仲間のあと押しで、清涼飲料の会社へも出入りしはじめ、私は執拗《しつよう》に冬期のキャンペーン計画を提出しつづけた。
課長の積極的なスポンサー攻撃も、ようやく効果を見せはじめ、分室はあげ汐《しお》に乗ったように、次から次へと新しいスポンサーを獲得していた。
サラリーマンの社会も案外|姑息《こそく》なものだと知ったのはその頃のことであった。
分室の成績があがると、本社の幹部は露骨な牽制《けんせい》をしはじめた。自分たちの制作スタッフを使わせないのである。デザイナーやカメラマンの中には分室の仕事に意欲を示す者も多かったが、もともと分室は独立採算制を原則としていたから、それを楯《たて》に自分たちの仕事を優先させ、課長に社外への発注を強《し》いていたようである。
だが私にはそれも好都合だった。分室ただ一人のコピーライターとして、私は外部の優秀なクリエーターたちと、発注者として接触することができた。
面白くて面白くて、一日一日を惜しむように過していた。同じ仕事が十日と続かないのも私にとっては楽しいことであった。
「毎日開店してるみたいだ」
私はバーテン時代の表現でそう言ったりした。毎日が翔《と》ぶように過ぎて行き、加藤編集長からお声がかかると、大慌てで二、三十枚の短篇を書いたりしながら、私は三十歳の誕生日を迎えた。
その頃、私は独自で或《あ》る紡績会社の本社に出入りをしはじめていた。四番地時代の客の一人が、その会社の実力者だということを知ったからである。
糸田さんというその客は、バーテンの私を可愛がってくれた人で、訪ねて行くとすぐに広報課長を紹介してくれた。
「こいつにチャンスをやってくれよ」
糸田さんと広報課長は入社が同期だとかで、ひどく仲が良いようだったが、そこでは前身がバレてしまっているから、私は仲間を連れては行けなかったのだ。
7
業界全体が長い低迷期にいたとはいえ、その紡績会社は大物であった。化繊《かせん》部門で他社に遅れをとっていたので、その巻き返しに懸命であった。
広報課長に紹介されて間もなく、私は突然その会社から呼出しを受けた。
「糸田に頼まれているから、君にチャンスをやろう」
新しい化学繊維の発売キャンペーンの企画を提出しろと言うのである。従来その会社では、そうした場合三つの広告代理店に企画競争をさせていたのだが、今回特に私の会社を割り込ませてくれるのだ。
私は分室へとんで帰った。そしてまず課長に私の前身を打明けた。
「そういうわけで、あの紡績会社に食い込めたのは、あそこにバーテン時代のひいきがいたからなんですよ。いよいよ仕事となったら、それがばれるにきまっているし……」
そう言うと課長はニヤリとした。
「学校がどうだろうと、俺には関係ないね。一緒に戦争をしてくれて、役に立ってくれれば誰だっていいんだ。しかし本社の連中はそう行かないぞ。君が正直に高卒という学歴を言ったら、決して採用しなかっただろう。だが心配するな。あの紡績会社なら、持って出るのにちょうどいい」
「え……」
私は課長をみつめた。
「持って出る……」
「全力をあげてその企画競争に勝とう。そして、勝っても本社には渡さないんだ」
私は胸が高鳴った。課長は謀叛《むほん》を企んでいるのだった。
「俺たちの会社を作るんですね」
「そうだよ」
よし、やってやる。私は決意した。生まれてはじめて、形のはっきりとした男の戦いに加わったのである。
課長や分室の先輩たちと違って、私には本社に対するうらみつらみなどなかった。しかし、セールスの第一線に立つこともなく、社長をとりまいて姑息《こそく》なことばかり考えている幹部連中には、全く魅力を感じなかった。欠点だらけでも常に前傾姿勢で目標に突っ込んで行く課長のほうが、男として数段上だと思っていたのだ。
