「|風邪《かぜ》ひくよ。さあ立って」
文也が彼女の手をひっぱり上げた。比奈子は文也に助けられて、川から上がった。|足《あし》|許《もと》に水が滴り落ちた。さっきの突風が嘘のように、山は静まりかえっていた。
比奈子は彼の胸に顔を埋めた。体が震えていた。|怯《おび》えと安心感のないまぜになった感覚だった。
「あれ……莎代里ちゃんよ」
文也が驚いた顔で比奈子を見た。
「川底に目を見たわ。莎代里ちゃんの目よ」
「馬鹿なことをいうなよ」
比奈子は彼の胸から体を離した。
「ここにいるのよ。私たちのそばに。わかってるでしょ。神の谷でもそうだった。莎代里ちゃんの声だったわ。莎代里ちゃんが歌ってた」
「空耳だよ。莎代里は死んだんだ」
「じゃあ、さっきの風はなんだったの。突然吹いてきたのは普通じゃないわ」
比奈子の語調が荒くなった。
文也は固い口調で答えた。
「風くらい、いつでも吹く。いちいちそんなことに|怯《おび》えるなよ」
比奈子は、彼をまじまじと見た。その顔は感情を殺した仮面のようだった。不意に彼との間に、そそり立つ壁が出現した気がした。
「どうして認めないの。神の谷のことも、今のことも。ただごとじゃないわ、わかるでしょ」
文也は彼女から顔をそむけた。
「ただの風だ」
文也の声は、氷でできているかのように冷たく響いた。さっきまでの温かな感情は、どこかに消え失せていた。
比奈子はうつむいてスカートの裾を絞りはじめた。水滴が涙のように草の間に落ちていった。
遠くで波の砕ける音がした。男は足を止めて、耳を澄ませた。椿林の奥から潮風が吹いてくる。目には見えないが、果てしなく広がる太平洋を感じて、彼はふと怖くなった。
四国の最南端、足摺岬。つやつやと照り輝く椿の葉が岬全体を覆っていた。ここまで来ると、四国巡りの旅は半分を過ぎたことになる。椿林の上には、金剛福寺の塔の相輪がすっくと立っている。男は相輪を仰ぎながら足を進めた。椿林の中に作られた散歩道は、岬全体に広がっている。平日だというのに、あちこちで観光客とすれ違った。腕を組んで、仲がよさそうに歩く若い新婚連れを見て、男は、かつて妻と一緒に足摺岬に来たことを思い出した。
あれは結婚して何年か過ぎた頃だった。冬だったことは確かだ。妻が近所の誰からか、足摺岬のことを聞いてきた。冬の寒さの厳しい男の村とは違い、足摺岬は暖かいのだと。妻は、そこに行ってゆっくりしたいといいだした。
お勤めで何度か訪れたことのある足摺岬だったが、男も行っていいという気になった。そして二泊三日の旅行をした。車も持っていない夫婦だった。列車とバスを乗り継いでの長旅となった。|気《き》|根《こん》を垂らして海を見下ろしている溶樹や、扇子のような葉を広げた|蒲《び》|葵《ろう》。今まで見たこともなかった南方の植物をバスの窓から眺めながら、妻がしみじみといったのを覚えている。あんたは、こんな広い四国を歩いて回っているのかと。
それから妻は、男がお勤めに出る前になると、以前にも増していいつのるようになった。あんたがいなくなったら、私はどうすればいいのか。男は、妻の|焦燥《しょうそう》から逃げるように、村を後にした。
今思えば、もっと妻を旅に連れ出してやればよかった。お勤めという運命にがんじがらめにされたあの村を離れて、もっと妻と二人だけの時間をもてばよかった。妻が、村から出たことは数えるほどしかない。同じ景色、同じ四季を眺めながら死ぬまで暮らし、生きていたと同じ場所に埋葬された。
男は腹立たしげな表情を浮かべて、目の前の椿の枝を払った。駐車場が現れた。男は車の間を通って道路を渡ると、『四国霊場第三十八番金剛福寺』という札のかかった朱塗りの山門をくぐった。石段を登って、広い境内に足を踏み入れる。普段着の上にかたちばかりに白の上衣をはおった家族連れ、ヘルメットを抱えたバイク旅行の途中らしい若者、団体旅行の遍路たちが行き来している。境内の雑踏に気疲れを覚えて、男は近くのベンチに腰をおろした。
昔と比べて体力が落ちていた。むりもない。男の父は、彼の年でお勤めをやめた。
「ここ、かまいませんかね」
