1
私ははじめ、その建物をどこかの国の大使館かと思った。谷口怜悧男《れりお》を乗せたベンツは、それ程豪壮な邸へ入って行ったのであった。
青い洋瓦《ようがわら》をのせた塀《へい》に囲まれた敷地は、いったいどれくらいの坪数があるのか、見当もつかなかった。場所は第一京浜を南に向かって泉岳寺の辺《あた》りで右折し、両側に高い石の塀がつらなるやや細い道へ左折した突き当たりであった。門を入るとよく手入れをされた芝生の庭がひろがっていて、背後の崖《がけ》にへばりつくような形で、敷地の割りには小さめの建物がある。二階だてで、古びてはいるがどっしりとした石造りの家だった。そして背後の崖には、手すりのある石段が幾重《いくえ》にも折れ曲がって上へ伸びていた。
「ここが日本聖母教団の本部なのかい」
運転手に恭々《うやうや》しくドアをあけられ、谷口と一緒に車を降りてポーチに立った私は、キョロキョロとあたりを見まわしながら言った。
「本部……」
谷口はそういう言い方に慣れないらしく、私の顔をちらりと見た。
「まあそう言うところだな」
谷口はあいまいに答え、正面の大きなドアをあけた。内部は大理石ずくめだった。敷物のない石の床に、靴音がばかに大きく響いた。
「おかえり遊ばせ」
黒いスーツを着た初老の女が、待ち構えていたように谷口の前へ現われてお辞儀をした。
「僕の友人だ。出先で偶然会ってね」
谷口がそう言うと、女は無言で私にも深々と頭をさげた。
「上の部屋へ案内してやってください」
谷口は鷹揚《おうよう》な態度で女に言い、
「ちょっと報告をして来るから」
と左側のドアへ歩み寄って行った。
「こちらへどうぞ」
黒いスーツの女は私の先に立って奥へ進んで行った。一度右へ曲がり、更に左へ曲がるとその女は立ちどまり、壁のボタンを押した。
私は呆気《あつけ》にとられていた。何とそれはエレベーターだったのである。喪服のような黒いスーツを着た女のあとからエレベーターに乗ると、その小さな函《はこ》は思いがけぬ勢いで上昇をはじめた。崖にへばりつくように見えた二階だての建物は、事実|崖《がけ》の中へ一部が食い込んでいて、エレベーターがその崖の内側を貫通しているのである。谷口が上の部屋と言ったから、二階へ連れて行かれるとばかり思っていたが、崖の上へ運ばれているのだった。
「どうぞ」
エレベーターがとまり、ドアがあくと、女は叮嚀《ていねい》な物腰でそう言い、私を先に外へ出した。
すぐ左に大きなガラス窓があり、東京港が見えていた。一気に高輪《たかなわ》の台地の上へ出てしまっているのだ。
「こちらへ」
あとから出た女が、また先に立って歩きはじめた。下の建物の内部は古びて重厚な感じであったが、そこはま新しいホテルのようだった。女は焦茶《こげちや》色のカーペットを敷いた短い階段を登ると、大きなソファーの並んだ応接室のような部屋へ入った。
「こちらでお待ちください」
女はそう言い残すと、外へ出てドアをしめた。ソファーの坐《すわ》り心地は体を吸いとられそうな感じで、私はなかなか落着けなかった。
十分間ほど一人きりでその部屋にいると、いきなりドアがあいて谷口が現われた。
「やあ、待たせてしまったね」
例の澄んだ瞳《ひとみ》と邪気のない笑顔だった。
「いったいどうなってるんだ」
私はなじるように言った。
「何のことだい」
谷口はちょっとおどけたように尋ね返して来た。
「ルンペンの王子さまがいつの間にかこんなどえらい所でわが物顔に振舞ってる。いったいあれからどんなことがあったんだ」
谷口はすぐには答えず、部屋の隅《すみ》の電話で紅茶を持って来るように命じた。
「ふしぎに思うだろうな」
受話器を置くと、私の向かい側に坐《すわ》ってそう言った。
「思うさ。これをふしぎに思わない奴《やつ》なんていないだろう。説明しろよ」