謀叛の成否は私が持ち込んだ紡績会社の企画競争にかかった。その日から分室の仲間は同志に変り、私たちはその仕事に熱中した。
先方の広報課長は、酒好きで麻雀《マージヤン》狂だった。次の日、早くも課長はその広報課長と飲み歩き、その週末には麻雀をしたらしい。
「企画は最終的に常務会へ持ち出される。決定するのはその常務会のメンバーだが、老人が多いから気をつけろ」
折りにふれ、課長からそんな注意がとんだ。新しすぎてはいけないし、くだけすぎてもよくないというのだ。
商品名の書体からはじまって、パンフレット、ポスター、新聞雑誌の広告、CMフィルム、そしてテレビ広告の時間帯分布まで、私たちのやることはほとんど広告のすべての分野にわたっていた。お互いの情報の探り合いもはじまる。よく注意していると、競争相手の企画がだんだん判《わか》って来るのだ。
「敵は一社だ。あとは恐るるに足らん」
課長がそう断言して見せたのは、企画提出の命令を受けてから二か月ほどたった日であった。その間、私たちはほとんど不眠不休の状態に近かった。ことに本社にさえ秘匿《ひとく》した作業であったから、デザインなどを依頼した外部のアーティストたちもほとんどが今まで付合いがなく、その分何かと苦労が多かった。
課長のやり方も手がこんでいた。当て馬に軽自動車のメーカーを持ち出し、そこと取引をはじめるための企画だと称して、紡績会社への企画費をどんどん落してしまっていた。勿論《もちろん》軽自動車メーカーのことも嘘《うそ》ではなかったが、そのほうの経費を三倍くらいにふくらませて本社に支払わせていたらしい。
本社側は、軽自動車メーカーに対する売込みを有望視していて、費用を惜しまなかったが、現場で実情を把握している課長は、
「十年早いよ」
とかげでうそぶいていた。大手の代理店ががっちり食い込んでいて、私らが取引できたとしても、その扱い高は微々たるものらしかった。
足繁く紡績会社の広報課へ出入りする私にとっても、敵が三社の内の一社だけであることが明白になって来た。
「一騎うちらしいな」
広報課長もしまいにははっきりそう言うほどであった。
いよいよ常務会に四社の提出した企画をかける日が近づくと、私は不安に陥った。何と言ってもキャッチ・フレーズが最大の争点になるのだ。
敵のキャッチ・フレーズを知りたい。
寝ている間もそう思うようになった。何としても勝ちたかったのだ。SFのコンテストでも、一度勝利を味わったが、それは運のようなもので、原稿を書いて投函したらあとは自分の力ではどうにもならなかった。しかし今度は違う。お互いに生活がかかっている。大げさに言えば命がけで、戦争のようなものではないか。勝つためには手段を選ばないという姿勢こそが正しいのだ。
そう思った私は、敵のキャッチ・フレーズを確実に知る方法を考えついた。
どの社も、キャッチ・フレーズは三点くらいが限度のはずであった。一つごとにすべての絵柄を展開して見せなければならないから、五通りも六通りも出せるわけがないのだ。たとえば私たちの場合、一つのキャッチ・フレーズについて展開する制作物は、大小とりまぜて四十点ほどになる。それを三通りやるので手一杯なのだから、五通りもやれば二百点となって、全く不可能なのである。
恐らく敵も三本。そう私は踏んだ。
それが今、ダミー制作の追い込みで、次から次へと写真植字にされている。私は敵の会社が使っている写植屋を探り当て、まんまと三本のキャッチ・フレーズを読んでしまった。勿論《もちろん》、写植屋の若い人に金を握らせた。
「君も汚い手を知ってるな」
課長は私の報告を聞いてうれしそうに言った。
あと知恵、ということがあるが、キャッチ・フレーズなどは、他人の考えたものにあとで手を入れるほうが余程すっきり仕上る。私たちは大急ぎで、放っておいたら危険と思われる敵のキャッチ・フレーズの一本に対抗する案を突っ込んで、何とか常務会にすべり込ませることに成功した。
