1
ドアがあいた時、私は反射的に、
「いらっしゃいませ」
と言っていた。奥に細長いそのバーの中は煙草の煙がこもって、私の頭のすぐ上にあるペンダント灯の光の中でも、青白い煙の筋がゆらゆらと渦《うず》を巻いていた。
顔をあげた私は、カウンターごしにその客を見た。カウンターは黒のデコラ貼《ば》りで、目の前にミキシング・グラスとシェイカーが置いてあった。その向こうには井田さんと中島さんの顔があり、中島さんはハイボールのグラスをいじりながら、黒い花びらを低い声で唄《うた》っていた。
その客の顔に見憶えはなかった。私は嫌《いや》な客だなと感じた。夜の世界に暮らせば、やくざな連中とも自然に付合いができる。いや、いわゆる堅気《かたぎ》の人々から見れば、私自身がやくざな人間なのだ。だからその小柄で貧相な若い男が、組の連中の中でもいちばん危険な、思慮というものを自分から放棄してしまったようなチンピラであることが、一目で判《わか》ったのだった。
髪を短いスポーツ刈《が》りにして、少しだぶつき気味の黒の上着に細身のズボン、白っぽいネクタイをゆるめて、そのチンピラはスツールに腰かけた客のうしろを、ゆっくりと奥へ進んで行った。
カウンターは満席で、一番奥の電話機が置いてある所が一つ空いているだけだった。私はそのチンピラを、そこへ坐《すわ》らせようと考えて、カウンターの中を横歩きに奥へ移動しかけた。
「いらっしゃいませ」
奥のテーブルへ飲物を運びに行っていた谷口が、ピアノのうしろを抜けてカウンターのほうへ出て来たのはその時であった。谷口は愛想よくその客に笑いかけていた。電話機のそばには会計《レジ》の菊江がいたし、谷口が出て来たので私は移動するのをやめ、元の位置に戻るほんのちょっとの間、冷蔵庫の前で立ちどまっていた。その冷蔵庫は氷を入れて冷やす旧式な奴《やつ》だったが、炭酸《ソーダ》のボンべと直結していて、上にソーダ水のコックがついていた。
黒い花びらを唄《うた》いおわった中島さんが突然グラスをあげ、
「アンポ、ハンタイ」
と素《す》っ頓狂《とんきよう》な声で叫んだ。
その叫びと、チンピラが上着の内側から黒い物をとり出すのが同時だった。私はそのチンピラが、前へ突き出した拳銃《けんじゆう》に左手をそえるのを見ていた。チンピラはちょっと腰を落したようだった。谷口はそれを冗談だと思ったのかも知れない。笑顔のまま、持っていた銀盆《トレー》をさしあげて、胸の辺《あた》りをかばうようにした。
銃声がはじけた。中島さんがグラスを落して前のめりにカウンターにしがみつき、井田さんは体を右に開いて、のけぞりながらうしろを見ようとした。
「何だ……」
井田さんが叫んだ時、チンピラが手にした拳銃《けんじゆう》の銃口から、すうっと気味の悪い感じで紫色の煙が出た。銃声と一緒に鈴木八郎が弾いていたピアノがぴたりとやみ、内部の弦を指で叩《たた》いた時のような鈍い音が、ビーンといつまでも消え残っていた。
よろり、と谷口がよろけた。トレーに穴があいていた。谷口はそのトレーを取り落し、トレーは床の上で回転しながら音をたてていた。
「マネージャー、どうしたのよ」
奥の中二階にいたママが、私に叱《しか》るような声を送って来た。
「待て、こいつ」
井田さんがチンピラの手首を掴《つか》んだ。拳銃は呆気《あつけ》なく井田さんの手に移った。
「何だお前。何をしたんだ」
井田さんは右手で拳銃を握り、銃身でチンピラの胸を小突《こづ》いた。チンピラがあとずさると、威勢のいい井田さんに煽《あお》られたように、カウンターの客たちがいっせいにスツールをおりてドアのところへかたまった。
私はビールを冷やす桶《おけ》に足をかけ、カウンターへとびあがると、谷口のそばへ降りた。谷口は左手で右の胸をおさえ、床にくずおれたところだった。その五本の指が赤く染まっていた。