谷口は、うん、と頷《うなず》いたが、しばらく考え込んでいた。その谷口が坐っているソファーのうしろにドアがもうひとつあって、やがてノックの音がした。
「どうぞ」
谷口が答えるとドアがあき、花模様のワンピースを着た大柄な少女が、銀色に輝く紅茶のセットを盆にのせて入って来た。少女は物慣れた手つきで私たちに紅茶をついでくれると、黙って一礼し、静かにドアをしめて出て行った。
「日本聖母教団というのは戦前からある宗教団体だよ」
谷口は薄手の高価そうなカップに角砂糖を落しながら喋《しやべ》りはじめた。
「教義については興味がないだろうな」
「いや」
私は強く首を横に振った。
「事と次第によってはそういうことにも興味を持つさ」
谷口は持ち前の穏やかな微笑を泛《うか》べ、
「聞きたいと言うならいつでも教えてやるよ」
と言った。
「だがその前になぜお前がこんな金持の団体に関係するようになったかを教えてもらいたいな」
「とても簡単なことさ」
谷口は紅茶をひと口飲んでから答えた。
「実は、新宿で君にめぐり会う少し前から、この教団に誘われていたんだ」
「誘われるって……」
「教団の仕事を手伝わないかと言われていたんだよ」
「それじゃ、腹ペコで三光町あたりをふらついていたとき、お前はもうこの教団のことを知っていたのか」
「うん」
「呆《あき》れた奴《やつ》だな。それならさっさと就職しちまえばよかったんだ。そうすれば、射たれなくてもすんだじゃないか」
「いや」
谷口はゆっくり首を左右に動かした。
「そのときはまだ決心がついていなかったんだ」
「どうしてだ。ルンペン寸前だったじゃないか。こんな金持団体を知っているなら迷うこともなかったはずだぞ」
「彼らと別れる決心がつかなかったのさ」
「彼らと言うと……」
谷口は答えず、じっと私の目を見ていた。
「あのルンペンたちか」
私はそれをみつめ返しながら、つぶやくように言った。谷口はかすかに顎《あご》を引いて見せる。
「あの病院にいるあいだ、よく考えて見た。その結果がこうなったわけさ」
「よかったじゃないか」
「どうかな」
谷口の顔に、珍しく皮肉っぽい表情が泛《うか》んでいた。
2
小学生時代からの友達ではあったが、その豪勢な建物の中で見る谷口は、私にとって今までよりずっとへだたりのある存在になっていた。
実を言うと、私は谷口に体のことを尋ねたくてうずうずしていたのである。滝川先生の言うように、谷口が異常な配列の遺伝子でも持っているとすれば、何か自覚症状のようなものがあるのではないかと思ったのだ。しかし、その質問は谷口の生命の根源に関《かか》わるものであり、今では私よりずっと大きな権限を持っているらしい相手に、ずけずけとそういうことを言い出すのは気が引けた。
そこで私はまず、谷口の今の状態から尋ねることにした。
「教団の役員と言うと、いったいどういう仕事をするんだい」
「いろいろさ」
谷口はまた例の微笑に戻って言った。
それは何かを隠そうとするような表情ではなかった。
「信者たちの集会に出席することもあれば、幹部の会議に加わることもある。また、今日のように外部の企業に接触するのも役目のうちだしね」
「どこに住んでいるんだ」
「ここだよ。この建物の中に僕の部屋がある」
「大した建物じゃないか。エレベーターで崖《がけ》の中をあがって来たときには、本当に度肝《どぎも》を抜かれた」
「戦前は石段を登りおりしていたらしい」
「崖の上と下の土地がひと続きになっているなんて、聞いたこともなかったよ」
谷口は私を優しい目でみつめていた。
「宗教団体の中には大変な財力を持つものがあると聞いていたが、この教団などもそれだな。で、信者はどのくらいいるんだ」
「大して多くないね」
谷口は微笑を消して言った。
「宗教団体としては小粒なほうだよ」
「聖母教団と言うからには、信仰の中心にマリアさまを据《す》えているんだろうな」
「そう思ってもらってかまわない」