8
勝った。
「おい、お前たちのが通ったぞ」
広報課長からの電話を取ったのは、偶然私自身であった。私は泣くのをはばからなかった。
「なんだお前、泣いてるのか」
広報課長は、受話器の向こうでびっくりしていたようだが、私は正々堂々と受話器に向かって泣いていた。泣きながら、これもスポンサーにうち込むくさびのひとつ、などと思っていたのだから、もう私も広告《アド》マンになり切っていたようである。
その夜、先方の広報課員たちと、私たちは銀座の高級クラブを飲みまわった。
「竹内が可哀そうだな」
広報課長はしつっこくそう言った。竹内というのは私たちが徹頭徹尾マークした競争相手の営業課長であった。
「あいつ、自信満々だったんだ。ところが、ふたをあけて見たら、あいつが本命だと思っていたアイデアそっくりの、しかももう一枚上のが君たちの所から出て来てしまったんだ。今頃はやけ酒だぞ」
勝利に酔った私たちには、それさえもが笑いの種であった。
何軒目だっただろうか。もう私たちだけになっていて、地下一階にある侯爵《こうしやく》というクラブから出て来た時だった。
「おい」
暗がりから、額に深い傷痕《きずあと》のある男がぬっと姿を現わして言った。
「え、何だい」
課長が答えた。
「月岡って野郎はそいつだな」
男は私を顎《あご》でしゃくって見せた。一人、もう一人……暴力団風の男が三人、私を睨《にら》んでいた。
私ははじめ大して気にしていなかった。やくざにからまれるとしたら、亜津子のことぐらいしか思い当たらないのだ。それも昔のことになってしまっているし……。
ところが、ふと目をそらせると、その先の横丁の角に、こちらの様子を窺《うかが》っている小柄な男がいるのに気付いた。とたんに新宿で物騒《ぶつそう》な連中にとり囲まれて暮らしていた頃の勘が働いた。
「いけねえ」
私は課長の背中を突きとばして追手の障害にすると、大声で叫びながら走り出した。
「待て、竹内」
私に名を叫ばれて、様子を窺っていた小柄な男が逃げ出した。敗《ま》けた代理店の営業課長だったのである。
酔っていたとは言え、銀座のまん中で珍妙な追いかけっこがはじまった。
竹内が私にやくざをけしかけて来たのは明白だった。写植屋の件がバレたに違いなかった。
「卑怯者《ひきようもの》」
私が叫ぶと竹内も逃げながら叫び返した。
「卑怯なのはてめえだあ」
「待て、逃げるな。話をつけてやる」
「卑怯者」
竹内は、卑怯者、卑怯者と言いながら、私の二十歩ほど先を逃げまわり、追う私のあとから、やくざの足音が迫って来た。
私にすれば、竹内をつかまえる以外、その荒っぽい男たちから逃げる道はなかった。竹内は小柄で、私の力でどうにでもなりそうなくらい骨の細いやさ男であった。
私を追うやくざたちも妙な気分だっただろう。ドジなやとい主が標的の私に追いかけられてしまっているのだ。かなりごちゃごちゃと走りまわっている内に、うしろの足音は消えてしまった。堅気《かたぎ》なら夜の銀座を走りまわっても大したことはないが、一見してやくざと判《わか》る連中が三人もつながって走ったのでは、気の早いのが一一〇のダイアルをまわしかねない。
竹内も疲れたらしい。私が追いつきはじめると、切羽つまったように、一軒の店のドアを体当たりであけてとび込んで行った。私も調子に乗ってそのあとに続いた。
地下へ降りる幅の広い階段に赤い絨緞《じゆうたん》が敷いてある大きなクラブだった。
「いらっしゃいませ」
下で竹内がボーイたちに迎えられている。竹内は勝手知った様子で、すぐ奥へ消えてしまった。
「いらっしゃいませ」
竹内に無視された形のボーイたちが、二人続いて息せき切った客が来たので、目を丸くしていた。
