比奈子はスケッチブックを膝の上に置いて、逆川の岸辺に座っていた。川向こうに矢狗村の家々が点在している。水田の中の道を、緑色の制服を着た郵便配達人のバイクが走っていた。太陽は照っているのに、日射しは強くはなかった。それでも妙に蒸し暑く、家に閉じこもっているのがたまらなくなって、朝食をすますとスケッチに出たのだった。
昨夜は眠れなかった。透を追い返したことに後悔はなかったが、文也を傷つけた事実が、夜の|闇《やみ》とともに彼女に覆い被さってきた。今朝、目覚めてもその気分は少しも軽くなってはいなかった。布団の上で真っ先に頭に浮かんだのは、文也を失ったということだった。そして大きな空白感を覚えた。
せっかく完成しかかった彼との間の懸け橋が崩れ落ちたのだ。二人をつなぐものは消えてしまった。どうすれば橋を架け直せるかわからない。前にも進めないし、後にも戻れない。|崖《がけ》っぷちで立ちすくむだけ。落ちた橋が、濁流に流されていくのを見守ることしかできない……。
ふと、背後からの足音に気がついた。振り向くと、川沿いの道をやってくる男が見えた。地下足袋を履いて、麻の袋を担いでいる。大野靖造だった。
「おはようございます」
比奈子は頭を下げた。靖造は、いやいやながらというふうに口の中でもぞもぞと|挨《あい》|拶《さつ》を返した。四日前、酒を飲みながら好き勝手なことをいっていた靖造とは別人に思えるほど、無愛想だ。しかし、そのまま通り過ぎるでもなく、足を止めた。
「昨日やけど、男のしが、あんたとこの家を聞きに来たで。教えちゃったが、わかったやろか」
透が来たことがもう知られている。この調子では、その後、自分が文也と車で帰ってきたことも知っているにちがいない。いやな気がしたが、一応の愛想よさは崩さずに答えた。
「おかげさまで会えました。東京の知人が挨拶に寄っただけです。すぐに帰りましたけど」
「たまあ東京から」
靖造は目をむいた。
「わざわざ、あんたに会いに来たがかね」
靖造が透のことを、もっと聞きたがっているのがわかった。比奈子は話題を変えようと、これから畑仕事かと聞いた。靖造は渋面をつくった。
「畑に植えちゅう|芋《いも》を|穫《と》りに行くところじゃ。早う穫らんとふとうなりすぎるきに。いっつもやったら、うちのおばあの役目じゃに、昨日から様子がおかしゅうてな」
「シゲさんが?」
「おばあに似合いもせん。この暑いに、窓もなんも閉めて部屋にこもっちゅうがや。畑に行ってくれゆうても、神の谷にゃ近づきとうもないゆうてな」
「畑って、神の谷にあるんですか」
「谷に行く途中じゃ。げにこの頃は、どこいっても、妙な話ばっかしじゃ。昨日のこと、道で喜っさんとばったり会うたがやき。顔つきがおかしいき、なんでか聞いちゃったら、いんまさっき幽霊を見たゆう。死んだお父が出てきたゆうて、昼間から真っ青になっちょらあ。息子の浩も、店の客がおんなじようなこといいよったゆうし。みんなあ、この暑さで頭がどうかなったがやないろうか」
靖造は|一《いっ》|旦《たん》話しはじめたら、止まることがなくつらつらと続けた。
「それに、なんやら藤本の店の若嫁さんが駆け落ちしたゆうて、あそこも大騒ぎやし」
比奈子は口を開きそうになるのをこらえた。靖造は顔をしかめた。
「最近の若い者は何を考えちゅうかわかりゃせん。相手は、川内谷の島崎さんくの息子やと。男のほうも嫁さんやら子供を放り出して、ふん逃げたらしい」
やはり、ゆかりは君彦と大阪に行ったのだ。一昨日、比奈子の家から出ていったその足で、駆け落ちしたにちがいない。
靖造はおかしそうにいった。
「昨日、うちの千鶴子が藤本に買い物に行ったら、あそこの息子が嫁を探しに行くゆうて、たまあ騒ぎよったと。わしなら、そんなことせんで、たったと新しい嫁さんをもらうがねや」
靖造は野太い声で笑った。
「比奈ちゃん、藤本さんくのお嫁さんに行っちゃったらどうかね」
比奈子はその冗談に不快感を覚えて、返事もしなかった。靖造はしゃがれ声で笑いながら、神の谷のほうに去っていった。
比奈子はしばらく草の生えた川岸に座ったまま、ぼんやりしていた。