目の前に初老の女が立っていた。男は黙ってベンチの端に体を寄せた。小さな格子模様のワンピースを着た女は、首からカメラを下げた夫を呼んで、仲よく腰かけた。
「ここの寺は昔、|補《ふ》|陀《だ》|洛《らく》|渡《と》|海《かい》ゆうががあったところなんじゃと。えらい坊さんになると、外に出られんようにした船に乗って、海に流してもろうたんやと」
夫が、寺の説明書らしいものを広げて妻に聞かせていた。
「ほんなら自殺やないの」
「自殺やないち。そうやって極楽浄土に行くがや」
「あたしゃ、飢え死にしてまで極楽に行きたいとは思わんが」
「おまさんは極楽には行けそうもない」
夫があきれたように笑った。男はその笑い声から逃げるように、ベンチから立った。
境内を横切って、奥の院に続く小道に入ると、そこは静寂に包まれた別世界だ。緑に圧倒されるような亜熱帯の林が続く。ここまで入ってくる遍路の者はほとんどいない。
茂みをかきわけて歩きながら、男の心の中に複雑な思いが|湧《わ》き上がっていた。
あの夫婦のような人生もあったはずだ。歳をとるとカメラやビデオを手にして、妻と一緒に四国八十八ケ所を物見遊山がてら回る。その人生においては、お勤めの最中に妻が死ぬこともなかっただろうし、子供も生きていたはずだ。男の日に焼けた顔に苦しげな表情が浮かんで、ゆっくりと皮膚の中に沈んでいった。
あの村に生まれさえしなければ、妻はあんなことで死ぬことはなかった。少なくとも妻か子供か、どちらかが助かっていた。設備の整った病院に担ぎこまれていたら、二人とも、命をとりとめたかもしれない。いくら歳をとってからの初産だったとはいえ、あのような結果になりはしなかったはずだ。もしも自分がそばにいたなら……。
ふと、何かが男の視界に入った。だらりと垂れた溶樹の気根の間に、白いものがひっかかっている。まるで男に手を振っているように揺れていた。
男は草を踏み分け、近づいていった。それは千切れた白い布だった。男は不吉な予感を覚えながら、溶樹の大木の根元まで進んだ。|屏風《びょうぶ》のようにそそり立つ灰色の根の間に背中をもたせかけ、人間が座っていた。雨風にさらされて、ぼろぼろになった白装束に包まれている。男は立ち止まった。
投げ出された二本の足。がくりと前に倒してうつむいている頭。まるで打ち棄てられた人形のようだ。男はいい知れぬ恐怖を覚えながら、溶樹の木陰に入っていった。
その時、白装束の人間が、むくりと顔を上げた。青ざめて|浮腫《むく》んだ顔。目は暗く落ち|窪《くぼ》んでいる。男は、はっとした。それは同じ村の者。男の前にお勤めに出て、死んだとみなされた者だった。
〈戻れ〉
青ざめた唇が動いて、聞き覚えのある仲間の声が男のところに響いてきた。
〈早う……戻れ……たいへんな……こ……と……〉
最後の言葉は聞きとれなかった。仲間の肉体が煙のようにかたちを崩しはじめた。顔も体も白いもやもやした空気の塊となり、渦巻いていたと思うと、不意に二つに分かれた。そして、ひとつは溶樹の梢から空へ消えていき、もうひとつは黒っぽい土中へと吸いこまれていった。
男は、仲間の名を呼んで、溶樹の根元に飛びこんだ。ぐじゅっ。|草鞋《わらじ》が、軟らかな土の中に沈んだ。強烈な悪臭が鼻をついた。そこには、白骨が|覗《のぞ》く腐乱死体が横たわっていた。鳥や野犬に食われたのだろう。内臓や腕、太股の肉がごっそりとなくなっていた。短い髪の毛がまばらに残った頭蓋骨。肉片がこびりついた大腿骨。地面には無数の|蛆《うじ》が、てらてらと体を光らせながら|這《は》い回っている。
死後、一か月は過ぎているようだった。仲間は、男が来るのを待っていたのだ。彼に先の言葉を伝えるために。伝え終えたから、仲間の霊塊は肉体を離れていったのだ。
男は沈痛な面持ちで、仲間の死体を見下ろした。そして蛆の海に沈んだ骸骨の中から、にょきりと一本、下膊部の骨が突き出ているのに目を留めた。骨は蛆虫の波に押されて、ふらふらと揺れている。その人差し指が、ひとつの方向を指していた。男は白骨の指先の示す方向を見遣った。深い亜熱帯の森林の奥深く。それは、男の村のある方角だった。
5
