康鷹は口を半開きにして、天井を見つめているだけだ。智子は、照子の言葉を聞きながら、彼女が狂っていると確信した。|親《しん》|戚《せき》の者は気がついているのだろうか。今度、担当の森本医師に、このことを告げておこうと心に決めた。
智子は康鷹のシーツをめくり、床擦れしないように体を動かした。そしてわざとらしく病院の寝巻をめくって、おもらしをしていないか確かめた。照子はいやな顔をして|椅《い》|子《す》から立ち上がった。
「また来るけど、くれぐれも、莎代里の邪魔はせんでくださいね」
照子は病室を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、智子は、康鷹が|昏《こん》|睡《すい》状態でいられるのは幸せなのかもしれないと思った。少なくても、気のふれた妻のことを知らないでいられる。
窓で、かすかな音がした。見ると、大きな|蛾《が》が窓硝子にぶつかっている。外はもう暗くなっていた。山際に朱色の夕焼けの残光が一筋、輝いている。茶色の蛾が病室の明るさに焦がれるように、|執《しつ》|拗《よう》に|夕《ゆう》|闇《やみ》の中からたち現れ、窓硝子を全身で叩きつづけていた。
智子は白いカーテンをひいた。夕焼けの残光も茶色の蛾も、カーテンの背後に消えた。智子はベッドに横たわる康鷹を優しい目で見つめた。そしてシーツの中に手を突っこんで、康鷹の股間に手を滑らせていった。
「今日はどうもありがとう。楽しかったわ」
「じゃあ、また明日」
文也の車が方向転換して坂道を降りていった。比奈子は家の門を入った。夜の中に、平屋の小さな家が黒く浮かび上がっている。矢狗村に帰って五日が過ぎていた。最初は少しよそよそしかったこの家も、今ではとても親しげに見える。比奈子は、心の中でただいま、といいながら玄関の|鍵《かぎ》を開けた。
夕食は、文也と一緒に北野町の和食屋ですませてきた。比奈子は服を着替えて、風呂場に行った。浴槽を洗い、水を入れて湯を沸かす。風呂場の壁に井守が這っていた。最初の頃のように驚くこともなく、窓を開けて外に逃がしてやった。東京の生活も透のことも夢のように遠く思える。五日どころか、もう一か月もこの村にいる気がした。比奈子は満ち足りた気分で、家の戸を次々に開け放っていった。
後で千葉の両親に電話して、こっちの様子を知らせてあげなくてはと思った。矢狗村に帰ってから、文也のことで頭がいっぱいで、両親のことには気が回らなかった。
このまま文也とうまくいくなら、矢狗村で生活するのも悪くはない。この家を改造しよう。東京に事務所を置いて、仕事はここでする。都会と田舎の二重生活。自分に合っているかもしれない。そんな将来を頭に描きながら、縁側の戸を開けた時だった。
みしり。庭先で小さな音がした。比奈子は立ちすくんだ。この前の晩の不気味な音を思い出した。みしり。また音がした。粘つくような夜気が漂っている。比奈子の全身から汗が吹き出した。庭木の間から、白っぽい姿が浮かび上がった。
「比奈ちゃん……」
か細い女の声がした。比奈子は悲鳴をあげた。女が近づいてきた。
「しっ、静かにしてや。私よ」
ゆかりだった。比奈子は驚いて彼女を見た。ひどい|恰《かっ》|好《こう》をしていた。髪は乱れ、口許からは血が流れている。ブラウスの袖は片方破れていた。ゆかりは縁側に腰をおろすと、申し訳なさそうにいった。
「ごめんね、こんなに夜遅う。けど、うちの人に見つからんところゆうたら、比奈ちゃんくしか思い浮かばんかったき」
「何があったの?」
ゆかりは上目遣いに比奈子を見た。
「浮気がばれたが」
比奈子は、花火大会の夜、|人《ひと》|混《ごみ》の向こうに消えていったゆかりと君彦の姿を思い出した。
「君彦君と?」
ゆかりは驚いた顔をした。
「知っちょったん」
比奈子が、あてずっぽうでいったのだと答えると、ゆかりはほっとしたようだった。
「比奈ちゃんにまで|噂《うわさ》が聞こえてきちょったんやったら、たまらんきね」
神経質そうに笑うと、浮気がばれた経過を話した。やはり昨日の花火大会の時の二人の様子を見かけて、ゆかりの夫に告げた者がいたらしい。