ゆかりは、比奈子に矢狗村のことはわからないだろうと非難した。そうかもしれない。比奈子は、心の傷を癒したくて矢狗村に帰ってきた。そのことからして、とんでもない思い違いだった。結局は、莎代里との友情に幻滅し、文也との関係をめちゃくちゃにしてしまっただけではないか。矢狗村に帰ってこなければ、莎代里の死も知らず、文也と恋におちることもなくいられたのに。今まで通り、透と|喧《けん》|嘩《か》しながらもつきあっていた。
……駄目だ。それも今となっては何の魅力もない生活だ。
比奈子はそれ以上考えるのもいやになって、スケッチブックに向き直った。サインペンを握り直し、画面にかがみこんだ彼女の動きが止まった。
そこには、川辺の風景は描かれていなかった。代わりに、なだらかな谷、窪地。生い茂る木々……神の谷があった。どうしてか理解できなかった。さっきまで自分は川辺のスケッチをしていたのではなかったのか。いつの間に川辺が神の谷に変わったのだ。
比奈子は不意に、自分が神の谷にいるのではないかという恐怖にかられて、顔を上げた。逆川が静かに流れていた。カミサマトンボが黒い羽を震わせて舞い上がった。彼女は逆川の岸辺にいた。
比奈子は再びスケッチブックに視線を落とした。やはり神の谷が描かれていた。黒いサインペンで、陰影がつけられている。前のページをめくった。そこには、先日、神の谷に行った時に描いた絵があった。二つの絵を比べた。同じ構図だった。同じように石柱が立っている。
しかし石柱の立つ窪地は、今描いたスケッチでは、池となっていた。水面から煙のようなものが湧きのぼっている。
その池のほとりに、人影があった。一人は男。もう一人は少女。
比奈子は画面をじっと見た。ラフタッチの線の中から、おぼろげに顔が浮かび上がる。男は文也。そして少女は……莎代里。
手をつないで、池に入ろうとしているところだ。二人とも幸せそうに微笑んでいる。だが、その顔は張りを失い、たるんで見える。死人の顔だった。
二人は、草と木々に囲まれていた。絵の中の植物の陰影は、どれもが人の顔に見えた。だまし絵のように、谷の草や木々の中から、無数の人々の顔が浮かび上がる。男、女。老人、若者、子供。笑い、悲しみ、怒る顔がびっしりと背景を埋め尽くしている。紙の表面から、無数の顔が|溢《あふ》れ出そうとしていた。
比奈子は悲鳴をあげそうになるのをこらえて、ぱたんとスケッチブックを閉じた。息が荒くなっている。胸の奥から不安が湧き上がってきた。
この前、神の谷で石柱が立っている情景をスケッチした。そのすぐ後で、文也が石柱を見つけて立てた。絵は現実となったのだ。ということは、この絵も現実となるというのか。文也と莎代里が手をつないで歩く姿が……。
昨日、水中から睨みつけていた莎代里の目。文也に心|惹《ひ》かれた比奈子に怒っていた。莎代里も文也が欲しいのだ。放っておけば、文也は手の届かないところに行ってしまう。今、この時にも文也と莎代里は、神の谷にいるのかもしれない。
比奈子はスケッチブックを放り出すと、逆川沿いの道を走りだした。
道はすぐに山の中に入った。蝉の声が彼女を追いたてるように響く。先を行く男の背中が見えた。大野靖造だ。もう少しで追いつくという時、靖造は木立の中の別の|小《こ》|径《みち》に入っていった。比奈子は、そのまま神の谷に向かう道を走りつづけた。息が苦しくなってきた。汗が全身から吹き出す。この不安が思い過ごしであってほしいと思った。
神の谷が現れた。この前と変わらずに、朱色の鬼百合が咲き誇っている。比奈子は花をけちらすように窪地へと走っていった。石柱が見えた。石柱のそばに人影があった。
石柱を中心に白い人影が回っている。文也かと思ったが、すぐに違うことに気がついた。照子だ。|安《あん》|堵《ど》がこみあげてきて、自分を笑いたくなった。絵の通りのことが起こるなんて、馬鹿げている。比奈子は、ゆっくりと斜面を降りていった。
谷底の泥地の部分は、四日前に来た時よりも、また広がったようだった。その軟らかな泥に足首までめりこませながら、照子が歩いていた。遍路のような白装束に身を包み、石柱を左向きに回りつづけている。泥に汚れた素足。泥のはね返しが黒く散った白い背中。視線を宙にさまよわせ、口の中で何かぶつぶつと呟いている。その様子にただならぬものを感じて、比奈子は眉をひそめた。
「おばさん」