谷口はどうも教団の教義などについては語るのを避けたがっているような気配であった。
「俺《おれ》の仕事のことだけれど……」
私は話の方向を変えた。好奇心よりも仕事のほうが大切だと思ったのだ。
「本当にスポンサーを世話してもらえるかい」
谷口は気軽に頷《うなず》いた。
「うん」
「是非たのむよ、この通りだ」
私はソファーに浅く坐《すわ》り直し、膝《ひざ》に手を当てて頭をさげた。
「変ったね、君も」
谷口はそれを見て苦笑したようであった。
「変ったさ」
私はここぞとばかりに言った。
「いろんなことがあって、水商売から足を洗っちまったのさ。でも、知っての通り俺は高校までしか行ってないし、バーテンなんかをやっていたから、広告の世界じゃまるで赤ん坊なんだ。コネクションなんかもないしな。助けてもらえれば一生恩に着るよ」
「いや」
谷口はあわてて手を横に振った。
「世話になったのはこっちさ。そういうことでよければ、いくらだって恩返しをさせてもらう」
谷口はそう言うと立ちあがり、また電話機のところへ行った。
「伊藤さんを呼んでくれないか。そう、僕の応接室だよ」
谷口は受話器を耳に当てたまま私のほうに向き直った。
「伊藤さんと言う人は教団の総務局長でね」
どうやらその人に紹介してくれるらしかった。私はその声を聞きながら、あらためて部屋の中を見まわしていた。和風に言えば二十畳敷きほどの広さである。そこにふかふかのカーペットと革ばりのソファーが十ほど並べてあった。谷口はその豪勢な部屋の隅に立って、相手にここへ来るように命じていた。谷口のことだから、その言い方はあくまでも叮嚀《ていねい》だったが、要するに総務局長を呼びつけているのだ。
「これはお前専用の応接室なのか」
電話をおえた谷口に、私は呆《あき》れ顔で尋ねた。
「そうだよ」
谷口は、ちょっとすまなそうな表情になって答えた。
「役員をしていると言ったが、いったいどんな役についているんだ」
「導師と言うんだよ」
「ドウシ……」
「そう。導くと言う字に師匠の師を書く」
「それはたしか坊さんの……」
「うん」
「法事などで主役をつとめるお坊さんのことを導師と言わなかったかな」
「そうだよ。死者に引導《いんどう》をわたす僧のことも導師というが、聖母教団もその名称を使っている」
そう聞いたとき、はじめて私の心の隅に聖母教団への疑念が湧《わ》いて来た。キリスト教のことなど詳しい知識もないままに、何となく正統派の教団だと思い込んでいたが、組織の上層に導師などと呼ばれるものがあるところを見ると、新興宗教かも知れなかった。
「導師というのはどういうことをするんだい」
私はさりげなく尋ねた。
「信者の中の先生格の人間だと思ってくれればいい」
「さしずめ、神父さんと言ったところか」
「うん、そうだ」
「教団の中心になっている人はどう呼ぶんだい。教祖さまなんて言う人がいるのか……」
私が冗談めかして訊《き》くと、谷口は真面目な顔で否定した。
「そういうのはいないんだ。ただ、戦前にはそれに相当する存在があったそうだよ」
その言い方が妙に持ってまわった感じだったので、更に尋ねようとしたとき、ドアにノックの音が響いた。
「どうぞ」
谷口が少し高い声で答えると、ドアがあいて、五十四か五といった感じの角ばった顔の男が入って来た。
「総務局長の伊藤さんだよ」
谷口はまず私にそう言い、
「こちらは月岡君と言って、昔から僕が大変世話になっている人です」
と私を伊藤に紹介した。私が立ちあがって広告代理店の名刺を差し出すと、伊藤も私に名刺をくれた。
「新宿で射たれたとき、病院にかつぎ込んでくれたのが彼なんです」
谷口が言うと、伊藤はすでにその話を聞いていたらしく、
「あ、それはそれは」
と態度を改めた。
「その節は導師さまが大変お世話になりましたそうで」