「救急車」
私は叫んだ。
「何よ、何よ……」
和服を着たママが中二階の階段を駆けおりて来た。カウンターの中の、一番入口寄りにいた志村が、ガタガタと簀《す》の子《こ》に音をさせ電話機へ走った。
「志村、救急車だ」
私はまた叫んだ。おろおろとなすすべもなかったレジの菊江が、志村に突きとばされるようにどかされて、急に甲高《かんだか》い声で泣きはじめた。
私もなすすべを知らなかった。胸から血を流す谷口を、どう扱っていいか判《わか》らず、ただそのそばにしゃがんで顔をのぞき込んでいた。
「大丈夫か」
そう言うと、谷口はかすかに顎《あご》を引いて顔を歪《ゆが》ませた。
「谷口君、どうしたの」
なぜか誰《だれ》も倒れた谷口のほうへ近寄ろうとはせず、ママだけがそばへ来て言った。
「こいつが拳銃《けんじゆう》をぶっ放しやがったんだ」
井田さんはチンピラをまた銃口で小突《こづ》いて言った。その声は、静まり返った店の中にいつものざわめきをとり戻させるきっかけになったようだった。
「なんでこんなことをしたのよ、あんた」
私のうしろを通り抜け、井田さんを押しのけるようにして、百合《ゆり》というホステスがチンピラに食ってかかった。
「ばか、どいてろ」
井田さんは新聞記者だけあって、こういう状況を的確に把握《はあく》しているようだった。
「こいつは人を射ったんだぞ。あの男が死んだら殺人犯なんだからな」
殺人犯、という言葉を聞いて百合は怯《おび》えた。
「やだ、人殺しなの」
悲鳴をあげるように言い、奥のほうへ退いて行く。
そうだ、谷口はチンピラに拳銃《けんじゆう》で射たれたんだ。私の頭の中でも、やっと事件の輪廓《りんかく》がかたまりはじめていた。
2
「一一○番だ。何をやってるんだよ、お前」
奥から出て来た客の一人が焦《じ》れったそうに喚《わめ》いた。志村は慌《あわ》ててまた受話器を取った。
「さあ、みんな静かに」
ママは店の女の子たちに言い、
「何でもありません。お席へお帰りください」
と奥へ向かって両手をひろげ、うわずった声で言った。
「何でもなくないぞ」
井田さんの同僚の中島さんが、酔って体をゆらゆらさせながら喚《わめ》く。
「中島ちゃん、協力してよ」
ママはその声に振り返り、今にも泣き出しそうな顔で言った。
「大丈夫か。まさか死んじまったんじゃないだろうな」
誰かが奥のほうへ戻りながらそう言った。
「大丈夫」
私は店中に聞こえるような声で答えた。
「ここへ当たってるよ」
倒れた谷口の頭のあたりがピアノの左の側面になっていて、その黒い板をピアニストの鈴木八郎が指で撫《な》でながら言った。
「え……」
私は谷口の体を起して背中をたしかめたい衝動に駆られた。たしかにその黒い艶々《つやつや》とした板に、銃弾が深くめり込んだらしい穴があいていた。
「体を突き抜けたのか」
私は谷口に訊《き》いた。谷口の蒼《あお》い顔は答えなかった。射たれた当人に、貫通したかどうか判《わか》るわけもなかろう。
「えらいことになった」
鈴木八郎の顔を見ながら私は低い声で言い、まだ井田さんと向き合って突っ立っているチンピラのほうを見た。
その頃になって、客たちの間にもやっと怯《おび》えがひろがって来たようだった。
「どうするんだ。こいつを」
ドアのところにかたまって、チンピラの退路を断つ形になっていた六人ほどの客たちが、心配そうな顔をしていた。
「ドアに鍵《かぎ》をかけてくれませんか」
私は辛うじてそう頼むだけの知恵を働かせた。
「中島。お前、外へ出てドアに寄りかかってろ」
井田さんが言うと、
「よし来た」
と中島さんがチンピラの横を通り抜けざま、
「こん畜生め」
と言ってチンピラの頭をコツンと撲《なぐ》ったようだった。
「何すんだよ、この野郎」
チンピラがはじめて声を出した。喉《のど》にひっからまったいやらしい声だった。中島さんと一緒に二人ほど外へ出て行ったようだった。