「うちの人、私をこじゃんと殴ると、かんかんになって君彦君のとこに乗りこんでいったがやき。君彦君、大丈夫やろか。そうや、比奈ちゃん電話貸してくれん?」
比奈子はゆかりを台所に案内して、電話を指し示した。ゆかりは受話器を取ろうとして、ためらった。
「君彦君の家の人が出たら、取り次いでくれんかもしれん。比奈ちゃん、悪いけど、君彦君、呼び出してくれんやろか」
「私だって警戒されるかもしれないわ」
「大丈夫やき。あんたの東京弁やったら、誰も私と関係あるとは思いやせん。君彦君の家が用心するんは、村の者やも。頼むで、ね」
ゆかりはさっさとダイヤルを回すと、比奈子に受話器を渡した。比奈子は仕方なく、受話器を耳にあてた。君彦の母親らしい年寄りの女が出た。比奈子は自分の名前をいって、君彦を呼んでくれるように頼んだ。母親は少しためらいながらも、息子を呼んだ。比奈子は彼が電話口に出たのを確認して、ゆかりに受話器を渡した。
「君彦君? 私、ゆかりや」
ゆかりが、すがりつくようにいった。比奈子は縁側に出て座った。
下の大野の家から陽気な声が洩れてきていた。昨日、訪ねた時、土曜日には息子や娘たちが帰ってくるといっていたことを思い出した。靖造は子供たちと酒盛りをしながら、騒いでいることだろう。夜の|闇《やみ》にまたたく村の光を眺めながら煙草を吸っていると、ゆかりが台所から出てきた。
「ありがとう。助かったわ」
ゆかりは落ち着きを取り戻していた。台所で洗ったのか、顔の血は消え、髪の毛もみっともなくない程度にまとめられていた。ゆかりは比奈子の隣に座ると、おかしそうにいった。
「うちの人、君彦君のところに怒鳴りこんで、反対に殴り返されたんやって。ええ気味や」
「でも、君彦君の家も大騒ぎになったんでしょう」
「そうみたい。私らのことがばれたんやも。電話口で、奥さんが泣きわめきゆう声が聞こえたわ」
ゆかりは、勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。比奈子は子供時代のことを思い出した。小学生の時、ゆかりは女王だった。クラス委員に選ばれた時、学芸会で主役を演じる時、みんなの先頭に立って行動する時、決まってこんな表情をしたものだ。それは比奈子が決して身につけることのできない表情。人の優位に立ちつづけてきた人間が、幼い時から身につけてきた表情だった。
ゆかりは縁側に投げ出した足をぶらぶらさせながらいった。
「私らのことがはっきりして、かえってよかったがよ。これから二人で大阪に行くことになっちゅうし」
比奈子は驚いて聞いた。
「でも、ゆかりちゃん、子供は?」
「お義母さんが見りゃええわ。結婚したら、子供はいつできるかゆうてせっついて、生まれたら、育て方で文句ばっかり。そんなに子供が好きやったら、自分で育てりゃええがよ」
「でも君彦君だって、奥さんも子供もいるでしょ。二人で大阪に行ったら、かわいそうじゃない」
「あそこの奥さん、君彦君のこと、ほったらかしにして遊び回りゆうがやと。自業自得や。君彦君、私に会うたんびにいいよったわ。私が離婚したら、あんな女とは自分も離婚するゆうて。ほんで大阪で二人で暮らそうって。大阪ゆうたら、おもしろいところやってね。あたしら、そこで暮らすんやわ」
「大阪が、そんなにいいところとは思えないけど」
「比奈ちゃん、東京におるき、そんなこといえるがやわ。この村と比べたら、どこやちおもしろいに決まっちゅう」
「私は矢狗村もいいところだと思うけど……」
突然、ゆかりは比奈子の顔を見据えた。その瞳には怒りが混じっていた。
「あんたに村のことの何がわかるが? ずっと昔に出ていったくせに。莎代里ちゃんもいいよったわ。比奈ちゃんは町に行ったき、もう話はできんゆうて」
鋭い針で心臓を突かれた気がした。
「莎代里ちゃんが? どういうこと?」
ゆかりは、じらすように口を|噤《つぐ》んだまま、比奈子を横目で見た。催促すると、ゆっくりとした口調で話しはじめた。