私は返事に困った。谷口がいやにえらくなってしまったようで、なぜか自分までが照れ臭かったのである。
「彼はいま広告代理店に勤めているんですよ。うちの総務局の力でスポンサーを紹介して欲しいのだけれどね」
「ああ」
伊藤はお安いご用だと言うように頷《うなず》いた。
3
伊藤は私に仕事のことを二、三質問してからその部屋を引きあげて行った。短くて簡単な質問だったが、要を得ていてその方面にもかなり知識があるように思えた。
当然、私の胸は期待にふくれあがった。作ったばかりの自分たちの会社を大きくして行くことが、その時の私の最大の夢だったのである。伊藤の応対のしかたで脈がありそうだと感じたとたん、私は谷口に対しても機嫌を損《そこ》ねないよう神経を使いはじめていた。
「そうそう、言い忘れていたが、実は俺、SFのコンテストに入選してね」
私は伊藤が来る前の話題に戻らぬよう、そんな風に喋《しやべ》りはじめた。
「プロ作家への登龍門《とうりゆうもん》とまでは行かないが、それでも一応書ける人間として認められたことになるんだよ」
だが、谷口の反応は鈍かった。
「エスエフ……」
「知らないのか」
「うん。俺はあまり小説類は読まないんでね」
「空想科学小説のことさ」
「ほう……そんなものを書いていたのか」
「知らなかっただろう」
「うん」
「実は入選して俺も驚いているくらいなんだ。何しろ生まれてはじめて書いた作品だったんだからな」
谷口は、なあんだ、と笑ったが、急に真顔《まがお》になって尋ねた。
「空想科学小説が君の言うSFだとすると、スーパーマンなんていうのを扱うのかい」
「うん」
谷口はしばらく黙り込んでいた。
「スーパーマンがどうかしたのかい」
「いや、別に大したことじゃない。ただ……」
私はまた沈黙しそうになる谷口をじっとみつめた。
「ただ……」
促すように私が言うと、谷口はその話題を打ち切るように笑いながら、
「ただ生物学に興味を持っているだけさ。面白いからね、生命の謎《なぞ》というのは」
と言った。その言葉以外に証拠は何もなかった。しかし私には谷口が自分自身について、何か生物学的な問題を感じているらしいことが判《わか》った。
「生命の謎か」
私がそう言って話題をそちらへ向けようとすると、谷口はそれをさえぎるように声をたてて笑った。
「とにかくそれはおめでとう。お祝いをしなくてはいけないな」
谷口はそういうこまかな駆け引きができるような男ではなかったが、その時は偶然巧みな駆け引きと同じことになってしまった。
「是非とも大きなスポンサーを紹介しよう。仕事のほうが楽になれば、もっと小説を書くゆとりもできるんだろう……」
そう言ったのである。
「そうしてもらえると、本当に有難《ありがた》いんだ」
私は広告《アド》マン……いや、商売人になり切っていた。何よりもまずスポンサーが欲しくて、それさえ獲得できるならほかのことはどうでもいいという心境であった。
「プロの作家になれるといいね」
谷口はまじまじと私をみつめて言った。
「今まで考えもしなかったけれど、そう言われて見ると、君は小説を書いて暮らすのが一番|性《しよう》に合っているように思えるよ」
「頑張って見る」
私は媚《こ》びるように答えた。
「あれでうちの総務局長はなかなかの実力者だからね。近い内に広告の仕事のほうでも、きっといい知らせが届くと思う」
そのとき電話のベルが鳴り、谷口は立ちあがって受話器をとりあげた。どうやら仕事の話らしく、ときどき政党の名が出たりしていた。
私は帰る汐時《しおどき》だと思った。その電話がおわるとソファーから腰をあげ、
「会えてよかった。俺たちはやはり縁が深いんだな」
と握手を求めた。
「また今度ゆっくり会おう。光子さんにも是非会いたいんだ」
谷口はそう言って私の手を強く握り返した。
「話を聞けば光子もきっと会いたがるだろう。そうだ、よかったら光子をここへ訪ねさせてもいいかい」
