 昼時の四国のローカルニュースだった。若い女性レポーターがマイクを持って|熊《くま》|笹《ざさ》の生い茂る草原に立っている。背後には、力まかせに岩塊をもぎとったような石鎚山が映っていた。

〈私は今、石鎚山が最もよく見える|瓶《かめ》|ケ《が》|森《もり》に立っています。石鎚山の標高は千九百八十二メートル。今日は少し曇り気味とはいえ、うっすらと頂上が見えます〉

 父が新聞から顔を上げた。

「ほう、石鎚山か」

 文也は懐かしそうにいった。

「そういや昔、お父さんと石鎚山に登ったな」

 父は画面に目をそそいだまま答えた。

「ああ、お山開きの時やろ」

 石鎚山では、七月になると山開きが行われる。全国から集まってきた修験者たちが|法《ほ》|螺《ら》|貝《がい》を吹き鳴らしながら、|麓《ふもと》にある石鎚神社の御神体を山頂に上げるのだ。修験者といっても、年に一度、山開きの時だけ登るという人が多い。父も毎年、白装束に身を包み、修験者の恰好をして参加していた。

 父が何を思ったのか急に文也を山開きに誘ったのは、彼が高校の時だった。おもしろそうだと承知したものの、すぐに自分の考えの甘さを思い知らされた。まず山に行く前の|禊《みそぎ》があった。初夏とはいえまだ冷たい山間の渓流で水ごりをした。何を好きこのんで、こんなことをしなくてはならないのかと、文也は|憮《ぶ》|然《ぜん》としたものだ。しかし体を清めてから白装束に袖を通す時は、さすがに身のひきしまる思いがした。

 そして二人は車で石鎚山の麓まで行き、他の信者たちとともに登りはじめた。山頂に到達するまでに、絶壁に設けられた三ケ所の鎖場を通らないといけない。

 ずしりと重い鉄の鎖を握りしめて、白装束の信者たちが連なって鎖を登っていく。彼の後ろに父がいた。滑りそうになると、父が頭で尻を支えてくれた。その時、彼は父の存在を感じた。おまえが落ちそうになれば、自分がこうして支えてやる。そう語りたがっているように思えた。文也は、父の、そしてその下に連なる大勢の人間の気力に押し上げられるように頂上へ近づいていった。

 彼の下からは、無数の白装束の人々が、ぞろぞろと|這《は》い上がってくる。まるで『|蜘蛛《くも》の糸』のようだ。救いを求めて、地獄から這い上がってくる罪人たち。

「なんまいだ、なんまいだで登りゃんせ

 登れば御殿が近くなる なんまいだ なんまいだ」

 人々のかけ声が山にこだまする。山頂には御神体を納める|祠《ほこら》があった。「御殿」というには、あまりにもささやかだ。そう思った時、文也は空の輝きに気がついた。どこまでも青く、山を抱きこむように広がっていた。「御殿」とは、天かもしれない。鎖をよじ登ってくるのは、天に昇ろうと希求する魂たちだと思った。

 たぶん、その時の印象が強すぎたせいだ。文也は、その後、父とともに石鎚山に登ることはなかった。登りつづければ、自分が天に消えてしまうような気がした。理に合わないことだとは思いはしたが。

 父は今も時折、石鎚山に登っている。

 テレビには、石鎚山の山頂がクローズアップされていた。灰色と緑色の混じったような色だった。文也は身を乗り出した。

 神の谷で見つけた石柱と同じ色のようだった。画面が変わり、石鎚山の麓の|面河《おもご》渓谷が映し出された。やはり緑色の石の上を透明な水が滑り落ちていく。レポーターが、石鎚山から流れ出た水は仁淀川の源流となり、海に流れていくと説明していた。

 あの石柱の岩は、石鎚山から来たものではないだろうか。文也は、ふとそう思った。

「タカさん、石鎚山に一遍登りたかったじゃろにな」

 父が、ぽつんといった。ぼんやりと川の流れを見ていた文也は、タカさんがどうかしたのか、と聞き返した。父は、康鷹が事故に遇ったのは石鎚山に行く途中だったと答えた。文也には初耳だった。

「日浦の家で碁をしている時やった。急にタカさんが石鎚山の行き方を聞いてきたがや。明日、登りたいゆうことやった。日曜まで待ってくれるなら、わしがついていっちゃるゆうたに、タカさんは急いじゅうみたいやった。ほんで次の日、一人で行きよったがじゃ」

 父は、|昏《こん》|睡《すい》状態の康鷹を思いやってか、暗い顔つきで言葉を切った。文也には、父と康鷹が碁をしている様子がありありと思い出された。

 碁に興じている父を迎えに日浦家に行くのは、妹の役目だった。時に文也が遣わされると、照子が上品な声で「今日は文也君かね。ごくろうさまやね」と笑いかけたものだ。勝負の途中で行き合わせたら、文也は決着がつくまで待つはめになった。

 父と康鷹は碁盤を挟んで、黙って向かい合っていた。父の表情からは、勝っているのか負けているのかわからなかったが、康鷹はすぐわかった。負けていると、親指と人差し指で鼻を上下から押さえこむようにして|揉《も》むのが癖だった。人差し指を見ているのか、寄り目がちになっていた。いつもは柔和な人なのに、考えこむ時の|眉《み》|間《けん》に|皺《しわ》を寄せた表情が少し怖かった。