「中学の時やったわ。逆川のへんを犬を連れて散歩しよったら、莎代里ちゃんと会うたがや。莎代里ちゃん、すごい顔して橋の上で紙を破りよった。手紙やった。封筒にあんたの名前が見えたがよ。私が比奈ちゃんの手紙やないのゆうて聞いたら、莎代里ちゃん、あの目をつり上げて、こうゆうた。比奈ちゃんなんか、もう知らん。お町で絵をはじめたからゆうて、えらそうに、あんたもなんかしたらええやと、人を馬鹿にしちゅうゆうて」
比奈子が最後に出した手紙だった。美術部に入った近況と、莎代里も興味を持てることがあればはじめたらいい、と勧めた手紙だ。しかし莎代里が、そう受け止めていたとは思いもよらなかった。
ゆかりは、比奈子の青ざめた顔から、自分の裸足の爪先に視線を移した。そして爪先をバレリーナのように反らせてみせた。
「あんまり話をせん莎代里ちゃんが、私にそれっぱあゆうたがやき、よっぽど怒っちょったがやね。私、莎代里ちゃんの気持ち、わかったで。自分の子分みたいに思いよった子が、反対に命令するようなこといいだしたら、ショックやも」
言葉を失っている比奈子に、ゆかりは止めを制するようにいった。
「小学校の頃の比奈ちゃん、莎代里ちゃんの金魚の糞みたいやったきね」
心の中で何かががらがらと崩れていった。ゆかりは自分のことを、莎代里の金魚の糞だと思っていたのだ。同級生たちもみんな、同じ考えだったのだろうか。いいえ、それよりも莎代里は? 莎代里も、私のことを付属物にすぎないと思っていたのだろうか。
「ごめんくださーい」
玄関口で男の声がした。
「君彦君やわ」
ゆかりの顔が輝いた。さっきまでの意地悪な表情は、淡雪のように消えていた。
「ほんなら、お世話になったね。比奈ちゃんらも、うもういくようにね」
比奈子が戸惑った顔をすると、ゆかりは片手で軽く彼女の肩を揺さぶった。
「わかっちゅうよ、文也君とのこと」
言葉を失っている比奈子に、ゆかりは無邪気に手を振って庭の暗闇に消えた。門の外で、ぼそぼそと君彦と話す声がして、二人が坂道を降りていく足音が遠ざかっていった。
ゆかりが立ち去っても、比奈子は身じろぎもせずに縁側に座っていた。信じられなかった。信じたくなかった。莎代里が自分を、意のままに動く人形のように思っていたとは。
大野の家から、どっと笑い声が沸き起こった。比奈子にはそれが、自分を|嘲《あざけ》っている声に聞こえた。
4
シゲはつんのめるように歩いていた。夏の盛りの太陽が、ゆるゆると流れる逆川の水面を光らせている。時折、車が通り過ぎる川沿いの道なのに、前方に注意を向けようともせず、ひたすらうつむいていた。うっかり顔を上げるのが怖かった。また、あれを見てしまうことを恐れていた。
つい今しがたのことだった。縁側に座って繕い物をしていると、いつの間にか前に一人の男が立っていた。短く刈りそろえた頭。笑っているような目、しゃくれた鼻。どこか見覚えがあった。シゲは手を止めて、どちらさんじゃね、と尋ねた。しかし男は答えずに、じっと自分を見つめている。
そして……、シゲは思い出した。
篠原竹雄。シゲの愛人だった男。死んだはずの人間だった。
|喉《のど》が急にカラカラになった。思考が縛られたように動きを止めた。
竹雄は、ぞっとするほど冷たい目でシゲを見つめていた。心の底を氷の手で|撫《な》でられた気がした。
そして不意に竹雄は消え失せた。まるで静かな午後の日射しの中に溶けこんでしまったようだった。シゲは繕い物を握りしめたまま、さっきまで竹雄のいた地面を凝視していた。|鶏《にわとり》が真っ赤なトサカを振りながら、ゆっくりと庭を横切っていった。
かつての愛人の凍てついたような目つきは、シゲを不安にさせた。どうして、あれほどの冷たい視線を投げてきたのだろう。その理由を知っているような気がした。しかし思い出そうとしても、頭に霧がかかったようで記憶をたどれない。なにしろ遠い昔のことだった。
きっと竹雄は何かを伝えたかったのだ。自分が忘れてしまったことを。そう思うと、じっとしていられなくなった。繕い物を裁縫箱に放りこむと、縁側から立ち上がった。自分の部屋に戻り、財布をもんぺのポケットに入れると、ゴム草履をつっかけて外に出た。洗濯物を干していた千鶴子が、どこに行くのかと聞いたが、返事もしなかった。そんな余裕はなかった。知らなくてはならないと思った。死者がいいたがっていることを。心のどこかで、やめろという声がしたが、シゲの足は勝手に先へ先へ進んでいた。