「黙ってそこへ入れ」
体の大きな井田さんは、チンピラを威圧するように大きな声で言い、相手を後退させた。ドアの手前でカウンターが曲がっており、入口の壁との間にスツールが二つ置ける程の隙間《すきま》があった。そこからだとカウンターの内部がまる見えだから、客の中でもごく親しい常連が坐《すわ》る席になっている。
みんなチンピラの体に触れるのが嫌《いや》らしく、大げさにドアや窓ぎわへさがって、そいつの通る場所をあけた。
「てめえら、舐《な》めんなよ」
チンピラはまたいやらしい声で言った。
「黙ってろ」
井田さんが言った。チンピラはカウンターと壁にはさまれた狭い空間におしこまれ、ほとんど表情を動かさずに立っている。
「志村」
私はバーテンを呼んだ。
「はい」
志村はキビキビと答える。
「谷やんの体に何かかけてやらなくちゃ」
血が大量に流れ出していた。
「遅いわねえ。何やってるのかしら」
ママが戻って来て心細そうに言った。志村は毛布を取りに奥の階段へ走って行ったらしい。
「月《つき》さん、これで」
鈴木八郎がピアノの上に楽譜などと一緒に積んであった古新聞を私に渡した。赤いプラスチックのタイルを貼《は》った床に谷口の血が溜《たま》りはじめていたので、私は何の気なしにその血溜《ちだま》りへ古新聞を一枚置いた。すると古新聞はみるみる赤く染まりはじめ、何もしない時より余程|物騒《ぶつそう》な感じになってしまった。
「わあ、ひでえ」
ドアのほうにいた客たちが、谷口の流す血の量に気付いて驚きの声をあげた。私は慌てて体の位置を動かし、ドアのほうから見えないようにして、夢中で血を拭《ふ》き取りはじめた。
「谷やん、死なないでよ」
ママがしゃがみこんで小声で谷口に言った。励ましているのではなく、頼んでいるのだった。
「おい、帰るぞ」
奥の地下になったほうの階段から、三人連れの客がそう言ってあがって来た。
「ママ」
私は目配《めくば》せして首をかすかに横に振った。ママは急いで立ちあがると、
「ちょっと待ってくださらない……」
と客の行手をさえぎった。
「また来るよ」
客は強引に帰ろうとする。
「もうすぐですから。お願いします。もうちょっと下にいてください」
ママは先頭の客の手を掴《つか》んで出口のほうへやるまいとした。
「巻添えになるのはご免だよ」
客は冷たく言う。いつも物判《ものわか》りのよさそうなことを言い、どうやらママを目あてに通って来るらしい信用金庫の理事をしている男であった。
「巻添えになんかなりませんよ」
私はむしゃくしゃして来て、谷口のほうを向いたまま独《ひと》りごとのように言った。
「警察が来る前にお帰りになれば別ですがね」
少し声を大きくしてそうつけ加えると、
「何だ、自分のほうで不始末をしでかして置いて」
と、その客は私を罵《ののし》った。
「まあまあ、もうちょっと下でお待ちになって」
それをママが元の席に押し返して行く。
「もうこんな店へは二度と来んからな」
客は不承不承おりて行った。パトカーだか救急車だかよく判らないが、とにかくサイレンの音が聞こえはじめていた。
3
先に店へ現われたのは警官だった。外の通りへ出て張り番をしてくれていた中島さんたちがまずドアをノックしてあけさせ、ゾロゾロと戻って来た。警官が二人、そのあとから続いた。
「これが犯人だ」
井田さんが拳銃《けんじゆう》を握ったまま言うと、何を勘違いしたのか、警官はいきり立って井田さんに呶鳴《どな》った。
「拳銃を寄越《よこ》せ」
井田さんはむっとしたらしく、
「持ってけ、ほら」
と銃を渡した。
「名前は」
「ばか、射ったのはこいつだ」
井田さんはそう言い、
「あとはまかしたぞ」
とチンピラの前を離れた。もう一人の警官は谷口のそばへ来て私に訊《き》いた。