「いいとも」
谷口はうれしそうに言った。
「俺はたいていここにいるが、今日のように何時間か外出することもあるし、地方へ出張することもある。だから、来るときはあらかじめ電話をしてくれ」
「判《わか》った」
「そうだ、名刺を渡してなかったな」
谷口はそう言うと、内ポケットから黒革の名刺入れをとり出して、私に一枚|寄越《よこ》した。
「送って行こう」
谷口は先に立ってドアをあけると、広い廊下を足早に案内して行った。
階段があって、そこをおりるとロビーのようなところへ出た。階段のすぐ脇に受付があり、お揃いの黒いスーツを着た若い女が三人、行儀よく並んで坐《すわ》っていたが、谷口の姿を見ると緊張した様子でさっと立ちあがった。
「車はあいているね」
谷口が訊《き》いた。
「はい」
右端の女が答えた。
「このお客さまを送らせて欲しい」
「はい、かしこまりました」
三人はうやうやしく頭をさげた。
「用事ができたので、これで失礼するよ」
私は頷《うなず》いた。
「仕事の件、くれぐれもよろしくな」
「安心してくれ。きっとうまく行くよ」
黒いスーツの女が受付のカウンターから出て来て正面のドアをあけた。手をあげて黒塗りの自家用車を呼んでいる。
「また来てくれ」
谷口は去りかける私にそう言うと、足早に階段を登って行った。外に出て振り返ると、その建物は八階だてのビルであった。
車が静かに近寄って来て、黒いスーツの女がドアをあけてくれた。崖の下の建物にいた初老の女が着ていたのと同じものだった。多分それが制服なのであろう。
「赤坂へお願いします」
私は白いカバーのかかったシートに坐《すわ》ると運転手にそう言った。
「かしこまりました」
がっしりした体つきの中年の運転手は、前を向いたまま軽く頭をさげて言い、車をスタートさせた。黒いスーツの女も、去る車に向かって頭をさげている。
戦果あり。
私は胸を弾《はず》ませてそう思った。分室の課長は今や新会社の社長というわけで、私はその社長にこのことを報告するのが楽しみであった。吉報を得た時に社長が示す子供っぽい笑い顔を思い泛《うか》べると、ついニヤニヤしてしまいそうだった。
だが、オフィスのある赤坂へ近づくにつれ、報告するにはまだ時期が早いように思えて来た。日本聖母教団の正体もはっきりとは知らないのだし、本当にあの総務局長がスポンサーを紹介してくれるかどうかも、まだ口約束の段階にすぎないのであった。
4
サラリーマンの生活に慣れて、私はその世界の人間になり切っていたようだ。谷口に会ったあと、すぐにスポンサー紹介の件を会社に報告しなかったのは、勿論《もちろん》慎重に事を運びたかったためでもあるが、それ以上に手柄を独占しようという気持が働いていた。
新しい会社は順調に業績を伸ばしていて、かつての分室の仲間たちはめいめい長と名の付く肩書きを得ていた。それぞれの立場で成績を競い合っていたのだ。
もしも私がその日すぐに事のあらましを社長に報告していれば、社長は必ずその件に誰かを加えるよう指示したはずである。私はそれを予想したからこそ、報告をさし控えたのである。できれば紹介してもらった会社へ単身乗り込んで、仕事の話を本ぎまりに近い所まで運んでしまってから報告したかったのだ。
そのかわり、社へ戻るとすぐ滝川先生に連絡をとった。
「先生、谷口怜悧男に会いましたよ」
そう言うと、先生は受話器を通して弾んだ声で答えた。
「そうか、会ったのか。それで彼は今、どういう生活をしているんだ」
「宗教団体の役員になっていました」
「宗教団体……」
「ええ。日本聖母教団というんです」
「え……」
先生の声が跡切《とぎ》れた。どうやら日本聖母教団を知っているような気配であった。
「会えないか」
先生が言った。
「いいですよ。連絡をとって見ます。何しろお世話になった先生のことだし」
「違うよ」