呼びかけても、聞こえたふうもない。比奈子はふらふらと歩く照子を追いかけていくと、肩をつかんだ。
「おばさんっ」
照子は黄色に濁った目で比奈子を見返した。比奈子がわからないようだった。
「私よ、明神比奈子。莎代里ちゃんの友達だった……」
友達という時、胸に痛みを覚えた。莎代里は、ほんとうに自分の友達だったのだろうか……。
莎代里と聞いて、照子の虚ろな目に光が宿った。
「莎代里か。莎代里なら、ほれ、私と一緒です。そこにおりますやろ」
照子は青い血管の浮き上がった手をよろよろと伸ばして、自分の前を指した。泥の臭いが、比奈子の足許からじわりと這い上がってきた。彼女は糸に操られるように、恐るおそる前方を見た。
そこには誰もいなかった。静まりかえった谷に、黒い泥地が広がっているだけだった。
草原に細長い岩が|屹《きつ》|立《りつ》している。その下で、男と女が性の営みを行っていた。日に焼けた男の背中が、柔らかな女の体に沈みこむ。男も女も熱い息を洩らしている。天空で月が|皓《こう》|々《こう》と輝いている。男が大声を発して、精液を放った。白瓜のような頬をした女の顔に満足の笑みが浮かんだ。切れ長の目の中で、|闇《やみ》の色をした満月のように光る瞳。女の頭上では、緑の岩肌が男の陰茎のようにそそり立っていた。
「……ん、……沢さん」
肩を揺すられて、文也は顔を上げた。横に座っている森田堅が、にやにや笑いかけていた。
「休みボケやないですかね」
文也は目をこすった。机の上で県の広報関係の資料整理をしているうちに、いつの間にか居眠りをしていたらしかった。何か夢を見ていた気がしたが、思い出せなかった。堅は、ボールペンの先で村長室を指さした。
「村長さんがお呼び」
文也は、礼をいって|椅《い》|子《す》から立ち上がった。まだ頭がぼんやりしていた。昨夜、眠ったのか眠らなかったのか、それも思い出せなかった。ベッドに横たわっている間は、いい気分だったのに、朝起きると、全身が気だるく疲れていた。文也は、雲の上を歩くような気分で村長室の戸を叩いた。中に入ると、村長の川上が、矢狗村の航空写真の額の前に座っていた。文也を見ると、濃い眉を八の字にして笑った。
「ああ、秋沢君。これ見たで」
村長の指さす先には、今朝できあがったばかりの『矢狗村便り』が積まれていた。
「いやあ、ええ出来映えじゃ。こういっちゃなんじゃが、わしの文章、印刷したらなかなか読めるじゃないか。助役もたいちゃ|褒《ほ》めてくれよったきにのう」
文章は、文也が手を入れたものだったが、村長は気づきもしなかったらしい。文也は、はあ、と答えただけだった。
「九月の矢狗村便りな、もっとわしの分量、増やしてほしいと思うたがや」
村長は悦に入って、矢狗村便りへの注文をあれこれつけると、文也を下がらせた。彼はまた自分の席につくと、読みかけていた資料に目を通した。テレビからニュースが聞こえていた。
〈小笠原列島付近に発生しました大型の台風二十四号は、本日沖縄に上陸。少しずつ進路を変えながら、北北東に向かっております。早くて明日の午前には九州地方が暴風域に入る見込みです〉
ネクタイ姿のアナウンサーがきびきびと話していた。しかし、その声も、どこか遠いところで聞こえている気がした。
誰かが、今日は蒸し暑いとこぼしていた。しかし文也は、むしろ寒かった。資料の文字がぼやけて見える。白い紙の上に黒い文字が|滲《にじ》んでいく。それらが大小さまざまな|恰《かっ》|好《こう》をした石に見えた。石は固まって、山のようになっていく。文也は、じっと紙面を見た。役場の電話の音も、話し声も、すべて遠い世界へと退いていった。
家の奥で物音がした。比奈子は、ぎくっとして顔を上げた。耳を澄ませたが、もう何の音もしなかった。
日浦の家の中だった。昔ながらの造りらしく、|襖《ふすま》で仕切られた部屋が続いている。比奈子の前では、照子が横になっていた。目を閉じて、|鼾《いびき》をかきながら眠っている。その寝顔は、家に帰ったのが不満なのか、どこか|苛《いら》|立《だ》たしげだった。
神の谷で、比奈子が気のふれたような照子を前に困っているところに思い出したのが、大野靖造だった。急いで、彼の姿を見失った分かれ道のところに引き返すと、ちょうど芋を袋に入れて帰る途中の靖造に出会うことができた。靖造に手伝ってもらって、なんとか照子を日浦の家に連れ帰ったのだった。