「この人は……」
白いワイシャツに蝶《ちよう》ネクタイ。横たわっているのがバーの床なのだから、バーテンかボーイであることは一目で判《わか》りそうなものだった。
「あいつが来て、いらっしゃいませと出て行ったら、いきなり射たれちゃったんですよ」
私は口をとがらせて言った。警官が現われたとたん、焦《じ》れったい感じが余計につのった。
「君は……」
「マネージャーです」
「これは店員か」
「きまってるじゃないですか。それより早くしてください」
すると警官は私を睨《にら》んだ。何を早くしろと言う……そんな表情だった。
「救急車ですよ」
「まだ呼んでないのか」
「呼んだけど来ないじゃないですか。早くしてください」
警官は答えずに谷口の胸の辺《あた》りを指でさわって見ている。
「右と左が逆だったら即死だよ、これは」
そう言って立ちあがり、ちらりと一度チンピラのほうを見てから、逆に店の奥へ入って行って中二階や地下をのぞいていた。
「おい、手錠ぐらいかけたほうがいいんじゃないのか」
中島さんが入口の警官に言った。そのチンピラに対して、まるで不審尋問のような調子で、ボソボソと何か訊《き》いていたからだ。
「本当にお前がやったのか」
「あ……」
中島さんはそのそばで額に手を当て、大げさに呆《あき》れて見せた。
「甘《あめ》えなあ。さすが民主警察だ」
チンピラは当然のことながら、否定も肯定もしない。客たちもみないらだっていた。
「そいつがやったんだよ。俺《おれ》たちが証人だ。なあ……」
「うん、そいつが射ったんだ」
警官は舌打ちをすると、チンピラの身体検査をはじめた。
「何だこれは」
チンピラはポケットにナイフをしのばせていたらしい。警官がごついナイフを突きつけるようにして訊《き》く。
「ナイフどころか拳銃《けんじゆう》を持って来てぶっ放したんだぞ。手錠ぐらいかけろよ」
井田さんが叱《しか》るように言った。それを聞いてチンピラは薄笑いを泛《うか》べ、気取った感じで両手を前に揃《そろ》えて出した。警官のほうがかえって不貞腐《ふてくさ》れたような表情になった。
「あんたは……」
「新聞記者だ。目撃したよ」
警官はかすかに鼻を鳴らし、手錠をとり出すと大儀《たいぎ》そうにチンピラの手首にかけた。やっと救急車が近付いて来たようだった。もう一人の警官が外へ出て行く。パトカーの無線で報告するのだろう。
サイレンの音がダブっていると思ったら、救急車のほかにパトカーがもう一台やって来ていた。救急車で来た白衣の男たちのほうは至ってテキパキとしていて、谷口の様子を一目見るなり、ひどく緊張した様子で担架を店の中へ入れた。
「どなたか一人来てくれますか」
谷口を担架にのせながら言うので、私がついて行こうとするとママがとめた。
「あんたは残ってよ」
心細そうだったし、あとの騒ぎが大変なのは目に見えていた。
「志村、頼む」
私はバーテンの志村に言った。志村が頷《うなず》いて出て行こうとすると、泣きべそをかいたレジの菊江が慌てて金を少し握らせたようだった。
谷口は白衣の男たちにあっさりと運ばれて行った。
あとから来た二人の警官は、先に来た二人より少しましな感じだった。私たちの説明を素直に納得してくれて、
「それじゃ、あの男はこの店へ今まで一度も顔を見せたことはないと言うのだね」
と念を押したりした。事実その通りで、私にはそのチンピラが狂っているとしか思えなかった。
「薬か何かでラリってるんじゃないのかな」
井田さんたちもそう言って首を傾《かし》げる。先に来た二人は、チンピラを連れて出て行ってしまった。交番から自転車に乗った警官が現われ、そのあとしばらくすると私服の刑事も二人やって来た。
「あの、これじゃお客さんに迷惑なんで、引取ってもらいたいんですが」
私が刑事に言うと、
「そうだな。これじゃ商売にならねえな」