車の中は|陰《いん》|鬱《うつ》な空気に満ちていた。文也は、助手席の比奈子を横目で見ながら、運転を続けていた。黙りこくった彼女に何といえばいいのか、わからなかった。
青龍寺を出て、気まずい昼食をすませると、比奈子は帰ろうといいだした。文也も反対もせずに帰路についたのだが、心に重い鎖をひきずっているようだった。
自分が悪いのはわかっていた。青龍寺や神の谷で起こったことは、ただの自然現象で片付けるには、あまりにも不可思議だ。それは彼自身、感じていた。だが、これをまともに認めることはできなかった。認めたら、彼のまわりの現実がすべて崩壊していく。認めたら、あの視線も現実となる。
あの視線。
文也は、ハンドルを握りしめた。
そう思っただけで、また見つめられている気がした。
莎代里に——。
莎代里が自分を見つめる視線に気がついたのは、いつの頃だったろうか。中学に入ってから。いや、もっと前だった。誰かに見られているような気がして、あたりを見回すと、そこには、いつも莎代里がいた。校舎の陰から、教室の窓から、運動場の片隅から、理科クラブの部員の群れの中から、その視線は送られてきた。文也は舞台の上の俳優のようだった。常に一人の観客が彼を見ていた。色白の美しい少女の観客。時には、その観客を意識して、友達とふざけ合ったり、ケンカじみたこともした。しかし、ほとんどの場合、照れ臭さもあり、その視線をわざと無視していた。
莎代里は自分のことが好きなのだろうとは思っていたが、そのことを突きつめて考えたことはなかった。それを考えることが怖かったのかもしれない。
あれは中学三年の夏だった。盆祭りの宴席が莎代里の家で催され、文也の一家も招かれた。|皿鉢《さ わ ち》料理が置かれた宴席で、文也は黙々と食べていた。そこに、酒に酔った父の弟の大介|叔父《おじ》がやってきた。からかう相手を探していたらしく、文也の肩に手を回して大声で聞いたものだ。
「大きゅうなったな、文也。どうじゃ、好きな女ぐらいおるやろ」
文也は顔を赤くして、いない、と答えた。
「情けない奴じゃのう。好きな女くらいつくれやねゃ」
叔父は笑い声とともに文也の背中を思いきりどやした。首をすくめるように顔を上げた時、障子の陰から|覗《のぞ》いている娘の白い顔が目に入った。
莎代里だった。心臓を|槌《つち》で打たれた気がした。胸の開いた白のワンビースを着た莎代里は、驚くほど大人びて見えた。その切れ長の目を美しいと思った。しかし文也と視線が合った瞬間、莎代里は顔を伏せてひっこんだ。
その三日後、彼女は逆川で|溺《でき》|死《し》した。思えば、あの盆の宴の席が、生きている莎代里と顔を合わせた最後だった。今でも、あの時の莎代里の顔は鮮明に残っている。障子の陰から文也をじっと見つめていた白い顔を。
文也は、自分の結婚がうまくいかなかったのも、あの視線のせいのような気がしていた。新婚旅行で行ったハワイのワイキキ海岸。ホテルの大きなベッドの上で妻の純子を抱いてキスをした。
その時、視線を感じた。文也は、純子の髪の毛ごしに視線を部屋に走らせた。半開きの大きなドレッサーが目に入った。抱き合った二人の姿が左右の鏡に無数に映っていた。視線は、その淡い緑色の鏡の奥深くから送られてきていた。文也はドレッサーに歩いていき、しっかりと扉を閉ざした。そして再び純子の体をまさぐりはじめた。しかし、どんなに夢中になろうとしても、その夜の文也は妻を満足させることはできなかった。結婚生活に入ってからも、そんな夜が一か月に数回はあった。
もちろん、あの視線が離婚の原因だというのは論理的ではない。破局に至った理由は、離婚カップルのほとんどが口にする、性格の不一致というものだ。彼の時間の流れと、彼女の抱えこんでいる時間の流れが違ったのだ。最初はその差が新鮮だった。純子は、ぷちぷちとはじける醗酵途中の|葡《ぶ》|萄《どう》液のような女だった。文也の腕を取って、ひきずり回して、大きな声で笑って、大きな声で怒った。最初は、その|溢《あふ》れる熱気が好きだった。しかし一緒に暮らしていると、文也はへとへとに疲れてしまった。彼の生きる活力まで、彼女に吸い取られてしまうような気がした。純子が男をつくって、離婚をいいだした時、心のどこかで、ほっとしている自分を感じていた。