私はボーイたちの前で呼吸を整えた。
「ご指名でしょうか」
一番若いボーイが訊《き》いた。
「光子」
私はいいかげんに言った。
「こちらへどうぞ」
そのボーイは先に立って私を奥へ案内した。ちょうどショー・タイムで、ヌード・ダンサーが小さなステージで踊っていた。
「あら」
案内されたテーブルへつく前に、本当に光子が現われた。
「やっぱりいたのか」
飲んだ上に走って、すっかり酔いがまわっていた。
「よくここが判《わか》ったわね」
光子はそう言って私と一緒にソファーへ坐《すわ》った。
「どうしたの、そんなに息を切らせて」
「お前に会いたくてさ」
「調子いい」
光子は笑った。少し肥って、その分艶《つや》っぽくなっていた。
「一人……」
「うん」
光子がひろげてくれたおしぼりを受取りながら、私は店の中を見まわした。うす暗くて竹内の姿は見当たらなかった。
「何飲むの」
「ビール」
光子がそばに立っているボーイに注文した。
「久しぶりね」
余り上手でないバンドの音の中で光子は言った。
「元気だったかい」
私はおしぼりを返しながら言った。
「うん。あなた、変ったわ」
「足を洗ったんだ。堅気《かたぎ》だよ」
「へえ……」
「今、一人なんだろうな」
「どうしてそんなこと訊《き》くの」
「プロポーズしに来た」
私は自分をいいかげんだとは思わなかった。
9
光子と暮らすようになるには、一週間もかからなかった。
千駄ケ谷から代々木のもう少し広いアパートに移り、光子も五反田から移って来た。
引越しがおわってほっと一息ついた晩、私が窓を背に、テーブルの上のビールの栓《せん》を抜こうとしていると、光子がいやに真面目腐った顔でにじり寄って来た。
「それで乾杯するんでしょう……」
「うん」
「ちょっと待って。その前にすることがあるの」
光子はそう言うと前のテーブルを隅へ寄せ、私の正面に正坐《せいざ》した。
「何をするんだ」
「目をつぶって頂戴《ちようだい》」
私は言われた通りに目を閉じた。三秒ほど間があって、突然私は左の頬《ほお》を思い切りひっぱたかれた。
「痛え」
目をあけると、光子が今私を平手うちした右の掌《てのひら》をみつめていた。
「力があるんだな、お前」
私は左の頬をさすりながら言った。
「言っとくわ。あれから一人いるのよ」
男のことを言っているのだ。私と別れてから、一人できたと言う意味だった。
「仕方ないさ。俺が悪かったんだ」
私は頭をさげ、
「ごめん」
と言った。
「おかげでね、あたし強くなったわよ。泣かないんだから、もう」
私は光子をみつめた。光子の目から涙がふくらんでポトリと下に落ちた。
「なるほど」
「ばか」
光子は笑って見せた。それはおかしな笑い方であった。たしかに涙をこぼしているのに、目も口も陽気に笑っているのだ。
「指輪、どうした」
「あれ……あれは縁起が悪いから、江の島の弁天さまにあげて来ちゃった」
「なんで弁天さまに」
「なんとなくよ。彼と行ったとき」
「江の島なんかへ連れてったのか、そいつ」
「悪く言わないで」
「判《わか》った」
「さあ、乾杯しましょう」
テーブルが元の場所に戻り、私たちはビールをお互いのグラスに注ぎ合ってから乾杯した。
「ねえ、もう嫌《いや》よ、あんなの」
光子は私にきつい声で言った。
「うん。反省したよ。たっぷりとな」
「これ買って来たの」
光子はデパートの包み紙を引き寄せた。
「何だい」
「原稿用紙に万年筆にインクに吸取紙に文鎮に辞書」
こんないい女になぜ冷たくしたか、自分でも見当がつかない思いであった。
「私に小説を書いて」
「お前に」
「そう。そばにくっついてて、全部書くまで見ていたいの」
「そうすらすらとは書けないよ」
「そばにいては邪魔になるの……」
「そうじゃないが」