と頷《うなず》き、
「一応、居合わせた客の名をメモしといてくれるかい」
と耳打ちした。
「はい」
私はカウンターの中へ戻って、レジのところで客に気付かれないようにメモをした。その間にママが客の間を詫《わ》びてまわっていた。
会社の接待などで来ていた客は、あたふたと店を出て行ったが、常連の何人かは居残っていた。私は看板を消し、店の奥の灯《あか》りも半分に減らして薄暗くすると、残った客たちにウイスキーを注いでまわった。みんな興奮していて、言うことも似たりよったりだった。
「ラリってるんだよ」
「ガン・クレージーという奴《やつ》だな」
「谷やんも可哀そうに」
運ばれていった病院から志村が電話を寄越したのは、小一時間もしたあとだった。
4
それでなくても薄暗い店の中がいつもより一層薄暗くされて、ひどく侘《わび》しい感じだった。谷口が倒れていた床の辺《あた》りに、縁起直しの盛《も》り塩が、かなり大きな白い円錐《えんすい》形を作っていた。その塩も、ホステスの一人が近くの酒屋へ買いに走ったもので、別に漬物《つけもの》を自前で作るわけではないから、バーのカウンターには盛り塩にできるような湿った塩はなく、グラニュー糖のようなサラサラの食卓塩だけだったのである。
はやばやと閉店してしまっていた。谷口が危篤《きとく》状態だという報告が入ると、ママはすっかりやる気をなくして居残った常連も追い返し、カウンターの端にレジの菊江と向き合ってしょんぼりと坐《すわ》っていた。
「どこのチンピラだったのかしら」
ホステスたちが小声で言っている。
「谷口さんも災難よねえ」
「でもさ、あの時あの人が出て行かなかったら、誰かほかの人が射たれたかも知れないわよ」
「そうね。案外井田さんあたりがやられてたかも知れない。だってそこのところにいたんでしょう。あいつがちょっとピストルをこっちへ向けてれば、井田さんがやられてたとこよ」
「でも井田さんて、さすがね。頼もしかったわ。すぐピストルをとりあげちゃってさ」
「新聞記者だから慣れてるのよ、きっと」
「あら嫌《いや》だ、井田さんは学芸部の人よ。事件記者じゃないわ」
たしかに井田さんは頼りになった。もし井田さんがいなかったら、あのチンピラは拳銃《けんじゆう》を持ったままだっただろうし、そうなればパトカーが来るまでに逃げ去ってしまっていただろう。
私はそっとママに近付いて言った。
「病院へ行きたいんですけど」
するとママは下を向いたまま答えた。
「いま志村君が帰って来るわよ」
その様子を聞いてから出掛けろと言う意味らしかった。
「ちょっと」
ママはスツールをおりると、そう言って暗い奥のテーブルへ向かった。私はカウンターをくぐってあとについて行った。
「心当たり、ある……」
ソファーに向き合って坐《すわ》ると、ママは私にそう言った。
「いいえ」
私は首を横に振った。
「本当に全然心当たりはないの……」
「ありませんよ。だいたい、あんなチンピラなんか見たこともない」
「そうじゃないのよ。だって、谷やんを連れて来たの、あんたじゃないの」
それはその通りだった。この〈四番地〉という店で谷口を働くようにさせたのは私なのだ。しかし、今夜の事件が谷口のほうに責任があるようには考えもしていなかった。
「あのチンピラが、いきなり拳銃《けんじゆう》をぶっ放したんです。谷口は偶然あいつの前へ出て行っただけですよ」
自然に私の言い方はきつくなっていたようだ。
「そう言い切れる……。それならいいんだけれど」
ママは気弱げな声で言った。
「谷口のほうに、狙《ねら》われるわけがあったと言うんですか」
「わたしはそれが知りたいだけよ。谷やんがあのチンピラと何の関係もなかったのか、それともあったのか……。それだけよ。何も谷やんが悪いなんて言っているんじゃありませんからね」