照子は家に戻ると、急におとなしくなり、布団に寝かすと、すぐに眠りにおちた。靖造は比奈子に、彼女を見ていてくれと頼んで、日浦の|親《しん》|戚《せき》の者と連絡を取るために一旦家に帰っていった。
開け放した戸の向こうに、静まりかえった庭が広がっている。照子はまだ鼾をかきつづけている。比奈子は庭に出た。夕方に近づき、太陽も力を失っていた。さびれた酒造工場が今にも崩れ落ちそうに見えた。
昔、莎代里と一緒に、この庭で遊んだ。あの頃の照子は美しく優雅で、康鷹は穏やかににこにこ笑っていた。耕治は、少し陰気な感じはあったが、優しい少年だった。日浦家にこんな未来が待ち構えているとは、誰に想像できただろう。
比奈子はかつての日浦家の記憶をたどるように、庭を歩いていった。工場も蔵も頑丈な|鍵《かぎ》がかかっている。酒蔵と酒造場の間の細い路地に入る。朽ちた|酒《さか》|樽《だる》や|埃《ほこり》の積もった洗い|桶《おけ》などが置かれている。そこを抜けると、突き当たりに物置のような小屋があった。|瓦屋根《かわらやね》には|苔《こけ》が生え、小さな窓は雨戸でふさがれている。長く使われた形跡はなかった。
記憶の中の康鷹は、いつもこの路地から姿を現していた。彼は、この小屋から出てきていたのかもしれない。比奈子は興味を覚えて、小屋の戸に手をかけた。朽ちかけた引き戸は、がたがたと音をたてながら敷居を滑った。
小屋の中は、六畳ほどの空間になっていた。すり|硝子《ガラス》の小窓から入ってくる光で|仄《ほの》|明《あか》るい。壁のほとんどを埋めつくす本棚。厚い埃の積もる板張りの床。比奈子は靴のまま床に上がった。|黴《かび》の臭いがぷんと鼻をついた。壁や本の背は、青い黴に覆われている。本棚には民俗学や古典、民話の本などが並んでいた。しかし、それらの分厚い本も|紙魚《しみ》に食われてぼろぼろになっている。本棚の間に傷だらけの木の机があった。
ここは日浦康鷹の書斎のようだった。部屋の主が倒れて以来、誰もこの部屋に入ったことはなかったのだろう。康鷹がいた時のままになっていた。机の上に、埃に埋もれた白い原稿があった。これから書きだそうとするように、横に万年筆が置かれている。書き終えた原稿が左側に伏せて重ねられていた。ひっくり返すと、一枚目に表題が見えた。『四国の古代文化・|補《ほ》|綴《てい》』とあった。
文也がいっていた『四国の古代文化』の本に付け加えたかったものだろう。比奈子は、原稿を取り上げた。二十年近く、そこに置かれたままだったのだ。読ませてもらっても、誰も文句はいうまい。比奈子は埃を払いながら原稿を持って外に出た。そして眠りつづける照子に時折、視線を投げかけながら、縁側で原稿を読みはじめた。
〈長年の研究の成果を『四国の古代文化』として、まとめあげて半年が過ぎた。しかし私の心境は満足というには程遠い。時が|経《た》つほど、後悔の念が|湧《わ》き上がってくる。そこに書けなかったことが多々あるのだ。自分自身の気持ちを整理するためにも、せめて、そのことをここに付記しておこうと思う。
今は夜だ。この物置小屋にいても、耕治のかける騒がしい西洋音楽が響いてくる。照子は、莎代里のために遍路に出た。四国のどこかの宿で寝ていることだろう。莎代里が死んでから、妻は変わってしまった。日浦の女の血が途絶えてしまったと嘆きつづけている。私が、息子がいるではないかといっても、男では駄目なのだ、女の血が続いていかないと駄目なのだと叫ぶように言い返す。このことが耕治に与える影響を私は|危《き》|惧《ぐ》している。母に見捨てられた気分ではないかと思う。あの子が日増しに|拗《す》ねたような顔つきになっていくのが、私には|辛《つら》い。
本心をいえば、私にとって、莎代里よりも、耕治のほうがより我が子だという気がする。莎代里が生きている間中、自分の娘であるという確信は、どこかで揺らぎつづけてきた。莎代里も私に甘えもしたが、決して心を開きはしなかった。いつも、あの切れ長の目で私を評価するように見つめていた。娘が怖いと思ったことすらある。それは妻の照子に関してもいえた。二人とも心の奥底で私を拒絶していた。それは二人が日浦の女だったからだと、今になって了解した。