もちろん離婚には痛みが伴った。別れる前、純子はその|旺《おう》|盛《せい》な活力でもって文也の欠点を逐一、挙げつらった。
あなたが、つまらない人間だからこうなったのだ。休みといってもドライブするしか能がない。旅行しても、団体旅行のほうがまだ楽しいくらい。何にも感動しないし、いつもぼやっとしてるだけ。自分は、もっと楽しい生活を望んでいたのだ。その夢を破ったのは、あなただ。自分が別の恋人をつくったのも、仕方ないことだ。
何の自己矛盾もなく、自分を正当化してみせて、純子は他の男の|許《もと》に走った。半年後、再婚したと聞いた。しかし二度目の夫も、文也とさして性格が違っているようでもなさそうだと、友人が便りをよこした。文也は苦笑したものだった。それでもまだ離婚したという|噂《うわさ》が聞こえてこないところをみると、うまくいっているらしい。結局、自分と同じタイプに見えても、その男は彼女に合っていたのだろう。
彼女は、自分に合った男を見つけて、新しい人生を歩んでいる。そして自分は、せっかく比奈子という女を見つけたのに、こんなことで失おうとしているのか。
比奈子は、思いつめたように前をじっと見つめている。ふと小さい頃の彼女を思い出した。口を開くことを怖がっているように、いつもこのような緊張した表情をしていた。
「ごめん」
文也はいった。比奈子が驚いた顔をこちらに向けた。
「さっきのこと、僕が悪かった」
比奈子の目許がゆるんだ。
「あんなこと、忘れましょう」
文也は|頷《うなず》いた。車内の空気が少し軽くなった。車は北野町を過ぎ、逆川に沿って|遡《さかのぼ》っていた。比奈子がぽつんと、昨夜、藤本ゆかりが家に訪ねてきたといった。
「君彦君との浮気が、|旦《だん》|那《な》さんにばれたみたい」
文也は目を見開いた。
「そりゃ大変だ。ゆかりの亭主は、気はいいけど、すぐカッとなるたちだし。君彦はあの通り、お調子者だからな」
「大阪に駆け落ちするっていってたわ」
「だけど、お互い子供までいるんだし、そう簡単には事は運ばないだろう」
「ゆかりちゃん、すごく興奮してた。町で暮らすんですって。村の暮らしは、飽きあきしたみたいにいっていたわ」
カーブの向こうに、矢狗村が見えてきた。役場や農協の並ぶ中心地を囲んで、のんびりした田園風景が広がっている。比奈子も、この村での暮らしを退屈だと思っているだろうか。
まるで文也の心を読んだように比奈子がいった。
「私は村の暮らしもいいと思うのにね。東京より、ずっと住みやすそうだわ」
比奈子は真剣な顔で文也を見た。
「私ね、矢狗村に帰ってきてもいいかなと思っているの」
文也は思わず|微笑《ほ ほ え》んだ。
「いい考えだと思うよ」
彼はそういってから、ゆっくりした口調で付け加えた。
「そしたら、もっと会える」
比奈子が|嬉《うれ》しそうに顔を輝かせた。
逆川を渡って、大野の家の横を過ぎ、上り坂を車で上がっていった。比奈子の家の前で止まった。比奈子は助手席から降りようとして、文也の顔を見た。
「寄っていかない?」
|囁《ささや》くようなその声に、文也はどきっとした。まだ午後三時を回ったところだった。比奈子の家に二人きりになることの意味が頭を|過《よぎ》った。そして、いいよ、と答えた。二人は車を降りると、家の門をくぐった。
「やっと帰ってきたか」
庭のほうから声がした。
そこに一人の男が立っていた。ウェーブのかかった髪、均整のとれた中肉中背の体つきだが、腹のあたりがたるみはじめている。目鼻だちのしっかりした顔に銀縁眼鏡をかけ、麻の背広を着ていた。
比奈子は、その場に棒立ちになった。彼女の表情から、文也にはすぐわかった。二人の関係が、友人以上のものであるということが。体の内部が砂と化して、足許にさらさらと落ちていく気がした。
男も、文也に気がついて会釈した。
「比奈子がお世話になってますようで」
「透、黙ってよっ」
比奈子が叫んだ。文也は、東京から来た男にいった。
「僕は小学校時代の友人なんです。べつにお世話なんかしていません」