ママの気持は判《わか》った。判った上でもう一度考えて見ると、私にも確信はなかった。谷口がチンピラに狙撃《そげき》される理由をまったく持っていなかったかどうか、そこまで詳しいことは知らないのである。
「友達、って言ったわね。あんたと谷やんは……」
ママが穏やかな口調で尋ねた。
「ええ」
「古いお友達……」
「子供の頃からの友達です」
「そう。で、その後もずっと付合ってたの」
私は返事につまった。
「どうなの」
ママに詰め寄られて、私は仕方なく答えた。
「久し振りに会ったんです」
「バッタリと……」
「ええ。三光町でバッタリ会ったんです。久し振りだからエルザでコーヒーを飲みながら話し合ったら、失業中だと言うんで」
「親友だったのね」
ママは同情するように小さく頷《うなず》いて見せた。
「ええ」
「でも、こういう店で働いた経験なんて、本当はなかったんでしょう」
私は黙って頭を掻《か》いた。
「ほら見なさい。嘘《うそ》ついちゃだめよ」
「すみません」
「とにかく困ったことになったわね。井田さんたちが余計なことするから」
ママは舌打ちをしそうな顔で言った。井田さんと中島さんが、同じ新聞社の社会部の連中を呼んでしまったのだ。二人は店の常連だし、とりわけ今夜は井田さんの事後処理に救われた形だったから、その取材に協力しないわけには行かなかった。
しかし、夜の新宿の満員のバーで拳銃《けんじゆう》を射ったとなれば、朝刊にかなり大きく扱われることは目に見えていた。
「信用金庫の渡辺さんを怒らせてしまったし」
私が詫《わ》びをかねて言うと、ママは案外あっさりした態度で、
「いいのよ、あんな人は」
と言った。
「ああいう時、人の本性って判《わか》るものね。それにひきかえ、井田さんは立派だったわ。あとでお礼をしなくてはね」
「そうですね」
「でも、谷やんのこと、どうする……。お店としては、そうたいして力になってあげられないわよ。だって、うちに来てからまだ二週間にもなってないんだもの」
「僕がなんとか考えます」
行きがかり上、そう言わざるを得なかった。
「志村君が帰って来たら病院へ行ってあげて。昏睡《こんすい》状態と言うんじゃ、あたしなんかが行っても仕方がないしね。それからドアに臨時休業の札を貼《は》っちゃって頂戴《ちようだい》」
ママはそう言うとホステスたちのほうへ行った。
5
五月のおわりで、生暖かい風の吹く晩だったが、街の空気はなんとなくとげとげしい感じだった。
臨時休業の札を貼《は》ったドアをあけて外へ出ると、私はズボンのポケットに両手を突っ込んで西大久保のほうへ歩きだした。そのあたりには、三メートルか五メートルおきぐらいに女が立っていて、
「今晩は」
と声をかけて来る者もいた。ひと頃多かった街娼《がいしよう》も近頃は影をひそめ、道に立っている女たちはみなキャッチ・ガールと呼ばれる客引きだった。路地の奥の小さな店から出て来て、酔っ払った鴨《かも》をくわえ込むのだ。要所要所に出ているおでんなどの屋台は、そういった連中を取りしきる地元の暴力団のもので、うっかり首を突っこむと、たかが屋台のおでんに法外な金を払わされたりすることもあった。
「ねえねえ。あんたのとこで殺しがあったんだって……」
顔見知りのキャッチ・ガールが私の腕をつかまえて引きとめた。
「殺しじゃないよ」
「でも、ハジキをぶっ放したって」
「うん」
「どこの奴《やつ》……」
「それがよく判《わか》らないんだ」
「ヤクで狂ってたんだね」
その女は自分の頭へ人差指を押しつけて言った。たちまち私のまわりに人垣ができた。
「やられたのは誰なの」
「新米のボーイさ」
「災難だねえ、ほんとに」
「でも、客じゃなくて助かったよ」
「あたしらも、こんな所に突っ立ってるんだから、そんなヤバいのが出て来たら堪《たま》んないね」