先生はじれったそうに早口で言った。
「君とだよ。今夜どうだ」
「なんだ、それなら今夜でもかまいませんよ」
「よし、それじゃ、君のほうの仕事がすんだら連絡してくれ。新宿で会おう」
「判《わか》りました」
私は電話を切ってから、自分のデスクに坐《すわ》ってしばらく考え込んだ。
たしかに不可解なことが多かった。ルンペン同様だった谷口が短い間にあれほどの地位に登っているのがまずふしぎである。私自身、同じような短い期間にバーテンから広告《アド》マンに変身していたが、谷口の変りようはその比ではない。とてつもない高級車を乗りまわし、行くさきざきで最敬礼をされているようなのだ。しかも谷口という男には、要領のよさなど微塵《みじん》もないのだ。谷口はあの教団から誘いを受けたという風に言っていたが、だとしたらいったいどんな人物が、どんな理由で谷口に誘いの手を伸ばしたのだろうか。
第二は滝川先生が早くから指摘している谷口の異常な体質のことである。私自身にはその異常というのをたしかめるすべはないが、若くはあっても正式の医学者である滝川先生が言うのだから、谷口の体が並外れた回復力を持っていることはたしかなのであろう。滝川先生はそれを遺伝子に関連づけて説明しようとしていた。そして谷口も、珍しく謎《なぞ》めいた言い方で、自分が生物学に関心を持っていることを告げていたのだ。その時の私の直感では、たしかに谷口は滝川先生と同じことを自分の体に関して考えているようであった。
私はそう考え進んで来て、急に頭を強く振った。余分な考えを振り払おうとしたのである。その先を考えて行けば、あの狙撃事件に行きついてしまう。不死身のスーパーマンとか、超男性とか言う考えは、今の私に百害あって一利もないことなのだ。サラリーマンとして社会の階層の更に上のほうへ登って行くためには、どうしても谷口が必要なのである。その谷口に向かって、お前が持って生まれた肉体には常人にない秘密があるのではないか、などとどうして言えよう。私は広告《アド》マンなのだ。SFは趣味でしかない。空想の世界と現実の生活をごっちゃにして、万一谷口の機嫌を損じでもしたら、折角掴《せつかくつか》んだコネクションが消えてしまうのである。
そうだ、本当に光子を谷口のところへ訪ねさせよう。
なかば外交辞令で谷口に言ったことを、私は実行に移す気になった。約束どおり大きな広告主《クライアント》を次々に紹介してくれるなら、光子だろうが誰だろうがどしどし投入して行くべきだと思ったのである。
そう決心すると、急に滝川先生に会うのが億劫《おつくう》になって来た。先生は人並み外れた空想家で、現実と虚構の見境がつかないのではないかと思ったりした。
しかしもう会う約束をしてしまっていた。私は夕方になると、あまり気の進まぬままに先生と連絡をとり、新宿へ向かった。
その頃には私も先生も、もう四番地へは出入りをしなくなっていて、落合《おちあ》ったのは角筈《つのはず》の通りに面した酒屋の地下にある、ちょっとクラシックな感じのバーであった。
「よう」
先生は先に来て、カウンターでウイスキーのオン・ザ・ロックをちびちびやっていた。
「俺にも同じのを」
私はバーテンにそう言い、先生の表情を窺《うかが》った。先生は谷口のことを聞きたくてうずうずしているようであった。
「おかげさまで、会社はこのところ順調に伸びています」
私ははぐらかすようにそう言った。
「それはよかったな。で、谷口怜悧男はどうだった」
先生は私のはぐらかしには乗って来ず、いらいらしたように谷口の件を切り出して来た。
「立派なもんですよ」
私はことさら呆《あき》れたように言いながら、谷口にもらった名刺を先生に渡した。
「日本聖母教団……」
先生は唸《うな》るように言った。
「ご存知のようですね、その教団を」
先生は頷《うなず》いた。
「医学界にも聖母教団から金が出ているんだ」