 文也は、生温かくなった麦茶の入ったコップをいじりながら聞いた。

「それ、『四国の古代文化』を出した後やったがやろ」

「あの本なぁ」

 父は顔を曇らせた。

「莎代里ちゃんが|亡《の》うなって、ひがちになって仕上げよった。碁をしゆう間も、びっしりそのことをゆうもんやき、閉口したわ。本を出版したら、ちくとは落ち着くと思うちょったに、あんなことになってしもうて。あの男も気の毒なやつじゃ。植物人間には世話はいらんみたいに思われて、病院に入れられっぱなし。照子さんも遍路にばっかり行かんと、もっとそばにおっちゃりゃええに」

 珍しく父の言葉には非難がこもっていた。むりもなかった。昏睡状態になった康鷹に、日浦の家は冷たかった。養子が本家に世話をかけて、酒屋も|潰《つぶ》してしまったというふうにとられていた。妻の照子は四国遍路に出て不在がち、日浦の|親《しん》|戚《せき》の者たちが見舞いに行くこともなかった。なにかと世話をしてきたのは、康鷹の実家の縁者だった。

 家の外で車のエンジンの音がした。父と文也は顔を見合わせた。

「春代が帰ってきたかな」

 母は、土曜日の昼は北野町の店から食事を作りに帰ってくる。すぐに玄関から母の威勢のいい声が聞こえた。

「ただいまーっ」

 母が買物包みを抱えて茶の間に入ってきた。

「いやーっ、ごめんごめん、遅うなって。お客さんが、なかなか帰らんで。お腹空いたやろ。今、お昼ご飯、作るき」

 母は包みの中からスーパーで買いこんできた|惣《そう》|菜《ざい》を取り出した。今日の出来事を機関銃のように連発しつつ、昼食の用意に入る。父は母の話を聞き流しながら、また老眼鏡をかけて新聞を読みはじめた。

 文也は立ち上がって、廊下に出た。二階に上がろうとした時、電話が目に入った。比奈子は家にいるだろうか。そう思うと、無性に比奈子に会いたくなった。しかし、昨夜、会ったばかりだ。今日も誘うのはかっこ悪い。階段を二、三段上がった。が、その足が止まった。彼はひき返すと、考える前に受話器を取った。これまで森田の家だった番号を回す。三回目の呼び出し音で、比奈子の声がした。

「あ、僕やけど」

 文也は年がいもなくどぎまぎしながらいった。比奈子が明るい声で昨日の礼をいった。そして、役場ではないのか、と聞いてきた。

「土曜日だから、半日でおしまいなんだ。もう家に帰ったところ。あの……比奈ちゃん、もし午後、空いてるなら、どこか行ってもいいかなと思って」

 比奈子は残念そうに、午後はプロパンガスの交換にガス屋が来るので待っていないといけないのだと答えた。

「でも、夕方なら大丈夫よ。それからでよければ」

「いいよ。夕方なら涼しいしね。何時に迎えに行こうか」

「五時だったら確実だわ」

「いいよ。五時にね」

 電話を切った時、背中で声がした。

「今日もデート、お兄ちゃん?」

 いつの間に帰ったのか、妹の公香が玄関から彼を見ていた。文也は、ぶっきらぼうに友達と会うだけだと答えた。

「女の友達でしょ」

 公香は、にやにや笑いながらいった。

「今度は長続きするといいね」

 文也は|拳《げん》|固《こ》で妹をぶつ真似をして、階段を駆け上がった。心が浮き立っているのがわかった。部屋の|襖《ふすま》を開けて部屋に入った。

 そのとたん、湿った空気の塊が、彼をめがけて押し出されてきた。まるで手足をからめるように、体にまとわりついてくる。息苦しさに襲われて、文也は顔をしかめた。

 急いでブラインドを上げ、窓を開け放した。夏の日射しと、暑い空気が部屋に流れこんできた。ステレオのスイッチを押すと、音楽テープが回りはじめた。部屋は、夏の家らしい暖かな空気と、軽快な調べに満たされていく。文也はポップス音楽に合わせてハミングしながら、服を着替えはじめた。さっき感じた不快感のことは、すぐに意識から滑り落ちていった。

 病室に入ると、誰かの低い声が聞こえた。智子は部屋を見回した。

 窓際のベッドにかがみこむようにして、一人の女が座っている。|硝子《ガラス》窓の向こうの夕焼けに照らされ、女の横顔も赤く染まっていた。智子の顔が嫌悪に|歪《ゆが》んだ。

 康鷹の妻、照子だった。月に一度くらいやってきては、康鷹に何やら|喋《しゃべ》りかけて帰っていく。まるで康鷹が自分のものであるかのように独り占めする彼女の態度が、智子には気に入らなかった。康鷹の世話をしてきたのは、この自分だ。彼の体を洗い、髭を|剃《そ》り、糞や尿の始末もしてきた。彼女以上に、彼の体の隅々まで知り尽くしているのだ。

 智子は照子を無視して、他の患者たちの様子から見ていった。照子の声がきれぎれに聞こえる。

「莎代里が……怒りよった……あっちで……止めるゆうて。あんた、なんで娘を……」

 照子が夫の|耳《みみ》|許《もと》で喋るのは、莎代里とかいう死んだ娘のことばかりだ。意識を取り戻してくれとか、元気になってくれといった言葉は聞いたことがない。

「すみません。検査しますんで」

 智子は照子に断って、康鷹のリンゲルの残量を確かめた。照子は看護婦が聞いていることに|頓着《とんちゃく》せず、愚痴をいいつづける。

「あんたが何ゆうても、もう遅いですき。莎代里は帰ってきたきね。今に、体も元の通りになる。これで日浦の血も続いていける。あんたも日浦の人間なら喜んでくださいや」

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