女たちは首をすくめた。私はその女たちの名など、一人も知ってはいない。ただ蝶《ちよう》タイをしめてしょっちゅうその道を行ったり来たりするから、お互いに自然に顔を憶《おぼ》えただけだ。そして、その女たちもすぐに新しい顔と入れかわってしまう。
「よう、月《ツキ》さん」
妙なアクセントで呼ばれると、女たちがさっと私のまわりから散った。
「もててるね」
ソフトをかぶった骨ばった感じの男が笑いかけていた。
「もてちゃいないよ」
男は呂という名で、クラブのマスターだった。博奕《ばくち》好きで有名だが、いわゆる台湾|訛《なま》りがひどくて、私らと話していてもすぐに母国語がとび出して来るのだった。
「君の店の男が射たれたそうだね」
「うん。おかげで臨時休業さ」
「久しぶりだ」
「久しぶり……」
ヒサシプリ、と聞こえる発音に私は思わず問い返した。
「ムカシハソナコトメツラシクナカタヨ」
呂の次の台詞《せりふ》は、書くとそうなる。
「へえ、そうかね」
「タカラ気にすることはないの」
呂は私の肩をポンと叩《たた》くと、笑いながら去って行った。
「月ちゃん。月ちゃん」
今度は関西訛りで通りの向こう側から呼ばれた。近頃その通りのはずれに開店した、京風茶漬の〈三条〉のおばさんだった。私は通りを斜めに横切った。
「よかったねえ。あんたが射たれたのか思うて」
「おかげさんで」
「お店、閉《し》めはったの……」
「うん」
おばさんは大きく頷《うなず》き、
「寄って行くか。ん……」
と自分の店のほうへ歩き出した。どこかの店へおにぎりの出前に行った帰りらしく、見慣れた竹籠《たけかご》をぶらさげていた。
「寄れたらあとで寄る。先に病院へ行かなければ」
「そうか」
尻あがりに言い、
「あとで話聞かせて。な……」
と三条の暖簾《のれん》の前で立ちどまった。
「ああ」
私は足を早め、ゆるい坂を登って行った。坂の途中にソープランドの入口があり、そこを過ぎると急に道が暗くなる。上のほうには赤い温泉マークのネオンが幾つも重なり合って見えた。
滝川外科はそのずっと先だったが、バーテンの志村に聞いて来たので、私はまごつかずにその古い病院へ着いた。
受付の窓口には小さな白いカーテンが内側から引かれていて、靴《くつ》を脱いで入口のタイルの上に置いた簀《す》の子《こ》に足をのせると、カターンと、やけに遠くまで音が響いた。
薬臭い病院の暗い廊下をのぞいたが、どこへ声をかけていいか見当がつかなかった。ときどき二階のほうで、ヒタヒタとスリッパの音などが聞こえるけれど、入口の辺《あた》りには人の動く気配もなかった。
結局、私は外から正面の扉《とびら》をあけて入って来た中年の看護婦に尋ねることになった。その看護婦は右手に買物|籠《かご》を持っていて、左手の指に火のついた煙草をはさんでいた。
「あの……」
中から私がそう言うと、看護婦はびっくりした様子で私をみつめた。
「一時間半ほど前に運ばれて来た谷口という者に面会はできないでしょうか」
「ああ、ピストルで射たれた人……」
「そうです」
「だめよ。まだ意識がないから」
「で、どうなんでしょう」
「命……さあ、判《わか》んないわよ。だって、弾丸が右の肺を貫通してるんですからね。もっとも、貫通してくれてよかったそうよ。中でとまってたら大変」
谷口が大変なのか、手術をする自分たちが大変なのかよく判らない言い方だった。
「じゃ、明日でしたら朝何時から……」
「明日だって面会謝絶よ」
きまっている、と言うように看護婦は言い、急に気付いたように、
「身内の人……」
と訊《き》いた。
「いいえ、同僚なんです」
「身内の人に連絡してくれたの……。だってあの人、名前もまだ判《わか》らないんですものね」
「谷口|怜悧男《れりお》です」
「え……れりお……」
「怜悧《れいり》な男と書くんです」
看護婦は肩をすくめてニヤリと笑った。
6