私はそれから、コンテストに入選した小説のことを話して聞かせた。書いた嵐の晩のことや、加藤さんとのおかしな出会いのことなどをだ。
ときどき小田急のロマンスカーが、にぎやかな音をたてて通り過ぎるほかは、本当に静かで平和な夜であった。
次の日、私は分室へ光子を呼んで課長に引き合わせた。
「こいつと結婚します。仲人をやってくれますね」
課長は苦笑を泛《うか》べ、
「もっといい人がいるだろう。仲人のことはよく考えたほうがいい」
と言った。分室はその時、すでに本社に独立を通告していて、明日にでも新しいオフィスへ移る状況であった。
私は課長に暇《ひま》をもらい、その足で目黒の母親の家へ行った。
弟の弘志はヨーロッパへ行っていて、母一人きりだった。
「お母さん……」
母の姿を見るや否や、光子は親をみつけた迷子のように、手ばなしで泣きながらとびついて行った。
「そうかい、結婚するのかい」
よかった、とも何とも言わなかったが、母の目が潤《うる》んでいるので、満足しているのが判《わか》った。
「ちゃらんぽらんな子だから気をつけてよ」
私が光子を置いてひと足先にその家を出る時、母はわざとらしく光子にそう言い、私のほうを見てニヤリとしていた。
課長は赤坂に小さなオフィスを借りて、私たちをそこへ移した。テレビ局や出版社など、媒体側に対して本社の妨害工作があって多少|揉《も》めたが、小柄なわりに質のいいスポンサーを確保した新しい会社は、そんな妨害など気にするいとまもなく、毎日の仕事に追われて行った。
光子との仲人は、加藤編集長が引受けてくれ、ようやく組織の整った日本SFクラブの面々が、ささやかなパーティーに顔を揃《そろ》えてくれた。
新会社の業績がいいおかげで、京都へ新婚旅行に行くこともできた。
その新婚旅行から戻った翌日、私は土産の八つ橋を持って糸田さんと広報課長のところへ行った。
銀座で竹内にやくざをけしかけられ、その竹内を追いまわした話はもう有名になっていて、糸田さんと広報課長は、一階のロビーのソファーで散々に私をからかった。
「竹内が逃げ込んだ店にその彼女がいたんだよな」
「そうなんです」
「それで竹内をほっぽりだしといてプロポーズか。お前の神経はいったいどうなってるんだ」
笑い合っていると、突き当たりのエレベーターの戸があき、重役連中がぞろぞろと出て来た。誰かを送るところらしい。糸田さんも広報課長も神妙な顔で口をつぐんだ。
しかし私は反射的に立ちあがってしまった。重役連中にうやうやしく送り出されて来るのは、紛《まぎ》れもない谷口怜悧男であった。
「谷口」
私は声をかけた。重役連中がギョッとしたように私を睨《にら》んだ。
10
「やあ」
谷口は足をとめ、のんびりとした声で答えた。重役連中はどういう態度をとったものか迷っているようであった。
私の上着の裾《すそ》を広報課長がそっと引っ張っている。
「久しぶりだね」
重役連中はあきらめたように、私のほうを向いた谷口のうしろへ並んで待った。
私はその様子で、谷口にあまりなれなれしくしてはいけないと直感した。
「体の具合はその後……」
語尾を濁して誤魔化《ごまか》したが、谷口は以前どおりの友達口調で、
「世話になりっぱなしですまない。ゆっくり話したいな」
と言った。
「あの、僕らの用事でしたらもうすんでおりますので」
糸田さんが重役の一人にそう言った。
「この会社に出入りしているのかい」
その間に谷口が私に言う。私は黙って頷《うなず》いた。
「よかったらご一緒に」
私が広告代理店の平社員であることを知っている重役の一人が、谷口にそう言った。
「いいのかい」
私はまた頷いた。
「ではご一緒に」
重役たちはぞろぞろと歩きだした。
「お前、谷口さんを知っているのか」