逆川沿いに山の手に入っていくと、白壁に囲まれた家が見えてきた。シゲは|手《て》|拭《ぬぐ》いで、吹き出した汗を|拭《ふ》きながら、日浦家のひっそりした庭に入っていった。庭に面した|硝子《ガラス》戸は開いていた。家の中はきれいに掃き清められていて、畳が竹の皮のような色を放っている。シゲは硝子戸に手をかけて、中を|覗《のぞ》きこんだ。昼間だというのに、奥で黒い人影が横になっていた。
「ごめんつかぁさい」
|挨《あい》|拶《さつ》したが人影は動かない。かすかに|鼾《いびき》が聞こえた。シゲは身を乗り出した。
「嘉子さんよ。起きとうぜ」
しかし相手はまだ眠りつづけている。シゲがもう一度、大きな声をあげると、ようやくもぞりと動いた。
「私は照子です。母はとっと前に死んじょりますが」
不満気な声が聞こえた。それでシゲは、また自分が間違えたのを知った。しかし、そんなことはどうでもよかった。日浦の女ならば、誰でもいいことなのだ。
「ちくとお頼みしたいんじゃがね」
照子は、重たげな動作で戸口に出てきた。顔はやつれて土気色だ。つり上がった目だけが異様に輝いている。
「口寄せをお願いしたいんじゃが」
照子は迷惑そうな顔をした。この頃は忙しくて、そんなことはしないのだという。さっきまで居眠りをしていたくせに。シゲは、そういいたいのをこらえた。
「昼間ゆうに死んだ人が出てきたがじゃ。胸がふたふたして、たまらんがやき」
照子のやつれた顔に笑みが浮かんだ。
「そんなんは、びっくりするにようびません。うちの莎代里も夜昼、関係のう出てきよります」
莎代里と聞いて、シゲは戸惑った。どこかで聞いた名だ。記憶の底から、ゆらゆらと女の子の顔が浮かび上がってきた。確か照子の娘だったと思い出した。
「娘さんゆうたら、あんた、とうに亡うなった子じゃろ」
照子の笑みは、ますます広がった。黒く|煤《すす》けた骸骨が笑っているように見えた。
「死んだけど、帰ってきたがです」
「死んだけど……帰ってきたと……」
シゲは|惚《ほう》けたように繰り返した。口に出すだけで不安な気分にさせられた。照子は、視線を遠くにさまよわせて|頷《うなず》いた。
「みんな帰ってくる。死んだ者のことを思い出す者のところに、そのまんまの姿で帰ってくる。そう莎代里はいいよります」
もともと日浦の女たちは、どこか浮世離れしていた。あの世の者を呼び出したり、|祟《たた》りを|祓《はら》ったりできるのだから当然だ。シゲは、照子の言葉はよくわからなかったが、素直に、そうですかね、と答えた。
そしてまた口寄せのことを頼もうとして、はたと思い止まった。日浦の女の口寄せには|依《より》|童《わら》が必要だ。シゲは自分のうかつさに顔をしかめながらいった。
「こりゃいかん。あんたんくにゃ、もう依童になる娘さんがおらんかったがやね。口寄せ、できんはずじゃ」
照子はきっとして答えた。
「莎代里はおります。口寄せはできます」
シゲは驚いて、まさか、といった。それが照子を怒らせたようだった。
「できますゆうに。さあ、上がってください。口寄せ、しちゃります」
照子は強制するようにいいはった。シゲは半信半疑で日浦の家に上がりこんだ。北向きの奥の部屋は、シゲもかつて何度か訪れたことのある祈りごとの場だった。薄暗い六畳の部屋の一面に、祭壇が作られている。御神体の緑がかった石に|注連《しめ》|縄《なわ》が巻かれて、木の祭壇の上に置かれていた。石の両側に供えられた、|榊《さかき》と白い|御《ご》|幣《へい》。家業をやめてからさびれてしまった日浦の家で、この部屋だけは昔と変わりなく保たれていた。
照子は祭壇の前に座ると棚の上の|蝋《ろう》|燭《そく》に火をつけて、シゲに聞いた。
「呼び出す人のお名前は?」
シゲは口ごもりながら、篠原竹雄の名前をいった。照子が竹雄とのことを知っているはずはないと思いながらも、かつての愛人を呼び出すことへの後ろめたさを覚えた。しかし、照子は誰とも聞かずに頷いた。