なんてことだ。滝川外科病院を出る時、私は舌打ちをしながらそう思った。人が一人、射たれて死ぬかも知れないというのに、それを大勢の患者の中の一人に過ぎないというようにしか考えない、殺伐《さつばつ》とした世界がすぐ近くにあったのだ。
「タカラ気にすることはないの」
呂の台湾|訛《なま》りが頭に泛《うか》んだ。だが、気にしないですむわけのものでもない。金のことを考えると、その帰り路の足どりは自然に重くなった。マネージャーと言ったって、その日暮らしのバーテンやボーイに毛の生えた程度のもので、他人の面倒を見るゆとりなどはじめからあるわけがない。それに、谷口に身寄りらしい身寄りがないことも判っていた。現に彼が負傷したことを、どこへ報《し》らせていいか見当もついてはいないのだ。病院の費用をどこからひねり出したらいいのだ……。
金のことばかり考えている内に、私は歌舞伎町へ近付いていた。さっき登ったゆるい坂をおりて区役所通りへ入ると、急に疲れたように感じて三条の暖簾《のれん》をくぐり、ガラス戸をあけた。狭い店の隅に志村の姿があった。
「どうでした」
となりへ坐《すわ》ると志村が私に盃《さかずき》を渡して言った。
「会えなかったよ」
志村は酌《しやく》をしてくれてから頷《うなず》いて見せた。
「えらい騒ぎやったなあ」
三条のおばさんがそばへ来て小声で言う。
「まったく」
私は盃をあけ、
「海苔《のり》茶を作って。それに酒を一本」
とおばさんに言った。
「志村さんに聞いたけど、そんなやったらとめる間もあらせんわなあ」
おばさんは小ぶりの銚子《ちようし》をつまんで湯の中へ沈めながら言う。
「まさか射つなんて思わねえもの」
「谷やんもお客がふざけたんだと思ったらしいですね」
志村のいた位置からは、あの時の谷口の表情がよく見えた筈《はず》であった。
「災難さ。こういう場所では、運が悪いと死神にとび込まれる」
私は今夜の出来事をそう思って片付けてしまいたかった。
「でもね、月さん」
志村はことさら声をひそめて言った。
「俺にはどうも、あの男がラリっていたようには思えないんだけど」
私は黙っていた。おばさんが銚子《ちようし》を持って私たちのうしろへまわり、
「ゲン直しにキューッとやって……奢《おご》るわ」
と言った。私は手を伸ばして梁《はり》から吊《つる》した籠《かご》の中のグイ呑みを一つ取り、おばさんが奢ってくれる酒を受けた。
「ほんまに月ちゃんやのうてよかったわ」
三条のおばさんはまたそう言った。
「見ろ、俺は年増《としま》にもてるんだ」
そう言ってくれるおばさんの手前、私は精々元気よく志村に冗談を言い、一気に酒を飲んだ。おばさんはすぐにまた酌をしてくれて、納得したようにカウンターの向こうへ戻って行った。
「お前もそう思うか」
私は早口で志村に言った。夜の新宿には薬《ヤク》の密売人《バイニン》がはびこっていた。薬のためにだめになってしまったバーテンやホステスを、私たちは何人も知っていた。だから、薬でラリっている奴《やつ》なら一目で判《わか》るのだ。
「あれは正気だと思うんだけどな」
志村はそう答え、
「この間のことじゃないんだろうなあ」
と陰気な声でつけ加えた。
「まさか」
私はその言葉へ押しかぶせるように言ったが、そのかぶせかたの早さは私自身の危惧《きぐ》をかえってはっきりとさせてしまったようだった。
四日ほど前のことだ。顔見知りの刑事が、わりと服装のいい二人の男を連れて来て、その二人を店の屋根裏部屋へひそませてくれと言った。刑事はそれ以上詳しいことは言わなかったし、私たちも訊《き》きはしなかったが、目的ははじめから判っていた。たしかに私たちの店の前あたりに、このところ密売人《バイニン》が毎晩のように現われているのだ。薬には用のない私たちでも、同じ夜に棲《す》む者同士だから、そのくらいのことはすぐに判ってしまうのだ。