そして比奈子に硬い口調で告げた。帰る、と。比奈子が今にも泣きそうな顔になった。東京から来た男が愛想よくいった。
「お帰りになることはないですよ。小学校の頃のヒナの話も聞きたいなぁ。彼女、私には子供の頃のこと、話したがらないんですよ」
「いや、お邪魔しちゃ悪いから」
文也はくるりと背を向けた。
「文也君っ」
比奈子の声が聞こえたが、振り向きもせずに車に乗りこんだ。乱暴に車のドアを閉めると、エンジンをかけた。
私の幸福が逃げていく。遠ざかっていく車を見つめながら、比奈子は思った。文也の後を追いかけてひき止めたかった。しかし何と申し開きをすればいいだろう。自分のいいかげんな生き方を白日のもとにさらすだけだ。決着をつけることもできなくて、逃げてばかりの自分の姿を見せつけるだけだ。ますます彼は比奈子を嫌いになるだろう。
透が、うすら笑いを浮かべながら近づいてきていった。
「すごい田舎だな。道できみの家を聞いたらすぐわかった。あの、東京から戻ってきた娘さんの家か、だってさ。狭い村だな」
比奈子は彼の言葉をさえぎった。
「どうして来たの?」
透はむっとした顔になった。
「ご|挨《あい》|拶《さつ》だな。よく来たのひと言でもいってもいいだろう。一週間も仕事を放り出していなくなってりゃ、心配にもなるさ。電話で聞いた高知の矢狗村って場所だけで、探し当てたんだぜ」
来てやったのだという響きがこもっていた。比奈子は、まただと思った。透は、自分より弱い立場の人間に対して、押しつけがましい口調になる。それは彼の態度や口調の底に流れる基調のようなものだった。いつもは他の調べに隠されていてわからないが、耳を澄ますと聞こえてくる。しかし今の比奈子には、ことさら耳を澄まさなくてもよく聞こえた。
「迎えにきてなんて頼みもしなかったわ」
透は、銀縁眼鏡の奥の目を皮肉っぽく光らせた。
「ははあ、俺の浮気の仕返しをしようと思っていたところを邪魔されたんで、ふくれているんだな」
「あなたの浮気とは関係ないことよ」
「いいかげん、機嫌直せよ。あんな遊び程度の女のことで、もめるのはよそう。俺たちの仲とは別の次元のことなんだからさ」
透は過去数々の浮気を通していいつづけてきた言葉をまたも口にした。今回の彼の相手は、モデル志望の娘だった。他の浮気相手と大差ない。歌手志望の娘、ピアノ教師、スナックでアルバイトしている女子大生、スタイリスト……。そのたびにいさかいをしたが、すべてうやむやになってしまった。
「もう終わりにしましょ」
比奈子は思いきっていった。心臓が大きく波打っていた。透が、あきれた顔をした。
「なに急にいいだすんだよ」
「この関係を続けても、何にもならないってことがわかったのよ。あなたは浮気を続けるだろうし、私はそれを許容する大人の女を演じるだけ。無意味よ」
透が意見をさしはさもうと、口を開きかけた。比奈子は彼にものをいう|隙《すき》を与えずに、早口で続けた。
「五年つきあったけど、私たちの仲はいつも同じ。同じ距離で、お互いの手を汚さずに向き合っている。これから先、何年たっても同じだわ」
透はにやりとして、比奈子の顔を見た。
「結婚したいんだろう」
「結婚?」
「そうとも。きみが結婚したがっていたのはわかっていた。今の状態じゃいやになったんだ。俺もべつに結婚をしないってわけじゃない。時期をみていただけなんだ」
比奈子は、透を嫌悪感を持って眺めた。確かに比奈子は結婚を望んでいた。しかし、いつものらりくらりとはぐらかされていた。それを今になって伝家の宝刀のように持ち出してくる。男にとって結婚とは女をつかまえる最後の切り札で、女はそれを出されたら、常にありがたがって拝受するものと決めてかかっている。
「結婚しても何も変わらないわ」
比奈子は大きな声をあげた。
「私たちの関係は、とうの昔に終わっていたのよ。終わっていたのに、続けていただけ」
終わっていたのに、やめはしなかった。彼との関係が何も生み出さないと同じように、二人の関係を断ち切っても失うものも得るものもない。続けても続けなくても同じなら、続けていてもいいだろうと思ったのだ。恋人の存在は、いないよりいたほうがいいし、セックスもないよりあったほうがいい。|曖《あい》|昧《まい》なままここまできた。ところがどうだ。真面目に恋愛をしようとしたとたん、手痛いしっぺ返しを受けてしまった。身から出た|錆《さび》。もうこれ以上、愚かなことを重ねたくはない。