糸田さんが早口でささやいた。私は、以前四番地に……と言いかけてやめた。あの狙撃《そげき》事件があった頃、そう言えば糸田さんはアメリカへ出張していた筈《はず》だった。十日そこそこしか四番地にいなかった谷口を、知っているわけがなかった。
「親友ですよ」
私が糸田さんに言うと、糸田さんは広報課長と顔を見合わせ、互いに首をすくめ合った。
「じゃあ、あとで」
私は早口にそう言い残すと、谷口のあとを追った。
何と谷口は、胴のばかに長い立派な車で来ていた。ベンツだが、普通のよりずっと大きく、バック・シートがひとつ分多かった。
私が乗り込むと、重役の一人がドアをしめてくれた。谷口は車の中で、見送る重役たちに、まるで皇族がするような頭のさげかたをしていた。
「お前、どうなってるんだ」
私は待ちかねて言った。
「どうって……」
「とぼけるな、こん畜生。ルンペンの王子さまだと思ってたら、今度は財界の大立者《おおだてもの》みたいなふりしやがって」
「運命だよ」
谷口は微笑した。
「運命……そんな運命があるのか」
「君だって変った」
「俺はバーテンが嫌《いや》になったから、サラリーマンに化けただけだ。広告会社の平社員だぞ、これでも」
谷口は笑った。
「俺は今、宗教団体の役員をしている」
「宗教団体……」
「そう。あれからすぐその宗教団体へ入ったんだ」
「何と言うんだ」
「日本聖母教団と言う名称だよ」
「そこの役員か」
車は新橋方面へ向かっていた。運転席との間に厚いガラスの仕切りがあり、こちらの話は前に聞こえないらしかった。そして私は、その仕切りのガラスを背に、谷口と向き合って坐《すわ》っているのだ。
「これ、ベンツだろ」
「そうらしいな」
「ベンツの何という車なんだ」
「知らない」
谷口は鷹揚《おうよう》だった。
「凄《すげ》え車だ。聞いたこともない」
私はキョロキョロと車の中を見廻した。どう見ても王様か貴族でなければ似合わないようだった。
「でも、その聖母教団の役員が、なぜあそこのえらいさんたちにペコペコされてたんだ」
「俺は使いに行っただけさ。うちの教団は資金が豊富でね」
「あ、あそこへ金を貸すのか」
私は呆《あき》れた。資本金が百億を超す大会社なのだ。
「そのほかにもいろいろある」
「糞《くそ》ったれが」
私は罵《ののし》った。
「そうと知ってたら苦労はなかったのに」
「なぜ……」
「夜中に銀座のまん中で追いかけっこなんかしなくてすんだということだよ」
「俺で役に立つことがあったら言ってくれないか。随分お世話になったからね」
「そうだ。そんなに力があるなら、スポンサーを世話してくれよ。俺は光子と結婚したんだぜ。礼をしてもらうんなら二人前だぞ」
谷口はたのしそうに笑った。
「それはおめでとう。何でもするよ。スポンサーというと……」
「広告をしている会社に紹介してくれというんだ。俺は今、広告代理店の社員だ。宣伝予算をたっぷり持ってる会社から仕事をもらいたいんだ。欲しくて欲しくて仕方がないんだよ」
「それで今の会社にいたのか」
「うん。あそこの予算は何とか握れた。ほかにどこか知ってるか」
「テレビの番組を提供している会社だね」
「うん」
私は祈るように谷口の返事を待った。
しかし、谷口の口から次々にとび出した企業名は、私の期待をはるかに越えていた。
銀行、生保、損保、鉄鋼、石油、重工業。超一流の銘柄ばかりだった。
「それ、全部お前のとこの顔がきくのか」
「よく知らないが、宣伝の予算くらいのことなら、どうにでもなると思うよ」
「この化け物め」
私は呆《あき》れてそう言ったが、そのとたんに滝川先生の顔を思い出していた。
遺伝子の異常な配列。複合した性染色体。不死身のスーパーマン……。
「なあ、あの傷、もう治ったかい」
私は恐る恐る尋ねた。
「うん。傷痕《きずあと》もはっきりしないくらいだよ。本当に有難《ありがと》う」
私の背中を得体の知れない戦慄《せんりつ》が走った。