日浦の女は、口が堅いことで信頼を得ていた。昔から矢狗村の女たちは、寺には相談に行けないようなことがあると、日浦の家の戸を叩いた。公にできない関係でできた子を|闇《やみ》に葬った時、自分を恨んで誰かが死んだ時、他人を|呪《のろ》いたい時、日浦の家では、誰にも知られずに死者の霊をなだめたり他人に崇ったりできた。寺が死者への明るい祈りの場なら、日浦の家は死者への暗い祈りの場だった。
照子はしばらく祭壇に向かって合掌すると、シゲを部屋の隅に下がらせた。
「依童のおる場所を空けてください」
シゲは部屋を見回して、どこに依童がいるのか、と開いた。
「なにいいよりますかね、大野さん。そこにちゃんとおりますぞね」
照子は部屋の中央を指さした。しかしシゲには何も見えなかった。シゲは心の中で、照子に口寄せを頼みに来たのを後悔しはじめた。ずいぶん長いこと口寄せなぞ頼んだことはなかった。照子は、自分を適当にあしらうつもりかもしれない。
照子は祭壇に向かって一礼した。そして低い声で篠原竹雄の名前を十回ほど呼び、出てくるようにと唱えた。次に立ち上がると、部屋の中をぐるぐると左向きに回りはじめた。シゲは隅に座って両手を合わせた。
畳を裸足で擦る音に、榊を振るざわっざわっという音が混ざりこむ。揺れる蝋燭の灯の中で、照子の目は、ひきつれるようにつり上がっていた。額に汗が|滲《にじ》んでいる。部屋の空気が妙に蒸し暑くなった。息をひそめるようにして照子の様子を見ていたシゲは、少しずつ身を乗り出した。部屋の真ん中が、暗くなった気がした。目をこらすと、その暗い部分が人影のように見えた。
ざっざっ。照子は回りつづける。輪の中の人影は、だんだんはっきりとしてきた。正座する少女のようだった。顔形は定かではないが、ほっそりした顔やきゃしゃな肩の線、ちょこんと突き出た膝頭が黒い影のように浮き上がっている。
驚きのあまり口をぽかんと開けているシゲの耳に、低い声が聞こえた。
〈シゲ……シゲ〉
男の声だった。声は影のような少女のほうから流れてくる。シゲは震える声で聞いた。
「た、竹雄さんかぇ」
男の声が、そうだといった。確かに懐かしい竹雄の声だった。シゲが、いうべき言葉を探している間に、再び声が響いた。
〈よう俺を見棄てたな〉
「見棄てた?」
シゲは問い返した。竹雄は何をいいたいのだろうと思った。
〈おまんは俺を棄てて逃げた〉
水の底から聞こえるような竹雄の声が続いた。
〈あの台風の晩に〉
シゲは、ひしゃげた声を洩らした。荒れ狂う風の音を聞いた気がした。滝のように屋根から落ちる雨。じめじめとした炭焼き小屋……。断片的な記憶が脳裏に浮かんでは消えた。それらは少しずつまとまって、ひとつの流れをかたちづくる。忘れていた記憶の流れが|蘇《よみがえ》ってくる。シゲは震えだした。
〈俺はもんてくる。おまんところにもんてきちゃる〉
竹雄の声は、重い空気のように畳の上を|這《は》い、シゲの体を包みこんだ。
〈俺はもんてくるぞ。もんてくる。もんてくる。もんて…〉
「やめりゃーっ」
シゲが輪の中に突進した。足を踏みこんだとたん、依童のもやもやした影はかき消えた。そこには誰もいなかった。シゲは荒い息を吐きながら、蝋燭に照らされた部屋を見回した。さっきまでの暑苦しい空気は失せていた。足の下の畳が|濡《ぬ》れたようにじっとりとしていた。横に立っていた照子が、抑揚のない声で呟いた。
「死んだ者は、今にみんなもんてきます」
照子は満足そうな笑みを浮かべた。
太平洋が銀色の気球の表面のように光っていた。紺のセダンは|横《よこ》|浪《なみ》半島に沿ってカーブを曲がりつづける。カーステレオから流れてくるアメリカン・ポップス。開け放した窓から吹きこんでくる風。ハンドルを握る文也は、ストライプの半袖シャツにジーンズ姿で、小ざっぱりした|恰《かっ》|好《こう》がよく似合っていた。
比奈子は風に髪をなびかせながら、昨夜のことを考えていた。
——比奈ちゃん、莎代里ちゃんの金魚の糞みたいやったきね——
ゆかりの言葉は、|棘《とげ》のように心に突き刺さっていた。そうだとしたら、これまで信じてきた莎代里との友情は、立脚地点からまったく違ったものだったことになる。比奈子は莎代里を対等な友人と信じていたのに、莎代里は自分を子分としか見ていなかったのだ。