「ほう」
つとめて現実的であろうとしていた私だが、やはり好奇心がうずいた。
「慈善行為ですか」
「いや」
先生は強く否定した。
「そうじゃないんだ。聖母教団はやけに現実的でね。幹部に政治好きが多いことで有名なんだ。老人とか子供たちの施設などには金なんか出さないよ」
「じゃあその医学界への金というのは……」
「聖母教団という名を電話で聞いたときは、本当に驚いてしまった」
先生は今更《いまさら》のように首をすくめて見せた。
「なるほど谷口があの教団に入り込んだのかと感心をした」
「なぜ……」
「聖母教団は多額の研究費を出しているんだ」
「何の研究費です」
「発生学関係のさ」
「発生学……」
「すべての動物は卵から生ずる。これはイギリスのウイリアム・ハーヴェーの言葉だが、発生学というのは、動物の発生に関する学問なんだよ」
「なぜそんなものに聖母教団が……」
「きまっているじゃないか」
先生は私を睨《にら》むようにして言った。
「聖母マリアはキリストの母だろう」
処女懐胎……私の頭にその四字が泛んだ。
5
現実の生活で私は広告《アド》マンとしての道を拓《ひら》きたかった。しかし持って生まれた性格の一部が、それを放棄してでも谷口怜悧男の謎《なぞ》に挑《いど》めとけしかけているようであった。
「聖母教団が処女懐胎の研究をやらせているんですか」
恐る恐るそう言うと、先生は当たり前だというような顔で私を見た。
「俺は最初から言ってるじゃないか。谷口の体は異常だって」
私は仕方なく頷《うなず》いた。
「谷口が聖母教団に入れられたのは、あいつの体が異常だからだと言いたいんですか」
「だって現に谷口は聖母教団に入っているんだろう」
「ええ。でも、そうだとしたら聖母教団はどうやって谷口の体のことを知ったんでしょうか。あいつは新宿へ来る前から聖母教団の誘いを受けていたようなことを言っていましたよ」
「そこだな、問題は」
先生はグラスから手をはなして腕を組んだ。
「俺もあの教団のことについてはあまりよく知らない。少し調べて見ようじゃないか」
「ええ」
聖母教団のことについて調べるのは私にも異存がなかった。むしろその必要を感じた矢先なのである。私はその日のことを、順を追ってくわしく先生に話した。
「導師か」
先生はそれを聞きおわると、谷口の名刺をあらためて眺め、そうつぶやいた。
「本来は仏教で使う言葉でしょう」
「そうだな。仏教とキリスト教がごちゃまぜになっているような感じだ」
「やはり、聖母教団というのは新興宗教のひとつなんでしょうね」
「厳密に行こう、厳密にな」
先生は苦笑して言った。
「新興宗教と言うと、我々はなんとなくインチキ宗教と並べて考えてしまう。しかし、どんな宗教だって最初は新興だ。だから、現在新興宗教と呼ばれるものにも、おのずから二通りあって、古くからの正統派よりもっと正統的なものもあれば、いわゆるインチキ宗教もあるということだ。聖母教団の場合はどうもそうインチキな匂いはして来ない。それに、戦前からある教団なのだしな。この導師という名称だって、戦争中の圧力を避ける目的で使われたのかも知れないじゃないか」
「野球が、ストライクやボールを、よし、とか、だめ、とか言いかえて生きのびたようにですか」
「そうだよ。何しろ鬼畜米英と言ってお互いを励まし合った時代だ。少しでも欧米風の感じから遠ざからなければいけなかったのだろう」
先生はそこでちょっと言葉を切り、私をじっとみつめた。
「何です……」
「俺の考えていることが判《わか》るかい」
先生の表情は、SFのアイデアを語り合うときのものになっていた。
「また何かいいアイデアがうかびましたか」
すると先生はたのしそうに笑った。
「谷口のことさ」
「なんだ」
私は拍子抜けしてウイスキーを飲んだ。先生はその私の肩に手を置いて顔を寄せると、低い声で言った。