婿養子として、この家に入って以来、私は日浦の女の血の濃さをまざまざと見せつけられた。この家にとって男の存在は、種馬以外のなにものでもない。日浦の女が大事にするのは母娘の|繋《つな》がり。日浦の家系が、女によってのみ受け継がれるからだ。それはとりもなおさず、矢狗村における口寄せ|巫女《みこ》としての役割の継承である。
口寄せ巫女としての日浦の女たちについて考えるきっかけとなったのは、照子との初夜だった。私は義母の嘉子から、照子と神の谷に行けと言われた。この家では、長女が結婚したその夜は、夫を伴って神の谷に行き、契るしきたりになっているというのだ。
神の谷は、昔から死者の場所だと言われている。そこで初夜を迎えるとは、奇妙な風習だと思った。しかし、義父と義母もそうしたと言われて、不承不承、|頷《うなず》いた。日浦の家に養子に入ったからには、その家のしきたりに従うのは仕方あるまいと思ったのだ。
冬だった。冴えざえとした星が空に輝いていた。私と照子は、星明かりを頼りに山道を歩いていった。神の谷に着くと、照子は谷の中央の|窪《くぼ》|地《ち》に私を誘った。草も生えない湿地になっていた。照子は、そこに身を横たえ、私たちは契りを結んだのだ。
不思議な気がした。誰もいないのに、まわりから見つめられていると思った。私の肌に、無数の者たちの視線が突き刺った。
まもなく照子は妊娠した。しかし生まれた子が男だったとわかるや否や、照子も義母も私に非難の目を向けた。義母なぞは、悔し涙を流したほどだ。そして、私が神の谷の神を敬ってなかったから、男の子ができたのだとなじった。日浦の女の最初の子は、女でなくてはならない。男の種を植えつけた私が悪いといわんばかりだった。
耕治の手が離れるようになった頃、照子は再び、私を神の谷に誘った。初夜をやり直すのだと言う。私は再び神の谷に行った。その時の私は、どこにでも行っただろう。耕治が生まれて以来、妻は私に肌を許してはくれなかったから。私と照子は、再び神の谷に行き、あの窪地で交わった。私はまた無数の目に見つめられているのを感じた。冷気が全身を貫くのを感じた。私は夢中だった。最初の時よりも、さらに|恍《こう》|惚《こつ》状態になっていた。自分がどのようにしてことを終えて、家にたどり着いたのか、覚えてないほどだ。
そして莎代里が生まれた。
娘の莎代里は、神の谷が好きな子だった。時々私は、娘が自分の生を|享《う》けた場所を知っているのではないかと|訝《あやし》んだものだ。そう考えて、私はあることに気がついた。
日浦の女たちは、神の谷で男たちと交わり、娘を生んできた。つまり日浦の女は皆、神の谷で生まれるのだ。死者の場所で生まれる女たちが死人の口寄せができるのは当然だ。
私は、昔、彼女たちは神の谷で口寄せを行っていたのではないかと思っている。ひょっとしたら、神の谷に住んでいたのかもしれない。人々は、今、私の家にやってくるように、死者の霊に会いに神の谷を訪れた。だから神の谷は、死者のいる場所として|畏《い》|怖《ふ》をこめて語りつづけられてきたのではないか。
私は、神の谷について調べはじめた。しかし照子は口寄せ巫女と神の谷との関係を聞こうとすると、ぴたりと口を閉ざした。口寄せを行っているところも、私には隠すようにしていた。儀式が行われるのは、私が仕事をしている日中だったからだ。私は、妻としての彼女を知ることはできたが、口寄せ巫女としての照子に触れることはできなかった。
昨年、莎代里が死んだ時、照子は半狂乱になった。日浦の女の血筋が途絶えたというのだ。子供を亡くしたことより、血筋が消えたことに悲嘆しているように見えた。最後には莎代里の死は、私が原因だと決めつけた。莎代里が最初の子として生まれていたなら、強い運を持っていたはずだ。最初に女の子を|孕《はら》ませることのできなかった私が悪いのだ、と非難した。
嘆き悲しみ、私を糾弾し尽くすと、次に照子は突拍子もないことを言いだした。
「あんた、四国は死の国。死国いうこと、知っちゅうかね」
聞いたこともないというと、照子は、ぞっとするような笑いを浮かべた。