比奈子は玄関の|鍵《かぎ》を開けると、中に入った。透が旅行バッグを持って、格子戸の内に滑りこんできた。比奈子は彼のふやけたような白い顔を|睨《にら》みつけた。この男はこうして私の中に入ってきたのだ。心の扉の隙間から、|爬虫類《はちゅうるい》のようにぬるりと体を滑りこませてきた。それを受け入れた私の体は、彼の巣のひとつになってしまった。
比奈子はまっすぐ台所に行くと、電話帳をめくって北野町のタクシー会社を調べた。
「だだをこねるのはよせよ。終わっただなんて、俺は思ってない。きみもそんなこと考えてもいないだろ。わざわざこっちから、俺のところに電話なんかしてきてさ。声が聞きたいなんていったから、迎えに来たんだぜ。いったい何の文句があるんだ」
透は台所の|椅《い》|子《す》に勝手に腰をかけると、彼女に話しかけた。比奈子はダイヤルを回して、タクシーを一台頼んだ。矢狗村の明神では通じなかったが、大野の家の上だというとすぐにわかったようだった。電話を切って、車が二十分ほどで着くと告げると、透はほっとした顔をした。
「助かった。こんな村に長居したくないからな。今夜は高知市内あたりに泊まって、明日は町を案内してくれよ。それで明日の夜の便で東京に戻ろう」
「帰るのは、あなただけよ」
比奈子は透のバッグを持つと、玄関に行って、ドンと床の上に置いた。
「私の家から出ていって」
透は、彼女をあやすようにいった。
「なあヒナ、下手な意地の張り合いはやめよう。きみには俺が必要だし、俺にもきみが必要だ。今回のことは確かに俺が悪かった。許してくれ」
透が彼女に近づいてきてキスをしようとした。比奈子は彼を押し返した。彼はまだにやにやしながら続けた。
「意地っ張りだなぁ。だけど、そんなところが好きだよ」
透は、比奈子の良さを数えあげた。そして、こんなに彼女を認めている自分との関係を終わらせようとするのは馬鹿げているといった。東京に戻ったら、今度こそきちんと考えよう。一緒に暮らしてもいい。そうしたら比奈子も安心するだろう。
比奈子は耳をふさぎたくなった。
透は、人を説得することにたけていた。彼と話し合えば、自分がまるめこまれるのは目に見えていた。これまでもそうだった。話して、わかり合おうとすればするほど、甘ったるい香りを放つ彼の論理の中で迷ってしまった。やがてその甘い匂いに頭が|痺《しび》れ、どうでもよくなってしまう。そんなことは、もうたくさんだった。わかっているのは、同じ場所にいつまでもいたくないということ。比奈子は、透のバッグを玄関の外に投げ出した。バッグは土の上を転がった。
「なにするんだっ」
透は声を荒げた。
「帰ってといってるのよ」
透の顔が赤くなった。靴を|履《は》くと、大股で玄関から出ていった。
「他の男ができたから、おさらばってわけか。人のことをさんざん利用して、売れっ子になったら、ポイか。怖い女だ」
比奈子は笑いたくなった。そんなテレビドラマのヒロインのような真似ができたら、これほど長く透と関わり合ってはいなかった。
「さよなら」
比奈子は格子戸を閉めようとした。その戸を透が押さえた。
「ここまで来た俺に、そりゃないだろ」
透の顔は、傷ついた自尊心に|歪《ゆが》んでいた。比奈子は心を打たれた。どのような経過であろうと、自分で別れをいいだして、彼を傷つけたのだ。こんなことになると思ったことはなかった。彼が彼女を棄てることはあっても、自分から透との関係を断つ日がくるとは。比奈子は、さよならの言葉をもう一度、|喉《のど》の奥から押し出した。
「おい、ヒナっ」
透が格子戸を押し開けようとした。
「帰って」
力をこめて格子戸を支えた。透の悲鳴があがった。指をつめたようだった。
「こいつぅ」