「SFと日常生活との接点を求める……君はいつもそう言っていたね」
「ええ、SFを書いて行くならそれをやりたいと思っています」
「それが現実に起っているとしたらどうだい」
「谷口のことですか」
「うん。谷口のおふくろさんという人は、いったいどういう女性だったのかな」
「優しい、いかにも母親らしい……」
そう言ったとたん、私はギョッとした。
「谷口のお母さんが聖母マリアだと……」
先生は深く頷《うなず》いて見せた。
「谷口の母親が聖母教団に関係していたとしたら話は面白くなるぜ」
「お母さんが聖母……」
「そうだ。谷口は処女懐胎で生まれた子供ということになるじゃないか」
「谷口がイエス・キリスト……」
「そうだよ」
私は谷口という男の著しい特徴である、あの澄んだ瞳《ひとみ》と邪気のない笑顔を思い泛《うか》べていた。
「突然変異のように、何千万人、何千億人に一人というような比率で処女懐胎が起るとしたらどうだい。二千年前にそれで一人生まれた。そして今、谷口がいる」
「面白すぎますよ」
「でも、それなら谷口が聖母教団に招かれた理由の説明がつくじゃないか」
「あいつがキリストだなんて」
「何も俺は生まれかわりのことを言っているんじゃないぜ。ただ処女懐胎のことを言っているだけだ。処女懐胎で生まれた子供が、みなキリストのような存在になるとは限らない。だから谷口は平凡な男として一生をおえるかも知れない。現に谷口には父親がいなかったそうじゃないか」
「待ってくださいよ」
私はなぜかうろたえていた。
「父親がいないと言ったって、それは小学校の頃、もういなかったというだけです。はじめからいなかったというわけじゃない。俺だって一年生のときに親父に死なれていますからね」
「それはそうだ」
先生は笑いながら元の姿勢に戻った。
「父《てて》なし子というのが全部処女懐胎だったらえらいことになってしまう」
「世間はキリストだらけ」
私たちは笑い合った。それがきっかけで、話題は久しぶりにSFのほうへ移って行った。先生は相変らずSFに情熱を燃やしていて、私にいろいろなアイデアを提供してくれた。
しかし私のほうは、もうすっかり広告《アド》マンになり切っていて、そういう話にも昔のようには夢中になれず、適当にあしらう、という感じであった。
そのバーを出て先生と別れると、私は代々木のアパートへ帰った。
「早かったのね」
部屋へ入ると光子は笑顔で言った。いつものことながら、私はそういう光子の迎え方が好きだった。広告《アド》マンの仕事はとかく帰宅時間が不規則になりがちだったし、スポンサーに対する接待も多かったので、飲んで帰ることも多いのだが、光子はどんなときでも、外で戦って来た男を迎えるという態度を崩さなかった。私はそういう光子を好ましく思うというよりは、内心尊敬しているほどであった。
「谷口に会ったよ」
そう言うと、光子の顔によろこびの表情が溢《あふ》れた。
「どこで……何をしているの……」
私は服を脱ぎながら、新宿で滝川先生に言った説明をもう一度くり返した。
「ちゃんと暮らしているのね」
「ちゃんとどころか、大した生活だよ、あれは」
「会いたいわ」
「いいとも。明日にでも訪ねてやってくれ」
私はけしかけるように言った。
6
磯島忠義の秘書と称する人物から連絡が入ったのは、私が谷口に会ってから四日後のことであった。
「磯島忠義……どうしてそんな大物を知っているんだ」
オフィスで社長が目を剥《む》いて見せた。
「とにかく行って来ます」
私は上着の袖に手を通しながら言った。今すぐにサファイア・ホテルのロビーへ来いという電話だったのである。
「おいおい、一人で大丈夫かよ」
社長はどうやら一緒に行きたそうだったが、私は一人でオフィスをとび出した。保守党の大物で現職の通産大臣を、聖母教団が紹介してくれるというのだ。私は無我夢中でそのホテルへ駆けつけた。