「四国は死国。この世で死の国に最も近い場所が、四国ながや。なぜなら遠い昔、四国と死国は同じもんやったがやき」
神の谷は、霊的に死国に最も近い場所。日浦の女は、その神の谷の巫女なのだと。照子はさも重大な秘密であるかのように|囁《ささや》いた。
「私なら死国に行ってしもうた莎代里を連れ戻せる。遍路に出て、四国を左に巡るがよ。左回りは、死国の方向。死国に行って、莎代里の霊を連れ戻しちゃる」
照子は正気を失いつつある。私はうすら寒いものを覚えた。しかし表面は、その言葉を理解したふりをした。妻は私に秘密を打ち明けたことで、落ち着いたようだった。私は、娘の死から立ち直ったのだと安心した。そして『四国の古代文化』の執筆に打ちこんだ。私は私なりに、そうやって莎代里の死を忘れようとしていた。
本を出版して一箇月ほど過ぎた時だった。突然、家から照子の姿が消えた。後には「遍路に出る」と一言、書き置きが残っていた。私は捜索願いを出した。二週間ほどして照子は家に連れ戻された。彼女は私を殺しかねない剣幕で、どうして自分の邪魔をするのかと食ってかかった。日浦の|親《しん》|戚《せき》の者たちも、死者を弔う遍路の旅に反対するのは言語道断だと私を責めた。次に照子が遍路に出た時、私はもう止めなかった。
莎代里の死をきっかけに、すべてが狂いはじめた気がする。もしかしたら、その原因は、莎代里がまだ死んでないということかもしれない。莎代里は、照子の中で今も生きている。自分の跡継ぎとして生きている。
しかし、ほんとうに莎代里は死んだのだろうか。私は先日、一人で神の谷に行ってみた。花の咲き乱れる谷で、今も莎代里が遊んでいる気がした。そして私は、ふと思ったのだ。神の谷に集まってくる死者の心は、ここから死国に赴くのではないだろうかと。
死の国は、古来、根の国や、|黄泉《よみ》の国と呼ばれてきた。それは浄化を願う魂の産物ではない。生に執着する、死者の心の産物である。死んでもまだ生きることを望む死者の心が|創《つく》り出した、生の国に似た死の国。
四国は死国。四国は、その原初において、死国だった。死国は、かつてこの世に存在したのだ。そして今も神の谷によって、四国は死国につながっている。しかし生身の人間が死国に行くには、別の道をたどらないといけない。それが左回りの遍路道……。
なんということだ。いつの間には、私は照子の言った言葉に影響されている。こんなことを考えるとは、私もまた照子のように莎代里の死を受け止めきってないからだろう。照子は照子なりに、私は私なりに莎代里の死と向き合っている。しかし照子は莎代里を生き返らせることを願い、私はたぶん、莎代里を葬ることを願っている。
明日、私は石鎚山に登るつもりである。なぜかはわからないが、山に呼ばれているような気がする。『四国の古代文化』に記した通り、生に執着する死者の心が赴くのが神の谷なら、石鎚山に行くのは、浄化を願い、天に昇ることを希求する魂。石鎚山には、莎代里の魂がいるはずだ。私はそこで娘の|冥《めい》|福《ふく》を祈るつもりだ。
今も私の心の中には、莎代里が生きている。私の中のしこりのように生きている。しかし莎代里は葬られねばならない。莎代里をきちんと葬ることが、残された家族が立ち直れる唯一の道なのだ〉
どこかで山犬が|吠《ほ》えた。男は鋭い目を四方に走らせた。獣の気配はない。近くにはいないようだった。野犬と化した犬たちは、気分次第で襲ってくる。用心するに越したことはない。
男は月明かりのなか、石段を登っていた。夜空を覆うように茂る杉木立。道の脇には、小さな地蔵がびっしり並んでいる。目の前に黒々とした岩山が|聳《そび》えていた。四国霊場四十五番札所、岩屋寺だ。ぬっとそそり立つ岩山に食いこむように本坊が建っている。男は本坊に住む|僧《そう》|侶《りょ》たちに気づかれないように、石段をさらに登っていった。
本堂と大師堂が月光に浮かび上がる。階段の途中を右に曲がる。突き当たりは岩山だ。山肌にへばりつくように小さな堂がある。男は堂の中に入りこんだ。左手から、湿気を含んだ空気の流れが感じられた。堂の左には岩を|穿《うが》って|洞《どう》|窟《くつ》が続いている。洞窟の奥から|蝋《ろう》|燭《そく》の光が洩れてきていた。男は手探りで岩肌を伝い、漆黒の|闇《やみ》の中に足を踏み出した。闇を伝い、遠い世界に向かう。蝋燭の淡い光に浮かび上がる世界は、この世とは別の世界のように思えた。