透は怒りの声をあげて、力まかせに格子戸を押し開けた。戸は一気に開いた。透は右手の指先を左手でもみながら立っていた。その顔は怒りでどす黒く見えた。いつもの冷静そうな様子はかなぐり捨てられていた。全身から湯気のように憤怒が沸き上がっていた。殴られる。比奈子はとっさにそう思った。透が一歩、家に入ろうとした時だった。
プップーッ。門の外で車のクラクションが鳴った。頼んだタクシーだった。運転手が驚いたように、地面に転がっているバッグを見ている。透は比奈子に憎々しげな視線を送ると、玄関から出ていってバッグを拾った。
「後でよりを戻したいといってきても、知らないからな」
|捨《す》て|台詞《ぜりふ》を吐くと、彼は大股でタクシーに乗りこんだ。ドアの閉まる音とともに、車は走り去った。
比奈子は格子戸をゆっくりと閉めた。最後まできっちり閉めると、家に入った。
縁側に座って、煙草に火をつける。白い煙が庭に流れていく。心の中が空っぽになった。何も考えられなかった。煙草の煙を吸い、吐き出す。吸い、吐き出す。吸い……涙が出た。
感情は無感覚なのに涙だけが|溢《あふ》れてくる。比奈子は涙を|拭《ぬぐ》おうともせずに、煙草を吸いつづけた。
〈神の谷は、矢狗村の北にある小さな谷である。不思議と木の生えない場所で、草花の咲き乱れる静かな|山《やま》|間《あい》の地となっている。
この神の谷から|湧《わ》き出た地下水が、村を貫く逆川の源流だ。村の伝承に、死水や墓にかける水は、逆川から|汲《く》んでくるというものがある。このことをみても、死者と逆川、そしてその源流にあたる神の谷とは深い関係があることが|窺《うかが》われよう。
一方、逆川が合流する仁淀川は、古代においては神河と呼ばれていた。神河である仁淀川は、四国最高峰の石鎚山を源としている。石鎚山は日本修験道の開祖|役小角《えんのおづの》が開いた霊峰といわれている。イシヅチとは、古語で石之霊を意味する。まことに石鎚山は、石の霊の宿る山なのである。
石鎚山付近では、縄文時代前期の上黒岩岩陰遺跡も発見されている。また、その近くに「二名」という地名がある。私は、この地こそ古事記において四国を意味する「伊豫之二名嶋」の発祥の地とみている。以上のことから石鎚山一帯は、古来より四国の聖域だったと推測するのである〉
寒気を覚えて、文也は腕をさすった。日浦康鷹の『四国の古代文化』を伏せて、ベッドから起き上がると、押入れから毛布を出して被った。深夜だった。網戸の外では、矢狗村が月明かりを浴びて寝静まっている。
夜とはいえ、夏のさなかだ。寒いのは変だった。電気を|煌《こう》|々《こう》とつけているのに、部屋も妙に暗い。ネジがゆるんで傾いたブラインド。しわくちゃのベッドカバー。|埃《ほこり》の積もった本類。部屋の中は生気がなく、死んだように見える。その雰囲気は、今の彼の気持ちにあまりにも合っていた。
——私ね、矢狗村に帰ってきてもいいかなと思っているの——
比奈子の声が|蘇《よみがえ》り、胃がきりきりと絞り上げられる気がした。
|大《おお》|嘘《うそ》だったのだ。真剣に矢狗村に帰ってくる気なぞなかったのだ。彼女にとっては、夏の遊び相手。浮かれてデートを重ねた自分を思い出して、屈辱感が湧いてきた。
比奈子のことは忘れるのだ。これまで関係なかったように、これからも関係ないのだ。彼女は、東京という別世界の女。矢狗村からすぐに消えていく存在。
しかしそう思うはしから、今日別れる間際、比奈子が見せた、傷ついた表情を思い出した。恋人らしい男の出現に動揺し、嫌悪感すら|滲《にじ》ませていた。ほんとうは彼女は、自分が考えているような女ではないかもしれない……。
文也は慌てて、独りよがりな考えを打ち消した。甘い希望を抱いて、再び幻滅したくはなかった。忘れるのだ、比奈子のことは。自分は矢狗村にいる。東京に帰っていく女のことは、頭から追い払うのだ。
彼は毛布にくるまったまま、再び本に意識を集中した。
〈古代より高い山は、神の宿る場所とみなされてきた。神とは先祖の霊である。石鎚山に宿るといわれる石の霊とて、その実体は祖霊だと私は考える。死者の魂が、高い山に登っていくことで浄化され、祖霊となり、子孫を見守るのである。