ゆかりのいったことが|嘘《うそ》だとは思えなかった。莎代里に出した手紙のことを知っているのが、その証拠だ。あの手紙が莎代里の怒りを買ったとは、考えもしなかった。
「台風がきているんだな」
文也の声が、比奈子の思考をドライブにひき戻した。比奈子が聞き返すと、文也はハンドルから左手を離して海を指さした。
「ほら、海の色がおかしいだろう。台風の影響さ」
見てみると海は暗い青灰色に沈んでいた。遠くの水平線のあたりは、鉛色で縁取られたようになっている。対照的に、空には白い入道雲が|呑《のん》|気《き》な風情で浮かんでいた。
「こんなに晴れているのに、いやだ。お天気、崩れるのかしら」
文也は笑った。
「今日明日に、くるわけじゃないよ。安心していい。まだドライブする時間はたっぷりある」
比奈子は|微笑《ほ ほ え》んだ。毎日のようにデートをするのは、何年ぶりだろう。大学の時につきあった学生と、そんな経験がある。一緒にいないと居ても立ってもいられない気分になって、会いつづけた。しかし、それも一年あまりのつきあいだった。
急に胸に痛みを覚えた。文也との関係も、このまま夏の楽しい思い出として消えていくのだろうか。莎代里が、比奈子を意のままになる付属物だと思っていたように、人の考えはわかりはしない。文也は自分のことをどう思っているのだろう。短い間、帰省しているだけの東京の女。夏を適度に楽しく遊ぶ相手。その程度のものかもしれない。
透とつきあいはじめた時も、最初は会うたびに胸が高鳴った。ところが半年もたたないうちに、彼の浮気癖が露呈した。彼女は怒ったが、それを露わにすることで彼を失うのが怖かった。比奈子が選んだのは、寛大な女を演じることだった。そうやって二人の間のバランスをとろうとするあまり、内部が空洞化していくことには気がつかなかった。
気がついた時には、わずかながらも存在していた純真な恋人関係は消え失せ、恋愛の駆け引き上手な男と、相手の浮気を恋愛のアクセサリーとして受け流す女が残った。駆け引き上手は遊び上手。透と一緒にいて楽しくないことはなかった。しかしそれは空虚な楽しさ。うすっぺらな娯楽。無感動と|馴《な》れ合いより、さらに少し上の段階にすぎなかった。
また同じような結果にならないと、どうしていえるだろう。比奈子は皮肉に思った。
「この先には幕末の志士、|武市《たけち》|瑞《ずい》|山《さん》の銅像があるんだ」
文也がいい終えてすぐに、青銅の像が見えた。
「あの像、最初は別のが建てられてたんだ。ところがそっちはあまりに史実に忠実だったせいか、頭でっかちの三頭身だったらしい。地元の人が、こんなのいやだといいだして、今のかっこいい像に変えたんだってさ」
「本物そっくりというのはだめなのね」
「人間ってのは、むきだしの現実は見たくないらしい」
私だってそうだ。現実から目をそむけている。比奈子は、|喉《のど》|許《もと》まで出かかった言葉をこらえた。
透と定期的に会って寝ることが、愛情の|証《あかし》と信じようとしていた。その内実の空虚さを見つめるのが怖かった。亀の|甲《こう》|羅《ら》の内にひきこもっていた子供の頃とどう違うというのだろう。
バックミラーに自分の顔が映っていた。大きな瞳。鮮やかなルージュをひいた唇。首に巻いた薄手の白いスカーフが風に揺れている。外見はもう愚鈍な亀ではなかった。だけど内面は変わったといえるだろうか。
比奈子は煙草を出して吸いはじめた。文也がわずかに眉をひそめるのがわかった。彼は、私をはすっぱな都会の女と見ているのだろう。彼の嫌いなタイプにちがいないと思った。そしてそう思うことで自虐的な気分を味わった。
「もうちょっとすると浦の内湾が見えてくるよ」
「浦の内? そういえば小学校の時、みんなで先生の実家に遊びに行かなかったっけ。バスに乗って、すごい道を何時間も揺られて。このあたりじゃないの」
文也がハンドルを叩いた。
「そうそう。あれ竹内先生の家。夏休み、泊まりがけで遊びに来いといわれて、みんなで押しかけたんだ。今思うと迷惑だったろうな」
比奈子は声をあげて笑った。