洞窟の奥に着いた。そこは六坪ほどの空間になっていた。石の地蔵が数体、置かれている。粗末な棚が設けられていて、信者たちが持ち寄ったらしい|位《い》|牌《はい》や小さな仏像が並べられていた。男は首から下げた|頭陀袋《ずだぶくろ》を下ろすと、洞窟の岩肌に背をもたれて座った。
もう遅かった。今夜は、ここで一夜を過ごすつもりだった。山中に寝ないですむのはありがたい。体の|芯《しん》から疲れていた。今日は、これ以上、先には進めなかった。
仲間の者は、死んでまでも何をいいたかったのだろう。お勤めを放り出して、村に戻れというのは尋常ではない。男の心には、どす黒い不安が渦巻いていた。
しかし気ばかり急いでも、体がついていけなければ仕方ない。まあいい。明日は村に帰り着く。何が起こったのか、わかるだろう。
男は深い息を吐くと、頭を後ろに傾けた。
洞窟にこもった重い空気は、真綿の布団のように温かく彼を抱きこんでくれる。不安な気分も少しずつ薄らいできた。かつて四国を巡る古の道の途上には、こんな岩屋がいくつもあった。それが彼らの宿であり礼拝所だった。岩屋は聖なる場所を意味した。彼の先祖たちは聖なる場所の点在する道をたどり、四国を巡ってきた。
時代が下ると、岩屋の場所に四国霊場と呼ばれる寺ができるようになった。男たちは、先祖の通った道を踏襲して四国を巡る。四国霊場と重なっている場所もあれば、まったく別の山の奥深くに崩れ落ちた岩屋が残っている場所もある。しかし巡る方向は同じだ。四国を右に回る。
四国を巡ることは、石鎚山のまわりを巡ること。そうすることによって、神の宿る山、石鎚山を悪しきものから守るのだ。石鎚山を聖なる山として保つこと。それが男たちが四国を巡る使命だった。
男は|喉《のど》|元《もと》を|掻《か》いた。日焼けしてはがれた皮膚がこぼれ落ちた。赤い前掛けをつけた地蔵が、じっと闇を見つめていた。供えられた菊の花びらが、つやつやと蝋燭の光を反射している。ここは、仏教の霊場となる前は彼らの神の礼拝場だった。今も岩肌から|滲《にじ》み出てくる、彼らの神の息吹が感じられた。
明日は村に帰る。神に守られた村へ。そう思っただけで、心が和んだ。
男は湿った岩に頭をよりかからせた。頭が|朦《もう》|朧《ろう》としていた。体が突っ張っている。疲労感が全身を包む。瞼が重くなった。
〈村ではない〉
頭の中に声が響いた。長老の声か。いいや祖父……父の声にも似ている。男は眠気の中で思った。そして思い出した者は、すべて死んでいることに気がついた。
〈止めるのだ〉
再び声が聞こえた。男は、はっとして目を開けた。
蝋燭の火が消えかかっていた。神の息遣いがすぐそばに感じられた。男は岩屋を見回した。地蔵に供えられた花の前で視線が止まった。さっきまで生きいきとしていた菊は、今は茶色に|萎《しな》びていた。それはまるで死神の手で|撫《な》でられて、一瞬にして生を失ってしまったようだった。
〈石鎚が汚されようとしている〉
はっきりとした声が、岩屋の空気を揺るがした。その空気の震えが移ったように、男もまた体を震わせはじめた。
長老の語った恐ろしいことを思い出した。まさか、あれが起きることはないだろう。単なる言い伝えだ。
しかし打ち消そうとすればするほど、不安がこみあげてくる。石鎚山が汚されようとしているとは、あの前兆以外のなにものでもない。
男は奥歯を噛みしめた。だが、体の震えは止まりそうもなかった。
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第三部
[#ここから1字下げ]
———うしろのしょうめん、だあれ———
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シャッシャッシャッ。灰色の|砥《と》|石《いし》の上で、半月形の鎌が音をたてていた。シゲは刃を研ぎながら、ここ二日間、絶えず頭に響いている声を聞いていた。
——俺を見棄てたな——