ところで死者の霊は、このように守護神的な存在と|崇《あが》められる一方で|祟《たた》りをなす死霊として恐れられてもきた。その死者の霊の二面性は、霊の相異なる二つの性質からきていると、私は考える。
霊の二つの性質を語るに適した言葉に、|魂《こん》|魄《ぱく》がある。「魂」とは、死と共に肉体から遊離したがる霊、「魄」は、肉体から離れたがらない霊だと私は思っている。
魂という文字は「云」と「鬼」から成っている。云は雲の原字である。鬼は、死者の意味。つまりこの文字は、蒸気のようにもやもやと立ち昇っていく死者を示している。天に昇り、浄化されることを希求する霊。つまり、祖霊ともなる魂である。
魄は、「白」と「鬼」から成る。白は、白骨化した体を指し、形骸の意味となる。さらに身体に宿る活力をも表す。腐乱し、|蛆《うじ》に食われ、白い骨が見えてくるまで、自分の体のそばに残り続ける死者の霊が魄である。これは、人間の思考から生まれる「心」というほうが理解しやすいだろう。心は、肉体に固執する。生に固執する。肉体が消滅しても尚、生に未練を残しながら地上をさまよう。
このように死者の霊は、魂と心の二つの部分を併せ持っている。どちらの比重が大きいかは、その人となりによって違ってくる。
四国において、魂が浄化を求めて集まっていく場所が石鎚山である。一方、神の谷は、肉体に固執し、生きることに執着する死者の心の集まる場所だ。
この二つの霊場は、神河である仁淀川によって結ばれている。水によって、魂と心は結びつき、また分かたれてもいるのである。もし、魂と心が分かたれることがなければ、どうなるのだろうか。死後も魂と心がひとつとなって存在するなら、生者と死者を隔てる要素は、肉体の有無以外なくなってしまう。が、もし魂と心だけで肉体を形成できるものなら……。
土佐は鬼の住む国、死者の住む国である。このような呼び方が残っているのは、かつて人が死後においても、魂と心に分かれずに何らかの形で、この世に存在していた証拠ではないだろうか。死者も生者も同じように、この世に存在していた時があったのではないだろうか。もしそうなら、その地こそ、死霊の住む島、死国——そう、この四国であったはずだと、私は思うのである〉
文也は、無意識に首筋をかいた。首筋の産毛がさかだっていた。
日浦康鷹は、ここで論説を止めていた。後半は四国に伝わる古い伝承の記述に終始している。彼は本を胸の上に置いて仰向けになった。
肉体を離れたがる霊は石鎚山に昇り、肉体に固執する霊は神の谷に集まる。しかし、石鎚山の石で作った柱が、神の谷にあるのはどういうことだろう。
神の谷は死者の心が集まる場所。そこに石鎚山の石柱を置くことで、古代人は何をしようとしたのだろう。
開け放した窓から、青白い月明かりが洩れてくる。部屋はますます寒くなっていく。しかし文也はもう部屋の冷気は感じなかった。彼は|腕枕《うでまくら》をして、天井を|睨《にら》みつけていた。
石柱を巡る古代人たちの姿が頭に浮かんできた。草を踏みしだき、何か|呟《つぶや》きながら、神の谷の|窪《くぼ》|地《ち》で輪になって踊っている。顔には入れ墨、手足に大きな輪をつけて、鹿や猪の歯を連ねた首飾りをぶら下げる。その情景が目の前にありありと浮かんだ。
部屋の|闇《やみ》が、少しずつ濃くなってくる。それとともに、湿った臭いが漂ってきた。腐りかけた水の臭いが、ねっとりとした泥のような闇の中から湧き出してくる。
文也は瞬きもせずに横たわっていた。体が下に沈みこむようだ。暗い世界の底へ、ずぶずぶとひきずりこまれていく。彼の意識も、どこか深い地下へと沈んでいく。そこは冷たい意識の水底。水を通して外を見るように、まわりを踊る古代人の姿がゆらめいている。手足を振り回し、顔には|恍《こう》|惚《こつ》の表情を浮かべて、狂ったように踊り巡る。しかし、彼には、その踊りの音楽も、熱い吐息も伝わってこない。文也は氷のような空気に抱かれていた。体は冷えきり、唇は青ざめていた。しかし、その冷たさが心地よかった。文也は、夜の世界の|深《しん》|淵《えん》で|微笑《ほ ほ え》んでいた。
6
カミサマトンボが、黒い影のように川面の石に降りたった。水中では、魚が涼しげに尾ひれを揺らせている。