赤いボンネットバスに乗って、海沿いの狭い道路を走った。対向車と出会ったら、ひと騒動だった。車掌がバスから降りて、笛を吹きながら誘導する。窓から外を見ると、波の打ち寄せる海が真下に見えた。今にもタイヤが滑って、海に転落するのじゃないかと生きた心地がしなかった。
「ここが、あの怖い道と同じだとは思えないわね。まるで別の場所みたい」
「僕たちが成長したように、場所も成長したってことだよ」
カーブを曲がった時、前方を白装束の人間が二人、横切っていた。遍路だ。比奈子は白い影のようなその姿を見つめた。遍路に照子の姿が重なった。そして、もう一人。子供のような白い姿……。
文也がブレーキを踏み、体が前につんのめった。普段着の上に白衣をはおった夫婦の遍路が、車には|頓着《とんちゃく》しない様子で道路を横切り終えた。二人は『奥の院入口』という看板のある山の小道へと消えていった。
再び車が走りだすと、比奈子は聞いた。
「このあたり遍路道になっているの」
「うん。この横浪半島を通って足摺岬のほうに向かっているんだ。四国八十八ケ所の多くは、四国の海岸線に沿うように造られている。しかも岬の突端にあったりして難所も多い。今は車や観光バスで回るのが普通だけど、昔はみんな歩いたんだ。その頃のお遍路さんは大変だったろうな」
照子も歩いたのだ。莎代里が蘇ることを願って十五回。逆さに回ったのだ。
文也は、興に乗ったように話しつづけた。
「四国八十八ケ所は、もとは修験者たちが海辺の険しい道を歩いて修行する場だったという説がある。その途上にあった霊場が、今の札所の母体となったんじゃないかといわれている。弘法大師も、八世紀の末頃、この霊場を巡った。それが現在の四国遍路に引き継がれているんだ。ほら、お遍路さんの|菅《すげ》|笠《がさ》に『同行二人』と書かれてるだろ。あれは弘法大師と一緒に歩くっていうことなんだ」
「詳しいのね」
文也はにやりとした。
「昔、興味があって調べたのさ。これでも郷土史家の卵だからね」
そして、ふと真面目な顔になった。
「だけど、弘法大師が修行して歩くよりもずっと前から、四国を巡る遍路道の原型はあったんだよ。大昔から、無数の人間たちが祈りの言葉を唱えながら四国を回りつづけてきたということになる。この島を輪で囲むように右回りにぐるぐると。なんだか結界を作っているみたいだ。右回りっていうことも何か意味があるのかな」
比奈子は|呟《つぶや》いた。
「左回りは、死の国に行く道……」
文也が驚いたように彼女を見た。
「なんだって」
比奈子は指先で口を押さえた。自分でも気がつかないままに言葉が出てきていた。一昨日、照子から聞いた言葉だった。
「ちょっと思い出したの」
文也は、もう一度、比奈子のいったことを聞いてから、考えるようにいった。
「確かにな、おばあちゃんの葬式の時、家族の者で|棺《かん》|桶《おけ》を左回りに巡った覚えがある」
「左回りが死の世界に入っていく方向としたら、右回りは生の方向……」
文也は|頷《うなず》いた。
「四国遍路の道だ。無数の遍路たちが右回りに巡ることで、四国の中に生の結界を作っているのかもしれない。しかし、それで何を遠ざけ、何を守ろうとしているのか……」
かごめかごめ……。みんなで輪になって、ぐるぐると巡る。円環の中に閉じこめられているのは鬼。鬼が不意に顔を上げた。白い顔をした莎代里だった。
バックミラーに映る自分の顔が|歪《ゆが》んでいた。どうして莎代里のことばかり頭に浮かぶのか。
道路脇に大きな表示が見えた。『四国霊場第三十六番|青龍寺《しょうりゅうじ》入口』と書かれている。
「四国遍路の話のついでだ。寄ってみようか」
比奈子は頷いた。気は進まなかったが、いやがる理由も見つからなかった。
車は細い道へと入っていった。小さな集落を抜けると、山際に沿って道が延びている。道には赤い前掛けをつけた地蔵像が並び、その向こうに寺があった。駐車場に車を止めて、文也と比奈子は青龍寺の門をくぐった。白装束の遍路たちが、|金《こん》|剛《ごう》|杖《づえ》をつきながら本堂ヘと続く険しい石段を登り降りしている。
「四国は死霊の住む島か」
文也がぽつんといった。比奈子は、その言葉の響きにぞっとしながら、何のことかと聞き返した。