日浦家の薄暗い部屋で、あの声がいった。そしてシゲは思い出したのだ。何もかも……。
もう五十年も前のことだった。忘れようと努め、見事に葬り去っていた記憶だった。シゲは思い出したことを後悔していた。照子のところになぞ行くのではなかった。死人の口寄せなぞ頼むのではなかった。
夫の口寄せをしてもらったほうがまだよかった。顔すら思い出せなくなっている夫なら、シゲを脅かすようなことはいいはしなかっただろう。
——俺はもんてくる——
照子も同じようなことをいった。死者たちが戻ってくるのだと。戻ることが何を意味するのかわからないが、耳にするだけでシゲをぞっとさせた。
照子は気が狂ったのだ。口から出まかせをいっているのだ。自分は、あの家でたぶらかされたのだ。だいいち、|依《より》|童《わら》もいなくて口寄せができようはずはない。
だが、あの声は間違いなく竹雄のものだった。柔らかく、男にしては高めの声。|遥《はる》か昔、シゲの心をとろけさせた声だった。あの声で、シゲに|惚《ほ》れているといい、いい体だと|囁《ささや》いた。声とは記憶を手繰り寄せる強い糸だ。どんなに長く会わなかった人間でも、それを聞いただけで記憶が|蘇《よみがえ》る。だからこそ竹雄の声に、忘れていた過去を思い出してしまった。
とんでもないことだ。竹雄が帰ってくるなぞ。かつての愛人ではあったが、幽霊になってまで会いたくはない。ましてや、あんなことがあったのだから。
鋭く研いだ鎌を陽にかざした。青い空を背景に、|鈍《にび》|色《いろ》の刃がぎらりと輝いていた。シゲは横に置いてあった|竹《たけ》|竿《ざお》を取って、先端に鎌を縛りつけはじめた。
「おばあちゃん、何しゆうがかね」
掃除機をかけていた千鶴子が、庭のシゲに声をかけた。シゲは鎌の柄を縛りつけた竹竿の先を見せた。
「タツよけじゃ。これをつけちゃると、|時化《しけ》がきてもこまりゃせん。風も家をよけて通ってくれるきね」
千鶴子は空を見上げた。雲は多いが晴れている。彼女は太った体を揺すって笑った。
「台風やったら、九州のほうに抜けると。天気予報でいいよったで」
しかしシゲは口をへの字に結んだまま、竹竿を立てた。千鶴子が慌てて庭に出てきて、手伝いはじめた。
「こんなもん倒したら、えらいことで、おばあちゃん。しっかりくくらんと」
千鶴子はぶつぶついいながら、物干し台に竹竿を固く縛りつけた。シゲは空に向かってすっくと立った竹竿を見上げながら、先日の盆のホーカイを思い出した。ひょっとしたらホーカイに呼び寄せられてきた死者の霊が、盆が終わってもあの世に帰らなかったのかもしれない。
「ほら、これで気ぃすんだかね」
千鶴子は物干し台に縛りつけたタツよけを揺らして、しっかりと立っているのを確かめた。
「台風のたんびにタツよけ立てる家ゆうたら、うちんくばあのもんで」
千鶴子は、面倒なことをしたがるシゲを暗に非難するように小声でいうと、また掃除に戻っていった。
風が吹いてきた。タツよけの鎌の刃が風を切る。シゲは下唇を突き出して、一人|頷《うなず》いた。天気予報が何といおうと、シゲにはわかっていた。台風は近づいていた。湿気と爆発するような力をはらんだ風がそう告げていた。幼い頃から知り尽くしている、体がむずむずしてくるほど危険な風だった。
——俺はもんてくる。おまんところにもんてきちゃる——
風の中に竹雄の声が聞こえた気がした。
シゲは逃げるように家に入っていった。
北野町の整備された歩道を横切り、タクシーは駐車場に止まった。比奈子は料金を払って、車から降りた。アスファルトから立ち昇る、むっとくるような熱気に顔をしかめながら、正面の古びたコンクリートの建物を見上げた。県立庄野病院。このあたりでは最も大きな総合病院だ。
玄関の階段を上り、自動ドアを通って中に入る。スリッパに|履《は》きかえて、広々とした待合室を横切り、受付に向かった。エアコンディションの効いた冷たい空気に、消毒液の臭いが混じっている。ソファの上で通院患者たちが、煙草を吸ったり、テレビを眺めたりしていた。
赤のサマーセーターにぴたりとしたジーンズ姿。花柄のバッグを持って、サングラスをかけた比奈子の姿は目立つらしい。背中に視線が集まるのがわかった。彼女はサングラスをはずして、受付の女に聞いた。