「いや、タカさん……莎代里ちゃんのお父さんが書いた本を見つけたんだ。それに、そんなことを書いていた。馬鹿げていると思うけど……こうして島全体を死装束のお遍路さんたちが巡りつづけているところは、日本の他の場所にはないんじゃないか。それを思うと、四国は死霊の住む島というのも、あながち|嘘《うそ》じゃないと思えてくるよ」
「莎代里ちゃんのお父さん、そんなこと、考えていたの?」
「ああ」
文也は石段を登りながら、途中まで読んだという『四国の古代文化』の内容をかいつまんで教えてくれた。聞くにつれて、比奈子の心の底で|茫《ぼう》|洋《よう》とした考えが、ひとつにまとまりはじめた。
大野シゲは、神の谷は死んだ者の帰る場所だといった。四国が死霊の島で、その中心は、死者の帰る神の谷。そこで比奈子と文也は、莎代里の声を聞いた……。
「あーっ、やっと着いた」
文也が息をきらせていった。比奈子は、慌てて頭を切り替えた。文也と一緒にいる時は、死者のことなぞ考えたくはない。
山の中腹にある境内には、本堂と大師堂、白山社が並んでいた。辺りには線香の匂いが漂っている。遍路の一団が七、八人並んで経を上げていた。寺に来たのは久しぶりだった。|爽《さわ》やかな空気。奉納された絵馬や、柱や格子窓に|貼《は》りつけられた千社札。祈りを|捧《ささ》げては消えていく遍路たち。境内にいるだけで、心が静まってくる。比奈子と文也は|賽《さい》|銭《せん》を投げて、|鰐《わに》|口《ぐち》を鳴らした。
帰りは石段ではなく、山道を下っていった。肩を寄せ合うようにして歩いていた二人の指先が触れ合い、からまり合った。山の緑が、優しく比奈子と文也を包んでいた。
分かれ道に出た。一本は入口の門の前に出る道だったが、もう一本の細い道はさらに山の奥に消えている。『奥の院へ』という立板が出ていた。さっき車から見た遍路たちが目指していた奥の院に続いているようだった。文也は彼女の顔を見た。
「行ってみる?」
比奈子は頷いた。文也と手をつないで、もっと散歩していたかった。
二人は、木洩れ日の落ちる山の中に入っていった。雑木林の中を上り坂が続いている。坂に沿って小川が流れていた。山道の脇には、風化した岩肌をさらして、地蔵像や墓石が並んでいた。墓石は、遍路の途中、行き倒れた人のものだろう。名前も彫られていない、ただの石を積んだだけの墓標だった。比奈子は痛みのこもった目で墓標を眺め、文也の顔へと視線を移した。そして彼女は足を止めた。文也も比奈子を見つめていた。彼の瞳に比奈子の顔が映っていた。二人の体は胸と胸が触れ合うほどに近づいていた。彼が何かをいいたそうに口を開きかけた。
その時だった。強い風が吹きつけてきて、比奈子の背中を突いた。比奈子は悲鳴をあげて文也にしがみついた。彼の体臭と洗いたてのシャツの匂いがした。しかし、それにうっとりとしたのは|束《つか》の|間《ま》だった。今度は脇腹に突風を感じて、比奈子はよろめいた。
靴底がごろごろした石の上で滑った。比奈子は、そのまま川に倒れこんだ。水しぶきが飛び散った。
「比奈ちゃんっ」
文也が叫んだ。比奈子は、川の中で起き上がろうとした。冷たい水面に両手をついた時、彼女の体が凍りついた。
そこに二つの目が浮かんでいた。つり上がった瞳は、憎悪に燃え、比奈子を刺すように|睨《にら》んでいる。すぐ近くのようにも、|遥《はる》か遠くにあるようにも思えた。しかし距離は問題ではなかった。比奈子を殺すほどの強い憎しみは、痛いほど身近に感じられた。
それは莎代里の目、|嫉《しっ》|妬《と》に燃えた少女の目だった。
「比奈ちゃん、どうしたんだ」
文也の手が、彼女を揺さぶった。比奈子は、はっとして顔を上げた。
「め、目が……」といいながら、恐るおそる川面に視線を戻した。そこにあったのは、黒い石だった。ちょうど人の目のように横に二つ並んでいた。
石を見間違えただけだったのだ。比奈子はそう思おうとした。だが、彼女の心の中で声がした。莎代里は、文也が好きだった。だから怒っているのだ。文也を奪おうとしている自分に、殺したいほどの憎悪をぶつけているのだと。